ラベル ホセア の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ホセア の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2025年7月29日火曜日

ホセア14章

 ホセア14章


「どうしてこんな苦しみが…」と思う時、神様を悲しませ、神様の妬みや怒りを引き起こすようなことがなかったか、自分に聞いてみるのは大切です。もし罪に気がついたらちゃんと言葉にして言い表すことです。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(1ヨハネ1.9)



"イスラエルよ。あなたの神、主に立ち返れ。あなたは自分の不義につまずいたのだ。

あなたがたはことばを用意し、主に立ち返れ。主に言え。「すべての不義を赦し、良きものを受け入れてください。私たちは唇の果実をささげます。"

ホセア書 14章1~2節



罪を告白するなら赦されるだけでなく、癒しと回復も与えられます。



"ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。"

ヤコブの手紙 5章16節



イスラエルが苦しみ滅んだ理由は、神様よりも軍事力、神様よりも強国の助け、神様よりも偶像、神様より自分で作ったものを求めたからです。それをちゃんと認めてそれを「やめます」と告白する時に、イスラエルは癒され、回復し、祝福されました。



"アッシリアは私たちを救えません。私たちはもう馬に乗らず、自分たちの手で造った物に『私たちの神』と言いません。みなしごがあわれまれるのは、あなたによってです。」"

ホセア書 14章3節


罪を「捨てます。やめます」とちゃんと口にすると、驚くような癒しと回復と祝福もたらします。神様がそうおっしゃいます。



"「わたしは彼らの背信を癒やし、喜びをもって彼らを愛する。わたしの怒りが彼らから離れ去ったからだ。

わたしはイスラエルにとって露のようになる。彼はゆりのように花咲き、レバノン杉のように根を張る。

その若枝は伸び、その輝きはオリーブの木のように、その香りはレバノン杉のようになる。

その陰に住むものたちは、穀物のように生き返り、ぶどうの木のように芽をふく。その名声はレバノンのぶどう酒のようになる。

エフライムよ。わたしと偶像との間に、どういう関わりがあるか。わたしが応え、わたしが世話をする。わたしは緑のもみの木のようだ。わたしから、あなたは実を得るのだ。」"

ホセア書 14章4~8節



他のものに頼ったり自分に頼ったりしても、結果はマイナス、いや悲惨です。罪を認めて悔い改め告白するならば祝福は思ったよりもずっと大きく、30倍60倍100倍の回復と祝福があります。神様に喜ばれるものは悔いた心です。



"神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません。"

詩篇 51篇17節



罪を告白し、神様に感謝することを「唇の果実」(2)と言います。自分が他のものを求めていたこと、他のものを優先していたこと、ちゃんと口に出して謝りましょう。神様はすべてを新しくし、回復し、祝福で満たしてくださいます。ハレルヤ!



ホセア13章

 ホセア13章


「時間がない、お金がない、敵がいる」イヤだけど、そんな時にこそ、神様のリアルな守りや愛、恵みを本気で祈り求め体験できます。逆に、時間もお金もたっぷりあって平和になると神様に求めたり感謝したりしなくなりがちです。お金も平和も神様が与えてくださってるのに、です。イエス様は「貧しむ者、悲しむ者、飢える者、迫害される者は幸い」とおっしゃいます。(マタイ5章、ルカ6章)貧しく苦しむ時こそ本気でひざまずいて祈り求めることができるし、助けられた時に100パーセント神様に感謝できるからです。イスラエルは400年も奴隷とされ、まさに苦しむ者、悲しむ者でした。彼らはただ神様に求め、救い出され、何もない荒野で養われました。



(4-5節)

しかしわたしは、エジプトの地にいたときから、あなたの神、主である。あなたはわたしのほかに神を知らない。わたしのほかに救う者はいない。

このわたしは荒野で、干ばつの地であなたを知っていた。



イスラエルが通ってきた荒野はいつも死と隣り合わせの危険地帯でした。危険だからこそ、神様の助けが明白でした。やがて神様は乳と蜜の流れる地で満腹させてくださいます。満足した時こそ本当に危険な時です。神様を忘れて傲慢になりやすいからです。



