2026年7月23日木曜日

使徒16.16-24

 使徒16.16-24


「ことなかれ」がラクです。誰かが嫌な気持ちになったりモメたりしないように、罪については触れず、悔い改めは求めず、悪いビジネスだとわかってもそっとしておく…その方が多分ラクです。

でも、これはイエス様の願いではありません。イエス様はおっしゃいました。



"あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思っていますか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ分裂です。

今から後、一つの家の中で五人が二つに分かれ、三人が二人に、二人が三人に対立するようになります。"

ルカの福音書 12章51~52節



イエス様の福音は人を変えます。その生活も変えられます。その結果、今まで仲良くやってきた人たちからは反発されたり迫害されることもあります。


使徒の働き16章にその実例があります。

ピリピの町には占いビジネスがありました。その背後には悪霊の働きがありましたが、多くの人たちはまず占い師に相談するのが一般的だったようです。占いの霊に取り付かれた女奴隷は利用され、搾取されていました。この町ではそのような仕組みが出来上がっていました。

その町でパウロとシラスはイエス様の救いを伝え始めます。すると、ある若い女奴隷が悪霊に取り付かれた状態で毎日パウロたちにつきまとって叫びます。



"さて、祈り場に行く途中のことであった。私たちは占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させていた。

彼女はパウロや私たちの後について来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えています」と叫び続けた。"

使徒の働き 16章16~17節



毎日しつこくパウロやシラスにつきまとい、彼らをほめ、持ち上げ、大声で宣伝しまくります。パウロは最初は忍耐していたようですが、ついに困り果て、イエス様の権威によって、その女から悪霊を追い出します。



"何日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り向いてその霊に、「イエス・キリストの名によっておまえに命じる。この女から出て行け」と言った。すると、ただちに霊は出て行った。"

使徒の働き 16章18節



今まで縛られていた女奴隷は占いの霊から解放されました。「よかったね!」「もう自由だね!」となるはずですが、そうはなりません。彼女を使って儲けていた経営者たちにとっては許せない行為だからです。



"この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させていた。"

使徒の働き 16章16節



"彼女の主人たちは、金儲けする望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕らえ、広場の役人たちのところに引き立てて行った。

そして、二人を長官たちの前に引き出して言った。「この者たちはユダヤ人で、私たちの町をかき乱し、

ローマ人である私たちが、受け入れることも行うことも許されていない風習を宣伝しております。」

群衆も二人に反対して立ったので、長官たちは、彼らの衣をはぎ取ってむちで打つように命じた。

そして何度もむちで打たせてから二人を牢に入れ、看守に厳重に見張るように命じた。

この命令を受けた看守は、二人を奥の牢に入れ、足には木の足かせをはめた。"

使徒の働き 16章19~24節



パウロとシラスは占いの経営者たちの怒りを買い、まるで「町をかき乱すもの」として行政の長官たちからも嫌われ、ついには、群衆たちも2人に反対します。その場で逮捕され、服を脱がされ、何度も鞭で打たれ、血だらけのまま監禁されます。


イエス様の福音は人を自由にし解放します。しかし、この世はそれを嫌い、反発し、迫害します。それでもパウロたちには不思議な喜びがあったようです。拷問も監禁も苦しいし痛いしイヤに決まってます。だのに、牢獄の中でも彼らは「神を賛美する歌を歌っていた」とあります。(25)

彼らの内側に住んでおられる御霊は彼らを助け、喜びを与え、祈りを与え、賛美を与えてくださいました。使徒たちはキリストの名のために辱めを受けたことを「喜び」としたと書かれています(5:41)。


イエス様も、迫害される時には天からの大きな喜びと栄光がある、とはっきりおっしゃいます。「キリストの名のためにののしられるなら、あなたがたは幸いです。」とさえおっしゃいます。その時には御霊が特別にとどまってくださるからです。(1ペテロ4.14)



"喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。"

マタイの福音書 5章12節



"むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。

もしキリストの名のためにののしられるなら、あなたがたは幸いです。栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。"

ペテロの手紙 第一 4章13~14節



「荒波たてたくない」「モメごとは勘弁してほしい」と思います。パウロでさえ、最初からいきなり悪霊追放をしたのではありません。何日も忍耐しました。それでもイエス様は人々を悪霊から解放し自由にしたいと願っておられます。わざわざ争いを起こすためではないけど、結果として迫害されたり反対を受けたりすることはあります。


