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2023年1月19日木曜日

黙示録3.14-22

 僕らはラクにのんびり生きたいものです。なので、イエス様を信じてはいても、この世に合わせて妥協してラクしたい、と思います。

お金も仕事もうまくいって、神様に頼らなくても大丈夫、と言っているような教会の様子が聖書に書かれています。ところが、神様からご覧になると、その教会の信仰は貧しく、心の目は盲目で、罪をきよめられることのない教会だと聖書は言います。


(17節)

あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。


まるで、イエス様を追い出し、教会なのにイエス様は中に入れてもらえず、外からノックしているような教会です


(20節)

見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。


イエス様は一緒に食事をしたい、と願い戸を叩いておられます。この当時、食事をすることは親友の証、家族の証でした。イエス様はそのように、深く親密な交わりをしたい、と願っておられるのに、僕らはお金や地位を持つとイエス様がいらな行くなり、教会から追い出してしまうことがあるようですイエス様は警告します。そのようにこの世と妥協し、イエス様よりも富やこの世の楽しみを優先する教会をイエス様は「吐き出してしまう」と言われます。


(15-16節)

わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。

そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。


(18-19節)

わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。

わたしは愛する者を「みな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。


「火で精錬された金」とは苦しみを通して純化される僕らの信仰です苦しみは僕らがますますイエス様を信頼するようになるためno

賜物です「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」(1ペテロ1:7)僕らを精錬してくれ、成長させてくれる試練という金を買いなさい、と聖書は言います。

「裸の恥をあらわにしないために着る白い衣」とは、僕らがイエス様の十字架によって赦され、洗われ、きよめられたという事実です。黙示録7.13-14によると、僕らは苦しみを通して、義とされていることがはっきりわかります。これが「白い衣」です。イエス様の血で現れた白い服です。「目に塗る目薬」とは、聖霊によって、神様の素晴らしさが見えるようになることです


(エペソ1:18-19)

また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、(…中略…)神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。


僕らはラクにのんびりしたいです。でも、イエス様は僕らを愛するゆえに「叱ったり懲らしめたりする」とおっしゃいます。(19節)苦しみに会うことは僕らが成長するための神様の愛ですそれは金よりも尊い宝の体験です。「だから熱心になって悔い改めなさい。」と聖書は言います。(19節)


苦しみに会うのはイヤだけど喜びましょう。聖書は苦しみは「喜びなさい」と教えます。なぜなら苦しみこそ、僕らが悔いあらためて罪を捨て、謙遜に変えられて行く方法だからです


(ヤコブ1.2-4)

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。

信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからですその忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

2022年12月22日木曜日

黙示録22.14-21

 黙示録22.14-21


洗濯しよう、と思う人は服が汚いことがわかってる人です。何か飲みたい、と思う人は自分が渇いてることを知っている人です。

同じように、自分の汚れを知り、自分が満たされていないことを知っている人は幸いだと聖書は言います。完全に回復した新しい天地に住む人はそのような人です。反対に、自分の汚れや渇きを知りながらもイエス様を求めず、それを放置したり、他の快楽や偶像で満たそうとしたり、自分のやり方で欲望を満たそうとする人は神様との永遠の交わりに入ることはできません。



(14-15)

自分の衣を洗う者たちは幸いである。彼らはいのちの木の実を食べる特権が与えられ、門を通って都に入れるようになる。

犬ども、魔術を行う者、淫らなことを行う者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は、外にとどめられる。



自分の汚れを知っている人はイエス様の前にそれを告白し謝り、それをやめることで赦されます。イエス様が身代わりに十字架で苦しみ、血を流して僕らを洗ってくださいました。新しい都ではイエス様の血によって洗われた白い衣を来た人たちが喜んで賛美しています。



(7章9-14)

その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。彼らは大声で叫んだ。「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。」(…中略…)「この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。



彼らはみんな汚れを知ってイエス様のところにきた人たちです。イエス様によって白くされた人たちだけが「いのちの木の実」(14)を食べる特権が与えられます。いのちの木はもともとエデンの園の中心でした。(創世記2章)罪がない時には神様は僕らが永遠に生きるようにセッティングしてくださっていました。でも、人間が悪くなってしまったために食べることを禁じられていた木の実です。それが、イエス様によって無罪とされ、完全にリセットされることでもう一度食べることができるようになり、それを食べる人たちは永遠に満たされ祝福されて生きるようになります。



ユダヤ人たちが「ダビデの根」と聞くとすぐに旧約聖書にある神様の約束(イザヤ11章)を思い出します。ダビデの根(子孫)から王様が出て、その方が支配する世界には悪いことが何もありません。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ(…中略…)聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。」そのような世界です。(イザヤ11.9)イエス様はその「ダビデの根」こそ自分だと紹介しています。



16

「わたしイエスは御使いを遣わし、諸教会について、これらのことをあなたがたに証しした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」



神様との完全な交わり、悪いことが一つもない世界がすでに用意されています。だから、「御国が来ますように」と祈るようにとイエス様は言われました。今日もイエス様、来てください、と祈りましょう。これこそが教会の祈りであり、御霊の祈りです。



(17)

