2026年2月4日水曜日

天には栄光(天には栄え)

 伝統的な讃美歌「天には栄え」を現代語にして、Sunoでアレンジさせてみました


AIと賛美


音楽のAI生成や演奏が当たり前になりつつあって、教会の賛美やアレンジにおいてもAIをどう使うか、どう付き合うかと考えてきました。僕自身、何度もアレンジや演奏で使ってきて、AIは素晴らしく簡単でクオリティーも高いんだけど、何か違うな?って感覚がありました。


それでリバーワーシップの先生方のグループLINEに出してご意見をもらったんだけど、その中で便利だけど補助手段、やっぱ自分で考えるプロセスに意味があるなぁと思わされています。


つまり、アレンジにせよ演奏にせよ、その一つ一つの作業に感謝があり、神様への信頼があり、祈りがあり喜びがあるか、と問われています。


●苦労せずに良いものを見せたい自分


AIを使って喜んでる僕の中に「ラクしたい」「時間をかけたくない」という気持ちがあることも発見です。大袈裟にいうなら「便利さ」という宗教というか、「楽だわー」という偶像のようです。ラクしつつ、かかもクオリティーの高いものを誰かに見せたい、という気持ちです。

これは神様の栄光を求めているのではなくて、やっぱり自分のための作業だなと思いました。


今まで、自分でアレンジして、自分で演奏してそれを収録して、ワーシッププレーヤーというyoutubeチャンネルに上げて共有してきました。楽譜が必要な人のためのアレンジを提供するためのサイトです。


https://www.youtube.com/@worshipplayer6469


で、今回は、殆ど全部自動でAIで讃美歌1番「神の力を」という伝統的な讃美歌のピアノ伴奏を作ってみました。楽譜もAIが作り、そして自分で演奏せずにAIに演奏させた動画をアップしました。


https://www.youtube.com/watch?v=zWBM-SRBCa0


自分でアレンジするよりも上手なアレンジだし、自分の演奏よりもAIの方が上手です。でも、そこに霊的な感動がありません。もはや僕自分のアレンジではないし、奉仕でもささげものでもないな、と感じています。いいアレンジだし好きな感じではあるけど、やっぱり機械がやったアレンジは霊的な感動がないです。音楽ではあるけど、賛美ではないな、と思いました。


●そこに愛がないなら虚しい


人間同士の愛、例えば夫婦間の愛でも「自動で機械がやってくれる」は本当の愛じゃないなぁと思いました。

例えば「ありがとう。いつも感謝してるよ」「あなたのこんなことが素晴らしい」とAIに言わせることはできます。僕が心で思ってなくてもです。AIが素晴らしいことばで、僕が思っていないことを表現することはできると思います。悪くはないけど、良くもないというか、そこに心がないし真実ではありません。


愛するために相手に仕え、苦労して奉仕するのも大事です。「ご飯を作る」とか「掃除する」のも義務ではなくイヤイヤでなく、神様と人を愛するためにやるすべきことです。全部それをロボットにやらせて、それをこなしたとしても、そこには愛がありません。むしろ、そこには「なるべく時間をかけたくない」「労力をかけたくない」という本音があるかもしれません。「めんどくさい。やりたくない」という気持ちも付きまとうなら、これは愛から出た奉仕ではありません。もちろん御霊による愛ではないです。結果は同じでもそこに愛がなく、御霊に与えられる喜びも真実さもありません。


1コリント 13:1-3

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。

また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たち

に分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。


プレゼントするのも同じです。誰かのために服を選ぶとか小物を選ぶとか。相手のことを考えて、想像して、選ぶプロセスにすでに愛があります。その一つ一つが愛の行為です。全部スキップして、AIが自動的に分析して選んだものが宅急便で届くの、悪くないけど良くもないと思います。

さらに、夫婦が手をつなぐ、ハグをする、キスをする、それをAIに任せるようになったらもう終わりです。気持ち悪いです。でもポルノはそれをさせようとする世界だと思います。


●心からの感謝と賛美 心を尽くし、思いを尽くし…


不器用でも、賢くなくても、神様が願っておられるのはそこに心があったかどうかです。

そこに感謝があったってことかです。

AIほど素敵なアレンジしなくてもいい。演奏もAIみたいに完璧じゃなくていい。


むしろ、不器用でも、神様のことを思って、神様を愛して、神様がしてくださったたくさんのめぐみを思い出して、一生懸命練習した、というプロセスを喜んでくださると思います。

人前でラッパを吹いて、目立つこと、上手なことをアピールするよりも、誰も見てなくても、右の手がしたことを左の手に知られなくても、神様を愛して、人を愛して、ささげたことを喜んでくださいます。


お金持ちが余っているお金をこれ見よがしに捧げるよりも、相手にされないようなやもめがレプタ2枚だけをささげる方が、神様にとって喜びです。


●心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして


効率よくアレンジして演奏することよりも、神様のために時間を使って時間がかかってもあまり進まなかった、その方が喜ばれます。ラクしていい音を出したよりも、

心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(マルコ12:30)とおっしゃる神様の前にどうだったか、です。


結果よりも、心を尽くしたか、思いを尽くしたのか、知性を尽くし、力を尽くしたのか?が問われます。

最近作った、というかあAIが作ったアレンジ動画を見たとき、あぁ僕は何も神様に捧げてないな、と思いました。AIにさせただけです。


もっとシンプルでも、こんなに派手じゃなくても、自分で考えて弾いて、自分で歌ったほうがやっぱりいいですよ。神様が預けてくださったタラントを心を尽くして使ったかどうかです。

人によって預かってる量は違うので、比較しなくていいし、AIのように素晴らしくなくて良いです。


AIは楽だけど、知性使わないな、って思いました。

大事なのは、僕らが犠牲を払って、力を使って、知性を使って、思いを尽くして賛美したかどうかです。ね。そのためにはラクじゃなくてOK、むしろラクしないほうがいいです。神様のための労苦は栄光に至ります。


"ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。"

コリント人への手紙 第一 15章58節


神様のために時間がなくなった、神様のために疲れた、神様のために頭使った、神様のためにお金使った、それらはほんとに尊いことです。


"私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。

私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。"

コリント人への手紙 第二 4章17~18節


●信仰によってささげることの大切さ。


創世記4章でカインが作物作って神様にささげた、とあります。アベルも子羊を飼っていたので、ささげました。ところが、二人とも神様にささげたんだけど、神様が目をとめない捧げもの、ってあるようです。


"しばらく時が過ぎて、カインは大地の実りを主へのささげ物として持って来た。

アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。主はアベルとそのささげ物に目を留められた。

しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それでカインは激しく怒り、顔を伏せた。"

創世記 4章3~5節


両方とも、ささげたけど、神様は作物を持ってきたカインのささげものには目をとめなかったとあります。どうしてでしょう?

この答えが新約聖書にあります。



"信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に献げ、そのいけにえによって、彼が正しい人であることが証しされました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だと証ししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって今もなお語っています。

…中略…

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。"

ヘブル人への手紙 11章4~6節


アベルは信仰によって優れたいけにをささげた、とあります。神様への信頼関係の中でささげました。逆にいうと、カインは作物は持ってきたけど、信仰によって、とは書いてない。神様への信仰、信頼はないまま、ただ持ってきたように書いてあります。


神様がいる。神様の報いがある、という信頼と期待がなかったようです。でも、カタチだけささげました。が、神様はそれを受け入れることはありませんでした。

それで、カインは怒って、弟を殺します。


●神様と一緒に、そして仲間と一緒に


もう一つ大事な視点は、一緒に苦労し、助け合う仲間の存在です。

神様を知らない世界は、なるべく人間をスキップして、効率が全て、結果を出すことだけが良いことだと言います。できない人を否定し、無価値だと思わせて苦しめます。


AIで効率よく作り上げる時に、一緒に考えたり賛美する教会の仲間がいてくれることの喜びや愛があるのか、という疑問も大事です。効率だけを求めて仲間をスキップしたアレンジは神様にとって喜びなんだろうか?という疑問もありました。

教会の仲間の存在の喜びがないままなら虚しいものです。僕らはズレて行きます。


神様は神様だけで世界を支配できるし、伝道も宣教もできるし、なんでもできます。でも、小さな僕ら一人ひとりに役目を預けて尊重してくださいます。


神様の喜びは、力のない人、知恵のない人が尊ばれて喜ばれていることです。罪のある人が赦され、受け入れられていることです。

もし僕らが神様を忘れたまま人間とその技術を誇るなら、そして、誰かが置いてきぼりにされているなら、神様は言われます。


(1コリント1章26-29節)

26,兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

27,しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。

28,有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。

29,肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。


だからやっぱり一緒に考えましょう。皆さんと一緒に、考えとかスキルとか技術とか、分け合いましょう。このAIの技術も人を切ったりスキップするためでなく、人の助けのために用いる、ということです

上手じゃなくても、感謝しながらコツコツやりましょう。


●まとめ フルAIアレンジをして思ったこと


この楽譜を見て演奏する人は、そこに信仰持って感謝を持って演奏するのがいいと思います。この楽譜を見て弾いてくれる人がいたし、その人にとってはすごい助けだそうです。

僕自身場合は、編曲という役目はここではささげてなかったなと思いました。


心を尽くしているか、力を尽くしているか、です。愛があるか、信頼が、信仰があるか、です。

時間がかかって、疲れた、というのは、それこそささげてます。そこに神様の喜びがあり、報いもあります。「自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っている」と聖書は言います。(1コリント15章58節)


AIを使うのはダメか、いいか、ではなく、そこに神様への愛があるか、信仰があるか、感謝があるか、です。僕の中では便利な道具を使うのは良いけど、それで神様への捧げ物が減らないように、と思います。

AIを使うんだったらちゃんと使って、道具として、ちゃんと心を尽くして使うのが良いと思います。

単なるタイパコスパでなく、楽したい、ではなく、神様のための愛のささげものになってるかどうか確認する必要がありました。

効率悪くても、祈りながら、一つ一つ感謝しながら、試行錯誤しながらささげましょう。


スマホが悪ではないけど、罪の道具にもなるし、人を愛する道具にもなります。神様を愛する道具にもなります。簡単に良いとか悪いとか決めれません。

そこに神様への愛があるか、感謝があるか。人への愛と尊敬があるかどうか。問われています。


その前提で、僕が学んだ技術をこれからもシェアしたいと思っています。




民数記15章

 民数記15章


安定した収入が自分を守るのではなく、神様が守ってくれます。収入が平安をもたらすのではなくて、神様が安心させてくれます。でも、ぶっちゃけ僕らの心の中は「足りなくなったらどうしよう」という思いがあります。普通は「持ってる」=「安心」、「失う」=「不安」です。でも、神様に献げると逆の体験が起きます。神様は「まず最初に神様にささげるように」おっしゃいます。それはこれからも神様が与えてくださることへの信頼と喜びと平安を与えてくれます。もしもお金が1番、神様が2番なら、お金の方が力がある神様みたいです。


