2026年9月18日金曜日

2歴代14章から16章

 2歴代14章から16章

2026年9月8日火曜日

2歴代7.1-3

 2歴代7.1-3


僕らは「主の名が聖なるものとされますように」(マタイ6章)「栄光がただ主にのみありますように」(詩篇115篇)って祈るけど、神殿に神様の栄光が満ちることは、それが実際に起こった時の様子です。

祭司たちは神殿に入ることができなくなりました。ただ神様の栄光だけがすべてになりました。

演奏してるとか、奉仕してるとか、そのような人間的なものが消えていく世界です。


火が天から降ってきたら「わ、怖!」となると思います。この時、天から火が降ってささげ物を焼き尽くしました。人々は恐れ、顔を地面につけて神様を拝みました。



"ソロモンが祈り終えると、天から火が下って来て、全焼のささげ物と数々のいけにえを焼き尽くし、主の栄光がこの宮に満ちた。

祭司たちは主の宮に入ることができなかった。

主の栄光が主の宮に満ちたからである。

イスラエルのすべての人々は、火が下り、主の栄光がこの宮の上に現れたのを見て、膝をかがめて顔を地面の敷石に付け、伏し拝んで、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」と主をほめたたえた。"

歴代誌 第二 7章1~3節



こんなに恐ろしい場面でも人々は「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」と歌いました。それは、「本来、私たちは焼き尽くされてもおかしくない存在なのに、それでも神様は自分たちを受け入れてくれた」という意味です。神様への恐れと感謝の賛美です。

聖書は「私たちの神は焼き尽くす火」といいます。(ヘブル12章29節)


聖書によると、神様の栄光に直面した人たちはみんな自分の汚れを自覚して恐れ、「もうダメだ」と思ったようです。イザヤもそう(イザヤ6章)モーセもそう(出エジプト3章)ペテロもそう(ルカ5章)弟子たちもそう(マタイ17章)エゼキエルもそう(エゼキエル1.28)ヨハネもそうです。(黙示録1章)

聖書に出てくる立派な先輩たちがムリなら僕らもムリです。

聖なる神様の前に近づくことはできません。

この時も祭司たちは神殿に入ることはできず、顔を地面につけて恐れました。(2節)

神様のご臨在の前では罪はすべて焼き尽くされてしまいます。

僕らは焼き尽くされて当然でした。


神様のご臨在に触れることは、自分を失うことです。

そもそも、全焼のいけにえとは「すべてを神様にささげます」「自分を捨てます。ささげます」という献身の意味です。

また、罪のためのいけにえとは、「この動物が身代わりに罪のさばきを受けて殺されます」という意味です。この時、天からの火は祭司たちを焼きませんでした。人々を焼き殺すこともしませんでした。代わりにいけにえを焼き尽くしました。


神様の圧倒的なきよさ、圧倒的なさばきの前に出ることができる人はいません。

ただ、イエス様が僕らの代わりのいけにえとなって殺され、僕たちは生かされました。

イエス様の死は僕らの身代わりです。

だから僕らは一度キリストとともに死んだものです。

そしてもう一度、新しくキリストと共に新しく、きよくされて生かされたものです。

「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」ハレルヤ!


2歴代6.24-42

 2歴代6.24-42


自然災害や戦争や食糧難が全部「あの罪のせいだ」と原因と結びつけるようには聖書は教えていません。…ですが、僕ら全員に罪があり、罪によって神様から離れ、本来の祝福を失ってしまっているのも事実です。


聖書は、干ばつや戦争や病気などに直面するときには罪を告白して祈るように聖書は教えます。罪を認め、神様に戻り、「もう一度雨を降らせてください」(26節から27節)「癒してください」と祈ります。罪は赦されます。神様は回復を与える方です。(28節から31節)


神様が神殿を与えてくださった理由は、そこで悔い改めの祈りをし、赦され、回復するためでした。ソロモンは神殿を「立派な信仰者が来るところ」とは思っていませんでした。むしろ傷つき、苦しみ、罪を抱えた人がその赦しを求め、回復を願って祈るために来る場所としています。彼は言います。


"罪に陥らない人は一人もいません。"

歴代誌 第二 6章36節


"あなたはその心をご存じです。あなただけが、すべての人の子の心をご存じだからです。"

歴代誌 第二 6章30節


神様は僕らの心の内側をご存知です。誰もが正しいとは言えない罪人です。だからソロモンはこう祈ります。


"罪に陥らない人は一人もいません。ですから、彼らがあなたの前に罪ある者となったために、あなたが怒って彼らを敵に渡し、彼らが、遠く、あるいは近くの国に捕虜として捕らわれて行き、

捕らわれて行った地で我に返り、その捕囚の地であなたに立ち返ってあわれみを乞い、『私たちは罪ある者です。不義をなし、悪を行いました』と言い、

捕らわれて行った捕囚の地で、心のすべて、たましいのすべてをもってあなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖にお与えになった彼らの地、あなたがお選びになったこの都、私が御名のために建てたこの宮の方に向かって祈るなら、

あなたの御座が据えられた場所である天から、彼らの祈りと願いを聞き、彼らの訴えをかなえて、あなたの前に罪ある者となったあなたの民を赦してください。"