御霊と花嫁が言う。「来てください。」これを聞く者も「来てください」と言いなさい。



イエス様は必ず来てくださいます。新しい天と地を与えてくださいます。今は僕らは飢え渇いています。不安で不満です。でも、そのように渇いている人は幸いです、とイエス様は言われます。満ち足りるからです(マタイ5.6)今日も「渇く人は来なさい」と呼びかけてくださっています。今日もイエス様を求めましょう。イエス様のところに行きましょう。すでに御霊は与えられています。不安や不満は恵みと祝福への通過点です。主を求めるチャンスです。イエス様のところに行きましょう。必ず与えてくださいます。


(17)

渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。


2022年12月21日水曜日

黙示録22.1-11

 黙示録22.1-11


水は植物を育て動物を生かし人を生かします。水がなければ命が生み出されることがありません。聖書は僕らを生かす御霊のことを「いのちの水」と表現します。しいエルサレムの中心にはこの「いのちの水の川」が流れ、その周りにはいのちの木があります。いのちを与えるのは御霊です。」そして御霊は「生ける水の川」です。(ヨハネ6.63、7.38)新しい世界は御霊で満たされた世界です。


(1-4)

御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、

都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、

御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。



僕らはやがて直接神様と会い、交わり、一つになって生活します。なんと、僕らは子羊の妻として一緒に王権さえも与えられ、「彼らは世々限りなく王として治める。」とあります。(5)僕らの想像以上のセレブな?生活が待っています。悪いものは一切ありません。これは遠い話ではありません。「これらのことばは真実であり、信頼できます。」(6)それが事実でありリアルな証拠として、今、イエス様を信じた僕らに聖霊が与えられています。聖霊は僕らが神様のものである証印です。信じていることが聖霊による証印だと聖書は何度も言います。



2コリント1:22

神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。

(エペソ1.13)

信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。

(エペソ4.30)

あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。



そして、神様と共に住む人たちの額には「彼らの額には神の御名が記されている。」(4)とあります。信じた人にはすでに「神の御名」の証印が押されています。僕らはまだ地上に生きていますが、この聖霊によってますます正しいことをし、聖なることをするようになります。反対に、この証印がない人はますます汚れ、不正をするようになります。


(10-11)

また私に言った。「この書の預言のことばを封じてはなりません。時が近いからです。

不正を行う者には、ますます不正を行わせ、汚れた者は、ますます汚れた者とならせなさい。正しい者には、ますます正しいことを行わせ、聖なる者は、ますます聖なる者とならせなさい。」


まだまだ定員に空きがあります。

今日もイエス様は呼びかけてくださいます。


17

…渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。


誰が信じるか信じないか、誰が御霊を受けるか受けないか、僕らにはわかりません。でも、「この書の預言のことばを封じてはなりません。」と言われています。今日もものスゴイこの素晴らしすぎる福音が伝えられますように。ハレルヤ!

2022年12月20日火曜日

黙示録21.9-27

 黙示録21.9-27


聖書は僕たちクリスチャンのこと、その集まりである教会のことをキリストの花嫁といいます。「…たりは一心同体となる。」これはキリストと教会とをさして言っているのです。(エペソ5:31-32)神様の願いは僕たちが聖められてキリストと一体になることです。キリストが僕らのために死ぬほどに愛してくださる理由は、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。(エペソ5.27)

黙示録の最後はキリストと妻である教会が完全に1つになる姿です。そのことを「新しいエルサレム」と言います。そこは聖なる人たちとキリスト一緒に住み、完全な交わりをする場所です。その意味で「花嫁」と言います。新しいエルサレムは神様と人々が完全に一つになって生活する新しい世界です。



(2-3)

私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。

私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。



そこに入る人たちには少しの汚れも罪もありません。「すべての汚れたもの、また忌まわしいことや偽りを行う者は、決して都に入れない。」(27)とあり、聖なる花嫁を見せてくれた御使いは、全ての罪と汚れをさばき、滅ぼすための災害を下した御使いです。呪われる人たちはいなくなっています。



(9-10)

また、最後の七つの災害で満ちた、あの七つの鉢を持っていた七人の御使いの一人がやって来て、私に語りかけた。「ここに来なさい。あなたに子羊の妻である花嫁を見せましょう。」

そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のみもとから、天から降って来るのを見せた。



新しい住まいであるエルサレムはとんでもなく高級です。イエス様が地上におられた時、次のようにおっしゃってました。「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。(…中略…)あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14.2-3)その住まいがある都の全体像が、聖書の最後になって明らかにされます。僕らの想像を超えています。都全体の形は正方形ですが、その一辺が約2400キロ、北海道から沖縄くらいです。そこに聖なるものとされた人たちがキリストとともに一つとなって生活します。



(11)

都には神の栄光があった。その輝きは最高の宝石に似ていて、透き通った碧玉のようであった。


(18ー23)

都の城壁は碧玉で造られ、都は透き通ったガラスに似た純金でできていた。都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四はエメラルド、第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九はトパーズ、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。十二の門は十二の真珠であり、どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは純金で、透明なガラスのようであった。私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。



新しいエルサレムに僕らは住むことになります。24時間、イエス様の光の中を歩みます。光の中を生きることは神様を愛することと互いに愛し合うことで満ちることです。「神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち…」(1ヨハネ1.5-7)「自分の兄弟を愛している人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません。」(1ヨハネ2.8-11)


