2026年2月12日木曜日

民数記20.1-13

 民数記20.1-13


「御名が聖なるものとされますように。」と祈るように言われてます。(マタイ6章9節)「聖なるもの」とするのは、「神様の主権」とか「神様の素晴らしさ」とか「神様の力」とか、とにかく神様のものに「他のものをくっつけない」ことです。他の人とかモノとかお金とか技術に頼らなくても、神様だけで十分です。「あの人のおかげ」でもないし「俺のおかげ」でもありません。

これは聖書全体が繰り返し教えていることです。



"私たちにではなく 主よ 私たちにではなく

ただあなたの御名に栄光を帰してください。あなたの恵みとまことのゆえに。"

詩篇 115篇1節



"どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしの栄光を、ほかの者に与えはしない。"

イザヤ書 48章11節



僕らに求められているのはいつも「主が共にいてくださり、主がしてくださる」と信頼することです。終わった後は「主がなさった」と感謝して賛美することです。神様100%、僕らは0%です。


イスラエルの人々に水がなかった時、人々はモーセに文句を言います。モーセは祈るのですが、だんだん腹が立ってきたようです。



"なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上り、このひどい場所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような場所ではない。そのうえ、飲み水さえない。」

モーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入り口にやって来て、ひれ伏した。すると主の栄光が彼らに現れた。"

民数記 20章4~6節



モーセとアロンはひれ伏して祈り、神様は祈りに答えてくださり、水を与えてくださいます。…ここまではいいのですが、モーセはイライラして「われわれが水を出さなければならないのか!」と言ってしました。



"「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませよ。」

そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、主の前から杖を取った。

モーセとアロンは岩の前に集会を召集し、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から、われわれがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」

モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、豊かな水が湧き出たので、会衆もその家畜も飲んだ。"

民数記 20章8~11節



まるで自分が水を出すかのように言ってしまいました。しかも、「岩に命じれば水を出す。」と言われたのに、怒りのあまり杖で岩を二度打ちました。岩を杖で叩きながら「お前らのために俺らが水を出しててやらねばならないのか!いい加減にしろ!」という感じです。


神様はすぐにおっしゃいます。



"しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」

これがメリバの水である。イスラエルの子らが主と争った場所であり、主はご自分が聖であることを彼らのうちに示されたのである。"

民数記 20章12~13節



この失敗ゆえにモーセは本当に約束の土地に入れませんでした。(民数記27章、申命記32章)


神様だけを「聖なる方」とするように聖書は繰り返します。

与えられているもの全てが神様からのものです。僕らがすることも全部そうです。「食べるにも飲むにも、何をするにも」神様の栄光と力の現れです。(1コリント10.31)良い行いも、神様の栄光の現れです。「人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」(マタイ5.16)話す時も、それは神様の力と知恵の表れです。(コロサイ3.17)


怒ってる時は神様の素晴らしさを表しずらいようです。「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」(ヤコブ1.20)また、得意なことほど自分の栄光と力を誇示したくなってしまいます。

だから今日も祈りましょう。「御名が聖なるものとされますように。」「私たちにではなく 主よ私たちにではなく ただあなたの御名に栄光を帰してください。」ハレルヤ!


2026年2月11日水曜日

民数記19章

 民数記19章


神様にとって「死ぬこと」は汚れたものであり、忌み嫌うべきものです。「死ぬ」とは本来、人が神様から離れた結果です。「神様に近づく」=「命」です。「神様から離れる」=「死」です。

神様は「死」を嫌い、死人に触れた人さえ「汚れたもの」とみなされます。



クリスチャンも神様が嫌う罪を持っています。罪の結果は「死」=「神様から離れること」です。


旧約の時代、汚れた人は聖なる人々からも切り離されました。礼拝もできず、人々の中で生活することもできなくなりました。「汚れ」「罪」は僕らを神様から引き離します。クリスチャンでもそうでなくても同じです。僕らもしょっちゅう罪によって、神様から離れそうになることがあります。

罪があるとどこか気まずいし、距離を感じるし、神様も教会の仲間も「怖い」と思います。良心がきよめられて平安が戻るまで、前みたいに喜んで神様の前に行けなくなります。


旧約聖書の儀式はイエス様による罪のきよめと回復をあらかじめ予告するために与えられました。神様は「死」を「汚れ」として嫌われます。きよめられるまでは神様とは交われません。それでも神様はきよめられる儀式を制定されました。この儀式は新約聖書「ヘブル人への手紙」によって解説されています。



"死人に触れる者は、それがどの人のものであれ、七日間汚れる。

その者は三日目と七日目に、先の水で身の汚れを除いて、きよくなる。三日目と七日目に身の汚れを除かなければ、きよくならない。

死人、すなわち死んだ人間のたましいに触れ、身の汚れを除かない者はみな、主の幕屋を汚す。その者はイスラエルから断ち切られる。その者は汚れを除く水を振りかけられていないので汚れていて、その者の中になお汚れがあるからである。"

