2026年5月17日日曜日

1歴代11.15-19 まだ王座についていない王についていく。礼拝メッセージ

 1歴代11.10-19 まだ王座についていない王についていく。


赤ちゃんがたくさんいることは本当に神様のめぐみ、神様の宝です。

赤ちゃんはちょっと成長すると与えることを喜びます。

ちゃんと話せなくても一才ぐらいで「はい、どうじょ」とモノを相手に渡すのを喜びます。「ちょうだい」も言うけど、「どうぞ」も言うようになります。人間は最初から「相手に喜ばれたい」「与えたい」と願うようです。


人間を作った神様が「受けるより与える方が幸いです。」とおっしゃっている通りです。(使徒20.35)


僕らも神様から良いものをたくさん受けるけど、やっぱり神様に与える、ささげる、手放すことで喜ばれたい、って思います。神様に自分の財産も力も時間もささげることに幸せと喜びを感じます。

どんなに犠牲を伴うものでも、与えること、ささげることはこの世にはない霊的な喜びがあります。

人間は神様に愛されているし、神様を愛するように作られています。


神様を知らない人でも、もちろん誰かを愛したい、と思います。そのように作られているからです。

今日の箇所はダビデに尽くし、いのちをかけてダビデにささげた三人の勇士のエピソード、そして、ダビデ自身も神様にその全てをささげた、という話です。

ダビデにささげた三人も、神様に捧げたダビデも、両方とも神様への愛を表しています。


●三勇士のダビデへの献身と愛


(15-16節)

三十人のかしらのうちのこの三人は、岩場にあるアドラムの洞穴にいるダビデのところに下って来た。ペリシテ人の陣営はレファイムの谷間に敷かれていた。

そのときダビデは要害にいて、ペリシテ人の守備隊はそのときベツレヘムにいた。


(12章1節)

ダビデがまだキシュの子サウルから身を避けていたとき


ちょっと時代背景です。

今日の箇所はダビデがサウルに命を狙われて、アドラムの洞穴、と言うことろで潜伏生活をしていた時の話です。12章の1節では「ダビデがまだキシュの子サウルから身を避けていたとき、」とあります。

ちなみに歴代誌は時系列ではなく、いろんなエピソードが時間が行ったり来たりして並んでいます。


この時代、ダビデの故郷ベツレヘムは敵であるペリシテ人に占領されていました。

しかも自分もまたかつての上司だったサウル王に命を狙われていて、洞窟で潜伏生活をしています。

想像してください、自分が育った街はもう敵のものになって近づけなくなっています。

僕なら旭川です。もうそこは外国の占領下にあり、軍隊が厳しく管理しています。

自分もそれとは別件で王様から命を狙われていて隠れて生活する、そういう二重に苦しい頃の話です。

ダビデは隠れていた洞穴で言いました。


(17節)

ダビデは切に望んで、「だれか私に、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらよいのだが」と言った。


多分とても暑くて渇く日だったかもしれません。ダビデはつい願いを口にして言いました。

切に望んで、ってあります。「ああ、誰かー、あの、ベツレヘムの井戸の美味しい水を飲ませてくれないかな」

暑いだけじゃなくて、危険な潜伏生活を続けていました。あの子ども時代を過ごした、自由だった頃が懐かしいし、あのベツレヘムの井戸の水は最高だったな、って思っています。

ああ、あの水飲みたいなあ、と言ったようです。

「取ってこい」とか「汲んでこい」とは言ってません。そこは敵が管理していて近づけない場所です。


すると、部下の勇士たち3人がそれを聞いていました。

ダビデが長くストレスだらけの生活をしているのを知っている部下たちです。

「なんとか願いを叶えてあげたい」と思いました。


ちなみに、この勇士たちがどんな人だったか、前後に書いてあります。

すごい勇士ですが、安泰な生活を手放して、自分の家を出て、あえて洞窟で隠れているダビデのところに集まってきた勇士たちです。今の権力者であるサウル王についてた方が安全なのに、家を捨てて快適な生活を捨ててこんな不利な危険なダビデのところに来たのか、理由が書いてあります


