2026年2月10日火曜日

コンサートメッセージ 天国への道

 先月、うちの教会の関係者なんと4人が亡くなりました。最近、死が身近です。聖書の言葉にこうあります。


(伝道者の書7章2節)

祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。


誰かの死に触れた時、人は「自分もいつか死ぬ」という現実に向き合います。

また、聖書は人は死んで、死後には神様の裁きを受けるとあります。


(ヘブル 9:27)

人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている


「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。」その続きに意外なことが書いてあります。「死ぬ日は生まれる日にまさる。」です。


普通は赤ちゃんが生まれるとみんな喜びます。嬉しいからです。

でも聖書は「死ぬ日」が勝っていると言います。

この意味は、神様に受け入れられ、全ての苦しみから解放され、神様と近く、お会いし、受け入れられる日です。その意味で「死ぬ日は生まれる日にまさる。」です。


死後に裁きがある、っていうけども、みなさんがもし、今日裁きを受けるとしたら

合格だと思いますか?、不合格でしょうか?神様の前でなんと言われるでしょう。


僕も皆さんも人生でたくさん失敗したと思います。

愛すべき人は愛せなかったし、許すべき人は許せなかったし、してはいけないことをしてしまったし、誰かを傷つけてきました。


※昨年義理の父が死にました。まだ元気だった頃の話です。

母が入院して一人暮らしになりました。すると会うたびに言うんです。


「俺のせいなんだ。俺が悪かった」「俺がお山の大将だったんだ。ひどいことしたんだ。ごめんな」と、お母さんの写真を見ながら泣くんです。


僕はその姿を見て、おじいちゃんが悲しんで悔い改めている姿がよくわかりました

イエス様がおっしゃった言葉は、「心が豊かな人は幸せだ」とは言わなかったです。

イエス様は「心が貧しい人は幸いだ」とおっしゃいました。「悲しむ人は幸いだ。」

「正しいことができなくて、飢え乾いていている人は幸いだ」っておっしゃいました。

どうしてでしょう?


イエス様は「天の御国は、その人のものだから。」とおっしゃいます。神さまに赦され、受け入れられ、慰められるのは、「自分は悪くないし、悪いのは相手だ」という人ではなく、「私はひどい人間ではない」という人でなく、自分の悪いところに気がついて、心が貧しいことを知って、悲しくて、ガッカリしている、そのような人だとイエス様はおっしゃいます。


そのおじいちゃんは昨年天に召されました。神様が天に迎え入れてくださる人は、立派な人ではありません。神様は言われます。「正しいものはいない。1人もいない」「罪がない人はいない。」「すべての人が罪を犯した」とです。


ところがイエス様は言われます。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

またイエス様は言われます。「わたしは裁くためではなく、救うために来たのです。」


さっき、誰が合格?誰が神様に受けいられられる?って言いましたが、イエス様の答えはこうです。


「わたしを通してでなければ誰も父神様のもとに行くことができません。」

「わたしが道です」とおっしゃるんです。


逆に言うと、「イエスキリスト」という道さえ入れば行けちゃいます。

だってイエス様は「私は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」とおっしゃいました。「わたしは裁くためではなく、救うために来たのです。」とおっしゃいます。あなたを救うため、あなたに命を与えるため、あなたに救いを与えるために来たのがイエス様です。


どうやってその道に入るんですか?

それはイエス様が身代わりになって苦しみ、神様から引き離されて、神様からの呪いを身代わりに受けてくれた、その事実を受け入れることです。


教会には必ず十字架があります。

教会によってはキリストが磔になっている十字架、みなさんも見たことがあると思います。


※ある時うちの妻が入院しました。キリスト教の病院だったので、病室にキリストの十字架が飾って飾ってありました。入院しているので、特にすることもないので、みんな壁にあるキリスト像を見て過ごしていました。


あるとき、隣の人が言ったそうです。

「遠藤さん、キリスト教なんでしょう?」

「そうだよ」

「ねえ、あの人、なんで磔になってるの?」


いい質問です。みんな聞きたいことです。「なんで磔になってるの?」

答えは聖書に書いあります。


(1ペテロ 3:18)

キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。


十字架で殺される、というのは、2000年前のローマ帝国の処刑です。

極悪人が殺される、そして見せしめにされるためのものです。だから、丘の上で殺されました。キリストも殺されました。


聖書は、「正しい方が、人々の身代わりになった」と言います。

分厚い聖書に何度も同じことがあります。


神様は適当に見逃す方ではありませ。

神様は「まぁいいよ。見なかったことにするよ」といういい加減なだらしない神様ではありません。


罪に対して怒り、報復する、正しく裁く神様です。

正しく裁く正しい裁きをする方が、やっぱり僕らを愛しています。

だから神様の怒りと裁きを、キリストが引き受けてくださった、とあります。


イエス様は「わたしは正しい人を招くためでなく、罪人を招くためにきた」とおっしゃいます。

「さばくためでなく、救うためにきた」とおっしゃいます。

イエス・キリストは僕らが受けるべき神様の怒りを、呪いを、受けて、十字架の上ですべての罪を引き受けて、そして言われます。


「友よ、あなたの罪は赦された。」と。

これが、「道」です。


みなさんの罪の罰はイエス様が引き受けてくださいました。

このイエス様を信頼する人は、裁かれることなく、永遠の命をもちます。そのイエス様を信じることが「道」です。天国への道。神様のもとにいく唯一の道です。


どんな人も赦されます。愛されています。神様の願いは、みなさんが裁かれることでなく赦されることです。死んで終わるのでなく、死後に裁きに会うのでなく、赦された人として、神様の元に迎えられることです。


民数記16-17章 神様が選んだ指導者か?その見分け方。

 民数記16-17章

神様が選んだ指導者か?その見分け方。


神様との関係で生きてない人はいつも他人ばかり見ます。特に不満は指導者に向けられることが多いようです。コラとその仲間たち250人は自分たちも指導者になろうとし、モーセとアロンに不満をぶつけ、逆らい、それ故に神様は彼らを滅ぼされた恐ろしい出来事が描かれています。



(民数記16.28-35)

28,モーセは言った。「私を遣わして、これらのわざを行わせたのは主であり、私自身の考えからではないことが、次のことによってあなたがたに分かる。

29,もしこの者たちが、すべての人が死ぬように死に、すべての人の定めにあうなら、私を遣わしたのは主ではない。

30,しかし、もし主がこれまでにないことを行われるなら、すなわち、地がその口を開けて、彼らと彼らに属する者たちをことごとく吞み込み、彼らが生きたままよみに下るなら、あなたがたはこれらの者たちが主を侮ったことを知らなければならない。」

31,モーセがこれらのことばをみな言い終えるやいなや、彼らの足もとの地面が割れた。

32,地は口を開けて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての所有物を吞み込んだ。

33,彼らと彼らに属する者はみな、生きたまま、よみに下った。地は彼らを包み、彼らは集会の中から滅び失せた。

34,彼らの周りにいたイスラエル人はみな、彼らの叫び声を聞いて逃げた。「地がわれわれも吞み込んでしまわないか」と人々は思ったのである。

35,また、火が主のところから出て、香を献げていた二百五十人を焼き尽くした。



神様は指導者を選び、用いられます。

神様はこの事件の後、アロンが大祭司であることが誰にでもはっきりとわかるように、特別にしるしを与えてくださいました。アロンの名前が書いてある杖から芽が出て花が咲き、実がなる、というしるしです。これは、神様が選び出してくださったことの証拠です。



"主はモーセに告げられた。

「イスラエルの子らに告げ、彼らから杖を、部族ごとに一本ずつ、彼らの部族のすべての族長から十二本の杖を取れ。その杖に各自の名を書き記さなければならない。

レビの杖にはアロンの名を書き記さなければならない。彼らの部族のかしらにそれぞれ一本の杖とするからだ。

あなたはそれらを、会見の天幕の中の、わたしがそこであなたがたに会うあかしの箱の前に置け。

わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。こうしてわたしは、イスラエルの子らがあなたがたに向かって言い立てている不平を、わたし自身から遠ざけ、鎮める。」

モーセがイスラエルの子らにこのように告げたので、彼らの族長たちはみな、部族ごとに、族長一人に一本ずつの杖、十二本を彼に渡した。アロンの杖も彼らの杖の中にあった。

モーセはそれらの杖を、主の前、すなわちあかしの天幕の中に置いた。

その翌日、モーセはあかしの天幕に入って行った。すると見よ。レビの家のためのアロンの杖が芽を出し、つぼみをつけ、花を咲かせて、アーモンドの実を結んでいた。

モーセがそれらの杖をみな、主の前からすべてのイスラエルの子らのところに持って来たので、彼らは見て、それぞれ自分の杖を取った。

主はモーセに言われた。「アロンの杖をあかしの箱の前に戻して、逆らう者たちへの戒めのために、しるしとせよ。彼らの不平をわたしから全くなくせ。彼らが死ぬことのないようにするためである。」"

民数記 17章1~10節



今は教会の指導者に杖から芽が出て実がなるようなしるしはありません。…ですが、それでも見えるし分かります。聖霊の実はリアルな生活態度に出ます。教会がスタートした時、トラブルが起こったとき、執事7人を選んだ時も御霊に満ちた人をその生活によって判断しました。



"そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選びなさい。その人たちにこの務めを任せることにして、

私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します。」

この提案を一同はみな喜んで受け入れた。そして彼らは、信仰と聖霊に満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、そしてアンティオキアの改宗者ニコラオを選び、"

