ヨハネ20.19-23 「復活の主と共に歩む喜び」イースターメッセージ
皆さんが信じているイエス様は今生きていますか?
クリスチャンはイエス様が生きて復活して、私と一緒にいます、って信じる人たちです。
「イエスは死んでる」とか、「昔の人だね」とは言いません。
でも実生活、普段の生活ではみなさんの意識はどうでしょう。
「イエス様が今、生きていて、僕と一緒にいてくれて助けてくれる」っていつも思えるか?それとも、「自分でやらなきゃ、頑張んなきゃ」ってあたふたするか。みなさんの傾向はどちら寄りですか?
「イエス様が祈りを聞いてくださる。みことばで答えてくださる。なんでも相談しよう」っていつも思えるでしょうか?それとも「きっとこうだ、きっとああだ」と自分の考え、経験、時には妄想で決めつけるでしょうか。最近の人は「まずはAIに相談してみよう」と思うようです。みなさんの傾向はどうでしょう。
最初、女性の弟子たちはお墓に行きました。「イエス様はもう死んだ」と思い、すでに埋葬された遺体に「油を塗りに行こう、香料を塗りに行こう」と思ってました。終わった人、遺体です。ところが、天からの使いが言います。
ルカ24.5
「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。」
僕らにも言われてます。
「イエス様は生きてるのに、どうして死んでる人かのように、ここにいない人のように扱うのですか。」「イエス様は生きてるのに、どうして、自分だけでなんとかしようとするのですか。」
今日のメッセージは「復活の主と共に歩む喜び」です。
生きているイエス様がいつもそばにいてくださる安心感と喜びはどのくらいでしょうか。
今日のメッセージが終わったとき、みなさんが喜んで、安心して、イエス様に赦されたことを伝えにいく人になります。苦手だった人を赦す人になります。それが今日のメッセージの目標であり、願いです。
1 平安があるように
2 聖霊を受けなさい
3 遣わします
4 赦されます
●平安があるように
今日の箇所で不安になり怯えているのは弟子たちです。イエス様が処刑されて埋葬されたあと、弟子たちはすごく怖かったみたいです。怖くて鍵を閉めて隠れていました。
(19節)
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。
他の翻訳では
「全ての戸が閉じられていた」(岩波訳)
「みな鍵がかけてあった」(塚本訳)
「ことごとく鍵をかけていた」(フランシスコ会訳)
とあります。複数形です。怖くて、全部の扉にも窓にも鍵をかけていたようです。ひっそりと身を寄せ合うようにして、ビクビクして怖がっていて、誰にも見つかりたくない、と思っていた弟子たちです。
「イエス様は捕まった。あんなにひどい拷問を受けて、みんなの前で殺された。」
怖かったと思います。しかも、ペテロは顔がバレていて、イエス様が逮捕された時「お前もあの人と一緒にいただろう、弟子だろう」と言われ「あんな男は知らない」と言って逃げてきました。次はここまで追いかけて来るかもしれません。
ドアがガタン、って言ったら、ビクっとするような感じです。
絶対に誰も入れないようにしている家の弟子たちの真ん中に、イエス様は現れてくださいました。
(19節)
すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
平和があるように。安心があるように、と同じ意味です。不安の中にいるあなたがたに安心があるように。イエス様がおっしゃった一番最初の言葉です。捕まるんじゃないか、殺されるんじゃないか、と思ってるあなたがたに平安があるように。イエス様はもう一度繰り返します。21節も同じです。
(21節)
イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。
これが復活されたイエス様の願いです。イエス様の願いは平安があることです。
イエス様がおっしゃるとそうなります。「光があるように」とおっしゃったら光ができます。同じように、「平安があなたがたにあるように」とおっしゃるとそうなります。
イエス様の願いは今日も同じです。「あなたがたに平安があるように」です。
みなさん不安なことはありますか?
鍵をかけている領域はありますか?傷つかないように、逃げてることはありますか?