(10節)

彼らは、ダビデとともにその王権を強固にし、全イスラエルとともに、イスラエルについての主のことばのとおり、彼を王とした人々である。


彼らは主のことばを聞いていた人たちです。「今逃げているダビデがやがてこの国の王になる」という神様のことばです。

これは神様が預言者サムエルを通して何度も言われていました。

ダビデが王となり、この国を支配する。その神様の言葉の通りに信じてダビデに仕えた人たちです。

主のことばの通り、ダビデを「将来の国王」として見てた人たちです。


神様がダビデを王様とする、そうおっしゃったんだから、この王様に喜ばれたいと思いました。王様になることがもう決定事項のように確信て行動した人たちです。この王様への献身が本気すぎる人たちです。


(18節)

三人はペリシテ人の陣営を突き破って、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。


「何でもやる」「どんなリスクでも取る」「死んでもいい」っていう覚悟がありました。

ちなみに、隠れている洞穴から、ベツレヘムの井戸まで20キロくらいだそうです。

この教会から手稲駅まで20キロくらいでした。それを走っていき、敵の陣営を振り切って水を汲んできます。途中にも敵の陣営があります。


(15)

ペリシテ人の陣営はレファイムの谷間に敷かれていた。


そして、ベツレヘムに入っても、敵がいます。


(16)

ペリシテ人の守備隊はそのときベツレヘムにいた。


すごいリスクです。普通は無理です。それでも、この三人は行きました。

王様に仕えることが喜び、ダビデに喜ばれることが喜びです。そして、ダビデを王様にする神様に喜ばれることが喜びでした。何の報いもないかもしれないし、失敗して殺されるかもしれないけど、でも、未来の王と神様に仕えている、ということが何より喜びであり力の源です。

このような喜び、神様への信頼から出た大胆な行動って、僕らが今失っている部分かもしれません。


※質問です。

本気でイエス様を信頼して踏み出してみた最近の体験はありますか?

危険の中で神様が守ってくださり勝利させて下さった最近の体験はありますか?


神様が生きて働いておられる体験は何もない平和な時ではなくて、神様に喜ばれたいと思って信頼して一歩踏み出した時です。

お金に余裕がある時ではなく、お金がないのに献金するとか、時間がないのに奉仕を引き受けた時とか、もう無理、って思うけど、祈りながら神様に従った時、被害を受けたけど、赦して相手を祝福で返した時とか、僕らは本当に生きて働いておられる神様を体験します。


このみことばは、僕らに問いかけます。

僕らは今、主のために、神様のことばをどこまで信じてるんだろう。どこまで従う気があるんだろう、本気で神様に喜ばれたいと思ってるのか、問われます。


初めて神様の愛を知った時、十字架の犠牲がリアルにわかったき「イエスさまが僕のために十字架で死んてくださって、命を捨てて下さったなら、自分が出し惜しみする理由なんてない」そう思った日がるはずです。


僕は20代のある日、急に十字架で血だらけになって死んでくださったイエス様の姿がリアルに迫ってきて、その映像みたいなのがいつも頭に浮かぶようになりました。

僕のためにこんな犠牲を払って下さったなら、「神様、僕は何でもやります。どこでも行きます」「イエス様がして下さったことを考えたら、小さなことです」みたいに、全部の奉仕をやりたい、って思うようになりました。

土曜の夜、会社終わって家に帰るのが10時くらいで、それから夜、週報の印刷に教会に行くのが喜びでした。阿部先生は「遠藤さん大変だからやろうか」って言ってくれたけど、でも、この喜びを奪わないで、と思いました。

でも、それが時間経つと薄れてきて、いつの間にか自分の快適さがまず先、のようにいつの間にかなってないかな、って問われます。イエス様のより自分の生活が優先、皆さんはどうでしょう。


