2026年10月1日木曜日

2歴代26-27章

 2歴代26-27章  

2026年9月30日水曜日

2歴代25章

 2歴代25章


どんな状況の時にも神様に聞き、神様と一緒に歩むのが僕らの人生、しかも祝福された人生です。特に大事なのは上手くいってる時に神様に聞き、感謝し、従うことです。


僕らは弱いときには、神様を求め、神様の言葉を聞こうとしますが、成功したときには神様ではなく、「俺はやったぜ」「俺はできる」と高慢になり、神様に聞かなくなってきます。


アマツヤは、わかりやすく戦争に勝つ前と勝った後で態度が変わります。


エドムとの戦いの前には、預言者からの言葉を聞き、それに従います。


預言者は、雇った兵士を帰すように言います。神様が敵をつまづかせて勝たせてくださるからです。アマツヤは100タラントもの大金を無駄にしてでも神様の言葉に従う謙遜さがありました。



“アマツヤはユダの人々を召集し、ユダ族およびベニヤミン族の全員を、父祖の家ごとに、千人隊の長、百人隊の長の下に配属した。二十歳以上の者を登録すると、槍と大盾を手にして従軍する兵が三十万人いることが分かった。

さらに、彼はイスラエルから、銀百タラントで十万人の勇士を雇った。

すると、神の人が彼のもとに来て言った。「王よ、イスラエルの軍勢をあなたとともに行かせてはなりません。主は、イスラエル、すなわちエフライムのいかなる人々とも、ともにおられないからです。

しかし、もしあなたが行くのなら、そうしなさい。雄々しく戦いなさい。神はあなたを敵の前につまずかせられます。神には、助ける力も、つまずかせる力もあるからです。」”

歴代誌 第二 25章5~8節



神様がおっしゃった通りにアマツヤは勝利します。この勝利はアマツヤ自身の力によるものではなく、神様が与えてくださった勝利でした。

ところが、彼は勝った途端に偶像を拝み始めます。その間違いを注意した預言者の話をさえぎり、打ち切り、聞こうともしません。



“アマツヤがエドム人を討って帰って来た後のこと、彼はセイル人の神々を持って来て、それらを自分の神々として立てた。彼はその前で伏し拝み、犠牲を供えていた。

すると、主はアマツヤに向かって怒りを燃やし、彼のもとに預言者を遣わして言われた。「なぜあなたは、あなたの手から自分の民を救い出すこともできないような神々を求めたのか。」

彼が王にまだ話している最中に、王は彼に言った。「われわれはおまえを王の助言者にしたか。やめよ。なぜ、打ち殺されるようなことをするのか。」そこで、預言者は話すのをやめたが、こう言った。「私は、神があなたを滅ぼそうと計画しておられるのを知りました。あなたがこのことを行い、私の勧めを聞かなかったからです。」”

歴代誌 第二 25章14~16節



不安なときには神様の御言葉を聞きました。従うこともできました。でも、強くなったときには神様の言葉を聞けなくなってしまいます。


人の忠告を聞けなくなってしまった王は、無謀な戦争を始めます。警告を受けても聞き入れません。



“あなたは、『どうだ、自分はエドムを討った』と言って、心高ぶり、誇っている。今は自分の家にとどまっていなさい。なぜ、あえてわざわいを引き起こし、あなたもユダもともに倒れようとするのか。」

しかし、アマツヤは聞き入れなかった。それは神から出たことであって、彼らを敵の手に渡すためであった。彼らがエドムの神々を求めたからである。”

歴代誌 第二 25章19~20節



うまくいき始めると、自分の経験とか自分の力でできると思い、神様に聞くよりも、自分の考えや力ら、そして世の中のものを求めるようになっていきます、神様との距離は離れていき、祝福も失っていきます。