イエス様をこの世は嫌います。でもイエス様の王国はすでに始まっています。

僕らが今日もイエス様に誠実でありますように。

御国が来ますように。

御心が天で行われるように地でも行われますように。

使徒16.6-10

 使徒16.6-10

2026年7月21日火曜日

使徒15.36-41

 使徒15.36-41


教会には変えてはいけない中心的なことと、幅のあることの2つがあります。

例えば、イエス様による福音の内容は絶対に変えられないし譲れない部分です。


一方で、礼拝のスタイル、服装、音楽、教会組織や運営、伝道方法、人事の考えなどにはだいぶ幅があります。ですが、幅のあることで僕らは揉めがちです。

教会の人事で

「一度辞めた人はもう一度スタッフに戻していいのか?」

「過去に問題起こした人を復帰させても大丈夫か?」

「次の牧師候補を誰にするか」

「重要な奉仕をこの人に任せて大丈夫か?」

などなど、意見が分かれるところです。

パウロとバルナバは、まさに次の宣教旅行チームメンバーを誰にするかで意見が対立しました。



"それから数日後、パウロはバルナバに言った。「さあ、先に主のことばを宣べ伝えたすべての町で、兄弟たちがどうしているか、また行って見て来ようではありませんか。」

バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネを一緒に連れて行くつもりであった。

しかしパウロは、パンフィリアで一行から離れて働きに同行しなかった者は、連れて行かないほうがよいと考えた。"

使徒の働き 15章36~38節



意見が分かれたのは、前回の宣教旅行で途中離脱してしまったマルコと呼ばれるヨハネをメンバーに入れるかどうか、です。バルナバは「連れて行く」と考え、パウロは「メンバーから外す」と考えました。

どちらが正しいとは聖書は言ってません。


バルナバとパウロは与えられている賜物が違うようです。

バルナバは特に弱い人への励ましの賜物が与えられていて、そしてパウロには迫害への覚悟、キリストのための苦しみと死への覚悟が与えられていて、その強調点の違いが対立を生んだようです。


バルナバは弱い人を大切にする賜物が与えられています。前回、マルコは何かの理由で途中で帰ってしまいました。それでもバルナバは「前回は大変だったけど、今回もう一回やってみよう。私も一緒に行くから大丈夫。」という感じで励ましそうな人です。

パウロもこのバルナバの優しさに励まされた一人です。元々迫害者だったパウロが救われたばかりの頃、みんなはパウロを恐れて距離を置いていました。そんな時にパウロを理解し、引き受け、兄弟姉妹が受け入れてくれるようにとりなし、説明してくれたのもバルナバでした。

このようにバルナバは欠点のある人を励まし育てようとする賜物があります。今はダメでも可能性があると信じて一緒に歩んでくれそうな人です。


一方、パウロは投獄されたり殺されたりする覚悟がありました。

マルコのような人はまだ今の段階では十分に成熟しておらず、連れて行けないと考えました。

バルナバは人を育て励ますことを中心に考え、パウロは現段階での試練に耐えられる人物として適切かを考えました。2人に与えられている神様からの賜物も視点も違います。それで彼らは激しく対立することになります。



"こうして激しい議論になり、その結果、互いに別行動をとることになった。バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行き、

パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。"

使徒の働き 15章39~40節



彼らは激しく衝突しました。他の翻訳も「激しい反目」とか「対立」と訳しています。

結果的にチームは2つに分かれて出発し、それぞれの宣教旅行が神様に用いられます。結果はよかったようです。


パウロはマルコを連れて行かなかったけども、彼を切り捨てたわけではありません。

今回は連れて行かない=この人はもうダメ、ではありません。

マルコはバルナバとともに行動し、成長しました。そしてパウロは後に彼のこと評価し、再び宣教チームに招いて「マルコを伴って、一緒に来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。」と言っています。(2テモテ4.11)


僕らも、教会の人事的なことで悩みます。

まだ未熟な人であっても受け入れ、励まし、忍耐して時間をかけて一緒に働くのか、それとも、まだ未熟な人に重要なことを任せるには早すぎるのか、と。

どちらが正解かわかりません。


むしろ僕らが注目すべきは、意見が対立したときに自分の心の内側が正しいかどうかです。


自分の正当性を支持してくれるイエスマンを求め、自分の側に立ってくれる人を集めて相手をさばこうとしているのか、それとも意見の違う相手を尊敬し、愛し、裁かず大切にしようと思っているのか、です。


