2歴代17.1-12 メッセージ
●祝福を与えようとしている神様。
誰だって祝福されたいです。祝福がいいですか? 祝福を失うのがいいですか?って言ったら、誰だって「祝福がいいです」って決まってます。
そして祝福される、あるいは祝福するのは、神様の願いそのものです。
平和もそうですね。戦争がいいですか、平和がいいですかって、誰も「戦争がいいです」って言う人がいるわけないんです。平和がいいに決まってます。
貧乏がいいですか、お金持ちっていうか、安定した、心配しない、いつもお金で困らない、どっちがいいですかって、お金で困らないほうがいいに決まってますよ。
これ、みんなそう。病気がいいですか、健康がいいですか?健康に決まってるんです。
個人としても、家庭としてもそう。職場としても、教会としても、あらゆるコミュニティー、あらゆるグループがそうに決まってます。祝福されたい。安定したいし、喜んでいたいし。
これ、実は神様の願いそのもの、そして神様が与えたいと願っておられるものなんですね。
「あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」(3ヨハネ1.2)
これは神様の願いです。
主の祈りでイエス様、こうお祈りしなさいっておっしゃいます。
それは、「御国が来ますように」。神様の国が来ますように。です。
神様の国の完成形には戦争ないんですよ。神様の国にはあらゆる悲しみも叫びも病もないんです。神様の国には闇が一つもないんですね。もちろん僕らの生活には貧しさも病気も悲しみもあります。
でも、神様はこの神様のみ心が天で行われるように、地上でも行われることを願っておられます。
これが神様の願い。幸いを、祝福を与えたいと思ってます。
今僕らは途中です。苦しみの途中、病気の途中、です。でも目指すべきゴールは御国が来ますように、み心が天でなるように、その表れとして、この地上でなるように、です。
神様の国を表すために、神様はイスラエルという国を神様が作ったんです。ところが実際はそうなりませんでした。
罪深くトラブルだらけの国だし、神様のみ心の国にはなってないけど、それでも神様の願いはアブラハムの子孫であるイスラエル人たちを祝福する、あなた方は祝福となりなさい、それが願いです。
地上で天の国を表すような国だったはずなんです。
なぜうまくいかなかったのか。それは神様に背き続けたからです。
そんな歴史の中でも、ときどきお手本のような王様が生まれ、お手本のような祝福がありました。
今日の箇所は、まさに「天の国、神の国、御国が来ますように。この御心が天で行われるように、地上でも行われますように」って表された、数少ない場面です。
地上で生きている私たちの個人の人生、そしてこの所属する教会や会社や学校や国、政治、そのお手本のような箇所で、手本のような、祝福されたお手本のような王様を見ます。
●ヨシャファテ王とユダ王国の祝福
周辺諸国からも祝福され、内部の国民からも祝福されていました。
まずヨシャファテが王様だった。南ユダ王国。
まず、周りから攻められることはなかった。完全な平和がありました。周りの国は誰も攻撃しませんでした。あそこの国は神様に祝福されている。あそこの国の神様は本物だ、っていうことが周りにも分かったからです。
「主の恐れが、ユダの周りの地のすべての王国にあったので、ヨシャファテに戦いを仕掛ける者はいなかった。
ペリシテ人の中には、ヨシャファテに貢ぎ物と税としての銀を持って来る者があり、アラビア人も雄羊七千七百匹、雄やぎ七千七百匹を彼に持って来た。
こうして、ヨシャファテはしだいに並外れて強大になり、ユダに城塞や倉庫の町々を築いた。」
歴代誌 第二 17章10~12節
周りの国は神様を恐れて攻撃しないだけじゃなく、貢ぎ物を持ってきました。
異教の国なのに、偶像礼拝の国なのに、でも、やっぱり南ユダを尊敬を持って、良い関係でいたいと思ってヨシャファテ王に貢ぎ物を持ってきました。
それぐらい、平和がどころか、非常に周りの諸国から尊敬され、大事にされていたという、数少ない場面です。
・内側からも
もちろん、周りの諸国から尊敬されていただけじゃなく、ユダの国民みんながこの国を、自分の国を愛し、ここで建てられている王様を尊敬し、愛していました。
「主は、王国を彼の手によって確立された。ユダの人々はみなヨシャファテに貢ぎ物を持って来たので、彼には富と誉れが豊かに与えられた。」
歴代誌 第二 17章5節
外側からも、内側からも、喜びが、祝福が、平和があふれていたことが分かります。
●なぜ祝福された?
