先月、うちの教会の関係者なんと4人が亡くなりました。最近、死が身近です。聖書の言葉にこうあります。
(伝道者の書7章2節)
祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。
誰かの死に触れた時、人は「自分もいつか死ぬ」という現実に向き合います。
また、聖書は人は死んで、死後には神様の裁きを受けるとあります。
(ヘブル 9:27)
人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている
「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。」その続きに意外なことが書いてあります。「死ぬ日は生まれる日にまさる。」です。
普通は赤ちゃんが生まれるとみんな喜びます。嬉しいからです。
でも聖書は「死ぬ日」が勝っていると言います。
この意味は、神様に受け入れられ、全ての苦しみから解放され、神様と近く、お会いし、受け入れられる日です。その意味で「死ぬ日は生まれる日にまさる。」です。
死後に裁きがある、っていうけども、みなさんがもし、今日裁きを受けるとしたら
合格だと思いますか?、不合格でしょうか?神様の前でなんと言われるでしょう。
僕も皆さんも人生でたくさん失敗したと思います。
愛すべき人は愛せなかったし、許すべき人は許せなかったし、してはいけないことをしてしまったし、誰かを傷つけてきました。
※昨年義理の父が死にました。まだ元気だった頃の話です。
母が入院して一人暮らしになりました。すると会うたびに言うんです。
「俺のせいなんだ。俺が悪かった」「俺がお山の大将だったんだ。ひどいことしたんだ。ごめんな」と、お母さんの写真を見ながら泣くんです。
僕はその姿を見て、おじいちゃんが悲しんで悔い改めている姿がよくわかりました
イエス様がおっしゃった言葉は、「心が豊かな人は幸せだ」とは言わなかったです。
イエス様は「心が貧しい人は幸いだ」とおっしゃいました。「悲しむ人は幸いだ。」
「正しいことができなくて、飢え乾いていている人は幸いだ」っておっしゃいました。
どうしてでしょう?
イエス様は「天の御国は、その人のものだから。」とおっしゃいます。神さまに赦され、受け入れられ、慰められるのは、「自分は悪くないし、悪いのは相手だ」という人ではなく、「私はひどい人間ではない」という人でなく、自分の悪いところに気がついて、心が貧しいことを知って、悲しくて、ガッカリしている、そのような人だとイエス様はおっしゃいます。
そのおじいちゃんは昨年天に召されました。神様が天に迎え入れてくださる人は、立派な人ではありません。神様は言われます。「正しいものはいない。1人もいない」「罪がない人はいない。」「すべての人が罪を犯した」とです。
ところがイエス様は言われます。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
またイエス様は言われます。「わたしは裁くためではなく、救うために来たのです。」
さっき、誰が合格?誰が神様に受けいられられる?って言いましたが、イエス様の答えはこうです。
「わたしを通してでなければ誰も父神様のもとに行くことができません。」
「わたしが道です」とおっしゃるんです。
逆に言うと、「イエスキリスト」という道さえ入れば行けちゃいます。
だってイエス様は「私は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」とおっしゃいました。「わたしは裁くためではなく、救うために来たのです。」とおっしゃいます。あなたを救うため、あなたに命を与えるため、あなたに救いを与えるために来たのがイエス様です。
どうやってその道に入るんですか?
それはイエス様が身代わりになって苦しみ、神様から引き離されて、神様からの呪いを身代わりに受けてくれた、その事実を受け入れることです。
教会には必ず十字架があります。
教会によってはキリストが磔になっている十字架、みなさんも見たことがあると思います。
※ある時うちの妻が入院しました。キリスト教の病院だったので、病室にキリストの十字架が飾って飾ってありました。入院しているので、特にすることもないので、みんな壁にあるキリスト像を見て過ごしていました。
あるとき、隣の人が言ったそうです。
「遠藤さん、キリスト教なんでしょう?」
「そうだよ」
「ねえ、あの人、なんで磔になってるの?」
いい質問です。みんな聞きたいことです。「なんで磔になってるの?」
答えは聖書に書いあります。
(1ペテロ 3:18)
キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。
十字架で殺される、というのは、2000年前のローマ帝国の処刑です。
極悪人が殺される、そして見せしめにされるためのものです。だから、丘の上で殺されました。キリストも殺されました。
聖書は、「正しい方が、人々の身代わりになった」と言います。
分厚い聖書に何度も同じことがあります。
神様は適当に見逃す方ではありませ。
神様は「まぁいいよ。見なかったことにするよ」といういい加減なだらしない神様ではありません。
罪に対して怒り、報復する、正しく裁く神様です。
正しく裁く正しい裁きをする方が、やっぱり僕らを愛しています。
だから神様の怒りと裁きを、キリストが引き受けてくださった、とあります。
イエス様は「わたしは正しい人を招くためでなく、罪人を招くためにきた」とおっしゃいます。
「さばくためでなく、救うためにきた」とおっしゃいます。
イエス・キリストは僕らが受けるべき神様の怒りを、呪いを、受けて、十字架の上ですべての罪を引き受けて、そして言われます。
「友よ、あなたの罪は赦された。」と。
これが、「道」です。
みなさんの罪の罰はイエス様が引き受けてくださいました。
このイエス様を信頼する人は、裁かれることなく、永遠の命をもちます。そのイエス様を信じることが「道」です。天国への道。神様のもとにいく唯一の道です。
どんな人も赦されます。愛されています。神様の願いは、みなさんが裁かれることでなく赦されることです。死んで終わるのでなく、死後に裁きに会うのでなく、赦された人として、神様の元に迎えられることです。