民数記 19章11~13節



神様は「汚れを除く水」を作り、それをふりかけるようにいます。



"人が天幕の中で死んだ場合のおしえは次のとおりである。その天幕に入る者と、天幕の中にいる者はみな、七日間汚れる。

ふたをしていない口の開いた器もみな、汚れる。

また、野外で、剣で刺し殺された者、死人、人の骨、墓に触れる者はみな、七日間汚れる。

この汚れた者のためには、罪のきよめのために焼いて作った灰を取り、器に入れ、それに新鮮な水を加える。

きよい人がヒソプを取ってこの水に浸し、それを天幕に、すべての器の上に、そこにいた者の上に、また骨、刺し殺された者、死人、墓に触れた者の上にかける。

そのきよい人が、それを汚れた者に三日目と七日目に振りかけ、七日目にその人の汚れを除くことになる。その人は衣服を洗い、水を浴びる。その人は夕方にはきよくなる。

汚れた者が身の汚れを除かなければ、その人は集会の中から断ち切られる。主の聖所を汚したからである。汚れを除く水がその人に振りかけられなかったので、その人は汚れている。"

民数記 19章14~20節



この「汚れを取り除く水」は「罪をきよめるために、身代わりに殺された動物が完全に焼かれた灰」を使います。その「きよめるための灰」を作るために、まずは傷のない赤い牛が宿営の外で殺されます。これはイエス様が「民を聖なるものとするために、宿営の外で殺された」(ヘブル13.12)ことを表しています。身代わりに動物が殺され焼かれて「灰」が作られ、それを使って「汚れを取り除く水」が作られます。その水を振りかけられることできよめられます。



"主はモーセとアロンに告げられた。

「主が命じるおしえの定めは、こうである。イスラエルの子らに告げよ。まだくびきを負わせたことがなく、傷のない完全な、赤い雌牛をあなたのところに引いて来るようにと。

あなたがたはそれを祭司エルアザルに渡す。そして宿営の外に引き出し、彼の前で屠る。"

民数記 19章1~3節



"その雌牛は彼の目の前で焼き、皮と肉と血を汚物とともに焼く。"

民数記 19章5節



"それから、きよい人がその雌牛の灰を集め、宿営の外のきよい所に置く。そして、イスラエルの会衆のために、汚れを除く水を作るために保存しておく。これは罪のきよめのささげ物である。"

民数記 19章9節



神様は今日も汚れを嫌われます。そして、罪と汚れは僕らを神様から遠ざけます。それでも神様の側から手を差し伸べてくれています。僕らがもう一度神様に近づくことができるため、イエス様が身代わりに神様から引き離され「わが神、どうしてわたしを捨てられたのですか」(マタイ27.45)と苦しみ、血を流し、捨てられ、呪われたものとなってくださいました。



"雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら、

まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。"

ヘブル人への手紙 9章13~14節



雄牛の血でさえ人々をきよめたなら、キリストの血は完璧です。僕らを内側から作り替えてくださいます。良心をきよめ、大胆に、自由に、喜んで神様に近づく人にしくれます。

罪を放置すると苦しみます。それは体を緊張させ、神様との関係も隣人との関係も不自由にします。僕らに必要なのはイエス様の血によるきよめです。自由です。僕らはまた戻れます。何度失敗しても、赦されます。今日もイエス様の十字架の前に行って罪を告白しましょう。イエス様の十字架の血は僕らをきよめます。しかも、内側からきよくしてくださいます。今日も罪を神様に認めて、告白して、赦してもらい、神様のところに戻りましょう。大丈夫です!


"わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよくなる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、

あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。"

エゼキエル書 36章25~26節



"心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。"

ヘブル人への手紙 10章22節

2026年2月10日火曜日

コンサートメッセージ 天国への道

 先月、うちの教会の関係者なんと4人が亡くなりました。最近、死が身近です。聖書の言葉にこうあります。


(伝道者の書7章2節)

祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。


誰かの死に触れた時、人は「自分もいつか死ぬ」という現実に向き合います。

また、聖書は人は死んで、死後には神様の裁きを受けるとあります。


(ヘブル 9:27)

人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている


「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。」その続きに意外なことが書いてあります。「死ぬ日は生まれる日にまさる。」です。


