2026年7月21日火曜日

使徒15.36-41

 使徒15.36-41


教会には変えてはいけない中心的なことと、幅のあることの2つがあります。

例えば、イエス様による福音の内容は絶対に変えられないし譲れない部分です。


一方で、礼拝のスタイル、服装、音楽、教会組織や運営、伝道方法、人事の考えなどにはだいぶ幅があります。ですが、幅のあることで僕らは揉めがちです。

教会の人事で

「一度辞めた人はもう一度スタッフに戻していいのか?」

「過去に問題起こした人を復帰させても大丈夫か?」

「次の牧師候補を誰にするか」

「重要な奉仕をこの人に任せて大丈夫か?」

などなど、意見が分かれるところです。

パウロとバルナバは、まさに次の宣教旅行チームメンバーを誰にするかで意見が対立しました。



"それから数日後、パウロはバルナバに言った。「さあ、先に主のことばを宣べ伝えたすべての町で、兄弟たちがどうしているか、また行って見て来ようではありませんか。」

バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネを一緒に連れて行くつもりであった。

しかしパウロは、パンフィリアで一行から離れて働きに同行しなかった者は、連れて行かないほうがよいと考えた。"

使徒の働き 15章36~38節



意見が分かれたのは、前回の宣教旅行で途中離脱してしまったマルコと呼ばれるヨハネをメンバーに入れるかどうか、です。バルナバは「連れて行く」と考え、パウロは「メンバーから外す」と考えました。

どちらが正しいとは聖書は言ってません。


バルナバとパウロは与えられている賜物が違うようです。

バルナバは特に弱い人への励ましの賜物が与えられていて、そしてパウロには迫害への覚悟、キリストのための苦しみと死への覚悟が与えられていて、その強調点の違いが対立を生んだようです。


バルナバは弱い人を大切にする賜物が与えられています。前回、マルコは何かの理由で途中で帰ってしまいました。それでもバルナバは「前回は大変だったけど、今回もう一回やってみよう。私も一緒に行くから大丈夫。」という感じで励ましそうな人です。

パウロもこのバルナバの優しさに励まされた一人です。元々迫害者だったパウロが救われたばかりの頃、みんなはパウロを恐れて距離を置いていました。そんな時にパウロを理解し、引き受け、兄弟姉妹が受け入れてくれるようにとりなし、説明してくれたのもバルナバでした。

このようにバルナバは欠点のある人を励まし育てようとする賜物があります。今はダメでも可能性があると信じて一緒に歩んでくれそうな人です。


一方、パウロは投獄されたり殺されたりする覚悟がありました。

マルコのような人はまだ今の段階では十分に成熟しておらず、連れて行けないと考えました。

バルナバは人を育て励ますことを中心に考え、パウロは現段階での試練に耐えられる人物として適切かを考えました。2人に与えられている神様からの賜物も視点も違います。それで彼らは激しく対立することになります。



"こうして激しい議論になり、その結果、互いに別行動をとることになった。バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行き、

パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。"

使徒の働き 15章39~40節



彼らは激しく衝突しました。他の翻訳も「激しい半目」とか「対立」と訳しています。

結果的にチームは2つに分かれて出発し、それぞれの宣教旅行が神様に用いられます。結果はよかったようです。


パウロはマルコを連れて行かなかったけども、彼を切り捨てたわけではありません。

今回は連れて行かない=この人はもうダメ、ではありません。

マルコはバルナバとともに行動し、成長しました。そしてパウロは後に彼のこと評価し、再び宣教チームに招いて「マルコを伴って、一緒に来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。」と言っています。(2テモテ4.11)


僕らも、教会の人事的なことで悩みます。

まだ未熟な人であっても受け入れ、励まし、忍耐して時間をかけて一緒に働くのか、それとも、まだ未熟な人に重要なことを任せるには早すぎるのか、と。

どちらが正解かわかりません。


むしろ僕らが注目すべきは、意見が対立したときに自分の心の内側が正しいかどうかです。


自分の正当性を支持してくれるイエスマンを求め、自分の側に立ってくれる人を集めて相手をさばこうとしているのか、それとも意見の違う相手を尊敬し、愛し、裁かず大切にしようと思っているのか、です。


