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2025年4月3日木曜日

むなしいささげ物を携えて来るな イザヤ1.13 リバーワーシップスクール卒業式の祝辞

リバーワーシップスクールの名前、本当にいいな、って思います。内側から溢れ出る命の川、御霊による感謝と喜びと平安によって与えられている礼拝、賛美を目指すこのスクールで教えることができて本当に感謝しています。

やっぱり教えてて楽しいです。まずは僕自身がシンセサイザー好きなんだな、と改めて思います。自分が楽しいので伝えたい、って気持ちがあります。

シンセサイザーはいろんな音が出て楽しいです。オーケストラ風の音を出したり、最近買ったのはボーカルシンセサイザーです。かなり人間が歌ってるっぽく作れます。そういう豪華な音とか、新しい音、僕は好きだしこの賜物を預けてくださって感謝って思いますけど、同時に神様を忘れさせる大きな誘惑でもあるといつも思います。

最近問われているなあって思います。単に気持ちよく、いい思いするための音楽をしてるのか、逆に自分の好みとか楽しみではなく、御霊によって感謝し賛美し、主の栄光に触れて、その前に平伏してしまうような音を出そうとしてるのか?

問われているし、立派な音を出すほどに、その責任が問われるような気がします。



"イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」

すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」"

マルコの福音書 1312


イエス様は素晴らしい神殿、素晴らしい石に全く興味関心がなかったです。

イエス様はそこが中心ではないようです。特に礼拝や祈りにおいては人に見せるためであってはならない、と厳しくおっしゃいます。(マタイ6.5)見せるために祈ったり何かをしたりする人を偽善者ども、と叱る方です。


「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。"

マルコの福音書 76



「もう、むなしいささげ物を携えて来るな。」というイザヤ書の「むなしい」という言葉は十戒の「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。」(出エジプト20.7)の「みだりに」と同じです。


"もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙、それはわたしの忌み嫌うもの。新月の祭り、安息日、会合の召集──わたしは、不義と、きよめの集会に耐えられない。"

イザヤ書 113


豪華な音を出しても、もしそれが中身のないものなら、天ではむしろ嫌われるものです。

神様の前にへりくだり、そのご臨在の前に圧倒され、跪くものでなければ、平伏して、自分を捨てて、自分の冠を捨てて捧げるものでなければ、それは虚しいものです。神様はその歌を聞きたくない、とさえおっしゃいます。


"あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。あなたがたの琴の音を、わたしは聞きたくない。"

アモス書 523


生きておられる主の栄光のご臨在の表れでなければ、聖なる主を表すものでなければ、単なる歌の騒ぎです。わたしは聞きたくない、と神様がおっしゃいます。


新しい技術が与えられるたびに問われます。それは何に使うのか、と。自分の虚栄心のためか、それともへりくだって主の栄光のために、自分を捨てて賛美するためか。

多く預かった人は多く求められます。このリバーを卒業した人は、ますます献身が求められます。ますます自分を捨ててへり下り、主の栄光だけを求めることが求められます。


もう一回悔い改めましょう。高ぶりを認めましょう。もう一度自分を捨てましょう。自分を捨てた時に残るのは主の栄光、主のご臨在です。自分を捨て明け渡した時に、圧倒的な天からの喜び、栄光、主権が表されます。

主の栄光だけが表されますように。

2023年10月19日木曜日

アモス9章

 アモス9章


ハマスとイスラエルの戦争のニュースはどうしても、「あなたはイスラエルかガザか、どちらの味方か?」と問いかけ、「あなたはどっちが悪いと思うか?」と迫る感じがします。相手を告発し非難すればキリがありません。僕らはただその罪を悲しみ、一緒に謝り、憐れみを求めるしかありません。聖書は「イスラエルが善でパレスチナは悪」とも「その逆」とも言っていません。聖書によると、神様は裁きにおいて特定の民族をひいきすることがありません。(ローマ2.11)僕らも彼らと同じく憎しみ合い殺し合う罪人です。兄弟を憎む者は人殺しです。そして、その人には神様からの永遠のいのちはないと聖書は言います。(1ヨハネ3.15)そんな僕らが憐れみを受けたのは、ただ恵みです。



(ローマ2.9-11)

9,悪を行うすべての者の上には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、苦難と苦悩が下り、

10,善を行うすべての者には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。

11,神にはえこひいきがないからです。



やがて全ての人に神様の裁きが下ります。ユダヤ人か異邦人かは関係ありません。もちろんイスラエルは神様がお作りになった特別な神様の民、聖なる民、長子、愛する子、花嫁です。でも、神様の裁きの日にはその差はなく、預言者アモスはイスラエルへの徹底的な神様の裁き、しかも異邦人と同じ裁きを預言しています。



