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2024年7月23日火曜日

1サムエル31章

1サムエル31章 

淀川キリスト教病院の柏木先生が次のように書いています。

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看取りという仕事を通して学んだ最も大きいことは「人は生きてきたように死んでいく」ということである。しっかりと生きてきた人はしっかりと死んでいく。周りに感謝して生きてきた人は家族やわれわれスタッフに感謝しながら死んでいく。不平を言いながら生きてきた人は不平を言いながら死んでいく。生き様が死に様に反映するのである。「良き死」を死すためには、「良き生」を生きねばならないと思う。

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サウル王の死に方はまさに彼の生き方を反映していました。彼は神様よりも自分のプライドやメンツを優先した人です。そして死に様もまた神様より自分のプライドでした。



(1節から6節)

1,さて、ペリシテ人はイスラエルと戦った。イスラエルの人々はペリシテ人の前から逃げ、ギルボア山で刺されて倒れた。

2,ペリシテ人はサウルとその息子たちに追い迫って、サウルの息子ヨナタン、アビナダブ、マルキ・シュアを打ち殺した。

3,攻撃はサウルに集中し、射手たちが彼を狙い撃ちにしたので、彼は射手たちのゆえにひどい傷を負った。

4,サウルは道具持ちに言った。「おまえの剣を抜いて、私を刺し殺してくれ。さもないと、あの無割礼の者たちがやって来て、私を刺し殺し、私をなぶりものにするだろう。」しかし、道具持ちは非常に恐れて、とうていその気になれなかった。それでサウルは剣を取り、その上に倒れ込んだ。

5,道具持ちは、サウルが死んだのを見ると、自分も剣の上に身を伏せて、サウルとともに死んだ。

6,こうしてその日、サウルと三人の息子、道具持ち、それに彼の部下たちはみな、ともに死んだ。



敵から屈辱的なことをされるぐらいなら、道具持ちの剣か自分の剣で死んだ方がマシと言うのが彼の生き方であり、死に方でした。苦しみや悲しみに直面した時の反応は以下の二つに分かれます。①自分の考えを捨てて、神様を求める。②自分の生き方や考え方を手放さず、神様のところには戻らない。


①のように自分の罪を捨てる結果は命であり祝福です。たとえ地上の命が終わっても永遠に神様と一緒にいる祝福は変わりません。②の結果は永遠に神様と離れる死です。サウルは悔い改めることも神様を求めることもなく死んでいきました。それが彼の生き方でした。生前、サムエルから罪を指摘されても彼が求めたことはメンツです。「どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私を立ててください。」と言っています。(サムエル記 第一15章30節)サウルは神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛した人生でした。そして、そのように死んでいきました。(ヨハネの福音書12章43節)

「人は生きてきたように死んでいく」と言われている通り、人からの栄誉を愛して神様からのいのちと祝福を失うなら虚しいものです。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の益があるでしょうか。」(ルカの福音書 9章25節)


この世の栄誉は手放して、神様に戻りましょう。たとえ死んでも、神様と共にいるなら何も不足はありません。「実はそのほうが、はるかにまさっています。」(ピリピ1.23)この方と一緒なら大丈夫です。ハレルヤ!

2024年7月22日月曜日

1サムエル30章

 1サムエル30章


世界が消えても、なくならないのは神様のことばだけです。本当に世界は消えます。イエス様は「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」とおっしゃいました。(マタイの福音書 24章35節)天地の前に、身の周りで失うことはよくあることです。お金がなくなったり、時間がなくなったり、力を失ったり、大事な人を失ったり、健康を失ったりです。絶対になくならないのは神様の言葉です。失った時こそ、神様の言葉を求める時です。


ダビデと兵士たちが帰ってみると、なんと町は敵に襲われた後でした。家も家財も全て焼却炉の真っ黒いゴミのようになっていました。そして家族は全員連れ去られて消えていました。

気力を失い、ただ泣くしかありませんでした。そして、泣く力も失いまいした。



(1から5節)

1,ダビデとその部下が三日目にツィクラグに帰ったとき、アマレク人はすでに、ネゲブとツィクラグを襲っていた。彼らはツィクラグを攻撃して、これを火で焼き払い、

2,そこにいた女たちを、子どもも大人もみな捕らえ、一人も殺さず、自分たちのところへと連れ去っていた。

3,ダビデとその部下が町に着いたとき、なんと、町は火で焼かれていて、彼らの妻も息子も娘も連れ去られていた。

4,ダビデも、彼と一緒にいた兵たちも、声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった。

5,ダビデの二人の妻、イズレエル人アヒノアムも、ナバルの妻であったカルメル人アビガイルも連れ去られていた。



悲しみと不安は怒りに変わります。兵士たちの怒りの矛先はリーダーであるダビデに向けられ、人々は殺そうと言い出しました。ダビデは部下からの信頼も失いました。残されているは、ただ神様の言葉だけです。