激しい議論の中には、頑固さや高ぶりが、怒りや憎しみが混じりがちです。もしそれが放置されるなら勝手に大きくなり暴走してしまいます。

意見が分かれる時、まず神様に調べてもらうべきは、自分の心に神様が嫌う罪が芽生えていないかです。人事の結論よりも自分の心はどうなのか、です。



"神よ私を探り私の心を知ってください。私を調べ私の思い煩いを知ってください。

私のうちに傷のついた道があるかないかを見て私をとこしえの道に導いてください。"

詩篇 139篇23~24節



"何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。

曲がったことを言う口をあなたから取り除き、ゆがんだことを言う唇をあなたから遠ざけよ。"

箴言 4章23~24節



教会には幅のあることがたくさんあります。意見の違いがたくさんあります。問題はそこに混じった罪を放置するのか、それとも自分の罪を認め、悔い改めて高ぶりをやめ、相手を尊敬し、愛する選択をするかどうかです。大事なのは結論より心です。福音は一つ、真理は一つです。でも、賜物もやり方も多様です。違う意見の仲間を愛することができますように。今日も主のきよい心が与えられますように。

2026年7月20日月曜日

使徒15.1-29

 使徒15.1-29 ●地味な会議や祈りやプロセスを通る聖霊の導き


聖霊の働きって、「悪霊が出て行った!」とか「癒しが起こった!」とか、そのようなドラマチックなことを思い浮かべるかもしれません。でも聖霊は教会が時間をかけて祈り合い、話し合い、聖書を調べて意見交換をする、という時間がかかって、一見めんどくさいプロセスの中でも働かれます。


アンティオキア教会の中に「割礼を受けなければ救われない」という人たちが来て混乱し、対立が起きました。でも聖霊はそのような問題に対して教会が誠実に向き合い、祈り合い、聖書を調べ、意見交換をしました。そういう面倒で時間のかかる導きのことを聖書は聖霊の導きだといいます。



"さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに「モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。

それで、パウロやバルナバと彼らの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバ、そのほかの何人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。"

使徒の働き 15章1~2節



アンティオキア教会はこの問題をエルサレムにいる使徒たちや長老たちと話し合うことにしました。500キロくらいの距離を一か月くらいかけて移動します。一瞬で起こる奇跡とは違って大変な時間と労力をかけて神様の答えを求めます。


エルサレムの教会での話し合いでは、今まで神様がしてくださったことを確認し、さらに旧約聖書の御言葉を確認して、そして全会一致で「割礼は必要なし」と言う結論に至りました。

この結論を手紙と一緒に口頭でも伝えるのですが、面白いのはこの結論を「私たち教会が決めたことです」とも「聖霊の導きです」とも言わないことです。「聖霊と私たちは…決めました」と伝えます。

聖霊は人間を飛び越えて導かれるのではなく、教会が話し合い、聖書を調べ、祈り合う中で働かれます。



"聖霊と私たちは、次の必要なことのほかには、あなたがたに、それ以上のどんな重荷も負わせないことを決めました。"

使徒の働き 15章28節



お互いの意見を聞き合い、話し合い、時間をかけて一緒に祈り、聖書の御言葉を調べながら、神様の導きを求めた結果が「聖霊と私たち」の結論です。

聖霊の導きは教会の兄弟姉妹との話し合いや協力や祈りや交わりをスキップしません。誰か一人だけに全部を任せず、教会全体を通して導かれることが多いようです。なぜなら教会はキリストのからだ、一人一人は各器官だからです。(1コリント12.27)



●相手をつまづかせないための配慮


最初この問題は「割礼を受けなければ救われないのか?」というものでした。答えは「割礼は必要なし」です。ただ、イエス様への信仰によって救われれます。それ以外に救いの条件はありません。

