2026年7月13日月曜日

使徒13.1-5

 使徒13.1-5


「誰を宣教師として遣わそうか」とか「これからの教会をどのように成長させようか」とか「誰を牧師にしようか」とか僕らは話し合います。…ですが、聖書に書かれている教会は人の考えとか会議で決めてないことがわかります。


彼らがやってた事はシンプルで、神様を礼拝し、祈ることです。ひたすら神様に心を向ける中で聖霊の声を聞き、聖霊が人を選び、任命されます。教会はその声を聞き、みんなで確認して送り出します。



"彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が「さあ、わたしのためにバルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」と言われた。

そこで彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いてから送り出した。"

使徒の働き 13章2~3節



この働きは「神様のため」です。「人のため」とか「教会のため」でも「自分のため」でももありません。聖霊は「さあ、わたしのために」とおっしゃいました。僕らはすぐに「自分はどっちが都合がいいかな。」などと考えてしまいます。

誰が選ばれるか、どのような働きに召され送り出されるか、それは人が決めるのでなく、神様の選びと任命です。


「バルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」と言われた教会は、もう一度断食して祈って神様に求めます。祈りの中で教会のみんなの確信となり、教会全体が彼らに手を置いて送り出します。

「手を置くこと」は一体性を表します。「この働きは私たちキリストの体の働きと一つです。」という表明です。

バルナバとサウロは勝手に宣教師になったわけではありません。聖霊が彼らを選び、そして教会はそれを承認して送り出しました。



"二人は聖霊によって送り出され、セレウキアに下り、そこからキプロスに向けて船出し、"

使徒の働き 13章4節



3節では教会が送り出しています。でも、4節では聖霊が送り出しています。これは矛盾ではなくて、聖霊がなさることと教会がすることが一体化している様子です。


アンティオキア教会が「送り出す教会」として用いられたのは、人数が多かったからでも、お金があったからでもなく、ひたすら礼拝し、祈り、みことばを求め、聖霊に従う教会だったからです。


「礼拝」とは賛美したり聖書の話を聞く「あの日曜の午前中の集会」ではありません。「礼拝」は自分を生きたささげものとして、神様に明け渡すことです。(ローマ12.1)「主よ、私はあなたのものです。あなたの思い通りにしてください」そう言って所有権を手放し、100パーセント神様のものにしてもらうことです。


「祈り」も同じです。イエス様が教えてくださった祈りは「御名が聖なるものとされますように」です。つまり、「神様が全てになりますように。人間的な汚れたものが少しも入りませんように」という祈りです。


イエス様が十字架でいのちを捨ててくださったように、いのちを捨てて僕らを愛してくださったように、そのように僕らも自分の全てを神様にささげることが礼拝です。

その時に、神様は「神様の働き」をさせてくださいます。

聖霊に満たされ、聖霊に導かれるためには、「自分を聖霊に完全に明け渡す」のが大切です。神様に満たされるためには、まず自分を空き家にすることです。


アパートから退去する時にカーペットもカーテンも残さないのと同じです。新しい所有者が気に入ったカーペットやカーテンに取り替えます。そのように、僕らの所有者は神様です。神様の思い通りのレイアウト、デザインがいいに決まっています。


もしも僕らが何かを始めようとしているなら、

「本当にこれは聖霊の働きですか?」と神様に聞いてみるのをお勧めします。

自分の力とかやる気とか夢だと長くは続きません。


アンティオキア教会は神様を礼拝し、祈る教会でした。自分たちの意見とか願いとか意見調整ではなくて、全てを明け渡す祈りの中で、神様は人を召し出し、用いてくださいます。人の思いもよらない新しいことをさせてくださいます。僕らがすべきは今日も神様に心を向け続けることです。神様、どうぞ僕らの心をいつもあなたに向けさせてください。今日も完全に明け渡すものとしてください。

2026年7月9日木曜日

使徒11.19-26

 使徒11.19-26


「問題を歓迎する」とか「迫害を歓迎する」というのは言い過ぎかもしれないけど、それでも神様は迫害や問題を用いて僕らを次のステップに導いてくださることがよくあります。


使徒の働きによると、

福音を伝える→迫害される→次の町に散らされる→そこで福音が広がる

というパターンが何度も書かれています。



"さて、ステパノのことから起こった迫害により散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで進んで行ったが、ユダヤ人以外の人には、だれにもみことばを語らなかった。