激しい議論の中には、頑固さや高ぶりが、怒りや憎しみが混じりがちです。もしそれが放置されるなら勝手に大きくなり暴走してしまいます。

意見が分かれる時、まず神様に調べてもらうべきは、自分の心に神様が嫌う罪が芽生えていないかです。人事の結論よりも自分の心はどうなのか、です。



"神よ私を探り私の心を知ってください。私を調べ私の思い煩いを知ってください。

私のうちに傷のついた道があるかないかを見て私をとこしえの道に導いてください。"

詩篇 139篇23~24節



"何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。

曲がったことを言う口をあなたから取り除き、ゆがんだことを言う唇をあなたから遠ざけよ。"

箴言 4章23~24節



教会には幅のあることがたくさんあります。意見の違いがたくさんあります。問題はそこに混じった罪を放置するのか、それとも自分の罪を認め、悔い改めて高ぶりをやめ、相手を尊敬し、愛する選択をするかどうかです。大事なのは結論より心です。福音は一つ、真理は一つです。でも、賜物もやり方も多様です。違う意見の仲間を愛することができますように。今日も主のきよい心が与えられますように。

2026年7月20日月曜日

使徒15.1-29

 使徒15.1-29 ●地味な会議や祈りやプロセスを通る聖霊の導き


聖霊の働きって、「悪霊が出て行った!」とか「癒しが起こった!」とか、そのようなドラマチックなことを思い浮かべるかもしれません。でも聖霊は教会が時間をかけて祈り合い、話し合い、聖書を調べて意見交換をする、という時間がかかって、一見めんどくさいプロセスの中でも働かれます。


アンティオキア教会の中に「割礼を受けなければ救われない」という人たちが来て混乱し、対立が起きました。でも聖霊はそのような問題に対して教会が誠実に向き合い、祈り合い、聖書を調べ、意見交換をしました。そういう面倒で時間のかかる導きのことを聖書は聖霊の導きだといいます。



"さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに「モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。

それで、パウロやバルナバと彼らの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバ、そのほかの何人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。"

使徒の働き 15章1~2節



アンティオキア教会はこの問題をエルサレムにいる使徒たちや長老たちと話し合うことにしました。500キロくらいの距離を一か月くらいかけて移動します。一瞬で起こる奇跡とは違って大変な時間と労力をかけて神様の答えを求めます。


エルサレムの教会での話し合いでは、今まで神様がしてくださったことを確認し、さらに旧約聖書の御言葉を確認して、そして全会一致で「割礼は必要なし」と言う結論に至りました。

この結論を手紙と一緒に口頭でも伝えるのですが、面白いのはこの結論を「私たち教会が決めたことです」とも「聖霊の導きです」とも言わないことです。「聖霊と私たちは…決めました」と伝えます。

聖霊は人間を飛び越えて導かれるのではなく、教会が話し合い、聖書を調べ、祈り合う中で働かれます。



"聖霊と私たちは、次の必要なことのほかには、あなたがたに、それ以上のどんな重荷も負わせないことを決めました。"

使徒の働き 15章28節



お互いの意見を聞き合い、話し合い、時間をかけて一緒に祈り、聖書の御言葉を調べながら、神様の導きを求めた結果が「聖霊と私たち」の結論です。

聖霊の導きは教会の兄弟姉妹との話し合いや協力や祈りや交わりをスキップしません。誰か一人だけに全部を任せず、教会全体を通して導かれることが多いようです。なぜなら教会はキリストのからだ、一人一人は各器官だからです。(1コリント12.27)



●相手をつまづかせないための配慮


最初この問題は「割礼を受けなければ救われないのか?」というものでした。答えは「割礼は必要なし」です。ただ、イエス様への信仰によって救われれます。それ以外に救いの条件はありません。

ただ、信じるだけで救われるんだから「何やってもオッケー」という意味ではありません。

救いは恵みだけ、ですが、恵みを受けた人は愛の中を歩むようになります。教会は愛するゆえに、ユダヤ人たちをがっかりさせないために、以下のことを決めました。



"聖霊と私たちは、次の必要なことのほかには、あなたがたに、それ以上のどんな重荷も負わせないことを決めました。

すなわち、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、淫らな行いを避けることです。これらを避けていれば、それで結構です。祝福を祈ります。」"

使徒の働き 15章28~29節



ここを読むと「ん?イエス様を信じるだけで救われるんじゃなかったの?」と思います。

…が、これらは救いの条件ではありません。兄弟を愛するためののもの、ユダヤ人たちへの配慮です。これらの配慮が必要な理由は「モーセの律法は、昔から町ごとに宣べ伝える者たちがいて、安息日ごとに諸会堂で読まれているからです。」(21節)


