1サムエル31章
淀川キリスト教病院の柏木先生が次のように書いています。
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看取りという仕事を通して学んだ最も大きいことは「人は生きてきたように死んでいく」ということである。しっかりと生きてきた人はしっかりと死んでいく。周りに感謝して生きてきた人は家族やわれわれスタッフに感謝しながら死んでいく。不平を言いながら生きてきた人は不平を言いながら死んでいく。生き様が死に様に反映するのである。「良き死」を死すためには、「良き生」を生きねばならないと思う。
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サウル王の死に方はまさに彼の生き方を反映していました。彼は神様よりも自分のプライドやメンツを優先した人です。そして死に様もまた神様より自分のプライドでした。
(1節から6節)
1,さて、ペリシテ人はイスラエルと戦った。イスラエルの人々はペリシテ人の前から逃げ、ギルボア山で刺されて倒れた。
2,ペリシテ人はサウルとその息子たちに追い迫って、サウルの息子ヨナタン、アビナダブ、マルキ・シュアを打ち殺した。
3,攻撃はサウルに集中し、射手たちが彼を狙い撃ちにしたので、彼は射手たちのゆえにひどい傷を負った。
4,サウルは道具持ちに言った。「おまえの剣を抜いて、私を刺し殺してくれ。さもないと、あの無割礼の者たちがやって来て、私を刺し殺し、私をなぶりものにするだろう。」しかし、道具持ちは非常に恐れて、とうていその気になれなかった。それでサウルは剣を取り、その上に倒れ込んだ。
5,道具持ちは、サウルが死んだのを見ると、自分も剣の上に身を伏せて、サウルとともに死んだ。
6,こうしてその日、サウルと三人の息子、道具持ち、それに彼の部下たちはみな、ともに死んだ。
敵から屈辱的なことをされるぐらいなら、道具持ちの剣か自分の剣で死んだ方がマシと言うのが彼の生き方であり、死に方でした。苦しみや悲しみに直面した時の反応は以下の二つに分かれます。①自分の考えを捨てて、神様を求める。②自分の生き方や考え方を手放さず、神様のところには戻らない。
①のように自分の罪を捨てる結果は命であり祝福です。たとえ地上の命が終わっても永遠に神様と一緒にいる祝福は変わりません。②の結果は永遠に神様と離れる死です。サウルは悔い改めることも神様を求めることもなく死んでいきました。それが彼の生き方でした。生前、サムエルから罪を指摘されても彼が求めたことはメンツです。「どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私を立ててください。」と言っています。(サムエル記 第一15章30節)サウルは神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛した人生でした。そして、そのように死んでいきました。(ヨハネの福音書12章43節)
「人は生きてきたように死んでいく」と言われている通り、人からの栄誉を愛して神様からのいのちと祝福を失うなら虚しいものです。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の益があるでしょうか。」(ルカの福音書 9章25節)
この世の栄誉は手放して、神様に戻りましょう。たとえ死んでも、神様と共にいるなら何も不足はありません。「実はそのほうが、はるかにまさっています。」(ピリピ1.23)この方と一緒なら大丈夫です。ハレルヤ!
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