(18節)

三人はペリシテ人の陣営を突き破って、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。


この勇士たちはただ強い人たちじゃなくて、神様が自分を通して働いてくださるって信じた人たちです。そして、今までその体験もしてきた人たちです。彼らが神様に信頼したエピソードが13-14節にもあります。


(13-14節)

彼がダビデとともにパス・ダミムにいたとき、ペリシテ人が戦うためにそこに集まった。そこには、大麦が豊かに実った畑があった。兵はペリシテ人の前から逃げたが、

彼らはその畑の真ん中に踏みとどまってこれを守り、ペリシテ人を討った。主は大勝利をもって救われた。


他の兵隊は逃げたけど、彼らは踏みとどまって畑の中で戦いました。逃げるのが常識的な判断だったかもしれません。他の兵士たちは逃げました。でも、この三人は神様を信じたし、もし、それで死んでもいい、と思ってたようです。すると14節「主は大勝利をもって救われた。」あとあります。彼らがすごいとか強いのではなくて、「主は」です。彼らが神様を信頼し、信頼して戦った時に、神様が勝利させてくれた、救われた、とあります。そういう体験をしてきた人たちです。


神様への信頼、そして、まだ王様になってないけど、未来の王様が確定しているダビデへの献身の表れがこの命がけて汲んできた水でした。


当時の権力の中心はサウル王です。ダビデは見放され、弱くて、逃げている身分です。それでも将来の王様、栄光の王になる方、そういう視点で喜んで命をかけて愛し仕えていました。


さて、僕らへの適用です。僕らの王様はイエス様です。クリスチャンは今ばかにされていても、少数で、弱くて、情けない立場でも、やがてイエス様は王としてこの世界を支配します。

その時に、クリスチャンたちも、どんなに弱く小さい人も、イエス様と一緒に王となると聖書は何度も書かれています。


※今毎週金曜の夜にHBIの出エジプトの学びをオンライン授業を受けています。一空も昌子も本当におすすめ、と言っていた講義です。それで申し込んで受講しています。受けてみたら、本当におすすめです。毎回教えられています。おとといの夜、金曜の授業で講師の斎藤謙司先生が、私たちクリスチャンもやがてキリストと一緒に王となる、この世界を治めるめるものとなる、という新約聖書の箇所をまとめてくれました。斎藤謙司先生まとめ。レジメのコピーです。


「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司」(1 ペテ 2:9) 

「私たちを王国とし、祭司としてくださった」(黙 1:6) 

 「彼らを王国とし、祭司とされました。彼らは地を治めるのです。」(黙 5:10) 

「彼らは世々限り なく王として治める。」(黙 21:3-5)


他の箇所でも聖書は言います。

「彼(キリスト)とともに治めるようになる。」(2テモテ2:12)


まだ弱く逃亡していたダビデに仕えることは将来の王様に仕えることでした。

まだ見下されていたダビデにささげることは将来の王様にささげることでした。


これは全てのクリスチャンたちに適用できます。特に、教会の中で見下されている人、小さいと思われている人、疎外されている人。イエス様が王様となる時に、一緒に支配するものとなる、王である祭司として、この地を治めると聖書は言います。

王であるイエス様はおっしゃいます。


(マタイ25章40節)

すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』


教会の中で特に弱い人、居場所のない人、来づらいと思ってる人。その人に、仕え愛すること、与えることは、将来の王様イエス様を愛することと同じです。


※質問です

ちょっと下に見ているクリスチャン仲間はいるでしょうか。


あの人と関わると疲れるな、ちょっと距離置こうかな、と思う人はいるでしょうか。その人は将来の王様です。とんでもない大逆転が起こります。その人を愛し仕えることは、イエス様に仕えることです。