不安のその真ん中にイエス様はきてくださいます。そして、平安があるように、って言ってくれます。平安と、平和、安心、同じ意味です。安心できる理由があります。
この後、イエス様は傷を見せてくれます。
(20節)
こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。
あなたの罪はこの傷によってすでに処理された、あなたは無罪とされた。この私の傷によって、この刺された体によって、すでに無罪とされた、そういう意味が傷にはあります。
今も同じです。あなたの罪は赦されたから、平安があるように。
あなたへの裁きは終わったから、無罪と言ってくれるから、平安があるように。
神様はあなたを受け入れてくださってるから、平安があるように。
(20節)
こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。
あんなに怖がっていた弟子たちが、喜びました。喜びと平安はセットです。
周りは、相変わらず責めてくるかもしれません。もしかしたらイエス様と同じように逮捕され、責められ、殺されるかもしれません。
でも、神様はあなたを受け入れ、赦し、きよめ、平安があるように、と言ってくださいます。どんなことがあっても、平安があなたがたにあるように、って願ってくれてます。
●聖霊を受けなさい
イエス様はその後すぐに息を吹きかけて、聖霊を与えました。
息をかけることが聖霊を与えることでした。
(22節)
こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
神様が息を吹きかけると人が生き返ることは、旧約聖書に何度か出てきます。神様の息はいのちです。
(エゼキエル 37:4-5 )
「干からびた骨よ。主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう仰せられる。
見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。」
人間が作られた時もそうでした。神様は土で作った体に、息を吹きかけると、人は生きるようになりました。(創世記2章)
神様の息が吹きかけられると人は生きます。干からびた骨であっても生き返ります。扉を閉めて、閉じこもって恐れている人も、生き返ります。神様の息が与えられたからです。
神様の息のことを聖霊とも言います。聖書では息と霊は同じ言葉です。最近人気の賛美グループの名前は「ルアワーシップ」ですこれは、ルアはヘブル語で聖霊です。「ルアッハ」聖霊+ワーシップ。で、聖霊の礼拝。聖霊と息は同じルアです。風もルアです。
(22)
こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
神様の息がかかると人は生き返ります。
神様の息は人を生かす息、平安を与える息です。喜びを与える息です。これが聖霊です。聖霊が与えられる人は変えられます。恐れは喜びに、不安は平安に変わります。
(詩篇 33:6 )
主のことばによって、天は造られた。
天の万象もすべて、御口のいぶきによって。
このいぶきもルアです。神様のいぶきによって全ては作られました。
そして今日も、神様のいぶき。聖霊によって僕らは新しく変えられます。
23年前、息子が産まれた時、感動して息子の名前をいぶきと付けました。
さっきまで怖がっていた弟子たちにイエス様はいぶきをかけられ、彼らに喜びも平安も与えられました。その同じ聖霊を僕らも受けています。
今、イエス様は生きてます。聖霊が与えられるのは、イエス様が復活された印です。
みなさん、聖霊が与えられています。
イエス様のいぶきは僕らにも吹きかけられています。
「聖霊を受けなさい」ってイエス様はおっしゃいます。が、実際のところ、どうでしょう?