1 神様の主権によって。
僕らが知りたいのは、そして、なぜこの王様とこの国がそんなに祝福されたのかです。
なぜなら、僕らも祝福されたいからです。
僕らも平和でありたい。僕らも喜びのある人生を送りたい。僕らが所属する教会も、職場も、学校も、家庭も、喜びと平和と愛で、そして貧しすぎたり、トラブルに翻弄されたりすることがないようにしたいからです。
なぜ彼は祝福されたのか、書いてあります。
まずは今読んだ5節。主語はヨシャファテが頑張ったとは書いてない。
主語は、「主」です。「主が確立された」からって書いてあります。
祝福したいと願っているのは神様です。祝福されたいと思っているのは僕らです。そして、それを与える権威があるのは神様です。
(5)
主は、王国を彼の手によって確立された。
(10)
主の恐れが、ユダの周りの地のすべての王国にあった
祝福と平和は僕らが努力して勝ち取るものではなく、神様がそうなさる。そこが中心です。
「神様の支配、神様の国が来ますように。御心が天で行われるように、地上でもなされますように。」っていうのは、神様がなさることですね。
神様の心が、私たちの計画じゃなくて、私たちの計算でもなくて、神様のご計画が天国で完全なように、神様の国では完全なように、この地上でもなりますように。
まず、この王国を祝福したのは神様です。確立したのは神様。富と誉れを与えたのは神様です。
これ、今も変わらなくて、僕にも与えようとしてます。
もちろん神に従っている人にも苦難があります。
祝福の形が『お金が増える、病気がなくなる、トラブルがなくなる』だけではないです。
それでも、神様は皆さん苦しみやトラブルの中でも平安を与え、将来に希望と栄光を与える約束をしておられます。繰り返しになりますけど、祝福するのは神様です。
このヨシャファテとこの王国を確立したのは神様です。人間ではありません。
2、ヨシャハテが神様に合わせることによって
主権は神様ですが、神様からの祝福を受け取る側の姿勢も大事です。
昔、僕が子どもの時、ラジオって言ったら、今そもそもラジオって知らないかもしれないけど、チューニングを合わせるんです。いくら面白い番組があっても、受信側が大事なんです。
ラジオのチューニングを合わせて、雑音はいらないところにダイヤルを調整して、歌謡曲を聞いたんですよ。面白い曲が流れても、いくら楽しい番組があっても、こっちのチューニングが合ってなかったら聞こえなかったり、雑音が入って途切れたりしました。
同じように、神様は祝福したいと、神様は平和を与えたいと、神様は喜びを与えたい、愛を注ぎたいと思ってます。国に対しても、組織としても、個人に対しても。
じゃあ、あとはチューニングの問題です。
私たちがそれを受け取るようになってるかどうか。準備ができてるかどうかです。
ヨシャファテはどうだったでしょう。
「主はヨシャファテとともにおられた。彼がその先祖ダビデの最初の道に歩んで、バアルの神々に求めず、
父祖の神に求め、その命令にしたがって歩み、イスラエルの行いに倣わなかったからである。」
歴代誌 第二 17章3~4節
まず、主は彼と一緒にいました。
彼も神様を求めたんです。神様の御言葉、神様の命令に自分を合わせたんです。
ピアノとギター、一緒に演奏する時、どっちが合わせるかってギターです。ピアノは業者を呼ばないと調整できない。ギターは調整できるから。
人間と神様はどっちが合わせるか?答えは人間です。ヨシャパテの方が神様に合わせました。
なぜなら、神様の方が正しいし、神様のプランの方が高くて完璧だからです。
罪とは、自分が神様のような主権や栄光を持ちたがるってことです。悪魔は善悪の知識の実を食べるように誘惑して、これを食べるとあなたは賢くなって、目が開かれて、神様のようにようになれるって言います。自分が上、神様が下。自分が上、相手が下。これが罪の基本です。それに騙されたのがアダムとエバ。そして僕らもその子孫です。
