必要以上に儲けようとしなくても大丈夫です。地位や優位性を求めなくても大丈夫です。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言ってくださるからです。(ヘブル13.5)ですが、必要以上にお金を求め、地位を求め安心したがるのが僕ら人間です。
お金を求める人も地位を求める人にも共通して欠乏感があります。その人は神様が一緒にいて愛し満たしてくださることでは不安なようです。
(4-5)
その人は高慢になっていて、何一つ理解しておらず、議論やことばの争いをする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、ののしり、邪推、絶え間ない言い争いが生じます。これらは、知性が腐って真理を失い、敬虔を利得の手段と考える者たちの間に生じるのです。
神様はいつでも私たちに必要を与えてくださる方です。妬みや争いは「満たされてない、与えられてない、愛されてない」という気持ちの表れです。必要なものは神様がちょうどよく与えてくださいます。神様は見捨てることがありません。神様と一緒にいること=十分満たされていることです。
(6-8)
しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。
私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。
もともと生まれた時からお金を持っていた人はいないし、お金を持ってこの世を去ることもできません。全てがちょうどよく与えられているものです。
衣食があれば十分です。日本人ならほとんどの人は服があります。食べ物もあります。それで十分です。もっと必要なものがあれば神様がちょうどよく用意してくださいます。日本で「自分は貧乏」と思っても世界レベルではかなり上位です。毎日食べていることに感謝しましょう。必要以上にお金を欲しがることは僕らを神様から引き離します。
(9-10)
金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に沈める、愚かで有害な多くの欲望に陥ります。
金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。
全てを満たしてくださる神様を求めることが正解です。そこには平安と喜びがあります。次の祈りが聖書に書かれています。一緒に祈りましょう。
(箴言 30:8-9)
貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ。」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。
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