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2022年12月19日月曜日

ネヘミヤ1章

 聖書はいつも教会の仲間の悲しみに連帯するように教えます。「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(ローマ12:15それは自分も相手も同じキリストのからだの一部だからです。「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのですあなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」(1コリント12:26-27


イエス様も僕らと連帯してくださいました。神様なのに、神のあり方を捨てて、罪がないのに罪人の一人として、まるで自分の罪のようにして祈ってくださいました。


(イザヤ52.12

彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。


神様はあらかじめ『あなたがたが信頼を裏切るなら、わたしはあなたがたを諸国の民の間に散らす。』(9節)と言っておられました。そしてその通りになりました。ネヘミヤはエルサレムの城壁が破壊されたままのことを悲しみ、泣きます。そして、それが自分の罪のせいだと祈ります。先祖たちが神様に背いたことを、自分の罪として謝り、悲しみ、祈ります。


(4)

このことばを聞いたとき、私は座り込んで泣き、数日の間嘆き悲しみ、断食して天の神の前に祈った。


(6-7節)

私は今、あなたのしもべイスラエルの子らのために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエルの子らの罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。私たちはあなたに対して非常に悪いことをして、あなたのしもべモーセにお命じになった、命令も掟も定めも守りませんでした。


ネヘミヤは、「自分は、先祖の罪とは関係ない」と言える立場でした。それでも、彼は先祖たちと自分を一体化します。このように罪人と同化して一緒に祈るのはイエス様がしてくださった祈りです


僕らはいつも上から目線で、自分は正しいと思いたがりますが、神様から見るなら、僕もあの人も同じ罪人ですそして同じ体の器官です同じ罪人として一緒にへりくだりましょう。一緒に謝りましょう。悔い改めて立ち返るなら神様は必ず回復させてくださいます。


(9)

あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの命令を守り行うなら、たとえ、あなたがたのうちの散らされた者が天の果てにいても、わたしは彼らをそこから集め、わたしの名を住まわせるためにわたしが選んだ場所に連れて来る。

ネヘミヤ2章

 神様は神様だけで歴史を動かすことができます。…だのに神様は人間抜きで歴史を作ることをせず、人間が神様に求め、祈り、神様を信頼し、その言葉に従うという交わりの中で、一緒に歴史を作られる神様です。これは今も昔も一貫しています。


神様は破壊されていたエルサレムを再建されます。それは神様の言葉がその通りに実現することですそれは同時に人が神様に祈り求め、神様がそれに答えてくださるという交わりの中で行われます。


(1章8-11節)

どうか、あなたのしもべモーセにお命じになったことばを思い起こしてください。(…中略…)『あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの命令を守り行うなら、たとえ、あなたがたのうちの散らされた者が天の果てにいても、わたしは彼らをそこから集め、わたしの名を住まわせるためにわたしが選んだ場所に連れて来る。』(…中略…)ああ、主よ。どうかこのしもべの祈りと、喜んであなたの名を恐れるあなたのしもべたちの祈りに耳を傾けてください。どうか今日、このしもべに幸いを見させ、この人の前で、あわれみを受けさせてくださいますように。」


エルサレムの再建を祈り願うネヘミヤはペルシャの王の献酌官でした。ある時、王はネヘミヤに言います。「病気でもなさそうなのに、なぜ、そのように沈んだ顔をしているのか。きっと心に悲しみがあるに違いない。」(2)


(4-5)

王は私に言った。「では、何を望んでいるのか。」私は天の神に祈ってから、王に答えた。「もしも王が良しとされ、このしもべにご好意をいただけますなら、私をユダの地、私の先祖の墓のある都へ遣わして、それを再建させてください。」


ネヘミヤは神様に祈り、祈りながら王様と会話をします。神様は祈りに答えてくださり、王様がエルサレムまでの通行許可、そして再建のための材料を与えることを約束してくれます。さらに移動中の警備まで与えてくれます。


(7-8)

また私は王にこう言った。「もしも王様がよろしければ、ユダに着くまで私が通行できるように、ユーフラテス川西方の総督たちへの手紙をいただけるでしょうか。そして、宮の城門の梁を置くため、また、あの都の城壁と私が入る家のために木材をもらえるように、王家の園の管理人アサフへの手紙もお願いします。」わが神の恵みの御手が私の上にあったので、王はそれをかなえてくださった。


