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2022年12月21日水曜日

1テモテ1.1-11

 使徒パウロは昔「神を冒瀆する者、迫害する者、暴力をふるう者」でした。(13)そんな彼が神様に救われ、赦され、憐れまれ、恵みを受け、愛されています。パウロにはいつも神様への感謝があります。自分がどんなひどい人間だったかを知っているからです彼は自分の子どものような若い牧師テモテにも、同じように神様の恵みと憐れみと平安があるように祈りってます。

 

1-2

私たちの救い主である神と、私たちの望みであるキリスト・イエスの命令によって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、

信仰による、真のわが子テモテへ。父なる神と私たちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安がありますように。

 

若いテモテはエペソの教会の牧師でした。ところが、エペソの教会の中には虚しい議論が横行し、自分こそ偉い正しい、という人たちがいたようです

 

3-5

あなたはエペソにとどまり、ある人たちが違った教えを説いたり、果てしない作り話と系図に心を寄せたりしないように命じなさい。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、神に委ねられた信仰の務めを実現させることにはなりません。この命令が目指す目標は、きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛です

 

イエス様が与えてくださった福音は、僕らを愛し合うようにしてくださいます。これが目標です誰が偉いか正しいか、ではありません。律法は罪を教え、罪だらけの僕らはイエス様に赦され、憐れみを受けるしか道がない、と教えます。「律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係」です。(ガラテヤ3.24

 

8-11

私たちは知っています。律法は、次のことを知っていて適切に用いるなら、良いものですすなわち、律法は正しい人のためにあるのではなく、不法な者や不従順な者、不敬虔な者や罪深い者、汚れた者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、淫らな者、男色をする者、人を誘拐する者、噓をつく者、偽証する者のために、また、そのほかの健全な教えに反する行為のためにあるのです

 

パウロも同じように罪深い人でした。彼は「私はその罪人のかしらです。」と言っています。(15)神様の恵み、憐れみ、赦しを知り、平安と愛をいただくのが福音です誰が偉いか正しいか、ではありません。今日も感謝しましょう。赦された罪の数々を感謝しましょう。神様の憐れみの大きさを感謝しましょう。そして、赦された者として互いに赦し合い、愛し合いましょう。これこそ福音の目標です。ハレルヤ!

1テモテ1.12-20

 神様の怒りに触れて滅ぼされてもおかしくない罪人が、今日も神様の忍耐を受け続けています。パウロも、僕も、あなたも同じです。過去の罪はイエス様の「この上もない寛容」で赦されています。

 

(15-16)

「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです私はその罪人のかしらです。しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。

 

健全な信仰とは、罪人が赦されたことへの恵みと感謝に立ち続けることです

 

(18)

私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言にしたがって、私はあなたにこの命令を委ねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と健全な良心を保ち、立派に戦い抜くためです

 

神様のこの上のない寛容は今日も注がれています。だから僕らも苦手なあの人に寛容でいましょう。欠点だらけの人を赦しましょう。忍耐しましょう。愛しましょう。僕らは何も自慢できません。この上もない寛容と愛を注ぎ続けてくださる神様にだけ栄光があります。

 

(17)

どうか、世々の王、すなわち、朽ちることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように。アーメン。

 

この恵みと憐れみに僕らが自分の手柄や自慢をくっつけませんように。

今日も神様の忍耐に感謝する日でありますように。ハレルヤ!

1テモテ2章

 男性の方が女性よりも議論好きが多く、勝ちたい人が多く、そのためには怒って戦い争うようですそれがエペソ教会の問題になっていました。どちらが正しいかという議論にのめり込み、平安も愛も喜びも失う人がいることでした。そんな争いを聖書は「虚しい」と言います。(1.6)争いのための議論は神様の願いである愛も信仰も失わせます。(1.5-6)そんな僕らに聖書は言います。

 

(8)

そういうわけで、私はこう願っています。男たちは怒ったり言い争ったりせずに、どこででも、きよい手を上げて祈りなさい。

 

イラっと来る場面はいくらでもあります。言い負かししてやりたい時もあります。でも、その時こそ祈りのチャンスです。相手を打ち負かす必要はなく、ただ神様に状況を報告し、祈り、とりなし、感謝しましょう。パウロは祈ることを「何よりもまず勧めます」と言います。

 

(1-2)

そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです

 

祈りは僕らをいつも敬虔さ、品位、平安と落ち着きに導いてくれます。祈りは神様に喜ばれることです神様に喜ばれることは僕らの喜びになります。

 

イラつく時は祈る時です不安になった時も疲れた時も祈る時です感謝できない時も祈る時です。全ての人のためにも、自分のためにも、偉い人たちのためにも、そうでない人たちのためにも僕らは祈るように導かれています。祈りは神様に喜ばれます。祈りは最大のささげ物です祈りは神様に喜ばれています!感謝しましょう。祈りましょう!ハレルヤ!