(6節から8節)

6,ダビデは大変な苦境に立たされた。兵がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩ませ、ダビデを石で打ち殺そうと言い出したからだった。しかし、ダビデは自分の神、主によって奮い立った。

7,ダビデは、アヒメレクの子、祭司エブヤタルに言った。「エポデを持って来なさい。」エブヤタルはエポデをダビデのところに持って来た。

8,ダビデは主に伺った。「あの略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」すると、お答えになった。「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」



世界が消え去った時でも神様の言葉は決してなくなることがありません。ダビデは全てを失い、最後に今、殺されかかっています。それでもダビデは神様の言葉を求めました。どんな絶望の中でも神様の言葉がなくなることはありません。ダビデは神様の言葉を聞き、それを信じて行動を始めました。



(8節から10節)

8,ダビデは主に伺った。「あの略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」すると、お答えになった。「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」

9,ダビデは六百人の部下とともに出て行き、ベソル川まで来た。残ることになった者は、そこにとどまった。

10,ダビデと四百人の者は追撃を続け、疲れきってベソル川を渡れなかった二百人の者が、そこにとどまった。



神様は無から有を作った方です。暗闇から光を作った方です。死から命を生み出すことができる方です。神様の言葉は単なる音声や文字ではなく、出来事となります。必ず実現することがです。

神様の言葉の通りにダビデは行動しました。

既に力はありません。それでも信頼すべきは自分の力ではなく、神様の言葉でした。200人は疲労のため川を渡ることができず、残る400人だけで追撃を続けました。その結果、神様のみことば通りになります。敵がお祭り騒ぎをしている場所に神様が導いてくださり、神様が「必ず救い出すことができる」(8)とおっしゃった通りになりました。



(10節から19節)

11,兵たちは野で一人のエジプト人を見つけ、ダビデのところに連れて来た。彼らは彼にパンをやって、食べさせ、水も飲ませた。

12,さらに、ひとかたまりの干しいちじくと、二房の干しぶどうをやると、そのエジプト人はそれを食べて元気を回復した。彼は三日三晩、パンも食べず、水も飲んでいなかったのである。

13,ダビデは彼に言った。「おまえはだれのものか。どこから来たのか。」すると答えた。「私はエジプトの若者で、アマレク人の奴隷です。私が三日前に病気になったので、主人は私を置き去りにしたのです。

14,私たちは、クレタ人のネゲブと、ユダに属する地と、カレブのネゲブを襲い、ツィクラグを火で焼き払いました。」

15,ダビデは彼に言った。「その略奪隊のところに案内できるか。」彼は言った。「私を殺さず、主人の手に私を渡さないと、神にかけて私に誓ってください。そうすれば、あの略奪隊のところに案内いたします。」

16,彼はダビデを案内して行った。すると、なんと、アマレク人たちはその地いっぱいに散って食べたり飲んだりし、お祭り騒ぎをしていた。彼らがペリシテ人の地やユダの地から奪った分捕り物が、とても多かったからである。

17,ダビデは、その夕暮れから次の夕方まで彼らを討った。らくだに乗って逃げた四百人の若者たちのほかは、一人も逃れることができなかった。

18,ダビデは、アマレクが奪い取ったものをすべて取り戻した。ダビデは、二人の妻も救い出した。

19,子どもも大人も、息子たちも娘たちも、分捕られた物も、彼らが奪われたものは、何一つ失われなかった。ダビデは、これらすべてを取り返した。



僕らが何かを失う時こそ、神様の言葉を求める時です。人とうまくいかなくなる時、財産を失い、健康を失い、死に直面する時こそ、必ず実現する神様の御言葉を求める時です。神様の御言葉は決してなくなることがありません。必ず実現する言葉です。今日も状況を見て一喜一憂するのでなく、神様の言葉を求め、従いましょう。必ずみことばのようになります。大丈夫です。ハレルヤ!