イエス様を信じてはいる、でも聖霊がくださる平安とか喜びとかピンとこない、って人もいます。与えられてない、と感じる人もいます。今日も不安だし、心のドアを閉めて鍵をかけた方がいい、て感じる人もいるかもしれません。
でも、今日、イエス様は聖霊を「受けなさい」って言われます。
受けなさい、って言われて、イヤです要りません、拒否権もあるみたいです。入りません。こないでください、ってドアを閉めることもできます。
イエス様は求めなさいとも言われます。
求める人に必ず与えられます。
(ルカ11.13)
悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」
他の箇所では聖霊のことを内側から流れ出る溢れる水のよう、と言います。その時、イエス様は渇いている人は私に来て飲みなさい、っておっしゃいました。
(ヨハネ7章36-37節)
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
(…中略…)その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
渇いている、不安です、怖いです、と正直に言いましょう。
「渇いているなら」わたしにきなさい、です。求める人たちに聖霊を与えてくださいます。
聖霊を求めましょう。
求めかたはシンプルです。
(祈りの例)
神様、怖いです、孤独です、不安です。
(なるべく具体的に言う)
聖霊を与えてください。
平安を与えてください。
喜びを与えてください。
●遣わします。
復活のイエス様がいてくれて、聖霊が与えられたらよかった、安心した、で終わりません。イエス様はあなた方をつかわす、とおっしゃいました。
(ヨハネの福音書 20章21節)
"イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」"
神様がイエス様を地上に送ったと同じように、弟子たちを遣わされます。弟子たちは生きているイエス様と一緒に仕事をします。イエス様が人を赦し、無罪とします。それをイエス様と一緒にするようになります。
(ヨハネの福音書 20章23節)
"あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」"
イエス様だけが罪が赦すことができます。弟子たちが勝手に赦したり赦さなかったりする権力を持つのではなくて、「イエス様があなたの罪を赦してくれたよ」と伝えます。
義とされる=無罪とされる、まっさらにされる、って伝えます。これが、誰かの罪を赦すために遣わされることです。
教会の一人一人は、イエスの代わりに語る口であり、動く足であり、働く手です。
僕らもキリストの体、一人一人は器官です。その意味ではみんなイエス様と一体だし、イエス様の一部です。イエス様が赦しと喜びの福音を全世界に伝えてくださる、その仕事は教会の僕ら一人ひとりがやります。
イエス様が傷を示して赦してくださったので、僕らも赦します。赦しを宣言し、伝えます。
(ヨハネの福音書 20章23節)
"あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。
ドロドロしたこの世に遣わされています。あいつが悪い、こいつが悪い、と責め合っている世界に遣わされます。自分を責めて絶望している人もいます。
中高生の自殺率は世界トップです。
心のドアに鍵をかけて怖がってる人がいます。そこに遣わされます。
平安があるように、って伝えます。
あなたは赦された。と伝えます。
恐れから喜びへ、死から命へ変えてくださいます。
でも、イエス様を拒否する人には、その罪はそのまま残ります。
その人は生かされることはありません。聞かない人、従わない人には、神様のいのち、喜び、平安の御霊を受けることはありません。
(ヨハネの福音書 3章36節)
"御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。"
イエス様は「遣わします」とおっしゃいました。
他の箇所では「全世界に出ていって」福音を伝えなさいとおっしゃいました。
「教会に来させなさい。集めなさい」とは言ってないです。
教会に誘うのも悪くないし大事なことだけど、基本的にイエス様がおっしゃった基本は、あなたが出ていって、この赦しの福音を伝えに行きなさい、です。弟子たちは聖霊を受けましたが、さらにこの後、聖霊の力を与えられて、世界中までイエス様を伝える人になります。イエス様はおっしゃいました。
(使徒 1:8 )
聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
平安と喜びを、赦しのメッセージを世界に届けていくのがクリスチャンです。
僕らの足で、イエス様と一緒に闇の中に出ていき、光を伝えにいきます。あなたの罪が赦される、という喜びと平安を伝えるために出ていきます。聖霊を受けた人は、伝えたくなります。出ていって、この光を伝えたくなります。イエス様がそう願っているし、そう命令したからです。
※
KBIの卒業式の時、大田先生が言ってました。宣教師を送り出す、世界に使わす、ってメッセージが牧師たちに人気がない、と。
どうして教会であんまり、教えられないか。