(9)

それで私はユーフラテス川西方の総督たちのところに行き、王の手紙を彼らに手渡した。王は、軍の高官たちと騎兵たちを私とともに送り出してくださった。


祈っていると一つ一つの出来事に神様の働きを見ることができるようになります。単なる偶然ではなく、全ての会話や出来事に神様の臨在があります。この後もネヘミヤはリーダーとして成功したり、反発を受けたりし続けますが、彼はいつも祈りながら考え祈りながら発言しています。そして人々を導く時はいつでも神様の御手が自分の上にあることがわかって、確信を持って発言しています。反対を受け脅されるときも、乗り越えられる理由は「天の神ご自身が私たちを成功させてくださる。」という確信です


(18)

そして、私に恵みを下さった私の神の御手のことと、また王が言ったことばを彼らに告げた。すると彼らは「さあ、再建に取りかかろう」と言って、この良い仕事に着手した。


(20)

私は彼らにことばを返して言った。「天の神ご自身が私たちを成功させてくださる。


聖書は「絶えず祈りなさい」といいます。それは、神様の御手がいつも僕らの上にあることがわかるようになるためです。神様は僕らが祈り、求め、信頼して神様と交わることを願っておられます。小さな出来事も大きなことも、全ての出来事は神様が僕らとの交わりの中で動かしておられることです。今日もどんな小さなことでも祈りながら歩みましょう。主の御手は僕らの上にあります。ハレルヤ!

ネヘミヤ3章

 神様のために働く意欲や力を与えてくださるのは神様ご自身です長年廃墟となっていたエルサレムの城壁を再建したい気持ちを神様は与えてくださり、人々はすぐに着手し始めました。


(2.17-18)

さあ、エルサレムの城壁を築き直し、もうこれ以上、屈辱を受けないようにしよう。」(…中略…)すると彼らは「さあ、再建に取りかかろう」と言って、この良い仕事に着手した。


こんなに早く人々が城壁の修理工事に着手したのは、「民に働く気があったから」です。(4.6)神様のために働きたい気持ちを与えてくださるのは神様ご自身です


人々は立場や職業など関係なく、それぞれが与えられた力に従ってそれぞれの部分の修理をしました。大祭司も、金細工人、香料作り、区長の娘たち、など、性別も専門も全然違う人たちが、自分のできる範囲を喜んで修理しました。


(1)

こうして大祭司エルヤシブは、その仲間の祭司たちと、羊の門の再建に取りかかった。彼らはそれを聖別して、扉を取り付けた。そしてメアのやぐらのところまで聖別し、ハナンエルのやぐらにまで及んだ。


(8)

その傍らでは金細工人のハルハヤの子ウジエルが修復を行い、その傍らでは香料作りの一人ハナンヤが修復を行った。こうして、彼らはエルサレムを、幅広の城壁のところまで修復した。


少数の人が全部やるのではなく、みんなで協力したことがわかります。神様は僕らが協力して神様のために働くことを願っておられます。そして、それぞれに役目が与えられています。神様のためにそれぞれの持ち場で感謝して働くのが教会です


(エペソ4.16)

キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです


今日も神様のためにそれぞれの持ち場で、与えられた力や賜物を用いて働きましょう。神様は愛し合い、助け合うことを願っておられます。神様は神様だけで事をなさいません。僕らの小さな力が合わさることを願っておられます。働く気を与えてくださるのは神様ですその力を与えてくださるのも神様です。感謝しながら、協力して、ささげましょう。ハレルヤ!


ネヘミヤ4章

 苦しい時、不安な時、僕らは人の言葉や自分の中から出てくる不安な妄想に振り回されます。

人の言葉も自分の考えも、不安に駆られているのなら神様からの真理ではありません。真理は僕らを自由にします。(ヨハネ8.32)エルサレムの城壁を再建している時、敵は憤慨してユダヤ人たちを嘲りました。しかし、これは真理ではありません。


(1-4)