2024年7月18日木曜日

1サムエル26章

 1サムエル26章

2024年7月17日水曜日

1サムエル25.23-44

 1サムエル25.23-44


僕らは敵を自分の手でやっつけたいものです。敵を赦し忍耐することとは真逆です。(マタイ5.38-39)高ぶりや復讐心は僕らの中にありますが、怒りにまかせて仕返ししても何もいいことがありません。怒っている時こそ気をつけて赦しの祈りをし忍耐するのが正解です。復讐は神様の座を奪う高ぶりです。復讐は神様だけのものです。



(ローマ12.18-19)

あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」



ダビデをののしったナバルに対して、ダビデは怒りに燃えて復讐しようとしました。その時、ナバルの妻アビガイルはひれ伏して赦しを願います。夫の罪をまるで自分のことのように謝ります。「ご主人様、あの責めは私にあります。」(24)「どうか、はしための背きをお赦しください。」(28)そして、ダビデに復讐を神様にお任せするように懇願しました。理由は、復讐することが罪となり、後でダビデ自身を責めることになるからです。



(23節から26節)

23,アビガイルはダビデを見ると、急いでろばから降り、ダビデの前で顔を伏せて地面にひれ伏した。

24,彼女はダビデの足もとにひれ伏して言った。「ご主人様、あの責めは私にあります。どうか、はしためが、じかに申し上げることをお許しください。このはしためのことばをお聞きください。

25,ご主人様、どうか、あのよこしまな者、ナバルのことなど気にかけないでください。あの者は名のとおりの男ですから。彼の名はナバルで、そのとおりの愚か者です。はしための私は、ご主人様がお遣わしになった若者たちに会ってはおりません。

26,ご主人様。今、主は生きておられます。あなたのたましいも生きておられます。主は、あなたが血を流しに行かれるのを止め、ご自分の手で復讐なさることを止められました。あなたの敵、ご主人様に対して害を加えようとする者どもが、ナバルのようになりますように。



ダビデが復讐する罪を犯すことがないようにアビガイルは願います。ダビデが王様になった時に、過去に復讐したことが罪として残ることがないようにです。



(30節から31節)

30,主が、ご主人様について約束なさったすべての良いことをあなたに成し遂げ、あなたをイスラエルの君主に任じられたとき、

31,理由もなく血を流したり、ご主人様自身で復讐したりされたことが、つまずきとなり、ご主人様の心の妨げとなりませんように。主がご主人様を栄えさせてくださったら、このはしためを思い出してください。」



僕らも将来イエス様と一緒に栄光を受けることになっています。その時僕らは「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないもの」になることを神様が願ってくださってます。(エペソ5.27)僕らのは仕返しし相手を傷つけその尊厳を失わせたりすることは僕らの側のシミ、シワ、傷です。むしろ忍耐して赦し、神様の正しい裁きに委ねることが僕らが聖なるものとなる方法です。ダビデはアビガイルが必死で復讐を止めてくれたことを感謝しました。



(33節から35節)

32,ダビデはアビガイルに言った。「イスラエルの神、主がほめたたえられますように。主は今日、あなたを送り、私に会わせてくださった。

33,あなたの判断がほめたたえられるように。また、あなたが、ほめたたえられるように。あなたは今日、私が人の血を流しに行き、私自身の手で復讐しようとするのをやめさせた。

34,イスラエルの神、主は生きておられる。主は私を引き止めて、あなたに害を加えさせなかった。もし、あなたが急いで私に会いに来なかったなら、きっと、明け方までにナバルには小童が一人も残らなかっただろう。」

35,ダビデはアビガイルの手から、彼女が持って来た物を受け取り、彼女に言った。「安心して、家へ上って行きなさい。見なさい。私はあなたの言うことを聞き、あなたの願いを受け入れた。」



復讐することは高ぶりであり汚点にしかなりません。(31)今日、もう一度イエス様と一緒に敵を赦す祈りをしましょう。すでに仕返しし傷つけてしまったらもう一度誠実に謝りましょう。今、怒って復讐しようとしている友達がいたら祈りましょう。止めましょう。そんなことをしても何もいいことがありません。「そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。どうして、むしろ不正な行いを甘んじて受けないのですか。どうして、むしろ、だまし取られるままでいないのですか。(コリント人への手紙 第一6章7節)


神様が正しい裁きをなさいます。「十日ほどたって、主はナバルを打たれ、彼は死んだ。」とあります。(38)復讐は神様のものです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」とおっしゃる神様に任せましょう。神様こそ正しい判断をなさいます。ハレルヤ!