使徒の働き 6章3~5節



教会の指導者に任命されるとかリーダーとしての適性を考えるときに、具体的な生活態度で判断するように聖書は教えています。



"ですから監督は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、礼儀正しく、よくもてなし、教える能力があり、

酒飲みでなく、乱暴でなく、柔和で、争わず、金銭に無欲で、

自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人でなければなりません。

自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができるでしょうか。"

テモテへの手紙 第一 3章2~5節



"長老は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、子どもたちも信者で、放蕩を責められたり、反抗的であったりしないことが条件です。

監督は神の家を管理する者として、非難されるところのない者であるべきです。わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、乱暴でなく、不正な利を求めず、

むしろ、人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり、

教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを戒めたりすることができるようになるためです。"

テトスへの手紙 1章6~9節



これはその人が優れているのではなく、神様の恵みの御霊の表れです。

逆に、神様が選んでないのに、自分で上に立とうとする人も分かります。人を妬み、比べ、不平不満、悪口、淫らな行為はど、適性が欠けていることは分かりやすく、そのリストは聖書に明示してあります。



"肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、

偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、

ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。"

ガラテヤ人への手紙 5章19~21節



滅ぼされたコラとその仲間のような人が今も教会に混じって指導者になりたがり、教会を混乱させることががあると聖書は言います。彼らは神様が与えた指導者やその権威を認めず、欲望と利益のために自分を偉い人のように見せようとします。



"それにもかかわらず、この人たちは同じように夢想にふけって、肉体を汚し、権威を認めず、栄光ある者たちをののしっています。"

ユダの手紙 1章8節



"しかし、この人たちは自分が知りもしないことを悪く言い、わきまえのない動物のように、本能で知るような事柄によって滅びるのです。

わざわいだ。彼らはカインの道を行き、利益のためにバラムの迷いに陥り、コラのように背いて滅びます。

この人たちは、あなたがたの愛餐のしみです。恐れる心もなく一緒に食事をしますが、自分を養っているだけです。彼らは、風に吹き流される雨無し雲、枯れに枯れて根こそぎにされた、実りなき秋の木、

自分の恥を泡立たせる海の荒波、真っ暗な闇が永遠に用意されている、さまよえる星です。"

ユダの手紙 1章10~13節



"彼らは、ぶつぶつ不満を並べる者たちで、自らの欲望のままに生きています。その口は大げさなことを語り、利益のために人にへつらいます。"

ユダの手紙 1章16節



"彼らはあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、嘲る者たちが現れて、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう。」

この人たちは、分裂を引き起こす、生まれつきのままの人間で、御霊を持っていません。"

ユダの手紙 1章18~19節


指導者になりたがる人を見分けましょう。そのしるしは生活態度に表れます。本当に神様が選ばれていない人には、不平不満など悪から出た態度しか出ません。リーダーになりたがったコラもその仲間たちも神様から選ばれた人ではありませんでした。聖霊の実はリアルな生活態度に出ます。



民数16.41-50

 罪を犯す他人のためにお祈りすること、これはまさにイエス様の願いそのものです。

イスラエルは何度懲らしめられても、神様のことがわからず、自分たちの不満をモーセにぶつけます。神様の裁きを目の当たりにしても、「あなたがたは主の民を殺した。」とモーセとアロンに文句を言い続けます。(民数記16.14)そんな彼らを神様は怒り、滅ぼそうとします。それでもモーセとアロンは彼らのために赦しを願い、祈ります。



"主はモーセに告げられた。

「あなたがたはこの会衆から離れ去れ。わたしはこの者どもをたちどころに絶ち滅ぼす。」二人はひれ伏した。

モーセはアロンに言った。「火皿を取り、祭壇から火を取ってそれに入れ、その上に香を盛りなさい。そして急いで会衆のところへ持って行き、彼らのために宥めを行いなさい。主の前から激しい御怒りが出て来て、神からの罰がもう始まっている。」

モーセが命じたとおり、アロンが火皿を取って集会のただ中に走って行くと、見よ、神の罰はすでに民のうちに始まっていた。彼は香をたいて、民のために宥めを行った。

彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、主の罰は終わった。"

民数記 16章44~48節



僕らは神様の怒りや裁きが降ると「ざまあみろ」と言いそうです。神様の復讐を喜びがちです。ですがイエス様は違います。さばく側、怒る側でありながら、罪人のために祈ってくださいます。そして、僕らにも「こう祈りなさい」と教えてくださいます。



"私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。"

マタイの福音書 6章12節



僕らはイラつき批判し、やっつけたいと思います。でもイエス様は他人の罪を自分のこととして、「私たちの負い目(罪)赦してください」と祈りなさい、とおっしゃいます。



"だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。"

ローマ人への手紙 8章34節



"彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。"

イザヤ書 53章12節


今日もイエス様と一緒に祈りましょう。ひどい罪を見聞きするとき、自分のこととして平伏しましょう。「神様、憐れんでください、彼らは何をしているのかわからないのです」と。