2026年5月27日水曜日

使徒3.1-16

 使徒3.1-16


キリストは今日もすべての権威を持っています。仕事のことも人間関係も体調不良も、天候も、誰も知らない心の奥にあることも、全部の権威がイエス様にあります。


ペテロとヨハネは乞食からお金を求められた時、全権を持っているイエス様の名前を信頼し、その力によってその人を歩かせました。



"彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。

ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。

彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。

すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」

そして彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、

躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。"

使徒の働き 3章3~7節



僕なら「癒されるように祈るねー」ぐらいで終わるかもしれません。でも聖霊に満たされている人は違います。聖霊に満たされる=キリストに満たされることです。

ペテロは「ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と、確信をもって命令します。これはペテロの自信ではなくて、イエス様が今、全ての権威を持って働いてくださることへの信頼です。「キリストの名によって」の意味は「キリストの権威とみこころの中で」ということです。

ペテロは絶対に「俺が治してあげる」とは言いません。ただ、イエス様の権威への確信に満ちた信仰が与えられていました。「私にあるもの(イエス様への絶対の信頼)をあげよう。」です。しかも、口だけでなくて、立ち上がる手伝いもしています。「絶対立ち上がる」と思っているからです。



"そして彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、

躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。

人々はみな、彼が歩きながら神を賛美しているのを見た。"

使徒の働き 3章7~9節



これを見た人たちは驚き、やじ馬が集まりはじめます。

集まってくる人たちに向かって、ペテロは「イエス様の復活と権威」を語ります。聞いてる人たちはイスラエル人たちだし、神様を信じている人たちです。彼らは海が分かれたり、天からマナが降ったり、死人が生き返ったり、火が降ったり、病気が治ることを知ってはいました。

ところがその神様のことを「昔はスゴかった」みたいに、小さく見すぎていたようです。

神様の権威は今もイエス様にあります。イエス様は「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。」とおっしゃいました。(マタイ28.18)

ペテロがすごいのではありません。この人を癒したのは神様の主権であり力です。



"これを見たペテロは、人々に向かって言った。「イスラエルの皆さん、どうしてこのことに驚いているのですか。どうして、私たちが自分の力や敬虔さによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。"

使徒の働き 3章12節



この乞食もイエス様の力を信じたようです。ペテロは彼にも信仰が与えられたと説明しています。



"このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。"

使徒の働き 3章16節



今日もイエス様に権威があります。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(ヘブル13.8)イエス様に全ての権威があり、イエス様以外に救われる権威はありません。



"この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」"

使徒の働き 4章12節



僕らは弱々しい祈りをしがちで、「どうせ無理だと思うけど…一応、祈ります」とか「もし癒されたらラッキーです。(でも無理っすよね)」などと思いがちです。が、御霊に満たされると確信が与えられます。

イエス様にすべての権威があります。不可能はありません。


御名によって祈るとは「神様の権威、御心、ご計画に自分を委ねる」ことです。

自分の思い通りになることではありません。自分を捨ててイエス様の権威の下にいるのが「イエス様の御名で祈る」ことです。

今日もイエスは復活して全てを支配しておられます。イエス様に信頼して祈りましょう。主に不可能なことはありません。ハレルヤ!

2026年5月26日火曜日

使徒2.37-47

 使徒2.37-47


「ひとりがラク」「気の合う人とだけでいい」「めんどうな人はブロック」…気持ちはわかります。神様の御霊によらなければそうなっちゃうと思います。ところが聖霊に満たされた教会は変えられます。



"彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。

彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。"

使徒の働き 2章41~42節



聖霊によってバプテスマを受けた人たちは、いつも使徒たちの教えを好んで聞くために集まりました。この当時はまだ「新約聖書」として記録される前です。使徒たちの「生トーク」でイエス様のことを聞くために集まり、交わり=共有をしました。しかも、イエス様のことばは知識ではなく聖霊によって心に書かれます。

すると、考えがイエス様っぽくなります。

教会はいつもみことばを求め、交わりを求めました。イエス様のことばによって心が変えられると、周りの人との関係が変わります。


集まりの中心はみことば、パン裂き、祈りでした。パンを裂くことは、イエス様が私のためにも、あの人のためにも身代わりに死んでくださったことを思い出させます。十字架は気が合わない人のために命を捨てて赦し愛しておられることの象徴です。教会はいつも十字架を思い出すことが中心でした。

