2026年4月2日木曜日

マタイ27.50-54

 イエス様が十字架で死なれた時、2つのドアが開きました。

1つは天国のドア、そしてもう一つは墓のドアです。


1 天国のドア


その瞬間に、天国のドアが開きました。罪のある人間が神様に迎えられるようになりました。

神様が地上で作るようにおっしゃった幕屋とか神殿は天国の模型です。「天にあるものの写し」(ヘブル8.5、9.23)と言われています。


それは分厚いカーテン(幕)で仕切られ閉じられていました。

完全にきよい人でなければ、中に入って神様に近づくことができません。もし近づくなら殺されます。イエス様が十字架の上で僕らのために死なれた瞬間、僕らのすべての罪はきよめられました。その時、神殿の幕が裂けました。



"しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。

すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。"

マタイの福音書 27章50~51節



罪ある人がきよめられ、僕らは大胆に聖なる神様に近づけます。もうすでに始まっています。僕らのからだが「神の宮」と言われるほどです。



"兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。"

ヘブル人への手紙 10章19節



"あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。"

コリント人への手紙 第一 3章16節



仕切りの幕は裂けました。ドアは開きました。僕らは神様との間に壁がありません。壁がないどころか、神様の御霊が僕らの中に住んでくれてます。一体です。僕らはもうすでに神様に大胆に近づき、交わり、また満たされています。



2 墓のドア


イエス様が復活された時、墓のドアが開きました。



"墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。

彼らはイエスの復活の後で、墓から出て来て聖なる都に入り、多くの人に現れた。"

マタイの福音書 27章52~53節



僕ら全員「墓」に向かっています。当たり前ですが、「死」が来ると人生終わります。誰もそれに勝てません。「墓」は無期懲役の牢屋のようで絶対出てくることはできません。「死」は逆らえない王様、「墓」は永遠の監獄みたいでした。


ところが、イエス様が死んで復活されたとき、「墓」は開いて、多くの人たちが解放され、復活して出てきました。イエス様は復活の「初穂」です。あの時多くの人が復活したのは、僕らのお手本です。


僕らはもう「墓」に向かっていません。墓に入るけど一時滞在です。永遠の牢屋ではありません。もう「死」は王様ではありません。


2つのドアが開きました。僕らは自由になりました。すでに神様と交わっています。そして、死を恐れる必要もなくなりました。僕らはすでに解放されました。

僕らはもう自由です。向かう先は墓ではなく、神様の栄光の御座です。ハレルヤ!



2026年4月1日水曜日

ローマ10.1-13

 ローマ10.1-13


神様に認めてもらう方法は「がんばって100点取ろう」ではなくて、「もうすでに余裕の100点」をとっているイエス様を心にお迎えすることです。「生き延びよう」とがんばるのではなく、復活して今も生きていて、いのちを無限に与えてくださるイエス様を信じて受け入れることです。


イスラエル人たちは「立派な正しい人」目指して旧約聖書を細かく学んでがんばりました。ところが彼らは義(正しく無罪なこと)はイエス様から与えられる、という一番大事なことを知りませんでした。



"私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心は知識に基づくものではありません。

彼らは神の義を知らずに、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。"

ローマ人への手紙 10章2~3節



彼らが求めたのは「自分の義(自分は正しく無罪!)」です。一方、神様が与えてくださるのは「神様の義」です。神様がくださる義の方がいいに決まっています。与えられる方法は、100点満点のイエス様が自分の中に生きていると認め、信じ、告白することです。



"律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。"

ローマ人への手紙 10章4節



自分の立派さに関係なく、イエス様を信じる人は、イエス様と一緒に100点満点とみなされます。これが「義」の意味です。それは絶対になくならないし、失望させられることはありません。



"なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」

ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。

「主の名を呼び求める者はみな救われる」のです。"

ローマ人への手紙 10章9~13節



イスラエル人たちは律法を調べることに異常に熱心で、「誰か天に上って聞いてきて!」とか「誰か海の底まで行って探してきて!」ってレベルでした。

でも答えはすぐ近くにありました。



「あなたは心の中で、『だれが天に上るのか』と言ってはならない。」それはキリストを引き降ろすことです。

また、「『だれが深みに下るのか』と言ってはならない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。

では、何と言っていますか。「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは、私たちが宣べ伝えている信仰のことばのことです。"

ローマ人への手紙 10章6~8節



神様の教えはすぐ近くにあります。というより、僕らの中にもうイエス様がいます。生きているイエスを信じる人は、すべての教えを手に入れます。



"なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。"

ローマ人への手紙 10章8~10節



聖書の勉強も行いも大事だけど、それで義とされるのではありません。聖書の教えも、行いも、今生きておられるイエス様から与えられます。イエス様は僕らの中にいます。大丈夫です。ハレルヤ!


