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2024年12月20日金曜日

ミカ7章

 ミカ7章


僕らは他人を見てはがっかりし、自分を見てはがっかりします。これは預言者ミカも同じです。周りの人たちが腐っていくのを見て嘆きます。でも、この嘆きは通過点です。これで終わりではありません。



(ミカ書 7章2~4節)

"敬虔な者はこの地から消え失せ、人々の間に、心の直ぐな者は一人もいない。みな血を流そうと待ち伏せし、互いに網をかけ合って捕らえようとする。

彼らの手は悪事を働くのに巧みで、役人もさばき人も賄賂を求める。有力者は自分の欲するままを語り、こうして事をねじ曲げている。

彼らのうちの善良な人も茨のようだ。心の直ぐな者も茨の生け垣に劣る。あなたを見張る者の日、あなたの刑罰の日が来る。今、彼らに混乱が起きる。"



ミカは周りにガッカリするだけでなく、自分のことも「私が主の前に罪ある者」と言っています。(9)苦しみがあるのは神様の怒りを受けているからだと言います。(9)それでも回復があります。ヒドいことが起こるのは通過点です。その先には希望があります。



(7-8節)

しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の言うことを聞いてくださる。

私の敵よ、私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がる。私は闇の中に座しても、主が私の光だ。



神様は救いの神様です。イエス様が全ての罪を引き受けて十字架で身代わりに殺され、殺されただけでなく復活し、信じる僕らを無罪と宣言し、新しい命を与えてくれています。イエス様は光です。信じる人はイエス様の光に連れていかれ、無罪宣言を受けて新しく歩み始めます。



(ミカ書 7章8~9節)

"私の敵よ、私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がる。私は闇の中に座しても、主が私の光だ。

私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主の前に罪ある者だからだ。しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出してくださる。私は、その義を見る。"



悪魔は僕らを闇に閉じ込めたいようです。僕らが落ち込むのを喜び、ささやきます。「ひどい罪を犯したな。こんなんじゃ神様に顔向けできないだろ?もうキリストから離れちゃえよ。」このささやきに耳を傾ける必要はありません。自分の罪がわかるほどに、「それでも神さまってこんなに恵み深いんだ」とわかります。「罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。」(ローマ人への手紙 5章20節)だからミカは敵に言い返します。「私の敵よ、私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がる。私は闇の中に座しても、主が私の光だ。」と(8)



罪が増えるほどに、イエス様の赦しも増えます。自分の罪深さを知ってがっかりしつつも、もう一度「そんな私を愛し赦し取り戻しててくれる神様」に目を向けるのが大切です。そこには感謝と賛美しかありません。ミカは感動して次のように言います。



(ミカ書 7章18~20節)

"あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは咎を除き、ご自分のゆずりである残りの者のために、背きを見過ごしてくださる神。いつまでも怒り続けることはありません。神は、恵みを喜ばれるからです。もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ込んでください。昔、私たちの父祖たちに誓われたように、ヤコブにまことを、アブラハムに恵みをお与えください。"



これが福音です。イエス様が光です。私たちの救いは、この方以外にありません。落ち込み続ける必要はありません。「背きを見過ごしてくださる神。いつまでも怒り続けることはありません。神は、恵みを喜ばれるからです。」イエス様に感謝あるのみです。落ち込みます。でも回復があります。闇があります。でも光が来ています。神様は「恵みを喜ばれる」神様です。(18)感謝しましょう。ハレルヤ!




2024年12月18日水曜日

ミカ6.6-16

 ミカ6.6-16


夫婦関係でも友人関係でも、「これだけやってあげたのに!」ってイライラしちゃう時があります。実はこれ、相手のためというよりも自分の手柄、自分の良さ、自分の犠牲、自分の労力などが中心でかつ、相手から見返りを求めている態度です。そこには喜びも愛も感謝もありません。自分を上に置いて思い通りにしようと思う限り、疲れと不満はいつも付きまといます。

神様との関係も同じです。「こんなに奉仕したのに」「こんなに献金したのに」と思う人は基本的に自分が上です。神様に対し「思い通りに動いてくれない」と下に見るようです。