大田先生によると、宣教師を送り出すと、お金がかかる。
教会の中心的な人材も出ていく、出ていくと困る
教会の働きをよくやってくれるなあ、と言う人に限って出て行く。
だからあんまり宣教についてのメッセージをしないんじゃないか、という大田先生の話でした。
それで逆に、友達連れておいで、おいで、と教える牧師が多いのではないか。
聖書はそう言ってません。あなたがたを遣わします。世界に出て行って福音を伝えなさいと言っている。逆になってる、と言っていました。
教会の中心的な人が出ていくと、教会の人材はへり、お金もかかり、教会が弱くなるかと思ったら、そんなことはありません。ささげた以上の祝福、送り出した以上の祝福があります。送り出す教会はもっと祝福されます。
もちろん教会のイベントも大事です。でも、イエス様がおっしゃってることは、全世界に出て行って、すべての作られたものを弟子としなさい。です。
※昨日HBIの入学式に行ったら、川崎のりさん、と工藤元貴さんがいました。二人とも牧師です。のりさんは僕らにとっは30年間東栄で一緒に過ごした友達です。
元貴さんは、小学校の時から東栄で育った家族です。
のりさんが言いました。「東栄はどんどん出ていくねえ、僕もいまだに東栄から遣わされている、って思ってるよ。」
それを聞いて、感謝だな、って思いました。時々こうやって東栄から出てそれぞれの場所で遣わされて用いられている人たちが集まるのは喜びです。
イエス様の願いは、遣わされて出ていくことです。
平安が与えられること。聖霊が与えられること、遣わされていくことです。これはセットです。
●赦されます。
(23節)
あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」
いつもメッセージしていますが、それはブーメランのように自分に帰ってきます。
神様から「お前はどうなんだ?」と言われます。
平安があるようにって伝えます。じゃ、お前は平安なのか?
赦すなら、赦されます、って伝えます。じゃ、君は赦してるのか?と問われます。
みなさん、赦したくない人、苦手な人、一人あげてみてください。
イエス様はその人のことなんておっしゃってるでしょうか。
(23節)
あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」
もちろんこれは、遣わされる、という文脈なんだけど、でも、僕らにブーメランのように帰って来ます。イエス様が僕を赦してくださいました。今度は、誰かの罪を赦す番です。
神様に近づくことは、自分の醜さが示されることです。
自分が本当は傷だらけだし、いまだに自分中心だし、他人のことをさばいて赦してない、そういうガッカリな自分が示されます。
それでも、イエス様は十字架で刺された傷を見せてくれて、平安があるように、って言ってくれます。
赦されたことがわかると、あの血だらけの十字架のイエス様を思うと、他の人を赦そうと思います。
イエス様があなたを赦してくれたから、あなたもそうしなさい、と聖書は言います。
(コロサイ人への手紙 3章13節)
"だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。"
血だらけになって傷つけられて、殺される、イエス様の姿です。
だから、あなたも赦しなさい、です。
僕らが互いに愛したり赦ししたりすることはイエス様が復活して、聖霊が僕らの中に住んでおられることの証拠です。兄弟姉妹を愛し赦すことは、復活のイエス様の愛が注がれていることの証拠です。
(ヨハネの手紙 第一 3章14節)
"私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。"
御霊を消してはなりません。って聖書にあります。聖霊を拒否し、復活のイエス様を拒否することもできます。他人を赦さないこともできます。恨みと裁きを持ち続け「あの人はどうしてこうなんだろう、あれがダメだ、あれは許せない」と罪を温めて育てることができます。まるで、小さなパン種が全体を膨らませるように、悪性腫瘍のようにそれは大きくなり、ついには手に負えなくなります。
(23節)
あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。
今日、もう一度イエス様と一緒に罪を手放しましょう。赦しましょう。
(祈りの例です。)
神様、( )のことを赦してません。
( )を赦さない罪をそのまま持っていました。
この罪を捨てます。( )さんを赦します。
( )を愛する聖霊を与えてください。
私の心を変えてください。
イエス様は復活されました。イエス様は生きています。聖霊が与えられています。それは互いに赦すことに現れます。
赦されます。解放されます。赦してない人を赦しましょう。
赦すことは、平安とセットです。赦すことは、聖霊を受けることとセット。赦すことは、遣わされて出ていくこととセットです。
1 平安があるように
2 聖霊を受けなさい
3 遣わします
4 赦されます
出ていって、あなたも、あなたもゆるされる、平安があるように、と伝えましょう。
あんなに怯えていた弟子たちは変えられました。僕らも変えられます。もっと変えられます。
主は生きておられます!