サンバラテは私たちが城壁を築き直していることを聞くと、怒り、非常に憤慨して、ユダヤ人たちを嘲った。彼はその同胞とサマリアの有力者たちの前で言った。「この哀れなユダヤ人たちは、いったい何をしているのか。あれを修復して、いけにえを献げようというのか。一日で仕上げようというのか。焼けてしまった石を瓦礫の山の中から拾って、生き返らせようというのか。」彼のそばには、アンモン人トビヤがいて、彼も「彼らが築き直している城壁など、狐が一匹上っただけで、その石垣を崩してしまうだろう」と言った。


「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」(ヤコブ1.20)人が怒る時、不安な時、ほとんどは正しくはなく、真理でもなく、歪んだり盛られたりした情報に変えられてしまいます。悪魔は人の怒りや不安が大好物なようですだから悪魔の攻撃には「腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け」なさい、と聖書は教えます。(エペソ6.14)


敵の攻撃に対処するのは自分で反撃することではなく、そのまま神様に報告、連絡、相談をすることです復讐は神様がしてくださいます。ネヘミヤは敵からの嘲りを受けた時、そっくりそのまま神様にホウレンソウしています。


(4-5)

「お聞きください、私たちの神よ。私たちは軽蔑されています。彼らの侮辱を彼ら自身の頭上に返し、彼らが捕囚の地でかすめ奪われるようにしてください。彼らの咎をおおい隠すことなく、彼らの罪を御前から消し去らないでください。彼らが、建て直している者たちを憤慨させたからです。」


神様に祈ることは最強の防御であり攻撃です祈ることは神様との交わりです神様と交わる時に敵は恐れて逃げ去り、僕らは恐れた心、萎れた心ではなく、圧倒的な勝利の神様と一緒にいることの安心感と力が与えられます。ユダヤ人たちは敵の嘲の中でも祈り、力を与えられて工事が進みました。


(6)

こうして私たちは城壁を築き直し、城壁はすべて、その半分の高さまでつなぎ合わされた。民に働く気があったからである。


僕らが向かうべきは神様です敵の情報に振り回されるのではありません。敵はしつこく脅してくるし、僕らも油断すると不安に取り憑かれてしまいます。ネヘミヤはいつも神様に祈る人でした。そして祈っていると僕らの行動が変わります。ネヘミヤは敵の脅しを聞いて祈り、祈るだけでなく、警備を充実させました。


(7-9)

サンバラテ、トビヤ、アラブ人、アンモン人、アシュドデ人たちは、エルサレムの城壁の修復がはかどり、割れ目もふさがり始めたことを聞いたとき、激しく怒り、皆でエルサレムに攻め入って混乱を起こそうと、陰謀を企てた。そこで私たちは、私たちの神に祈り、彼らに備えて昼も夜も見張りを置いた。


ネヘミヤは神に聞いていただいた上で、すぐに働きに戻りました。敵のあざけりを思い巡らしたり、敵に対抗する作戦を考えたりすることはせず、ただ、神様に祈り、神様を信頼しながら与えられた役目を果たしました。

僕らも敵の脅しや人の言葉に動揺し振り回されることがあります。でも、祈りつつ神様の真理に戻りましょう。

恐るべきは神様ただ一人です。神様が戦ってくださいます。信頼してすべきことをしましょう。主の勝利は決定しています。大丈夫です。信頼しましょう。ハレルヤ!

2022年12月16日金曜日

ネヘミヤ6章

 神様に従う時には必ず妨害しようとする悪の力が働きます。その一つは脅しですネヘミヤはエルサレムの城壁を建て直す神様の働きをしていました。それに対して敵は気力を失わせようとします。その手口は脅しですネヘミヤは王様になってペルシャの王に反逆しようとしている、という記事(手紙)をチラつかせてネヘミヤを脅します。今の週刊誌と似ています。


(6-7)

それには次のように書いてあった。「諸国民の間で言いふらされ、また、ゲシェムも言っていることには、あなたとユダヤ人たちは反逆を企んでいて、そのために、あなたは城壁を築き直している。このうわさによれば、あなたは彼らの王になろうとしている。また、あなたは預言者さえ立てて、ここユダには王がいると、自分についてエルサレムで宣言させようとしている。今にこのことは王に聞こえるであろう。さあ、来なさい。一緒に相談しよう。」


ネヘミヤはそれが単なる脅しであることを見抜いて一蹴します。


(8-9)