『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』


●ダビデの神様への献身と愛


さて、命懸けで水を汲んできたのを受け取ったダビデはどうしたでしょう。「いやー最高だねえ」とゴクゴク飲んだでしょうか。なんと彼もまた、その愛と献身の満ちた水を神様に捧げました。


(18-19節)

しかしダビデはそれを飲もうとはせず、それを主の前に注いで、

こう言った。「そんなことをするなど、私の神の御前に、絶対にできない。いのちをかけて行った人たちの血を、どうして飲めるだろうか。彼らは、いのちをかけてこれを運んで来てくれたのだ。」彼はそれを飲もうとはしなかった。三勇士は、そのようなことまでしたのである。


「せっかく持ってきたのに、飲んでよー」ってなりそうです。

この水は、ただの水ではなくて、命をかけた水です。ダビデは「いのちをかけて行った人たちの血」と言いました。血とは命を表す言葉です。命懸けの献身を受けるのは、自分ではなく、神様です。それで「それを主の前に注いだ」とあります。今も同じく、献身とか犠牲を伴う愛は神に向けられるべきものです。


ところが僕らは欲しがります。誰かに仕えてもらうこと、よくしてもらうこと、自分が満足すること、愛されること、褒められること、求めるし欲しがります。栄光も欲しがります。

栄光を受けるべきは神様です。賛美と賞賛の向かう先は神様だけです。命を捧げるほどの愛は神様にささげます。ダビデはその水を神様に捧げました。栄光を自分が受けないようにしました。


※愛したい愛されたいネット配信


最近知り合いのネット関係のお仕事をしている人と話す機会がありました。

その世界で仕事をしてるから、自分も一応SNSのリアルを知っておこうと持って、色々アングラな、ダークな世界にも顔を出す、と言っていました。

TIKTOKの生配信の若者の世界を体験してみたそうです。そして、その世界で行われていることをちょっとだけ体験して驚いたそうです。

誰でも配信できるし、配信すれば、みてくれる人もいて、いろんな人がいるけど、見てほしい、認めてほしい、褒めてほしい、あるいはお金欲しいってことですが、とにかく生配信は簡単に投げ銭でお金をもらえて、あらゆる心の欲求を満たしてくれる世界、心の渇きを満たしてくれる世界だと思ったそうです。

逆に見る人、応援する人も認められたくて、投げ銭して、お金を送って、推しの相手に名前を呼ばれて、それが嬉しくてもっと投げ銭するような時代だそうです。みんな誰かに応援されたいし認められたい、愛されたい欲求、認められたい欲求の行き来する世界を見て、驚いた、って言ってました。


神様を知らなければ当たり前ですが、人間何かで満たされたい、この世のモノや人やお金で満たされたいって思います。僕もかつてそうだったし、今でもその癖がちょっと残ってて、いまだに見て欲しい、認めて欲しい、と思います。


イエス様がある時であった女性の話です。五人の男性と結婚しては別れて、今6人目と同棲している女性でした。彼女がどれだけ愛に飢えてるか渇いているかを知って、おっしゃいました。


(ヨハネ4:13-14)

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。

しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。


渇くことのない水、とは、神様がくださる聖霊による愛のことです。愛は神様から流れてきます。


血だらけになって全てを捨てて身代わりになって神様の呪いを引き受けて下さったのがイエス様の愛です。あの血だらけになった十字架の愛はレベルが違います。

大きすぎます。イエス様の愛がわからないと、相手がいい時はいいけど、相手の言動がちょっと気に入らないと途端にうまくいかなくなるものです。そのような男女の愛とは全然違います。


