音楽のAI生成や演奏が当たり前になりつつあって、教会の賛美やアレンジにおいてもAIをどう使うか、どう付き合うかと考えてきました。僕自身、何度もアレンジや演奏で使ってきて、AIは素晴らしく簡単でクオリティーも高いんだけど、何か違うな?って感覚がありました。
それでリバーワーシップの先生方のグループLINEに出してご意見をもらったんだけど、その中で便利だけど補助手段、やっぱ自分で考えるプロセスに意味があるなぁと思わされています。
つまり、アレンジにせよ演奏にせよ、その一つ一つの作業に感謝があり、神様への信頼があり、祈りがあり喜びがあるか、と問われています。
●苦労せずに良いものを見せたい自分
AIを使って喜んでる僕の中に「ラクしたい」「時間をかけたくない」という気持ちがあることも発見です。大袈裟にいうなら「便利さ」という宗教というか、「楽だわー」という偶像のようです。ラクしつつ、かかもクオリティーの高いものを誰かに見せたい、という気持ちです。
これは神様の栄光を求めているのではなくて、やっぱり自分のための作業だなと思いました。
今まで、自分でアレンジして、自分で演奏してそれを収録して、ワーシッププレーヤーというyoutubeチャンネルに上げて共有してきました。楽譜が必要な人のためのアレンジを提供するためのサイトです。
https://www.youtube.com/@worshipplayer6469
で、今回は、殆ど全部自動でAIで讃美歌1番「神の力を」という伝統的な讃美歌のピアノ伴奏を作ってみました。楽譜もAIが作り、そして自分で演奏せずにAIに演奏させた動画をアップしました。
自分でアレンジするよりも上手なアレンジだし、自分の演奏よりもAIの方が上手です。
以前は自分で考え、自分で楽譜を作り、自分で演奏して撮影していました。
全部AIにやってもらうと、早いし上手いけど、そこに霊的な感動がありません。もはや僕自分のアレンジではないし、奉仕でもささげものでもないな、と感じています。いいアレンジだし好きな感じではあるけど、やっぱり機械がやったアレンジは霊的な感動がないです。音楽ではあるけど、賛美ではないな、と思いました。
●そこに愛がないなら虚しい
人間同士の愛、例えば夫婦間の愛でも「自動で機械がやってくれる」は本当の愛じゃないなぁと思いました。
例えば「ありがとう。いつも感謝してるよ」「あなたのこんなことが素晴らしい」とAIに言わせることはできます。僕が心で思ってなくてもです。AIが素晴らしいことばで、僕が思っていないことを表現することはできると思います。悪くはないけど、良くもないというか、そこに心がないし真実ではありません。
愛するために相手に仕え、苦労して奉仕するのも大事です。「ご飯を作る」とか「掃除する」のも義務ではなくイヤイヤでなく、神様と人を愛するためにやるすべきことです。全部それをロボットにやらせて、それをこなしたとしても、そこには愛がありません。むしろ、そこには「なるべく時間をかけたくない」「労力をかけたくない」という本音があると思います。実は「めんどくさい。やりたくない」という気持ちかもしれないし、もしそうなら愛から出た奉仕ではありません。もちろん御霊の働きでもないです。結果は同じでも、上手にできても、そこに愛がなく、御霊によって与えられる喜びも真実さもありません。
1コリント 13:1-3
たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たち
に分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
プレゼントするのも同じです。誰かのために服を選ぶとか小物を選ぶとか。相手のことを考えて、想像して、選ぶプロセスにすでに愛があります。その一つ一つが愛の行為です。全部スキップして、AIが自動的に分析して選んだものが宅急便で届くの、悪くないけど良くもないと思います。
さらに、夫婦が手をつなぐ、ハグをする、キスをする、それをAIに任せるようになったらもう終わりです。気持ち悪いです。ポルノはそうさせようとすると思います。
●心からの感謝と賛美 心を尽くし、思いを尽くし…
不器用でも、賢くなくても、神様が願っておられるのはそこに心があったかどうかです。
そこに感謝があったってことかです。
AIほど素敵なアレンジしなくてもいい。演奏もAIみたいに完璧じゃなくていい。
むしろ、不器用でも、神様のことを思って、神様を愛して、神様がしてくださったたくさんのめぐみを思い出して、一生懸命練習した、というプロセスを喜んでくださると思います。
人前でラッパを吹いて、目立つこと、上手なことをアピールするよりも、誰も見てなくても、右の手がしたことを左の手に知られなくても、神様を愛して、人を愛して、ささげたことを喜んでくださいます。
お金持ちが余っているお金をこれ見よがしに捧げるよりも、相手にされないようなやもめがレプタ2枚だけをささげる方が、神様にとって喜びです。
神様のために時間を使って時間がかかって、でもあまり上手くいかなかったとしても、その方が喜ばれます。ラクしていい音を出すかどうかよりも、
「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(マルコ12:30)とおっしゃる神様の前にどうだったか?が問われます。
フルでAIが作ったピアノのアレンジ動画を見たとき、あぁ僕は何も神様に捧げてないな、と思いました。
もっとシンプルでも、派手じゃなくても、自分で考えて弾いて、自分で歌ったほうがやっぱりいいです。神様が預けてくださったタラントを心を尽く、思いを尽くし、力と知性を使ったかどうかです。
人によって預かってる量は違うので、周りと比較しなくていいし、AIのように完璧でなくて良いです。大事なのは、犠牲を払って、力を使って、知性を使って、思いを尽くして賛美したかどうかです。ラクじゃなくてOKです。神様のための労苦は将来の栄光につながっています。
"ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。"
コリント人への手紙 第一 15章58節
神様のために時間がなくなった、神様のために疲れた、神様のために頭使った、神様のためにお金使った、それらは尊いことです。