そこで、私は彼のところに人を遣わして言った。「あなたが言っているようなことは、なされていない。それはあなたが心の中で勝手に考え出したことだ」と。これらのことはみな、「彼らの工事に対する気力が落ち、工事は中止されるだろう」と考えて、私たちを脅すためであった。ああ、今、どうか私を力づけてください。


神様のご計画への妨害とか迫害のことばは、真理ではありません。それが本当か嘘か僕らはわかります。「真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8.32)僕らがいつも聖書を読み、祈り、神様と交わるなら僕らは自由と喜びを手にします。悪魔の攻撃に対処する武具は神様からの真理の言葉です


(エペソ6:11)

悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。


(エペソ6:14)

では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け


敵は吠えるライオンのように脅します。見かけは怖いですけど、悪魔は真理に勝てません。そして、あなたは神様の言葉を信頼することで立ち向かいなさい、と聖書は言います。


(1ペテロ5章8-9節)

身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。


敵の脅しには対抗できるし、勝利できます。神様の真理のことばに堅く信仰に立つことです。そして、神様に従うなら悪魔は逃げ去ります。


(ヤコブ4:7)

ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。


今日も人からの悪意の言葉や脅しに惑わされることがありませんように。ただ、神様のことばを聞き、従い、平安と喜びと自由の中を歩むことができますように。その時に悪魔はあなた方から逃げ去ります。ハレルヤ!

ネヘミヤ7.2

 僕らには一人一人違った役目が与えられてます。家族の中での親としての役目、夫(妻)としての役目、友人としての役目、仕事での役目など、いろんな立場が与えられています。その中で一番大切なことは、その役目は人に対してするのではなく、神様に対して、神様の前でする、という意識です。「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」(コロサイ3:23)と聖書は言います。


ネヘミヤは城壁が完成した時に、エルサレムを治める2人のリーダーを選びました。彼らを選んだ理由は彼が誠実であり、神様を恐れていたからです


(2)

私は兄弟ハナニとこの城の長ハナンヤに、エルサレムを治めるように命じた。これは、ハナンヤが誠実な人であり、多くの人にまさって神を恐れていたからであった。


神様を恐れることは、どんなことよりも価値があります。神様を恐る人は人の前ではなく、神様の前にいると思っていて、何をするのにも神様に対して誠実にする人です。神様を恐る人は、神様の言葉に従います。(1サムエル12.14)主は主を恐る人に正しい道を教えてくださいます。(詩篇25.12)神様の恵みは神様を恐る人の上にそそがれます。(詩篇103,11、17)そして神様を恐る人は知恵が与えられる人です。(詩篇111.10、箴言1.7)その人は罪を憎み、遠ざけます。(箴言8.13)


人でなく神様を恐れましょう。神様を恐る人には必要は全て与えられます。今日も主こそが僕らの全てです全てにまさって主を恐れ讃えましょう。ハレルヤ!

ネヘミヤ7.69-71

 神様が何かをなさる時、必要なお金は神様が与えてくださいます。例えば、神様が教会会堂を建築しようとなさる時のお金は神様が与えてくださいます。ですが、実際には神様に感謝する人たちがささげます。神様から人への愛と、人から神様への愛、という双方向の交わりの中で神様のご計画は進みます。


人間に支えてもらう必要はない神様ですが、人が神様に感謝し神様のためにささげものをして愛を表すことを喜んでくださいます。


(69-71)

一族のかしらの何人かは、工事のためにささげ物をした。総督は資金として金一千ダリク、鉢五十、祭司の長服五百三十着を献げ、また、一族のかしらのある者は、工事資金として金二万ダリク、銀二千二百ミナを献げた。そのほかの民の献げたものは、金二万ダリク、銀二千ミナ、祭司の長服六十七着であった。


城壁を再建する時に、ユダヤ人たちは神様に感謝してささげものをしました。

もし、献金やささげものがなかったとしても、神様は一切困りません。神様が求めておられるのは、お金ではなく、神様との愛の関係です献金は神様への愛と献身と感謝の現れです彼らのささげものは全て神様から与えられたものでした。神様に喜んでささげる人は、ますます満ち足り、感謝するようになります。


(2コリント 9:6-8) 

私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。 神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべ ての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です


神様のためにささげる人はますます喜びが溢れ、もっとささげたい、と思うようになります。「なたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり」と聖書はいます。(2コリント9:11)


お金は全部神様からの預かりものです。神様を愛するため、感謝するために使いましょう。受けるより与える方が幸いですあらゆる点で豊かになり、与える人に変えられます。ハレルヤ!