アマツヤはそのようにして最後は殺されてしまいました。



“アマツヤが主に従うことから離れたとき、エルサレムで人々が彼に対して謀反を企てた。彼はラキシュに逃げたが、人々はラキシュに追っ手を送り、そこで彼を殺した。”

歴代誌 第二 25章27節



今日も食べるにも、飲むにも、何をするにも、すべてのことで神様に求め、神様に聞いていきますように。


調子がいい時こそ神様を求め、感謝を捧げ、栄光と賛美を捧げますように。勝利した後こそ、神様に聞き続ける僕らでありますように。


2026年9月29日火曜日

2歴代24章

 2歴代24章


教会育ちの子の段階を、親信仰→友達信仰→自立信仰と分類することがあります。


小さい子は親に連れられて教会に行きます。よくわからないけど、それが当たり前、と言う感じです。これが親信仰です


そのうちに”友達がいるから”とか”仲間がいるから、楽しいから”など、友達や仲間に支えられての信仰になったりします。これが友達信仰です。


僕らが目指すのは、自立信仰です。親でも友達でもなく、自分と神様との関係がしっかりし、強く太くなり、自分で神様に聞いて従うような「神様ダイレクト」の関係です。これが自立信仰です。


7歳で王様になったヨアシュはまさに親信仰でした。自分から神様に聞いて国を導く、という力がありません。祭司エホヤダが親です。エホヤダは悪女アタルヤを殺し、偶像礼拝から神様を礼拝する国にいのちがけで改革しためちゃくちゃ強い指導者です。


この指導者エホヤダがいる間は、少年ヨアシュ王も神様に従うことができました。



"ヨアシュは、祭司エホヤダが生きている間は、主の目にかなうことを行った。"

歴代誌 第二 24章2節



人々は神様よりも、ヨアシュ王よりも”エホヤダ”に従っていました。王が「神殿を再建する!」と掛け声をかけても、あまり人々は動きません。



"その後のことであった。ヨアシュは主の宮を新しくすることを志し、

祭司とレビ人を集めて、彼らに言った。「ユダの町々へ出て行き、あなたがたの神の宮を毎年修繕するために、全イスラエルから金を集めて来なさい。あなたがたは急いでそのことをしなければならない。」ところが、レビ人は急がなかった。"

歴代誌 第二 24章4~5節



実際この国を動かしていたエホヤダに王がお願いし、エホヤダが人々に命令すると国は動き、神殿を建てなおすことができました。



"そこで王は、かしらであるエホヤダを呼んで、彼に言った。「なぜあなたはレビ人に要求して、主のしもべモーセとイスラエルの会衆があかしの天幕のために定めた税金を、ユダとエルサレムから持って来させないのですか。」"

歴代誌 第二 24章6節



"彼らは、神のしもべモーセが荒野でイスラエルに定めた税金を主のもとに持って来るように、ユダとエルサレムに布告した。

すべての首長たちとすべての民は喜んでそれを持って来て、あふれるまで箱に投げ入れた。

その箱がレビ人によって王の役所に運ばれるたびに、多くの金額があることが確認されると、王の書記と祭司のかしらに仕える管理人が来て箱を空にした。そして、それを持って行って元の場所に戻した。彼らは毎日このように行い、多くの献金を集めた。

王とエホヤダは、これを主の宮の奉仕の働きをする者に渡した。彼らは、主の宮を新しくするために石切り工と大工を雇い、さらに、主の宮を修繕するために鉄と青銅の職人を雇った。

仕事をする者は仕事をし、彼らの手によって修復作業が進んだ。彼らは、神の宮を元のとおりに建て、これを補強した。

工事が終わると、彼らは残った金を王とエホヤダの前に持って来た。その金で、主の宮の用具、すなわち、儀式や全焼のささげ物の用具、深皿、金銀の器が作られた。エホヤダが生きている間、主の宮では絶えず全焼のささげ物が献げられた。"