2024年7月16日火曜日

1サムエル25.1-20

 1サムエル25.1-20


僕らのものは全部神様からの預かりものです。僕らの時間は神様の時間です。僕らのお金は神様のお金です。僕らの力は神様の力です。「私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません」(テモテへの手紙 第一 6章7~9節)

そして聖書は、それらを互いに分け合うように何度も教えています。



(申命記 15章7~8節)

あなたの同胞の一人が貧しい者であるとき、その貧しい同胞に対してあなたの心を頑なにしてはならない。また手を閉ざしてはならない。必ずあなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。



ダビデの時代、羊の毛を刈る作業は大規模なイベントでした。家族や村の人々が集まって共同で作業を行い、その後に盛大な宴会が開かれることが一般的でした。近隣の村や遠方からも人々が集まり、一緒に祝う大きな行事でした。

ダビデのしもべの羊飼いとその地域の有力者だったナバルの羊飼いは交流があり、一緒に牧畜をしたこともある仲間でした。ナバルの羊飼いたちはダビデの羊飼いたちに好意を持ちほめています。



(15-16)

15,あの人たちは私たちにとても良くしてくれたのです。私たちは恥をかかされたこともなく、野で一緒にいて行動をともにしていた間、何も失いませんでした。

16,一緒に羊を飼っている間は、夜も昼も、彼らは私たちのために防壁となってくれました。



ナバルの家が羊の毛を刈ることを聞いたダビデは、しもべを送ってそのイベントに参加させて欲しい、少し何か分けて欲しいと頼みます。牧畜仲間としては自然なことでした。ところが聖書はナバルを「頑迷で行状が悪かった。」と言います。(3)



(2-9節)

2,マオンに一人の人がいた。カルメルで事業をしていて、非常に裕福で、羊三千匹、やぎ千匹を持っていた。彼はカルメルで羊の毛の刈り取りをしていた。

3,この人の名はナバルといい、妻の名はアビガイルといった。この女は賢明で姿が美しかったが、夫は頑迷で行状が悪かった。彼はカレブ人であった。

4,ダビデは、ナバルがその羊の毛を刈っていることを荒野で聞いた。

5,ダビデは十人の若者を遣わし、その若者たちに言った。「カルメルへ上って行ってナバルのところに着いたら、私の名で彼に安否を尋ね、

6,わが同胞に、こう言いなさい。『あなたに平安がありますように。あなたの家に平安がありますように。また、あなたのすべてのものに平安がありますように。

7,今、羊の毛を刈る者たちが、あなたのところにいるのを聞きました。あなたの羊飼いたちは、私たちと一緒にいましたが、彼らに恥をかかせたことはありませんでした。彼らがカルメルにいる間中、何かが失われることもありませんでした。

8,あなたの若者たちに尋ねてみてください。彼らはそう報告するでしょう。ですから、私の若者たちに親切にしてやってください。祝いの日に来たのですから。どうか、しもべたちと、あなたの子ダビデに、何かあなたの手もとにある物を与えてください。』」

9,ダビデの若者たちは行って、言われたとおりのことをダビデの名によってナバルに告げ、答えを待った。



ナバルは激しくダビデをののしり、何も持たせないで家来たちを追い返します。



(10節から12節)

10,ナバルはダビデの家来たちに答えて言った。「ダビデとは何者だ。エッサイの子とは何者だ。このごろは、主人のところから脱走する家来が多くなっている。

11,私のパンと水、それに羊の毛を刈り取る者たちのために屠った肉を取って、どこから来たかも分からない者どもに、くれてやらなければならないのか。」

12,ダビデの若者たちは、もと来た道を引き返し、戻って来て、これら一部始終をダビデに報告した。



ダビデは怒り、ナバルを攻撃しようとしますが、それを聞いたナバルの奥さんアビガイルは慌ててダビデに贈り物を用意します。



(18-19)

18,アビガイルは急いでパン二百個、ぶどう酒の皮袋二つ、料理した羊五匹、炒り麦五セア、干しぶどう百房、干しいちじく二百個を取って、これをろばに載せ、

19,自分の若者たちに言った。「私の先を進みなさい。あなたがたについて行くから。」ただ、彼女は夫ナバルには何も告げなかった。



僕らのものは全部神様からの預かりものです。時間もお金も力も神様のものです。自分のものではありません。「今あなたがたのゆとりが彼らの不足を補うことは、いずれ彼らのゆとりがあなたがたの不足を補うことになり、そのようにして平等になるのです。」(コリント人への手紙 第二 8章14節)「求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。」(マタイの福音書 5章42節)ガンコになってダビデに何も分けなかったナバルはこのあと神様に打たれて死にます。(38)


ガンコに握りしめているものはあるでしょうか。全部神様のもの、そして、人々のものです。僕らの財布は他人の財布です。僕らの能力は他人の能力です。福音のメッセージはみんなのものです。他人に分けても減りません。反対に神様のために使う人は「あなたにたくさんの物を任せよう。」と言われます。(マタイ25.23)僕らのものは全部神様からの預かりものです。神様のものを誠実に周りの人たちに与えることができますように。