イスラエルを守り養ってくれたのはいつも神様でした。何もないはずの荒野でも、毎日天からマナが与えられ、岩から水が出て、鶏肉さえも食べることができました。そして、約束の土地に住んだなら、今度は土地の作物を神様が豊かに与え続けてくださいます。



"主はモーセにこう告げられた。

「イスラエルの子らに告げよ。わたしがあなたがたを導き入れようとする地にあなたがたが入り、

その地のパンを食べるようになったら、あなたがたは主に奉納物を献げなければならない。

初物の麦粉で作った輪形パンを奉納物として献げ、打ち場からの奉納物として献げなければならない。

初物の麦粉のうちから、あなたがたは代々にわたり、主に奉納物を献げなければならない。"

民数記 15章17~21節



愛し養ってくださるのは神様です。神様が支えてくださいます。それを確認しするために、「初物の麦粉で作った輪形パンを奉納物として」ささげるように言わました。最初にため込むのでなく、まずはささげ、手放すことです。そうすることで神様こそが養い主であることにしっかりと目を向けさせてくれます。「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」(2コリント9.8)



ささげることで神様への信頼は強められます。絶対に墜落しない飛行機を信頼して命を預けて乗り込むようにです。いつの間にか、収入があるから安泰だ、と思いがちです。だからこそ、最初に神様に感謝と賛美を捧げることで、僕らは守られます。


(ヘブル13.5)

金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。


神様は見捨てません。日々、必要なものを与え、私たちを養ってくださる神様です。大丈夫です。まずささげましょう。ハレルヤ!

2026年2月3日火曜日

民数記14.26-45

 民数記14.26-45  何をしゃべっても自由です。何を選んでも自由です。しかし、神様のみことばを聞きながらそれに反抗するのは、自分から滅びを選択しているかのようです。

イスラエル人たちは、神様が与えてくださる祝福の土地を見ながらも、「どうせ無理」「殺される」「子どもや妻はさらわれる」と悪いストーリーを信じました。まるで自分で作った宗教のようです。悪いストーリーを作る人は、それを望んでいるかのようです。神様は人をロボットのようにしません。人が決めたことを尊重します。…そしてその結果は死です。彼らは自分から滅びへの道を歩くことになります。



"彼らに言え。わたしは生きている──主のことば──。わたしは必ず、おまえたちがわたしの耳に語ったとおりに、おまえたちに行う。

この荒野におまえたちは、屍をさらす。わたしに不平を言った者で、二十歳以上の、登録され数えられた者たち全員である。

エフンネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、おまえたちを住まわせるとわたしが誓った地に、だれ一人入ることはできない。"

民数記 14章28~30節



神様の願いは彼らが自分で神様に従う道を選ぶことですが、人間は何を選んでも自由です。



"私は今日、あなたがたに対して天と地を証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、"

申命記 30章19節



「神様なんていない」と信じる人がいます。そう信じても自由ですが、信じた通りに神様から離れ、滅びの道に落とされます。自分で望んだ通りに永遠に神様から引き離されます。神様に聞き従わないことは、自分から滅びを選ぶことです。



"しかし、おまえたちはこの荒野に屍をさらす。

おまえたちの子どもは、この荒野で四十年の間羊を飼う者となり、おまえたちがみな、屍となるまで、おまえたちの背信の責めを負わなければならない。

おまえたちが、あの地を偵察した日数は四十日であった。その一日を一年と数えて、四十年の間おまえたちは自分の咎を負わなければならない。こうして、わたしへの反抗が何であるかを思い知ることになる。

主であるこのわたしが言う。一つになってわたしに逆らったこの悪い会衆のすべてに対して、わたしは必ずこうする。この荒野で彼らは死に絶える。

また、モーセがあの地の偵察のために遣わした者で、帰って来て、その地について悪く言いふらし、全会衆にモーセに対する不平を言わせた者たちもだ。」

こうして、その地を悪く言いふらした者たちは、主の前に疫病で死んだ。"

民数記 14章32~37節



反対に、神様に聞き従うことは祝福です。どんな小さなことも神様に聞き、従いましょう。神様に従うことは喜びを、祝福を、愛を、平安、命、光をもたらします。ハレルヤ!




2026年2月2日月曜日

終末の希望シリーズ メッセージまとめ

 終末の希望シリーズ メッセージまとめ


🙆‍♀️終末の希望シリーズ その1

詩編9篇、1コリント4章より


再臨の希望


内村鑑三(一日一生)は次のように言っています。


一日は貴い一生である、これを空費してはならない。そして有効的にこれを使用するの道は、神の言葉を聴いてこれを始むるにある。」


「万事万物はすべてことごとくこの喜ぶべき最終の出来事に向かって進みつつあるのである。(…中略…)私たちはすでにキリストのものとなって、全世界の出来事はこぞって私たちを希望の域に向けて進みつつあるのである。




歴史のクライマックスはイエス・キリストが再臨することです。どんなに私たちの周りが悲しみで満ちていても、人々が我々はどうなるんだろう、我々はどこへ流れていくんだろうと泣きわめいても、聖書は未来に対する確かな約束に満ちています。


聖書は、イエス様が再臨され、正しく世界をさばき、悪は一掃されます。神の民のために素晴らしい報いがあると言っています。それがいつかどんな時かは知らなくていいのです。ただ、それを必ず起こることとして信じて準備することです。

準備とは、苦しみの中で、敵にしかえしせず、良いことをし続けることです。敵を赦し、悪に善で返すことを選び続けることです。私たちは忘れやすいし、目の前のことに振り回されがちです。


この神様の約束をしっかりとつかんで、それを自分の現実の状況に当てはめて宣言することが祈りであり賛美です。今苦しくても神様が正しくさばいてくださいます。


神様の約束を自分の口で言葉にして、それに従うことによって信仰が活性化されます。ダビデが将来起こることを宣言しているのと同じです。



※神学校の時先輩が、今日はお願い事のお祈りやめようと言ってくれたこと。


神様がどんなに素晴らしい方か、それだけ祈ろう、と言ってくれたことを思い出します。その祈りは楽しく、希望に満ち、力に溢れたものとなります。もちろん自分の悲しみ痛みを長く言うのも大事です。それは大事です、でもそれで終わってはいけません。祈りは賛美であり感謝であり宣言でもあります。神様がこのようなお方です神様はこのようなお方ですそのように賛美し感謝する祈りこそ私たちに信仰の戦い信仰の勝利をもたらすものです。


今の苦しみは通過点です。通過点にすぎないのに、勝手にもう無理だ、と諦めてしまうことが多いのです。みなさんが受けている攻撃、苦しみは勝利と祝福のための1つの通過点であることをよく思い出してください。



ぜひ想像してください、キリストが再臨される時に、世界を正しくさばいていくださいます。


詩編9篇

8,主は義によって世界をさばき公正をもってもろもろの国民をさばかれる。


文字通りにイエス様が世界の王として裁かれます。その時に悪は一掃されます。



(1コリ4.5)神から各人に対する称賛が届くのです。この試練を忍耐して悪に対して善を行う人は、その時に

「称賛と光栄と栄誉に至」ります。

苦しみの中でも希望を持って忍耐し、悪に対して善を行う僕らはキリストとともに栄光を受ける人となります。


そのときにはよくやった忠実な良い僕だと言って褒められます。キリストが勝利することは確定しています。見捨てられることはありません。忍耐して希望を持って歌い続けましょう。みことばを信仰を持って聞き続けましょう。



1,心を尽くして私は主に感謝をささげます。あなたの奇しいみわざのすべてを語り告げます。

2,私はあなたを喜び誇ります。いと高き方よあなたの御名をほめ歌います。



苦しいけど、報いがあります。希望を持って忍耐する人には、賞賛が届きます。敵を赦し、愛する人には栄光があります。勝利は確定しています。僕らの苦しみは通過点です。目を天にあげたなら、希望と喜びの中に今の苦しみがあることがわかります。罵られても罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる神様にお任せして善を行いましょう。苦しみの中でも信じて賛美しましょう。自分の考えだけでなく、将来の希望の言葉によって祈りましょう。神様のくださる希望によって賛美しましょう。


詩編9篇

11,主にほめ歌を歌えシオンに住まうその方に。主のみわざを告げ知らせよ国々の民に。

12,血に報いる方は彼らを心に留め貧しい者の叫びをお忘れにならない。


ハレルヤ!