歴代誌 第二 6章36~39節


ソロモンの祈りは、何度も「赦してください」です。この祈りは聞かれます。しかも「親しく聞いて」くださいます。そして神様は「彼らの罪を赦し、彼らの地を癒やす」と明言されます。


この神殿は後に来られるイエス様を表すものです。

今日も僕らの内側には罪があります。

その罪を取り除いてくださるのは、十字架で犠牲となって赦してくださるイエス様です。


"わたしの名で呼ばれているわたしの民が、自らへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求めてその悪の道から立ち返るなら、わたしは親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒やす。

今、わたしはこの場所でささげられる祈りに目を開き、耳を傾ける。"

歴代誌 第二 7章14~15節


苦しみに合うときに誰かを責めたり自分を裁いたり後悔したりしてしまいます。確かに罪はあります。でも、赦しと回復が用意されています。神様のめぐみと憐みは尽きることがありません。罪を犯したら祝福も終わることはありません。

災害を見て他人や自分を裁くのでなく、神様の前では罪人であることを認めましょう。責めるよりも、神様のところに行って告白しましょう。

赦しは用意されています。イエス様の十字架は僕らの罪をきよめます。今日も神様のところに戻りましょう。救いはイエス様にしかありませせん。赦され、救われます。大丈夫です。

ハレルヤ!

2026年9月4日金曜日

2歴代4.1

 2歴代4.1

2歴代3章

 2歴代3章

2026年9月2日水曜日

2歴代2章

 2歴代2章

2026年9月1日火曜日

2歴代1章

 2歴代1章


「できない」「足りない」「わからない」って思うことは悪いことでも恥ずかしいことでもありません。むしろ良いことであり、神様を求めるための大切な、そして健全な出発点です。

ソロモンは王になったとき、自分にはこの大きな民を治める知恵も判断力もない、と認めました。そして神様に求めました。与えられた理由は「自分にはできない」と思って神様に求めたからです。

ソロモンは神様を礼拝し、神様を求めました。そして、神様も「あなたに何を与えようか。願え。」と言ってくださいました。



"ギブオンの主の幕屋の前には、フルの子であるウリの子ベツァルエルが造った青銅の祭壇があった。ソロモンと会衆はそこで主を求めた。

ソロモンは、そこに、すなわち会見の天幕におられる主の前にある青銅の祭壇に上り、その上で千匹の全焼のささげ物を献げた。

その夜、神はソロモンに現れて仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」"

歴代誌 第二 1章5~7節



ソロモンは神様がダビデに約束してくれた祝福を求め、そして、リーダーとしての知恵と知識を求めました。



"神、主よ、今、私の父ダビデになさったあなたの約束を堅く守ってください。あなたは、地のちりのように数の多い民の上に、私を王とされたからです。

今、知恵と知識を私に授けてください。そうすれば、私はこの民の前に出入りいたします。さもなければ、だれに、この大いなるあなたの民をさばくことができるでしょうか。」"

歴代誌 第二 1章9~10節



自分にはない、足りない、と思う人は必死に求めます。貧しい人は幸いです。

ヤコブ1章5節は「知恵の欠けた人は求めなさい」といいます。ソロモンは「私は小さな子どもで、出入りする術を知らない」と告白しています。



"わが神、主よ。今あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし私は小さな子どもで、出入りする術を知りません。

そのうえ、しもべは、あなたが選んだあなたの民の中にいます。あまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど大勢の民です。

善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、この大勢のあなたの民をさばくことができるでしょうか。」"

列王記 第一 3章7~9節


求める人に神様は惜しげもなく与えてくださいます。大事なことは自分は「知恵が欠けている」ってちゃんと認めることです。

「あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。」(ヤコブ1.5)

ソロモンは並外れて偉大なものとされました。



"神はソロモンに仰せられた。「そのようなことがあなたの心にあり、富も、財も、名誉も、あなたを憎む者たちのいのちさえ願わず、また長寿も願わず、むしろ、わたしがあなたをその王として立てたわたしの民をさばくための知恵と知識を願ったので、

その知恵と知識があなたに授けられる。またわたしは、あなたの前の王にも後の王にもないほどの富と財宝と誉れをあなたに与える。」

こうして、ソロモンはギブオンにある高き所から出て行き、会見の天幕の前を去ってエルサレムに行き、イスラエルの王となった。

ソロモンは戦車と騎兵を集め、戦車千四百台と騎兵一万二千人を所有した。彼はこれらを戦車の町々、およびエルサレムの王のもとに配置した。

王はエルサレムで銀と金を石のように用い、杉の木をシェフェラのいちじく桑の木のように大量に用いた。"

歴代誌 第二 1章11~15節



逆に、「俺には力がある」「俺はできる」「俺は持っている」と思う人は愚かです。その高ぶりは滅びにつながります。「彼が強くなると、その心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。」(2歴代26.16)にあるように、高ぶって滅んでいく実例が聖書に何度もあります。だからあなたは心のうちで、「私の力、私の手の力がこの富を築き上げたのだ」と言わないように気をつけなさい。(申命記8.17)「自分を知恵のある者と考えるな。」(箴言3.7)と神様は僕らに警告します。

「できない」「足りない」「わからない」正直に認めましょう。それは神様に求める機会、神様の大きさを体験する機会とされます。だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神様です。弱さとか足りなさはめぐみを受け取る通過点です。ハレルヤ!