2026年2月5日木曜日

民数記15.22-31

 民数記15.22-31


自分では「普通こうでしょ」と思っても、結果として誰かを傷つけていたり、神様を愛してなかったりすることがあります。聖書はわざとじゃなくても、気づかなくても、その罪を赦してもらう必要を教えています。


僕はマイペースで自分の世界にすぐ入ると言われます。例えば、妻が話している最中に他のことを考えていることがあります。悪意ではないし、気がつかないし、罪だとは思っていませんでした。ところが、妻にとっては無視され、傷つけられたと思う場面です。


自分の中では「普通」でも、神様の基準からはズレています。律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。(ガラテヤ5.14)みんなズレてしまっています。そして全てのことに愛がなければ何の価値もありません。(1コリント13.1-7)気がつかないまま、いつの間にか他の人を落胆させ、孤独にさせ苦しめていることがあります。聖書は「気づかずに罪に陥ってしまった」と何度も言います。(24、25、27、28、29)


僕らは神様に赦してもらいきよめてもらう必要があります。気づかない罪も、わざとじゃなくても、「普通こうでしょ」でもダメです。そのために、身代わりのいけにえとして動物をささげ、穀物をささげなさい、と聖書は言います。身代わりのいけにはイエス様ご自身です。



"あなたがたが迷い出て、主がモーセに告げたこれらすべての命令、

すなわち、主が命じた日以後、代々にわたって、主がモーセを通してあなたがたに命じたすべてのことを行わないとき、

もしそのことが、会衆が気づかずになされたのなら、全会衆は、主への芳ばしい香りのための全焼のささげ物として若い雄牛一頭、また、定めにかなう穀物のささげ物と注ぎのささげ物、さらに罪のきよめのささげ物として雄やぎ一匹を献げなければならない。

祭司がイスラエルの全会衆のために宥めを行うなら、彼らは赦される。それは過失であり、彼らが自分たちの過失のために、自分たちのささげ物、すなわち主への食物のささげ物と罪のきよめのささげ物を、主の前に持って来たからである。

イスラエルの全会衆も、あなたがたの間に寄留している者も赦される。それは民全体の過ちだからである。"

民数記 15章22~26節



集団の中で無意識に人を見下していたり、悪意がなくても誰かを苦しめている場面はたくさんあります。もちろん個人的にもです。



"もし個人が気づかずに罪に陥ってしまったのなら、一歳の雌やぎ一匹を罪のきよめのささげ物として献げなければならない。

祭司は、気づかずに罪に陥ってしまった者のために、主の前で宥めを行う。彼のために宥めを行い、その人は赦される。

イスラエルの子らのうちのこの国に生まれた者でも、あなたがたの間に寄留している者でも、気づかずに罪を行ってしまった者には、あなたがたと同一のおしえが適用されなければならない。"

民数記 15章27~29節



神様の願いはいつも神様と人を愛することです。教会は罪人が呼ばれて愛することを学んでいる最中の人たちです。僕らの「普通」は神様の願いとは全然違います。だから赦してもらい、成長する必要があります。「これで完成」は地上の人生ではありえません。イエス様は今日も僕らのために祈ってくださっています。全てを赦してくださり、教えてくださる大祭司はイエス様です。


僕ら自身もお互いに赦し、相手の赦しを祈る必要があります。「他人の目のちり」を数えるのは不要です。僕らがすべきは相手が気づかない悪いクセのために祈ることです。僕らもまた祭司です。(1ペテロ2.9)本人は気がつかないので、時には教えることも助けになります。「もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。」(ガラテヤ6.1)さばくためでなく、祈るため、愛するためです。そのために召されました。他人の欠点に気がついたら、自分にはもっと悪いクセがあります。(マタイ7.4-5)知らないだけです。今日も神様にきよめてもらい、新しく成長させてもらいましょう。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(1ヨハネ1.7)ハレルヤ!

2026年2月4日水曜日

天には栄光(天には栄え)

 伝統的な讃美歌「天には栄え」を現代語にして、Sunoでアレンジさせてみました


AIと賛美


音楽のAI生成や演奏が当たり前になりつつあって、教会の賛美やアレンジにおいてもAIをどう使うか、どう付き合うかと考えてきました。僕自身、何度もアレンジや演奏で使ってきて、AIは素晴らしく簡単でクオリティーも高いんだけど、何か違うな?って感覚がありました。


それでリバーワーシップの先生方のグループLINEに出してご意見をもらったんだけど、その中で便利だけど補助手段、やっぱ自分で考えるプロセスに意味があるなぁと思わされています。