ただ、信じるだけで救われるんだから「何やってもオッケー」という意味ではありません。

救いは恵みだけ、ですが、恵みを受けた人は愛の中を歩むようになります。教会は愛するゆえに、ユダヤ人たちをがっかりさせないために、以下のことを決めました。



"聖霊と私たちは、次の必要なことのほかには、あなたがたに、それ以上のどんな重荷も負わせないことを決めました。

すなわち、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、淫らな行いを避けることです。これらを避けていれば、それで結構です。祝福を祈ります。」"

使徒の働き 15章28~29節



ここを読むと「ん?イエス様を信じるだけで救われるんじゃなかったの?」と思います。

…が、これらは救いの条件ではありません。兄弟を愛するためののもの、ユダヤ人たちへの配慮です。これらの配慮が必要な理由は「モーセの律法は、昔から町ごとに宣べ伝える者たちがいて、安息日ごとに諸会堂で読まれているからです。」(21節)


ユダヤ人たちにとっては、異教の神にささげられた肉を食べるとか、ちゃんと血抜きしないで肉を食べるとか、それらは受け入れられない行為です。もちろん、イエス様は「すべての食べ物をきよい」とされているし(マルコ7.18-19)パウロも実は偶像にささげられた肉が心を汚すとは思っていません。(1コリント8章、ローマ14章など)

それでも、相手をつまずかせないために、ユダヤ人クリスチャンへの配慮として偶像にささげられた肉や血を食べるのはやめよう、もちろん性的な不品行は避けよう、と聖霊と教会が決断しました。

このことはコリント人への手紙とローマ人の手紙でパウロはもうちょっと詳しく教えてくれています。



しかし、すべての人にこの知識があるわけではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんできたため、偶像に献げられた肉として食べて、その弱い良心が汚されてしまいます。

しかし、私たちを神の御前に立たせるのは食物ではありません。食べなくても損にならないし、食べても得になりません。

ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなさい。"

コリント人への手紙 第一 8章7~9節



"ですから、食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。"

コリント人への手紙 第一 8章13節



"なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。

このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々にも認められるのです。

ですから、私たちは、平和に役立つことと、互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。

食べ物のために神のみわざを台無しにしてはいけません。すべての食べ物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような者にとっては、悪いものなのです。

肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、あなたの兄弟がつまずくようなことをしないのは良いことです。"

ローマ人への手紙 14章17~21節



パウロはここで、食べ物が問題なのではない、と言っています。大事なのは自由を振りかざすよりも、兄弟姉妹を愛し建て上げることです。そのために僕らは自分の考えを手放すことができます。


聖霊の導きとは奇跡だけではありません。

時間をかけて話し合い、祈り合い、謙遜に御言葉に聞いていく、そのような愛の歩みの中に聖霊は働かれます。ハレルヤ!

2026年7月19日日曜日

使徒15.6-19

使徒15.6-19


予想外の状況とか、霊的な奇跡とか、そういう未体験のことに出会うと、戸惑ったり、反対に感動したりして、感情が高ぶります。個人的にも教会としても、そのようなことが起こります。その時に大事なのは「体験」だけではなく「聖書と一致しているか」です。 


初代教会の皆さんにとっては、異邦人がイエス様を信じて救われ、賛美している状況はかなり戸惑うものでした。また、異邦人とは交わってはならない、と考えて今まで過ごしてきました。ところがペテロ、バルナバ、パウロは彼らと交わり、神様が異邦人に聖霊を与えられた体験をし、それを語ります。



"すると、全会衆は静かになった。そして、バルナバとパウロが、神が彼らを通して異邦人の間で行われたしるしと不思議について話すのに、耳を傾けた。"

