2026年2月22日日曜日

民数27章12-23節 「次の世代に流れていく祝福」メッセージ

 民数27章12-23節「次の世代に流れていく祝福」


今日は信徒会があって、牧会方針を発表することになっています。

「どんな牧会をするのか」なんですが、不思議なことに、今日のメッセージは神様から与えられた牧会方針のようです。


1つは「次の世代が牧会され祝福されるように」です。

そしてもう一つは「チームで牧会するように」です。


●次の世代が牧会され祝福されるように


(12-13節)

主はモーセに言われた。「このアバリム山に登り、わたしがイスラエルの子らに与えた地を見よ。

それを見て、あなたもまた、あなたの兄弟アロンが加えられたのと同じように、自分の民に加えられる。


「もうすぐ死ぬ」ということです。その時にモーセが祈ったのが今日の祈りです。

終活という言葉があります。どう死ぬか、どう人生を終わるか、という活動です。

モーセも終活です。人生を終える時が近くなりました。僕らもどのように人生を終えるか、ゴールがわかると今の持ち時間をどう過ごすか、何に時間とエネルギーを使ったらいいかわかります。


聖霊に満たされたモーセの終活は僕らのお手本でもあります。彼が祈ったのは、自分のことではありません。


(16-17)

「すべての肉なるものの霊をつかさどる神、主よ。一人の人を会衆の上に定め、

彼が、彼らに先立って出て行き、先立って入り、また彼らを導き出し、導き入れるようにしてください。主の会衆を、羊飼いのいない羊の群れのようにしないでください。」


モーセの終活は、自分がいなくなった後、この人々約200万~250万人を守りください、という願いです。


「羊飼いのいない羊の群れのようにしないでください。」

彼は元、羊飼いです。40年も羊を飼って生活してました。だから羊をよく知ってます。弱くて、自分では生きていけないのが羊です。羊は方向がわかりません。前の羊が崖から落ちたらよく見えないので、一緒に落ちるレベルです。自分のきた道がわからない動物です。弱くて敵に襲われたら何もできません。キバもありません。足も遅いです。怖がりで、安心するまで眠れません。水も飲めません。そんな弱い羊たちのみたいにこの人々を放置しないでください、滅んでいきます。だから彼は祈り、願います。一人の羊飼いのようなリーダーを与えてください。


(16-17)

「一人の人を会衆の上に定め、彼が、彼らに先立って出て行き、先立って入り、また彼らを導き出し、導き入れるようにしてください。」


羊飼いは羊たちを導く、守る、先立って行く、安心させる人です。

モーセが求めたのは「後継者」じゃないです。「牧会者」を求めたんです。

指導力のある人を求めたんじゃなく、人々を安心させ、導き、愛して、守る人を求めました。

神様はその祈りに応えてくださいました。


(18)

主はモーセに言われた。「あなたは、神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを連れて来て、あなたの手を彼の上に置け。


神様はこの人々を散り散りにしないし、弱らせないし、外敵から守ってくださいます。そのためにヨシュアを連れてきなさい、とおっしゃいました。すでにヨシュアには神様の霊が宿っていると書いてあります。


弱い羊たちを導く人とは、神様の御霊が与えられ、御霊によって愛し、導く人です。そして彼の上に「権威を与えなさい」と20節に書いてあります。


(20)

あなたは、自分の権威を彼に分け与え、イスラエルの全会衆を彼に聞き従わせよ。


この「権威」というのは神様から預かった力です。神様の聖霊が与えられている人に、権威を与えなさい、です。もしも神様からの霊も神様のみことばも聞かない人に力を与えたら大変です。

神様の霊が与えられ、神様の言葉を聞き、従う人に神様の権威が与えられます。


モーセも権威がありました。それは神様の権威です。神様がおっしゃった言葉には力があるので、それを預かりそのまま伝えました。神様の言葉なので、モーセが言った通りになります。

権威は神様からの権威です。神様の言葉と権威はセットです。神様が「光あれ」とおっしゃるだけでそうなる力ある言葉です。


だから聖霊が与えられているヨシュアを連れてきなさい、とおっしゃいました。御霊によって神様のことばによって判断する人でないとダメです。そして、神様の霊が与えられている人ヨシュアに神様のからの権威を預けなさい、とおっしゃいました。


(20)

