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2025年4月3日木曜日

むなしいささげ物を携えて来るな イザヤ1.13 リバーワーシップスクール卒業式の祝辞

リバーワーシップスクールの名前、本当にいいな、って思います。内側から溢れ出る命の川、御霊による感謝と喜びと平安によって与えられている礼拝、賛美を目指すこのスクールで教えることができて本当に感謝しています。

やっぱり教えてて楽しいです。まずは僕自身がシンセサイザー好きなんだな、と改めて思います。自分が楽しいので伝えたい、って気持ちがあります。

シンセサイザーはいろんな音が出て楽しいです。オーケストラ風の音を出したり、最近買ったのはボーカルシンセサイザーです。かなり人間が歌ってるっぽく作れます。そういう豪華な音とか、新しい音、僕は好きだしこの賜物を預けてくださって感謝って思いますけど、同時に神様を忘れさせる大きな誘惑でもあるといつも思います。

最近問われているなあって思います。単に気持ちよく、いい思いするための音楽をしてるのか、逆に自分の好みとか楽しみではなく、御霊によって感謝し賛美し、主の栄光に触れて、その前に平伏してしまうような音を出そうとしてるのか?

問われているし、立派な音を出すほどに、その責任が問われるような気がします。



"イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」

すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」"

マルコの福音書 1312


イエス様は素晴らしい神殿、素晴らしい石に全く興味関心がなかったです。

イエス様はそこが中心ではないようです。特に礼拝や祈りにおいては人に見せるためであってはならない、と厳しくおっしゃいます。(マタイ6.5)見せるために祈ったり何かをしたりする人を偽善者ども、と叱る方です。


「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。"

マルコの福音書 76



「もう、むなしいささげ物を携えて来るな。」というイザヤ書の「むなしい」という言葉は十戒の「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。」(出エジプト20.7)の「みだりに」と同じです。


"もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙、それはわたしの忌み嫌うもの。新月の祭り、安息日、会合の召集──わたしは、不義と、きよめの集会に耐えられない。"

イザヤ書 113


豪華な音を出しても、もしそれが中身のないものなら、天ではむしろ嫌われるものです。

神様の前にへりくだり、そのご臨在の前に圧倒され、跪くものでなければ、平伏して、自分を捨てて、自分の冠を捨てて捧げるものでなければ、それは虚しいものです。神様はその歌を聞きたくない、とさえおっしゃいます。


"あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。あなたがたの琴の音を、わたしは聞きたくない。"

アモス書 523


生きておられる主の栄光のご臨在の表れでなければ、聖なる主を表すものでなければ、単なる歌の騒ぎです。わたしは聞きたくない、と神様がおっしゃいます。


新しい技術が与えられるたびに問われます。それは何に使うのか、と。自分の虚栄心のためか、それともへりくだって主の栄光のために、自分を捨てて賛美するためか。

多く預かった人は多く求められます。このリバーを卒業した人は、ますます献身が求められます。ますます自分を捨ててへり下り、主の栄光だけを求めることが求められます。


もう一回悔い改めましょう。高ぶりを認めましょう。もう一度自分を捨てましょう。自分を捨てた時に残るのは主の栄光、主のご臨在です。自分を捨て明け渡した時に、圧倒的な天からの喜び、栄光、主権が表されます。

主の栄光だけが表されますように。

2024年12月10日火曜日

イザヤ66.10-14

 イザヤ66.10-14


神様はエルサレムのことを愛する妻、愛する花嫁、喜びの冠と繰り返します。(イザヤ62章など多数)まるで夫婦のようです。そして今日の箇所はさらに驚きです。なんと、エルサレムが出産し赤ちゃんを産み、授乳するお母さんのように書かれています。



(イザヤ書 66章10~11節)

"エルサレムとともに喜べ。すべて彼女を愛する者よ、彼女とともに楽しめ。すべて彼女のために悲しむ者よ、彼女とともに喜び喜べ。

あなたが彼女の慰めの乳房から飲んで満ち足り、その豊かな乳房から吸って喜びを得るために。"



母乳は凄いそうです。どんなミルクよりも栄養価が高く、免疫が上がり、ウイスルスが消えるそうです。それだけでなく、直接乳房から飲むことで赤ちゃんは愛され安心し、発育にとっては良いことだらけだそうです。エルサレムから生まれた子どもたちは、お母さんに可愛がられながら授乳され、彼らもお母さんが大好きです。そのように、神様の子どもたちは神様の愛の中で神様のみことばのミルクの中で育ちます。