"あなたが食べて満ち足りたとき、主がお与えくださった良い地について、あなたの神、主をほめたたえなければならない。

気をつけなさい。私が今日あなたに命じる、主の命令と主の定めと主の掟を守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。

あなたが食べて満ち足り、立派な家を建てて住み、

あなたの牛や羊の群れが増え、銀や金が増し、あなたの所有物がみな豊かになって、

あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れることがないように。(…中略…)

あなたは心のうちで、「私の力、私の手の力がこの富を築き上げたのだ」と言わないように気をつけなさい。"

申命記 8章10~17節



ですが、イスラエルの民は警告されていた通りに神様を忘れ、高ぶり、裏切ります。



(6節)

しかし牧草で満腹したとき、彼らは満ち足り、心は高ぶり、そうしてわたしを忘れた。



「神様?あ~もういいや」みたいに思ったようです。「ウチらに満足や喜びをもたらすのはコレだ!」と偶像を作り出し、「コレのおかけで繁栄している」と誉めたたえます。とんでもない間違いです。



(2節)

今、彼らは罪を重ね、自分のために銀で鋳物の像を造り、自分の考えで偶像を造った。これはみな、職人のわざ。彼らはこれについて言う。『人を献げる者たちは、子牛に口づけせよ』と。



聖書は「主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」と言います。(詩篇103.2)神様を忘れ、神様を裏切ることは全ての祝福を自分から捨てるようなものです。神様を捨てるときに、与えてくださった良いものも全部手放すことになります。どんな王様も助けてくれません。残るのは神様の怒りと裁きだけです。



(7-11節)

7,わたしは彼らに対して獅子のようになり、豹のように道端で待ち伏せる。

8,子を奪われた雌熊のように彼らに襲いかかり、彼らの胸をかき裂いて、その場で雌獅子のように食らう。野の獣は彼らを引き裂く。

9,イスラエルよ、あなたは滅ぼされる。あなたの助け手である、わたしに背いたからだ。

10,では、あなたの王はどこにいるのか。すべての町のうちで、あなたを救う者は。あなたをさばく者たちはどこにいるのか。かつてあなたが『私に王と高官たちを与えよ』と言った者たちは。

11,わたしは、怒ってあなたに王を与え、また憤ってこれを奪い取る。



(15-16)

15,彼は兄弟たちの中で栄えている。だが、東風が吹いて来て、主の息が荒野から立ち上り、水源は涸れ、泉は干上がる。それはすべての尊い器がある宝物倉を略奪する。

16,サマリアは咎ある者となる。自分の神に逆らったからだ。彼らは剣に倒れ、幼子たちは八つ裂きにされ、妊婦たちは切り裂かれる。」



「偶像を造ってはならない。」という律法を守れないのが人間です。(出エジプト20.4)律法は神様の怒りをもたらします。律法を守ったら救われるのではなく、律法はそれを守れない「私たちをキリストへ導くための私たちの養育係」です。(ガラテヤ5.24)「よーし頑張ろう!」と思っても長続きしません。僕らは弱いものです。本当の救いが必要です。


イスラエルは神の怒りで多くの人が殺されました。今日のホセア13章は恐ろしい神様の怒りの章です。しかし、それでも神様は救おうとしてくださっています。イエス様は神様の怒りを受けて殺される側に来てくださいました。罪はないのに、まるで神様を裏切り殺される者のように、十字架で神様の呪いを受け、殺され、葬られました。死は罪の結果です。



(14節)

わたしはよみの力から彼らを贖い出し、死から彼らを贖う。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。よみよ、おまえの針はどこにあるのか。あわれみはわたしの目から隠されている。



イエス様を信じた僕らも一度は死ななければなりません。…ですが、イエス様は復活されました。そして、イエス様を信じる僕らも同じように復活します。


新約聖書はこの恐ろしい箇所を解説してくれています。イエス様が僕らを憐れみ、見離さず、イエス様と一緒に復活させてくださり、罪も汚れもない完全な体に変えてくれます。



"そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」

「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」"