2026年3月31日火曜日

ローマ9.14-26

 ローマ9.14-26


いつの間にか「こうすればうまくいく」「この戦略で成功する」とか、「あの人はここがダメ、自分のココが嫌い」みたいに、神様の計画や評価→人間の計画や評価にずれていくことがあります。

計画も評価も主権を持っておられるのは神様です。人が変えられて神様の子どもになるのは神様の選びです。人が変えられるのも神様によります。ダメな人かどうか最後に判断するのも神様です。人の努力によるのではありません。神様は人をどのようにでも変えることができます。

 


"ですから、これは人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。"

ローマ人への手紙 9章16節


"ですから、神は人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままに頑なにされるのです。"

ローマ人への手紙 9章18節



「じゃあ神様、なんで私をこんなクズにつくったの?なんであの人をひどい人にしたの?」「こんな人に作っておいて最後に裁くのおかしい」という声が聞こえてきそうです。聖書はいいます。



"人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。

陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。"

ローマ人への手紙 9章20~21節



どのように人を作るか、決めるのは神様です。

そして僕らは全員「不合格」です。陶器師は気に入らない器を壊します。割ってもいいし、捨ててもいいゴミです。…だのに、神様は捨てずにあわれんでくださいました。



"それでいて、もし神が、御怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられたのに、滅ぼされるはずの怒りの器を、豊かな寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、どうですか。

しかもそれが、栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器に対して、ご自分の豊かな栄光を知らせるためであったとすれば、どうですか。

このあわれみの器として、神は私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。

それは、ホセアの書でも神が言っておられるとおりです。「わたしは、わたしの民でない者をわたしの民と呼び、愛されない者を愛される者と呼ぶ。

あなたがたはわたしの民ではない、と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」"

ローマ人への手紙 9章22~26節



これが福音、嬉しい知らせです。

不合格でした。捨てられるはずでした。

だのに、あわれみを受け、愛され、作り変えられています。

形の悪いものを「愛されるもの」と今日も呼びかけてくれています。

これが福音です。

全部神様の恵みです。

「これは人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです」(16) 僕らができることは感謝と賛美しかありません。ハレルヤ!


ローマ9.1-3

 ローマ9.1-3


僕らはイヤな人とは関わらないようにするし、興味も持ちません。

ところが、イエス様の愛は真逆です。神様に背を向けている人のことを悲しみます。

僕らは滅ぶ人たちのことを放っておきがちです。が、イエス様の愛は滅んでいく人のために苦しみ、身代わりになり、神の呪いを受けてくださるほどの愛です。人間からは出ない、ありえない愛です。



"私はキリストにあって真実を語り、偽りを言いません。私の良心も、聖霊によって私に対し証ししていますが、

私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。"

ローマ人への手紙 9章1~3節



パウロは自分の兄弟であるイスラエルのためなら、「私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。」(3)パウロが愛している相手は、イエス様を嫌い、パウロを嫌い、殺そうとしている人たちです。イスラエル人たちはパウロを殺すまでは飲み食いしない、と誓う人たちです。(使徒23.12-14)そんな彼らを愛し、身代わりになってもいい、と思うのはイエス様から与えられている御霊によります。


自分を憎む人たちを愛し悲しむのは神様からのものです。僕らからは出ません。敵のために悲しみ、祈る御霊を求めましょう。喜びは御霊によって与えられますが、愛するゆえの悲しみもまた与えられます。

2026年3月29日日曜日

ローマ8.31-39

 ぜひ、次のみことばの(   )のことろ、自分の名前を入れて読んでみてください。

「私たち」「私たちすべて」→(   )に変えてあります。神様の愛が迫ってきます!ハレルヤ!