あなたは、自分の権威を彼に分け与え、イスラエルの全会衆を彼に聞き従わせよ。


神様からの確かな言葉に聞き、従う指導者がいると、人々は安心します。その人の判断ではないからです。神様がおっしゃる言葉に力があります。そういうリーダーがいると、人は安心して従うことができるます。その人の判断力は神様からのものです。愛も力も知恵も神様から与えられるのものです。


モーセも今でこそ偉大な指導者ですけれども、もともと、何も持たない弱い人です。リーダーに選ばれるのを何度も断りました。


( 出エジプト 4:13)

「ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください。」

(6.11)

私は口べたなのです。」


何度も何度も「無理です」というモーセに、神様が聖霊を与え、力を与え、知恵を与え続けてくださって、このモーセは国のリーダーとなりました。そして最後は、歴史的に偉大な指導者となりました。モーセを通して聖書が与えられ、律法が与えられ、今も僕らは彼が記録した聖書を読んでいます。3000年以上、今も影響力があります。これはモーセの手柄ではありません。神様が預けてくださったからです。


大事なことは、知恵も力も神様が与えてくださる、という当たり前のことです。


そんな僕も、聖書を教えているのは神様の力です。

中学高校で一番嫌いな科目は国語でした。一番嫌いな時間は作文でした。そもそも読書が嫌いです。読書感想文は最悪でした。そんな私が今こんなちっちゃい字の聖書を教えています。

これは私の力ではなくて神様がその力を与えてくださったんです。読書が好きになったのではなく、神様が好きになりました。作文が好きになったのではなく、神様を伝えたくなりました。

神様が必要な与えてくださいます。必ず必要に応じて与えられます


私に愛がありません。お金ありません。時間もありません。字を読むのが苦手です。それでOKです。むしろイエス様は「貧しい人は幸いです」とおっしゃいます。神様がその必要な権威と力を与えてくださるからです。


不平や不満だからけの人々を40年も忍耐できたのは、彼の忍耐力とか彼の性格ではありません。神様の力です。そして、この神様からの愛と知恵と力に満ちた牧会の賜物を次の指導者ヨシュアに与えなさい、と言われています。


(18)

主はモーセに言われた。「あなたは、神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを連れて来て、あなたの手を彼の上に置け。


(20)

あなたは、自分の権威を彼に分け与え、イスラエルの全会衆を彼に聞き従わせよ。


この同じエピソードが申命記にも書かれています


(申命記34章9節)

ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満たされていた。モーセがかつて彼の上にその手を置いたからである。


モーセは手をおいて彼のために祈りました。手をおいて祈ると、モーセに与えられている力や知恵がヨシュアにも与えられるようになりました。次世代のヨシュアに知恵と力が与えられた理由は明白です。

モーセがかつて彼の上にその手を置いたから」と書かれています。


「手を置く」というのは「相手と共有する」ということです。「一つになる」という意味もあります。


他にも実例があります。

パウロは若い牧師テモテに手を置きました。それは自分に与えられている聖霊の賜物がこの若者テモテにも共有できるように、与えられるようにという祈りです。

そして本当にテモテにも同じように聖霊による力、愛、慎みが与えられました。

手紙でこのように書いています。


(2テモテ1:6-7)

私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。


手を置くことは相手に良いものが与えられるように求めることです。

イエス様の弟子たちペテロとヨハネも新しい次世代の人たちに手を置いて祈りました。すると彼らに聖霊が与えられたと書かれています。(使徒8章)


皆さんが与えられている良い賜物は皆さんだけのものではありません。握りしめないで、次世代にもっと良いものが与えられるように祈りましょう。自分だけのものと言わず、共有して、流していきましょう。恵みは広げていくものです。これが神様の願いです。聖霊に満たされた最初の教会はいつもそうでした。


人を使わなくても神様は何でもできます。

けれども神様は人間を用いて次の世代にその神様の愛の交わりが広がって行くようにされています。神様の愛と恵みは広がっていきます。その方法はいつも人間を用いてです。


神様ですから触らなくても何でもできます。

だけど、イエス様は天から人間になって降りてきてくださいました。そしてわざわざ病人に近づいて、触ることをしてくださいました。イエス様はいつも子どもたちに手を置いて祝福されました。

イエス様はみんなが避けている汚れた病人を触って癒されました。


これがイエス様の願いです。そして、キリストの体である教会の願いです。私たちだけがよければいいのでなく、次の世代にそれが豊かにますます増し加えられるように祈っていく必要があります。