みことばとパンを裂くことは、兄弟姉妹が赦し合い、愛し合う方向に向かわせます。そして聖霊に満たされるといつも神様と語り合いたくなります。それが「祈り」です。


「ひとりがラク」とは間逆です。赦し合うため、に集まります。苦手な人をイエス様と一緒に愛するために集まります。そこには喜びがあり賛美がありました。



"財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。

そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし

神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。"

使徒の働き 2章45~47節



「教会はこうあるべし」「こうあらねばならない」とは違います。聖霊よって神様と兄弟姉妹を愛したい、赦したいと願うようになった人たちです。

聖霊によって愛が与えられ、感謝と祈りと賛美が与えられます。受けるよりも与えたい心が与えられます。立場も考えも性格も違う人たちがイエス様と一緒に愛し合うようになります。

だから今日も求めましょう。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2.20)今も与えられます。「天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」(ルカ11.13)ハレルヤ!




賛美奉仕者の学び 2026-①  

 賛美奉仕者の学び 2026-①  


皆さんに質問です。

どんな賛美が良い賛美で、どんな賛美がイマイチですか?

今までの賛美体験の中で、神様が近く感じた、神様の凄さに圧倒された、神様が語っておられるようだった、自分の罪深さに圧倒された、涙が止まらなかった、など神様体験を一つ分かち合ってください。


🔴ポイントその1 

賛美奉仕者はみことばを伝える人


(歴代誌 第一25章1節)

また、ダビデと軍の長たちは、アサフとヘマンとエドトンの子らを奉仕のために取り分け、竪琴と琴とシンバルに合わせて預言する者とした。


(6-7節)

これらはみな、その父の指揮下にあって、シンバル、琴、竪琴を手に、主の宮で歌を歌い、王の指揮下に神の宮の奉仕に当たる者たちである。アサフ、エドトン、ヘマン、

彼ら、および、主にささげる歌の訓練を受け、みな達人であった

彼らの同族の数は二百八十八人であった。


ダビデが作った聖歌隊のリーダーたちは、楽器を持って預言する人たちでした。

7節の「達人」も預言者であって、みことばを人々に悟らせる達人です。

演奏もするけど、その目的は明らかに神様のみことばをはっきり人々にわかるように導く人です。辞典で調べるとgive to understanding とあります。楽器のうまさもあるけど、それは神様の栄光と神様のみことばを人々に明らかにするための上手さです。


🔴ポイントその2

賛美奉仕者はみことばと主の栄光だけが残ることを願う人


楽器の伴奏とか歌の声とかそういうのは消えて、最後には神様のご栄光とそのみことだけが残るように奉仕します。バプテスマのヨハネが言ったように「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3.30)私が消えていき、神様のご臨在だけが人々に残るように導くのが賛美奉仕者です。


(詩篇115.1)

私たちにではなく 

主よ 私たちにではなく

ただあなたの御名に栄光を帰してください。


集会が終わった時に「遠藤先生の今日のピアノ上手かった!」って、僕には励ましでもあるけど、集会の目的はそこではありません。「あのギターの人うまかったなー」「俺もああなりたいな」も神様中心ではありません。

「今日、神様がここにおられることがわかった」「神様の御言葉がはっきりわかった」「神様の栄光に圧倒された。」それを目指します。歌の中でみことばが心の中に入るように、主のご臨在が現れるように仕えるのが賛美奉仕の役目であり目指すところです。

集まる人たちに御言葉だけがはっきりと示され、人々が神様の素晴らしさだけを見上げるような賛美チームになれるかどうかが問われています。


そのためには音楽的な準備も必要です。

全然準備してない伴奏で、今日、楽譜初めて読む、伴奏する人もよくわかってない伴奏だったら、集まる人たちも神様に心が向きずらいです。ミスばかり気になったり、伴奏が時々止まっちゃったりするようならむしろ邪魔になります。なので、予習、個人礼拝、すごく大事です。


間違わないで弾くのが目的ではなく、神様に心を向け、歌詞に現れる神様の素晴らしさを思い、神様の栄光の前にひざまずく気持ちで弾けるようになるまで準備することです。

伴奏やリードする人がそこまでいけないと、集まる人々もそこまで行きずらいものです。

だから技術も練習も大事です。でも、一番の練習は神様のみことばを掲げ、神様を見上げて歌う、という練習です。日々の練習も、本当にここに神様がおられる、思い礼拝することが目標です。