ローマ8.31-39

では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が(   )の味方であるなら、だれが(   )に敵対できるでしょう。

(   )のために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、(   )に恵んでくださらないことがあるでしょうか。

だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。

だれが、(   )を罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも(   )のために、とりなしていてくださるのです。

だれが、(   )をキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

こう書かれています。「あなたのために、(   )は休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」

しかし、これらすべてにおいても、(   )を愛してくださった方によって、(   )は圧倒的な勝利者です。

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、

高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、(   )の主キリスト・イエスにある神の愛から、(   )を引き離すことはできません。

ローマ人への手紙8章17節から30節 「苦しみは栄光への通過点」礼拝メッセージ

 ローマ人への手紙8章17節から30節

「苦しみは栄光への通過点」


苦しいな、って思う人いると思います。

なんで自分だけこんな目に遭うんだろう、って思う方いらっしゃると思います。

祈ってはいるけど、神様が遠く感じる人、そもそも祈る力がない人。

みなさんはどうでしょうか。今日はそんなみなさんへの希望のメッセージです。


今日29日から4月5日までの1週間は教会の歴史の中では、「受難週」と言われています。

イエス様が苦しみを受け、十字架で殺されることを思い出すための一週間です。

その週、イエス様は愛するユダに裏切られました。

最後の晩餐ではしもべになって弟子たちの足を洗ってくださいました。

その後ゲッセマネの園に行って悲しみながら祈りました。汗が血のように滴る位に苦しみました。

その夜、逮捕され、不当な裁判を受け、ムチで拷問を受け、茨の冠を被せられ、血だらけの姿で十字架の棒を自分で担がされ、死刑場である丘の上まで歩かされました。

笑われました。唾をかけられました。

生きたまま、クギで手と足を木の棒に固定されて高く上げられ、晒し者にされました。公開処刑でした。

最後は槍で脇腹から心臓を刺されて死なれました。


教会は毎年イースターの前にイエス様の苦しみを思い出す受難週を過ごしてきました。


イエス様は僕らを愛しています。

皆さんのことを愛しています。みなさん、神様に愛されています。イエス様の愛と言うのはほんわかしたいい感じのものではなくて、身代わりになって恥を受けることです。身代わりになって人に捨てられ、嫌われ、馬鹿にされ、苦しんで、神様にも捨てられて殺される、そういう犠牲の愛です。

十字架で敵のために祈り、敵を赦しを祈るのがイエス様です。


僕らはその愛の犠牲によって赦されました。イエス様が呪われ、殺され、身代わりになって僕らは赦されました。僕らはそれを感謝して毎週集まって、殺された、「屠られた子羊」のイエス様を賛美しています。愛することは、相手が生かされ、赦されるために犠牲を払うことです。


●私たちもイエス様と一緒に苦しみます。


"子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。"

ローマ人への手紙 8章17節


相続人というのは、親の財産とか不動産を受け継ぐ人です。

僕らはイエス様と一緒に神様の良いものを受け継ぐ共同相続人です。

イエス様と一緒に将来の栄光を受け継ぎます。…が、地上においては栄光を受けるために苦しみも通過します。


正直、苦しみなんていらないと思います。苦しみは通らないで、喜びだけください、栄光だけください、っていうのが本音です。でも、聖書は「栄光をともに受けるために苦難をともにしているのです」と言います。


イエス様が僕らの長男であり、お手本です。

愛する故の苦しみがあり、死があり、そしてその後に復活があります。このイエス様の足跡に習うように僕らは召されました。


先週の箇所はローマ5章でした。


ローマ5章

2,神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。

3,それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、

4,忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。

5,この希望は失望に終わることがありません。


誰かに誤解されたり、拒絶されたりするのは苦しく悲しいことです。でも、それはイエス様と一緒に、イエス様に似せられて、栄光を受けるために必要な苦しみです。無視される。信頼してた人に裏切られる。愛している人が去っていく。これ、みんなイエス様が経験された苦しみです。


●将来の栄光は確定です。


それでも、イエス様は復活され、今、全ての栄光を持っています。

同じように、僕らも苦しみを通り、弱くされ、一度死ぬことが決まっています。その後で、イエス様と同じ栄光を一緒に受けます。それは確実です。


"今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。"

ローマ人への手紙 8章18節


啓示とは、隠れていたものが現れる、ってことです。その先に現れる栄光に比べれば今の苦しみはちっぽけだ、と聖書は言います。苦しみは栄光を受けるための通過点です。その栄光とは、イエス様と同じ姿に変えられることです。


(29節)

神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。


イエス様の栄光の姿にもう定められていることがわかります。

30節はこうです。


(30節)

神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。


まだ、苦しいのに、まるでもう確定事項のように、「栄光をお与えになりました」と言い切ります。

神様は時間を超えています。2026年の今を見ているけど、10年後、30年後、100年後を同時に見ています。神様は時間を超えています。だから、将来の話ではなくて、もう完了してるようです。神様の目は、もうすでに栄光が与えられた将来のあなたを見てるようです。