ネヘミヤ8章

 先日、教会で聖書のメッセージをしていたら、それを聞いていた人が「ムリムリムリ!もう帰りたくなる。」と言ってました。神様の律法は正しく、きよすぎて、ちゃんと聞く人は自分の罪がはっきり示されます。でも、それだけで終わりません。聖書が伝えているのは福音(良い知らせ)ですエルサレムに帰ってきたユダヤ人たちは律法が朗読されそれを理解した時には自分たちの罪が示されて泣きました。でも、それで終わりません。悲しみは喜びに変えられます。


(2-3)

第七の月の一日に祭司エズラは、男、女、および、聞いて理解できる人たちすべてからなる会衆の前に律法を持って来て、水の門の前の広場で夜明けから真昼まで、男、女、および理解できる人たちの前で、これを朗読した。民はみな律法の書に耳を傾けた。


(8-9)

彼らが神のみおしえの書を読み、その意味を明快に示したので、民は読まれたことを理解した。総督であるネヘミヤと、祭司であり学者であるエズラと、民に解き明かすレビ人たちは、民全体に向かって言った。「今日は、あなたがたの神、主にとって聖なる日である。悲しんではならない。泣いてはならない。」民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていたからである。


彼らは律法によって、自分も先祖も神様に背き、その結果捕囚となって惨めな生活をしてきたことが分かり、悲しみました。しかし、聖書学者のエズラも、総督ネヘミヤも、レビ人たちも「悲しんではならない。泣いてはならない」と言います。その理由は、この日は神様の元に戻ったことを記念する日だからです


もともとユダヤ人たちの7/1はイスラエルが奴隷生活から救われ解放されて、約束の地に導かれたことを記念する祝日です罪を犯したことは悲しく辛いことですが、そんな彼らを神様が赦してくださり、もう一度エルサレムに帰らせてくださいました。この日は神様の癒しと慰めを感謝し喜ぶ日でした。


(10-12)

さらに、彼は彼らに言った。「行って、ごちそうを食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった人には食べ物を贈りなさい。今日は、私たちの主にとって聖なる日である。悲しんではならない。主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。」レビ人たちも、民全体を静めながら言った。「静まりなさい。今日は聖なる日だから。悲しんではならない。」こうして、民はみな帰って行き、食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ。教えられたことを理解したからである。


神様は今も僕らに喜ぶことを望んでいます。律法は僕らの罪を明らかにします。ですがイエス様は「悲しむものは幸いです。その人は慰められるからです。」とおっしゃいます。(マタイ5:4)神様は打たれ砕かれた心をさげすむことなく、慰さめ、回復させ、赦しと平安を与えて下さいます。主は僕らを受け入れてくださっています。それゆえに「いつも喜んでいなさい。」と聖書は言います。(1テサ5.16)赦しと回復の教えを理解した人は喜びます。「民はみな帰って行き、食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ。教えられたことを理解したからである。」(12)


僕らも悔い改めて喜びましょう。大きな喜びは「教えられたことを理解したから」です。ハレルヤ!

ネヘミヤ11.22-23

 エルサレムは「聖なる都」と言われます。聖なる、とは「神様のもの」という意味です昔も今もエルサレムには多くの問題があるけども、神様の願いはエルサレムを神様の住まいとすることですそこにある神殿は「天にあるものの写しと影」と書かれていて、(ヘブル8.5)つまり、天国の模型というか、ミニチュアのようなものです

ネヘミヤは破壊されていたエルサレムの城壁を再建して、少しずつ奉仕者が定住するようにしました。(1)エルサレムで優先的にするべき奉仕は、感謝の歌を捧げることです


(17)

また、ミカの子マタンヤ。ミカはアサフの子のザブディの子である。マタンヤは祈りの時に感謝の歌を歌い始める指導者、バクブクヤはその同族の副指導者であった。


天では天使たちが昼も夜も賛美をしています。エルサレムの神殿は天にあるもののコピーだと聖書は言います。から地上での賛美は天の賛美の地上での現れです1歴代25章を読むと、神様の前で賛美するチームが24組作られたことがわかります。24時間365日昼も夜も絶えず神様に賛美を捧げるためには24の賛美チームが必要でした。止まることのない賛美はイスラエル全体の心臓部でした。