だから僕らの心の中には自分が上、神様が動いてくれればいい。自分は動かない、変わるつもりはない、って高ぶりがあります。人間関係でも相手が変わればいい、向こうが合わせてくれよ、こっちは譲る気はない、って高ぶりや頑固さが付き纏います。それが罪。
※おもしろTシャツ
「酒は体に悪いと書いてあったので、読書をやめた」
これが僕らの姿です。聞きたい話でないなら聖書を読まない、ここに僕らの高ぶりがあると思います。
「イスラエルの行いに倣わなかったからである。」とあります。
この当時国は分裂していました。ヨシャハテの国は南ユダです。
隣の北イスラエルという国は堕落していました。
そこの王様は最悪のアハブという王様でした。
偶像を作る人です。つまり、本当の神様より自分が作った神様を上にする人、つまり自分を上にする人です。
ヨシャハテは違いました。隣に習うことをしませんでした。
「主はヨシャファテとともにおられた。彼がその先祖ダビデの最初の道に歩んで、バアルの神々に求めず、
父祖の神に求め、その命令にしたがって歩み、イスラエルの行いに倣わなかったからである。」
歴代誌 第二 17章3~4節
彼は神様に自分を合わせその命令に従いました。
そうするとどうなるか。
神様の願いが自分のものになっていくんです。
神様の願う通りに、この王様が動いていくんです。
そうすると、神様の願い通りの国になっていきました。
ヨシャハテは神様の道に歩むって決めたんです。
神様のおっしゃる通りに、神様がダメって言ったらダメなんだ、従うことに決めたし、実際に従いました。
※KBC
今回、加古川バプテストに行って、学びました。奉仕に行ったというより、神様に従う祝福がどんなに素晴らしいか、それを見せてもらいました。420人もの教会の人たちがみんな喜んで、子供から高齢者まで、弱い人も元気な人も、やらされているのでなく、みんなで神様を誇っている、神様を喜んでいる、という姿です。
4日間は僕らの研修のようでした。
僕は特に4人の牧師の中の2人の人と親しくさせてもらったんだけど、あまりにもインパクトあったので、あれはどうなんだ、これはどう考えているか、など、たくさん質問しました。
その後も牧師の皆さんとラインで質問したりしてます。
その返しが、大体はああすればいい、ということより、主権は神様、神様が教会を導く、という喜びが言葉の端々に現れていました。
私たちを導くのは神様です。人の方法ではありません。
ヨシャハテを祝福されたのは神様。
この国を守ってくださったのは神様です。
神様のみことばによって、神様の知恵によってそれに従うことで国は祝福されました。
教会も同じです。人間の賢そうな意見や流行や方法とか、それを神様より上に置いてはいけないです。
神様とそのことばが上です。ヨシャハテはそうしました。
その時に、神様との道が通ったんです。天の祝福注がれるように、喜びが、愛が、平和が注がれる道が通りました。チューニングで自分を神様のことばに合わせて、従いました。その時に神様の願い通りの祝福された国となっていきました。
・誤解や嘘。
神様の命令に従うと窮屈だぞっていうのは嘘ですよ。聖書はアレだめ、これだめ、だからいやなんだ、って思う人がもしかしたらいるかもしれません。
例えば、盗んではいけない。という教え。これはすごく快適な世界を目指してます。
カギが不要。もうパスワードは不要になります。盗みがない世界は快適です。
夫や妻が取られるとか、誘惑されることもありません。
淫らなこと、姦淫してはならない。これはすごく幸せな世界です。どの夫婦もラブラブです。相手を疑う必要がない。家庭が壊れることもありません。与えられた相手に全てを注ぐことができます。
だのに、僕らは盗んだり、姦淫したり、嘘をついたりして自分を窮屈にします。
神様の命令は僕らを祝福し自由と喜びを与えるためのものです。
神様の命令に従うことは重荷とはなりません。
イエス様はおっしゃいました。私の命令に従うことは重荷とはなりません。
「神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。」