(イザヤ書 66章12~13節)

"主はこう言われる。「見よ。わたしは川のように繁栄を彼女に与え、あふれる流れのように国々の栄光を与える。あなたがたは乳を飲み、脇に抱かれ、膝の上でかわいがられる。

母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰める。エルサレムであなたがたは慰められる。"



神様に愛される花嫁エルサレムは、その神様の愛を子どもたちにに与えます。神様からのみことばは人を育てる母乳です。



(ペテロの手紙 第一 2章2節)

"生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。"



神様の母乳であるみことばは、まずイスラエル人たちに与えられ、そこからイエス様の御霊によって地の果てまで広がりつつあります。しかも、神様は世界中に神様の子どもを生み出し、みことばの乳によって育てます。「与え方」が大事です。可愛がられ、膝に抱かれるように喜ばれながらです。「あなたがたは乳を飲み、脇に抱かれ、膝の上でかわいがられる。」(12)とあるようにです。


エルサレムは神様に喜ばれている妻です。そして教会はイエス様に喜ばれているキリストの妻です。そして、教会はお母さんとして神様の子どもたちを産みます。神様の祝福と喜びはエルサレムに注がれ、そして教会に注がれ、この溢れ流れるいのちの祝福は全世界に広がっています。これは機械的にとか、効率的に広がるのではありません。一人一人を膝の上に抱っこして喜ぶようにです。子どもはそのようにして育ちます。そしていつの間にか自分も同じようにして神様の子どもを産み育てます。イスラエルも教会は愛される妻であり、お母さんです。


御霊の愛によって、赤ちゃんを愛するように広がりますように。神様の子どもたちがお母さんを喜び、楽しむように、教会を愛し、エルサレムを愛し、このいのちの福音が世界に広がっていきますように、ハレルヤ!

2024年12月9日月曜日

イザヤ65.17-25

 イザヤ65.17-25


将来どうなってしまうんだろうと不安感付きまとうかもしれません。でも、闇の先には光があります。神様がハッキリとそう約束してくれているからです。

神様のおっしゃる将来をイメージすることはすごく大切です。



(イザヤ書 65章17~19節)

"見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。

だから、わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。

わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこではもう、泣き声も叫び声も聞かれない。



創世記1章で、神様がこの世界をお作りになったとき「非常に良かった」とおっしゃり、神様はこの人間も動物もすべての被造物を喜んでおられました。そして、イエス様はもう一度この世界を喜びの世界に作り変えられます。イエス様がもう一度こられた世界の特徴は喜びです


●喜びしかない世界


イエス様が来たら困る、という人がいます。あのことはバレる、とか、イエス様を知らずに死んでしまった人はどうなるか?とか心配で、喜びは消されてしまうんじゃないか、と思います。ところが、聖書は「先のことは思い出されず、心に上ることもない。」と言います。(17節)以前のことはもう思い出されず、そこには喜びしかありません。


あなたの罪を二度と思い出さない、とおっしゃる通りになります。(ヘブル10章17節)僕らの心は完全に新しくされるようです。心配事は全てなくなってしまいます。滅んでいく人たちへの悲しみもなくなるようです。


●僕らの体は変わります。



(イザヤ書 65章20節)

"そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命を全うしない老人もいない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。"



世界は劇的に変わります。出産の苦しみ、子どもの死、そして育児の苦しみはもうありません。老人が苦しむこともないようです。100歳でもピンピンしています。今とは全然違う世界です。22節では「わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、」とあります。ちなみに、創世記を読むと、アダムの人生は930年、ノアは950年です。(創世記 5章5節など)

今とは違う健康的な、というより完璧な世界が来ると聖書は僕らに伝えています。



●仕事が喜びの世界


新しい世界はヒマではありません。仕事の喜びもあります。21-22節です。



(イザヤ書 65章21~22節)

"彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。

彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者たちは、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。"



神様の王国は雲の上をふわふわと浮いているのではありません。

完全な安息があるけど、何にもしないぼーっとしているのとは違います。

僕ら地上の仕事は、喜びがないことが問題です。強制的にやらされていたり、搾取されていたり、貪ったりします。でも、新しい世界は違います。

「彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。」(21)とあるように、利用されるとか、奪われることはない世界です。

