2026年2月17日火曜日

民数記22章

 民数記22章


聖書は「こうしてはいけません」「アレはダメです」などのルールブックではありません。神様が願っているのは行動ではなくて、「心から神様を愛する」ことです。口で「神様」と言っていても、ホンネではお金を愛し、快楽を愛し、自分の栄光や権力を愛していることがあります。神様にはバレています。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(1サムエル16.7)とあります。


神様を愛することは、神様の宝物を愛することです。神様にとってイスラエルはめちゃくちゃ大事な人たちです。「あなたがた(イスラエル)に触れる者は、わたしの瞳に触れる者。」というほどです。(ゼカリヤ2.8)イスラエルを傷つけたり呪ったりしようとするのは、神様を傷つけるのと同じです。また、教会も「キリストのからだ」です。教会を攻撃することは、キリストに対する攻撃です。


モアブの王バラクはイスラエルを呪って追い払おうとしました。そのために預言者バラムに大金を払って呪わせようとしました。神様はそれを禁止します。当たり前です。



(22.12)

神はバラムに言われた。「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。また、その民をのろってもいけない。その民は祝福されているのだから。」



神様にとってイスラエルは「ご自分のひとみのよう」な宝物です。

それでも、モアブの王の長老たちは「どんな報酬でも、どんな大金でも払うから呪ってください」と預言者バラムにお願いします。



(22.15-18)

15,バラクはもう一度、先の者たちよりも大勢の、しかも位の高い長たちを遣わした。

16,彼らはバラムのところに来て彼に言った。「ツィポルの子バラクはこう申しました。『どうか私のところに来るのを断らないでください。

17,私はあなたを手厚くもてなします。また、あなたが私に言いつけられることは何でもします。どうか来て、私のためにこの民に呪いをかけてください。』」

18,しかし、バラムはバラクの家臣たちに答えた。「たとえバラクが銀や金で満ちた彼の家をくれても、私は私の神、主の命を破ることは、事の大小にかかわらず、断じてできません。



バラムは口ではお断りします。「たとえバラクが銀や金で満ちた彼の家をくれても、私は私の神、主の命を破ることは、事の大小にかかわらず、断じてできません。」(19)…ですが、実はお金によってだいぶ心が動いたようです。それで、もう一度「主が私に何かほかのことをお告げくださるかどうか、確かめましょう。」と言います。(19)まるで「どこまでだったらギリギリOK?」と願ってるかのようです。神様に怒られず、かつお金をもらえる微妙なラインを求めます。それで、彼はイスラエルを嫌うモアブの王様のところにウキウキと出発したようです。心はすでに「お金❤️」です。「バラムは不義の報酬を愛しました」と聖書は説明しています。(2ペテロ2.15)

神様は怒ります。イスラエルを呪う人たちは神様にとっての怒りであり悲しみです。



(21-34節)

21,バラムは朝起きて、自分のろばに鞍をつけ、モアブの長たちと一緒に行った。

22,しかし、彼が行こうとすると、神の怒りが燃え上がり、主の使いが彼に敵対して道に立ちはだかった。バラムはろばに乗っていて、二人の若者がそばにいた。

23,ろばは、主の使いが抜き身の剣を手に持って、道に立ちはだかっているのを見た。ろばは道からそれて畑に入って行ったので、バラムはろばを打って道に戻そうとした。

24,すると主の使いは、両側に石垣のある、ぶどう畑の間の狭い道に立った。

25,ろばは主の使いを見て、石垣にからだを押しつけ、バラムの足を石垣に押しつけたので、バラムはさらにろばを打った。

26,主の使いはさらに進んで行って、狭くて、右にも左にもよける余地のない場所に立った。

27,ろばは主の使いを見て、バラムを乗せたまま、うずくまってしまった。バラムは怒りを燃やし、杖でろばを打った。

28,すると、主がろばの口を開かれたので、ろばはバラムに言った。「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは。」

29,バラムはろばに言った。「おまえが私をばかにしたからだ。もし私の手に剣があれば、今、おまえを殺してしまうところだ。」

30,ろばはバラムに言った。「私は、あなたが今日この日までずっと乗ってこられた、あなたのろばではありませんか。私がかつて、あなたにこのようなことをしたことがあったでしょうか。」バラムは答えた。「いや、なかった。」

31,そのとき、主はバラムの目の覆いを除かれた。すると彼は、主の使いが道に立ちはだかり、抜き身の剣を手に持っているのを見た。彼はひざまずき、伏し拝んだ。

32,主の使いは彼に言った。「何のために、あなたは自分のろばを三度も打ったのか。わたしが敵対者として出て来ていたのだ。あなたがわたしの道を踏み外していたからだ。

33,ろばはわたしを見て、三度もわたしから身を避けた。もし、ろばがわたしから身を避けていなかったなら、わたしは今すでに、あなたを殺して、ろばを生かしていたことだろう。」