賛美奉仕者は「演奏者」ではなく「礼拝を導く奉仕者」です。この自覚が必要です。

人々を神様の前にお連れし、先頭に立って、まず神様の前に出る人です。

神様の前に音楽をささげ、歌をささげる人です。そして神様の御言葉を与えられ、それを人々にはっきりと示す人です。これが聖書が教える賛美奉仕者です。


日々の祈りとして、神様のことが自分もみんなもはっきりわかる賛美にしてください、神様が確かにここにおられることを表す賛美にしてください、そのための奏楽にしてください、と祈りつつ準備しましょう。


🔴ポイントその3

賛美奉仕者は変えられたいと願う人


そこに向かいたいと思う人は成長します。変えられます。

みんなその途中です。完成した人はいません。たどたどしい賛美奉仕であっても、神様は喜んでくださいます。


子どものピアノの発表会はドキドキします。演奏が止まりそうな人もいます。それでも親は頑張れーって応援します。神様も同じように、それ以上に、どんなに幼い賛美でも応援してくださいます。

賛美の奉仕も初めての人は緊張したり、間違って止まりそうになったりします。

それでも応援するし、もうやめろ、とは言いません。子どもが挑戦していることを親は喜び応援します。

子どもが喜んでお父さんの誕生日の歌を歌ってるなら、「パパありがとう!大好き!」と歌ってるなら音程のズレは問題ではありません。

子どもたちがお父さんを喜んでいることはお父さんの喜びです。


教会の伴奏もそうです。神様を愛し、神様に喜んでほしい、と願っていることが神様の喜びです。どんなに幼くても喜ばれています。練習の方向性は、神様に向かう練習、神様を喜び、神様に向かう練習、神様を喜びとし、感謝する練習です。そして、神様の素晴らしさを表現する練習です。


どんな神学校に行っても、変えられたいと願わなければ意味がありません。その求めがなければ、有名な神学校を卒業しても意味がありません。


自分がこれでいい、このままでいい、変えられたくない、と思うなら何も成長がありません。

完成している人はいません。もっと神様に近くありたい人になりたい、って願う人。

もっと神様の栄光を見たい、そして、みんなと一緒に神様の前に行きたい、って願う人。

もっと変えらて神様に喜ばれたいと願うことは賛美奉仕者にとって大事なことです。


今みんな途中です。だから幼い奉仕はだめだ、ということはありません。


🔴ポイントその4

賛美奉仕者は主の元に導く案内人


賛美奉仕者は集まった人々を神様の御もとに導く案内人です。先に神様のもとに行って人々を案内する人です。演奏者ではありません。

いい感じの音楽で満足させる人ではないし、淡々と業務的に伴奏する人でもありません。神様との生きた関係に人々を導く案内人です。


歌の人も、オルガンの人も、ピアノの人もベースの人も、この意識を持つと変わります。

私たちは人々を代表して神様の前にお連れしている、という意識です。この自覚があるか無いかで礼拝は変わります。


登山のガイドでも、旅行のガイドでも、ガイドはあらかじめ経験がある人です。

山を何度も登ったことがある人、旅行なら現地に行ったことがある人、そこに住んでいる人がガイドになれます。


同じように、まず自分が神様の前に何度も出ている人です。日々、音楽で、歌で、主の前に出る経験をいつもしている人が人々を導く案内人になれます。


まずは自分が神様の前に出ること、まずは自分が歌詞を通して神様を体験し悟ることが前提です。

その御言葉を人々と一緒に掲げるために一緒に歌い、伴奏します。この素晴らしい神様のもとに連れて行きます、この素晴らしい御言葉の前に連れて行きます、という意識が大事です。


日々、まず自分がみことばを食べて、賛美を歌っている人がリードできます。当然です。

スイミングスクールの先生は泳げる人です。

賛美リードする人は、自分が賛美し礼拝している人です。

誰よりもみことばを読み、聞き、学び、喜んでいる人です。

その人は人々をリードできます。


実はこれはプロジェクターを出す人も音響の人も配信の担当もカメラの人もそうです。目的は神様の前に人々をお連れすることです。神様の真理の御言葉がはっきりと音楽に乗せて現れるために、真理を掲げるためにプロジェクターを使い、音響を使い、カメラを使います。