イエス様の世界では仕事が喜びで満たされています。充実感に溢れています。


最初人間が作られた時に、神のかたちに、似せて造られました。そして地を耕しなさい。この世界を治めなさい、と神様はおっしゃいました。そのように僕らはもう一度神様と一緒にこの世界を管理するものとなります。それは喜びです。世界は変わります。今まで軍事に使っていたすべての技術やすべてのお金、時間、全部がこの地を豊かにするために使われるようになります。


(イザヤ書 2章4節)

"彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。"


🙆‍♀️神様とツーカーの世界


その時、僕らとイエス様の間には完全な一体性があります。僕らはイエス様とと一体とされています。


(24)

彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。



僕らが呼ぶ前からイエス様は聞いてくださり、僕らもイエス様の語りかけがわかります。まるで一体です。僕らの心と神様の心はいつも交わり、一致しているかのようです。新しい世界では1秒でも神様の心と離れることはありません。


何年も祈ったのに答えがない、神様いつまでですか?なんてことはもうありません。いつも繋がっています。すぐに神様の心がわかります。というか、神様の心が僕らの心になっています。その時には「待ち望む」とことはありません。


🙆‍♀️自然界が完璧に調和する世界


その時、肉食動物はいなくなるようです。ライオンが草を食べています。


(イザヤ書 65章25節)

"狼と子羊はともに草をはみ、獅子は牛のように藁を食べ、蛇はちりを食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼすこともない。──主は言われる。」"


動物でさえ、お互いに殺し傷つけ、食べることはありません。

まして、人間同士がお互いに傷つけたり利用することはありません。

自然界は脅威ではありません。動物たちはもちろん、全ての人が安心して喜んでいます。



(イザヤ書 11章6~8節)

"狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。

雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。

乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。"


子供たちはゲームよりもライオンと遊ぶ方が楽しいようです。最高の世界です。


●僕らへの適用


今は悲しみがあり心配がありトラブルがたくさんあります。そして、未来は逆に完全に癒やされている世界です。全ての人が神様に喜ばれています。19節に「私の民を楽しむ」とあります。


今、自己嫌悪に浸っている人は喜ばれ、楽しみにされ、愛されているイメージを持つのが信仰です。僕らは現状だけを見ますが、神様は完成された世界を見ておられれます。


忍耐は神様が与えてくださる将来像をイメージして待つことです。神様が与えてくださる世界を心の目で見る人は幸いです。神様の言葉にとどまる人は、病気も災いも地球の終わりも恐れません。

その先に回復があることを信じているからです。



(ヤコブ5.7-8)

7,ですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は大地の貴重な実りを、初めの雨や後の雨が降るまで耐え忍んで待っています。

8,あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主が来られる時が近づいているからです。


将来、多くの人々が喜び歌っています。神様に喜ばれています。そして僕らは今からもう神様に喜ばれています。そして、今から感謝し、賛美し歌っています。


闇の先には光があります。破壊の先には再建があります。飢餓の先にはには満足があります。

なんでそう言えるのか?それは神様がハッキリとそう約束してくれているからです。ハレルヤ!


(コリント人への手紙 第二 4章18節)

"私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。"

イザヤ62.17-25  あなたを喜び、誇る神様

 ●メッセージ イザヤ62.17-25  あなたを喜び、誇る神様


●喜びと希望の将来


苦しい時、不安なとき、人間はいろんな対応をします。

1、諦める。 2、自暴自棄になる。当たり散らす 3、手っ取り早い方法でごまかす。4、自分の知恵と力で解決策を考える。


苦しくて不安な人間に対して、当時、国がめちゃめちゃに壊れていくイスラエルの人たちに、神様が与えてくださった対応は、将来の回復を見せてくださる、と言う方法です。


(3-5節)

3,あなたは主の手にある輝かしい冠となり、あなたの神の手のひらにある王のかぶり物となる。

4,あなたはもう、「見捨てられた」と言われず、あなたの土地は「荒れ果てている」とは言われない。かえって、あなたは「わたしの喜びは彼女にある」と呼ばれ、あなたの国は「夫のある国」と呼ばれる。それは、主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。

5,若い男が若い女の夫となるように、あなたの息子たちはあなたの夫となる。花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。