黙示録は苦しみの先にある素晴らしいゴールを教えてくれています。目標はキリストとの結婚し、永遠に一緒に住むことです。光に照らされ、何も恐れることも隠すこともなく、平安と喜びの中を歩むことができるようになります。楽しみにしましょう。「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを守る者たちは、幸いである。時が近づいているからである。」(黙示録1.3)


2022年12月19日月曜日

黙示録21.1-8

 黙示録21.1-8


今は僕たちの世界に悲しみがあり飢え渇きがあるけれども、やがて完全に神様だけで満たされる世界が来ると聖書は預言しています。イエス様がこの世界を最終的に裁く時に、「地と天はその御前から逃げ去り、跡形もなくなった。」とあります。(20.11)新しい、完全な世界が来ます。



(1-5)

また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。

私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。

神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」



今は悲しいことや苦しいことがあるけれどもやがて完全に満たされる世界が来ます。「死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない」世界です。そしてそこに入れる人も決まっています。



27

しかし、すべての汚れたもの、また忌まわしいことや偽りを行う者は、決して都に入れない。入ることができるのは、子羊のいのちの書に記されている者たちだけである。



全てが満たされる世界はイエス様がいのちの水によって満たし、完全な癒やしを与えてくださる世界です。イエス様は言われます。



(6-7)

わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。

勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。



イエス様がいのちの水を与えてくださる人は「渇く者」です。(6)

人間である以上全員、悲しんだり苦しんだり渇いたりします。これは全員です。ただ違うのは、乾いたときにイエス様のところに求めに行くかどうかの違いです。今の時点では僕たちはまだ乾き苦しみうめいています。そんな時はイエス様は「わたしのところに来なさい」とおっしゃいました。



(ヨハネ7.37-38)

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」



新しい天と地では完全に満たされて叫びも苦しもなくなりますが、今は僕らはうめいています。うめきの中で求めにいく先はイエス様のところです。イエス様は新しい天地で完全に癒してくださる保証として、今すでに聖霊を与え、天の癒しや平安や喜びを体験させてくださいます。今の時点は「すでに」と「いまだ」の間です。でも、イエス様のところにいく人は苦しみの中でも新しい天地の平安と満たしを体験できます。癒しを求めようと、この世の快楽や偶像や魔術やごまかしのところに行く人は新しい天地にも入れない人です。



8

しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。」



苦しみや飢え渇きは産みの苦しみの後に喜びで満たされるかのような通過点です。(ローマ8.22)

期待して、今からイエス様との交わりを第一にしましょう。新しい天地は素晴らしいです。そして、渇いてイエス様のところに行く人は今からすでに癒しが、満たしが始まりつつあります。ハレルヤ!


2022年12月15日木曜日

黙示録19.1-10

 黙示録19.1-10


キリストは夫であり教会は妻だと聖書は言います。両者は将来完全に一体となります。(エペソ5章31-32)しかもキリストは教会がしみもシワもどんな汚れも傷もなくなるように準備してくださいます。「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるため」とあります。(エペソ5.27)今もすでに聖霊によって僕らはキリストに繋がっていますが、将来、リアルに完全に子羊イエス様と教会が完全に一つとなることが書かれています。喜びの日、楽しみの日です。



(6-8)

また私は、大群衆の声のような、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のようなものがこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。私たちの神である主、全能者が王となられた。

私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから。

花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」



さて、結婚には準備が必要です。イエス様はまず「花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとう」ようにしてくださいます。(8)

まずはイエス様が罪人である僕らを選び、汚たない服ではなく真っ白な義の衣を着せてくださいます。これは僕らの行いではなく、「律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義」です。(ピリピ3.9)僕らの過去は汚れているのに、イエス様が十字架の上で血を流し、僕らのことを無罪と宣言してくださっています。


もう一つ、大事な結婚の準備があります。「その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」(8)とあるように、無罪とされただけでは終わりません。今度はイエス様に従うことで変えられていきます。黙示録は将来も今も信仰者に降り注ぐ数々の試練苦しみを教えています。19章の話の流れは大淫婦バビロンと獣そして悪魔によって信仰者たちが苦しめられ殺されていく、という話の続きです。


聖書は何度もイエス様を信じるものは苦しみに会うと言うことを繰り返しています。しかもそれは私たちがかけることのない成熟した完全な花嫁となるための試練です。(ヤコブ1章、ローマ5章、1ペテロ1章など多数。)しかも苦しみがあればあるほどイエス様とお会いするときの喜びは大きいと聖書は主張します。



(1ペテロ4.12-13)

愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。

むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。



聖書が言う通りに、イエス様の栄光が現れ教会がイエス様と結婚し1つとなるときの喜びは想像できないほど大きいようです。苦しみの中でイエス様に従ってきたことは輝く亜麻布のように美しいと書かれています。



8

花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」



すでにイエス様のための苦しみは僕らにも与えられています。でも、全てが終わり、イエス様の勝利と栄光だけが輝き喜ぶ日がきます。



(1-6)

その後、私は、大群衆の大きな声のようなものが、天でこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救いと栄光と力は私たちの神のもの。

神のさばきは真実で正しいからである。神は、淫行で地を腐敗させた大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされた。」

もう一度、彼らは言った。「ハレルヤ。彼女が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。」

すると、二十四人の長老たちと四つの生き物はひれ伏して、御座に着いておられる神を礼拝して言った。「アーメン。ハレルヤ。」

また、御座から声が出て、こう言った。「神のすべてのしもべたちよ、神を恐れる者たちよ、小さい者も大きい者も私たちの神を賛美せよ。」

また私は、大群衆の声のような、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のようなものがこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。私たちの神である主、全能者が王となられた。



この日を期待して僕らは忍耐します。報いと喜びはなくなりません。希望はなくなりません。イエス様に従いましょう。最後に喜ぶことは確定です。殺されても大丈夫です。今から神様を賛美し喜びましょう。ハレルヤ!