🙆‍♀️終末の希望シリーズ その2

アモス9章、使徒15章より


(使徒15章14-19)

14 神が初めに、どのように異邦人を顧みて、彼らの中から御名のために民をお召しになったかについては、シメオンが説明しました。 

15 預言者たちのことばもこれと一致していて、次のように書かれています。 

16 『その後、わたしは倒れているダビデの仮庵を再び建て直す。その廃墟を建て直し、それを堅く立てる。 

17 それは、人々のうちの残りの者とわたしの名で呼ばれるすべての異邦人が、主を求めるようになるためだ。 

18 ──昔から知らされていたこと、それを行う主のことば。』 

19 ですから、私の判断では、異邦人の間で神に立ち返る者たちを悩ませてはいけません。 



廃墟を立て直し、全ての国々を祝福するのはイエス様のことです。イエス様は約2000年前に一度来られました。そして、もう一度来られます。その時には完全な、平和と繁栄に満ちた世界的な王国が樹立されます。イエス様が再臨されるのはエルサレムです。そこから世界を治め、世界はイエス様のみことばを求める時代が来ることが預言されています。(イザヤ2.2-4、ゼカリヤ8章など)その時に世界は平和と祝福に満たされます。収穫と種まきが同時に起きるような、耕作と刈り取りが同時に起こるような豊かさです。(アモス9.13)



アモス9章


(13-15)

13,見よ、その時代が来る。──主のことば──そのとき、耕す者が刈る者に追いつき、ぶどうを踏む者が種蒔く者に追いつく。山々は甘いぶどう酒を滴らせ、すべての丘は溶けて流れる。

14,わたしは、わたしの民イスラエルを回復させる。彼らは荒れた町々を建て直して住み、ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、果樹園を作って、その実を食べる。

15,わたしは、彼らを彼らの地に植える。彼らは、わたしが与えたその土地から、もう引き抜かれることはない。──あなたの神、主は言われる。」



リビングバイブルは13節を「大豊作で、やっと収穫が終わると思ったら、息つく暇もなく別の種をまく有様で、イスラエルの丘のぶどう畑は甘いぶどう酒をしたたらせるようになる時が来る。」と訳しています。

罪の中で死んでいて、神様の怒りと裁きに向かっていたはずの僕らです。「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」(エペソ2.4-6)




🙆‍♀️終末の希望シリーズ その3


ルカ17章から


 イエス様はもう一度この世に再臨されます。その日はこの世が裁かれ、滅ぼされる日です。今までも神様が世界を裁き、滅ぼされたことはありました。その一つがノアの時代の洪水による裁きです。


(創世 6:5-7) 

主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」


神様はノアとその家族に信仰を与え、その家族に箱舟を作るように言われ、彼らは信じて救われました。それ以外の人たちは全て滅ぼされてしまいました。それと同じようなことが起こるとイエス様は言われます。


(26-27)

ちょうど、ノアの日に起こったのと同じことが、人の子の日にも起こります。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていましたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。


もう一つ、神様の裁きで滅ぼされたソドムという町がありました。主の使いはロトに妻と娘たちと一緒に逃げるように言いました。


(創世 19:12) 

ふたりはロトに言った。「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。」(…中略…)「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」


(28-30)

また、ロトの日に起こったことと同じようになります。人々は食べたり飲んだり、売ったり買ったり、植えたり建てたりしていましたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降って来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。人の子が現れる日にも、同じことが起こります。


同じようなことがこれから起こる、とイエス様は言われます。大事なことは滅ぼされていくこの世に未練を残したり、執着しないことです。


(31-32)

その日、屋上にいる人は、家に家財があっても、それを持ち出すために下に降りてはいけません。同じように、畑にいる人も戻ってはいけません。ロトの妻のことを思い出しなさい。


ロトの妻は滅んでいく町や家や財産を惜しみ、「振り返ってはいけない」と言われていたのに振り返り、滅ぼされました。だから、この世のどんな財産にも未練を残してはいけない、とイエス様が言われます。いのちはイエス様です。イエス様がいのちです。この世の財産や仕事が自分を救うのではなく、イエス様が僕らを生かし、救ってくださいます。この世の全てを手放してイエス様に従う人は救われます。


(33)

自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。


僕らを滅びから救うために、イエス様はあらかじめ僕らの受けるべき神の裁きを受け、十字架で呪われてくださいました。


(25)

しかし、まず人の子は多くの苦しみを受け、この時代の人々に捨てられなければなりません。


ノアの時代には箱舟が用意されていたように、ロトの時代にはみ使いが逃げなさい、と言ってくれたように、僕らにはイエス様が与えられ、十字架で死んで神の怒りを身代わりに受け、救いの道を与えてくださいました。イエス様だけが救いです。その他のものは僕らを救うことはありません。

僕らが今日もイエス様を見上げて、この世に深入りせずに歩みますように。ロトの妻みたいにこの世に執着して滅ぼされることがありませんように。


(1コリント7.31)

世の富を用いる者は用いすぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。


🙆‍♀️終末の希望シリーズ その4


1コリント15章より


みんな死にます。もし、その先の希望がないなら、この地上で楽しみを見つけて生きるしかなくなります。美味しいものを食べて飲んで、楽しくやろう、とか、能力や権力を手に入れよう、夢を叶えよう、って思います。でも、いくら美味しいものを食べても、名誉があっても富があっても夢がかなっても、死と共に消えていくのが現実です。


32 もし、死者の復活がないのなら、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」ということになるのです。


イエス様はおっしゃいました。


(ルカ12.16-21)

「ある金持ちの畑が豊作であった。(…中略…)そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」



でも、聖書は僕らに死後の希望を与えてくださっています。僕らはイエス様と同じように復活し、さらに栄光まで約束されています。


20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂(最初の実り、お手本のような実り)として死者の中からよみがえられました。


イエス様は復活して今、全ての栄光を持って生きておられます。それは、僕らの最初の実り、お手本です。僕らもイエス様と同じように復活します。なので、聖書はイエス様のことを初穂、と書きます。他に、時々イエス様のことを長男、と表現します。最初に復活してお手本を見せてくれる僕らの長子(長男、兄貴)だと表現する箇所があります。


(ローマ 8:29)

神は、あらかじめ知っておられる人々(クリスチャンのこと)を、御子のかたちと同じ姿(復活と栄光の姿)にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。


イエス様が初穂、長子、なので、もちろん僕らは後で復活します。


21 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。

22 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。

23 しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。

24 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。


その時、イエス様は世界をもう一度回復させてくださいます。その時には、イエス様以外のどんな権力も意味がなくなります。お金の力も、数の力も、軍事力も意味がなくなります。どんなに威張っていた人ももう、その力を失います。今、最も僕らを脅す力を持っているのは「死」です。が、死もイエス様に滅ぼされます。



26 最後の敵である死も滅ぼされます。



この希望があるから、クリスチャンはこの世のことを絶対的に重要なこととは思いません。もちろん、この世で誠実に神様と隣人を愛するのは大事なことです。ですが、神様から離れたものを追いかけているのなら不幸です。後で消えてしまうものだからです。


(1ヨハネ 2:16-17)

すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。



この世だけの欲、自慢など神様から出ないものを求めるのはやめなさい、と聖書は言います。そのようなことに誘う友だちにも注意しなさい、と教えています。



32 もし、死者の復活がないのなら、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」ということになるのです。

33 思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。

34 目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。



パウロはこの世のことに命をかけているのではなく、なくならない赦しと復活の希望に命をかけました。たとえ、虐められることや嫌われることがあっても、将来与えられる復活、そしてキリストに喜ばれることを選んでいます。


31 兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。(福音のために苦しんでいて、死にそうになることが毎日のようにあります。)これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなたがたを誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです。

32 もし、私が人間的な動機から、エペソで獣と戦った(エペソの町でイエス様に反対する人たちからひどい目にあった)のなら、何の益があるでしょう。


パウロも、僕らも死の向こうにある喜びと希望とに支えられています。なくなる命ではなく、永遠の命に僕らは繋がっています。死が一歩一歩近づいて来ることを感じる時にも、復活の希望ゆえに希望と平安を持つことができます。イエス様こそ全ての権力を足の下の置く方です。今日、みなさんを苦しめる力がどんなに強く見えても、イエス様は滅ぼされます。復活は事実です。そして、僕らも復活します。悪も死も一掃されます。復活の後が人生の本番です。今は本番のための準備期間です。地上の歩みでなく、永遠の命を見て歩みましょう。どんなに苦しみが大きく見えても、いずれなくなってしまいます。

イエス様の言葉を信頼して選ぶならその祝福と報いと栄光は想像以上に大きいです。

目先の出来事に振り回されず、今日も御霊によって心の目が永遠を見上げる目でありますように。



🙆‍♀️終末の希望シリーズ その5


エレミヤ33章、イザヤ2章より


●数千年に渡るエルサレムの滅びと回復の預言


祈りに対する神様の答えは与えらるし、神様のことばは実現します。でもそれが1分後か、10年後かわかりません。この時エレミヤに与えられた神様のご計画、人間の理解を超えた神様のご計画は数年後、数十年後、そして数百年後、数千年後の壮大な世界史でした。神様は「あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。」(3)とおっしゃった通り、壮大すぎる世界史がエレミヤに与えられました。その預言の内容を見ていきたいと思います。まとめると以下の4つになります。


①エルサレムが滅びる預言は数年後、そしてAD70年にも実現しました。

②エルサレムが回復する預言は70年後、そして現在2020年も継続中です。

③ダビデの子孫からキリストが現れ、すべての罪を赦す預言は約700年後に実現しました。

④キリストが世界を治め、世界がキリストを認め恐れ従う預言はいつか不明です。


①エルサレムが滅びる預言は数年後に実現しました。


人の理解を超えた神様のご計画はエルサレムとユダが一度全滅することでした。その理由は「彼らのすべての悪のゆえに、わたしがこの都から顔を隠したからだ。」とあります。


(4-5)

まことに、イスラエルの神である主は、敵の塁や剣に対抗するために取り壊された、この都の家々と、ユダの王たちの家々について、こう言われる。『彼らはカルデア人と戦おうとして出て行くが、わたしの怒りと憤りによって打ち殺された屍をその家々に満たす。それは、彼らのすべての悪のゆえに、わたしがこの都から顔を隠したからだ。


この預言の通りにエルサレムは炎に包まれ、多くの人たちが容赦無く虐殺されます。その最後の様子が2歴代誌の36章に書かれています。


(2歴代誌 36:17-19)

そこで、主は、彼らのもとにカルデヤ人の王を攻め上らせた。彼は、剣で、彼らのうちの若い男たちを、その聖所の家の中で殺した。若い男も若い女も、年寄りも老衰の者も容赦しなかった。主は、すべての者を彼の手に渡された。(…中略…)彼らは神の宮を焼き、エルサレムの城壁を取りこわした。その高殿を全部火で燃やし、その中の宝としていた器具を一つ残らず破壊した。


②エルサレムが回復する預言は70年後、そして現在2020年も継続中です。


ところが、神様は人間の理解を超えていて、滅びの先に回復と癒しと平安を与えようとしています。


(6-8)

見よ。わたしはこの都に回復と癒やしを与え、彼らを癒やす。そして彼らに平安と真実を豊かに示す。

わたしはユダとイスラエルを回復させ、以前のように彼らを建て直す。

わたしは、彼らがわたしに犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らがわたしに犯し、わたしに背いたすべての咎を赦す。


彼らは国を失いどん底を経験します。完全に自分の力を失ってから初めて神様の恵み、憐れみだけが100パーセント表されます。もう、自分が何かしたから祝福されたとか、行いで愛とか祝福を勝ち取るようなことができない状態になって初めて神様の恵み100パーセントの回復を与える、とおっしゃいます。まさに、心の貧しい者は幸いです、とおっしゃるように、全てを失ってから彼らは神様の恵みだけを体験します。


(9-11)