ところが、彼らの中にキプロス人とクレネ人が何人かいて、アンティオキアに来ると、ギリシア語を話す人たちにも語りかけ、主イエスの福音を宣べ伝えた。

そして、主の御手が彼らとともにあったので、大勢の人が信じて主に立ち返った。"

使徒の働き 11章19~21節



迫害によって散らされて、そこで出会った人たちに福音を伝えることを「主の御手が彼らとともにあった」(21)といいます。人の悪による迫害さえも用いられて、大勢の人が信じて主に立ち返りました。

今も、イエス様の働きをすると問題に直面することがあります。迫害かもしれないし、内側の問題かもしれません。でも、それでもそこに「主の御手」があって、神様はそれを使って次のステップへ導き成長させてくださいます。



"神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。"

ローマ人への手紙 8章28節



「すべてのこと」には人からはマイナスに見えることも含まれます。神様はそれさえ良いことのために用いられます。


ヨセフは兄たちから嫌われ、奴隷にされ、言葉の通じない外国に売られてしまいました。人身売買は悲惨な経験です。ところが、それさえも神様は用いられました。ヨセフは後で自分を売った兄たちに言います。「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。」(創世記50章20節)


パウロも何度も迫害に遭っています。あるときは逮捕されて監禁されました。普通なら「終わった…」と思う場面ですが、パウロは言います。「兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったことを知ってほしいのです。」(ピリピ人1章12節)


神様は僕らの思いを超えています。

トラブルを通して神様のご計画は進み、僕らも成長させられます。

イエス様が願っているのは新しいクリスチャンを生み出して一丁あがり、ではありません。イエス様を信じた人があらゆることを通して成長し、弟子となり、次の人のために用いられていくことです。(マタイ28.18-19)


迫害によってエルサレムを追い出された人たちはアンティオキアまで行き、福音を語り、そこで大勢の人が信じて主に立ち返りました。(21)

しかも信じて終わりではなく、彼らは成長し、キリストのことばかり考え、キリストのことを賛美し、キリストのためにばかり活動する人たちになりました。彼らは「キリスト者」と呼ばれるようになります。



(26)

弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。



「キリスト者」とは、「キリストに夢中な人たち」今風に言うなら「キリスト推し」「キリストガチ勢」のような感じです。周りの人から見てそんな感じに見えたようです。彼らは本気でキリストを愛し世界に宣教師を派遣する中心的な教会になっていきます。

この彼らの成長の背景には励ましと教えがありました。新しい信者のためにエルサレムの教会は最初はバルナバを派遣し、彼らを励まし続けます。



"この知らせがエルサレムにある教会の耳に入ったので、彼らはバルナバをアンティオキアに遣わした。

バルナバはそこに到着し、神の恵みを見て喜んだ。そして、心を堅く保っていつも主にとどまっているようにと、皆を励ました。

彼は立派な人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大勢の人たちが主に導かれた。"

使徒の働き 11章22~24節



次にバルナバはサウロを連れてきて、新しいクリスチャンたちを1年間教え続けます。彼らはしっかりと成長し「キリスト者」と呼ばれるまでになっていきます。



"それから、バルナバはサウロを捜しにタルソに行き、

彼を見つけて、アンティオキアに連れて来た。彼らは、まる一年の間教会に集い、大勢の人たちを教えた。弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。"

使徒の働き 11章25~26節



今日も僕らの周りには問題があり、迫害があるけど、その先には成長があり、さらに僕らがキリストに夢中にさせられ、用いられていく将来があります。迫害の最中にも「主の御手が彼らとともにあった」(21)と同じく、今日もゴタゴタする僕らの上に「主の御手」があります。マイナスに見えることも全部用いられて主のご計画は進みます。今日も祝福への通過点です。神様に委ねつつ、祈りつつ、神様と一緒に通るべきところを通っていきましょう。大丈夫です。ハレルヤ!


