2026年3月1日日曜日

民数記31.25-54

 民数記31.25-54


給料をもらった時とか、何かを手にした時に「俺が頑張ったから当然!」と思うか「神様が与えてくれた」と思うかで神様への態度も、周りへの態度も変わります。ちなみに会社員の頃は僕はいつも「こんなに頑張ったのに…」と不満ばかりを言っていました。


神様の裁きとして、神様はイスラエルを用いてミディアンを滅ぼして多くの戦利品を手にしました。これは彼らが勝手に戦ったのでも頑張ったのでもはなくて、神様が「ミディアン人に復讐を果たせ。」と命令されたものです。(2)

結果としての戦利品は神様から与えられたものです。それで、その使い道や配分も神様は丁寧に教えてくれました。「誰のおかげ」とか「もっとよこせ」とか、欲に引っ張られて自分の手柄にしたがる人間にとって神様が教えてくださる配分は助けになります。



"主はモーセに言われた。

「あなたと祭司エルアザル、および会衆の氏族のかしらたちは、人でも家畜でも捕らえて分捕ったものの総数を調べ、

その分捕ったものを、戦に出た者たちと全会衆の間で二分せよ。

戦に出た戦士たちからは、人、牛、ろば、羊の中からそれぞれ五百のうち一を、主への貢ぎとして徴収せよ。

彼らが受けるその半分の中から取って、主への奉納物として祭司エルアザルに渡さなければならない。

イスラエルの子らが受けるもう半分の中から、人、また牛、ろば、羊、それぞれの家畜から、それぞれ五十のうち一を取り出して、主の幕屋の任務に当たるレビ人に与えなければならない。」

そこでモーセと祭司エルアザルは、主がモーセに命じられたとおりに行った。"

民数記 31章25~31節



神様からの戦利品は兵士たちのものになり、同時に全会衆のものにもなり、祭司のものにもなり、レビ人たちのものにもなりました。

でも、人はロボットではありません。兵士たちは自発的に感謝を表したくて、決められた以上のささげものを持ってきました。



"すると、軍団の指揮官たち、すなわち千人の長、百人の長たちがモーセのもとに進み出て、

モーセに言った。「しもべどもは、部下の戦士たちの総数を数えました。私たちのうち一人も欠けていません。

それで、私たちは、各自が手に入れた金の飾り物、すなわち腕飾り、腕輪、指輪、耳輪、首飾りなどを主へのささげ物として持って来ました。主の前で私たち自身のための宥めとしたいのです。」

モーセと祭司エルアザルは、彼らから金を受け取った。それはあらゆる種類の細工を施した物であった。

千人の長や百人の長たちが主に献げた奉納物の金は、全部で一万六千七百五十シェケルであった。"

民数記 31章48~52節



指揮官は感謝をささげますが、同時に「私たち自身のための宥めとしたいのです。」とも言っています。つまり、「敵だけでなく、自分たちにも罪があります。赦してください」という自覚の現れです。


神様ために用いられた人も、その人が完全なわけはないし、罪を犯さない人はいません。僕らの罪はただイエス様の十字架の血によって赦されきよめられます。イエス様以外に救いはありません。

だから今日もただイエス様に感謝をささげましょう。ささげものは自由です。多く赦された自覚のある人は多く感謝しささげます。自分の罪の赦しの大きさがわかららないとささげることが義務や強制になってしまいます。また、ささげると「俺が頑張ったから」という傲慢さから守られます。何かを成し遂げても、ささげたとしても、最初から全部神様から預かったものです。「私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。」(1歴代29.14)

今日も感謝を捧げましょう。全部神様のおかげです。ハレルヤ!