この都は、地のすべての国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり、栄えとなる。彼らは、わたしがこの民に与えるすべての祝福のことを聞き、わたしがこの都に与えるすべての祝福と平安のゆえに恐れ、震えることになる。』」

主はこう言われる。「あなたがたが、人も家畜もいない廃墟と言うこの場所で、人も住民も家畜もいない、荒れすたれたユダの町々とエルサレムの通りで、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、主の宮に感謝のいけにえを携えて来る人たちの声が、再び聞かれるようになる。彼らは言う。『万軍の主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで』と。わたしがこの地を回復させ、以前のようにするからだ──主は言われる。」


彼らが滅んだのは自業自得なはずです。そのようなイスラエルが回復する、と言われます。しかも神様は腐りきって滅んだユダとイスラエルを「わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり、栄えとなる。」とおっしゃいます。(9)

これは僕らにも希望です。僕らが絶望したとしても、神様には終わったとか、無理とか、絶望はないことがわかります。

神様のみことばは実現しました。11節に『万軍の主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで』と歌う、と預言がありますが、70年後に彼らはバビロンから帰ってきて、破壊された神殿の土台をもう一度作り直したとき、彼らはこのように歌いました。神様の預言は世界史そのものになっていきます。


(エズラ 3:11-12)

そして、彼らは主を賛美し、感謝しながら、互いに、「主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに。」と歌い合った。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな、主を賛美して大声で喜び叫んだ。

しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、最初の宮を見たことのある多くの老人たちは、彼らの目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。


イスラエルは破壊され、回復すことを何度か経験しています。紀元70年にまたローマ帝国によってエルサレムは完全に破壊され、彼らは国を失いました。今度は70年ではなく約1900年間国を失っていました。誰もがイスラエルが復興するなど想像もしない1900年間でした。


1900年の間イスラエルは不毛の地と呼ばれたそうです。30センチの日陰もないと言われていたそうです。世界に散らされたイスラエル人たちは何度も虐殺されてきました。有名なのはナチスドイツによる虐殺です。誰もがイスラエルは見捨てられた人たちだと思い、イスラエルは廃墟だと思われていました。だのに、1948年にイスラエルは回復します。そのとき、殺されないで生き延びてイスラエルに帰ってきた人たちもまだ後遺症で骨と皮だけの弱々しい人たちだったそうです。1948年の建国時はイスラエルの言葉も話せないようなそんな彼らです。誰もが不毛の地だと思っていたのに、イスラエルは復活しました。今では食料自給率が93パーセント以上だそうです。

「人も住民も家畜もいない、荒れすたれたユダの町々とエルサレムの通りで、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、主の宮に感謝のいけにえを携えて来る人たちの声が、再び聞かれるようになる。」と言う預言は今も継続して実現しつつあります。


(6)

見よ。わたしはこの都に回復と癒やしを与え、彼らを癒やす。そして彼らに平安と真実を豊かに示す。


③ダビデの子孫からキリストが現れ、すべての罪を赦す預言は約700年後に実現しました。


(8)

わたしは、彼らがわたしに犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らがわたしに犯し、わたしに背いたすべての咎を赦す。


この預言は、イエス様の十字架によって実現しました。これはエレミヤ31章でも言われている預言です。

ヘブル10章17節はエレミヤ31.34預言の引用です。イエス様によって罪が完全に赦されることが預言され、それは実現しました。


(ヘブル 10:17)

「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」


イエス様は十字架の上で神様の怒り、呪いを身代わりに引き受けてくださいました。

イスラエル人たちが良い人になったのではなく、キリストが裁きを引き受けてくだいました。


(16)

その日、ユダは救われ、エルサレムは安らかに住み、こうしてこの都は『主は私たちの義』と名づけられる。」


良い行いによって義と言われるのではなく、『主は私たちの義』です。イエス様だけが義です。これを信じた人はそのイエス様の義をいただいているだけです。私たちが正しいのではなく、イエス様が呪いも裁きも十字架で終えてくださって、その義に僕らも参加させていただいていいます。エレミヤは700年後のイエス様のことを預言していました。


(14-15)

「見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみの約束を果たす。

その日、その時、わたしはダビデのために義の若枝(イエス様のこと)を芽生えさせる。彼はこの地に公正と義を行う。


イエス様はダビデの子孫としてお生まれになり、義の若枝と呼ばれています。


④キリストが世界を治め、世界が恐れ従う預言はいつか不明


さらに、エルサレムが世界の中心となり、世界がそれを認めて恐る日が来ると預言されています。


(9)

この都は、地のすべての国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり、栄えとなる。彼らは、わたしがこの民に与えるすべての祝福のことを聞き、わたしがこの都に与えるすべての祝福と平安のゆえに恐れ、震えることになる。』」


これはイエス様がもう一度この地上に来られ世界をご支配されるキリストの王国を預言しています。

このことは聖書に何度もありますが、エレミヤと同世代の預言者イザヤも同じような内容を神様から預かっています。イエス様がエルサレムに再臨され、世界を治めます。世界は国々はイエス様の教えを求めてエルサレムにきます。


(イザヤ 2:2-4) 

終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。

多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。

主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。

私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。

主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。

彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。


キリストの王国とはエルサレムから世界をご支配なさる、そのような王国だと聖書は言います。それがいつ実現するのかは不明です。


●イスラエルへの神様の変わらない契約と日本人との関係。


エレミヤの預言は直接はイスラエルの回復の預言です。ではそれが僕ら日本人とどう関係があるのか?が大切です。神様はイスラエルを愛し、見放すことがなく回復と祝福を約束してくださっています。そしてこの祝福はイエス様を信じた異邦人も一緒にいただけると聖書は言います。


(ガラテヤ 3:28-29)

ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。


神様は徹底してイスラエルへの約束を愛を貫き通します。


(20-21)

20,主はこう言われる。「もしもあなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約を破ることができ、昼と夜が、定まった時に来ないようにすることができるのであれば、

21,わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、ダビデにはその王座に就く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちと結んだわたしの契約も破られる。


神様はイスラエルを愛し回復させることは絶対にやめません。罪の許しも、永遠の祝福も愛も、元々はイスラエルに与えられた恵みでした。その恵みがイエス様によって異邦人にも与えられています。この神様のイスラエルへの愛を同じようにいただけると聖書は言います。「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。」です。(ガラテヤ3.28)


どん底で、見捨てられたように見えるイスラエルが回復します。同じように私たちもどんなに絶望しどん底でも同じ愛と恵みがいただけます。キリストのものであれば、僕ら日本人も祝福も約束もいただけます。だからイスラエルへの祝福を自分のことのように喜べます。僕らのどん底も回復の通過点です。祝福のための通過点です。


僕らの考えと神様の考えは全然違います。神様を呼び求めましょう。人の考えをはるかに超えた神様のご計画があります。


(3)

『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』


●まとめ


みことばは単なる教えとか道徳でなく、世界史です。世界がコロナや経済で混乱していく中で、神様がどのように人間の理解を超えたことをなさろうとしているのか示してくださっています。


私を呼べ、とおっしゃいます。人間の知恵を超えた神様のご計画が進行中です。神様を求めましょう。絶望せず希望を持ちましょう。神様は平安と祝福を与えようとしています。イスラエルへの神様の愛はイエス様によって世界中すべての人に注がれています。ハレルヤ!



🙆‍♀️終末の希望シリーズ その6

イザヤ11-12章より


もう一度イエス様が地上に来る時はリアルに(僕らにも見えるように)世界の全てをご支配されます。そのことは新約聖書の黙示録20章に書かれています。なんと、その時には動物たちは人間を傷つけることはなく、その逆もなく、肉食動物は草食となり、自然界も人間界も全てに平和が来ます。なぜなら、神様を知ることがまるで海の水のように世界を覆い、全ての人も自然も神様のご支配の中に入るからです。


(6-9節)

狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。

雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。

乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。

わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。

主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。


その時、世界中の全ての国はイエス様の知恵と判断を求めてイエス様のところに来ます。その知恵と判断が神様のものだし、イエス様が世界の王だからです。もう災害も戦争もありません。その時に、イエス様はもう一度愛するイスラエル人たちを世界中から集めます。イスラエル人たちの中には分裂分派がありましたが、その時には完全に一つにされます。神様の愛と支配に包まれる時に、人はねたみや怒りから解放されます。神様の愛と支配が完全になり、神様がしてくださったことに感謝するときに、僕ら人間はねたみや欠乏感から解放されます。ねたみや怒りと欠乏感はセットです。


(10-13節)

その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。

その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りを買い取られる。

残っている者をアッシリヤ、エジプト、パテロス、クシュ、エラム、シヌアル、ハマテ、海の島々から買い取られる。

主は、国々のために旗を揚げ、イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる。

エフライムのねたみは去り、ユダに敵する者は断ち切られる。

エフライムはユダをねたまず、ユダもエフライムを敵としない。


世界中からイエス様がいるエルサレムに行けるように、川や海が歩きやすく移動しやすくなるようです。


(15-16節)

主はエジプトの海の入江を干上がらせ、また、その焼けつく風の中に御手を川に向かって振り動かし、それを打って、七つの流れとし、くつばきのままで歩けるようにする。

残される御民の残りの者のためにアッシリヤからの大路が備えられる。

イスラエルがエジプトの国から上って来た日に、イスラエルのために備えられたように。


人間が完全に賛美と感謝で満たされるのは、イエス様の愛と恵みを知り、体験し、満たされる時です。

イエス様が王として世界をご支配される時、僕らは賛美で満たされます。


(12.1-3)

その日、あなたは言おう。

「主よ。感謝します。あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました。」 

見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。

ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。

私のために救いとなられた。あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。


将来を悲観する人は多いようですが、聖書は将来の希望を伝えています。世界はイエス様の再臨によって素晴らしく復活します。今は僕らの世界は闇に満ちています。ですが、イエス様を信じてイエス様を自分の王様として迎え入れた人にはこの喜びがもうスタートしています。

僕らの将来は希望に満ちています。イエス様を信頼しましょう。

消えていくこの世の力でなく、消えることのないイエス様の王権を信頼しましょう。希望に満ちています。ハレルヤ!