「義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。」

過去形で書くんですね。いつか栄光を与えますよ、でなく、もう、「栄光をお与えになりました。」です。パウロは今苦しいかどうか、じゃなくて、将来どうなるかを見ています。


18歳で免許とって、会社員になって忙しすぎて免許の更新ができず、失効してしまい、28歳でまた自動車学校に行きました。その時に、運転は自信あったんだけど、試験に2回おちました。

その時に先生に言われたのが、「遠藤さん、目線が近すぎる。もっと遠く見て、そしたら安定するから。」


同じように、目先の苦しみ不安材料を見るとだめです。あたふたしすぎます。聖書は将来の希望を栄光を見なさい、と言います。この希望は失望に終わることはありません。

「目線が近すぎる。」イエス様が聖書を通して仰っているようです。


これは人間だけでなく、自然界みんながそうだ、と言います。世界のすべて、自然の全てが苦しんでいると聖書は言います。


(22節)

私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。


この地球全体が気候が壊れ、動植物が苦しんでいます。うめいています。僕らは気候が自然界がおかしくなっているのをすごく感じています。夏の暑さは異常です。

旭川育ちの僕は、10代の時、耳と鼻が凍る凍傷を2回経験しました。それと比べたら、今の冬はもう冬じゃないなと思います。「被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき」とあります。世界が、自然が、全てがうめいています。


それでも、それは絶望に向かっているのでなく、希望に向かっています。22節は「ともに産みの苦しみをしています。」とあります。出産のようです。痛いし苦しいし、壊れそう、って思うけど、もうすぐ生まれる、この痛みは喜びに変わる、そういう苦しみです。未来を見るように、未来は滅びではなくて、栄光と自由です。


(21)

被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。


イエス様が死んで下さったけど、その先に復活と栄光があったように、

僕らクリスチャンたちも苦しみうめくけど、今は縛られるけど、一度死ぬことは決まっているけど、それは栄光と自由に変わります。


(22~23節)

それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。


初穂っていうのは最初の実です。

最初にトマトができたらば続いてたくさんのトマトができます。最初の実が初穂と言うんです。

僕らは「御霊の初穂」をいただいています。罪は赦されました。神様の子どもになりました、信仰も喜びももう与えられてます。御霊の実である愛も喜びも平安も与えられました。でも本番はまだまだこれからです。まだ、罪もあるし、縛られていることもあるし、病気もあるし、不自由です。まだまだです。それでも将来は完璧な人になります。「からだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。」


贖われる、と言うのは、完全に、名実ともに神様の子どもになる、ってことです。今はまだ、イエス様に似てません。でも、将来は、完全にイエス様と同じ栄光の姿になる、ってことです。苦しみも悲しみもない、心も体も完璧な栄光の人になります。僕らはすでに神様の子どもだけど、まだ似てません。これから苦しみを通って、栄光に入ります。これが順番です。この希望があるから、確定しているから、忍耐することができます。


(8章24~25節)

"私たちは、この望みとともに救われたのです。目に見える望みは望みではありません。目で見ているものを、だれが望むでしょうか。

私たちはまだ見ていないものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望みます。"


●苦しみの中に助けがあります。


それでも苦しみの渦中にあるのは辛いです。祈りも出てこず、ただ、うめくしかない、そんな経験がみなさんあると思います。「神様どうしてですか。神様いつまでですか。」「神様もうやめてください。もうラクにしてください。」何を祈ったらいいかわからなくなる時、みなさんあると思います。祈れない時もあると思います。でも、それでも神様の愛の助けの中にいます。弱い時こそ、御霊が助け、祈ってくださっています。


"同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。"

ローマ人への手紙 8章26節


僕らは祈れません。どう祈ったらいいかもすら分かりません。祈ってるけど、この祈りでいいのかどうかわかりません。それでOKです。

言葉にもならなくて、ただ涙だけ出る時あると思います。それでもOKです。神様は見放してないし、終わりではないです。何もできなくても、御霊が祈ってくださっています。一緒に苦しみ、うめき、取りなしてくださいます。


僕らがどんなに傷ついて不安で孤独か、全部知ってくださいます。そして、この場面でどう祈ったら良いかもベストな祈り、聞かれる祈りも知っておられます。僕らが何もわからず、暗闇でうめくだけで、神様、って言うだけ、涙が流れるだけでも、全てを知っている神様のご計画に向けて、ちゃんと神様のプランの通りに御霊が祈ってくださいます。


(27)