神様が僕たちに聖書を与えた理由は、すべての人たちが神様の素晴らしさを見て、そして神様の素晴らしい御国が回復するためです。言い換えるとすべての人を祝福するためです。僕ら人間が暗闇の中でもがいて終わっていくことは神様の意図ではないからです。


気候変動や戦争や災害が多くなり将来どうなってしまうんだろうと多くの人は思います。不安感が世界を覆っています。家庭でも職場でも個人でも問題はあります。そんな中でも希望を持つために与えてくださっているのが聖書です。苦しんで、絶望していくことが人生ではありません。


神様は今日も諦めていないし、今日も聖書を通して私たちに語りかけています。「黙っていない」「沈黙しない」と言っています。


(イザヤ書 62章1節)

"シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために沈黙はしない。その義が明るく光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは。"


シオンのために、とあります。シオンとかエルサレムと言うのは、神様が選んで、神様と一緒に過ごして、永遠に神様の愛と栄光が表される、そのように、人間と神様が交わる、あの神殿があった素晴らしい場所のことを言っています。文字通り、あの場所は神様にとって喜びの場所です。イスラエルは神様にとって愛する人々です。そのことからシオン、とかエルサレムは神様が愛する妻、神様が愛する花嫁、という意味も持つようになりました。後で、はっきりとこう書かれています。


(5節)

花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。


神様は絶望していく当時の人々に語りかけます。

そして、聖書を通して今の私たちにも語りかけます。黙っていない。沈黙はしない、と言います。諦めていません。「シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために沈黙はしない。その義が明るく光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは。」


イエス様によって、そしてイエス様の御霊によって、イスラエル人だけでなく、エルサレムだけでなく、全ての人たちがイエス様を信じる日本人が全て、神様の愛する人々、神様の愛する花嫁、喜び、誇り、と呼びかけられています。


闇の先には光があります。神様がハッキリとそう約束してくれているからです。問題は僕らが希望を与え喜びを見せてくださる神様のことばを信じるかどうかです。


(イザヤ書49章23節)

わたしを待ち望む者は恥を見ることがない。


(ローマ10章11節)

この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。


神様のことばは単なる教えではなく、事実だし出来事です。

神様のおっしゃる通りの将来をイメージすることはすごく大切です。それは現実となるからです。

壊れてしまった人間関係が回復し、病気が完全に癒され、完全な美しさを回復する自分と世界を神様から見せてもらって、その映像を心の眼で「見る」ことができるなら、それが信仰です。信仰は神様のことばを聞くことから始まります。


(ローマ10:17)

ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。


この当時のイスラエルは悲惨だし、どこにも希望がないように見えました。それでも、神様は彼らを見捨ててはいません。

神様は僕らにも同じように回復を約束し、将来の映像を具体的に見せてくれています。もしそれがなければどうなるか、苦しんで死んで終わりならどうなるか、聖書は言います。


(1コリント15.32)

もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。


僕らも苦しい時に諦めたり、手っ取り早い快楽を求めたりしがちです。それでも神様は僕らに黙っていません。希望のある将来像を与えてくださっています。聖書が教える忍耐とは、ガマン大会ではなく、

忍耐は希望を持って今の状況を乗り越えることです。神様のことばによって与えられる希望は妄想でも想像でもなく、事実となるからです。真理の言葉が今日も与えられています。


神様は苦しむイスラエルに将来像を与えてくださいました。神様に喜ばれ、愛され、めちゃくちゃ大事にされている映像が与えられ、それが確かだとわかるようにしてくださいました。僕らにも言われています。これが苦難や不安を乗り越える神様が与えてくださる方法です。


●神様の栄光と喜びの人


愛するシオン、愛するエルサレムは、神様の栄光と力が表される場所です。神様と過ごすために人々が集められて、神様を賛美する場所です。シオンとは、そのような栄光と希望と愛の現れる場所です。神様はそれを幸せな結婚、最高の結婚にたとえています。



(4-5節)

4,あなたはもう、「見捨てられた」と言われず、あなたの土地は「荒れ果てている」とは言われない。かえって、あなたは「わたしの喜びは彼女にある」と呼ばれ、あなたの国は「夫のある国」と呼ばれる。それは、主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。

5,若い男が若い女の夫となるように、あなたの息子たちはあなたの夫となる。花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。