2022年12月14日水曜日

黙示録18.11-24

お金は悪いものでは無いけれども、お金を愛する事は全てを狂わせます。だから神様が与えてくださる必要な服や食べ物があればそれで充分感謝すべき、と言うのが聖書の教えです。



1テモテ6:8-10

衣食があれば、それで満足すべきです。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。



この世の終わりには大バビロンと呼ばれている女王のような都が世界中を権力とお金で支配していきます。世界中人々もこの女王と関わることで儲かるのでその支配を喜んでいたようです。悪魔とその教えは目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢で人々を惑わし支配します。(1ヨハネ2:16)そしてこのバビロンと言う女王は、生活必需品とはかけ離れた贅沢品と魔術で世界中を惑わしコントロールしていました。莫大な利益をもたらすその商品のリストが書かれていますが、全て普通の生活には必要ないものばかりです。



(12-13)

商品とは、金、銀、宝石、真珠、亜麻布、紫布、絹、緋色の布、あらゆる香木、あらゆる象牙細工、高価な木材や青銅や鉄や大理石で造ったあらゆる器具、シナモン、香料、香、香油、乳香、ぶどう酒、オリーブ油、小麦粉、小麦、家畜、羊、馬、馬車、奴隷、それに人のいのちである。



神様はその都を徹底的に滅ぼします。まるで巨大な石が海に投げ込まれて二度と地上に出てくることができないかのように、徹底的な滅びです。



21

また、一人の強い御使いが、大きいひき臼のような石を取り上げ、海に投げ込んで言った。「大きな都バビロンは、このように荒々しく投げ捨てられ、もはや決して見出されることはない。



神様がバビロンを徹底的に滅ぼします。莫大な富と贅沢をする追求する者にとってキリストの教えは邪魔なものです。彼女は神様に聞き従い神様の教えを語る人たちを殺すことに酔いしれていました。 



24

この都の中に、預言者たちや聖徒たちの血、また地上で屠られたすべての人々の血が見出されたからである。


(17章6節)

私は、この女が聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た。



また、彼女は弱い人たちを奴隷化し殺すことで大きな利益を得ていました。



12

商品とは、(…中略…)奴隷、それに人のいのちである。



この都は人が人から奪い取っていくことによって成り立っている社会です。性的な奴隷とするための人身売買、そして不要になったら殺して捨てる、まるで人間が贅沢や快楽のための商品のように扱われていました。これは神様の怒りを招くものです。世界中が「御怒りを招く彼女の淫行のぶどう酒を飲み、地の王たちは彼女と淫らなことを行い、地の商人たちは、彼女の過度のぜいたくによって富を得た」(3)とあります。そしてそれは徹底的に滅ぼされます。

お金が全てだと思っていた商人たちも、流通で儲けていた人たちも泣き叫ぶ日がきます。



(15-19)

これらの物を商って彼女から富を得ていた商人たちは、彼女の苦しみに恐れをなして、遠く離れて立ち、泣き悲しんで言う。

「わざわいだ、わざわいだ、大きな都よ。亜麻布、紫布、緋色の布をまとい、金、宝石、真珠で身を飾っていたが、

あれほどの富が、一瞬にして荒廃に帰してしまった。」また、すべての船長、その場所を航海するすべての者たち、水夫たち、海で働く者たちもみな、遠く離れて立ち、

彼女が焼かれる煙を見て、「これほどの大きな都がほかにあっただろうか」と叫んだ。

彼らは頭にちりをかぶり、泣き悲しんで叫んだ。「わざわいだ、わざわいだ、大きな都よ。海に船を持つ者たちはみな、ここでその繁栄から富を得ていたのに、その都が一瞬にして荒れ果ててしまうとは。」



お金は悪いものでは無いけれども、お金を愛する事で神様から離れて行くことはあります。教会でさえも、富と繁栄によってキリストを追い出すことがあると書かれています。3章に書かれているラオデキヤ、という教会は富によってキリストがわからなくなり、キリストがドアの外でノックしているようでした。



(3章17-20)

あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。(…中略…)見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。



お金は悪いものではありません。でも、お金によって神様から離れて行くように悪魔がお金と快楽を利用するのも事実です。

あるお金持ちが言いました。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」

ところが神様はいわれます。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』(ルカ12.19-21)



お金と快楽のために、ますます信仰者が迫害され、生きづらくなるのがこの世の終わりの世界です。でも、大丈夫です。神様が全てを滅ぼし、ただしい裁きをなさいます。神様は「喜べ!」と励ましてくださいます。黙示録は希望の書です。



20

「天よ、この都のことで喜べ。聖徒たちも使徒たちも預言者たちも喜べ。神があなたがたのために、この都をさばかれたのだから。」



(マタイ18.26)