人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。


どうして、こんなことが起こるのか、こんな悲しいことが起こるのか、わからないことが多いです。小さい頭で分析しようとして、あれが原因だ、あれが悪かった、あの人が悪い、親が悪い、自分が悪い、と落ち込み込んだり、怒ったりします。でも御霊は違います。「御霊は神のみこころにしたがって、」います。しかも、それは闇に向かっているのではなくて、光に向かうステップです。


聖霊が弱い僕らと一緒に祈ってくださって、神様のご計画は苦しみの中で進んでいます。どうなるか、続きです。


(8章28~29節)

"神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。

神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。"


どこに向かっているか、御子イエス様と同じ姿に変えられるように向かっています。

全てのことが働いて、悪いことが、悲惨なことが、悲しい出来事が、働いて、益となると聖書は言います。「益となる」は自分が楽になるとか、うまくいく、じゃなくてイエス様に似た者に変えられることです。


「すべてのことがともに働いて益となる」とは?


29節「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」

30節「さらに栄光をお与えになりました。


悪いことをを材料にして、みなさんをキリストに似た姿に変えていきます。イエス様と同じ栄光を得るためには必要な試練です。それがないと、イエス様に似た人になれないからです。お父さんは神様、僕らは神様の子どもです。長男はイエス様。僕らは弟たち、妹たちです。


(8章29節)

"神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。"


苦しみを通して、僕らは長男であるイエス様、イエスお兄さんと同じ姿になります。苦難は忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出します。練られた品性とは、イエス様の愛の姿です。自分を捨てて、相手が生かされる愛です。


神様の子どもとなった人はそうなります。イエス様と同じ栄光に向かうために、苦しみを通されます。

自分を捨てて相手を忍耐し愛することは、天では何よりも誉められる栄光です。


僕らにはできなくても、御霊が助け、祈ってくださっています。御霊がそうさせてくれます。


自分が親になってみて思う事は、親がどれだけ自分のために忍耐してくれたか、ということです。

若い頃、10代の頃、あんなひどいことをしてきたのによく忍耐して、見捨てないでいてくれた、って感謝しかありません。ウチの親に栄光があるとしたら、やっぱり忍耐と犠牲を払ってくれたことだと思います。ひどい息子たちのために忍耐し、見捨てない、切らないでいてくれたこと。

栄光とは、ベンツに乗っていい家に住んだことよりも、傷つきながら赦したこと、それがキリストの栄光です。


みなさんが今忍耐していることは、将来の栄光に変換されます。

皆さんが傷つきながら赦しているなら、それは栄光に変換されます。


特にそれは身近な人の中で、特に家庭の中で行われます。

家族は祝福だけど、家族が苦しみになります。多くの場合一番醜い場面に遭遇するのは家庭です。

外ではみんなそれなりにいい人でやってるんです。でも1番近くにいる人を通して僕らは苦しみを通されます。それは、御霊の助けの場面だし、イエス様と一緒に忍耐する場面です。キリストの愛を表す場面です。結婚は祝福です。「おめでとう」とも思うけど、「これから苦しみが始まるよ」とも思います。


ののしられてもののしり返さず、苦しめられても脅すことをせず、祝福を与える、それがキリストとともに受ける栄光です。皆さんも栄光を受けます。イエス様と共に苦しみ、イエス様と共に栄光を受けます。


"神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。

神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。"

ローマ人への手紙 8章28~29節


この望みがあるから敵を赦します。栄光があるからやり返しません。望みがあるから悪口を拡散しません。望みがあるから距離を置かずに愛し、関わろうとします。将来の栄光に至る道はイエス様と一緒に苦しみも通ることです。


イエス様はこれから逮捕され、殺される、苦しみに入る前におっしゃいました。


「人の子が栄光を受ける時が来ました。」

ヨハネの福音書 12章23節


苦しい時が来ました。ではありません。これから拷問を受けること、殺されることが「栄光を受ける時」と言ったんです。苦しみは栄光のための通過点です。

みなさんの苦しみは神に見捨てられた証拠ではありません。

すべてのことが働いて益となります。栄光に至ります。


●まとめ


みなさんの苦しみはなんでしょうか。「イエス様の姿に変えられるための通過点」はなんでしょう。

です。祈れない、なんて言ったらいいかもわからない、それでOKです。「助けて」とうめくだけで、御霊が、一緒にうめいて祈ってくださっています。その苦しみは栄光に至ります。


8章17節

私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。"


Q.

あなたが今与えられて苦難は何ですか?

何のために与えられているのでしょう。