ヨハネの手紙 第一 5章3節
「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
マタイの福音書 11章30節
私のくびきっていうのは、動物、家畜が同じ方向に歩くようにつける木の枠のようなもの、木の首輪のようなものです。
イエス様と一緒に、イエス様と同じ方向で、イエス様の言葉の通りに歩こうと思う人は全然負担にならない。むしろ喜びだと言うんです。
神様の命令、イエス様の命令に従うことは窮屈じゃない。重くもない。喜びですよ。そこには自由があります。神様からの愛も平安お喜びも受け取りやすくなります。従うことは自分をチューニングすることです。
ヨシャファテは僕らのお手本です。
神様の命令に自分を合わせていくことは窮屈じゃなかった。重いものでもなかった。
神様と一緒に、天国がこの地上でなるように、御国が来るように、神様と一緒に歩むことが何よりも祝福、喜び、繁栄の源でした。
なぜなら、神様がそれを願っているんだからです。
3 偶像を取り除くことによって
ヨシャファテは、神様以外のものを神様の位置、高い位置に置くことを認めませんでした。
(6)
彼の心は主の道を大いに誇りとし、彼はさらに、高き所とアシェラ像をユダから取り除いた。
高きところとは、偶像礼拝をする場所です。徹底的にそれらを破壊しました。国の中に偶像礼拝する場所がないようにしました。
ヨシャハテは神様に従うことが祝福だし喜びだし、誇りでした。
偶像礼拝、神様以外を求めるような場所を壊していきました。
「うちの国は、唯一の神様だけ、神様のことばだけで行きます」という政治をしたんです。
そうしたときに祝福されたとわかります。
隣の国とその悪い王アハブは、神様を知っていても、神様の教えよりも自分の欲望、自分の力、自分の計算、自分の計画、偶像を作って、バアルを礼拝して、そして欲望を叶えることが幸せだと誤解していたんです。実は縛られて自由を失っているのは偶像礼拝の側です。
結局、苦しんでいます。結局、戦争があります。結局、喜びはありません。平和もありません。繁栄もありません。
僕も今、東栄教会の責任者として、この教会の祝福のために、やっぱり聖書に従いましょう。第一に神様の言葉を求めましょう、って言いたいです。
教会が神様のことば以外を中心にしてずれていくってあります。
神様よりも人間中心になったり、お金中心になったり、あり得ます。
「もっとこうしたらみんな心地よく集まりやすいんじゃないか」とか、良さそうな話は入ってくるでしょう。
でも僕がここの責任者である限りは、「最終的な判断基準を神様の御言葉に置く」と言い続けます。
なぜなら、それが神様の願いだと信じるからです。
でも、神様が御言葉を与えてくださって、「こうしなさい」って言ってくださっているからです。
そこに従うときに祝福があることは、自分の体験としてもそうです。
だから毎日聖書読みましょって言います。
「執事選挙、聖書が好きな人に投票してください」ってお願いしています。
教会の大事な判断をする人ほど、聖書を知らなければならないと思います。
神様の御心を求める役割を担うなら、神様の言葉を知ろうとする姿勢がどうしても必要です。
神様の言葉を読まない人、従うつもりのない人がリーダーとなって意思決定するのは避けたいことです。
4、みことばを教えることによって
ヨシャファテは、隅々まで御言葉を読めるように、
だから、きちんと教育する必要があったわけです。
それぞれ、神様に聞きましょう、だけでなく、専門家が巡回して教え続ける、そういう、御言葉を浸透させる政治をしたんですね。
「彼はその治世の第三年に、彼の高官たち、ベン・ハイル、オバデヤ、ゼカリヤ、ネタンエル、ミカヤを遣わして、ユダの町々で教えさせた。
彼らとともにレビ人も同行した。すなわち、シェマヤ、ネタンヤ、ゼバデヤ、アサエル、シェミラモテ、ヨナタン、アドニヤ、トビヤ、トブ・アドニヤなどのレビ人である。また、彼らとともに、祭司のエリシャマとヨラムも同行した。