1テモテ3章

 看板を高く表示するためには支える柱と土台が必要なように、神様のみことばの真理を掲げるためにも柱や土台が必要です聖書の宣言を貼り付け、支持し持ち上げる柱の役目をするのはなんと教会です

 

(15)

神の家とは、真理の柱と土台である、生ける神の教会のことです

 

土台や柱がぐちゃぐちゃだと、看板を掲げることができません。「愛し合いなさい」という教えを掲げながら内輪モメをするなら倒れてしまいます。御霊は自制を与えてくれる、と掲げながら自制できなかったり、礼儀に反することをしない、と掲げながら無礼なことをしたり、赦し合いなさい、と掲げながら恨み合っているなら真理を支えることができません。教会のリーダーは特に聖書の教えを支持しているかどうかが問われます。

 

(2-5)

ですから監督は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、礼儀正しく、よくもてなし、教える能力があり、

酒飲みでなく、乱暴でなく、柔和で、争わず、金銭に無欲で、

自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人でなければなりません

自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができるでしょうか。

 

僕ら教会の一人一人が今日も真理のみことばを掲げ表示しますように。僕らが毎日みことばによってきよめられ、矯正され、生活が神様の真理のことばを表すものでありますように。教会が「真理の柱と土台である、生ける神の教会」でありますように。

1テモテ6.1-10

 必要以上に儲けようとしなくても大丈夫です地位や優位性を求めなくても大丈夫です。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言ってくださるからです。(ヘブル13.5)ですが、必要以上にお金を求め、地位を求め安心したがるのが僕ら人間です

お金を求める人も地位を求める人にも共通して欠乏感があります。その人は神様が一緒にいて愛し満たしてくださることでは不安なよです


(4-5)

その人は高慢になっていて、何一つ理解しておらず、議論やことばの争いをする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、ののしり、邪推、絶え間ない言い争いが生じます。これらは、知性が腐って真理を失い、敬虔を利得の手段と考える者たちの間に生じるのです


神様はいつでも私たちに必要を与えてくださる方です妬みや争いは「満たされてない、与えられてない、愛されてない」という気持ちの表れです必要なものは神様がちょうどよく与えてくださいます。神様は見捨てることがありません。神様と一緒にいること=十分満たされていることです


(6-8)

しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です

私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです


もともと生まれた時からお金を持っていた人はいないし、お金を持ってこの世を去ることもできません。全てがちょうどよく与えられているものです

衣食があれば十分です。日本人ならほとんどの人は服があります。食べ物もあります。それで十分ですもっと必要なものがあれば神様がちょうどよく用意してくださいます。日本で「自分は貧乏」と思っても世界レベルではかなり上位です毎日食べていることに感謝しましょう。必要以上にお金を欲しがることは僕らを神様から引き離します。


(9-10)

金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に沈める、愚かで有害な多くの欲望に陥ります。

金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからですある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。


全てを満たしてくださる神様を求めることが正解ですそこには平安と喜びがあります。次の祈りが聖書に書かれています。一緒に祈りましょう。


(箴言 30:8-9

貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ。」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。


1テモテ6.17-19

 イエス様は「受けるよりも与える方が幸いですとおっしゃいまました。(使徒20.35)そして、与えるための富も力も預けて下さる方です。それらを使って、神様にお仕えし、人を愛することは楽しいことです


17-19)

今の世で富んでいる人たちに命じなさい。高慢にならず、頼りにならない富にではなく、むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置き、善を行い、立派な行いに富み、惜しみなく施し、喜んで分け与え、来たるべき世において立派な土台となるものを自分自身のために蓄え、まことのいのちを得るように命じなさい。


与えられているお金や時間や力を神様や人に与えて貧しくなる人はいません。なぜなら、すべて神様からのものだからです預かっているお金も時間も「善を行い、立派な行いに富み、惜しみなく施し、喜んで分け与え」るためのものですしかもそれを「楽しませてくださる」神様です。さらに、そうすることは今の世ではなく、イエス様が再び来られる新しい世界において「立派な土台となるもの」です。宝はこの世に蓄えるべきでなく、「自分の宝は、天にたくわえなさい。」とイエス様が言われます。(マタイ6.20)

今日も楽しみましょう。与えましょう。ハレルヤ!