🙆‍♀️終末の希望シリーズ その7

ルカ19章より


●神様の期待は一緒に治めること


神様の期待と願いは僕ら人間と一緒にこの世界を治めることです。

この世界を造られた時からそうでした。神様だけで十分なのに、神様は人間を作って、神様のお仕事を一緒にしたい、一緒にしよう、と任せてくださっています。


"神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」"

創世記 1章26節


この世界をお世話をするのは、神様だけで十分なはずです。だのに、最初から神様の似姿に、神様のパートナーとして、神様の子どもとして、一緒にこの地上の人生を神様を愛しながら、愛されながら生きていくために作られています。


※預ける王様

イエス様はそのことを王様としもべに例えておられます。


(13)

彼はしもべを十人呼んで、彼らに十ミナを与え、『私が帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。


10人で10ミナです。一人1ミナずつです。一ミナは当時の100日分の賃金だそうです。約4か月分に当たるような王様のお金を最初に預けました。一人ずつ、まとまったお金を預かりました。使うためのお金です。王様のために使って、喜ばれるために預かっています。この王様はしもべを信頼して預けてくださっています。そして、期待している王様は見たい、知りたい、と思います。


(15)

さて、彼は王位を授かって帰って来ると、金を与えておいたしもべたちを呼び出すように命じた。彼らがどんな商売をしたかを知ろうと思ったのである。


さて、結果はどうだったでしょう。最初の2人は喜んで報告します。王様も喜びます。相思相愛です。


(16-19)

最初のしもべが進み出て言った。『ご主人様、あなた様の一ミナで十ミナをもうけました。』

主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。おまえはほんの小さなことにも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』

二番目のしもべが来て言った。『ご主人様、あなた様の一ミナで五ミナをもうけました。』

主人は彼にも言った。『おまえも五つの町を治めなさい。』


この話は神様が人間に賜物を預け、一緒に世界を治める話をわかりやすくしてくださっています。


●たとえ話だけどリアルな将来


人々が神の国が来ると思っていたのは、僕らが思う以上にリアルです。確かにイエス様は王様です。やがて誰にでもわかる姿で世界の王となります。そうなんだけど、その前にエルサレムに行って人々から十字架にかけられて殺されます。そして復活して天に帰るんです。何しに帰ったか?

答えは、「王位を授かって戻って来るため」です。


キリストが神様から王位を与えられて世界を支配することは旧約聖書でも預言され、そして、新約聖書でもイエス様が仰っていることです。


"イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が遠い国に行った。王位を授かって戻って来るためであった。"

ルカの福音書 19章12節


これはイエス様自身のことです。


(マタイ25.31)

人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。


イエス様が父なる神様のもとに帰り、もう一度王様としてこの世界に来ることは何度も預言されています。僕らは今、イエス様がもう一度地上に戻ることを願い待っている時代です。


当時の人たちはこの意味がすぐわかりました。王様が遠くにいって、それから戻ってくることはこの時代、普通のことでした。たとえば、ユダヤ地方の王様はヘロデですが、ヘロデ王はローマまで行って、ローマ皇帝カイザルから王権をもらってこのユダヤ地方戻ってきて支配しています。


イエス様は一回神様のもとに行って、もう一度この世界に王様として再臨されるのが聖書の教えです。


●王様の喜びと報酬


王様は忠実なしもべを喜んで報酬を与えます。その報酬とは、お金ではありません。王様と一緒に共同統治することです。預かったわずかなものに対して忠実だったから、だから、王様は一緒に町を支配するように言います。同じように、神様は僕らに預けたお金も時間も力も賜物も人間関係も、神様のために忠実に使っているかどうか、を見られています。


人間は1日に何千回も決断するそうです「あと5分寝ようかな?」「何食べようかな?」「服どっちにしよう?」「この返信は先ににするか?後でいいか?」「エレベーター待つ?階段使う?」などです。小さなことから大きな決心まで、これは全部、判断が任され、管理が任されてるってことです。AかBか迷ったら、どちらが神様に対して忠実か、神様に喜ばれるかを考えるといいです。


※シンガポールの研修

に行った時、講師の先生が言いました。何千人も入る教会堂をいくつも建設した牧師が話してました。

「先生の教会はどうして、こんな大きな建物を建てられるのですか?そのお金はどこから来てるのですか?」

当然の質問です。先生は答えます。想像してください。


今から、隣の人の財布を預かってください。そして、隣の人は言ってください。その財布のお金、いくら使ってもいいよ。隣の人の財布から幾らでも使っていいことになりました。さて、あたなはいくら献金しますか?そしたら、その人は答えます。隣の人がいくら使ってもいい、っていうなら、全部献金します。


そうでしょう。あなたの財布は神様から預かってる財布です。そして、神様はそれをいくらつかっていいよ、って言ってくれます。これが答えです。この王様は預けたお金をちゃんと王様のためにふさわしく使ったしもべを喜びます。


2人のしもべは彼らは王様から預かったお金の管理を王様がおっしゃった通りに忠実に管理して使いました。たんです。だから王様はこの世界に戻った時に、町を治めなさい、とおっしゃいます。

王様とはイエス・キリストです。イエス様が戻ってきたときに、あなたは忠実にはよくやってるから、私と共に王様として10の町を管理しなさい、5つの町を管理しなさいとおっしゃってくれくれるんです。


今この地上の人生での判断が、どう使うかが、僕らの永遠の報いを決めます。永遠の神様の国で神様からどのぐらい信頼され、任されるかが今、日々決まっていると言うことです


クリスチャンはイエス様がこられた時に罪の裁きを受けることはありません。

でもイエス様がこられたときにこの地上の人生で預けたものをどのように使ったか、と言う評価や報いはあります。


神様にとって価値のないことに使ったか、それとも神様に言われた通りに使ったかどうか、です。その評価はあります。


イエス様が期待しているのは、僕らが預かっているものを喜ばれるように使うことです。裁きはないけど、報いは違います。忠実に神を愛し人を愛するために使ったかどうかを神様が見たい、と願っています。忠実に働いた人の報いは大きいです。神様と一緒に支配者になります。


これはリアルな話です。イエス様がもう一度来られて王様となると、なんと僕らも一緒に王様になり支配者になると聖書は言います。


"耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となる。

テモテへの手紙 第二 2章12節


永遠の神様の国で、どのぐらい任せられるか、それは今僕らが預かっているものをどのぐらい忠実に使うかで決まります。今、僕らは将来の準備をしています。

本当の人生はイエス様が王として来られてからです。今は永遠の人生のための準備段階です。

神様は僕らを信頼してくれています。


萎縮して、何もしないか、従うかどうか、それは、神様に対して安心しているかどうか、がポイントです。人が主にあって成長する人は必ず安心しています。神様から期待され、愛され信頼されてると感じている人です。神様のことをどう思ってるかで人は変わります。


●まとめ


神様はあなたを愛して、預けてくださっています。

弱いものを選び、小さいものを選び、喜び、預けてくださっています。


僕らの持ち物ではありません。全部神様からの愛のプレゼント、預かり物です。

用いましょう。増やしましょう。恐れる必要はありません。


🙆‍♀️終末の希望シリーズ その8

2サムエル8章、黙示録、イザヤ66章より


ダビデが国々を制圧していったことは、将来、神様の国が実現する前兆です。黙示録や詩篇やイザヤはダビデの国の拡大と、キリストの到来によってその国の支配が全世界に及ぶというビジョンを僕らに伝えています。



(黙示録11.5)

「この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなった。主は世々限りなく支配される。」



(詩篇 72篇10~11節)

タルシシュと島々の王たちは貢ぎを納めシェバとセバの王たちは贈り物を献げます。

こうしてすべての王が彼にひれ伏しすべての国々が彼に仕えるでしょう。



(イザヤ書 66章20節)

彼らはすべての国々から、あなたがたの同胞をみな主への贈り物として、馬、車、輿、らば、らくだに乗せて、わたしの聖なる山エルサレムに連れて来る──主は言われる──。それはちょうど、イスラエルの子らが穀物のささげ物をきよい器に入れて、主の宮に携えて来るのと同じである。



やがてすべての国はイエス様に平伏してささげものを持って従う日がきます。ダビデの王国はその表れです。


(14節)

彼はエドムに守備隊を、エドム全土に守備隊を置いた。こうして、全エドムはダビデのしもべとなった。主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。



神様に逆らう全ての悪は一掃され、神様だけが支配なさる日が来ます。この国に逆らうことはできません。キリストが再臨される日に、逆らう人たちは恐れおののきます。



(黙示録6.15-17)

15,地の王たち、高官たち、千人隊長たち、金持ちたち、力ある者たち、すべての奴隷と自由人が、洞穴と山の岩間に身を隠した。

16,そして、山々や岩に向かって言った。「私たちの上に崩れ落ちて、御座に着いておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ。

17,神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。」



だからイエス様は言われます。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ3.2)今日、イエス様の側につきましょう。この国はすでに始まっています。国と力と栄えとは永遠にこの方のものです。アーメン。



🙆‍♀️終末の希望シリーズ その8

伝道者7章より


私たちもいつか必ず人生を終えます。この世はひとときだけ滞在する場所であって、本当の家は天にあることをもう一度確認する日です。


だから聖書は言います。


"祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。"

伝道者の書 7章2節


誰かの死に触れた時、人は「自分もいつか死ぬ」という現実に向き合います。 そこから「じゃあ、自分の生き方はこれでいいのか?」「今、大事にしてるものって本当に価値あるのか?」って問いが生まれる。

死に触れることは、神様の前で「どう生きるべきか」を真剣に考えるきっかけになるんです。


だから、死を意識する家に行く方が良い。宴会で楽しみにふけるよりも、ちゃんと終わりを意識する方が良い。と書かれています。

人は、一度死んで、死後には神様の裁きを受けるとあります。


ヘブル 9:27 人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている


僕も何度も死に立ち会って、いろんなお葬式をしました。振り返ってみて、やはり1番衝撃的だったのは3つ下の弟の死です。30代の若さで死にました。なぜその弟の死が衝撃的であったか。それは僕が高校の時から、彼とあまり話さなかった、関心がなく、関わらなかったです。お互いに避けて口も聞かない時期もありました。交通事故で危篤になったときに、このまま死んでもらっては困ると思いました。まだちゃんと謝ってないし、まだちゃんと和解してない。たった1人の弟なのに、神様が与えてくれた。家族なのにまだちゃんと愛してない。このまま終わって良いのか、神様の前になんて言い訳すればいいのか、いや言い訳なんてできないと思いました。だから必死で祈りました。神様、弟を癒してください。助けてください。そして和解させてくださいって祈りました。


