恥ずかしながら、賛美の編曲とか演奏とかしていると、神様への賛美と感謝だったはずがいつの間にか音楽そのものの楽しさとか美しさに流れてしまうことがあります。特に編曲は流れやすく、もっとこうしたら盛り上がるとか、こういうコードを使うとイイ感じ、とか思ってしまいます。聖書は、そんな音楽ならやめた方がいい、歌わない方がいい、その音楽技術は消え去るように、と言います。
(詩篇137.5-6)
エルサレムよ。
もしも、私がおまえを忘れたら、私の右手がその巧みさを忘れるように。
もしも、私がおまえを思い出さず、私がエルサレムを最上の喜びにもまさってたたえないなら、私の舌が上あごについてしまうように。
自己満足や快楽のための歌や演奏を、神様は嫌う、聞きたくない、憎む、とさえ言われます。富と繁栄に酔いしれたアモスの時代の礼拝は華やかな音楽があったようです。しかし、神様は「わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。」と言われます。(アモス5.21)それは、神様のためでなく「あなたがたの祭り」です。讃える歌ではなく、「あなたがたの歌の騒ぎ」です。(アモス5.23)自己満足と自分の喜びのための歌を主は忌み嫌われます。
(アモス5.23)
あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。あなたがたの琴の音を、わたしは聞きたくない。
この当時のイスラエルの指導者たちは自分の権力と栄光に酔いしれ最高の贅沢を楽しんでいました。音楽は快楽のためだけにありました。楽器も歌も神様のためでなく酒宴のためのものに成り下がり、それは一見平和と繁栄に見えるのですが、実際は神の裁きと怒りを近づけているだけでした。
(1)
わざわいだ。シオンで安逸を貪る者、サマリアの山に信頼している者。
(4-6)
4,象牙の寝台に横たわり長椅子でからだを伸ばし、群れのうちから子羊を、牛舎の中から子牛を取って食べている者、
5,琴の音にのせて即興の歌を作り、ダビデに倣って自分たちの楽器を考え出す者。
6,彼らは鉢から酒を飲み、最上の香油を身に塗り、ヨセフの破滅のことで嘆き悲しむことがない。
イエス様は全てのことに感謝しなさい、と言われます。音楽もご馳走も神様が与えてくださったプレゼントであり、良いものです。しかし、神様の恵みであることを忘れるなら、音楽もご馳走も神様の悲しみであり忌み嫌うものになってしまいます。
僕らの礼拝も賛美の歌も食事を囲むことも全部が神様の恵み、憐れみです。僕らは神様に感謝して、神様のために歌い、神様のために食べます。でも、すぐに神様を忘れて欲望が中心になり、神様への感謝が人の傲慢さに変質していきやすいものです。今も昔もこれからも同じです。イスラエルの歴史はその繰り返しで、神様に愛されるイスラエルは何度も懲らしめを受け、何度も滅ぼされてきました。その原因はいつも「傲慢さ」でした。神様は誇りを嫌い、神様を忘れた礼拝を憎まれます。
(8)
神である主は、ご自分にかけて誓われる。──万軍の神、主のことば──「わたしはヤコブの誇りを忌み嫌い、その宮殿を憎む。わたしはこの都と、その中のすべての者を引き渡す。」
僕らは自分で手に入れたものは何もありません。全てが神様の恵み、愛、憐れみです。神様の裁きはいつも傲慢な時に下ります。
(13-14)
13,あなたがたは、ロ・ダバルを喜び、こう言う。「私たちは自分たちの力でカルナイムを取ったではないか」と。
14,「しかし、イスラエルの家よ、今わたしは、あなたがたに敵対する一つの国を起こす。──万軍の神、主のことば──彼らはレボ・ハマテからアラバの水無し川まで、あなたがたを虐げる。」
自分達の力で得たもの、勝ち取ったものなど一つもありません。全ては神様の愛と恵みです。僕らはすぐに自分を誇りたがります。
今日も傲慢さを認めましょう。自分の手柄にし、自分の力に注目していたことを認めましょう。全ては神様の憐れみです。もらったものでないものは一つもありません。ただ、感謝しましょう。傲慢さを手放しましょう。神様の怒りと悲しみは神様を忘れた傲慢さに下ります。
(1コリント4:7)
いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。
0 件のコメント:
コメントを投稿