歴代誌 第二 24章9~14節



エホヤダがいる間はこの国は守られました。

問題はこの祭司エホヤダが死んでしまった後です。


ヨアシュ王は自立信仰には至ってません。指導してくれる強い人を失った彼は周りの言いなりです。国は再び偶像礼拝に流されていきます。



"エホヤダは老年を迎え、長寿を全うして死んだ。死んだとき、彼は百三十歳であった。

彼はダビデの町に王たちとともに葬られた。彼がイスラエルにおいて、神とその宮に対して良いことを行ったからである。

エホヤダの死後、ユダの首長たちが来て、王を伏し拝んだ。それで、王は彼らの言うことを聞き入れた。

彼らは父祖の神、主の宮を捨て、アシェラと偶像に仕えた。彼らのこの罪過のゆえに、御怒りがユダとエルサレムの上に下った。"

歴代誌 第二 24章15~18節



「教育とは魚を与えることではなく、魚の釣り方を教えること」とよく言われます。ヨアシュ王は神様の言葉を与えられていたけれども、「自分で神様のところに行き、自分で御言葉を求め聞き従う方法」は学んでいなかったようです。


僕らが目指すは自立信仰です。

僕らが子どもたちに、次の世代に教えるのも自立信仰です。もちろん仲間は大事です。それでも「神様ダイレクト」を目指します。そうでないといつも状況に振り回され、周りに振り回されてしまいます。


今日も、僕らが直接、神様に聞き、従いますように。

状況がかわっても、指導者が変わっても、ブレることなく、神様に聞き、確信を持って歩むことができますように。


2026年9月24日木曜日

2歴代20.14-30

 2歴代20.14-30

2026年9月23日水曜日

2歴代19.5-20.19

2歴代19.5-20.19


人の顔色を見て動くのは疲れます。でも神様のために動くのは喜びがあります。

ヨシャファテ王は裁判官を任命するときに、人のためではなく、神様のために仕事をするように言いました。

大事なのは「誰の顔を見て動くのか」です。裁判官は神様を恐れて判断します。ヨシャファテはそのように国を指導しました。




(19.5-7)

6,彼はさばき人たちにこう言った。「あなたがたは自分のすることに注意しなさい。あなたがたがさばくのは、人のためではなく、主のためだからだ。この方は、さばきが行われるとき、あなたがたとともにおられる。

7,今、主への恐れがあなたがたにあるように。忠実に行いなさい。私たちの神、主には、不正をすることも、えこひいきをすることも、賄賂を取ることもないからだ。」


会社でも、教会でも、学校でも、町内会でも、「この人に気に入られておけば大丈夫」「この人に聞けば大丈夫」みたいな人がいるかもしれません。でもそれは虚しいし不安定だし疲れます。僕らが求めるべきは神様です。神様のために仕事をし、神様に聞き、神様の判断で決断します。そこには天からの喜びと祝福と平安があります。

ヨシャファテは、19章では平和な時に神様を恐れて判断する国を作ろうとし、20章では危機の中でも神様を求めます。

平和な時に神様を誰よりも求める国の文化ができると、危機的な状況の中でも同じように神様を第一に求めることができます。

トラブル時に僕らはあたふたするけど、ヨシャファテとこの国は徹底して「神様を求め、神様の御心に従う国」でした。

敵が攻めてきた時に国民全員はまず第一に神様を求めて断食して祈りました。「ユダの人々はみな主の前に立っていた。」とあります。(13)



"その後のことであった。モアブ人とアンモン人、および彼らに合流した一部のアンモン人が、ヨシャファテと戦おうとして攻めて来た。"

歴代誌 第二 20章1節



"ヨシャファテは恐れた。そして心に決めて主を求め、ユダの全土に断食を呼びかけた。

ユダの人々は集まって来て、主の助けを求めた。実にユダのすべての町から人々が来て、主を求めたのである。"