彼らはユダで教えた。主の律法の書を携え、ユダのすべての町を巡回して、民の間で教えた。」
歴代誌 第二 17章7~9節
エルサレムに住む人だけでなく、遠い街に住んでいる人も、みんな全ての街の人が神様の言葉を聞き、それに従うことができるように、みことばが隅々まで生活に浸透するように教え続ける政治をしました。
神様は教会だけでなくて、皆さんの家庭も、職場も、学校も、町内会も祝福したいと願っています。
そして皆さんがそれぞれの場所に遣わされています。
親として家庭に遣わされ、会社員として遣わされ、学生として学校にいき。その場所が神様が祝福を与えたい、と願っている場所です。
「この会社のここが悪い」と言いたくなる気持ちはわかります。「この学校のここがダメ」って言いたい気持ちはわかります。この家族があれが問題、って気持ちはわかります。でも、批判するために遣わされているのでなく、神様の祝福と愛をそこにもたらすために遣わされています。
まずあなた自身が御言葉に聞き従い、そしてそれを自分のものとして生きるという祝福を喜びを体験することです。神様の喜びと祝福は個人で止まらないで、みなさんが所属する場所に影響していきます。
※KBCの先生たちとのやりとりで教えられたことがあります。
周平さんが、言っていました。はっきりと、僕らは自分の祝福を求めます。自分の教会が祝福されることをまず求めます。
それは、その祝福が必ず、地域に、それぞれの場所にそして、他の教会に他の教会に流れていくと信じるからです。
自分らだけが良ければいいのではなく、神様の祝福を求めることが、神様を第一とすることが自分の祝福となり、教会が祝福され、そしてそれは周りに関わる全ての人たちに流れる、と確信してそう告白していました。
祝福されるためにまず、聖書を求めます。
と告白していました。
毎週の礼拝の中でそうみんなで口に出して告白していました。
※ちょっと紹介します。
5つの信仰告白。
1 私たちはあなたの言葉、聖書をしたい求めます。
2 私たちは罪を嫌い、きよさを求めます
3 私たちは什一を持って、あなたに告白します
4 私たちは礼拝することを優先します
5 私たちは結婚を大切にし、ご計画に従います。
まずはみことばです。これを学び、したい求め、教えることが祝福となる、というのが最初でした。
その他も全部聖書に従うことから出ています。
これを毎週みんなで神様に告白しています。ここに祝福があり、それは他の教会に流れていくと信じてるからです。
聖書のみことばをきき、信じるだけでなく、従うことです。
自分の生活に適用して従うことです。
例えば、みんなが特定の人の悪口言っていても、自分は言わずに、その人のいいところを言うとか。弁護するとか、みんなが暗闇に落ちて行かないように、神様の愛と祝福をグループに与える存在です。
まず自分が神様の言葉に聞いて、従うことです。人をさばくのでなく、嫌ったり憎んだりするのではなく、神様からの赦しと愛をまず自分が受け取ることです。次に苦手あの人を赦し、祝福する祈りをまず自分からすることです。みなさんの職場や家庭はみなさんが従うことで祝福されていきます。
まあ、ある牧師はカフェを経営してるけど、お客さんに聖書を教えたいんだけど、「あのお客さんに聖書の何章何節」なんて言わないで、パウロの言葉を「僕の先輩でね、もう亡くなった人の言葉なんだけど」とか「僕の知り合いの言葉なんだけど」なんて言って、聖書の御言葉を自分の言葉とか、先輩の言葉みたいに引用してお客さんの相談に乗って、そこの喫茶店がもはや教会になっていると聞きました。
そうやって皆さんが御言葉によって、そこのコミュニティーを祝福して、神様の祝福が流れていくようにする。
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●適用
ぜひ毎日聖書を読んでください。
1行でいいから読んでください。0よりいいから。