宴会の家に行くより喪中の家に行く方が良い。そこにはすべての人の終わりがあるからだ。

今ごまかしてること後回しにしてること、見ないようにしてること。

それが全部明るみに出る日が来るから、しかもそれはすべての人がいつか向き合う日だから、だからお葬式の家に行く方が良いと聖書は言います。


弟の死の話ですが、

神様は憐れみ深くて祈りを聞いてくださいました。弟はすぐには死なないで1ヵ月意識不明で延命しました。僕は旭川の病院の集中治療室に通いました。意識不明の弟のところのところに行って謝りました。

何度も話しかけました。もっと遊びたかった。もっと兄弟として、たった1人の弟として、そして大事にしたかった。何度もそのことを耳元で伝え、謝りました。

そしてイエス様が許してくださること、そして天国があることを話をしました。弟は目も開かなかったし、もちろんしゃべれなかったけど、でもある日、弟の目から涙が浮かんでいました。彼が死んだ日、僕の心にははっきりと、彼が今まで見たことがないほど喜んでイエス様に迎えられている映像のようなイメージのようなものが与えられました。


すべての人に終わりが来ます。そしてすべての人が神様の前に立ちます

この地上で何を優先してきたか問われます。本当にそれは永遠の天の国で喜ばれることだったのか、それが問われます。


"名声は良い香油にまさり、死ぬ日は生まれる日にまさる。"

伝道者の書 7章1節


名声は嬉しいです。人から褒められることを評価されること嬉しいですね。そしてもっと大事なことは神様にから評価されること。人に見られなくても、誰にも認められなくても、見ていてくださった神様によくやった、と言われること。

それはどんな良い香油にまさる、とあります。香油は聖書の時代の貴重な宝物でした。

今風に言うなら、どんな銀行残高よりも、神様の前に喜ばれることがまさっている、と言うことです。


そして、意外なことが書いてあるのは後半です。

「死ぬ日は生まれる日にまさる。」です。普通は

赤ちゃんが生まれるとみんな喜びます。嬉しいからです。

でも聖書は生まれた日、みんなが喜んだあの日よりも死ぬ日が勝っていると言うんです。普通は誰かが死ぬと悲しみます。その意味は全体で、文脈で読むとわかります。神様に受け入れられる名声はどんな宝にまさっています。そして、死ぬ日は神様に受け入れられる日です。その方がまさっている、と言います。


イエス様はおっしゃいます。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と断言します。(ヨハネ14.6)


なので、イエス様によって、イエス様を通して、僕らは天に迎えられます。

人生でたくさんの罪を犯した僕らだけども、イエス様はイエス様はそれを全部引き受けて、神様の呪いを怒りを、身代わりに受けてくださいました。


そして、あなたの罪は赦された、と言ってくださっています。今日もそうです。イエス様が赦してくださり、それで僕らは神様のもとに、天国に迎えられます。生まれる日は、嬉しいけど、これから大変な人生が始まる日でもあります。そして死ぬ日は、全ての汚れも苦しみも病気も悲しみも終えて、きよめられ、赦され、完全にされて受け入れられる日です。その方がまさっています。


僕も皆さんも人生でたくさん失敗したと思います。

愛すべき人は愛せなかったし、許す人は許せなかった。してはいけないことをしてしまったし、誰かを傷つけてきました。それでも、その裁きはイエス様が十字架の上で引き受け、父よ、彼らの罪を赦してください、と祈ってくださいました。今も天で祈ってくださっている、と書かれています。イエス様を通してだけ、僕らは神さまに受け入れられます。


赦された人として、死んで天に迎えられるのは、どんな財産よりもまさっています。地上に生まれて苦しみが始まった日よりもずっと勝っていると言うのです。


その日は僕らの体も心も新しく完全にきよくなる日です。


聖書は言います。1コリント15.40


40,また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの輝きと地上のからだの輝きは異なり、


42朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、

43,卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、

44,血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。



今日は午後から

武田繁松さんの納骨をします。おばあちゃんが入院してから、家に行くと決まって言いました。

「俺のせいなんだ。俺が悪かった」「俺がお山の大将だったんだ。ひどいことしたんだ。ごめんな」ってお母さんの写真を見ながら泣くんです。

僕はおじいちゃんのため息、自分の欠点を悲しんで悔い改めている姿を見ました。


そのように私たちはこの地上でこの弱い肉体、罪がまとわりついた性格の中でため息をつきながら、呻きながら、生きています。


でも、死んで神様に迎えられる日は完全に新しくされ、新しい体、栄光ある人に完璧に変えられます。


僕らはこの死ぬ日を目指して生きています。生まれる日よりもずっとずっと喜ばしい、神様に迎えられて死ぬ日です。この地上の人生はその準備です。そして地上ではやるべきことが神様から与えられています。


それは今から神様を愛し、人を愛することです。愛することは、赦される希望を周りに伝えることです。


この希望を知らない人は、この世だけの楽しみで満たされようとしてます。天の喜びを知らないから当たり前です。


人間はみんな欠乏感があります。何かが足りないんです。だから食べるものや飲むことや楽しいことやお酒や恋愛や結婚や仕事でうまくいくことやお金を貯めることや、そういう地上での達成感のあること、満足できることを求めて生きてるんです。でもsそれはみんな一時的ですぐにまた不安や不満が襲ってきます。本当に満たされることはありません。聖書は地上のものでは満足しないといいます。お金を愛する人はお金で満足できないようです。


"金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた空しい。"

伝道者の書 5章10節


これを書いたソロモンという王様は最高の富と権力を手にして、神様以外で満足しようとあらゆることを試したといいます。しかし、すべての虚しかったといいます。


"私は心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」しかし、これもまた、なんと空しいことか。

笑いか。私は言う。それは狂気だ。快楽か。それがいったい何だろう。

私は心の中で考えた。私の心は知恵によって導かれているが、からだはぶどう酒で元気づけよう。(…中略…)

私は自分の事業を拡張し、自分のために邸宅を建て、いくつものぶどう畑を設け、

いくつもの庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。

木の茂った森を潤すためにいくつもの池も造った。

私は男女の奴隷を得、家で生まれた奴隷も何人もいた。私は、私より前にエルサレムにいただれよりも、多くの牛や羊を所有していた。

私はまた、自分のために銀や金、それに王たちの宝や諸州の宝も集めた。男女の歌い手を得、人の子らの快楽である、多くの側女を手に入れた。

こうして私は偉大な者となった。私より前にエルサレムにいただれよりも。しかも、私の知恵は私のうちにとどまった。

自分の目の欲するものは何も拒まず、心の赴くままに、あらゆることを楽しんだ(…中略…)

実に私の心はどんな労苦も楽しんだ。これが、あらゆる労苦から受ける私の分であった。

しかし、私は自分が手がけたあらゆる事業と、そのために骨折った労苦を振り返った。見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。"

伝道者の書 2章1~11節


お金がダメだとか、楽しいイベントとかお笑いがダメと言うことでは無いけども、でも、神様との関係が切れたままの笑いは虚しくまるで鍋の下の薪が大きな音でパチパチ言って派手だけど、すぐに消えていくむなしいものだといいます。


"愚かな者の笑いは、鍋の下の茨がはじける音のよう。これもまた空しい。"

伝道者の書 7章6節


逆に、神様が与えてくださる天の喜びを信じている人から叱られる事は、どんな音楽よりも価値があるといます


"知恵のある者の叱責を聞くのは、愚かな者の歌を聞くのにまさる。"

伝道者の書 7章5節


神様は私たちを愛し訓練するために、わざわざうまくいかないこと、壁にぶち当たることを用意してくださっています。その時に自分の力のなさ、愛のなさ貧しさを知って神様を求めるからです。パーティーで満足している時には神様のことがわからなかったのに、苦しみや悲しみを通らされる時、イエス様の十字架の苦しみと愛を知ります。


"悲しみは笑いにまさる。顔が曇ると心は良くなる。"

伝道者の書 7章3節


だから笑よりも悲しみが良いと言うのです。自分の愚かさとか、失敗とか、罪深さとか、愛のなさにちゃんと目を向けることです。自分の失敗とか罪悪感は悲しいけど、でも、それはイエス様が引き受け、十字架でイエス様が裁かれ、殺され、僕らが受け入れられる、そのめぐみと愛を教えてくれます。

自分の罪が大きいほど、イエス様の愛と赦しも大きいです。自分の後悔の数が多い人ほど、赦してもらい愛してもらった数が多い人です。だから、失敗して顔が曇ると、またイエス様の十字架の愛を知ります。その時に、心が良くなる、と書かれています。


"悲しみは笑いにまさる。顔が曇ると心は良くなる。"

伝道者の書 7章3節


なぜか?すぐに消えてしまうパーティよりも自分のどうしようもない罪に向き合う時に、イエス様だけがこの罪を赦し、癒し、回復させてくださることを知り、この世に希望があるのでなくて、イエス様の赦しに希望があることがはっきりわかるからです。


イエス様は言います。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5.3)


自分には人を愛することもできなくて、自分には正しさもないこと、自分に足りなさを覚えていることその人は幸いだと言うんです。神様がその人に力を与え、愛を与え、回復を与えてくださるからです。地上に居ながらにして、天からの希望や愛や恵は注がれます。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5.3)


その人こそ祝福されているといいます。

悲しみを忘れたくて、まるで痛み止めを飲み続けるように、この世の満足や楽しみを求め続けるなら、それは本当の解決ではありません。


皆さんにとって、嫌だけど、今、ちゃんと向き合わなければならない自分の後悔や失敗や悲しみは何でしょうか本当はちゃんと苦しまなければならない、本当はちゃんと悲しまなければならないことはなんでしょう。


そこから逃げるための歌やエンタメは虚しい、いや、愚かだと聖書は言います。


"知恵のある者の心は喪中の家にあり、愚かな者の心は楽しみの家にある。

知恵のある者の叱責を聞くのは、愚かな者の歌を聞くのにまさる。

愚かな者の笑いは、鍋の下の茨がはじける音のよう。これもまた空しい。"

伝道者の書 7章4~6節


神様からの喜びや癒しを知らずに、この地上で幸せをつかもうとして、満足しようと頑張っている人がほとんどです。


死んだ後のさばきとか、天国を知らない人にとっては、この世が全てです。なるべく楽しくなるべく充実しようとします。友達がいておいしいものがあって、パーティがあってこれこそが良い人生なのだと思います。神様を知らなければそう思います。


