2026年3月16日月曜日

ローマ2.17-3.4

 ローマ2.17-3.4


「教会に傷つけられた」「牧師につまづいた」よくある悲しい話です。…ですが、「イエス様につまづいた」「イエス様に傷付けられた」のではありません。「たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方」です。(ローマ3.4)つまづきの原因は人間の罪であり悪であり欠点です。

同じように、戦争とイスラエルの政策を見聞きして「なんでそんなこと…」「ひどい…」と思うのも悲しい話です。だからと言って「聖書は間違い」「神なんていない」のではありません。


「律法は聖なるものです。また戒めも聖なるものであり、正しく、また良いものです。」(ローマ7.12)悪いのは神様でも聖書でもなくて、人間です。聖なる教えを知りながら、実際にはヒドいことをしている人間を聖書は指摘しています。



(17-23)

17,あなたが自らユダヤ人と称し、律法を頼みとし、神を誇り、

18,みこころを知り、律法から教えられて、大切なことをわきまえているなら、

19,また、律法のうちに具体的に示された知識と真理を持っているので、目の見えない人の案内人、闇の中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だ、と自負しているなら、

21,どうして、他人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。

22,姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿の物をかすめ取るのですか。

23,律法を誇りとするあなたは、律法に違反することで、神を侮っているのです。



人は真実ではありません。正しい国はありません。真実で正しいお方は神様だけです。



(3章3-4節)

では、どうですか。彼らのうちに不真実な者がいたなら、その不真実は神の真実を無にするのでしょうか。

決してそんなことはありません。たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。



イエス様は聖書を教える人には特に厳しく「外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。」(マタイ23.28)と言います。だから、「彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。」(マタイ23.3)


じゃあ、最初に律法を委ねられたユダヤ人指導者は全部ダメな人たちか?というと、そんなことはありません。むしろ、素晴らしい点は「大いにあります」それは「神様のことばを委ねられた」ことです。(ローマ3.2)



(ローマ3.1-2)

それでは、ユダヤ人のすぐれている点は何ですか。割礼に何の益があるのですか。

あらゆる点から見て、それは大いにあります。第一に、彼らは神のことばを委ねられました。



ユダヤ人たちに神様は最初にみことばを預けてくださいました。そして今日も彼らは神様に愛され、選ばれています。神様が手を差し伸べている人たちです。



"彼らは、福音に関して言えば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びに関して言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている者です。

神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。"

ローマ人への手紙 11章28~29節



"イスラエルのことをこう言っています。「わたしは終日、手を差し伸べた。不従順で反抗する民に対して。」"

ローマ人への手紙 10章21節



"それでは尋ねますが、神はご自分の民を退けられたのでしょうか。決してそんなことはありません。"

ローマ人への手紙 11章1節



悪いのはみことばではありません。神様でもありません。「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。」(テモテ2章13節)誰であっても、たとえ指導者でも「すべての人が罪の下にある」と聖書は言います。(ローマ3.10)人は必ず失敗します。…が、神様は真実です。「たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。」(ローマ3.4)


信頼すべきは人でなく神様です。何年経っても人は失敗します。教会も失敗します。だからとりなしましょう。イエス様の憐れみを求めましょう。イエス様と一緒に不従順な人や反抗する人を見放さず、祈り求め続けましょう。「神はご自分の民を退けられたのでしょうか。決してそんなことはありません。」(ローマ11.1)



2026年3月13日金曜日

ローマ1.18-32

 心が暗くなり、むなしくなり、おかしくなり、本来の自分ではなくなっていくプロセスが聖書に書いてあります。「神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。」(ローマ1.21)その人は代わりに不満や不安や妬みや争いなど、良くないものに蝕まれていきます。神様だけ永遠の力があるし、それを与えようとしてくださっています。それを知っていながら賛美せず、感謝しないことがおかしくなる原因です。

スマホ充電すればいいのに「電池がない!」と文句を言い続けるよう人になってしまいます。電源ボタン押していないのに「これ壊れている!」と怒るような愚かさです。

 


"神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。

彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。"

ローマ人への手紙 1章20~21節



神様を拒否する人は代替品で満たされようとします。何かで満たされようと、人は神様じゃないものを礼拝します。でもそれは何も良いものを生み出しません。むしろ人間を悲しみと苦しみに突き落とすルートです。



"彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、

朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。

そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。そのため、彼らは互いに自分たちのからだを辱めています。

彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。"

ローマ人への手紙 1章22~25節



ある人は偶像を作り自分をささげます。ある人は快楽に自分をささげます。本来、僕らの心と体は神様にささげるように作られています。その時に僕らは満たされ、喜び、安心するように作られています。

ところが、神様じゃないものに自分をささげていくと、心が暗くなり、悪いものしか生み出しません。そのリストが書かれています。



"彼らは、あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれています。また彼らは陰口を言い、

人を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、

浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲です。

彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです。"

ローマ人への手紙 1章29~32節



神様ではなく、作られたものに礼拝をささげることは、まるでコンセントを机に挿そうとしたり、鍵を他の所の穴に入れて「変だ、おかしい!」と言うような愚かさです。結果は死です。

「造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。」神様だけが賛美される方、感謝を受ける唯一のお方です。

今日の僕らの賞賛、拍手、感謝は全部神様にささげましょう。

「彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。」(25)



ローマ1.8-13

 ローマ1.8-13


営業をやってる友人が言っていました。「特に用事がなくても営業先を訪問して会うだけでだいぶ影響しますよ。」「電話やメールもいいけど、やっぱり会うのは強いです。」


ある学者が人がコミュニケーションで使ってるものを調べたところ、

言葉(話の内容)…7%、

声(話し方やトーン)…38%、

見た目(表情や態度や雰囲気)…55%

だったそうです。


パウロは福音の「情報を送りたい」のではなくて「会って、霊的なものを分けたい」と言います。



(9-10)

私が御子の福音を伝えつつ心から仕えている神が証ししてくださることですが、私は絶えずあなたがたのことを思い、

祈るときにはいつも、神のみこころによって、今度こそついに道が開かれ、何とかしてあなたがたのところに行けるようにと願っています。



神様の方法はいつも対面です。パウロはローマの教会の皆さんのことを心にかけて毎日祈っていたし、手紙も書いているけど、やっぱり「何とかしてあなたがたのところに行けるように」です。(10)

聖書は「あなたがたにはたくさん書くべきことがありますが、紙と墨ではしたくありません。私たちの喜びが満ちあふれるために、あなたがたのところに行って、直接話したいと思います。」(2ヨハネ1章12節)とも言っています。直接会うことは神様からの賜物を共有する方法です。



(11-12)

私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強くしたいからです。

というより、あなたがたの間にあって、あなたがたと私の互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。



神様は天から言葉を与えるだけで何でもできます。でも、イエス様の方法は「対面」です。神の御子として、天の王座に座っているだけでも何でもできるのに、地上に降りてきてくださり、人と関わり、弟子たちと一緒に過ごして、福音を委ねてくださいました。直接触れて病人を癒し(マタイ9.25、9.29)息を吹きかけて聖霊の賜物を与える神様です。(ヨハネ20.22)


今も僕らに「対面」をすすめる神様です。パンを裂いて一つのパンを一緒に食べるように(1コリント10.17)、手を置いて祈るように(ヤコブ5.14)、一緒に心と声を合わせて神様を賛美するように(ヘブル13.15)おっしゃいます。

パウロは直接会うことで「御霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強くしたい」と願っています。愛する方法は会って与えることです。また、自分も「励ましを受けたい」と言っています。人は交わる相手の影響を必ず受けます。祈ってくれる人、愛してくれる人、与えたいと願ってくれる人と会うと単なる情報のやり取りにはできない、霊的な良い影響を受けます。これは逆もあり得ます。「友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。」(1コリント15.33)


パウロは聖霊に満たされて祈る人でした。まだ会ったことのないローマの教会のメンバーのことを心にかけては祈り、感謝していました。そして、会って交わることを願い続けてくれました。御霊によって祈り、感謝し、愛することは相手に霊的な影響を強く与えます。パウロがそう願のは「あなたがたを強くしたいからです。」(11)


教会がやっぱり対面なのは、霊的に互いに励まし合い、与え合うためです。クリスチャンは全員、神様からの御霊の愛が注がれています。それを分け合う仲間が与えられています。共有しましょう。与え合いましょう。同じ空気を吸い、同じ心、同じ御霊で一緒に祈り、賛美し、愛し合いましょう。ハレルヤ!