神様とのパイプを作る。神様との道をつなぐ。神様とのコミュニケーションを深くすることが祝福です。
それに比べられる、この世の良いものなんてあるはずないんです。
「主のおしえを喜びとし昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結びその葉は枯れずそのなすことはすべて栄える。」
詩篇 1篇2~3節
いろんな大事なことを東栄教会として決める時期です。
聖書がなんて言ってるか。それに私たちは従おうっていうことが中心である限りは大丈夫です。
でも、神様の言葉よりも自分の心地よさを叶えてほしい、って願いは付き纏います。
「というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、
真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。」
テモテへの手紙 第二 4章3~4節
僕らは、自分に都合のいいことを言ってくれる人、自分の願いを肯定してくれる人を求めます。
神様に対してもそうです。
「神様、僕の思いを肯定してください」って祈りたくなります。
でも、祝福は「神様、あなたに合わせます。教えてください」です。
神様が願っているのは、神様の国、神様の願いをこの地で行わせるためです。
人間の作った世界ではなくて、神様がご計画されたこの世界を回復することです。
こないだリバーシップスクールでゲスト講師で来た牧師、タンタン牧師はニューホープ横浜の牧師だけど、そこのグループは毎朝必ず20分、個人じゃなくてグループで毎朝、LINE通話で聖書を読む。
20分、同じ箇所を読んで、それぞれ教えられたことをノートに書いて、それから20分、そのグループでシェアして、合計40分、毎朝あるそうです。ゆうほのルームメイトの佐々木美穂さん、その教会のメンバーでした。札幌にいても毎朝グループでみことを読み、分かち合いをしていました。
「自分で聖書を読みなさい」とか「ディボーションしなさい」って言われても、一人ではできない人も小グループで、とにかく朝その決まった時間にグループ通話に参加し、ある面では強制的だけど、それが助けになってその後に出勤するそうです。
御言葉読めない人、いっぱいいるんです。
クリスチャンです。イエス様は信じました。洗礼を受けました。でも聖書は読んだことない。読めない。
本は苦手。分かります。
僕もそうでした。
阿部先生が「聖書を読みなさい」って言いました。
僕不満を言いました。字がちっちゃいし、意味分からんし。
そして阿部先生真剣な表情で、「遠藤さん、あなたに書かれてる手紙、あなたに書かれているものを、あなたが読まないで誰が読むんですか?」って、ちょっと半分怒ってピシッと言われて。
「そうか」と思って、その日から読まない日はないですね。
御言葉を読むときに、神様のことがよく分かるようになってきます。
そして、「誤解してた、神様のこと」って思います。勝手な神様イメージを自分で作っていた、って思います。
神様は優しくて、何でも許してくれて、あれもオッケー、これもオッケーっていう方じゃなくて、もっと神様のプランがあって、神様の聖なる基準があって、そこに従いたいと思うときに、僕らの予想よりもはるかに良いものを与えようとしてくださってると分かるようになります。
リビングバイブルは小学6年生くらいのレベルでわかりやすく意訳された聖書です。とにかく聖書を毎日読んでほしいと思います。分量は消化できる分、ちゃんと飲み込める分、食べられる分。
大食いでいける人は、ぜひ大食いで行ってほしいです。
少食の人は少食で、よく噛んで食べてほしい。みことばは命のパンです。
僕らも、まず自分を御言葉に合わせる。そして家庭に、教会に、職場に、自分が所属する場所に、御言葉を流していく。第二歴代誌17章が見せているのは、神様の御言葉が人の人生だけじゃなく、共同体全体を変えていく姿です。
皆さんの人生が、神様の願いである祝福が溢れるものでありますように。