歌うことは日課として定められていて、そのためには指導者が必要でした。ダビデの時代からエルサレムでは24時間交代で神様に感謝と賛美の歌を歌うことが定められています。


(22-23)

エルサレムにいるレビ人の監督者は、バニの子ウジであった。バニはハシャブヤの子、ハシャブヤはマタンヤの子、マタンヤはミカの子である。ウジはアサフの子孫の歌い手の一人で、神の宮の礼拝を指導していた。歌い手たちには王の命令が下っていて、日課が定められていた。


1歴代誌25:7よると、歌の訓練を受けた人たちは「みな達人であった」と書かれています。達人とは、理解する人、という意味です。歌詞の意味を、神様の素晴らしさを理解する人が達人です


僕らも彼らと同じく、目標は神様の素晴らしさを理解して、たえず賛美することです。いつも感謝すること、いつも神様を褒めることです音楽があってもなくても賛美はできます。神様を喜び感謝し祈ることです地上で賛美することは天国の賛美に参加することです。これが、神様の願いです


1テサ5:16-18

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです


(ヘブル13:14-15

私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのですですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。


僕らの人生が感謝と賛美をささげることが中心でありますように。今日も歌いつつ、感謝しつつ過ごす日でありますように。ハレルヤ!

ネヘミヤ12.24

 心の中で「神様ありがとう」というのもいいけども、口で感謝を言い表すのはもっと素晴らしいです。ダビデは感謝を歌うことを日課として、レビ人たちにさせていました。


12:8 また、レビ人では、ヨシュア、ビヌイ、カデミエル、シェレベヤ、ユダ、マタヌヤで、マタヌヤはその兄弟たちといっしょに感謝の歌を受け持っていた。


しかも、感謝を互いに聞きあうことで恵みは共有されます。

それでダビデは賛美の組を作り、お互いに聞くことができるようにしました。


12:24 レビ人のかしらたちは、ハシャブヤ、シェレベヤ、およびカデミエルの子ヨシュアであり、その前方に彼らの兄弟がいて、組と組が相応じて、神の人ダビデの命 令に従い、賛美をし、感謝をささげた。


意外と知られていないのですが、賛美を互いに聞き合うのは聖書全体の教えです。


[エペソ人への手紙 5:19]

詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。


賛美の歌を聞き合うことで感謝を共有し、また、神様の言葉を共有することができます。賛美を分かち合うことも大事なことです。


[へブル人への手紙 13:15]


それなら、私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。

善を行うことと、分かち合うことを忘れてはいけません。


賛美することや感謝を口にすること、歌うこと、そしてそれをみんなで共有することは素晴らしいことです。今日も神様に感謝しお互い一緒に感謝する1日でありますように。

ネヘミヤ12.43-47

 献金する時は嫌々ながらでなく、強いられてでもなく、神様への感謝と喜びがあることが大切です。(2コリント9.7)神様がしてくださったことを一つ一つ数えるなら、感謝も喜びも与えられます。破壊されたままになっていたエルサレムの城壁が再建し、完成した時、人々は心から喜びました。何度も邪魔され、迫害されながら完成した城壁はまさに神様の恵みと神様の力を表すものでした。神様がしてくださったことを覚えるとき、人々は神様へ捧げ賛美と感謝の歌を捧げます。


[ネヘミヤ記 12:43]


彼らはその日、数多くのいけにえを献げて喜んだ。神が彼らを大いに喜ばせてくださったからである。女も子どもも喜んだので、エルサレムの喜びの声ははるか遠くまで聞こえた。


神様に感謝し喜ぶ時、神様のために奉仕する働き人たちの事も感謝するようになります。この時、祭司やレビ人、歌い手などの生活が支えられるために、人々は決まった捧げ物を喜んで持ってくるようになりました。


[ネヘミヤ記 12:44]