人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」



2022年12月13日火曜日

黙示録8章

 黙示録は僕達に希望を与えてくれる本です

天国の素晴らしい礼拝の様子が書かれています。

でも、同時にこの世の終わりに起こる神の恐ろしい裁きも書かれています。神様はこの世の悪を一掃し、悪魔も神様によって滅ぼされていきます。今日からいよいよ神の裁きが始まる箇所です。


その神様の裁きがいよいよ始まる前に、クリスチャン達の祈りが神様に届き、祈りと共に始まることが今日の箇所でわかります。僕らの祈りと神様の裁きはセットです、僕らの祈りは用いられ、苦しむ人の叫びは聞かれます。その呻きや祈りと一緒に神様の最終的な裁きが始まります


(2)

それから私は、神の御前に立っている七人の御使いたちを見た。彼らに七つのラッパが与えられた。


ラッパは神様のさばきが始まる合図です。イエス様がこの地上にもう一度来られる時にラッパの響きがあることは聖書が何度も繰り返しています。(1テサ4.16、1コリント15.52、マタイ24.31など)聖書の時代、ラッパは大勢の人に同時に合図をする唯一の手段でした。そのように、この世の終わりには世界中の人たちがわかるようにに神のさばきの合図があります。


繰り返しますが、神様のさばきは僕らの嘆きや祈りとセットで行われます。この世の終わりにはますます迫害が激しくなり、愛は冷えていく時代になります。神様は陶器師が器を作り、気に入らない器を壊すように、この悪に染まったこの世界を壊す権威を持っています。(イザヤ30.14、ローマ9.20-21など)それは僕らの祈りが聞かれ、選ばれた人たちが救われることとセットです。この後神様の様々な恐ろしいさばきが始まりますが、それは「額に神の印を持たない人たちには加えてよい、と言い渡され」ています。(9:4)イエス様も、裁きの時には「御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」と言われ、イエス様を信じて救われる人は裁かれないことがわかります。(マタイ24.31)


神様のさばきは僕らの祈りとセットです。神様こそ世界を支配する唯一の主権者だけども、神様は信仰者の祈りとセットで歴史を動かすことがわかります。今日の箇所に書かれている神様にささげられる香の煙のことは聖徒たちの祈りであった。」(5:8)と書かれています。


(3-6)

また、別の御使いが来て、金の香炉を持って祭壇のそばに立った。すると、たくさんの香が彼に与えられた。すべての聖徒たちの祈りに添えて、御座の前にある金の祭壇の上で献げるためであった。

香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。

それから御使いは、その香炉を取り、それを祭壇の火で満たしてから地に投げつけた。すると、雷鳴と声がとどろき、稲妻がひらめき、地震が起こった。また、七つのラッパを持った七人の御使いたちは、ラッパを吹く用意をした。


ラッパが鳴るたびに下される神様のさばきは恐ろしいものです。

でもそれはこの世で苦しめられ続け、呻きつつ祈り続けた人たちにとっては救いです。復讐は神様だけがなさることです。(ローマ12.19、マタイ5.44など)僕らは仕返しせず、悲しみや嘆きをそのまま神様に祈るように教えられています。それは立ち上る香の煙として神様に届いています。


この世の終わりの神様のさばきは、出エジプト記に書かれている虐待され続けたイスラエルの嘆きや叫びと、それを聞いてくださり救ってくださった神様の憐れみとすごく似ています。その時にも祈りが聞かれたことが書かれています。


(出エジプト 2:23 

イスラエル人は労役にうめき、わめいた。

彼らの労役の叫びは神に届いた。(中略神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。


(出エジプト 3:9 

見よ。

今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。

わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。


今日も神様に悲しいこと、辛いこと、虐げられていること全部祈りましょう。神様が正しくさばいてくださいます。復讐は神様だけがなさることです。ハレルヤ!


黙示録9.1-11

僕らは神様の恵みや愛を語るのは好きですが、神様の裁きを語りたくありません。ところが神様は「この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」とおっしゃいます。(黙示録22:19) 神様は今日、僕らの世界の終わりのさばきについて教えてくださっています。神様のさばきはあります。今は善人にも悪人にも良いものを与えてくださっている神様です。(マタイ5.45)でも、この世の終わりにはイエス様を信じて聖霊を与えられて証印を押されている人と押されてない人の区別がはっきりとします。神様のさばきは「額に神の印を持たない人」(4)にだけです。 神様は裁きの時に悪魔とその手下に許可を与えます。裁かれる人たちは「獣とその像を拝み、自分の額か手に刻印を受ける」人たちだと思われます。(14:9)悪魔と悪霊はこの世の繁栄や快楽を与えて誘惑しますが、悪魔に従う人たちの先は神様の怒りと裁きを受けることが決まっています。 イエス様は悪魔の働きを許可して裁きをなさいます。聖書全体によれば、悪魔はイエス様の力には勝てません。今は活動が制限されています。ところが最後の時代になると「底知れぬ所」に閉じ込められていた破壊者(悪魔の手下)に許可が与えられ、そこから出て来たイナゴが人々を苦しめます。 (1-6) 第五の御使いがラッパを吹いた。すると私は、一つの星が天から地に落ちるのを見た。その星には、底知れぬ所に通じる穴の鍵が与えられた。 それが底知れぬ所に通じる穴を開くと、穴から大きなかまどの煙のような煙が立ち上り、太陽と空はこの穴の煙のために暗くなった。 その煙の中からいなごが地上に出て来た。それらには、地のサソリが持っているような力が与えられた。 そして彼らは、地の草やどんな青草、どんな木にも害を加えてはならないが、額に神の印を持たない人たちには加えてよい、と言い渡された。 その人たちを殺すことは許されなかったが、五か月間苦しめることは許された。彼らの苦痛は、サソリが人を刺したときの苦痛のようだった。 その期間、人々は死を探し求めるが、決して見出すことはない。死ぬことを切に願うが、死は彼らから逃げて行く。 神様の裁きは彼らが生きたまま5か月苦しむことです。死にたいのに死ねない、という苦しみです。これは生き地獄です。 人は「死んだらラクになる」と思いがちですが、黙示録によると悪魔に従う人は死んだ後も安らぎがありません。 「彼らの苦しみの煙は、世々限りなく立ち上る。獣とその像を拝む者たち、また、だれでも獣の名の刻印を受ける者には、昼も夜も安らぎがない。」(14:11) 死にたいのに死ねず、生きたまま5か月苦しみ続けるのも拷問のようですが、実は死んだ後にはそれが永遠に続くと聖書は言います。 イエス様は今日も僕らに福音を預けてくださっています。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4.17) 天の御国が近くなり、完全な祝福と喜びだけの世界が近づくことは信仰者にとっては安心、安全です。でも、イエス様に反抗する人たちにとっては、永遠の苦しみが近づくことです。 裁きをそのまま伝えることは神様の恵みと愛です。神様、どうぞ全ての人たちを憐れんでください。