"私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。
私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。"
コリント人への手紙 第二 4章17~18節
●信仰によってささげることの大切さ。
創世記4章でカインが作物を作って神様にささげた、とあります。アベルも子羊を飼っていたので、ささげました。ところが、二人とも神様にささげたんだけど、神様が目をとめない、受け入れてくれないささげもの、ってあるようです。
"しばらく時が過ぎて、カインは大地の実りを主へのささげ物として持って来た。
アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。主はアベルとそのささげ物に目を留められた。
しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それでカインは激しく怒り、顔を伏せた。"
創世記 4章3~5節
神様は作物を持ってきたカインのささげものには目をとめなかったとあります。どうしてでしょう?この答えが新約聖書ヘブル人への手紙にあります。
"信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に献げ、そのいけにえによって、彼が正しい人であることが証しされました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だと証ししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって今もなお語っています。
…中略…
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。"
ヘブル人への手紙 11章4~6節
アベルは「信仰によって」すぐれたいけにをささげた、とあります。神様への愛と信頼の中でささげました。逆に、カインは作物は持ってきたけど、「信仰によって」とは書いていません。神様への愛も信頼もないまま、ただ持ってきたようです。
信仰とは、神様がいること、報いてくださること、それを喜び期待し信じることです。
カインにはその信頼と期待がなかったようです。カタチだけでささげました。神様はそれを受け入れることはありませんでした。結局カインは怒って、弟を殺します。
●神様と一緒に、そして仲間と一緒に
もう一つ大事な視点は、一緒に苦労し、助け合う仲間の存在です。仲間と一緒に助け合いながら知恵を出し合いながら心を合わせ、声を合わせて協力して賛美することです。
神様を知らない世界は、なるべく人間をスキップして効率と結果を出すことだけが良いことだと言います。できない人を否定し、無価値だと思わせて苦しめます。
AIで効率よく作り上げる賛美に、一緒に考えたり賛美する教会の仲間がいてくれることの喜びや愛があるのか、という疑問も大事です。仲間と一緒に協力することをスキップしたアレンジは神様にとって喜びなんだろうか?という疑問が僕にはありました。
教会の仲間の存在の喜びがないままなら虚しいものです。僕らはズレて行きます。
神様は、能力としては神様だけで世界を支配できるし、伝道も宣教もできるし、なんでもできます。でも、小さな僕ら一人ひとりに役目を預けて尊重してくださいます。神様の似姿に人を作り、「人がひとりでいるのは良くない」と言われます。神様が願っておられるのは互いに愛し合うことです。特に力のない人、知恵のない人が尊ばれて喜ばれていることです。また罪や欠点のある人が赦され、互いに受け入れて生きていることです。
もし僕らが神様を忘れてAI技術や効率を求めた結果、誰かが置いてきぼりにされているなら、神様の願いとは逆です。
(1コリント1章26-29節)
26,兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
27,しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。
28,有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。
29,肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。
だからやっぱり一緒に考えましょう。曲のアイディアとか考えとかスキルとか技術とか、分け合いましょう。このAIの技術も分け合いましょう。人を切ったりするためでなく、人の助けのために用いる、ということです。AIが悪いのではなくて、愛し合い助け合わなくなることが悪いのです。
●まとめ フルAIアレンジをして思ったこと
このAIの楽譜を見て演奏する人は、そこに信仰持って感謝を持って演奏するのがいいと思います。僕がこれを作った時、この楽譜を見て弾いてくれる人がいたし、その人にとってはすごい助けになったそうです。だからAIを使って助け合うことはできます。
問題はそこに愛があるか、信頼が、信仰があるか、です。時間がかかって、疲れた、というのは、尊いことです。そこに神様の喜びがあり、報いもあります。「自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っている」と聖書は言います。(1コリント15章58節)
AIを使うのはダメか、いいか、ではなく、そこに神様への愛があるか、信仰があるか、感謝があるか、です。便利なAIを使うのは良いけど、それで神様にささげる心が減らないように、と思います。
AIを使うんだったらちゃんと心を尽くして使うのが良いと思います。
単なるタイパ、コスパでなく、ラクしたい、ではなく、神様のための愛のささげものになってるかどうか確認する必要があると思います。
効率悪くても、祈りながら、一つ一つ感謝しながら、試行錯誤しながAIを使って神様にささげましょう。
スマホが罪の道具にもなるし、人を愛する道具にもなるのと同じです。AIアレンジ、AI作曲は神様を愛する道具にもなるし、感謝を奪うものにもなります。
そこに神様への愛があるか、感謝があるか。人への愛と尊敬があるかどうか。問われています。