※博子さんは僕に対して個人的に説教してやろうとか、直してやろうとか、思ってないと思うけど、毎回教えられることがあります。今回もありました。今回示されたのは、僕が他人に対して壁を作り、安全圏の中、楽な領域ばかりにいようとしていることです。特に妻の心を本当には共有していなかったということを教えられました。妻の心を自分のこととして共有して一緒に祈っていくことを教えられ、僕はそれを祈り求め始めています。今まで、ほどほどの距離でいいと思っていたけど、神様の願いは、ほどほどでいい、ということはありません。


牧会というのはイエス様に習う人です。良い羊飼いは羊のために命を捨てます


(ヨハネ 10:12-13)

雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。


本当に相手のことを考えて、命をかけて守るように、そのイエス様の愛と力が与えられるように求めます。求めるなら与えられます。


モーセがねがったのは、「指導者」が与えられることではありません。「牧会者」です。

傷つかない程度に関わる先生を求めたのではなく、イエス様は羊のために命を捨てます。その牧会に習う人です。


牧師になって25年になるけど、まだまだ羊を心にかける本当の牧師にはなってないと感じます。家庭を治める愛のある夫にもなってないです。でも、求めはじめてはいます。


モーセは祈りました。「主の会衆を、羊飼いのいない羊の群れのようにしないでください。」


皆さんも守るべき相手、愛するべき相手を持っています。

親なら子どもに対して牧会者です。守り導く牧会者です。夫は妻が守られ、導かれるように心をかける牧会者です。職場でも、学校でも、後輩がいるならその人は愛するべき人、守るべき人、導くべき人です。そして、全ての人に隣人がいます。


隣人に祝福が流れ、お互いに祝福されていくように、と神様はおっしゃっています。みんな大切な愛するべき、守るべき、祝福すべき隣人が与えられています。


自分だけでなく、周りの人たちが知恵に満たされ愛に満たされ神様の力を体験できますように。相手が自分よりも何倍も祝福されるように、祈っていきましょう。周りの人が、守られ、祝福されるように。祝福が周りに流れていくように。


これがモーセの祈りでした。


(16-17)

「すべての肉なるものの霊をつかさどる神、主よ。一人の人を会衆の上に定め、彼が、彼らに先立って出て行き、先立って入り、また彼らを導き出し、導き入れるようにしてください。主の会衆を、羊飼いのいない羊の群れのようにしないでください。」


私たちは良いものを預かっています。一人一人預かってるものは違うけど、それぞれ神様から預かっています。それを自分だけのものにしてはいけません。次の人たちに、隣人に、次世代に受け継いでいく必要があります。経験も、力も、みことばも、愛も、分け合うためのものです


●チームで牧会するように


(21節)

彼は祭司エルアザルの前に立ち、エルアザルは主の前で、ウリムによるさばきを自分のために伺わなければならない。ヨシュアと彼とともにいるイスラエルの子らのすべての者、すなわち全会衆は、エルアザルの命令によって出、また、彼の命令によって入らなければならない。」


これから大変な戦いがある前の話です。

ヨシュアは一人で頑張るのではありません。祭司エルアザルの前に立ちます。エルアザルというのはアロン息子で大祭司です。大祭司エルアザル何をするかというと「ウリムによるさばきを自分のために伺わなければならない。」と書いてあります。「ウリムによるさばき」これ具体的に何かはっきりわからないんですが、これは、神様に伺うことです。「神様どうでしょうか 神様、教えてください、御言葉を与えてください」と神様に求めることです。そして、神様は教えてくださいます。それを大祭司は、ヨシュアに伝え、ヨシュアは人々に伝えます。


自分だけの理解とか判断力だけに頼ることなくエルアザルと一緒にで、「神様どうおっしゃっていますか、神様どうでしょうか」と求めていきなさい、ということです。


ヨシュアとエルアザルはチーム牧会をします。一緒に神様を求めます。神様の御心→エルアザル→ヨシュア→人々。です。これからイスラエルを治めるとか、カナンの地域に行って征服するってめちゃめちゃ大変な仕事です。