歴代誌 第二 20章3~4節



ヨシャファテは国の代表として人々の前で神様に祈ります。

今置かれている危機的状況をちゃんと言葉にして神様に訴えます。

そして「私たちには力がありません」と告白します。



"ご覧ください。彼らが私たちにしようとしていることを。彼らは、あなたが私たちに相続させてくださったあなたの所有地から、私たちを追い払おうとしてやって来たのです。

私たちの神よ。彼らをさばいてくださらないのですか。攻めて来るこの大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいのか分かりません。ただ、あなたに目を注ぐのみです。」

ユダの人々はみな主の前に立っていた。彼らの幼子たち、妻たち、子どもたちもともにいた。"

歴代誌 第二 20章11~13節



知恵も力も神様からのものです。19章で裁判官たちは自分の判断でなく神様の判断を求めたように、有事の際もその姿勢は同じでした。

僕らの人生も平和な時も危機的な時もあります。両方とも主権者は神様です。人の判断が中心ではなく、神様のみことばに聞き従います。

普通、敵が攻めてきたら「どう戦う?」「交渉できる?」などと考えますが、ヨシャファテは「私たちとしては、どうすればよいのか分かりません。ただ、あなたに目を注ぐのみです。」と求めて祈っています。

神様には力も知恵もあります。神様に求めるときに、神様は必ず必要な答えをくださいます。

この時も神様は預言者を通して勝利の約束を与えてくださいました。



"ときに、主の霊が会衆の中で、アサフ族の出であるレビ人ヤハジエルの上に臨んだ。彼はマタンヤの子エイエルの子ベナヤの子ゼカリヤの子である。

彼は言った。「ユダのすべての人々、エルサレムの住民、およびヨシャファテ王よ、よく聞いてください。主はあなたがたにこう言われます。『この大軍のゆえに恐れてはならない。おののいてはならない。これはあなたがたの戦いではなく、神の戦いである。

明日、彼らのところに攻め下れ。見よ、彼らはツィツの坂を上って来る。あなたがたはエルエルの荒野の前、谷の外れで彼らに出会う。

この戦いは、あなたがたが戦うのではない。堅く立って、あなたがたとともにおられる主の救いを見よ。ユダとエルサレムよ、恐れてはならない。おののいてはならない。明日、彼らに向かって出陣せよ。主はあなたがたとともにおられる。』」"

歴代誌 第二 20章14~17節



今日も神様を求める日でありますように。

仕事でも、人間関係でも、将来のことも、何をするにも神様を求め、神様のため動き、そして、神様に従う日でありますように。「どうしたらいいかわからない」のは恥でも悪でもありません。神様を求めますように。ハレルヤ!

2026年9月22日火曜日

2歴代18章

 2歴代18章

「神様から悪い霊を送ることがあるの?」

「それはないはず…」

と言いたいところですが、答えは「ある」です。

神様が「悪い霊」「惑わす霊」を送ったり、許可したりする箇所がいくつかあります。でも、「神様が悪を好んで行う」という意味ではありません。


サムエル記第一 16:14に「主の霊はサウルを離れ去り、主からの、わざわいの霊が彼をおびえさせた。」とあります。ここではハッキリと「主からの」わざわいの霊、とあります。

神様はサウルに突然わざわいの霊を送って怯えさせたのではありません。

それ以前にサウル自身が神様に従わないことを好み、選んでいます。

彼は主の命令に従わず、主のことばを遠ざけ、自分の意思で神様から離れています。その結果、神様の御霊は彼から離れ、悪い霊によって苦しめられる状態を神様が許可されました。



今日のアハブの箇所も分かりやすく同じです。

アハブはすでに主のことばを退けて、自分が聞きたいことを言ってくれる預言者たちを好んでいました。そして、神様のことばをそのまま語る預言者ミカヤを嫌っています。



(7節)

「私は彼を憎んでいます。彼は私について良いことは預言せず、いつも悪いことばかりを預言するからです。それはイムラの子ミカヤです。」



アハブ王の側近もまた、預言者たちに「王様が聞きたい話だけをするように」と要請しています。



(12節)