黙示録9.14-21

 黙示録9.14-21


この世の終わりにはイエス様があらゆる災害を許可され、大勢の人たちが殺されます。唯一、神様だけがその権威を持っておられます。

今日の箇所では人類の1/3が神様の許可によって殺されることが書かれています。ヨハネは二億の馬と騎兵が人々を殺す様子を見せられ、それを記録しました。


(14-19)

その声は、ラッパを持っている第六の御使いに言った。「大河ユーフラテスのほとりにつながれている、四人の御使いを解き放て。」

すると、その時、その日、その月、その年のために用意されていた、四人の御使いが解き放たれた。人間の三分の一を殺すためであった。

騎兵の数は二億で、私はその数を耳にした。

私が幻の中で見た馬と、それに乗っている者たちの様子はこうであった。彼らは、燃えるような赤と紫と硫黄の色の胸当てを着けており、馬の頭は獅子の頭のようで、口からは火と煙と硫黄が出ていた。

これら三つの災害、すなわち、彼らの口から出る火と煙と硫黄によって、人間の三分の一が殺された。

馬の力は口と尾にあって、その尾は蛇に似て頭を持ち、その頭で害を加えるのである。


この時の様子は想像するしかありませんが、聖書はもっと大事なことを伝えています。それは生き残った人たちの反応です。

神の裁きのときに、人々は悔い改めることはなく、ますます悪霊によって自分たちが作った偶像を拝み、殺人や魔術や淫行や盗みを続けると

あります。神の裁きはむしろ人をガンコにするようです。


(20-21)

これらの災害によって殺されなかった、人間の残りの者たちは、悔い改めて自分たちの手で造った物から離れるということをせず、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた偶像、すなわち見ることも聞くことも歩くこともできないものを、拝み続けた。

また彼らは、自分たちが行っている殺人、魔術、淫らな行いや盗みを悔い改めなかった。


パウロは、「神の慈愛が」あなたを悔い改めに導くと言いました。(ローマ2.4)神の裁きは人を頑固にするようです。僕らはイエス様による憐れみによって赦され救われます。僕らが伝えるべきは神様の愛と憐れみです。

裁きは神様だけがその権威を持っています。僕は人を無理やり悔い改めさせることはできません。

ただ、祈り、とりなし、イエス様の憐れみにすがるのみです。


ガンコになることも、悔い改めることも全てが神様の主権の中にのみあることです。主を恐れ、主に憐れみを求めます。


(黙示録 22:11-12)

不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。

黙示録12章

 黙示録12章


悪魔は「兄弟たちの告発者」「昼も夜も私たちの神の御前で訴えるもの」です。(10)その悪魔はすでに敗北し天から落とされています。(10)ところが悪魔は地上に落とされ、自分の寿命が短いことを知って、憤って今も僕らを告発しつづけています。(12)また、隣人の小さな欠点に目をつけ、裁き、訴え、攻撃し、噛み合うようにと誘惑し続けています。また、自分を責めさせて絶望させようと頑張っています。



(10-12)

私は、大きな声が天でこう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と王国と、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、昼も夜も私たちの神の御前で訴える者が、投げ落とされたからである。

兄弟たちは、子羊の血と、自分たちの証しのことばのゆえに竜に打ち勝った。彼らは死に至るまでも自分のいのちを惜しまなかった。

それゆえ、天とそこに住む者たちよ、喜べ。しかし、地と海はわざわいだ。悪魔が自分の時が短いことを知って激しく憤り、おまえたちのところへ下ったからだ。」



悪魔の攻撃は分かりやすく告発すること、そして互いに告発させることですが、僕らは勝利が決定しています。まずは、「子羊(イエス様)の血」によって竜(悪魔)に勝っています。「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」と聖書に明言されています。(1ヨハネ1.7)誰がなんと言おうと、イエス様を信じる人は無罪です。イエス様の福音を信じるならあなたは無罪です。これがイエス様の血による悪魔への勝利です。