つまり、アレンジにせよ演奏にせよ、その一つ一つの作業に感謝があり、神様への信頼があり、祈りがあり喜びがあるか、と問われています。


●苦労せずに良いものを見せたい自分


AIを使って喜んでる僕の中に「ラクしたい」「時間をかけたくない」という気持ちがあることも発見です。大袈裟にいうなら「便利さ」という宗教というか、「楽だわー」という偶像のようです。ラクしつつ、かかもクオリティーの高いものを誰かに見せたい、という気持ちです。

これは神様の栄光を求めているのではなくて、やっぱり自分のための作業だなと思いました。


今まで、自分でアレンジして、自分で演奏してそれを収録して、ワーシッププレーヤーというyoutubeチャンネルに上げて共有してきました。楽譜が必要な人のためのアレンジを提供するためのサイトです。


https://www.youtube.com/@worshipplayer6469


で、今回は、殆ど全部自動でAIで讃美歌1番「神の力を」という伝統的な讃美歌のピアノ伴奏を作ってみました。楽譜もAIが作り、そして自分で演奏せずにAIに演奏させた動画をアップしました。




自分でアレンジするよりも上手なアレンジだし、自分の演奏よりもAIの方が上手です。


以前は自分で考え、自分で楽譜を作り、自分で演奏して撮影していました。





全部AIにやってもらうと、早いし上手いけど、そこに霊的な感動がありません。もはや僕自分のアレンジではないし、奉仕でもささげものでもないな、と感じています。いいアレンジだし好きな感じではあるけど、やっぱり機械がやったアレンジは霊的な感動がないです。音楽ではあるけど、賛美ではないな、と思いました。


●そこに愛がないなら虚しい


人間同士の愛、例えば夫婦間の愛でも「自動で機械がやってくれる」は本当の愛じゃないなぁと思いました。

例えば「ありがとう。いつも感謝してるよ」「あなたのこんなことが素晴らしい」とAIに言わせることはできます。僕が心で思ってなくてもです。AIが素晴らしいことばで、僕が思っていないことを表現することはできると思います。悪くはないけど、良くもないというか、そこに心がないし真実ではありません。


愛するために相手に仕え、苦労して奉仕するのも大事です。「ご飯を作る」とか「掃除する」のも義務ではなくイヤイヤでなく、神様と人を愛するためにやるすべきことです。全部それをロボットにやらせて、それをこなしたとしても、そこには愛がありません。むしろ、そこには「なるべく時間をかけたくない」「労力をかけたくない」という本音があると思います。実は「めんどくさい。やりたくない」という気持ちかもしれないし、もしそうなら愛から出た奉仕ではありません。もちろん御霊の働きでもないです。結果は同じでも、上手にできても、そこに愛がなく、御霊によって与えられる喜びも真実さもありません。


1コリント 13:1-3

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。

また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たち

に分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。


プレゼントするのも同じです。誰かのために服を選ぶとか小物を選ぶとか。相手のことを考えて、想像して、選ぶプロセスにすでに愛があります。その一つ一つが愛の行為です。全部スキップして、AIが自動的に分析して選んだものが宅急便で届くの、悪くないけど良くもないと思います。

さらに、夫婦が手をつなぐ、ハグをする、キスをする、それをAIに任せるようになったらもう終わりです。気持ち悪いです。ポルノはそうさせようとすると思います。


●心からの感謝と賛美 心を尽くし、思いを尽くし…


不器用でも、賢くなくても、神様が願っておられるのはそこに心があったかどうかです。

そこに感謝があったってことかです。

AIほど素敵なアレンジしなくてもいい。演奏もAIみたいに完璧じゃなくていい。


むしろ、不器用でも、神様のことを思って、神様を愛して、神様がしてくださったたくさんのめぐみを思い出して、一生懸命練習した、というプロセスを喜んでくださると思います。

人前でラッパを吹いて、目立つこと、上手なことをアピールするよりも、誰も見てなくても、右の手がしたことを左の手に知られなくても、神様を愛して、人を愛して、ささげたことを喜んでくださいます。


お金持ちが余っているお金をこれ見よがしに捧げるよりも、相手にされないようなやもめがレプタ2枚だけをささげる方が、神様にとって喜びです。


神様のために時間を使って時間がかかって、でもあまり上手くいかなかったとしても、その方が喜ばれます。ラクしていい音を出すかどうかよりも、

心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(マルコ12:30)とおっしゃる神様の前にどうだったか?が問われます。

フルでAIが作ったピアノのアレンジ動画を見たとき、あぁ僕は何も神様に捧げてないな、と思いました。


もっとシンプルでも、派手じゃなくても、自分で考えて弾いて、自分で歌ったほうがやっぱりいいです。神様が預けてくださったタラントを心を尽く、思いを尽くし、力と知性を使ったかどうかです。

人によって預かってる量は違うので、周りと比較しなくていいし、AIのように完璧でなくて良いです。大事なのは、犠牲を払って、力を使って、知性を使って、思いを尽くして賛美したかどうかです。ラクじゃなくてOKです。神様のための労苦は将来の栄光につながっています。


"ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。"

コリント人への手紙 第一 15章58節


神様のために時間がなくなった、神様のために疲れた、神様のために頭使った、神様のためにお金使った、それらは尊いことです。


"私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。

私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。"

コリント人への手紙 第二 4章17~18節


●信仰によってささげることの大切さ。


創世記4章でカインが作物を作って神様にささげた、とあります。アベルも子羊を飼っていたので、ささげました。ところが、二人とも神様にささげたんだけど、神様が目をとめない、受け入れてくれないささげもの、ってあるようです。


"しばらく時が過ぎて、カインは大地の実りを主へのささげ物として持って来た。

アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。主はアベルとそのささげ物に目を留められた。

しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それでカインは激しく怒り、顔を伏せた。"

創世記 4章3~5節


神様は作物を持ってきたカインのささげものには目をとめなかったとあります。どうしてでしょう?この答えが新約聖書ヘブル人への手紙にあります。



"信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に献げ、そのいけにえによって、彼が正しい人であることが証しされました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だと証ししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって今もなお語っています。

…中略…

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。"

ヘブル人への手紙 11章4~6節


アベルは「信仰によって」すぐれたいけにをささげた、とあります。神様への愛と信頼の中でささげました。逆に、カインは作物は持ってきたけど、「信仰によって」とは書いていません。神様への愛も信頼もないまま、ただ持ってきたようです。


信仰とは、神様がいること、報いてくださること、それを喜び期待し信じることです。

カインにはその信頼と期待がなかったようです。カタチだけでささげました。神様はそれを受け入れることはありませんでした。結局カインは怒って、弟を殺します。


●神様と一緒に、そして仲間と一緒に


もう一つ大事な視点は、一緒に苦労し、助け合う仲間の存在です。仲間と一緒に助け合いながら知恵を出し合いながら心を合わせ、声を合わせて協力して賛美することです。

神様を知らない世界は、なるべく人間をスキップして効率と結果を出すことだけが良いことだと言います。できない人を否定し、無価値だと思わせて苦しめます。


AIで効率よく作り上げる賛美に、一緒に考えたり賛美する教会の仲間がいてくれることの喜びや愛があるのか、という疑問も大事です。仲間と一緒に協力することをスキップしたアレンジは神様にとって喜びなんだろうか?という疑問が僕にはありました。

教会の仲間の存在の喜びがないままなら虚しいものです。僕らはズレて行きます。


神様は、能力としては神様だけで世界を支配できるし、伝道も宣教もできるし、なんでもできます。でも、小さな僕ら一人ひとりに役目を預けて尊重してくださいます。神様の似姿に人を作り、「人がひとりでいるのは良くない」と言われます。神様が願っておられるのは互いに愛し合うことです。特に力のない人、知恵のない人が尊ばれて喜ばれていることです。また罪や欠点のある人が赦され、互いに受け入れて生きていることです。

もし僕らが神様を忘れてAI技術や効率を求めた結果、誰かが置いてきぼりにされているなら、神様の願いとは逆です。


(1コリント1章26-29節)

26,兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

27,しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。

28,有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。

29,肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。


だからやっぱり一緒に考えましょう。曲のアイディアとか考えとかスキルとか技術とか、分け合いましょう。このAIの技術も分け合いましょう。人を切ったりするためでなく、人の助けのために用いる、ということです。AIが悪いのではなくて、愛し合い助け合わなくなることが悪いのです。


●まとめ フルAIアレンジをして思ったこと


このAIの楽譜を見て演奏する人は、そこに信仰持って感謝を持って演奏するのがいいと思います。僕がこれを作った時、この楽譜を見て弾いてくれる人がいたし、その人にとってはすごい助けになったそうです。だからAIを使って助け合うことはできます。


問題はそこに愛があるか、信頼が、信仰があるか、です。時間がかかって、疲れた、というのは、尊いことです。そこに神様の喜びがあり、報いもあります。「自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っている」と聖書は言います。(1コリント15章58節)


AIを使うのはダメか、いいか、ではなく、そこに神様への愛があるか、信仰があるか、感謝があるか、です。便利なAIを使うのは良いけど、それで神様にささげる心が減らないように、と思います。

