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2023年1月18日水曜日

1ペテロ1.1-9

 イエス様は人から罵られ、嫌われ、殺された方です。ところが、復活して天で全ての力と栄光と賞賛を受けている方です。…という話を、見てもないのに信じているなんて奇跡ですしかも僕らは信じるだけでなく、すごく喜んでいます。これは神様の救いが妄想でなく現実であることの証拠です


(8-9節)

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです


苦しみを受けて殺され、しかし復活して栄光を持っておられるイエス様を信じる人は選ばれた人です僕らはイエス様に従って同じように苦しみも受けますが、もっと大きな栄光もいただきます。僕らが選ばれたのは、苦しみの中でも希望を持つためです僕らが受ける将来の資産は莫大です


(2-4節)

父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ。恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。

また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。


苦しみはあります。でも、その中でも将来の栄光の希望を信じることはどんなお金よりも価値があります。そしてそれは実際に与えられるものです


(5-7節)

あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです

そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、

試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。


僕らはイエス様とつながりました。苦しんで、殺されて、復活して栄光を持っておられるイエス様と繋がりました。だから苦しみの先にはすごい栄光が待っています。イエス様がお手本ですイエス様のための苦しみは将来喜びと踊りに変わるほどに価値があることです


1ペテロ 4:12-13

愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです


苦しみを疑ったり、怪しんだり、避けたりしないで、喜びましょう。天の報いは僕らが想像する以上に大きく、忍耐は喜ばれています。ハレルヤ!


(ルカ 6:22-23)

人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いですその日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいからです

1ペテロ1.13-25

 タネが新しい芽を出し、新しい命を生み出すように、神様の言葉は新しい命を生み出します。神様は言葉だけで世界を造り、今も言葉だけで支え動かしておられる方です神様の言葉は滅びることのない命のタネです


(23-25節)

あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです

「人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。

しかし、主のことばは永遠に立つ」とあるからです。これが、あなたがたに福音として宣べ伝えられたことばです


人間がどんなに栄光や賞賛や力を手に入れても、花が散るように、草がしおれるように過去の人になって行きます。ところが、神様の言葉だけは違います。世界がどんなに変化しても、世界が滅んでも神様の言葉は滅びることがありません。


30年前にパソコンのプログラミングが凄くて最先端、ともてはやされた人も、その技術は過去のもので今では通用しない、ということがよくあります。人間の間の賞賛や力はほんのひと時ですまるで花が散るように美しいことには賞味期限があります。

ところが、神様の言葉は何千年も最先端です歴史がどんなに変わっても神様の言葉は通用し続け、人を変え続け、歴史に影響を与え続けてきました。それは、しおれたり朽ちたりするものでなく、永遠に生きておられる神様の言葉だからです聖書の言葉を食べるようにそれを自分に吸収する人は内側から新しくなります。


僕らは人を愛せないし、許せない人間です。だのに、神様の言葉を聞き、信じ、受け入れる人は内側から変えられ、仲間を愛したい、と変えられます。さらに敵さえも愛したい、と変わります。これは神様の力ですイエス様が敵だった僕らを愛し十字架で苦しんで赦してくださったという言葉は僕らを内側から新しくし、心から、演技ではない愛が生まれてきます。神様の言葉はタネのように僕らに新しい命を与え続けます。


(22節)

あなたがたは真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、きよい心で互いに熱く愛し合いなさい。


良い本はたくさんあるし、役に立つ知識もあるけど、それは一時的です。神様の言葉は永遠です。そして、全生活が神様のものとなるようにしなさい、と聖書は教えます。


15-16節)

むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。

「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」と書いてあるからです


神様の言葉は僕らを変え続けてくださいます。みことばには力があります。みことばは命そのものですみことばは力ですみことばによって僕らが今日も帰られ続けますように。愛のない人に愛が与えられます。汚れた人がきよめられ、聖なるものにされます。みことばこそ凄いですみことばを今日も聞き、受け入れ、従いましょう。人生が変わります!!

1ペテロ2.1-10

 石の建物には「要石」というのがあって、その石は建物全体を支える大事な石だそうです同じようにイエス様は「要石」だと言います。僕ら人間は全員イエス様によって支えられています。そして、イエス様に人生全部を支えて守る人は決して失望したり恥じたりすることはありません。


(4-6節)

主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。(中略)聖書にこう書いてあるからです「見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石(イエス様のこと)を据える。この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」


僕らは自分の力や考えで自分を支えようとして疲れたり、がっかりしたり、恥じたりします。…ですが「信頼する者は決して失望させられることがない。」と聖書は言い切ります。がっかりする原因は僕らがイエス様よりも自分を信頼していることです。イエス様を信じて頼るなら、僕らががっかりさせられることはありません。


このイエス様は人々から「いらない」「死んで欲しい」「邪魔」と思われて捨てられ、殺された方ですですが、「人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。」(4節)従わない人にとっては「いらない人」ですが、信頼する人にとっては最高の尊い方です