もう一つの勝因は「自分たちの証のことばのゆえ」です。「証しのことば」とは、「私はイエス様を信じます。イエス様の十字架の血によって赦されたと信じます」と告白し、表明し、福音に従うことです。福音に従うことはイエス様が無罪宣言をしている人を(自分のことも)自分も無罪と認め、それを口で言い表すことです。


悪魔は今もなんとか獲物を求めてさまよっています。聖書は「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」(1ペテロ5.7-8)と言います。悪魔はまだ頑張っていますが、イエス様の福音を信じ、告白し、イエス様側に付くなら大丈夫です。「ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4.7)


悪魔は信仰者が大嫌いです。また、悪魔はユダヤ人が大嫌いです。今もそうです。イエス様が地上に来るために選ばれ、イエス様を産んだ民族がユダヤ人です。黙示録に出てくる「子」とはイエス様のこと、それを産んだ「女」とはユダヤ人のことです。福音書の一番最初は「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」で始まります。イエスキリストはアブラハムの子であり、ダビデの子です。つまり、イエス様はユダヤ人の中から生まれた子です。悪魔はユダヤ人たちを苦しめ続けます。今までも、これからもそうです。でも、ユダヤ人たちは守られます。


(4-5)

また竜は、子を産もうとしている女の前に立ち、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。

女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもってすべての国々の民を牧することになっていた。その子は神のみもとに、その御座に引き上げられた。


(13-17)

竜は、自分が地へ投げ落とされたのを知ると、男の子を産んだ女を追いかけた。

しかし、女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒野にある自分の場所に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前から逃れて養われるためであった。

すると蛇はその口から、女のうしろへ水を川のように吐き出し、彼女を大水で押し流そうとした。

しかし、地は女を助け、その口を開けて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。

すると竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスの証しを堅く保っている者たちと戦おうとして出て行った。


僕らに対しても、ユダヤ人に対しても悪魔の攻撃はしばらく続きます。互いに攻め合い告発しあい、裁き合うようにさせようとします。「もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。」(ガラテヤ5.15)今日も目をさましていましょう。「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。」です。(エペソ6.11)武具とは、イエス様の血による福音の勝利です。それを信じ、告白し、従うことです。これこそが勝利です。


悪魔はすでに敗北しています。「今や、私たちの神の救いと力と王国と、神のキリストの権威が現れた。」(10)すでに勝利しているイエス様に感謝しましょう。信頼して従いましょう。大丈夫です。ハレルヤ!


黙示録13章

 黙示録13章



クリスチャンはこの世で成功する人たちではないし、成功することがゴールではありません。もちろんこの世でうまくいくこともたくさん与えられますが、でも、それが目標ではありません。世界の終わりが近づくと悪魔はますます激しく神様に抵抗し、この世界を支配するようになります。そしてクリスチャンたちはこの世で生きて行くことができず、殺される時代になることが預言されています。でも、殺されても大丈夫です。次の14章には大逆転がはっきりと書かれています。



悪魔は自分の権威を与えた「獣」をこの世に現し、「獣」がこの世界を支配します。それはまるで神様のように奇跡を行い、死んだかと思っても復活します。その獣は復活したり、世界を支配したり、イエス様の真似をしてるみたいです。「子羊の角に似た二本の角を持ち、竜が語るように語っていた。」とあります。(11)多く人たちはその力に驚き惑わされますが、特に「復活」したことで人々は驚き、信じて従うようになるようです。「致命的な傷が治った最初の獣を拝ませた。」(12)「地に住む者たちを惑わし、剣の傷を受けながらも生き返ったあの獣の像を造るように、地に住む者たちに命じた。」(14)とあります。悪魔はイエス様のマネをしてる感じがします。神様になりたかったんだろうな、と言う気がします。



(1-8)

また私は、海から一頭の獣が上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。その角には十の王冠があり、その頭には神を冒瀆する様々な名があった。私が見たその獣は豹に似ていて、足は熊の足のよう、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と自分の王座と大きな権威を与えた。その頭のうちの一つは打たれて死んだと思われたが、その致命的な傷は治った。全地は驚いてその獣に従い、

竜を拝んだ。竜が獣に権威を与えたからである。また人々は獣も拝んで言った。「だれがこの獣に比べられるだろうか。だれがこれと戦うことができるだろうか。」

この獣には、大言壮語して冒瀆のことばを語る口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。

獣は神を冒瀆するために口を開いて、神の御名と神の幕屋、また天に住む者たちを冒瀆した。

獣は、聖徒たちに戦いを挑んで打ち勝つことが許された。また、あらゆる部族、民族、言語、国民を支配する権威が与えられた。

地に住む者たちで、世界の基が据えられたときから、屠られた子羊のいのちの書にその名が書き記されていない者はみな、この獣を拝むようになる。



世界のほとんどの人たちはこの獣と、獣を与えた竜(悪魔)を礼拝するようになります。世界は悪魔の時代です。ですが、子羊(イエス様)のいのちの書に名が書き記されている人たちだけは獣を拝みません。それゆえにこの世で生きることができず、捕らえられ、殺されます。悪魔を拝む人たちは獣の刻印を受けていて、この刻印がないと買い物ができなくなります。



(9-10)