コリント人への手紙 第一 15章54~55節



神様の怒りと裁きはあります。ホセア書に描かれた神様の怒りは僕らが受けるべき裁きです。僕らには救いが必要です。クリスチャンになってもなお高ぶって悪いことをしまう僕らがいます。パウロ先生でさえそうでした。



(ローマ7.18-19)

私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。

私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。



僕らの救いはイエス様だけです。イエス様だけが代価を払って僕らを取り戻してくださった方です。「わたしはよみの力から彼らを贖い出し、死から彼らを贖う。」(14)とおっしゃるのは、イエス様の救いの預言です。イエス様以外に救いはありません。ただ感謝しましょう。



(ローマ7.24-8.1)

私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。(…中略…)こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。



2025年7月25日金曜日

ホセア9章

 ホセア9章


喜びとか楽しみは神様から流れてきます。神様との関係が強く深くなればなるほど、神様が与えてくださる良いもの(収穫、平和、出来事など)を僕らは楽しめます。



"そこであなたがたは家族の者とともに、あなたがたの神、主の前で食事をし、あなたの神、主が祝福してくださった、あなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。"

申命記 12章7節



"満ち足りた喜びがあなたの御前にあり楽しみがあなたの右にとこしえにあります。"

詩篇 16篇11節



収入や家族や友人を与え、楽しませようとなさる神様です。それらは神様から与えられた良いものです。もし神様から離れて他の人やモノで喜び楽しもうと思っても、それは虚しく、むしろ残るものは神様の裁きです。その結果は悲しみと苦しみです。イスラエルは神様から離れて偶像を愛し、他国の救いを求めますが、その結果は悲惨でした。



"イスラエルよ、喜ぶな。諸国の民のように楽しむな。あなたは自分の神に背いて姦淫したからだ。あなたはすべての麦打ち場で姦淫の報酬を愛した。

打ち場も踏み場も彼らを養わない。新しいぶどう酒も彼らを裏切る。"

ホセア書 9章1~2節



"エフライム。その栄光は鳥のように飛び去り、産むことも、身ごもることも、宿すこともない。

たとえ彼らが子どもを育てても、わたしは彼らに子を失わせ、人がいなくなるようにする。わたしが彼らを離れるとき、まことに、彼らにわざわいが来る。

エフライムは、わたしが見たところ、牧場に植えられたツロのようであった。しかし今や、エフライムはその子らを屠り場に連れ出さなければならない。」

主よ、彼らに与えてください。あなたは何をお与えになりますか。彼らに与えてください。死産の胎を、涸れた乳房を。"

ホセア書 9章11~14節



ここで預言されているのは、イスラエルへの裁きです。「エフライム」は北イスラエルの中心部族です。戦争や侵略によって本当に子どもたちは死んでいきます。紀元前722年にアッシリア帝国が北王国イスラエルを滅ぼし、多くの人々が殺され、生き残った者も連れ去られました。


神様が与えてくださる大きな喜びの一つは子どもが生まれ育つことです。

ところが、神様から離れた結果、エフライムは子どもが生まれたとしても殺され、それはまるで屠殺場に連れて行かれる家畜のようです。「今や、エフライムはその子らを屠り場に連れ出さなければならない。」(13)神様から離れるならすべての祝福や喜びは失われます。



"エフライムは打たれ、その根は枯れて、実も結ばない。たとえ子を産んでも、わたしはその胎の実である、いとし子を殺す。」"

ホセア書 9章16節



罪の報酬は死です。この裁きは、イスラエルと同じように僕らも受けるものでした。イスラエルの愛する子どもは殺されます。これが裁きです。

なんと、この裁きを神様が自ら受けてくださいました。宝である喜びの子が殺される、という裁きを、です。

イエスキリストは神様にとって愛する子、喜びの子です。その愛する子イエス様が罪の結果として殺されました。罪の報酬は死です。喜びの子が殺される悲しみを神様が経験されます。罪深いエフライムは「その子らを屠り場に連れ出さなければならない。」(13)とあり、「たとえ子を産んでも、わたしはその胎の実である、いとし子を殺す。」(16)とあります。イエス様がこの殺されるいとし子になってくださいました。


(イザヤ53.6-8)

主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。虐げとさばきによって、彼は取り去られた。



神様の裁きはイエス様が受けてくださいました。それによって僕らはもう裁きを終えたものとして赦され、回復します。

もう一度、神様から楽しみと喜びを与えてもらう本来の姿に戻ることができます。楽しみと喜びを与えようとなさる神様です。祝福は神様から流れてきます。この神様以外には救いも喜びもありません。ハレルヤ!