イエス様の愛は相手のために命を捨てる愛です。

その愛が聖霊によって与えられ注がれる時、僕らも自分を捨てて神様に捧げたい、全てを手放して神様を愛したいと思います。


三勇士は命をかけて水を汲んできました。

ダビデもまた、命懸けで汲んできてもらった水を、神様にささげました。


●私たちへの適用→キリストに全てをささげる祝福


僕らは「イエス・キリスト」って言葉に聞き慣れすぎてます。

でもユダヤ人にとってはメシア、キリストって言葉はすっごい重い言葉です。

「キリスト」ってヘブル語では「メシア」つまり「やがて来られる油注がれた王様」って意味です。

新約聖書全体が言ってることは、世界を支配する本当のキリスト王様とは、イエス様のことだ、と言うことです。


ダビデとキリストには多くの共通点があります。

ダビデはこの当時サウルに命狙われて隠れてました。この世の権力者からは見下されていました。拒絶されていました。従う人は少数でした。


イエス様も神様でありながら、神様のあり方を捨てて、貧しくなり、全てを捨て、神様に従い、十字架の死にまで従いました。


全ての栄光を捨てて、ただ神様に全てをささげるところが、ダビデとイエス様は共通しています。

ダビデはキリストのモデルです。

イエス様は永遠の王様なのに、この世では拒絶され、苦しめられ、十字架で殺された方です。従うものは少数です。今も、特に日本では従う人は少数です。


それでもダビデを未来の王様として命をかけた勇士たちがいました。

ダビデが一番弱い状態のときに、この方こそ王様だとおっしゃる神様のことばを信じて従いました。自分の快適さとか名誉とか全部捨てて、ダビデのところに行って命をかけて仕えました。


今の僕らに置き換えて考えてみてほしいんですが、軽く見られてるキリストの側につく覚悟がありますか?って問われていると思います。

ダビデがもし王座にいて成功して権力も富もある状態だったら、もっと人が集まったと思います。


でもこの勇士たちは荒野の洞窟にいる時に命をかけて従いました。

イエス様も同じです。今はクリスチャンは少数だし馬鹿にされたりするけど、イエス様はもう一度この世界に来られるキリストです。キリストとは、油注がれた王様、という意味です。圧倒的な王としてこの世界をおさめます。


僕が、大人になって初めて教会の建物に入った行ったのは、ボロい、新道東にある木造一軒家のでした。

そこで、阿部先生と初めてお会いしました。僕の偏見で、どうせ宗教は教会はお金でしょ。人集めて献金集めて牧師はお山の大将みたいに威張ってるんでしょ、って思っていました。

全然違いました。こんなボロい一軒家が教会?って思いました。(写真)

この牧師さん、儲かってないなーって思って、なぜか信頼しました。

阿部先生書斎はなんと2畳か3畳しかない狭い部屋でした。


後で知ったのですが、阿部先生が、中学の教師をを辞めて、しかも、教会からは給料をもらわずに、昔の公務員に対する年金みたいな給付制度でやりくりしたことも知りました。


イエス様に仕える、それは、この世では下にみられること、時には迫害を受け疲れ、殺されることもあります。でも、将来の王様に仕えることです。それは、どんなことよりも価値のあることです。


「何でもやる」「どんな結果になってもいい」全部手放すレベルで、主のために動く人たち。僕は阿部先生と出会って、この人本物だ、って思いました。僕らは今どうでしょうか。その献身を失ってきてるかもしれません。


※もう一度、誰に仕えているのか、永遠の王様であるイエス様に本気で仕えているのか、それとも地上の快適さとか、うまくいくこととか、立場とか、収入とか、この世の安全圏内に留まることを求めるのか、自分に聞いてみましょう。


地上のことでなく、天にある栄光に目を止めましょう。

僕らはとんでもない偉大な、しかも永遠の王様に仕えています。

イエス様のために何かを手放すことがあっても、たと命を失うことがあっても、それは失うことではありません。何倍もの報いを受けます。


(マルコ10:29-30)

イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、

今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます。


もう一度イエス様に全てをささげましょう。栄光を神様に捧げましょう。命を、時間を、力を、神様に捧げましょう。それは何よりも正しく、永遠になくならない価値のある生き方です。

ハレルヤ!