(7-8節)

したがってこの石は、信じているあなたがたには尊いものですが、信じていない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった」のであり、それは「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからであり、また、そうなるように定められていたのです


イエス様こそ、最高に尊く、信頼できる神様です僕らがそれを知ったのは神様の選びと恵みです僕らはこの素晴らしいイエス様と一緒に王としての身分をもらい、祭司のように感謝と賛美を神様にささげる人となりました。しかも、それが嬉しくて周りの人に伝えます。僕らの人生は恥や失敗から光や希望へと変えられました。


9節)

しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです


僕らは失望しない人に選ばれました。これは神様のあわれみです僕らが何かをしたのではなく、神様の選びとあわれみだけです


(10節)

あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。


僕らは生活の全部、細かいことまでイエス様に信頼する人へとますますなっていきます。今日も自力で頑張る前に、イエス様に頼りましょう。イエス様に信頼する人は決して失望することはありません!ハレルヤ!

1ペテロ2.11-25

 僕らの世界は「やられたらやり返す」「訴えてやる」「負けるな」と教えますが、イエス様を信じ、イエス様のみことばが入ってきた人は新しく変えられます。相手への悪意、仕返し、ののしりから解放されて自由に柔軟に対応できるようになります。


なんと、聖書は意地悪な主人、意地悪な上司、先輩であっても従いなさい、と聖書は教えます。それこそ神様に喜ばれることだからです


(17-19節)

すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を敬いなさい。

しもべたちよ、敬意を込めて主人に従いなさい。善良で優しい主人だけでなく、意地悪な主人にも従いなさい。

もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです


僕が高校生の頃は、先生に逆らうとか、ルールを破ることが「かっこいい!」と思ってました。ところが聖書は、人が作った制度とかルールに従うことが、人々が神様を認め、ほめたたえられることになると教えます。


(12-13節)

異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。そうすれば、彼らがあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いを目にして、神の訪れの日に神をあがめるようになります。

人が立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。


昔は、考えを曲げないで「俺は自由だ!誰にも従わない!」と思っていました。ところが本当の自由人は納得いかないルールとか、意地悪な上司であっても従う人です自分のこだわりからも自由です。変な上司、変なルールと思っても、神様に喜ばれ、神様がほめたたえられるなら喜んで従う柔軟な心が与えられます。ガンコでこだわる人の周りはいつも争いが起こりますが、自由で柔軟に良いことができる人は神様に喜ばれ、まわりに平和をもたらします。


(15-16節)

善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることは、神のみこころだからです。自由な者として、しかもその自由を悪の言い訳にせず、神のしもべとして従いなさい。


イエス様が模範です。イエス様は罪がないのに罵られ、苦しめられ、殺されました。そして、イエス様を信じた人はイエス様と一緒に、イエス様のように罵り返さず、脅さず、神様に任せ、自分の身を任せて神様に喜ばれます。イエス様が僕らの罪を全部引き受けてくださったように、僕らは他人の失敗、不機嫌、悪意を向けられて苦しむこともあります。がっかりはしますが、でも、他人の悪を忍耐することは神様に喜ばれることです


(20-24節)

善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることですこのためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。

ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。

キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。


僕らは自由になりました。悪や仕返しや復讐心から解放されました。イエス様と一緒に自分を苦しめる人を憐れみ、愛し、「父よ彼らをお赦しください」と祈り、とりなし、忍耐する自由人に変えられました。喜びましょう。天では喜ばれています。忍耐しましょう。悪に対して善で返しましょう。天の報いは大きいです!ハレルヤ!


(ルカ6:22-23)

人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです

その日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいからです


1ペテロ4章

 聖書は何度も何度も「キリストのために苦しむなら喜びなさい!」と繰り返します。それはイエス様につながってることの証拠だし、聖霊をいただいている証拠ですイエス様がののしられるので僕らもののしられます。しかも、それは悲しみだけど、不思議と喜びでもあります。聖霊をもらっている人は、苦しいけどイエス様に喜ばれていることがわかります。


(12-14節)

愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためですもしキリストの名のためにののしられるなら、あなたがたは幸いです。栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです


僕らは自分の欲や快楽を求めて生きて来ました。ところが、イエス様を信じた時に、だんだんこの世の快楽も娯楽もパーティも色あせて見えて来ます。それよりも、天にある喜びを知ってしまったので、快楽や罪よりも神様に喜ばれる歩みをしたい、と願うようになります。神様を知らない人から見るとクリスチャンのやってることは意味がわかりません。損にしか見えません。でも、天の喜びを知った人は地上のことよりも、神様を選びたくなります。苦しみを受けても、ですそれが天で喜ばれていることがわかるからです


(1-5節)

キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを断っているのです。それは、あなたがたが地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためですあなたがたは異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、欲望、泥酔、遊興、宴会騒ぎ、律法に反する偶像礼拝などにふけりましたが、それは過ぎ去った時で十分です。異邦人たちは、あなたがたが一緒に、度を越した同じ放蕩に走らないので不審に思い、中傷しますが、彼らは、生きている者と死んだ者をさばこうとしておられる方に対して、申し開きをすることになります。