2025年7月24日木曜日

ホセア8章

 ホセア8章


愛されたくて、振り向いてほしくて、親切やプレゼントを使うことがあります。エフライム(北イスラエル)はアッシリヤなど強そうな国々に贈り物をしますが、それは与えるのではなく相手から受けるためです。「エフライムは愛を求めて贈り物をした。」(9)と書かれています。お金をかけて強国の友情を買おうとすることとは、まるでお金で恋人を雇うかのようです。一方、周りは全然イスラエルのことを好きでもないし、仲良くしたいとも思っていません。「彼らは国々の間にあって、だれにも喜ばれない器」(8)とあります。イスラエルと付き合う理由はせいぜい、「あいつらの財産をうちらのものにできる」という下心くらいです。イスラエルが神様から離れた結果、周りの国からはバカにされ、お金を積まないと相手にされない状態になっていました。イスラエルは必死に他の国に媚びます。(9節)



(9-10節)

彼らは、ひとりぼっちの野ろばで、アッシリアへ上って行った。エフライムは愛を求めて贈り物をした。

彼らが諸国の民に物を贈っても、今、わたしはそれらを集める。彼らは、王や首長への貢ぎによって間もなく汚されることになる。



彼らの最後は利用されて滅ぼされるだけです。イスラエルの贈り物は、一見良いことに見えますが、本音は「相手をコントロールするための手段」です。僕らもよくあることです。「与えるから、思い通りに動いてくださいね」って気持ちは誰にでも起こります。相手が神様であっても、神様を動かすために信仰っぽいことをすることもあります。イスラエルは他国に媚びるように、神様に対しても熱心そうに祭壇を増やします。神様の祝福を引き出すためです。



(11)

エフライムは祭壇を増やして罪を犯すようになった。それらは彼にとって罪を犯すための祭壇となった。



彼らは神様の教えは無視して「神様、祭壇をたくさん作るから守ってくださいね」と言いたげです。ささげものをすれば神様は動く、という高ぶりです。「神様こんなに捧げてますよ、だから○○してくださいね」という態度は「罪」だと聖書は言います。「エフライムは祭壇を増やして罪を犯すようになった。」(11)



(13-14)

わたしへのささげ物のいけにえとして彼らが肉を献げて食べたとしても、主はこれを喜ばない。今、主は彼らの不義を覚え、その罪を罰する。彼らはエジプトに帰る。

イスラエルは自分の造り主を忘れ、神殿をいくつも建てた。ユダは、城壁のある町々を増し加えた。しかし、わたしはその町々に火を放つ。火はその宮殿を焼き尽くす。」



神様を動かそうとして、イスラエルは神殿をたくさん建てます。神様との関係を「取引」や「操作」にしてしまって、真実な信頼や愛から離れていました。神様が求めておられるのは取引ではなく、真実な愛です。



(ホセア6.6)

わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。



神様が喜びとする「真実の愛」とは相手のために、自分を差し出すことです。条件つきではありません。

「ニセモノの愛」は自分のために相手を使うことです。「愛してる、だから○○して」という感じです。

隣人に対する真実の愛も、神様への愛も人間からは出てきません。

愛は神様から与えられます。愛は聖霊によって与えられる、イエス様のものです。



(ローマ5.5)

私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。


(ローマ5.8)

私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。



神様に対しても、隣人に対しても親切そうにして「コントロールしたがる心」があります。

礼拝や教会すら隣人を動かそうとする操作の道具になることもあります。

そこに神様の喜びはありません。「主はこれを喜ばない。」とあります。(13)真実な愛は100パーセント神様から与えられるものです。今日も御霊を求めましょう。求めるなら必ず与えられます。この愛がなければ「何の役にも立ちません。」(1コリント13.3)