神様は僕らがコントロールする方ではありません。僕らがお手伝いしたりお金をあげないと困る神様でもありません。全く正反対です。神様が全てを作り支配し、僕らに良いものを与えてくださっています。神様もまた僕らをロボットにして利用しようとは願っておられません。神様の願いは「ともに歩むこと」です。神様に愛され、神様を愛し、信頼し、敬い、尊敬して歩むことです。



(6-8節)

6,何をもって、私は主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のささげ物、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。

7,主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の背きのために、私の長子を、私のたましいの罪のために、胎の実を献げるべきだろうか。

8,主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。



「へりくだって神と共に歩む」のは、ただ自分を卑下することではありません。神様の前で自分を隠さず、欠点も認めつつ、それでも愛してくださる神様に感謝し敬って歩むことです。いつも神様を重んじ、第一に考えて歩むことです。そして聖書は「あなたの御名を恐れることは英知だ」(9)といいます。


神様を恐れるのことは、ビクビクして自分を押さえ込むことではありません。神様の愛と正義、偉大さをちゃんと理解して、それを尊重することです。神様の無限の知恵と力を知り続け、圧倒され、平伏して従うことです。いつも「神様すごいなー!」って誇り感謝して歩むことです。神様を知れば知るほど、「こんなすごい方を裏切りたくない」「もっと知りたい」「従いたい!」と思うようになります。これが「あなたの御名を恐れることは英知だ」という人生です。

神様を恐れると、心も行動も聖くありたい、と願います。他の人たちに対しても誠実でありたいと思うのとセットです。逆に、もしも神様を恐れないなら他人も見下し、利用し、搾取しようとします。その実例が書かれています。



(10-15)

10,まだ、悪しき者の家には、不正の財宝と、のろわれた升目不足の升があるではないか。

11,不正な秤と、欺きの重り石の袋を、誤りなしとすることが、わたしにできるだろうか。

12,富む者たちは不法で満ち、住民は偽りを言う。彼らの口の中で舌が欺く。

13,わたしも、あなたを打って痛めつけ、あなたの罪のゆえに荒れ果てるままにする。

14,あなたは食べても満ち足りず、あなたの腹は飢える。取っておいても保つことはできず、保っていたものは、わたしが剣に渡す。

15,種を蒔いても、刈ることがなく、オリーブを搾っても、油を身に塗ることがない。新しいぶどう酒も、それを飲むことがない。



いつも、どんな時も神様を重んじ、愛して一緒に歩むことが「主を恐れる」ことです。今日も神様を重んじましょう。神様の愛と知恵と力は無限です。この神様に信頼し、聞いて、従いましょう。誇るべきは神様だけです。神様は今日も一緒に歩みたいと願ってくださっています。ハレルヤ!





2024年12月17日火曜日

ミカ5.7-15

 ミカ5.7-15


僕らはいつも人や技術やお金に依存しがちです。ですが、本来頼るべきは神様だけです。この世の終わりには苦しみを通りますが、その苦しみから救い出される人たちのことを聖書は「残りの者」と言います。その人たちの特徴は「人に頼らない」「人の力に期待しない」ことです。すべての望みを神様だけに置いている人です。



(ミカ書 5章7節)

"そのとき、ヤコブの残りの者は、多くの国々の民のただ中で、主のもとから降りる露、青草に降り注ぐ夕立のようだ。彼らは人に望みを置かず、人の子らに期待をかけない。"



神様にだけ期待する人たちは、まるで神様から愛され潤われる露、作物を実らせる夕立のようです。イスラエルでは水が超貴重です。水は神様からの恵と愛です。露も夕立も人が作ったものではありません。神様によって人は回復し命を吹き返します。反対に、人の方法や作戦は消えていきます。神様がそうおっしゃいます



(ミカ書 5章10~12節)

"「その日──主のことば──わたしはあなたのただ中から、あなたの馬を滅ぼし、戦車を打ち壊し、

あなたの国の町々を絶ち滅ぼし、要塞をみな破壊する。

わたしはあなたの手から呪術者を断ち、占い師をあなたのところから絶やす。"



人は不安だから、武器を持ちたいと思います。でも、神様はそれらを壊してしまいます。当時、馬や戦車は超重要でした。それによって国の安全が決まりました。今もそうかもしれません。でも、神様は「それに頼るな」とおっしゃいます。現代なら武力や経済力、SNSの発信力やAIの技術力かもしれません。僕らは不安だから力を持ちたがり、それに頼りがちです。でも、神様への感謝や信頼のない技術は無価値です。それらを滅ぼすとおっしゃいます。


