1歴代11.15-19
ダビデ王に対する愛と献身が本気すぎて「何でもやる」「どんなリスクでも取る」「死んでもいい」というレベルの勇士たちが書かれています。しかも、ダビデ王が認められず、拒絶され、洞穴で逃亡しているような時に、です。ダビデ王は「キリストのモデル」だと言われています。両者には多くの共通点があります。
「ダビデ王」=神様から任命されているのにもかかわらず、人々から拒絶され、荒野に逃げた。従う人たちは少数。でも最終的には王座に着く。
「キリスト」=永遠の王様なのに、この世では拒絶され、苦しめられ、十字架で殺された。従うものは少数。日本では特にそう。
ダビデがまだ軽く見られ、命を狙われていた時に、すでに本気で信頼し、従い、愛した勇士たちがいました。その理由は神様が「あなたがわたしの民イスラエルの君主となる」(2)と神様がおっしゃったからです。彼らは「主のことばのとおり、彼を王とした人々」(10)です。主の約束を信じて本気で従いました。
"ダビデの勇士のかしらたちは次のとおりである。彼らは、ダビデとともにその王権を強固にし、全イスラエルとともに、イスラエルについての主のことばのとおり、彼を王とした人々である。"
歴代誌 第一 11章10節
"三十人のかしらのうちのこの三人は、岩場にあるアドラムの洞穴にいるダビデのところに下って来た。ペリシテ人の陣営はレファイムの谷間に敷かれていた。
そのときダビデは要害にいて、ペリシテ人の守備隊はそのときベツレヘムにいた。
ダビデは切に望んで、「だれか私に、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらよいのだが」と言った。
三人はペリシテ人の陣営を突き破って、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。"
歴代誌 第一 11章15~18節
ダビデの故郷ベツレヘムはペリシテ人たちに占領されていました。
ダビデは「故郷の水が飲みたい」と願いました。命令ではありません。願っただけです。だのに、3人の勇士はそのために敵陣に突入し命をかけて水を汲んできます。「ダビデのためなら何でもする」「死んでもいい」という献身です。
もし僕らの人生が「自分のため」ならなるべくラクして平和でいたいものです。犠牲を払うなんてイヤに決まってます。
ところが「神様のため」なら変わります。
傷つけられたり、奪われたりすることがあっても、たとえ死ぬことがあっても天地を作り、命を支配しておられる神様に喜ばれることには大きな価値があります。今日も世界を支配し、たとえ死んでも永遠のいのちを与えてくださる神様です。三勇士はダビデを王とする、とおっしゃった神様に献身し行動しました。もしも命を失ったとしても、その人は100倍を手に入れる、と神様はおっしゃいます。(マルコ10.29-30)
神様への信頼と愛は僕らを自由にします。
いちいち地上のリスクや損得で判断しません。なぜなら天での勝利が確約されているからです。そこには喜びがあります。ダビデに仕えることは、キリストに仕えることのモデルです。
そして、ダビデ自身も自分を神様にささげるキリストのモデルです。
ダビデは勇士たちがいのちがけで汲んできてくれた水を自分のものとせず、それを神様にささげました。
"しかしダビデはそれを飲もうとはせず、それを主の前に注いで、
こう言った。「そんなことをするなど、私の神の御前に、絶対にできない。いのちをかけて行った人たちの血を、どうして飲めるだろうか。彼らは、いのちをかけてこれを運んで来てくれたのだ。」彼はそれを飲もうとはしなかった。三勇士は、そのようなことまでしたのである。"
歴代誌 第一 11章18~19節
イエス様は自分の命を十字架の上で神様にささげました。
イエス様は神様への愛と従順のお手本です。
同じように、僕らの命も財産も全部神様のものです。もし手放しても失うことはありません。もともと全てが神様のものだからです。
この世で何の見返りがなくても、イエス様に仕え、愛し、従い、全てをささげることは神様の喜びです。そして、天では大きな栄光と報いが用意されています。
今日もイエス様のためにささげましょう。時間を、力を、傷つくことを、忍耐を、赦しを、歌を、奉仕を、お金を、イエス様のためにささげましょう。神様の願いは、僕らが本気で神様を愛することです。
"イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』"
マタイの福音書 22章37節
イエス様こそ永遠の王様です。世間に変だと思われても、バカにされても、やがて世界を治めるイエス様です。この方に仕えることには最高の価値があります。ハレルヤ!