2026年10月12日月曜日

2歴代34.18-35.19

 2歴代34.18-35.19


他人に無関心な時代、個人主義の時代かもしれませんが、神様が願っておられるのは、僕らが一人ひとりバラバラに信仰生活を送ることでなく、みんなが神様に従えるように支え合うことです。互いに関心を持ち、愛し、支え合うことが本来の神様に似せて作られた人間の姿です。

これは礼拝する時も同じです。自分だけが礼拝するのではなく、みんなが一つになって礼拝するようにと神様が願っておられます。


ヨシヤ王は国を神様に立ち返らせ、「もう一度過越の祭りを行いたい」と考えました。が、それは「個人的に」ではなく「国全体が」神様を礼拝することです。

彼はただ命令したり指示するだけではなくて、自分の財産から、羊ややぎの子を3万匹、牛を3千頭も提供しました。自分の持っているものを使って人々が過越のいけにえをささげることができるようにしています。



"ヨシヤは民の者たちに、群れの中から子羊とやぎの子を提供した。これらはみな、そこにいたすべての人の過越のいけにえのためであった。その数は三万匹、牛は三千頭。これらは王の財産の中から出された。"

歴代誌 第二 35章7節



他の人たちの分まで準備する姿勢は高官たちにも影響を与えました。彼らも王様と同じように「周りの人たちが礼拝できるように」自分の財産を提供し始めました。



"王の高官たちも、民、祭司、レビ人のために、進んで献げるものを提供した。神の宮のつかさたち、ヒルキヤ、ゼカリヤ、エヒエルも、祭司たちに過越のいけにえとして羊二千六百匹、牛三百頭を与えた。"

歴代誌 第二 35章8節



ヨシヤ王の姿は僕らのお手本です。彼は自分だけの礼拝とは思わず、みんなが礼拝することを願い、そのために準備をしました。また、人々を他人とは思わず、神様につながる共同の体と思っていたことがわかります。

この姿勢は奉仕者全体に及び、互いに助け合って準備する文化ができました。

門衛を担当する人たちも、賛美を担当する人たちも、それぞれ持ち場を離れず奉仕に集中するために、他の人たちが必要な用意をしました。お互いに役割は違いますが、一緒に神様を礼拝するために支え合っていたことがわかります。



"アサフの子孫である歌い手たちは、ダビデ、アサフ、ヘマン、および王の先見者エドトンの命令のとおりにその役目に就いていた。また、門衛たちはそれぞれの門を守っていた。彼らのうちだれも、その奉仕を離れる必要がなかった。彼らの兄弟であるレビ人が彼らのための用意をしたからである。

こうしてその日、ヨシヤ王の命令のとおりに、主の祭壇で過越のいけにえを献げ、全焼のささげ物を献げるための、主への奉仕の用意はすべて整った。"

歴代誌 第二 35章15~16節



教会にはいろいろな奉仕があって、賛美をする人もいれば、子どもたちを担当する人もいれば、食事を準備する人もいます。役割は違いますが、それぞれが助け合うことも、神様への大切な奉仕です。


そしてまた、お互いのことを自分のことのように考えるのは、他人が失敗した時も同じです。

ヨシヤ王は親の世代の罪や失敗を、「自分たちの罪」として心を痛めて悲しみ、神様の前で悔い改めて祈っています。



「行って、見つかった書物のことばについて、私のため、イスラエルとユダの残りの者のために、主を求めよ。私たちの先祖が主のことばを守らず、すべてこの書に記されているとおりに行わなかったために、私たちの上に注がれた主の憤りが激しいからだ。」"

歴代誌 第二 34章20~21節



"あなたがこの場所とその住民について神のことばを聞いたとき、あなたは心を痛めて神の前にへりくだり、わたしの前にへりくだって自分の衣を引き裂き、わたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる──主のことば──。"

歴代誌 第二 34章27節



僕らは誰かが罪を犯した時「あの人が悪い」で終わりがちです。でも、他人の罪を責めるだけでなく、一緒にへりくだって悔い改めることはイエス様の願いです。イエス様が祈りを教えてくださった時、「わたし」の罪をお赦しださい、ではなく、「わたしたち」の罪をお赦しください、と祈るように教えてくださいました。(ルカ11.4)

互いの欠点や互いが犯した罪も裁き合うのではなく、一緒にイエス様のもとで告白します。

「自分だけ良ければいい」「あいつが悪い」ではありません。教会はキリストの体、共同体です。「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。」(1コリント12.27)