そしてまた、人間は不安だから、霊的なものを求めます。占いとか、予言とか、とにかく「将来のこと知りたい…」と思います。でも神様はそれを滅ぼしてしまいます。「わたしはあなたの手から呪術者を断ち、占い師をあなたのところから絶やす。」(12)


また、人間は不安だから宗教を作ります。これを拝めば幸せになれる教えを作ります。でも神様は人が作った宗教を滅ぼされます。



(ミカ書 5章13~15節)

"わたしは、あなたのただ中から、刻んだ像と石の柱を断ち切る。あなたはもう、自分の手で造った物を拝まない。

わたしは、あなたのアシェラ像をあなたのただ中から根こそぎにし、あなたの町々を滅ぼし尽くす。

わたしは怒りと憤りをもって、わたしに聞き従わなかった国々に復讐する。」"



人間は不安と不満を解消するために快楽にも依存しやすいようです。

当時の「アシェラ像」は豊穣と性の神様でした。現代でいうなら、ポルノとか快楽の神様です。人間は肉体的なものや一時的な満足で自分を埋めようとしがちだけど、神様はこれも取り除くとおっしゃいます。


神様が救ってくださる人たちは、お金とか力とか宗教とか快楽ではなく、ただ神様だけに期待をし、神様の言葉に望みを置く人です。信じる人には聖霊が与えられています。御霊の実は愛と平安と喜びです。そこには満足と安心と感謝があります。


まるで露が作物を育てるように、夕立が作物を実らせるように、神様の言葉は僕らを生き返らせます。そしてその言葉を聞いた僕らは他の人を潤し生かすことができます。神様が救し回復させる人たちとは、人間的ものに頼ったり期待したりせずに、ただ愛と恵みの神様に期待し、聞き従い、潤される人たちです。


いつも人や何かに依存しがちです。僕らが頼るべきは神様だけです。求めましょう。必ず御霊は与えられます。イエス様は「平安を与えます」と約束してくださっています。イエス様が言われたことはそうなります。だから大丈夫です。神様をそのことばを求めましょう。その愛と平安を求めましょう。この世界が消えても、神様は決して僕らを見放すことも見捨てることもしません。「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40.8)いつまでも残るものは神様への信仰、神様の愛、神様が与えてくださる希望です。ハレルヤ!



ミカ3章から4章

 ミカ3章から4章


いつも人間は堕落しがちです。神様のことばを伝える人たちも例外ではありません。牧師も宣教師たちも同じです。3つのGに気をつけろ、とよく言われます。Gold(お金)Glory(自分の栄光)Girl(女性、異性)です。これらに引きずられておかしくなる人が多いからです。


この時代、預言者たちは神様のためではなくて、自分の栄光やお金や欲のために好き勝手なことを語るようになってしまいました。



(ミカ書 3章5節)

"預言者たちについて、主はこう言われる。「彼らはわたしの民を惑わし、かむ物が歯にあれば『平和があるように』と叫ぶが、口に何も与えない者には聖戦を布告する。」"



また、当時の祭司たちもです。祈ったり教えたりする大切な役目が与えられていたのに、それでも彼らはお金によって教えを変え、堕落します。



(ミカ書 3章11節)

"そのかしらたちは賄賂を取ってさばき、祭司たちは代金を取って教え、預言者たちは金を取って占いをする。しかもなお、彼らは主を当てにして、「主は私たちの中におられるではないか。わざわいは私たちの上に及ばない」と言う。"



神様のことばを教える人が堕落すると、それを聞いた人たちもおかしくなります。エルサレムは本来、神様を礼拝する人たちが集められる大事な場所でした。でも、そこは偽りの教えによって堕落し、神様の怒りの対象となり、外国(バビロン)に占領され、瓦礫の山となります。



(ミカ書 3章12節)

"それゆえ、あなたがたゆえにシオンは畑のように耕され、エルサレムは瓦礫の山となり、神殿の山は木々におおわれた丘となる。"



