レビ記1章
旧約聖書の律法は、「私たちをキリストに導く養育係」です。(ガラテヤ3.24)動物のいけにえのささげ方を読むと血だらけで残酷に思いますが、それは僕らがイエス様を深く知り、そして神様に受け入れられていることを確信させるためのものです。律法を知るとイエス様の愛と恵みの大きさがわかるようになります。
神様は僕らを愛し受け入れたいと思っているし、僕らも神様に受け入れられたいです。でも、僕らにはキズがあるし、そのままでは聖なる神様に受けられません。それでも、神様は受け入れようとして律法を与えてくれました。レビ記は神様が僕らを受け入れてくださるための方法です。
自分の代わりに傷のない動物を、まるで自分であるかのように連れてきてささげるように言われていいます。
"「イスラエルの子らに告げよ。あなたがたの中でだれかが主にささげ物を献げるときは、家畜の中から、牛か羊をそのささげ物として献げなければならない。
そのささげ物が牛の全焼のささげ物である場合には、傷のない雄を献げなければならない。その人は自分が主の前に受け入れられるように、それを会見の天幕の入り口に連れて行き、
その全焼のささげ物の頭に手を置く。それがその人のための宥めとなり、彼は受け入れられる。"
レビ記 1章2~4節
大事なのは「その人は自分が主の前に受け入れられるように」することです。(3)この牛や羊が、まるで自分であるかのようにその頭に手を置きます。そして、まるで自分自身が全てささげ尽くされるかのように神様の前で殺し、焼き尽くします。
"祭司であるアロンの子らは祭壇の上に火を置き、その火の上に薪を整える。
祭司であるアロンの子らは、その切り分けた各部と、頭と脂肪を祭壇の火の上の薪の上に整える。
内臓と足は水で洗う。祭司はこれらすべてを祭壇の上で焼いて煙にする。これは全焼のささげ物、主への食物のささげ物、芳ばしい香りである。"
レビ記 1章7~9節
神様の前で殺され焼き尽くされる動物は、その人自身です。いけにえの動物とその人は一体化しています。その煙は主への「芳ばしい香り」と書かれています。(9)
同じように、僕らではなくイエス様が傷のないささげものとして自分をささげてくださいました。イエス様がただ一度、完全にささげられたことで、僕らは神様に受け入れられています。イエス様を信じた時に僕らとイエス様は一体化して聖なるものにされています。
"以上のとおり、キリストは「あなたは、いけにえやささげ物、全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物、すなわち、律法にしたがって献げられる、いろいろな物を望まず、またそれらをお喜びになりませんでした」と言い、
それから、「今、わたしはあなたのみこころを行うために来ました」と言われました。第二のものを立てるために、初めのものを廃止されるのです。
このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。"
ヘブル人への手紙 10章8~10節
律法では手を置いくことでいけにえと一体化しましたが、新約聖書は信じることで一体化します。イエス様を信じる人は、まるで手を置いて自分も受け入れられられた人のように神様に受け入れられています。僕らがささげたのでなく、イエス様がささげられてくださいました。僕らは十字架の死の犠牲の恩恵に預かっています。だから信じる人は受け入れられています。芳ばしい香りのようです。あとは、受け入れられている人にふさわしくなるように生活するだけです。この世と調子を合わせず、神様に喜ばれることを今日も選び献身しましょう。もうすでに受け入れられています!
"ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。"
ローマ人への手紙 12章1節
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