そもそも、神様がこの世界を作った理由は、人間を作った理由は神様の栄光と愛を表すためです。神様が人を愛し祝福するためです。まるで神様と人が最高の結婚生活をするかのように書かれています。最初からそうです。神様はこの世界を一緒に喜び支配する伴侶として人間を作ってくださいました。人は神様の栄光の現れでした。将来それが回復します。


(イザヤ書 62章3節)

"あなたは主の手にある輝かしい冠となり、あなたの神の手のひらにある王のかぶり物となる。"


愛する花嫁のような人です。その存在は神様にとって冠だし宝です。美しく輝かしくて喜ばしい、そして、神様の栄光を表すものです。それが冠です。王様の栄光と権威と力を表す被り物のように、人間は神様の栄光の表れです。造られた時からそうでした。


(ヘブル2.7-8)

7,あなたは、人を御使いよりわずかの間低いものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、

8,万物を彼の足の下に置かれました。」神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。


人間を神様に似たものとして、作られたものの頂点として、しかも、ヘブル2.7の後半は「これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、8,万物を彼の足の下に置かれました。」神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。」とあります。


神様に似せて、僕たち人間は作られました。似ているところが2つあります。1つは、人間は神様と一緒にこの世界を支配し治めるように作られたことです。創世記に書かれています。


(創世記 1章28節)

"神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」"


神様だけで、すべてのことを支配できるのに、神様だけで充分なのに、神様の似姿として人間を作り、神様と一緒にこの世を支配するようにしました。


そしてもう一つ神様に似ているところは男女が結婚して愛し合うことです。妻を喜ぶこと、夫を喜ぶ事は、神様に似せて作られた、神様に似ている姿です。


創世 1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。


神様と一緒に世界を支配する栄光と力の表れが人間です。そして、神様に愛されています。それを表すために男と女が愛し合います。愛し合って一つになるのは神様の似姿です。


会社で言うなら経営陣です。神様と一緒に世界を治める側です。しかも、結婚しています。社長が神様、副社長が人間、しかも愛しあう夫婦です。財産も共有、仕事も一緒、喜びも悲しみ一緒です。そのような世界を神様は今も諦めていないし、今も、それを見るように黙ってない、と言います。聖書を通して将来そのような世界を作ると言っています。壊れた結婚が回復するように、神様との愛の関係は回復するし、完成し最高の世界が来ると預言しています。


(イザヤ62章4節)

"あなたはもう、「見捨てられた」と言われず、あなたの土地は「荒れ果てている」とは言われない。かえって、あなたは「わたしの喜びは彼女にある」と呼ばれ、あなたの国は「夫のある国」と呼ばれる。それは、主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである


(イザヤ書 62章5節)

"若い男が若い女の夫となるように、あなたの息子たちはあなたの夫となる。花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。"


息子たちが、お母さんの夫となる、と言う変な意味に見えますが、

次の世代、その次の世代、子孫たちもまた、神様を愛し愛されるものとして、一体となっていく預言です。次世代、子孫たちも祝福されていく、と言うことです。


●自分をなんと呼ぶ?


ちょっと前後しますが、結婚して名前が変わるように、僕らは神様の妻、喜びの宝として、新しい身分、名前で呼ばれます。


(2節)

そのとき、国々はあなたの義を、すべての王があなたの栄光を見る。そのとき、あなたは新しい名で呼ばれる。主の御口が名づける名で。


妻が武田から遠藤になった時、すごく嬉しかったそうです。これからは遠藤の妻と呼ばれ、自分も遠藤さんと呼ばれます。これからは遠藤家の一員です。栄希と結婚したフェイスも言ってました。戸籍に遠藤、って書いてあるのが嬉しいって言っていました。


僕らも同しい名前で呼ばれてます。もう呼ばれてます。神様のもの、神様の妻、神様の冠、愛する花嫁、愛する子、と呼ばれます。

イスラエルはこの当時「見捨てられた」「荒れ果てている」と呼ばれていました。でも、新しい名前は「わたしの喜びは彼女にある」と呼ばれます。


自分のことを何て呼ぶか、大事です。悪魔は正反対のことを言います。お前は失敗作だ。お前は呪われている。お前には価値がない。お前はもういらない人間だ。全部嘘です。


苦しみの中にいても、Aさんは、私は見捨てられた、と思って苦しみます。Bさんは、私は神様の喜び、神様の妻、神様の宝、今は苦しくても、私は神様にとって自慢の花嫁、と思って忍耐するのでは全然違います。


