僕らの世界は「やられたらやり返す」「訴えてやる」「負けるな」と教えますが、イエス様を信じ、イエス様のみことばが入ってきた人は新しく変えられます。相手への悪意、仕返し、ののしりから解放されて自由に柔軟に対応できるようになります。
なんと、聖書は意地悪な主人、意地悪な上司、先輩であっても従いなさい、と聖書は教えます。それこそ神様に喜ばれることだからです。
(17-19節)
すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を敬いなさい。
しもべたちよ、敬意を込めて主人に従いなさい。善良で優しい主人だけでなく、意地悪な主人にも従いなさい。
もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです。
僕が高校生の頃は、先生に逆らうとか、ルールを破ることが「かっこいい!」と思ってました。ところが聖書は、人が作った制度とかルールに従うことが、人々が神様を認め、ほめたたえられることになると教えます。
(12-13節)
異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。そうすれば、彼らがあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いを目にして、神の訪れの日に神をあがめるようになります。
人が立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。
昔は、考えを曲げないで「俺は自由だ!誰にも従わない!」と思っていました。ところが本当の自由人は納得いかないルールとか、意地悪な上司であっても従う人です。自分のこだわりからも自由です。変な上司、変なルールと思っても、神様に喜ばれ、神様がほめたたえられるなら喜んで従う柔軟な心が与えられます。ガンコでこだわる人の周りはいつも争いが起こりますが、自由で柔軟に良いことができる人は神様に喜ばれ、まわりに平和をもたらします。
(15-16節)
善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることは、神のみこころだからです。自由な者として、しかもその自由を悪の言い訳にせず、神のしもべとして従いなさい。
イエス様が模範です。イエス様は罪がないのに罵られ、苦しめられ、殺されました。そして、イエス様を信じた人はイエス様と一緒に、イエス様のように罵り返さず、脅さず、神様に任せ、自分の身を任せて神様に喜ばれます。イエス様が僕らの罪を全部引き受けてくださったように、僕らは他人の失敗、不機嫌、悪意を向けられて苦しむこともあります。がっかりはしますが、でも、他人の悪を忍耐することは神様に喜ばれることです。
(20-24節)
善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
僕らは自由になりました。悪や仕返しや復讐心から解放されました。イエス様と一緒に自分を苦しめる人を憐れみ、愛し、「父よ彼らをお赦しください」と祈り、とりなし、忍耐する自由人に変えられました。喜びましょう。天では喜ばれています。忍耐しましょう。悪に対して善で返しましょう。天の報いは大きいです!ハレルヤ!
(ルカ6:22-23)
人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。
その日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいからです。
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