2026年7月8日水曜日

使徒11.1-18

 使徒11.1-18

2026年7月7日火曜日

使徒10.34-43

 使徒10.34-43


「神様がこの世界を作ったのなら、どうして苦しみや悲しみや病気や死があるの!?」よくある質問です。


神様はこの世界を作り、それをご覧になって「それは非常に良かった」(創世記1.31)とおっしゃいます。そこには苦しみも悲しみも悪も死もありませんでした。

だから、神様のせいではありません。人間が自分から罪を選び、悲しみと苦しみ、そして死への道を選びました。また、そのように悪魔は誘導しました。(創世記3章)


今も世界は悪魔に支配され虐げられています。悪魔は罪を利用して人々を苦しめます。その影響の中で病気があり、人間関係が壊れ、最終的には全員が死にます。聖書は「世全体は悪い者の支配下にある」と言います。(1ヨハネ5.19)

ですが、イエス様は世界の王として全ての罪も、その背後にいる悪魔も滅ぼすことが確定しています。今から約2000年前に来られたのは、イエス様が王であり、すべての権威を持っておられることをあらかじめ知らせるためです。



"それは、ナザレのイエスのことです。神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました。それは神がイエスとともにおられたからです。"

使徒の働き 10章38節



イエス様は「悪魔に虐げられている人たちをみな」癒されました。(38)イエス様がたった一言「黙れ。この人が出て行け」と言えば、悪霊は出てきます。(マルコ1.23-27) 大勢の悪霊に取り憑かれている人がいても、イエス様はたった一言で全てを追い出されます。ゲラサ人の土地では大勢の悪霊が豚に乗り移り死にました。(マルコ5.1-13) マタイの福音書では4章でも8章でも、悪霊に憑かれたたちも病気の人たちも「みな」癒されたとあります。ペテロはそのことを要約して説明しています。



"それは、ナザレのイエスのことです。神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました。それは神がイエスとともにおられたからです。

私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムで行われた、すべてのことの証人です。"

使徒の働き 10章38~39節



悪魔の武器と目的は「殺すこと」です。でも、イエスは死よりも強く、死んでも復活する方です。イエス様も人の罪によって十字架の上で殺されました。でも三日後に復活され、ご自分が全ての上にいる王であり、死も敵ではないことを証明されました。



"人々はこのイエスを木にかけて殺しましたが、

神はこの方を三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました。

民全体にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちに現れたのです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられた後、一緒に食べたり飲んだりしました。"

使徒の働き 10章39~41節



今も僕らには病気があり苦しみがあり死があります。でも、イエス様はすでに勝利している王です。イエス様につく人はイエス様と一緒に勝利します。最後には悪魔も罪も全て滅ぼされ、追い出され、この世界から罪も悲しみも苦しみも病も死も消えていきます。



"今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。"

ヨハネの福音書 12章31節



今どんなに悪い人でもイエス様を信じなら「だれでも、その名によって罪の赦しが受けられ」ます。あの、罪も悲しみも悪もなく「それは非常に良かった」(創世記1.31)世界に回復することができます。



"そしてイエスは、ご自分が、生きている者と死んだ者のさばき主として神が定めた方であることを、人々に宣べ伝え、証しするように、私たちに命じられました。

預言者たちもみなイエスについて、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられると、証ししています。」"

使徒の働き 10章42~43節



ペテロが伝えているのは「福音=良い知らせ」です。どんな力もイエス様に勝つ事はありません。今日もイエス様に従いましょう。希望はあります。すでに勝利しているイエス様が一緒です。大丈夫です。ハレルヤ!



会福音讃美歌136 「いくるかいもなしと」 歌詞を現代語にしてみました

 教会福音讃美歌136 いくるかいもなしと

歌詞を現代語にしてみました。


1番 生きる意味も ないとひとり あきらめてた者を 命ささげ 救いたもう 深いイエスの愛よ (くり返し) 十字架! 十字架! そこにイエスは いのちをささげた 十字架! 十字架! そこにわれの 罪も共に消えた 2番 罪をそこに ゆだねた今 罪に力はない 神とともに いつもきよく 生きる者とされた (くり返し) 十字架! 十字架! そこにイエスは いのちをささげた 十字架! 十字架! そこにわれの 罪も共に消えた 3番 イエスのみ手に 支えられて 道を歩む我は 御名をほめる 賛美の歌 いつも絶えず歌おう (くり返し)

2026年7月6日月曜日

使徒10.1-33

 使徒10.1-33


教会の文化とか伝統は尊いものだけど、「教会とはこういうものだ」「礼拝とはこういうものだ」「うちの教会ではこうだ」というのを、いつの間にか「神様はこのようにしか働かれない」と思い込んでしまうことがあります。


神様は僕らの思いを超えています。僕らの視野を広げ、新しいことをなさる神様です。思いもしなかった人たちに対して福音を届けるように導かれることがあります。その時に大事なのは、神様のみことばと御霊の導きに柔軟に従うことです。


ペテロにとっては「異邦人は神様に受け入れられない存在だ」というのが長年の思い込みでした。異邦人のことをまるで「汚れた食べ物」「触れてはいけないもの」のように思っていました。