今も敵である悪魔は指導者を誘惑します。彼らがおかしくなれば全体がおかしくなるからです。僕らは祈る必要があります。教会の指導者が誠実であるように、神様の言葉に足したり引いたりしないでそのまま伝えるようにです。彼らがお金や欲に引きずられておかしなことを教えるなら、教会全体が崩れていきます。この世の終わりが近づくと、「にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。」とイエス様も警告しています。(マタイ24.11)


でも、その先に希望があります。

どんなにこの世界が崩れてもイエス様はもう一度この地上に来られます。どんなにボロボロにされても、そこから再び完璧に作り直す力を持っておられます。イエス・キリストがもう一度この地に戻ってくる場所はエルサレムです。



(ミカ書 4章1~3節)

"その終わりの日、主の家の山は、山々のかしらとして堅く立ち、もろもろの丘よりも高くそびえ立つ。そこへもろもろの民が流れて来る。

多くの国々が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。」それは、シオンからみおしえが、エルサレムから主のことばが出るからだ。



「西洋ならキリスト教」「中東ならイスラム教」「日本なら神道や仏教」「それぞれでいいんじゃない?」という多元主義を聖書はキッパリ否定しています。全人類すべてがイエス様を求め、従う日が来ます。聖書は「天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていない」と言います。(使徒4.12)


その時にはなんと、顔と顔を合わせて、直接その教えを聞くことができます。イエス様がリアルに唯一の支配者となります。(今もそうだけど。)世界中の人々がエルサレムに来たがります。そこで直接会えるし聞けるからです。まるで、僕らが「次の旅行はどこ行こう」「美味しいもの食べたい」と言うように、その日が来るとすべての人がワクワクしながら「ああ早くイエス様のことばを聞きたい!行こうよ!」と言う時代になります。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。」です。(2)そしてそのことばに聞き従った結果、世界は完全に平和になります。



(3)

主は多くの民族の間をさばき、遠く離れた強い国々に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。"



その日には平和と正義が世界中に行き渡ります。平和で安全なので、軍隊は不要です。軍事費がいらないから、全部農業予算に回す時代が来ます。個人的にも安全安心なのでカギもセコムもいらなくなるようです。この世界の歪み、悪悲惨な事は一掃され、苦しんでいる人たちは癒されます。




(ミカ書 4章6~8節)

"「その日──主のことば──わたしは足を引きずる者を集め、追いやられた者、また、わたしが苦しめた者を呼び集める。

わたしは足を引きずる者を、残りの者とし、遠くへ移された者を、強い国民とする。主であるわたしが、シオンの山で、今よりとこしえまで、彼らの王となる。

あなたは、羊の群れのやぐら、娘シオンの丘。あなたには、あのかつての主権、娘エルサレムの王国が戻って来る。」"


神様が弱い人、追いやられた人、そして傷だらけでどうしようもなくなった人たちを集めてくださいます。「私なんて…」って思う人は今も多いけど、神様の目にはその人こそ価値があります。聖書は 「足をひきずる者を集め」と言います。つまり弱さがあからさまな人を、ちゃんと引き寄せて癒してださいます。これが本当の平和です。イエス様はおっしゃいました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイ5.3)「私なんて…」と思っている人たちが集められ、神様の王国のメンバーにされます。悲しむ人は慰められます。人生の底辺だと思っていても、神様が最高の王国に参加させてくださいます。反対に、高ぶる人は不幸です。自分を高くし、威張り、王様のように振る舞う人は不幸です。



今は世界中がおかしくなっているかもしれません。神様のために働く人でさえも、お金とか欲で狂っていく時代かもしれません。もう一度イエス様が来られます。その時に全てが正しく裁かれ世界は回復します。忍耐とは希望です。希望とはイエス様が来られることを信じて待ち望むことです。すべての人が喜んでイエス様の言葉を求める日が来ます。そして、僕らはさきがけのようにそのメンバーにされた人です。先に神様のことばを求める特権が与えられています。「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。」(詩篇19.7-8)この祝福の未来を僕らは世界中に伝える役目があります。今はその時期です。神様の言葉を求めましょう。聞きましょう。そして、伝えましょう。神様のことばは僕らを回復させ、祝福してくださいます。ハレルヤ!