ユダヤ人たちにとっては、異教の神にささげられた肉を食べるとか、ちゃんと血抜きしないで肉を食べるとか、それらは受け入れられない行為です。もちろん、イエス様は「すべての食べ物をきよい」とされているし(マルコ7.18-19)パウロも実は偶像にささげられた肉が心を汚すとは思っていません。(1コリント8章、ローマ14章など)

それでも、相手をつまずかせないために、ユダヤ人クリスチャンへの配慮として偶像にささげられた肉や血を食べるのはやめよう、もちろん性的な不品行は避けよう、と聖霊と教会が決断しました。

このことはコリント人への手紙とローマ人の手紙でパウロはもうちょっと詳しく教えてくれています。



しかし、すべての人にこの知識があるわけではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんできたため、偶像に献げられた肉として食べて、その弱い良心が汚されてしまいます。

しかし、私たちを神の御前に立たせるのは食物ではありません。食べなくても損にならないし、食べても得になりません。

ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなさい。"

コリント人への手紙 第一 8章7~9節



"ですから、食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。"

コリント人への手紙 第一 8章13節



"なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。

このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々にも認められるのです。

ですから、私たちは、平和に役立つことと、互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。

食べ物のために神のみわざを台無しにしてはいけません。すべての食べ物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような者にとっては、悪いものなのです。

肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、あなたの兄弟がつまずくようなことをしないのは良いことです。"

ローマ人への手紙 14章17~21節



パウロはここで、食べ物が問題なのではない、と言っています。大事なのは自由を振りかざすよりも、兄弟姉妹を愛し建て上げることです。そのために僕らは自分の考えを手放すことができます。


聖霊の導きとは奇跡だけではありません。

時間をかけて話し合い、祈り合い、謙遜に御言葉に聞いていく、そのような愛の歩みの中に聖霊は働かれます。ハレルヤ!

2026年7月19日日曜日

使徒15.6-19

使徒15.6-19


予想外の状況とか、霊的な奇跡とか、そういう未体験のことに出会うと、戸惑ったり、反対に感動したりして、感情が高ぶります。個人的にも教会としても、そのようなことが起こります。その時に大事なのは「体験」だけではなく「聖書と一致しているか」です。 


初代教会の皆さんにとっては、異邦人がイエス様を信じて救われ、賛美している状況はかなり戸惑うものでした。また、異邦人とは交わってはならない、と考えて今まで過ごしてきました。ところがペテロ、バルナバ、パウロは彼らと交わり、神様が異邦人に聖霊を与えられた体験をし、それを語ります。



"すると、全会衆は静かになった。そして、バルナバとパウロが、神が彼らを通して異邦人の間で行われたしるしと不思議について話すのに、耳を傾けた。"

使徒の働き 15章12節



彼らの体験は素晴らしいものでした。

でも使徒ヤコブはこれらの出来事が神様からのものかどうか、聖書によって判断しようとします。

つまり、「こんなにすごい体験があったから正しい」とか「神様が働いてるようだ。間違いない。」とは言わず、この件について旧約聖書がなんて言ってるかを確認します。



"二人が話し終えると、ヤコブが応じて言った。「兄弟たち、私の言うことを聞いてください。

神が初めに、どのように異邦人を顧みて、彼らの中から御名のために民をお召しになったかについては、シメオンが説明しました。

預言者たちのことばもこれと一致していて、次のように書かれています。

『その後、わたしは倒れているダビデの仮庵を再び建て直す。その廃墟を建て直し、それを堅く立てる。

それは、人々のうちの残りの者とわたしの名で呼ばれるすべての異邦人が、主を求めるようになるためだ。

──昔から知らされていたこと、それを行う主のことば。』"

使徒の働き 15章13~18節


異邦人が救われることは、当時の彼らにとっては新しく見えるけど、実は最初から神様がご計画していることでした。

ヤコブは異邦人が救われることは、神様が預言者を通して約束しておらたことだ、と確認しました。


僕らも予想を超えた奇跡や神様の御業を見ることもあります。神様のなさることは素晴らしいです。でも、最終的な基準は「聖書がなんと言ってるか」で確認する必要があります。

もちろんヤコブは素晴らしい体験を否定したのではありません。体験を与えてくださる神様の御言葉によって「預言者たちのことばもこれと一致していて、次のように書かれています。」と確認しました。


僕らにも予想外の素晴らしい出来事が与えられます。苦しみの中で支えられることもあれば、癒されたり解放されることもあります。「これはすごい体験だ。神様からのものだ。」と思います。

でも、それでも「これはみことばと一致してるだろうか」と確認することはすごく大事です。