ヨシヤ王のお手本は、礼拝が個人ではなく、みんな礼拝できるように支えあう人だったことです。

そして、他の人の問題も自分の問題として受け止め、一緒に祈ることです。

自分だけが神様に従うのではなく、人々みんなが神様に従うことができるように願っていたことがわかります。


神様の願いは「自分さえよければいい」とは違います。御霊が僕らを一つにさせてくださいます。初代の教会は聖霊に満たされていました。そして、「信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。」(使徒4.32)

神様、僕らの心を神様の心にしてください。無関心や個人主義ではなく、イエス様が願う一つの体とさせてください。イエス様だけが変えてくださると信じてお願いします。

2026年10月9日金曜日

--聖書を開いて神に『聴く』祈りの勧め--に参加して教えられたこと。

 日本聖書協会・聖書セミナー

--聖書を開いて神に『聴く』祈りの勧め--に参加して教えられたこと。


音楽ゲストで参加させてもらったんですが、講師のカトリック片柳神父様のお話がめちゃくちゃよかったです。おこがましいけど、いつも思っていること感じてることをまとめてくれた!って気持ちでした。

カトリックの指導者たちがこんなに聖霊の働きを大切にし、神様との霊的な交わりを求めている大切していることを間近で知ることができてすごく嬉しかったです。知りもせずに「カトリックは儀式的なんじゃないか」「式文の形、定型文みたいに祈ってるだけじゃないか」ってなんとなく思っていたことを恥ずかしく思いました。すっごく霊的で真実な神様との交わり求めていて、しかも聖書の御言葉を「今、目の前で生きておられるイエス様の言葉」として聞き、リアルな交わりを求めていることを知りました。


それで、特に共感したところ書いておくことにしました。「僕が」共感したところ、感じたことなので、講師の意図したこととずれている可能性もありつつです。自分のための記録です。


⚫︎その1 心の奥で聞くこと。


自分の心の動きにも神様の働きがある。神様は私たちの知らない心の奥を私たちに知らせようとしておられる。


そのためには、まず「自分に聞く」と言う段階もすごく大事にしておられました。

例えば「どうしてこの御言葉に、私は関心がないんだろう」

「どうして私は、この御言葉に感動するんだろう」「どうして聖書読みたくないんだろう」など。


神様は、僕らの心の奥の奥まで知っておられて、表面的な感じ方の奥には、もっと深い自分も知らない本当のニーズがあり、本当に自分が求めていることがあり、同時にその奥に必ず内住の聖霊がおられて、私たちに語りかけようとしておられる。


例えば、「私は時計が欲しい」「でもどうして欲しいんだろう」神様に聞くうちに「私は忙しくて時間が欲しかったんだ」と本当の自分の願いを示されることがある。


「会社で出世したい」と言う願いの奥に「父親に認めて欲しい」と言う本当の気持ちが示されることがある。


欲望を満たしただけでは、その後でも虚しさが残ります。僕らの本当の必要は、霊的な満たしです。

でも霊的な神様との交わりが満たされると、そこには無くなることのない平安と喜びがあります。


本当にうわべだけではなく、神様との深い交わりをするためには、そして御言葉と御霊に満たされるためには、まず自分が抱えている思いとか、考えとか、欲望とかを一度脇において、一旦心を空っぽにする必要があります。コップにすでに余計なものが入ってたら水が入らないのと同じです。

心を明け渡し、空っぽにした時にその時に神様の御言葉が、そして神様の愛が、神様の御霊が注がれます。


マザーテレサの言葉です。

「神は、すでにいっぱいのものを満たすことができません。空っぽの心だけを満たすことができるのです。大切なのなのは、どれだけ持っているかではありません。どれだけ空っぽかなのです。自分ばかり見るのを止め、自分が何も持っていないこと、何者でもないこと。何もできないことを喜びなさい。」


「折りとは、求めることではありません。祈りとは自分を神さまの手に委ね、心の奥深くから語りかける神さまの声に耳を傾けるということなのです。心の中で神さまの声を聞き、神さまに語りかける。祈りとは神さまとの対話なのです。」