耳のある者は聞きなさい。

捕らわれの身になるべき者は捕らわれ、剣で殺されるべき者は剣で殺される。ここに、聖徒たちの忍耐と信仰が必要である。



(16-17)

また獣は、すべての者に、すなわち、小さい者にも大きい者にも、富んでいる者にも貧しい者にも、自由人にも奴隷にも、その右の手あるいは額に刻印を受けさせた。また、その刻印を持っている者以外は、だれも物を売り買いできないようにした。刻印とは、あの獣の名、またはその名が表す数字である。



一方、イエス様を信じる人たちもイエス様のいのちの書に名前が書かれ、また聖霊の証印を受けています。聖霊が与えられている人は永遠の視点が与えられるので、地上で買い物ができず殺されても忍耐と信仰が与えられ続けます。信仰がバカにされ続け、嘲られ続け、苦しみが続く時代が世界の終わりにはやってきます。この現象は今までも何度も起こってきたことです。誰よりもイエス様ご自身がそのように生きられました。



1ペテロ 2:21-23)

あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。

ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。



そして、イエス様に従う多くの弟子たちが悪魔によって苦しめられたことが聖書に記録されています。この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした。



(ヘブル 11:36-38)

また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるめに会い、

また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、——この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした。——荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました



日本は特にキリスト教に対する迫害と弾圧が長く続き、多くのクリスチャンたちは殺され、多くの人たちが悪魔の支配に従いました。

ところが、聖霊の証印が押され、信仰と忍耐が与えられて殺された人たちには、死後の喜びと報いがあることが14章に書かれています。



(14章13節)

また私は、天からの声がこう言うのを聞いた。「書き記せ、『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである』と。」御霊も言われる。「しかり。その人たちは、その労苦から解き放たれて安らぐことができる。彼らの行いが、彼らとともについて行くからである。」



反対に、悪魔を拝み、獣の刻印を受ける人たちは死後に永遠の苦しみがあることも明記されています。



(14章9-11節)

「もしだれかが獣とその像を拝み、自分の額か手に刻印を受けるなら、その者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた、神の憤りのぶどう酒を飲み、聖なる御使いたちと子羊の前で火と硫黄によって苦しめられる。彼らの苦しみの煙は、世々限りなく立ち上る。獣とその像を拝む者たち、また、だれでも獣の名の刻印を受ける者には、昼も夜も安らぎがない。」



忍耐しましょう。この世では苦しみがあります。迫害もあります。イエス様を信じたことで生きずらくなる場面は僕らにもあります。でも、その先には平安と喜びが待っています。忍耐しましょう。聖霊様が今日も信仰と希望と忍耐を与え続けてくださいますように。ハレルヤ!

黙示録14章1-5節

 黙示録14章1-5節



だめなクリスチャン、こんな俺でもギリギリクリスチャン、などなど自分のことを汚れたもの、聖くないもの、と思う信仰者は多いようです。僕もそう思っていました。ところが、聖書はイエス様を信じた人たちのことを汚れたことがない人たち、と言い切ります。今日の箇所では「この人たちは、女に触れて汚れたことがない者たちで、童貞である。彼らは、子羊が行く所、どこにでもついて行く。彼らは、神と子羊に献げられる初穂として、人々の中から贖い出されたのである。彼らの口には偽りが見出されなかった。彼らは傷のない者たちである。」と書かれています。(4-5)



 「初穂」と言うのは神様に捧げる1番良い存在と言う意味です。旧約聖書の時代は収穫で一番良いところを神様におささげしました。そのように私たちの存在が1番美しく良いもの、神様に喜ばれるものに変えられたことを聖書は繰り返しています。



またここでの「童貞」とは罪を経験したことがないと言う意味です。すべての人は自分の汚れを知っています。隠していても自分はしっています。ところが、キリストが教会のためにご自身をささげられた理由は、「教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」(エペ5.26-27)とあり、「あなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにした」とあります。(2コリント11.2)



僕らの過去が人に言えないような汚れたものであっても、イエス様の血によって僕らは汚れたことがない者たちと呼ばれ、童貞と呼ばれ、初穂と呼ばれ、偽りも傷もないものたち、と呼ばれています。イエス様の血によって、ダメなクリスチャンとか、ギリギリ信仰者ではありません。子羊の名が記されている、聖なる、そして、新しくされた人たちです。



僕らは新しい歌を歌います。神様の前では賛美と感謝が絶えずささげられています。そして、地上にいる僕らも天の礼拝と天での美しい身分が始まっています。神様の御国は地上でもすでにスタートしています。そして、神様は黙示録を通して天の様子を僕らに伝えてくださっています。天と地は繋がっています。御霊によって、今日もあなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものかわかり、新しい賛美を祈りを感謝を捧げる日でありますように。ハレルヤ!



(1-3)

また私は見た。すると見よ、子羊がシオンの山の上に立っていた。また、子羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には子羊の名と、子羊の父の名が記されていた。

また、私は天からの声を聞いた。それは大水のとどろきのようであり、激しい雷鳴のようでもあった。しかも、私が聞いたその声は、竪琴を弾く人たちが竪琴に合わせて歌う声のようであった。

彼らは御座の前と、四つの生き物および長老たちの前で、新しい歌を歌った。しかし、地上から贖われた十四万四千人のほかは、この歌を学ぶことができなかった。