祈っても答えてもらえない時、こんなに苦しくて神様に求めているのになぁ。神様が答えてくれる気配さえない時、聖書は金よりも尊い信仰の試練だといいます。


(1ペテロ1.7)

試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。


この試練の時こそ神様がなんと呼んでくださるか、自分の身分は神様の妻であり、よろばれている子であり、宝であることを思い出しましょう。


※体験談

昔、何度も何度もある人から攻撃されてかなりダメージを受け続けた時期がありました。苦しかったけど、僕のこころの中には、いつも神様がどう思っておられるか、神様が僕のことをどう見てるか、確信がありました。僕は神様の宝、確かに欠点はあるけど、それでも愛する子、宝の子、妻、神様の喜び。

だから、こんなに僕を攻撃したら、僕は反撃しないけど、その人は神様から大変な仕打ちを受けるんじゃないか、と内心思っていました。

本当にその人は苦しみました。神様の宝を攻撃する人は神様が黙っていないです。最終的な裁きは神様がなさいます。そしてこの地上でもその神様の裁きや刈り取りを少しだけ体験させてくださいます。そして、希望を持って忍耐する結末を少しだけ体験させてくださいます。


僕らの苦しみは希望のある試練です。将来のある苦しみです。苦しみを通して、神様の約束が真実であることを学んでいきます。


※自慢のよう。


新しい車自慢の車、自慢の学歴、自慢の息子。自慢の服とか自分の持ち物とか手に入れたものとか、近くにいる人とか関係のある人とか自慢したがりますね。皆さんにとって自慢の人、自慢のモノはなんですか?それが良い人だったり美しくあればあるほどまるで自分の誇りのように思います。神様の自慢は神様を礼拝するクリスチャンです。


神様にとって、神様を礼拝する人たちは冠のようです。喜びです、自慢のようです。自分を尊敬してくれる妻の存在が、夫にとって喜びであるように、神様を尊敬し、礼拝し従う人たちの存在は喜びです。誇りです。


はっきり言えば、クリスチャンは自慢の存在です。神様はクリスチャンが神様を愛していること、礼拝することを喜んでいます。僕らが神様を褒め称えること、従うことは、神様の冠です。神様の栄光を表し、神様の喜びです。


(3)

あなたは主の手にある輝かしい冠となり、あなたの神の手のひらにある王のかぶり物となる。


ぜひイメージしてください。神さまが皆さんのことを喜び誇っています。ウチの妻、私を愛し、賛美し、したがってくれる私の喜び!冠。王のかぶりものです。王様の力と栄光と美しさを表す存在です。


●もう始まっている御国


ここからは適用になります。みことばは僕らの生活に現れます。

苦しみの中でも希望を持って喜んでいるのが私たちです。完成するのは将来だけど、今、僕らの中にすでにこの神様の国は始まっています。イエス様は言われました。


(ルカ 17:21)

いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」


神様の嫁、神様の喜び、それは日常に現れます。特に結婚生活に現れます。聖書はいつも神様と人の関係を結婚生活で例えていくんですね。


結婚には3つの面があります

というか、私たちが結婚しますけども、これは神様の愛の表れです。具体的な神様の御霊を受けた神様の心、新しいご性格、御霊のご性格を受けたものが、神様の愛を表そうとするのが結婚です。


結婚が表す3つの面を説明します。3つとも神様の愛の表れです。



1つは、神様とエルサレム


今日読んでいる箇所です。

言い換えるなら、神様とイスラエル人たちともいえます。


これは神様がイスラエル人たちを愛する妻と呼んで、彼らの宝と呼んで、彼らを誇りと呼んで、彼らに実言葉を与え、立法を与え祝福を与えたんです。神様はイスラエル人たちを喜びます。イスラエル人たちは神様に従います。



2つ目は、キリストと教会


教会とは、イエス様を信じた私たちの群れです。


イエス様は教会を愛し、教会をご自分の花嫁とするために血を流して、自分を捨てて命を捨てて、すべてを捨てて愛し、取り戻してくださいました。そして今もその御言葉を持って、その御霊持ってわたしたちをきよめ愛し、ご自分の宝として美しいものとして磨き続けてくださっています。