34,バラムは主の使いに言った。「私は罪を犯していました。あなたが私をとどめようと道に立ちはだかっておられたのを、私は知りませんでした。今、もし、あなたのお気に召さなければ、私は引き返します。」



お金は人の目をくらまします。神様はお金でおかしくなったバラムをとがめます。「口のきけないろばが人間の声で話して、この預言者の正気を失ったふるまいをやめさせたのです。 」(2ペテロ2.16)


神様は本当は僕らが何を愛しているのか知っておられます。

神様を愛しましょう。そして、神様が愛する人たちを愛しましょう。僕らの心には御霊の心があります。「私たちはキリストの心を持っています。」(2コリント2.16)神様が愛するものを僕らも心から愛することができます。そして、神様が嫌うものを嫌うことができます。

それでもお金は僕らを誘惑し、神様から引き離そうとします。

自分に聞いてみましょう。「ホンネはお金?神様?」と。



(1テモテ 6:9-10)

金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。

金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。

2026年2月13日金曜日

民数記21.4-9

 民数記21.4-9

2026年2月12日木曜日

民数記20.1-13

 民数記20.1-13


「御名が聖なるものとされますように。」と祈るように言われてます。(マタイ6章9節)「聖なるもの」とするのは、「神様の主権」とか「神様の素晴らしさ」とか「神様の力」とか、とにかく神様のものに「他のものをくっつけない」ことです。他の人とかモノとかお金とか技術に頼らなくても、神様だけで十分です。「あの人のおかげ」でもないし「俺のおかげ」でもありません。

これは聖書全体が繰り返し教えていることです。



"私たちにではなく 主よ 私たちにではなく

ただあなたの御名に栄光を帰してください。あなたの恵みとまことのゆえに。"

詩篇 115篇1節



"どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしの栄光を、ほかの者に与えはしない。"

イザヤ書 48章11節



僕らに求められているのはいつも「主が共にいてくださり、主がしてくださる」と信頼することです。終わった後は「主がなさった」と感謝して賛美することです。神様100%、僕らは0%です。


イスラエルの人々に水がなかった時、人々はモーセに文句を言います。モーセは祈るのですが、だんだん腹が立ってきたようです。



"なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上り、このひどい場所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような場所ではない。そのうえ、飲み水さえない。」

モーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入り口にやって来て、ひれ伏した。すると主の栄光が彼らに現れた。"

民数記 20章4~6節



モーセとアロンはひれ伏して祈り、神様は祈りに答えてくださり、水を与えてくださいます。…ここまではいいのですが、モーセはイライラして「われわれが水を出さなければならないのか!」と言ってしました。



"「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませよ。」

そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、主の前から杖を取った。

モーセとアロンは岩の前に集会を召集し、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から、われわれがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」

モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、豊かな水が湧き出たので、会衆もその家畜も飲んだ。"

民数記 20章8~11節



まるで自分が水を出すかのように言ってしまいました。しかも、「岩に命じれば水を出す。」と言われたのに、怒りのあまり杖で岩を二度打ちました。岩を杖で叩きながら「お前らのために俺らが水を出しててやらねばならないのか!いい加減にしろ!」という感じです。


神様はすぐにおっしゃいます。



"しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」

これがメリバの水である。イスラエルの子らが主と争った場所であり、主はご自分が聖であることを彼らのうちに示されたのである。"

民数記 20章12~13節



この失敗ゆえにモーセは本当に約束の土地に入れませんでした。(民数記27章、申命記32章)


神様だけを「聖なる方」とするように聖書は繰り返します。

与えられているもの全てが神様からのものです。僕らがすることも全部そうです。「食べるにも飲むにも、何をするにも」神様の栄光と力の現れです。(1コリント10.31)良い行いも、神様の栄光の現れです。「人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」(マタイ5.16)話す時も、それは神様の力と知恵の表れです。(コロサイ3.17)


怒ってる時は神様の素晴らしさを表しずらいようです。「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」(ヤコブ1.20)また、得意なことほど自分の栄光と力を誇示したくなってしまいます。

だから今日も祈りましょう。「御名が聖なるものとされますように。」「私たちにではなく 主よ私たちにではなく ただあなたの御名に栄光を帰してください。」ハレルヤ!