(1-4)

1,私は、祭壇の傍らに主が立っておられるのを見た。すると、主は言われた。「柱頭を打ちたたき、敷居が震えるようにせよ。すべての者の頭を打ち砕け。彼らのうち、生き残った者をわたしは剣で殺す。彼らのうち逃げられる者はなく、彼らのうち逃れられる者もない。

2,たとえ、よみに入り込んだとしても、わたしの手が、彼らをそこから引きずり出す。たとえ、天に上ったとしても、わたしが彼らをそこから引きずり降ろす。

3,たとえ、カルメルの頂に身を隠したとしても、わたしが彼らをそこから捜し出して捕まえる。たとえ、わたしの目を避けて海の底に身を隠したとしても、わたしが蛇に命じて彼らをそこでかませる。

4,たとえ、敵の捕虜となって行ったとしても、わたしが剣に命じてそこで彼らを殺させる。わたしは彼らの上に目を注ぐ。それは、わざわいのためであって、幸いのためではない。」



(7-8)

7,「イスラエルの子らよ。あなたがたは、わたしにとってクシュ人と同じではないのか。──主のことば──わたしは、イスラエルをエジプトの地から、ペリシテ人をカフトルから、アラムをキルから、連れ上ったではないか。

8,見よ。神である主の目が、罪深い王国に向けられている。わたしはこれを地の面から根絶やしにする。しかし、ヤコブの家を根絶やしにすることはない。──主のことば──



それでも憐れみは残されています。神様の裁きの宣言の最後に「しかし、ヤコブの家を根絶やしにすることはない。──主のことば──」とあります。(8)イエス様の使徒ヤコブはこのアモス9章を紹介して、イスラエルも異邦人も同じように神様の憐れみが残されていることを説明しています。



(使徒15章14-19)

14 神が初めに、どのように異邦人を顧みて、彼らの中から御名のために民をお召しになったかについては、シメオンが説明しました。 

15 預言者たちのことばもこれと一致していて、次のように書かれています。 

16 『その後、わたしは倒れているダビデの仮庵を再び建て直す。その廃墟を建て直し、それを堅く立てる。 

17 それは、人々のうちの残りの者とわたしの名で呼ばれるすべての異邦人が、主を求めるようになるためだ。 

18 ──昔から知らされていたこと、それを行う主のことば。』 

19 ですから、私の判断では、異邦人の間で神に立ち返る者たちを悩ませてはいけません。 



廃墟を立て直し、全ての国々を祝福するのはイエス様のことです。イエス様は約2000年前に一度来られました。そして、もう一度来られます。その時には完全な、平和と繁栄に満ちた世界的な王国が樹立されます。イエス様が再臨されるのはエルサレムです。そこから世界を治め、世界はイエス様のみことばを求める時代が来ることが預言されています。(イザヤ2.2-4、ゼカリヤ8章など)その時に世界は平和と祝福に満たされます。収穫と種まきが同時に起きるような、耕作と刈り取りが同時に起こるような豊かさです。(アモス9.13)



(13-15)

13,見よ、その時代が来る。──主のことば──そのとき、耕す者が刈る者に追いつき、ぶどうを踏む者が種蒔く者に追いつく。山々は甘いぶどう酒を滴らせ、すべての丘は溶けて流れる。

14,わたしは、わたしの民イスラエルを回復させる。彼らは荒れた町々を建て直して住み、ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、果樹園を作って、その実を食べる。

15,わたしは、彼らを彼らの地に植える。彼らは、わたしが与えたその土地から、もう引き抜かれることはない。──あなたの神、主は言われる。」



リビングバイブルは13節を「大豊作で、やっと収穫が終わると思ったら、息つく暇もなく別の種をまく有様で、イスラエルの丘のぶどう畑は甘いぶどう酒をしたたらせるようになる時が来る。」と訳しています。

罪の中で死んでいて、神様の怒りと裁きに向かっていたはずの僕らです。「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」(エペソ2.4-6)


僕らはいつも、「自分がどういう者だったのか」を思い出す必要があります。恥ずかしい罪人です。クリスチャンになって変えられつつありますが、マシになったのは主の憐れみと恵みです。威張ることも他人のことをあっちが悪い、こっちが悪いと裁くことはできません。もっと大きな梁が僕らにあります。(マタイ7.4)神様は「わたしはこれを地の面から根絶やしにする」(8)と言われました。僕らは死刑宣告を受けた身です。そしてその通りに裁かれたのはイエス様です。僕らが救われるのはイエス様の憐れみ、イエス様の犠牲、愛、恵みによることです。


アモスは神様の裁きを預言しています。同時にイエス様による召しと回復が全ての民族に与えられていることを伝えていいます。その回復は信じられないほど、凄すぎる回復、圧倒的な栄光、恵みです。希望はただイエス様だけです。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒4.12)イエス様だけです。イエス様を求めましょう。ハレルヤ!