2024年12月13日金曜日

偶像と淫らな性行為 ミカ1.7より

 偶像と淫らな性行為 ミカ1.7より


アイドルって日本語ではスターとかキラキラした憧れの存在のイメージだけど、英語のアイドルは「偶像」です。女性アイドルには男性ファンが燃え上がり、男性アイドルには女性が盛り上がります。

アイドルにささげて幸福感を得ることは、もともと、僕らが神様が意図された幸せと関係があります。本来は神様を愛し愛される具体的なカタチとして結婚相手が与えられ、相手に夢中になり、互いに自分をささげることで幸せになるように造られました。もともと僕らは神様とラブラブです。憧れのアイドル?は神様です。この愛の関係に似せて、夫婦が愛しあって一体となるように造られています。(創世記1章27節、エペソ5章31節から32節)


この愛を捨てて偶像を愛していくと、人間同士の関係も乱れてきます。両者は連動しているからです。特に結婚関係が崩れます。偶像礼拝と淫らな性行為はいつもセットです。ミカ1.7では神様が偶像に対して怒りを示す時、それは性的な罪への裁きもセットです。


(ミカ書 1章7節)

"その刻んだ像はすべて打ち砕かれ、儲けはみな火で焼かれる。わたしはその偶像をすべて荒れすたらせる。それらは遊女の儲けで集められたのだから、遊女の儲けに戻る。」"


偶像礼拝をすると、性欲の獣になっていくことは他の聖書箇所にも出てきます。獣化した性行為は相手への愛や尊敬はなく、逆に相手の尊厳も愛もお金も搾取し人格を辱めるものです。


(ローマ人への手紙 1章23~24節)

"朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。

そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。そのため、彼らは互いに自分たちのからだを辱めています。"


神様との愛の関係が崩れると男女間の信頼や敬意も崩れます。人間の歴史を振り返ると、偶像礼拝と淫らな性行為が結びつくことがよくあるようで、日本でも大きな神社や仏閣の周りには遊郭が集まっているそうです。聖書もこの二つがセットで語られることが多く、イスラエルの民が偶像を拝むときには性的な儀式も伴いました。それによって妊娠し生まれた子どもはさらに火の中にささげるという残酷さです。



(エレミヤ7章31-32節)

また自分の息子、娘を火で焼くために、ベン・ヒノムの谷にあるトフェトに高き所を築いたが、これは、わたしが命じたこともなく、思いつきもしなかったことだ。(…中略…)ただ虐殺の谷と呼ばれる。人々はトフェトに、隙間がないほどに葬る。



ミカ1章7節によると偶像は「遊女の儲けで集められた」とあります。売春で儲けたお金を偶像にささげる、という悪循環があったようです。今もホスト(偶像)に貢ぐために売春をする女性は多いそうです。偶像礼拝は、生活全体がおかしくなり人間関係や愛のあり方まで狂っていくことを教えています。心と体は深くつながっています。神様をどう思っているか、その心は体の使い方に表れます。心と体は繋がっています。イエス様は心にあることが「内側から出て、人を汚すのです。」とおっしゃいます。(マルコ7.23)パウロは「からだは淫らな行いのためではなく、主のためにあり、主はからだのためにおられるのです。」と言います。(1コリント6.13)


聖書は壊れてしまった人を非難するだけじゃなく、むしろ、憐れみと救いと癒しと回復を示しくれています。イエス様は売春婦だった女性を優しく受け入れて、悔い改めに導き、「あなたの罪は赦されています」とおっしゃいます。彼女は溢れる感謝を持ってイエス様にお仕えしました。(ルカ7章36節以降)ここには神様の赦しの力と、福音による回復の希望があります。だから、売春自体は神の意図に反するけど、その背景にある苦しみや貧しさに対する憐れみを持ちながら、神様が用意してくれている回復への道に目を向けることが大事です。


偶像礼拝を認め、罪を認め、方向を変えると必ず聖霊は与えられます。聖霊によらなければ神様との愛の関係はできません。聖霊に満たされると体も整えられて、愛や敬意を持った幸せな男女の関係が生まれます。夫がキリストのように犠牲的に妻を愛し、妻はその愛に応えて尊敬し従う、この神様のデザインはイエス様によって回復します。夫婦関係を始めとする全ての人間関係は神様を愛し、神様にささげ、その愛に夢中になることから始まります。


偶像礼拝と淫らな性行為はセットです。でも、回復と希望があります。大丈夫です。信じましょう。ハレルヤ!