神様はその思い込みを変えてくださいます。



"彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。ところが、人々が食事の用意をしているうちに、彼は夢心地になった。

すると天が開け、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来るのが見えた。

その中には、あらゆる四つ足の動物、地を這うもの、空の鳥がいた。

そして彼に、「ペテロよ、立ち上がり、屠って食べなさい」という声が聞こえた。

しかし、ペテロは言った。「主よ、そんなことはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」

すると、もう一度、声が聞こえた。「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」"

使徒の働き 10章10~15節


神様はこの幻をペテロは3回も繰り返し見せてくださいました。ペテロは「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」と言われた意味を考えます。

そのようなタイミングで異邦人の人々がペテロを訪ねてきます。普通なら異邦人と交わることはありません。ところが御霊ははっきりとおっしゃいます。



"ペテロが、今見た幻はいったいどういうことだろうか、と一人で思い惑っていると、なんと、コルネリウスから遣わされた人たちがシモンの家を捜し当てて、その門口に立ち、

声をかけて、「ペテロと呼ばれているシモンはここに泊まっていますか」と尋ねていた。

ペテロは幻について思い巡らしていたが、御霊が彼に言われた。「見なさい。三人の人があなたを訪ねて来ています。

さあ、下に降りて行き、ためらわずに彼らと一緒に行きなさい。わたしが彼らを遣わしたのです。」"

使徒の働き 10章17~20節



「異邦人は救われることはない」と思って育ってきたペテロを神様は変えてくださいました。彼は変えられなければなりませんでした。ペテロは言います。



"神は私に、どんな人のことも、きよくない者であるとか汚れた者であるとか言ってはならないことを、示してくださいました。"

使徒の働き 10章28節



ペテロが異邦人を宿泊させ、彼らと一緒に出かけて訪問したのは革命的なことです。後で教会の人たちに「なんで異邦人のところへ行ったんだ?」って言われそうです。実際、大問題になりました。詳しくは11章にあります。


ペテロはそれを予想して数人の兄弟たちと一緒に出かけ、一緒に考えてもらうことにしました。11章になると彼らが証人となっています。



(23節)

それでペテロは、彼らを迎え入れて泊まらせた。翌日、ペテロは立って、彼らと一緒に出かけた。ヤッファの兄弟たちも数人同行した。 



僕らも思い込みを壊される体験が与えられることがあります。多くの場合、まずは祈りの中で示され、また、神様が与えられる状況の中で導かれます。

また、それが本当に神様からのものかどうか吟味する仲間も必要です。ペテロは自分だけで判断せず、一緒に考えてくれる教会の仲間と出かけました。



"それでペテロは、彼らを迎え入れて泊まらせた。翌日、ペテロは立って、彼らと一緒に出かけた。ヤッファの兄弟たちも数人同行した。"

使徒の働き 10章23節



神様が新しい道を示されるときにはいつも祈りがあります。

ペテロは祈りの中で示されました。

ペテロを招いた異邦人コルネリウスも祈りの中でペテロを招くように導かれました。(10章1節から6節)


また、神様は幻や預言を用いられることもあるし、御霊の語りかけを聞くこともあります。ペテロは御霊の語りかけをはっきりと聞き取ることができました。実は異邦人が救われることは旧約聖書で何度も預言されていたことでした。



"ペテロは幻について思い巡らしていたが、御霊が彼に言われた。「見なさい。三人の人があなたを訪ねて来ています。

さあ、下に降りて行き、ためらわずに彼らと一緒に行きなさい。わたしが彼らを遣わしたのです。」"

使徒の働き 10章19~20節



僕らにも新しい道が示されることがあります。でも同時に、それが本当に神様からのものかどうか教会の中で吟味することも必要です。



"預言する者たちも、二人か三人が語り、ほかの者たちはそれを吟味しなさい。"

コリント人への手紙 第一 14章29節



神様は僕らを新しく変え続けてくださいます。

まずは「祈り」です。

そして「神様のみことば」を聞くことです。

そして「教会の信頼できる仲間」と一緒に判断することです。

そして神様は「新しい状況」を用いてくださいます。


伝統や文化は尊いものだけど、もっと大切なのは神様に従うことです。神様ははるかに大きなことをなさる方です。

今日も神様の語りかけと導きに心を開いていられますように。

与えられた状況を正しく判断することができますように。

神様の導きに従う柔軟さと謙遜さが与えられますように。