民数記20.1-13
「御名が聖なるものとされますように。」と祈るように言われてます。(マタイ6章9節)「聖なるもの」とするのは、「神様の主権」とか「神様の素晴らしさ」とか「神様の力」とか、とにかく神様のものに「他のものをくっつけない」ことです。他の人とかモノとかお金とか技術に頼らなくても、神様だけで十分です。「あの人のおかげ」でもないし「俺のおかげ」でもありません。
これは聖書全体が繰り返し教えていることです。
"私たちにではなく 主よ 私たちにではなく
ただあなたの御名に栄光を帰してください。あなたの恵みとまことのゆえに。"
詩篇 115篇1節
"どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしの栄光を、ほかの者に与えはしない。"
イザヤ書 48章11節
僕らに求められているのはいつも「主が共にいてくださり、主がしてくださる」と信頼することです。終わった後は「主がなさった」と感謝して賛美することです。神様100%、僕らは0%です。
イスラエルの人々に水がなかった時、人々はモーセに文句を言います。モーセは祈るのですが、だんだん腹が立ってきたようです。
"なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上り、このひどい場所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような場所ではない。そのうえ、飲み水さえない。」
モーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入り口にやって来て、ひれ伏した。すると主の栄光が彼らに現れた。"
民数記 20章4~6節
モーセとアロンはひれ伏して祈り、神様は祈りに答えてくださり、水を与えてくださいます。…ここまではいいのですが、モーセはイライラして「われわれが水を出さなければならないのか!」と言ってしました。
"「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませよ。」
そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、主の前から杖を取った。
モーセとアロンは岩の前に集会を召集し、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から、われわれがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」
モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、豊かな水が湧き出たので、会衆もその家畜も飲んだ。"
民数記 20章8~11節
まるで自分が水を出すかのように言ってしまいました。しかも、「岩に命じれば水を出す。」と言われたのに、怒りのあまり杖で岩を二度打ちました。岩を杖で叩きながら「お前らのために俺らが水を出しててやらねばならないのか!いい加減にしろ!」という感じです。
神様はすぐにおっしゃいます。
"しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」
これがメリバの水である。イスラエルの子らが主と争った場所であり、主はご自分が聖であることを彼らのうちに示されたのである。"
民数記 20章12~13節
この失敗ゆえにモーセは本当に約束の土地に入れませんでした。(民数記27章、申命記32章)
神様だけを「聖なる方」とするように聖書は繰り返します。
与えられているもの全てが神様からのものです。僕らがすることも全部そうです。「食べるにも飲むにも、何をするにも」神様の栄光と力の現れです。(1コリント10.31)良い行いも、神様の栄光の現れです。「人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」(マタイ5.16)話す時も、それは神様の力と知恵の表れです。(コロサイ3.17)
怒ってる時は神様の素晴らしさを表しずらいようです。「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」(ヤコブ1.20)また、得意なことほど自分の栄光と力を誇示したくなってしまいます。
だから今日も祈りましょう。「御名が聖なるものとされますように。」「私たちにではなく 主よ私たちにではなく ただあなたの御名に栄光を帰してください。」ハレルヤ!