2023年10月18日水曜日

アモス8章

 アモス8章


見えない神様よりも、見えること、わかること、できること、結果が出ること、儲かることをしたがるのが僕らです。つまり、神様に頼るより自分の力と知恵で生きたいのです。聖書によると、神様に対する罪とは善悪を自分で決め、自分が神のように思い通りにすることです。反対に聖書が一貫して僕らに教えている義とは「神様のことばを信仰(信頼)すること」です。


立ち止まって神様に聞き、神様の良くして下ったことを思い、感謝し、賛美するための時間を神様はセッティングしてくださいました。イスラエルでは新月の祭り、安息日、というように立ち止まって神様と過ごし感謝する日が決められています。ところが、自分が神のように振る舞う時、その時間は邪魔なもの、いらないものです。アモスの時代のイスラエルは「新月の祭りはいつ終わるのか。私たちは穀物を売りたいのだが。安息日はいつ終わるのか。麦を売りに出したいのだが。」(5)と言うようになっていました。しかも、やりたい商売とは貧しい人をだまし、利用し踏みにじって儲けることでした。



(4-5)

4,聞け。貧しい者たちを踏みつけ、地で苦しむ者たちを消し去ろうとする者よ。

5,あなたがたは言っている。「新月の祭りはいつ終わるのか。私たちは穀物を売りたいのだが。安息日はいつ終わるのか。麦を売りに出したいのだが。エパを小さくし、シェケルを重くし、欺きの秤で欺こう。

6,弱い者を金で買い、貧しい者を履き物一足分で買おう。屑麦を売ろう。」



彼らにとって神様のことばなどどうでもいいもので、自分の悪知恵こそが富の源でした。そんな彼らに神様は裁きを与えます。その時に彼らは自分の力や富は何も役に立たないことを知ります。彼らはあえて自分から神様のことばを捨ててきました。ところが、神様の裁きの日には自分の知恵など何の助けにもなりません。その時になって彼らは神様の言葉を求めますが、与えられません。自分から願ってそれを拒否し、捨ててきたからです。お望み通りのことが起こります。



(11-12)

11,見よ、その時代が来る。──神である主のことば──そのとき、わたしはこの地に飢饉を送る。パンに飢えるのではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことの飢饉である。

12,彼らは海から海へと、北から東へとさまよい歩く。主のことばを探し求めて行き巡る。しかし、それを見出すことはない。



今、僕らが神様のみことばを聞くことができるのは恵みです。神様のことばは地上のいのちが終わってもなくならず、世界が滅んでもなくならないからです。イエス様は「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」とおっしゃいます。(ルカ21.33)


神様の言葉を無視して贅沢に過ごした人が死んだ時、裁きの火の中で苦しみながら「炎の中で、苦しくてたまりません。」と言います。(ルカ16.24)そして彼はまだ生きている家族に「彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。」と願います。(ルカ16.28)ところがアブラハムは『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』と答えます。(ルカ16.29)


神様の言葉を無視することは最悪です。罪とは善悪を自分で決め、自分が神のように思い通りにすることです。反対に、救いとは、いのちとは「神様のことばを信仰(信頼)すること」です。今日も神様のことばは聖書によって、御霊によって語ってくださっています。時間ととって、静まって、手を止めて聞きましょう。「聞く者は生きるのです。」(ヨハネ5.25)ハレルヤ!





2023年10月16日月曜日

アモス6章

恥ずかしながら、賛美の編曲とか演奏とかしていると、神様への賛美と感謝だったはずがいつの間にか音楽そのものの楽しさとか美しさに流れてしまうことがあります。特に編曲は流れやすく、もっとこうしたら盛り上がるとか、こういうコードを使うとイイ感じ、とか思ってしまいます。聖書は、そんな音楽ならやめた方がいい、歌わない方がいい、その音楽技術は消え去るように、と言います。


(詩篇137.5-6)