逆に、どんなイベントがあっても楽しいことがあってもなんとなく居場所がない。馴染めない人、違和感を感じる人、その人は、本当の居場所が地上ではなくて、神様のところにあることを感じている人です。僕らの国籍は天国にあります。


※大学生の頃、女子の友達が言ってました。今はいいけどシワが怖い。衰えるのが怖い。いいな。芸能人は最高の化粧品使ってお肌のメンテしていつもまでも綺麗でいられる芸能人はいいなぁ。ほんとに怖い。皮膚が下がっていくのが怖いと言っていました。この世での美しさとか栄光幸せを求めるなら怖いと思います。なぜなら100%の人が衰えていくからです。


僕らは消えていくものとか、腐っていくものとか、価値が下がっていくものとか、死んでいくものを追いかけるべきではなく、いつまでも変わることのないなくなることのない希望しかないもの。つまり神様の関係をこの希望を追い求めていくのが正解です。


"自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。

自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。"

マタイの福音書 6章19~20節


それでも神様はこの地上でも宝や楽しみや喜びを与えてくださいます。この地上仮住まいだけど、食べ物与え、着物を与え、音楽を与え、そして愛するべき家族友人を与えてくれます。それを楽しむのは良いことです。いずれすべてとお別れしていくけども消えていくけど、でも与えられているものを楽しみなさいと9章にあります。神様が与えてくださるプレゼントだからです


"あなたの空しい人生の間、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。彼女は、あなたの空しい日々の間、日の下であなたに与えられた者だ。それが、生きている間に、日の下でする労苦から受けるあなたの分なのだ。"

伝道者の書 9章9節


家族も食べ物も娯楽もあらゆるエンターテイメントも、神様から与えられたプレゼントとして感謝するときに良いものです。


同じものでも、それに依存し、天国に目を向けなくし、偶像化するならば警戒するべきものです。すべてのものは神様に感謝、神様の栄光、神様が与えてくれたものとして使うべきなんです。


おいしいもの、こんなに楽しい友達、家族をありがとう。こんなに素晴らしい音楽を与えてくれてありがとう、神様を誉めたたえて感謝するために楽しみが与えられています。


この世の楽しみは神様に感謝して賛美するべきツールにもなるし神様を忘れさせ引き離す誘惑にもなります。だからいつも、すべてのことを感謝しなさい。主にあって喜びなさい、と聖書は言います。


今日の聖書の箇所は

楽しみの家に行くより喪中の家の方が良い、です。


そこには全員が迎える終わりの日があるからです。

神様に喜ばれること神様によくやったと言われる事はどんな宝よりも良いと思います。



自分の人生のゴールをイメージしてみましょう。


1 自分の人生のゴールをイメージしてみましょう。みなさんのお葬式はどのようなものでしょうか。

今日の行動は死の日に神様の前で誇れるでしょうか?今、時間や力を費やしていることは永遠の価値を持つものでしょうか?


2 あなたが今与えられている苦しみは何でしょう。神様は苦しみを通して私たちが何を求めるようにしておられるでしょう。


悩み苦しむ事は神様を求める日です。自分の汚さや醜さや弱さを知らされることは、イエス様が十字架でその汚い罪、惨めな姿を全部引き受けてくださったことを教えてくれます。あなたの罪はイエス様が引き受け、もうきよめ、赦されています。あとは、それを信じ受け入れるだけです。


イエス様は僕らに仰ってることばです。


「友よ。あなたの罪は赦されました。」(ルカ5.20)


宴会で忘れるよりも、すべての人が死ぬことを意識して生きる事は良いことです。

与えられた人生の一瞬、一瞬を神様と共に歩み、神様に喜ばれる選択をすることです。


そして、この希望を周りの人に、闇の中にいる人に、本当の希望を求めている人に、全ての人に伝えることです。


神様はそのためにトラブルを、苦しみを通してくださいます。天国で価値のあることを選ぶための苦しみです。ごまかさないで天で喜ばれることを選ぶためにです。


自分の人生のゴールをイメージしていきましょう。今日の行動が死の日に神様の前に喜ばれるものでありますように。


🙆‍♀️終末の希望シリーズ その9

ヨエル2章より


神様は愛と恵みと救いの神様です。…ですが、その前に怒りと裁きの神様です。聖書は僕ら人間が神様に背き、神様を軽んじ無視していると警告しています。神様の怒りと裁きはあります。だからこそ、僕らには救いと赦しが必要です。神様はその怒りを「すべての人に知らせよ」と言います。


1 シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。

この地に住むすべての者は、わななけ。

主の日が来るからだ。

その日は近い。

2 やみと、暗黒の日。

雲と、暗やみの日。


聖書の時代、より多くの人に知らせる方法は角笛を吹き鳴らす方法でした。メールも携帯もテレビもない時代です。多くの人のためには角笛を吹いて大声で知らせていました。神様の裁きの日が来ることを知らせるのは警告です。警告するのは罪を悔い改めて神様に戻るためです。


12 「しかし、今、―主の御告げ。―心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとをもって、わたしに立ち返れ。」 

13 あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。

あなたがたの神、主に立ち返れ。

主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ。


今風に言うなら、全員の携帯に緊急メッセージがきているかのようです。神様は今日も僕らに警告しています。神様の裁きの日には、全ての人間が作った仕組みも経済も全て消えてなくなります。残るのは神様のことばと栄光だけです。


3 彼らの前では、火が焼き尽くし、彼らのうしろでは、炎がなめ尽くす。

彼らの来る前には、この国はエデンの園のようであるが、彼らの去ったあとでは、荒れ果てた荒野となる。

これからのがれるものは一つもない。


神様は自然界全部を変えてしまい、太陽や星の光も消えて行きます。そして人間を容赦なく滅ぼします。どんなに順調だった人も悶え苦しむことが預言されています。神様の怒りに耐えられる人はいません。


4 その有様は馬のようで、軍馬のように、駆け巡る。

5 さながら戦車のきしるよう、彼らは山々の頂をとびはねる。

それは刈り株を焼き尽くす火の炎の音のよう、戦いの備えをした強い民のようである。

6 その前で国々の民はもだえ苦しみ、みなの顔は青ざめる。


10 その面前で地は震い、天は揺れる。

太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。

11 主は、ご自身の軍勢の先頭に立って声をあげられる。

その隊の数は非常に多く、主の命令を行なう者は力強い。

主の日は偉大で、非常に恐ろしい。

だれがこの日に耐えられよう。


イエス様も、使徒たちも同じことを警告しています。


(マタイ 24:35)

この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

(2ペテロ 3:10)

その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。


救われる人は、自分の罪を認め、悲しみ、方向を変えて、心から、全人生を神様に信頼して預ける人です。イエス様は僕らの罪を引き受け、神様の怒りと裁きを全て受けてくださいました。赦しと回復が用意されています。だから、僕らは正直に自分の罪を告白して認め、謝り、方向転換することができます。


12 「しかし、今、―主の御告げ。―心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとをもって、わたしに立ち返れ。」 

13 あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。

あなたがたの神、主に立ち返れ。

主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ。


神様は悔い改めた人を受け入れ、赦し、やり直し、回復させてくださいます。神様の前には「もう遅い」ということはありません。神様は今日も待ってくださっています。忍耐深く、憐れみ深い神様です。回復させてくださる神様です。災いを思い直してくださる神様です。僕らは本当は滅ぼされる罪人です。ただ、イエス様を信じて赦された罪人です。自分の罪をそのままにするなら滅ぼされます。神様の怒りと呪いが聖書に書かれています。同時に、神様の赦しと愛が聖書に書かれています。


(2ペテロ 3:9-10)

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。


神様の怒りと裁きはあります。そして愛と赦しもあります。呪いか、いのちか、2択です。終わりの日には真ん中はありません。命を選びましょう。赦され、愛される方を選びましょう。その道は、罪を認めてイエス様に告白して変えていただくことです。悔い改めましょう。罪を認めて告白しましょう。神様に戻りましょう。神様は今日も待っていてくださいます。ハレルヤ!




🙆‍♀️終末の希望シリーズ その10

イザヤ34、35章より


イザヤ34.1-8、イザヤ35.1-10

「回復のために破壊されリセットされる日」


●イントロ 全ての人のための警告


34章は、出来れば読みたくない悲惨な箇所です。

イザヤ書はその当時、実際に起こった預言。すでに実現したことと、これから起こること。まだ起きてないことの両方が書かれています。


僕らにとってこの箇所は将来起こる神様の怒りと裁き、そしてこの世の終わりの崩壊、裁きとして大虐殺の生々しい箇所です。神様は聖書を通してすべての人たちに聞けと呼びかけています。


神様は優しい愛の神様なのに、どうしてこんな残酷なことするの?って思います。

ちゃんと警告する理由は、僕らが神様の裁きに合わず、守られ、救われるためです。

崖から落ちて死なないために柵を作り、ちゃんと警告してくれます。

悲惨なことにならないために、ちゃんと聞きなさい、と言われています。


(1)

国々よ、近づいて聞け。諸国の民よ、耳を傾けよ。地とそこに満ちているものよ、聞け。世界とそこから生え出たすべてのものよ。


これは、世界中に対する警告です。後で読みますがイエス様も同じ警告をしています。

これは、脅しではなく、裁きの中でも守られ、殺されるのではなく、生かされ、愛されるための警告です。


世界は終わります。それは絶望ではなくて、神様の願わないもの、人を苦しめ不幸にするものは全部滅び去ることです。神様が作った世界は素晴らしいものでした。悲しみも叫びもなかった世界を作りました。


でも、人間が神様を無視し、裏切り、互いに殺し合い、傷つけあい、人間も自然も汚れてボロボロになっています。

それでも、神様は諦めていません。もう一度神様の国に回復させられます。新しくされます。そこには呪われたものは悪いものは一切ありません。

だから、神様は言われます。


(1)国々よ、近づいて聞け。諸国の民よ、耳を傾けよ。地とそこに満ちているものよ、聞け。世界とそこから生え出たすべてのものよ。


イエス様が地上に来て、教えを始めた時、最初に言われたのは御国が近づいた。


マタイ 3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」


新しい、完全な国が近づいています。そして、汚れたもの、神様の意図にそぐわないものは完全に滅ぼされていきます。悔い改めなさい、とは、方向を変えて、罪をやめて、戻ってきなさい、です。