 その日、財宝や、奉納物、初物や十分の一を納める部屋を管理する人たちが任命され、祭司とレビ人のために律法で定められた分を、町々の農地からそこに集めた。これは、職務に就いている祭司とレビ人をユダの人々が喜んだからである。彼らは、自分たちの神への任務ときよめの任務を果たした。歌い手や門衛たちも同様であった。ダビデとその子ソロモンの命令のとおりである。


彼らの生活費は神様が与えてくださいます。それは人々の感動と喜びによります。


[ネヘミヤ記 12:47]


ゼルバベルの時代とネヘミヤの時代、全イスラエルは、歌い手と門衛のために定められた分を日ごとに渡していた。彼らはまたレビ人の分を聖別し、レビ人はアロンの子らの分を聖別していた。


感謝も喜びも賛美も、僕らから出たものはひとつもありません。全てが神様からのプレゼントです。背伸びしなくて大丈夫です。一つ一つ神様がしてくださったことを今日も数えましょう。感謝と喜びは100%、神様からのものです。ハレルヤ!献金する時は嫌々ながらでなく、強いられてでもなく、神様への感謝と喜びがあることが大切です。(2コリント9.7)神様がしてくださったことを一つ一つ数えるなら、感謝も喜びも与えられます。破壊されたままになっていたエルサレムの城壁が再建し、完成した時、人々は心から喜びました。何度も邪魔され、迫害されながら完成した城壁はまさに神様の恵みと神様の力を表すものでした。神様がしてくださったことを覚えるとき、人々は神様へ捧げ賛美と感謝の歌を捧げます。


[ネヘミヤ記 12:43]


彼らはその日、数多くのいけにえを献げて喜んだ。神が彼らを大いに喜ばせてくださったからである。女も子どもも喜んだので、エルサレムの喜びの声ははるか遠くまで聞こえた。


神様に感謝し喜ぶ時、神様のために奉仕する働き人たちの事も感謝するようになります。この時、祭司やレビ人、歌い手などの生活が支えられるために、人々は決まった捧げ物を喜んで持ってくるようになりました。


[ネヘミヤ記 12:44]


 その日、財宝や、奉納物、初物や十分の一を納める部屋を管理する人たちが任命され、祭司とレビ人のために律法で定められた分を、町々の農地からそこに集めた。これは、職務に就いている祭司とレビ人をユダの人々が喜んだからである。彼らは、自分たちの神への任務ときよめの任務を果たした。歌い手や門衛たちも同様であった。ダビデとその子ソロモンの命令のとおりである。


彼らの生活費は神様が与えてくださいます。それは人々の感動と喜びによります。


[ネヘミヤ記 12:47]


ゼルバベルの時代とネヘミヤの時代、全イスラエルは、歌い手と門衛のために定められた分を日ごとに渡していた。彼らはまたレビ人の分を聖別し、レビ人はアロンの子らの分を聖別していた。


感謝も喜びも賛美も、僕らから出たものはひとつもありません。全てが神様からのプレゼントです。背伸びしなくて大丈夫です。一つ一つ神様がしてくださったことを今日も数えましょう。感謝と喜びは100%、神様からのものです。ハレルヤ!献金する時は嫌々ながらでなく、強いられてでもなく、神様への感謝と喜びがあることが大切です。(2コリント9.7)神様がしてくださったことを一つ一つ数えるなら、感謝も喜びも与えられます。破壊されたままになっていたエルサレムの城壁が再建し、完成した時、人々は心から喜びました。何度も邪魔され、迫害されながら完成した城壁はまさに神様の恵みと神様の力を表すものでした。神様がしてくださったことを覚えるとき、人々は神様へ捧げ賛美と感謝の歌を捧げます。


[ネヘミヤ記 12:43]


彼らはその日、数多くのいけにえを献げて喜んだ。神が彼らを大いに喜ばせてくださったからである。女も子どもも喜んだので、エルサレムの喜びの声ははるか遠くまで聞こえた。


神様に感謝し喜ぶ時、神様のために奉仕する働き人たちの事も感謝するようになります。この時、祭司やレビ人、歌い手などの生活が支えられるために、人々は決まった捧げ物を喜んで持ってくるようになりました。


[ネヘミヤ記 12:44]