エルサレムよ。

もしも、私がおまえを忘れたら、私の右手がその巧みさを忘れるように。

もしも、私がおまえを思い出さず、私がエルサレムを最上の喜びにもまさってたたえないなら、私の舌が上あごについてしまうように。



自己満足や快楽のための歌や演奏を、神様は嫌う、聞きたくない、憎む、とさえ言われます。富と繁栄に酔いしれたアモスの時代の礼拝は華やかな音楽があったようです。しかし、神様は「わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。」と言われます。(アモス5.21)それは、神様のためでなく「あなたがたの祭り」です。讃える歌ではなく、「あなたがたの歌の騒ぎ」です。(アモス5.23)自己満足と自分の喜びのための歌を主は忌み嫌われます。



(アモス5.23)

あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。あなたがたの琴の音を、わたしは聞きたくない。



この当時のイスラエルの指導者たちは自分の権力と栄光に酔いしれ最高の贅沢を楽しんでいました。音楽は快楽のためだけにありました。楽器も歌も神様のためでなく酒宴のためのものに成り下がり、それは一見平和と繁栄に見えるのですが、実際は神の裁きと怒りを近づけているだけでした。



(1)

わざわいだ。シオンで安逸を貪る者、サマリアの山に信頼している者。


(4-6)

4,象牙の寝台に横たわり長椅子でからだを伸ばし、群れのうちから子羊を、牛舎の中から子牛を取って食べている者、

5,琴の音にのせて即興の歌を作り、ダビデに倣って自分たちの楽器を考え出す者。

6,彼らは鉢から酒を飲み、最上の香油を身に塗り、ヨセフの破滅のことで嘆き悲しむことがない。



イエス様は全てのことに感謝しなさい、と言われます。音楽もご馳走も神様が与えてくださったプレゼントであり、良いものです。しかし、神様の恵みであることを忘れるなら、音楽もご馳走も神様の悲しみであり忌み嫌うものになってしまいます。


僕らの礼拝も賛美の歌も食事を囲むことも全部が神様の恵み、憐れみです。僕らは神様に感謝して、神様のために歌い、神様のために食べます。でも、すぐに神様を忘れて欲望が中心になり、神様への感謝が人の傲慢さに変質していきやすいものです。今も昔もこれからも同じです。イスラエルの歴史はその繰り返しで、神様に愛されるイスラエルは何度も懲らしめを受け、何度も滅ぼされてきました。その原因はいつも「傲慢さ」でした。神様は誇りを嫌い、神様を忘れた礼拝を憎まれます。



(8)

神である主は、ご自分にかけて誓われる。──万軍の神、主のことば──「わたしはヤコブの誇りを忌み嫌い、その宮殿を憎む。わたしはこの都と、その中のすべての者を引き渡す。」



僕らは自分で手に入れたものは何もありません。全てが神様の恵み、愛、憐れみです。神様の裁きはいつも傲慢な時に下ります。



(13-14)

13,あなたがたは、ロ・ダバルを喜び、こう言う。「私たちは自分たちの力でカルナイムを取ったではないか」と。

14,「しかし、イスラエルの家よ、今わたしは、あなたがたに敵対する一つの国を起こす。──万軍の神、主のことば──彼らはレボ・ハマテからアラバの水無し川まで、あなたがたを虐げる。」



自分達の力で得たもの、勝ち取ったものなど一つもありません。全ては神様の愛と恵みです。僕らはすぐに自分を誇りたがります。

今日も傲慢さを認めましょう。自分の手柄にし、自分の力に注目していたことを認めましょう。全ては神様の憐れみです。もらったものでないものは一つもありません。ただ、感謝しましょう。傲慢さを手放しましょう。神様の怒りと悲しみは神様を忘れた傲慢さに下ります。



(1コリント4:7)

いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。

2023年10月12日木曜日

アモス3章

 アモス3章


なんでこんな悲惨なことが…。なんで神様は殺し合いを止めないのか…。僕らの疑問です。でも、聖書は明らかにその原因は私たちの「罪」だと言いきります。神様に似せて造られた人間の本当の姿は争いも叫びも苦しみもないはずでした。(創世記1.26-27)人が神様に背いた日から土地は呪われ、人と人は争い、殺し合うようになりました。(創世記3-4章)


神様の願いは殺し合うことではなく、愛し合い、生かし合うことです。そのために神様の愛と祝福のための教えを最初に託したのがイスラエルです。イスラエルは神様の愛する子、祝福の子、愛する妻のようです。そして、イエス様を信じるクリスチャンも同じく神様の愛と祝福といのちのことばを託されている神様の相続人です。(ガラテヤ3:28-29、1ペテロ3.9)



(1-2)