使徒の働き 15章12節



彼らの体験は素晴らしいものでした。

でも使徒ヤコブはこれらの出来事が神様からのものかどうか、聖書によって判断しようとします。

つまり、「こんなにすごい体験があったから正しい」とか「神様が働いてるようだ。間違いない。」とは言わず、この件について旧約聖書がなんて言ってるかを確認します。



"二人が話し終えると、ヤコブが応じて言った。「兄弟たち、私の言うことを聞いてください。

神が初めに、どのように異邦人を顧みて、彼らの中から御名のために民をお召しになったかについては、シメオンが説明しました。

預言者たちのことばもこれと一致していて、次のように書かれています。

『その後、わたしは倒れているダビデの仮庵を再び建て直す。その廃墟を建て直し、それを堅く立てる。

それは、人々のうちの残りの者とわたしの名で呼ばれるすべての異邦人が、主を求めるようになるためだ。

──昔から知らされていたこと、それを行う主のことば。』"

使徒の働き 15章13~18節


異邦人が救われることは、当時の彼らにとっては新しく見えるけど、実は最初から神様がご計画していることでした。

ヤコブは異邦人が救われることは、神様が預言者を通して約束しておらたことだ、と確認しました。


僕らも予想を超えた奇跡や神様の御業を見ることもあります。神様のなさることは素晴らしいです。でも、最終的な基準は「聖書がなんと言ってるか」で確認する必要があります。

もちろんヤコブは素晴らしい体験を否定したのではありません。体験を与えてくださる神様の御言葉によって「預言者たちのことばもこれと一致していて、次のように書かれています。」と確認しました。


僕らにも予想外の素晴らしい出来事が与えられます。苦しみの中で支えられることもあれば、癒されたり解放されることもあります。「これはすごい体験だ。神様からのものだ。」と思います。

でも、それでも「これはみことばと一致してるだろうか」と確認することはすごく大事です。



2026年7月17日金曜日

使徒14.19-22

 使徒14.19-22


僕らは「どうやって快適にラクに過ごせるか」と考えます。…ですが、聖書の教えは「苦しみを避けること」が人生の目的だとは教えていません。キリストのために、キリストとともに苦しむことには価値があり霊的な喜びがあります。それは神の国では栄光と喜びに変えてくださる尊いものです。



"むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。

もしキリストの名のためにののしられるなら、あなたがたは幸いです。栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。"

ペテロの手紙 第一 4章13~14節



"わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。

喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。"

マタイの福音書 5章11~12節



キリストのための苦しみは、キリストと自分が1つであることのしるしです。クリスチャンたちを苦しめると、イエス様は、なぜ「わたし」を迫害するのか、とおっしゃいます。(使徒9.4)

クリスチャンへの迫害=イエス様への迫害です。

そのように、パウロはキリストと一緒に迫害を受け石打ちで殺されかけます。



"ところが、アンティオキアとイコニオンからユダヤ人たちがやって来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにした。彼らはパウロが死んだものと思って、町の外に引きずり出した。

しかし、弟子たちがパウロを囲んでいると、彼は立ち上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバとともにデルベに向かった。"

使徒の働き 14章19~20節



石打ちは死刑です。死ぬまで石を投げつける処刑方法です。

血だらけになって動かなくなったパウロを人々は「もう死んだ」と思って町の外に引きずり出して捨てました。

実際に死んだのか、気絶していただけなのかわかりません。

でも、仲間たちが悲しみながらパウロを取り囲んでいるとパウロは立ち上がりました。信じられない光景でした。

彼はすぐに歩き出して町に入り、翌日には次の町に移動して宣教を続けます。



"二人はこの町で福音を宣べ伝え、多くの人々を弟子としてから、リステラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返して、

弟子たちの心を強め、信仰にしっかりとどまるように勧めて、「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」と語った。"

使徒の働き 14章21~22節



さらに、彼らは迫害された町に戻ります。普通だったら「もう二度とあの町には近づきたくない。怖い」と思うはずです。

彼は致命傷を負っているはずなのに、そこに残っているクリスチャンたちを励まします。「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」(22)この出来事は、パウロが生きているのではなく、キリストがパウロの中に生き、力づけておられたことの証でした。

今も、キリストと一緒に苦しむ人は将来キリストとともに大きな栄光を受けます。



"私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。

今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。"