AIを使うんだったらちゃんと心を尽くして使うのが良いと思います。

単なるタイパ、コスパでなく、ラクしたい、ではなく、神様のための愛のささげものになってるかどうか確認する必要があると思います。

効率悪くても、祈りながら、一つ一つ感謝しながら、試行錯誤しながAIを使って神様にささげましょう。


スマホが罪の道具にもなるし、人を愛する道具にもなるのと同じです。AIアレンジ、AI作曲は神様を愛する道具にもなるし、感謝を奪うものにもなります。

そこに神様への愛があるか、感謝があるか。人への愛と尊敬があるかどうか。問われています。





民数記15章

 民数記15章


安定した収入が自分を守るのではなく、神様が守ってくれます。収入が平安をもたらすのではなくて、神様が安心させてくれます。でも、ぶっちゃけ僕らの心の中は「足りなくなったらどうしよう」という思いがあります。普通は「持ってる」=「安心」、「失う」=「不安」です。でも、神様に献げると逆の体験が起きます。神様は「まず最初に神様にささげるように」おっしゃいます。それはこれからも神様が与えてくださることへの信頼と喜びと平安を与えてくれます。もしもお金が1番、神様が2番なら、お金の方が力がある神様みたいです。


イスラエルを守り養ってくれたのはいつも神様でした。何もないはずの荒野でも、毎日天からマナが与えられ、岩から水が出て、鶏肉さえも食べることができました。そして、約束の土地に住んだなら、今度は土地の作物を神様が豊かに与え続けてくださいます。



"主はモーセにこう告げられた。

「イスラエルの子らに告げよ。わたしがあなたがたを導き入れようとする地にあなたがたが入り、

その地のパンを食べるようになったら、あなたがたは主に奉納物を献げなければならない。

初物の麦粉で作った輪形パンを奉納物として献げ、打ち場からの奉納物として献げなければならない。

初物の麦粉のうちから、あなたがたは代々にわたり、主に奉納物を献げなければならない。"

民数記 15章17~21節



愛し養ってくださるのは神様です。神様が支えてくださいます。それを確認しするために、「初物の麦粉で作った輪形パンを奉納物として」ささげるように言わました。最初にため込むのでなく、まずはささげ、手放すことです。そうすることで神様こそが養い主であることにしっかりと目を向けさせてくれます。「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」(2コリント9.8)



ささげることで神様への信頼は強められます。絶対に墜落しない飛行機を信頼して命を預けて乗り込むようにです。いつの間にか、収入があるから安泰だ、と思いがちです。だからこそ、最初に神様に感謝と賛美を捧げることで、僕らは守られます。


(ヘブル13.5)

金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。


神様は見捨てません。日々、必要なものを与え、私たちを養ってくださる神様です。大丈夫です。まずささげましょう。ハレルヤ!

2026年2月3日火曜日

民数記14.26-45

 民数記14.26-45  何をしゃべっても自由です。何を選んでも自由です。しかし、神様のみことばを聞きながらそれに反抗するのは、自分から滅びを選択しているかのようです。

イスラエル人たちは、神様が与えてくださる祝福の土地を見ながらも、「どうせ無理」「殺される」「子どもや妻はさらわれる」と悪いストーリーを信じました。まるで自分で作った宗教のようです。悪いストーリーを作る人は、それを望んでいるかのようです。神様は人をロボットのようにしません。人が決めたことを尊重します。…そしてその結果は死です。彼らは自分から滅びへの道を歩くことになります。



"彼らに言え。わたしは生きている──主のことば──。わたしは必ず、おまえたちがわたしの耳に語ったとおりに、おまえたちに行う。

この荒野におまえたちは、屍をさらす。わたしに不平を言った者で、二十歳以上の、登録され数えられた者たち全員である。

エフンネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、おまえたちを住まわせるとわたしが誓った地に、だれ一人入ることはできない。"

民数記 14章28~30節



神様の願いは彼らが自分で神様に従う道を選ぶことですが、人間は何を選んでも自由です。



"私は今日、あなたがたに対して天と地を証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、"

申命記 30章19節



「神様なんていない」と信じる人がいます。そう信じても自由ですが、信じた通りに神様から離れ、滅びの道に落とされます。自分で望んだ通りに永遠に神様から引き離されます。神様に聞き従わないことは、自分から滅びを選ぶことです。



"しかし、おまえたちはこの荒野に屍をさらす。

おまえたちの子どもは、この荒野で四十年の間羊を飼う者となり、おまえたちがみな、屍となるまで、おまえたちの背信の責めを負わなければならない。

おまえたちが、あの地を偵察した日数は四十日であった。その一日を一年と数えて、四十年の間おまえたちは自分の咎を負わなければならない。こうして、わたしへの反抗が何であるかを思い知ることになる。

主であるこのわたしが言う。一つになってわたしに逆らったこの悪い会衆のすべてに対して、わたしは必ずこうする。この荒野で彼らは死に絶える。

また、モーセがあの地の偵察のために遣わした者で、帰って来て、その地について悪く言いふらし、全会衆にモーセに対する不平を言わせた者たちもだ。」

こうして、その地を悪く言いふらした者たちは、主の前に疫病で死んだ。"

民数記 14章32~37節



反対に、神様に聞き従うことは祝福です。どんな小さなことも神様に聞き、従いましょう。神様に従うことは喜びを、祝福を、愛を、平安、命、光をもたらします。ハレルヤ!