世界の終わりは悪を行う人には恐怖だけども、神様のところに帰った人には喜びです。神様の世界が回復する日だからです。

イエス様はおっしゃいました。


マタイ 24:35 この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。


神様の言葉は出来事となります。イエス・キリストの言葉は必ず実現します。そして、それ以外のものはたとえ宇宙であっても消え去って行きます。今日のイザヤ書の箇所とイエス様の言葉は完全に一致しています。


●全てが裁かれ終わる日。


この世の終わりのことを想像しなくても、人生は終わることをみんな知っています。

昨年は教会の関係者9件の葬儀がありました。


別れは寂しいけども、死ぬことは悲しいけれども、でもその後に復活があります。完全に罪のない、病気のない、イエスキリストに似た完全な人に変えられて復活します。


1コリント 15:42

朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、(…中略…)

血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。


同じように、それが世界規模で送ります。神様が願っていないものは全部消え去ります。

そして、全てがなくなったように見えて新しい世界が始まります。


どんなに美しく素晴らしいものでも、神様を愛していないものは消え去ります。神様への信頼や感謝から出てないものは消えます。神様の怒りと裁きの対象です。

特に神様に反抗して、神様に頼らず自分達の力、軍事力に頼ることを神様は怒り消し去ります。


それは悪臭を放ち無意味なゴミの山と化していきます。

人間だけでなく、太陽や月や星さえも消えていき、この世界は完全になくなると言います。


イザヤ書 34章2-3節

主がすべての国に向かって激しく怒り、そのすべての軍勢に向かって憤り、彼らを聖絶し、虐殺されるにまかされたからだ。

彼らの殺された者は投げ捨てられ、その死体は悪臭を放ち、山々はその血によって溶ける。"



イザヤ書 34章9~10節

"エドムの川はピッチに、その土は硫黄に変わる。その地は燃えるピッチになる。

それは夜も昼も消えず、その煙はいつまでも立ち上る。そこは代々にわたって廃墟となり、もうそこを通る者はだれもいない。"


ピッチとは原油が高温で溶かされた黒色の液体だそうです。神様の怒りと裁きによってずっと燃え続ける様子が分かります。

いつからこの世界が呪われたのか?最初からです。分厚い聖書、約2000ページの中で、神様が作り、よかったと書いてあるのわ最初の2章、3ページだけです。最初の人アダムとエバが神様を無視した時から、世界は呪われてしまいました。


今もビジネスにはゴミが入ってます。邪悪なものが入ってます。政治にも罪が入っています。神様は人間にこの地球を管理しなさい、自然を愛しなさいと言ったけど、やっぱり僕ら人間は自然を壊して汚してきました。完全なものに変えられるためには全て一度消されます。


イザヤ書 34章4節

"天の万象は朽ち果て、天は巻物のように巻かれる。その万象は枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。いちじくの木から実がしぼんで落ちるように。"


●新しい世界の始まり


この世界は邪悪なもの、つまり、神様を愛し信頼せずに作り上げた人生も街も国も不完全なものは全部消えます。そして、その次に、残された人が、信じて忍耐して待ち望んだ人が回復します。そしてすべての自然界が回復します。


(35章 1-2節)

1,荒野と砂漠は喜び、荒れ地は喜び躍り、サフランのように花を咲かせる。

2,盛んに花を咲かせ、歓喜して歌う。これに、レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光が授けられるので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。


黙示録を読むと、イエス様が地上に来られる素晴らしい統治の時期は、苦しみ患難期の後にあると書かれています。荒れ果てて砂漠のようになってしまった世界が、更地のように全てが破壊された世界が、生き返るのが喜び躍のが35章の預言です。


イザヤ書 35章5~8節


"そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。

そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるからだ。

焼けた地は沢となり、潤いのない地は水の湧くところとなり、ジャッカルが伏したねぐらは葦やパピルスの茂みとなる。

そこに大路があり、その道は「聖なる道」と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、その道を行く者たちのもの。そこを愚か者がさまようことはない。"


新しい世界ではイエス様が王様です。全ての人が完全にされ、もう病気がない世界です。「目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。」

もうメガネも補聴器もいりません。

霊的ば心の目も、心の耳も開けられます。みんな神様のことがわかり、みんな神様の声を聞き、神様に感謝し、喜び叫びながら王であるイエス様のもとに行き、聞き従う世界です。


8節

そこに大路があり、その道は「聖なる道」と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、その道を行く者たちのもの。そこを愚か者がさまようことはない。


イエス様の家にいく大路があります。対面で会えて話を聞くことができるようになります。

もう妨害するものはありません。


イザヤ書 35章9~10節

"そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ることはなく、そこには何も見つからない。贖われた者たちだけがそこを歩む。

主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びを戴く。楽しみと喜びがついて来て、悲しみと嘆きは逃げ去る。"


イエス様と会う世界は対面であり、喜びの歌がいつもある世界です。嘆きや悲しみは消え去っていきます。


もともと神様がお作りになった世界はこのように意図されていました。病気はなかった。悲しみはなかった。叫びはなかった。音楽はいつも神様に感謝し賛美する音楽でした。


個人の終わりが来ます。そして世界の終わりも来ます。

僕らクリスチャンも不完全です。意地悪な時もあるし、病気もあります。人間関係のもつれもあります。肉の欲に勝てないこともあります。僕も未だにもがいています。

でも、邪悪なものは全て死にます。そして新しい体で心で、イエス様に完全に似た人となって復活します。


この世界も同じです。神様に感謝しない社会のシステムとか建築物とか人間の技術、全部消えていきます全部がリセットされ、更地になってからもう一度神様の世界が回復します。


●大切なものはなんですか?


関西学院大学の藤井先生の授業、命の授業です


質問1

目に見える、大切なものや人をあげて下さい。


質問2

大切にしてる活動をあげてください。


藤井先生は、あなたが病気になり年老いていくときに、少しずつ手放していく必要があります。

大切にしていた人や活動全てと別れる日が来ます、と言って死んでいくことの模擬体験を学生にさせる授業です。その授業を通して学生たちは人生について、死についてリアルに考えさせられます。


すべてを手放す日が来ます。でも残るものもあります。


1コリント 13:13

いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。


神様の前に復活し、完全にされるのは信仰と希望と愛です。

大事にしてきたもの、人との関係、大切な活動に神様への信頼や愛があるならそれは永遠に残るものです。


しかしそこに神様への信仰がなく、愛もなく、この世の栄光や力、肉の欲、目の欲ならば、全部消えていきます。ゴミの山になります。


破壊、混乱はあります。この世界は暗くなり「いつまでですか?」と言いたくなります。

でも、神様は耐えることのない試練に合わせることはなさいません。


1コリント 10:13

神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。


長く感じても、必ず脱出があります。もし、戦争や病気や災害で死ぬことがあっても、それでも、死んだとしても僕らは希望を持って復活を待ち望むことができます

だから今日の箇所はいいます。


3節

"弱った手を強め、よろめく膝をしっかりさせよ。

心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ。恐れるな。見よ。あなたがたの神が、復讐が、神の報いがやって来る。神は来て、あなたがたを救われる。」


●再び来るイエス様とそれを伝える私たち


イエス様は盲人を見えるようにし、聾唖者を聴こえるようにし、歩けない人を歩かせるようにしました。

これは、まさに、イザヤ35章に書かれていることはやがて私によって、イエス様によって実現することを証明するものでした。


バプテスマのヨハネは聞きました。


マタイ11.3-5

イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」イエスは彼らに答えられた。(…中略…)「目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。」


ヨハネが聞きたかったことは、旧約聖書イザヤ書に書いてあるように、新しい世界がきて、新しい王が支配する、とあるのはイエス様あなたのことですか?ということです。


そしてその答えは、イザヤ書に書いてある預言が実現している、ということです。つまり、私がそれです、ということです。


イザヤ書にあるように、全て神様に反抗するものは滅ぼされ、そして、新しい世界が起こる希望を語ってくださいました。そうする主権を持っているのは私だ、という意味です。


イエス様はもう一度来られます。

1回目は約2000年前に来られてこのことを伝えました。

このイザヤ書に書かれた裁きと回復が来るということを予告され実証されました。


イエス様の前では病気は去り悪霊は去っていきました。これはキリストが全ての王様である証明です。

そしてこの福音を世界中に伝えなさいと言いっています。


もう一度こられるまでに、王であるイエス様に喜ばれないものは全部消えていくってことを私たちが伝える必要があるんです。そしてまたこの王様によってこの世界は新しくなる、と希望を伝えるんです。福音は良い知らせです。いつ世界の終わりが来るか?いろんな学者が旧約聖書の預言を調べていろんな説明がいあるけど、イエス様の説明はシンプルです。


マタイ 24:14 この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。


だから僕たちはこの福音を伝えるんです。全世界に出て行って伝えなさい、と言われています。


イエス様は自分だけ救われればいいって言ってなかったです。

自分の教会だけ守られるように、自分の家族だけ守られるように、とは教えていないです。


全ての人に伝えなさい、それから終わりが来ます。今日の1節も同じ。


(1)

国々よ、近づいて聞け。諸国の民よ、耳を傾けよ。地とそこに満ちているものよ、聞け。世界とそこから生え出たすべてのものよ。


カイロスコース、世界宣教の学びをしています。

先週はオンラインで2日間びっちりやりました。久しぶりに神学生に戻った感じです。

今週は関西聖書学院に行って対面で3日間学びます。


学びは衝撃的でした、あるデータによると、世界の教会の予算、ほとんどが自分達の教会のため、だけに使っているというデータです。

イエス様はすべての人にこの福音を裁きを悔い改めを救いを世界中に伝えなさいって言ったのに、私たちはほとんどの時間とほとんどのお金を自分のために使っているのが現実です。

誰が伝えるのか?私たちです。先にこの希望の福音を知っている僕らが全ての人に伝える役目を与えられています。


いかに自分の考えが内向きだったか、信仰生活が自分のための賛美、自分の教会の成長のため、もちろんそれも大事だけど、でも、イエス様の願い、神様の願いは、全ての人が救われること、殺されないこと、回復することです。

創世記から黙示録まで、全体を通して教えているのは神様の国の回復です。

これは決定事項です。必ずそうなります。世界はすべて神様のものとなります。邪悪なものは全部滅ぼされます。だから、この間に、まだ裁きが来る前に福音を救いを、伝えなさいと言われています


伝えるのは僕らの役目です。キリストの宣教は僕ら機関である教会の戦況です。用いられますように。全ての人が福音を聞き、神様のところに戻り救われますように。