1,「イスラエルの子らよ、聞け。主があなたがたについて告げた、このことばを。わたしがエジプトの地から連れ上った、あなたがたすべての部族についてのことばを。

2,わたしは、地のすべての種族の中から、あなたがただけを選び出した。



イスラエルは祝福された、選ばれた民です。…が、神様を裏切り続けました。裏切るなら呪われることは何度も聞いていたはずでした。(申命記など多数)このアモスの預言が書かれた時代、イスラエルは富と繁栄と偶像に酔いしれ、神様を忘れた時代です。それゆえに神様はイスラエルを周辺諸国を用いて攻撃します。



(2)

それゆえ、あなたがたのすべての咎のゆえにわたしはあなたがたを罰する。」



イスラエルが敵から攻撃されるのは、「あなたがたのすべての咎のゆえ」です。しかも「わたし(神様)はあなたがたを罰する。」と言います。僕らの心は人のことだけに奪われ、どっちが悪い、あっちが悪い、と憎しみと復讐心を刺激され続け、その結果、怒りは制御できなくなり爆発します。そんな僕らでも、イエス様が与えてくださる御霊は「人のした悪を思わず」(1コリント13.5)赦し、愛し、忍耐し、祈る新しい心を与えてくださいます。神様は「あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」と言います。(コロサイ3.2)神様だけが正しく報復されます。だから僕らは復讐が禁じられています。(ローマ12.19)



(13-15)

13,聞け。ヤコブの家に証言せよ。──神である主、万軍の神のことば──

14,まことに、イスラエルの背きのゆえにわたしが彼の上に報いる日に、わたしはベテルの祭壇を罰する。その祭壇の角は折られ、地に落ちる。

15,わたしは冬の家と夏の家を打つ。象牙の家は滅び、大邸宅も消え失せる。──主のことば。」



(2章4-8節)

4,主はこう言われる。「ユダの三つの背き、四つの背きのゆえに、わたしは彼らを顧みない。彼らが主のおしえを捨てて、その掟を守らず、先祖がつき従ったまやかしものが彼らを惑わしたからだ。

5,わたしはユダに火を送る。その火はエルサレムの宮殿を焼き尽くす。」

6,主はこう言われる。「イスラエルの三つの背き、四つの背きのゆえに、わたしは彼らを顧みない。彼らが金と引き換えに正しい者を売り、履き物一足のために貧しい者を売ったからだ。

7,彼らは、弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、貧しい者の道を曲げている。子とその父が同じ女のもとに通って、わたしの聖なる名を汚している。

8,彼らは、すべての祭壇のそばで、質に取った衣服の上に横たわり、罰金で取り立てたぶどう酒を自分たちの神の宮で飲んでいる。



悲惨な戦争を見聞きする時、僕らは「なんでこんなひどいことが起こるのか?」と思います。聖書はそれを「主がそれをなされた」と言い、僕らに警告されます。



(6-7)

6,角笛が町で鳴らされたら、民は驚かないだろうか。町にわざわいが起こったら、主がそれをなされたのではないか。

7,まことに、神である主は、ご自分の計画を、そのしもべである預言者たちに示さずには、何事もなさらない。



「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6.23)イエス様は何度も悔い改めるように言われました。今も同じです。僕らは殺し合うように造られていないし、そもそも、死ぬようには造られていません。死の原因も戦争の原因も僕らの罪です。しかし、今、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。イエス様だけが僕らを新しくし、内側から作り替えてくださいます。イエス様を信じる人はどんなに罪が大きくても憎しみや怒りが大きくてもそこから解放され、赦され、永遠のいのちを得ます。死後の命だけでなく、地上にいる今から敵を愛し、赦し、肉体の死を恐れない人に変えられます。(マタイ10:28)人のことば、情報も大切だけど、それよりも神のことばを求めましょう。イエス様は何度も戦争や暴動、地震や飢饉があると僕らに言われてました。それは、恐れさせるためではありません。イエス様の赦しといのちに目を向けさせ、希望を持ち忍耐して祈り続けるためです。



(ルカ21.32-33、36)

まことに、あなたがたに告げます。すべてのことが起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。

この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。


36 しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」



他人事でなく謝りましょう。自分の罪も、家族の罪も、友達の罪も、ハマスの罪もイスラエルの罪も、謝りましょう。義人は一人もいません。(ローマ3.9-18)神様の裁きは正しく行われます。そして、イエス様だけが僕らを赦し、憎しみのあるところに和解を与え、敵意を廃棄され、永遠のいのちを与えてくださる方です。(エペソ2章)僕らは憎しみや恐れを拡散するのではなく、福音を拡散するものです。憐れみを求め、自分のこととして悔い改め、祈りましょう。


(1ペテロ3:9)

悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。