⚫︎その2 説教とその準備はイエス様との息がかかりそうな交わりであること


今回のお話は説教の準備のためだなあ、って思いました。

僕もメッセージをするものとして、すごく教えられたし、もう一度原点に戻された気がします。


片柳神父様の言葉にすごく共感しました。

「知的な理解をしただけでは、相手にも知的な理解しか届かない」

「深く心で理解した事は、相手の心の深いところまで届く」

本当にそうだなぁと思わされました


「説教しようとするものは、まず御言葉によって、心を動かされ、自分の具体的な日常生活の中に御言葉が受肉するようにしなければなりません」(教皇フランシスコ 使徒的勧告『福音の喜び』)


霊的な聖書の読み方の4つの段階→これはまさに説教の準備だなぁと思わされました。


(1)レクティオ(読書)lectio

①頭で読む⋯テキストに何が書かれているかを理解する。分からない言葉や表現について

は、注解書などを参照する。

「イエスは、二千年前に、ガリラヤで、弟子たちに何を語ったのか。」


②心で読む⋯頭で理解したことを、心にしみこませていく。ゆっくり時間をかけ、テキス

トの言葉を自分自身に今ここで語りかけられた言葉として聞く。

「イエスは、いま、ここで、わたしに何を語っているのか。」


(2)メディタティオ(黙想)meditation

聖書を通して呼びかけておられる、神さまの声に耳を傾ける。この箇所を通して、神さ

まはいま、わたしに何を伝えたいのか。


(3)オラティオ(祈り)oratio

受け取ったメッセージへの自然な応答として、悔い改めの祈りや感謝の祈り、聖霊の助

けを求める祈りなどが生まれる。


(4)コンテンプラティオ(観想)contemplatio

イエスとの対話を続けるうちに、目の前にいまイエスがいることを感じられるようにな

る。イエスの息遣いやぬくもりを感じながら、沈黙のうちにイエスととどまる。


特に最後の「目の前にいまイエスがいることを感じられるようにな

る。イエスの息遣いやぬくもりを感じながら」は本当にそうなりたいな、って思わされていることです。

カトリックの先輩たちは本当にイエス様とのリアルな、息がかかりそうな交わりを求めていることがわかります。


「祈りの親密さの中で、イエスはあなたたちの目を覗き込み、あなたたちの心に語りかけるのです。」(ヨハネ・パウロ2世)


「あなたたちは、イエスが語りかける愛情のこもった言葉を聞いありますか。あなたたちは、生きているキリストを知っていますか。本によってではなく、心の中でイエスと共にとどまることによって。」(マザー・テレサ)


⚫︎その3 教会の会議が祈りであること


新しい教皇が進めている会議の改革、すごく共感というか、おこがましいけど、僕もいつも考えていることでした。


「自分の意見を主張し合うだけの会議には意味がない、時間の無駄」

「会議そのものが祈りの場所になるように」

そのために従来のピラミッド型の会議をやめて小グループに分けて、教皇も枢機卿もシスターも関係なく

①「まず私が神様に聞く」「祈りの中で、神様から示されたこと、感じたことを分かち合う」

②「次に、仲間の心を通して、仲間が神様から与えられ教えられ感じていることを通して神様に耳を傾ける」

③「お互いに神様の声を聞きながら、一緒に歩んでいく道を探していく」

という3つのステップを大切にしているそうです。


これはどんな教会の会議も、そしてどんなカウンセリングも同じだなぁと思わされました。

2026年10月8日木曜日

2歴代32.20-33

 2歴代32.20-33


「人はうわべを見るが、主は心を見る」という言葉があります。(第一サムエル記16章7節)

僕ら人間は、他人の実績とか成功とか持ち物とか能力とかで判断しがちです。でも、神様が関心を持っておられるのは、その人の「心」です。今日のヒゼキヤの出来事も神様の関心は「心」です。


ヒゼキヤはめちゃくちゃ祝福された人です。

偶像で汚れきった国中から偶像を取り除き、神殿の扉を開け、礼拝や賛美を回復させ、過越の祭りを再開させた人です。大国アッシリアに包囲されて脅されても、神様に祈り、叫び、救い出してもらいました。

こんなに祝福された人は、ほかにいないんじゃない?というレベルです。



「主は御使いを遣わして、アッシリアの王の陣営にいたすべての勇士、指揮官、隊長を全滅させた。アッシリアの王は恥じて国へ帰り、自分の神の宮に入った。そのとき、自分の身から生まれ出た者たちが、そこで彼を剣にかけて倒した。」