花嫁である私たち教会はキリストの言葉に聞いて従います。イエス様はあの十字架の血で、犠牲によって愛し取り戻してくださいました。



3つ目は、男と女


キリストの御霊を受けた私とキリストの御霊を受けた妻が結婚する人間同士の結婚です


キリストがしてくださったように、キリストが全部捨てて血を流して愛し、赦して下さったように、そのように互いに愛しなさい、それが結婚です。

相手によって幸せになろう、ではなく、結婚は、相手に献身し自分を明け渡していくことです。

受けるのでなく、相手に与えることです。結果として、相手は美しくなり、自分にとっても喜びとなっていきます。二人は互いに宝となっていきます。

結婚は、神様の愛を御霊の愛をキリストの愛を表す、神様に似ている姿です。


神様の愛と忍耐と栄光と犠牲とそのような素晴らしさを表すための姿です。それが結婚です。


自分を捨てて神様に人生を捧げるように、自分を捨てて妻に人生を捧げ、自分を捨てて、夫に自分の身も体も捧げます。ここにキリストの愛と献身が現れます。神様が僕らを宝と呼び、喜び祝うように僕らも互いにそのように関係がきよめられていきます。それが似姿としての結婚生活です。

二人が一体となるのは、奥義だと聖書は言います。

結婚は単なる人間の契約ではなく、神と私たちの関係の現れです、神様の喜びを映し出すものです。


神様はエルサレムのことを、そして教会を、僕らを妻のよう、宝のよう、冠のように思っています。

同じように、その似姿として、僕ら人間は「妻が夫にとって名誉や喜びとなる存在」です。


(箴言31章10節)

「しっかり者の妻をだれが見つけることができるだろう。その値打ちは真珠よりも高い。
夫の心は彼女に信頼しており、彼は利益に欠けることがない。
彼女は彼の一生の間、益をもたらし、害をもたらさない。」


僕らは神様の自慢の冠にされました。もう決定です。あとは、それに相応しく変えられ続けていくだけです。同じように、地上においても結婚生活でも、お互いに自慢の冠と変えられていきます。


完成はまだ先ですが、もう始まっています。神の国はあなた方の間にあるのです。

神様が、人間の存在を喜び、楽しみ、冠だと言って自慢しているように、そしてその人間たちを愛するために、ご自分を犠牲にして血を流しても取り戻し、きよめておられるように、僕たちも結婚相手に対して、また兄弟姉妹に対してそのようにしなさいといいます。それが神様の似姿だからです。


(エペソ人への手紙 5章25~27節)

"夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。

キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、

ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。"


神様の愛をお手本として、今度は結婚相手に対してやりなさい、と言います。それは相手が、そして教会がしみや、しわや、そのようなものが何一つない聖なるもの、キズのない宝、栄光となるためです。

あなたの側がまず、犠牲を払って愛することによって、相手はますます美しくなり、あなたの宝となり、あなたの自慢となっていきます。


そのために大事なことは祈りです。


●祈り求め続けなさい


神様は黙っていません。同じようにあなた方も黙ってはならない。そうなるまで祈り続けなさい、と言います。


(イザヤ書 62章6~7節)

"「エルサレムよ、わたしはあなたの城壁の上に見張り番を置いた。終日終夜、彼らは、一時も黙っていてはならない。思い起こしていただこうと主に求める者たちよ、休んではならない。

主を休ませてはならない。主がエルサレムを堅く立て、この地の誉れとするまで。」"


祈りはただのお願いではなく、神様の言葉を信じて、反芻して、期待することです。

当たるか当たらないか、叶うか叶わないか、と言う博打のような祈りをしているのではなく、神様がおっしゃったことを繰り返して、ですよね、信じます、そうします、と会話するのが祈りです。祈りは神様の言葉に対する信仰だし、期待です。


キリストの自慢の嫁になりました。すでに決定です。

神様の子供になりました。決定済み。登録ずみです。

神様の冠になりました。立場は決定しました。聖なるものと呼ばれています。後はキリストの姿に変えられていきます。今は完全ではないけどでも愛されていないとかいらないものだとか、見捨てられたとかそれはありません。


名前を入れて読んでみたください!

「わたしの喜びは(    )にある」イザヤ書 62章4節