この世界は終わります。その時にどんな快楽や権力を握っていてもそれらはクズになります

天で永遠に価値があることは、神様を愛することと隣人を愛することだけです神様を愛することは祈ること、賛美すること、感謝することですこれは最高に価値のあることです。だから、祈りのために時間も力も整えなさい、と聖書は言います。地上にいながら天の神様との交流をすることが祈りです


(7)

万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。


祈りはどんなことよりも価値があります。なぜなら、世界の全てを所有し、支配している神様との交わりだからです祈りは感謝であり、祈りは賛美です祈りは神様とのホウレンソウです。神様と交わっていると、神様の愛が注がれ与えらます。そして僕らは隣人を愛するようになります。世界が終わっても価値があることは、神様を愛することとと、互いに愛することだけです


8-11)

何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです

不平を言わないで、互いにもてなし合いなさい。それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。語るのであれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕するのであれば、神が備えてくださる力によって、ふさわしく奉仕しなさい。すべてにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためですこの方に栄光と力が世々限りなくありますように。アーメン。


僕らが預かっている能力は全部神様のものです。神様を愛し、互いに愛するために賜物として預かっています。文句や不平はくだらないゴミに見えてきます。相手がどうであっても愛することは、神様の愛そのものです僕らが預かっている賜物を総動員して神様と人を愛し仕えることはどんなことよりも価値があります。それで苦しんだり傷つけられても大丈夫ですイエス様と直接お会いする時「歓喜にあふれて喜ぶ」ことになります!


この世で惨めに見えても、この世で貧しく見えても、神様を愛し、人を愛することは最高の時間と力とお金の使い方ですクリスチャンの歩みはシンプルです。神様を愛すること。そして隣人を愛することです


1ペテロ5章

 聖書はいつも人間のことを「羊」だと言います。羊は弱くて目も鼻も悪いそうで、自分で自分を守れず、自分でエサや水のあるところも探せず、羊飼いに守られなければ生きていけない動物だそうです同じように、人間は保護されお世話され守られ導かれる必要があります。僕らの羊飼いはもちろんイエス様です。…ですが神様は教会にリーダーを与えて羊飼いのように弱い羊を守り導くようにと言われています。リーダーのことを聖書は「長老」と言います。今でいう牧師です。牧師(長老)は人々を養い、守り、導き、安心させる役目です


(1-4節)

私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じ長老の一人として、キリストの苦難の証人、やがて現される栄光にあずかる者として勧めます。

あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って自発的に、また卑しい利得を求めてではなく、心を込めて世話をしなさい。割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。

そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠をいただくことになります。


長老たちは良い羊飼いのように心を込めて人々を愛し、お世話しなさい、と言われています。悪い羊飼いは羊を利用して儲けよう、とか、羊を放置して自分だけ助かろうとしますが、良い羊飼いは神様に従い心からお世話します。強制されてするのではなく、です。もちろん「卑しい利得」のためではなく、人々を利用したり支配したりするのではなく、へりくだって彼らを守り養うために仕えます。これは、大牧者であるイエス様の願いそのものですイエス様は言われました。「主である師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」(ヨハネ13.14)牧師は給料のために教会に仕えるのではありません。神様のために、そして神様の宝の人たちが守られ養われ成長するために仕えます。


人間のことを「羊」だと言いますが、悪魔のことは「ライオン(獅子)」だと言います。羊を狙うライオンのように、悪魔はいつも羊を食い殺そうと狙っています。だから目を覚ましなさい、と聖書は勧めます。悪魔から守られるためにも、牧師は謙遜になってしもべのように自分から心から仕える必要があります。


(8-9節)

身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。

堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。


羊が守られるためには、リーダーである羊飼いの声に従うことが大事です。そのように、人々が悪魔から守られるためには牧師(長老)に従うことも大事です神様は高ぶる人や反抗する人に敵対すると書かれています。逆に、悪魔は高ぶりや反抗、悪口や分裂が大好きです群れが乱れると羊が食い殺しやすいからです従う人たちも謙遜であることは悪魔に対する最大の防御です


(5-6節)

同じように、若い人たちよ、長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです

ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。


堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。」とは、イエス様のへりくだりに従うことです信じて従うなら悪魔は逃げ去ります。


(ヤコブ 4:7)

ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。


教会にリーダーが与えられていることは宝の人々を守るための神様の方法です。だからリーダーも、従う人たちもへりくだりなさい、と聖書は言います。神様は僕らが守られ、養われ、導かれ、神様の永遠の栄光の中に入れて下さるまで、地上で導いてくださいます。教会に与えられた役目を尊重しましょう。もっともっとへりくだって仕え合い、従い合いましょう。神様はリーダーの役目を用いて悪魔から守り、導いてくださっています!