ローマ人への手紙 8章17~18節



僕らは快適に安全に過ごすことばかり考えがちです。ですが、この世と調子を合わせて生きるよりも、キリストと共に歩み、その結果として苦しみを受けるほうが、はるかに価値があります。しかも、そこにはこの世にはない栄光と喜びが約束されているからです。


今日の1日がキリストと一緒に生きる喜びに満たされますように。たとえ苦しみの日であっても神の国で喜ばれるものでありますように。


 

使徒14.1-7

 使徒14.1-7


迫害されてもイエス様の福音を伝え続けたパウロやバルナバの話を読むと、「さすがパウロ先生すごい!」とか思われがちです。でも実際は「パウロが頑張った」のではなくて「神様がパウロを用いて語らせてくださった」ということです。もちろんパウロ自身も忍耐しました。でも、それを支えてくださるのは神様のめぐみです。



"イコニオンでも、同じことが起こった。二人がユダヤ人の会堂に入って話をすると、ユダヤ人もギリシア人も大勢の人々が信じた。

ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人たちを扇動して、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。

それでも、二人は長く滞在し、主によって大胆に語った。主は彼らの手によってしるしと不思議を行わせ、その恵みのことばを証しされた。"

使徒の働き 14章1~3節



イエス様との霊的な生きた関係を失うと、僕らは人ばかりを見がちになります。彼らは神様の働きよりも自分たちの伝統とか考えにこだわり、パウロとバルナバに反対し、人々を扇動して彼らに悪意を抱かせ、反対させます。これは僕らにも起こり得ることです。


一方、パウロとバルナバは攻撃されてもそこに滞在し続け、大胆に語り続けます。それは「自分の力で戦っていない」からです。もちろん忍耐したし、努力もしました。でも神様の愛と忍耐です。3節には「主によって」大胆に語ったとあります。


パウロとバルナバが強かったのではなく、語らせてくださったのは彼らの中に住んでくださる聖霊の働きでした。

イエス様もおっしゃってました。



"人々があなたがたを捕らえて引き渡すとき、何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。"

マルコの福音書 13章11節



御霊の力を証明してくださるかのように、「主は彼らの手によってしるしと不思議を行わせ、その恵みのことばを証しされた。」(3)とあります。


イエス様との関係を見失って自分の考えに囚われてしまった人は目の前の人だけを見てしまいます。その結果、「あの人が気に入らない」「あの人が間違っている」と人間レベルの争いになってしまいます。



"すると、町の人々は二派に分かれ、一方はユダヤ人の側に、もう一方は使徒たちの側についた。"

使徒の働き 14章4節



僕らも問題や苦しみがあってもそこにとどまるように導かれる時があります。パウロたちは最初まさにそうでした。

でも、神様が別の場所に逃れるように導いてくださる時もあります。二人が捕まりそうになり、石で殺されそうになった時、彼らは次の町に逃れます。これは福音を次の場所に届けるためでもありました。



"異邦人とユダヤ人が彼らの指導者たちと一緒になり、二人を辱めて石打ちにしようと企てたとき、

二人はそれを知って、リカオニアの町であるリステラとデルベ、およびその付近の地方に難を避け、

そこで福音の宣教を続けた。"

使徒の働き 14章5~7節



パウロたちが勇敢だったのではありません。彼は後で言っています。

 


"私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。"

コリント人への手紙 第一 15章10節



語らせてくださるのはイエス様の御霊です。

苦しみにあっても、敵を赦し、忍耐し、迫害する人のために祈る力はイエス様から与ええられるものです。

僕らの頑張りではありません。今日も体と心をあけ渡しましょう。職場で、家庭で、学校で、あらゆる人間関係の中で、この体と心を神様に明け渡して用いていただきましょう。強い人が用いられるのではなく、弱い人の中に神様が働いてくださいます。



"私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。"

コリント人への手紙 第二 4章7節


2026年7月15日水曜日

使徒13.38-49

 使徒13.38-49