2026年3月12日木曜日

ローマ1.1-7

 ローマ1.1-7


やっぱり聖書は「福音=嬉しい知らせ」です。使徒パウロが神様に選ばれて用いられているのは「嬉しい知らせのため」です。



"キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選び出され、使徒として召されたパウロから。"

ローマ人への手紙 1章1節



しかも、パウロが福音のために使徒にされたのは、すべての人に「信仰の従順」をもたらすためです。



"この方によって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。御名のために、すべての異邦人の中に信仰の従順をもたらすためです。"

ローマ人への手紙 1章5節



「従順」と聞くと、なんとなく「従わなきゃ…」「…せねば」「…すベき」となんとなく固くて暗い雰囲気が漂います。例えば「制限速度」は「捕まりたくないし」「罰金払うの嫌だし」みたいに、しぶしぶな感じがします。ルールによる従順は「仕方ないから守る」というものです。


でも、神様への従順は「信仰による従順」です。コワいから従うのでも、ルールだから従うのでも、罰があるから従うのでもありません。福音を信じるゆえに喜んで従います。「福音」とは以下のことです。


イエス様が私を愛し、私のために十字架で死んでくださったこと

復活して今も生きておられること。

私はイエス様と一緒に死んで、すでに無罪とみなされたこと。

二度と罪を思い出さないと言ってくださってること。

私はイエス様と一緒に復活して新しくなったこと。

イエス様と同じいのちと心を聖霊によって与えられていること。

これからもイエス様が永遠に一緒にいて愛してくださること。

将来は一緒に栄光が与えられる約束があること。


信じることが信仰です。それは喜びと感謝ゆえに「もっと従いたい」と思わせてくれます。「させられている」とか「しゃあなし」はそこにはありません。

パウロはこの「信仰の従順」を全ての人に与えるために使徒にされました。


そもそも、パウロは、自分のことを「キリストイエスのしもべ(奴隷)」と言っています。(1節)

「しもべ(奴隷)」と聞くと恐怖に怯え、威圧されながらコキ使われている「かわいそうな人」のイメージですが、キリストのしもべは全然違います。怖いから従うのでなく、嬉しいから従うのです。


イエス様が私たちのことを愛し、私たちを無罪にしてくださいました。そればかりでなく、これからも良いものを与え続け、愛し続け、将来はイエス様と同じ栄光を与えてくださいます。

だから僕らは喜んで従います。これが「信仰の従順」です。

パウロは、この感謝に満ちた従順を世界中の異邦人に与えるために役目が与えられました。



"この方によって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。御名のために、すべての異邦人の中に信仰の従順をもたらすためです。"

ローマ人への手紙 1章5節



神様を愛することは神様に従うことです。しかもその命令は重荷にはなりません。むしろ喜びです。

 


"神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。"

ヨハネの手紙 第一 5章3節



イエス様を信じた時は喜んで感謝します。ところが、クリスチャン生活が長くなると、自分の努力で成長しようとしたり、ルールで自分も周りも縛ろうとしたりして、昔のクセに戻ろうとすることがあります。そしてルールを守れない自分にがっかりしたりします。


ところが、福音は全然違います。

僕らはイエス様を信じた時にイエス様と一緒に死にました。

今は復活したイエス様と一緒に生きています。そう信じなさい、認めなさい、と聖書は言います。



"同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。"

ローマ人への手紙 6章11節



これを信じる時に、僕らは従う人に変えられます。もはや自分が頑張っているのではないからです。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2.20)


人によっては「ねば、べき」が強調される教会で育ったかもしれません。

でも、神様への従順は単純にルールを守ることではありません。福音はイエス様が私を愛し、私のために命を捨てて、私は赦されたこと、解放されたたことです。もう罪の奴隷ではないし、神様は過去の罪や恥をいつまでもねちねち追求することはなく、「二度と思い出すことはしない」(ヘブル10.17)と言ってくださっています。この信仰は僕らを自由にし、感謝をもって従順にさせてくれます。


神様が願っているのは、教えによる縛りでも脅しによる従順でもありません。福音を信じることによる「信仰の従順」です。

僕らは赦されました、新しくされました。だから喜んで神様の心と1つになることができるし、それを願っています。これが「信仰の従順」です。もうそれが始まっています。ハレルヤ!



2026年3月11日水曜日

民数記36章

 民数記36章