普通は赤ちゃんが生まれるとみんな喜びます。嬉しいからです。

でも聖書は「死ぬ日」が勝っていると言います。

この意味は、神様に受け入れられ、全ての苦しみから解放され、神様と近く、お会いし、受け入れられる日です。その意味で「死ぬ日は生まれる日にまさる。」です。


死後に裁きがある、っていうけども、みなさんがもし、今日裁きを受けるとしたら

合格だと思いますか?、不合格でしょうか?神様の前でなんと言われるでしょう。


僕も皆さんも人生でたくさん失敗したと思います。

愛すべき人は愛せなかったし、許すべき人は許せなかったし、してはいけないことをしてしまったし、誰かを傷つけてきました。


※昨年義理の父が死にました。まだ元気だった頃の話です。

母が入院して一人暮らしになりました。すると会うたびに言うんです。


「俺のせいなんだ。俺が悪かった」「俺がお山の大将だったんだ。ひどいことしたんだ。ごめんな」と、お母さんの写真を見ながら泣くんです。


僕はその姿を見て、おじいちゃんが悲しんで悔い改めている姿がよくわかりました

イエス様がおっしゃった言葉は、「心が豊かな人は幸せだ」とは言わなかったです。

イエス様は「心が貧しい人は幸いだ」とおっしゃいました。「悲しむ人は幸いだ。」

「正しいことができなくて、飢え乾いていている人は幸いだ」っておっしゃいました。

どうしてでしょう?


イエス様は「天の御国は、その人のものだから。」とおっしゃいます。神さまに赦され、受け入れられ、慰められるのは、「自分は悪くないし、悪いのは相手だ」という人ではなく、「私はひどい人間ではない」という人でなく、自分の悪いところに気がついて、心が貧しいことを知って、悲しくて、ガッカリしている、そのような人だとイエス様はおっしゃいます。


そのおじいちゃんは昨年天に召されました。神様が天に迎え入れてくださる人は、立派な人ではありません。神様は言われます。「正しいものはいない。1人もいない」「罪がない人はいない。」「すべての人が罪を犯した」とです。


ところがイエス様は言われます。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

またイエス様は言われます。「わたしは裁くためではなく、救うために来たのです。」


さっき、誰が合格?誰が神様に受けいられられる?って言いましたが、イエス様の答えはこうです。


「わたしを通してでなければ誰も父神様のもとに行くことができません。」

「わたしが道です」とおっしゃるんです。


逆に言うと、「イエスキリスト」という道さえ入れば行けちゃいます。

だってイエス様は「私は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」とおっしゃいました。「わたしは裁くためではなく、救うために来たのです。」とおっしゃいます。あなたを救うため、あなたに命を与えるため、あなたに救いを与えるために来たのがイエス様です。


どうやってその道に入るんですか?

それはイエス様が身代わりになって苦しみ、神様から引き離されて、神様からの呪いを身代わりに受けてくれた、その事実を受け入れることです。


教会には必ず十字架があります。

教会によってはキリストが磔になっている十字架、みなさんも見たことがあると思います。


※ある時うちの妻が入院しました。キリスト教の病院だったので、病室にキリストの十字架が飾って飾ってありました。入院しているので、特にすることもないので、みんな壁にあるキリスト像を見て過ごしていました。


あるとき、隣の人が言ったそうです。

「遠藤さん、キリスト教なんでしょう?」

「そうだよ」

「ねえ、あの人、なんで磔になってるの?」


いい質問です。みんな聞きたいことです。「なんで磔になってるの?」

答えは聖書に書いあります。


(1ペテロ 3:18)

キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。


十字架で殺される、というのは、2000年前のローマ帝国の処刑です。

極悪人が殺される、そして見せしめにされるためのものです。だから、丘の上で殺されました。キリストも殺されました。


聖書は、「正しい方が、人々の身代わりになった」と言います。

分厚い聖書に何度も同じことがあります。


神様は適当に見逃す方ではありませ。

神様は「まぁいいよ。見なかったことにするよ」といういい加減なだらしない神様ではありません。


罪に対して怒り、報復する、正しく裁く神様です。

正しく裁く正しい裁きをする方が、やっぱり僕らを愛しています。

だから神様の怒りと裁きを、キリストが引き受けてくださった、とあります。


イエス様は「わたしは正しい人を招くためでなく、罪人を招くためにきた」とおっしゃいます。

「さばくためでなく、救うためにきた」とおっしゃいます。

イエス・キリストは僕らが受けるべき神様の怒りを、呪いを、受けて、十字架の上ですべての罪を引き受けて、そして言われます。


「友よ、あなたの罪は赦された。」と。

これが、「道」です。


みなさんの罪の罰はイエス様が引き受けてくださいました。

このイエス様を信頼する人は、裁かれることなく、永遠の命をもちます。そのイエス様を信じることが「道」です。天国への道。神様のもとにいく唯一の道です。


どんな人も赦されます。愛されています。神様の願いは、みなさんが裁かれることでなく赦されることです。死んで終わるのでなく、死後に裁きに会うのでなく、赦された人として、神様の元に迎えられることです。