マルコ9.30-37
僕らは効率よく、なるべく時間をかけず、近道で行きたいと思いますが、イエス様が願っておられるのは正反対のようです。人を愛するために効率は落ち、時間はかかり、疲れ、遠回りすることがイエス様の願いです。自分の名声にならず、ただ時間もお金も減ってしまうけれども、一番弱く小さい人を受け入れることは、イエス様を受け入れることです。イエス様は小さい子の手を取り、後ろから抱きしめ、膝に乗せました。
(35-36)
35,イエスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」
36,それから、イエスは一人の子どもの手を取って、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱いて彼らに言われた。
37,「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」
デキる人、輝く人、かっこいい人、面白い人は人気があります。…ですが、無力な人、人が避けたくなるような人、めんどくさい人、社会の隅に追いやられている人を受け入れ愛することこそ、イエス様を愛することです。イエス様は言われました。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』(マタイ25.40)弱く、困っている人、時間のかかる人、居場所のない人を愛するならあとでイエス様とお会いする時に言われます。「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』(マタイ25.35-36)それとは反対に、小さな人、弱い人をつまづかせることは神様が最も怒り悲しむことです。
(マタイ18:6)
しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。
弟子たちは「誰が一番偉いか?」ということに関心がありました。イエス様は「誰が偉いか」は否定せず、むしろその答えを明確に教えてくださいました。偉い人とはみんなの後になり、みんなに仕える人です。
(33-35)
33,一行はカペナウムに着いた。イエスは家に入ってから、弟子たちにお尋ねになった。「来る途中、何を論じ合っていたのですか。」
34,彼らは黙っていた。来る途中、だれが一番偉いか論じ合っていたからである。
35,イエスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」
小さい人、弱い人、めんどうな人に仕えることはイエス様の愛の現れ、イエス様の願いの現れです。僕らからは出ないはずの愛と憐れみが、聖霊によって与えられています。聖霊は僕らが思う近道や効率とは全然違います。今日も自分でなく、イエス様の愛でいきましょう。この世の考えとは正反対です。ハレルヤ!
0 件のコメント:
コメントを投稿