でもどこに行っても、どんなに大変なことがあっても、ちゃんと神様の御言葉を聞いて、一緒に神様の導きを求めるために、エルアザルと一緒にいなさいということです。

チーム牧会です。


●私たちへの適用


今まで5年-6年、遠藤夫妻、斎藤夫妻、昌子スタッフが与えられて、知恵を出し合いながら助け合いながら、時々お互いに注意ながらこのチームで牧会してきました。


そして数年後には今の20代や30代の人たちが牧会の中心になっていくように、責任を委ねていけるようにと願ってきました。僕の今の気持ちは牧師やめたいというのでなく、次の世代の人たちが神の御霊を受けて、みことばを聞いて、祝福されて牧会していくことです。


自分だけが、遠藤だけが賜物を預かって頑張っているのはダメなんです。僕のものは神様からのもの、そしてそれは次の世代に何倍にも与えられるものです。

賜物を預かり、用いていくように、みことばの権威が委ねられていくように、今そのステージに来ていると思うんです。その意味で世代交代が来ていると思います。


僕自身も昔は、イヤだイヤだ、あれはやだこれは嫌だってずっと言っていました。人と関わるのは苦手です。人前で語りたくありません、そんなことばかり言ってました。

そんな自分でも、未熟ながらも先輩たちに祈られ、先に召された阿部先生ご夫妻や、杉本さんや多くの先輩たちに忍耐してもらいながら今までやってきました。


未熟でわがままな僕を見捨てないで、それでも、委ねてくれた神様がいて、そして実際に助けて委ねてくれる阿部先生がいました。次世代に委ねていくようにしなさい、これはパウロも言っています


(2テモテ 2:2)

多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。


まずパウロ自身は御言葉をテモテに委ね教えていきました。

そして、テモテも同じように「教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」

もうここの一行だけで4世代です。パウロ、テモテ、テモテが教える人、その人が教える人

ここだけで4世代です。これが聖書の願い、キリストの願い、そして教会の願いです。


※私たちがシンガポールで学んだとき講師のチャン先生が言いました。

「私たちの教会や牧会がうまくいっているかどうか、評価の対象ではありません。私たちが目指すべきは、次の世代がどうなるか、そしてさらにその次の世代がどうなっているか、です」


神様からの本当の評価は今、東栄教会がどうか、いいか悪いか、ではなく、今の20代30代の世代がどうなるか、そして今赤ちゃんの世代が大人になったときどうなっているか、です。その時代になって羊飼いのいない羊のようにさまよわないで、しっかりと導かれているかどうか。それが評価の対象です。それは自動でできるのでなく、僕らがちゃんと次の人のことを祈り、愛し、委ねていったかどうかです。新しく親になる人たちがちゃんと子どもたちを愛し、向き合い、みことばを教えていったかどうか、自分に預かった祝福を次の世代に流していったかどうかです。


経験のある人だけが指導者であり続けるのは、聖書の教えではありません。

次の世代の人たちがまた次の人たちを愛して育てるようにする、のが聖書のスタイルです。

数年前のメビックセミナーのテーマは「イエス様の弟子を作る弟子を育てる弟子、を作る」でした。聖書がいう通りです。


私は神学校を卒業したら牧師になれるとは思いません。私自身が最近25年26年かかって今も練習中です。

いまだに、本当に人と一緒に歩もうとしているか、本当に妻のことを心にかけているか、教会の一人一人のことを心にかけているか、と今になって問われているところです。


これは神学校に行けばできる、ということはありません。

なんとかセミナーに行けばいい、ということもありません。あれを受講すればうまくいく、なんて、聖書には書いてありません。私たちキリストの体である教会が、キリストの願いを自分の願いとして、父親のように、母親のように、次世代を愛し、祈り、祝福を流していくことです。そのように実行していくことです。


権威は聖霊から来ます。神様の権威です。愛も神様から流れてきます。

いくら知恵があっても、行いが素晴らしくても、権威があっても愛がなければ、やかましいドラ、うるさいシンバルです。


僕らは神様の愛と権威を次の人たちに伝えるものです。御霊の力を次の世代がもっと体験できるように求め、委ね、祝福を流すものです。僕らは次世代への通り道にすぎません。

皆さんで次世代を愛し祝福を伝え、教え、流していきましょう。


イエス様がおっしゃいます。「受けるより与える人は幸いです。」与える人はもっと神様から与えられます。流れていく水は濁りません。澱みません。

自分だけ求めるのではなく、次の世代に祝福が流れていくようにしましょう。


東栄教会はそのように新しい世代へとまさに変わっていく、特に大事な時期です。祈りましょう。