 その日、財宝や、奉納物、初物や十分の一を納める部屋を管理する人たちが任命され、祭司とレビ人のために律法で定められた分を、町々の農地からそこに集めた。これは、職務に就いている祭司とレビ人をユダの人々が喜んだからである。彼らは、自分たちの神への任務ときよめの任務を果たした。歌い手や門衛たちも同様であった。ダビデとその子ソロモンの命令のとおりである。


彼らの生活費は神様が与えてくださいます。それは人々の感動と喜びによります。


[ネヘミヤ記 12:47]


ゼルバベルの時代とネヘミヤの時代、全イスラエルは、歌い手と門衛のために定められた分を日ごとに渡していた。彼らはまたレビ人の分を聖別し、レビ人はアロンの子らの分を聖別していた。


感謝も喜びも賛美も、僕らから出たものはひとつもありません。全てが神様からのプレゼントです。背伸びしなくて大丈夫です。一つ一つ神様がしてくださったことを今日も数えましょう。感謝と喜びは全部、神様からのものです。ハレルヤ!





ネヘミヤ13.1-14

 聖書は「人に従うより神に従うべき」と言います。(使徒5:29)でも、この世は「神に従うより人に従うべき」と言います。僕らは神様よりも人に気に入られることを求めがちだし、影響力の強い人を神様よりも上に置きがちです


トビヤはエルサレムの城壁再建をあらゆる方法で妨害した人です工事をやめさせるための脅しも使いますが(6.19)、時にはお金で人を買収したり(6.12)、時には良さそうな理由をつけて妨害しようとした人です。(6.2)なんと彼は祭司エルヤシブと親しくすることに成功し、祭司エルヤシブは神様よりもトビヤを優先するようになっていきます。

指導者ネヘミヤがいた時には、それを見抜いて対抗できたのですが、ネヘミヤがエルサレムを離れた途端にトビヤは神殿の一部屋を自分の部屋にすることに成功します。祭詞エルヤシブは上手に取り入ってくるトビヤと親しくなり、麻痺させられて神様よりもトビヤを重んじてしまいます。神よりも彼に従い、神殿の部屋さえも与えてしまいました。


(4-5)

これより以前、祭司エルヤシブは、私たちの神の宮の部屋を任されていて、トビヤと親しい関係にあったので、トビヤのために一つの大きな部屋をあてがっていた。以前その部屋は、穀物のささげ物、乳香、器、またレビ人や歌い手や門衛たちのために定められていた、穀物と新しいぶどう酒と油の十分の一、さらに祭司のための奉納物を保管するところであった。


エルヤシブは働き人のための物の部屋をトビヤの部屋にしました。その結果、レビ人たちの生活費は支給されなくなり、礼拝は軽んじられ、奉仕者は自分の農地に逃げ去ってしまいました。


(10-12)

また私は、レビ人の分が支給されていなかったために、務めに当たるレビ人と歌い手たちが、それぞれ自分の農地に逃げ去っていたことを知った。私は代表者たちを詰問し、「どうして神の宮が見捨てられているのか」と言った。そして私はレビ人たちを集め、元の職務に就かせた。ユダの人々はみな、穀物と新しいぶどう酒と油の十分の一を貯蔵庫に持って来た。


これを知ったネヘミヤは怒ってトビヤの部屋からすべてのものを放り出し、部屋を取り戻します。


(7-8)

そのとき私は、エルヤシブがトビヤのために行った悪、すなわち、神の宮の庭にある一つの部屋を彼にあてがったことに気づいた。私は大いに気分を害し、トビヤ家の家財をすべてその部屋から外へ放り出し、命じて、その部屋をきよめさせた。そして私は、神の宮の器を、穀物のささげ物や乳香と一緒に再びそこに納めた。


今も僕らの問題は聖書の基準よりも人間的な都合や好みを優先し、影響力の強い人を優先してしまうことです

神様よりも人が優先される時に、神様を礼拝することは軽んじられ、賛美は消えてしまいます。

イエス様は「御名が聖とされますように」と祈るようにおっしゃいます。(マタイ6.9)それは神様のみこころが優先され、神様が王とされますように、という願いです


自分に聞いてみましょう。神様よりも重んじている人(もの)はいるでしょうか。その結果、神様が後回しにされ、讃えられず、礼拝されなくなってしまっていることはあるでしょうか。

今日も僕らが人よりも神に従いますように。