神様の栄光と真実さの前に人々を導くための奉仕者です。


聖書が「みな達人であった」とあります。みんなこの意識があったし、そのための技術があったと言うことです。みことばを掲げるために、主の栄光のために、人々をその前にお連れするために奉仕している、と言う意識が大事です。


🔴ポイントその5

賛美と感謝はご臨在に近づく方法


(詩篇100篇4節)

感謝しつつ主の門に賛美しつつその大庭に入れ。主に感謝し御名をほめたたえよ。


ほとんどの教会ではメッセージの前に賛美があります。

賛美をもって神様の前に来なさい、感謝で大庭に入りなさい、聖書は言います。詩篇22篇によると、神様は賛美を住まいとしておられます。


日常でもそうです。朝起きて祈ります。ディボーションをします。それもまず賛美し感謝することからスタートです。そもそも、天の神様の前には賛美と栄光しかありません。天では神様のご臨在の周りで数えきれない大群衆の賛美と感謝が満ちています。

賛美と感謝は神様に相応しいものです。


(黙示録5章8節)

四つの生き物と二十四人の長老たちは子羊の前にひれ伏した。彼らはそれぞれ、竪琴と、香に満ちた金の鉢を持っていた。香は聖徒たちの祈りであった。


(詩篇22:3) 

けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。


その天国の礼拝を表すのが地上の礼拝です。天の礼拝にお仕えするのが地上の賛美チームです。

地上の生活がどんなに苦しい状況でも、天では賛美が満ちているし、神様が賛美されなくなることはありません。

だから、一旦自分の問題は脇に置いて賛美することです。

自分がああです、こうです、こうなりたい、助けてほしい、ってのは一旦は脇に置いて、神様がどんなに偉大で栄光に満ちているか、力に満ちているか、その神様を思い巡らし、感謝し、賛美するときに、僕らはそのご臨在に近づけます。


僕らは自分の話ばかりしたがります。

そして、自分の音を聞いてほしいって思います。

自分がどう思われるんだろう、今の歌は音程はどうか、って思います。

そんなことばかり考えていると、神様との交わりが遠くなります。

自分の意見、主張、自分のための演奏ははっきり言って邪魔です。

自分も人々も神様からどんどん遠くなってしまいます。


健全な、そして親しい神様との交わりに自分が入り、そして人々もそこにお連れする方法は演奏じゃありません。主を賛美し、主に感謝を捧げることです。演奏することではないです。主の御言葉を掲げることです。歌詞に表された真理を高く掲げ、宣言することです。


賛美の中で神様の前にへりくだり、主の栄光を仰ぎ見る健全な交わりが深まっていくほど、みことばも入りやすくなります。聖書朗読の時も、メッセージの時も、心が開かれ、へりくだって、作り替えてください、私はあなたのものです、という明け渡しが大切です。

自分のことばかり気にしていると神様が遠いままです。

良い音楽を聞かせなきゃとか、自分のことが中心になっていると、みことばも入ってこないし、集まる人々からも神様を遠ざけてしまいます。


🔴実際の日々の練習方法


練習で大事なことは、今の演奏、神様にどう思われたかな?と思って練習することです。

神様の前で演奏できたか?神様の栄光のためだったか?それとも自分のためだったか?

そういう練習です。歌や楽器が神様の栄光にお仕えするものだったか、感謝をささげるものだったか、そういう視点で日々練習するのをお勧めします。

2026年5月25日月曜日

使徒1.1-8

 使徒1.1-8
イエス様が「あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28.18)とか、「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16.15)とかおっしゃいます。…でもやっぱり僕らは弱くてコワくてできません。人の目は気になるし、拒絶されると傷つくし、なんて話したらいいかわからないし、そもそも口下手だし…できない理由はいくつも出てきます。
イエス様は福音を伝えるように命令しましたが、「すぐにいけ!頑張れ!」とは言いませんでした。むしろ弟子たちには「力を受けるまで出発しないでエルサレムで待ちなさい」とおっしゃっています。聖霊の「力」が必要だからです。


"使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」"
使徒の働き 1章4~5節

聖霊に満たされると「力」を受けます。恐れがなくなり、やる気も愛も与えられ「福音を伝えたい」と思います。話すことばも与えられます。イエス様はこのようにおっしゃいました。

"しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」"
使徒の働き 1章8節

聖霊が注がれると力が与えられ、福音を証言するようになります。イエス様はこの「父の約束」(聖霊が与えられること)を「待ちなさい」とおっしゃいました。(4-5)

ペテロもヨハネも怖がりで隠れていた人です。
すでにイエス様から息を吹きかけられ聖霊が与えられてはいました。(ヨハネ20章22節)でも、聖霊は大事な時には毎回特別に新しく満たしてくださり、力と大胆を与えてくださっています。クリスチャンにはすでに内側に住んでおられる御霊ですが、特別に満たされる時、力が注がれる時、というのがあるようです。
例えば、ペテロが最高議会に逮捕され尋問された時、「聖霊に満たされて」大胆に語ります。

"そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。"
使徒の働き 4章8節

迫害され脅されていた教会も、祈り終えると「聖霊に満たされ」大胆に語り出します。

"彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。"
使徒の働き 4章31節

聖霊の力が与えられないと、僕らは何もできません。
僕も、メッセージの時、人と会う時、学びを担当する時、毎回「僕にはできません」と祈るし「僕でなく聖霊が与えられて語らせてください」と祈ります。
語らせてくださるのは聖霊です。力を与えてくださるのは聖霊です。

"人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです。
話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です。"
マタイの福音書 10章19~20節

今日も聖霊を求めましょう。僕らは力を受けます。
聖霊によらなければ、僕らは何もできません。
神様100パーセント、僕らは0パーセントです。
神様、聖霊で満たしてください。

使徒2.22-36

 使徒2.22-36


イエス様は「昔の人」ではありません。聖書は「昔の話」ではありません。

「イエス様は昔はこうだったらしい」のではなく、復活して、今、生きていて、働いていて、今、全てのことを支配している王です。


つい数か月前、イエス様を十字架で処刑したばかりのイスラエル人たちにペテロは伝えました。それは、「あなた方が殺したイエス様は復活した」ことと、「イエス様は預言の通りの世界の王である」ことです。



"しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。"

使徒の働き 2章24節



イエス様を殺したイスラエル人たちは旧約聖書のことばをよく知っていたし、信じていました。イエス様の時代から約1000年前のダビデによって、神様はキリストが王様であり復活する、と預言していました。



(2章25-27節)

ダビデは、この方について次のように言っています。『私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることはありません。 

それゆえ、私の心は喜び、私の舌は喜びにあふれます。私の身も、望みの中に住まいます。 

あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。 



「たましいをよみに捨て置かず」とはダビデのことでなくキリストのことです。



(29-32節)

兄弟たち。父祖ダビデについては、あなたがたに確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日に至るまで私たちの間にあります。 

彼は預言者でしたから、自分の子孫の一人を自分の王座に就かせると、神が誓われたことを知っていました。 

それで、後のことを予見し、キリストの復活について、『彼はよみに捨て置かれず、そのからだは朽ちて滅びることがない』と語ったのです。 

このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。 



この後、ペテロも他の使徒たちも繰り返し熱く、一番大事なこととして伝えているのは、イエス様が復活したことと、今も生きている王であることです。使徒たちはその証人です。



"ですから、ほかの箇所でもこう言っておられます。『あなたは、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せになりません。』

ダビデは、彼の生きた時代に神のみこころに仕えた後、死んで先祖たちの仲間に加えられ、朽ちて滅びることになりました。

しかし、神がよみがえらせた方は、朽ちて滅びることがありませんでした。"

使徒の働き 13章35~37節



"彼は預言者でしたから、自分の子孫の一人を自分の王座に就かせると、神が誓われたことを知っていました。

それで、後のことを予見し、キリストの復活について、『彼はよみに捨て置かれず、そのからだは朽ちて滅びることがない』と語ったのです。

このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。"

使徒の働き 2章30~32節



今もイエス様は全ての権威がある王です。生きて働いておられます。

この後、長年歩けなかった乞食が歩けるようになり、躍り上がって飛んだり跳ねたりして神様を賛美しますが(3.7-8)それは「神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名によることです。 」(3.10)


イエス様は今日も生き、全ての権威を持っています。イエス様は「昔の人」ではありません。聖書は「昔の話」ではありません。復活して、今、生きていて、働いていて、全ての権威を持つ王です。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(3.12)ハレルヤ!