(歴代誌第二32章21節)


「多くの人々が、主へのささげ物やユダの王ヒゼキヤに贈る選りすぐりの品々を携えて、エルサレムに来るようになった。この時以来、ヒゼキヤはすべての国々から尊敬の目で見られるようになった。」

(歴代誌第二32章23節)



その財産はすごかったようです。



「ヒゼキヤは非常に多くの富と誉れを手にした。彼は、銀、金、宝石、バルサム油、盾、すべての尊い器を納める宝物倉、

穀物、新しいぶどう酒、油などの産物のための倉庫、さらに、あらゆる家畜のための小屋や、羊の群れの囲いを造った。

彼は町々を建て、羊や牛の群れもおびただしい数であった。神が、実に豊かな財産を彼に与えられたからである。」

(歴代誌第二32章27~29節)



死にかけるような病気になったときも、神様に祈ると、彼は癒されました。



「そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。彼が主に祈ったとき、主は彼に答え、しるしを与えられた。」

(歴代誌第二32章24節)



こんなに祝福されていたら「神様ってヒゼキヤのことをすごく喜んでいたんだろうな」って思います。ところが、聖書が注目しているのは「彼がどれだけ成功したか」ではありません。神様が見ているのは「彼の心」です。つまり彼が「この祝福にどう答えたか」です。25節には、彼が「心を高ぶらせた」と書かれています。



「ところがヒゼキヤは、自分に与えられた恵みに応えようとせず、かえってその心を高ぶらせたので、彼の上に、また、ユダとエルサレムの上に御怒りが下った。」

(歴代誌第二32章25節)



祝福されていることと、「神様の前でどんな心か」は別問題です。大事なのは神様がしてくださった恵みを数えて神様に栄光と感謝をささげることです。

大きな祝福を受けた時には、ますます感謝と賛美をささげ、栄光をお返しする責任があります。人はうまくいくと「自分のおかげ」と高ぶりやすくなるからです。最初から最後まで、全部が神様から与えられた恵みです。

聖書は「多く与えられた人は多く求められます」いいます。(ルカ12.48)多くの恵みを受けた人は、その恵みに感謝して栄光と主権を神様にお返しすることが求められます。

ヒゼキヤが「恵みに応えようとせず、かえってその心を高ぶらせた」とき、神様は分かりやすく怒りを示してくださり、ヒゼキヤは悔い改めました。



「しかし、ヒゼキヤがその心の高ぶりを捨ててへりくだり、彼もエルサレムの住民もそうしたので、主の御怒りは、ヒゼキヤの時代には彼らの上に臨まなかった。」

(歴代誌第二32章26節)



僕らが祝福されて、財産が増えたり、祈りが聴かれたりして上手くいくのは素晴らしいことです。

でも、もっと大事なことは、神様への感謝が増えていき、神様への賛美が増えていくことです。神様は心をご覧になります。ことがうまく行った時、人から認められた時こそ神様に感謝し賛美し、栄光をお返する時です。自分を高くし、誇りたくなる時だからです。

ヒゼキヤは祝福され、その噂は周辺諸国に広がり、尊敬され、見学に来る国もありました。来訪者はヒゼキヤをほめ、尊敬を表します。ほめられるのは悪いことじゃないけど、そんな時こそ高ぶりの誘惑が迫っています。聖書は外国からの来客を使って「彼を試みて、その心にあることすべてを知ろうと」したと言います。



「ただし、バビロンの首長たちが、この地に示されたしるしについて調べるために彼のもとに使節を遣わしたとき、神は彼を試みて、その心にあることすべてを知ろうとして彼を捨て置かれた。」

(歴代誌第二32章31節)


ヒゼキヤは高ぶりましたが、それを認めて悔い改めます。「ヒゼキヤがその心の高ぶりを捨ててへりくだり、彼もエルサレムの住民もそうしたので、主の御怒りは、ヒゼキヤの時代には彼らの上に臨まなかった。」(26節)


僕らも正直に認めましょう。感謝していないこと、高ぶっていること、そのような自分の足りなさを、今日も告白しましょう。不完全な僕たちを赦し、義としてくださるのは、ただイエス様の十字架の血によります。十字架以外には、僕たちには誇りはありません。高ぶることなく感謝しましょう。ハレルヤ!

2026年10月7日水曜日

2歴代32.1-19

 2歴代32.1-19