2026年2月11日水曜日

民数記19章

 民数記19章


神様にとって「死ぬこと」は汚れたものであり、忌み嫌うべきものです。「死ぬ」とは本来、人が神様から離れた結果です。「神様に近づく」=「命」です。「神様から離れる」=「死」です。

神様は「死」を嫌い、死人に触れた人さえ「汚れたもの」とみなされます。



クリスチャンも神様が嫌う罪を持っています。罪の結果は「死」=「神様から離れること」です。


旧約の時代、汚れた人は聖なる人々からも切り離されました。礼拝もできず、人々の中で生活することもできなくなりました。「汚れ」「罪」は僕らを神様から引き離します。クリスチャンでもそうでなくても同じです。僕らもしょっちゅう罪によって、神様から離れそうになることがあります。

罪があるとどこか気まずいし、距離を感じるし、神様も教会の仲間も「怖い」と思います。良心がきよめられて平安が戻るまで、前みたいに喜んで神様の前に行けなくなります。


旧約聖書の儀式はイエス様による罪のきよめと回復をあらかじめ予告するために与えられました。神様は「死」を「汚れ」として嫌われます。きよめられるまでは神様とは交われません。それでも神様はきよめられる儀式を制定されました。この儀式は新約聖書「ヘブル人への手紙」によって解説されています。



"死人に触れる者は、それがどの人のものであれ、七日間汚れる。

その者は三日目と七日目に、先の水で身の汚れを除いて、きよくなる。三日目と七日目に身の汚れを除かなければ、きよくならない。

死人、すなわち死んだ人間のたましいに触れ、身の汚れを除かない者はみな、主の幕屋を汚す。その者はイスラエルから断ち切られる。その者は汚れを除く水を振りかけられていないので汚れていて、その者の中になお汚れがあるからである。"

民数記 19章11~13節



神様は「汚れを除く水」を作り、それをふりかけるようにいます。



"人が天幕の中で死んだ場合のおしえは次のとおりである。その天幕に入る者と、天幕の中にいる者はみな、七日間汚れる。

ふたをしていない口の開いた器もみな、汚れる。

また、野外で、剣で刺し殺された者、死人、人の骨、墓に触れる者はみな、七日間汚れる。

この汚れた者のためには、罪のきよめのために焼いて作った灰を取り、器に入れ、それに新鮮な水を加える。

きよい人がヒソプを取ってこの水に浸し、それを天幕に、すべての器の上に、そこにいた者の上に、また骨、刺し殺された者、死人、墓に触れた者の上にかける。

そのきよい人が、それを汚れた者に三日目と七日目に振りかけ、七日目にその人の汚れを除くことになる。その人は衣服を洗い、水を浴びる。その人は夕方にはきよくなる。

汚れた者が身の汚れを除かなければ、その人は集会の中から断ち切られる。主の聖所を汚したからである。汚れを除く水がその人に振りかけられなかったので、その人は汚れている。"

民数記 19章14~20節



この「汚れを取り除く水」は「罪をきよめるために、身代わりに殺された動物が完全に焼かれた灰」を使います。その「きよめるための灰」を作るために、まずは傷のない赤い牛が宿営の外で殺されます。これはイエス様が「民を聖なるものとするために、宿営の外で殺された」(ヘブル13.12)ことを表しています。身代わりに動物が殺され焼かれて「灰」が作られ、それを使って「汚れを取り除く水」が作られます。その水を振りかけられることできよめられます。



"主はモーセとアロンに告げられた。

「主が命じるおしえの定めは、こうである。イスラエルの子らに告げよ。まだくびきを負わせたことがなく、傷のない完全な、赤い雌牛をあなたのところに引いて来るようにと。

あなたがたはそれを祭司エルアザルに渡す。そして宿営の外に引き出し、彼の前で屠る。"

民数記 19章1~3節



"その雌牛は彼の目の前で焼き、皮と肉と血を汚物とともに焼く。"

民数記 19章5節



"それから、きよい人がその雌牛の灰を集め、宿営の外のきよい所に置く。そして、イスラエルの会衆のために、汚れを除く水を作るために保存しておく。これは罪のきよめのささげ物である。"

民数記 19章9節



神様は今日も汚れを嫌われます。そして、罪と汚れは僕らを神様から遠ざけます。それでも神様の側から手を差し伸べてくれています。僕らがもう一度神様に近づくことができるため、イエス様が身代わりに神様から引き離され「わが神、どうしてわたしを捨てられたのですか」(マタイ27.45)と苦しみ、血を流し、捨てられ、呪われたものとなってくださいました。



"雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら、

まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。"

ヘブル人への手紙 9章13~14節



雄牛の血でさえ人々をきよめたなら、キリストの血は完璧です。僕らを内側から作り替えてくださいます。良心をきよめ、大胆に、自由に、喜んで神様に近づく人にしくれます。

罪を放置すると苦しみます。それは体を緊張させ、神様との関係も隣人との関係も不自由にします。僕らに必要なのはイエス様の血によるきよめです。自由です。僕らはまた戻れます。何度失敗しても、赦されます。今日もイエス様の十字架の前に行って罪を告白しましょう。イエス様の十字架の血は僕らをきよめます。しかも、内側からきよくしてくださいます。今日も罪を神様に認めて、告白して、赦してもらい、神様のところに戻りましょう。大丈夫です!


"わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよくなる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、

あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。"

エゼキエル書 36章25~26節



"心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。"

ヘブル人への手紙 10章22節