ミカヤを呼びに行った使者はミカヤに告げた。「いいですか。預言者たちは口をそろえて、王に対して良いことを述べています。どうか、あなたも彼らと同じように語り、良いことを述べてください。」



それでもミカヤは神様から与えられた真実だけを語ります。「主は生きておられる。私の神が私に告げられることを、そのまま述べよう。」(13)

ミカヤには天上の会議の様子が知らされました。それについて語ります。



(18-22節)

18,ミカヤは言った。「それゆえ、主のことばを聞きなさい。私は主が御座に着き、天の万軍がその右左に立っているのを見ました。

19,そして、主は言われました。『イスラエルの王アハブを惑わして攻め上らせ、ラモテ・ギルアデで倒れさせるのはだれか。』すると、ある者はああしよう、別の者はこうしようと言いました。

20,ひとりの霊が進み出て、主の前に立ち、『この私が彼を惑わします』と言うと、主は彼に『どのようにやるのか』とお尋ねになりました。

21,彼は答えました。『私が出て行って、彼のすべての預言者の口で偽りを言う霊となります。』主は『きっとあなたは惑わすことができる。出て行って、そのとおりにせよ』と言われました。

22,今ご覧のとおり、主はここにいるあなたの預言者たちの口に、偽りを言う霊を授けられました。



神様がアハブに「真実を聞かせたくない」と思ったわけではなく、ミカヤを通して、本当のことを何度も伝えています。でもアハブは、「自分が聞きたいことだけを聞きたい」という人になり、神様も預言者たちが惑わすのを許可されました。でも、その「気にいることだけを聞きたい」と貫いたことは神様の裁きとして用いられることになってしまいました。

神様はその人が偽りのことばを求め、偽りのことばに聞き従う時に、それを許可されるようです。アハブが神様のことばを嫌い、自分のお気に入りのことばだけを求めたこと、彼の願いはかないました。願った通りに偽りのことばによって戦争に進み、殺されてしまいました。


(33-34節)

そのとき、ある一人の兵士が何気なく弓を引くと、イスラエルの王の胸当てと草摺の間を射抜いた。王は戦車の御者に言った。「手綱を返して、私を陣営から出させてくれ。傷を負ってしまったから。」

その日、戦いは激しくなった。イスラエルの王は、アラムに向かって夕方まで戦車の中で立っていたが、日没のころになって死んだ。



僕らは真理を選ぶのか、偽りを選ぶのか、自分で決めることができます。僕らが思うよりずっと神様は僕らの選択を尊重されるようです。時にはその選択を裁きとして用いられることもあるようです。アハブは真実を聞く機会があったのに、自分の好みのことばを選び続けました。自分が選んだことです。


僕らも「神様、私の願っている答えをください」「僕はこうするので、助けてください。認めてください」と願いがちです。もちろん願いを素直に口にするのは良いことです。聖書は僕らの願いを素直に求めるように教えます。(マタイ7.7、ピリピ4.6など)


でも、僕らの願いが神様が与えようとされる祝福の道とは限りません。

祈りのゴールは「御心が天で行われるように、地でも行われますように」「わたしの願いではなく、御心になるように」です。(ルカ22.42、マタイ6.10など)


「神様、僕が聞きたい答えではなく、あなたの言葉を聞かせてください。真実を聞きたいです。」という姿勢はすごく大事です。

神様は僕らの選択を無理やり止めるわけではありません。そして、そのまま進むことが僕らにとって良いこととは限りません。むしろ神様との関係を失う場合さえありえます。

僕らの願いや好みはあります。素直に認めましょう。でも同時に、神様の願いを求め、みことばを求め、真実を求める僕らでありますように。

そこにこそ祝福があるからです。僕らが自分から神様のことばから離れることがありませんように。