"それなら、私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。

善を行うことと、分かち合うことを忘れてはいけません。そのようないけにえを、神は喜ばれるのです。"

ヘブル人への手紙 13章15~16節




2026年2月27日金曜日

民数記30章

 民数記30章


愛して一緒に考えてくれる人がそばにいて、一緒に判断してくれるのはすごい恵みです。聖書は「相談して計画を整え、すぐれた指揮のもとに戦いを交えよ。」と教えます。(箴言20.18)

若くて未熟な娘が、感情任せで神様に「こうします!」と言ったとします。でも本当に娘を愛しているお父さんはそれにブレーキをかけることができます。



"女が若くてまだ父の家にいるときに、主に誓願をするか、あるいは物断ちをする場合には、

その父が彼女の誓願、あるいは物断ちを聞いて、彼女に何も言わなければ、彼女のすべての誓願は有効となる。彼女の物断ちもすべて有効となる。

しかし、もし父がそれを聞いた日に彼女に反対するなら、彼女の誓願、あるいは物断ちはすべて無効としなければならない。彼女の父が彼女に反対するのであるから、主は彼女を赦される。"

民数記 30章3~5節



お父さんがそれに反対したり承認したりするのは娘を愛してことが前提です。妻に対する夫の役目も同じです。妻が「神様こうします!」と言う時に、夫は一緒に神様に祈り、神様に伺い、必要なときには反対することも大事です。



"もし女が夫の家で誓願をするか、あるいは、誓って物断ちをする場合には、

夫がそれを聞いて、彼女に何も言わず、反対しないなら、彼女の誓願はすべて有効となる。彼女の物断ちもすべて有効となる。

もし夫が、そのことを聞いた日にそれらを破棄してしまうなら、その誓願も物断ちも、彼女の口から出たすべてのことは無効となる。彼女の夫がそれを破棄したのだから、主は彼女を赦される。

すべての誓願も、自らを戒めるための物断ちの誓いもみな、夫がそれを有効にすることができるし、それを破棄することもできる。

もし夫が日々、その妻に全く何も言わなければ、夫は彼女のすべての誓願、あるいは、すべての物断ちを有効にする。夫がそれを聞いた日に彼女に何も言わなかったのだから、彼はそれを有効にしたのである。

もし夫がそれを聞いた後、それを破棄するなら、夫が彼女の咎を負う。」

これらは、夫とその妻との間、父とまだ父の家にいる若い娘の間とに関して、主がモーセに命じられた掟である。"

民数記 30章10~16節



僕たちの本当の「お父さん」は神様です。本当の「夫」はイエスキリストです。イエス様は僕らのことを今日も祈り、愛し、守ってくださいます。

求めるならいつも真実な愛のある答えを下さる方です。

だからどんなことも自分だけで即決せずにまずは聞きましょう。求めるなら神様が聖書のことばを通して真実な答えを与えてくださいます。また、教会を通して答えを与えてくださいます。(1テモテ3.15)だから教会の指導者や、与えられている伴侶や、信頼できる先輩に聞きましょう。聖書は「相談して計画を整え、すぐれた指揮のもとに戦いを交えよ。」と教えます。(箴言20.18)「人が、ひとりでいるのは良くない。」とも(創世記2.18)「ふたりはひとりよりもまさっている。…三つ撚りの糸は簡単には切れない。」とも言います。(伝道者4.9-12)


神様が保護者です。イエス様は命を捨ててまで愛してくださる夫です。相談しましょう。ハレルヤ!

民数記29章

 民数記29章

2026年2月25日水曜日

民数記29章

 民数記29章


お祭りやイベントは盛り上がります。キャンプや賛美集会で燃えるのもいいけど、日常はもっと大事です。たまに「イベントだけ」の人もいて、終わったら急に冷えてしまいます。


神様はイスラエルの人々に神様のための祭りを年に数回行うように定められました。特にユダヤ暦の7月は(秋くらい)は3つのイベントが集中する月です。

…ですが、聖書は特別な祭りを書くたびに、「毎日のささげものとは別」と繰り返します。つまり、毎日の献身や、感謝や、賛美や、悔い改めもちゃんと継続的にするように、と教えているかのようです。毎日、地味だけど継続的なささげものの生活があっての、年数回の特別イベントです。

「イベントだけ盛り上がらないように」クギを刺しているかのようです。まずは7月1日です。



"第七の月には、その月の一日に聖なる会合を開かなければならない。あなたがたは、いかなる労働もしてはならない。これを、あなたがたにとって角笛が吹き鳴らされる日としなければならない。

あなたがたは、次のものを献げよ。主への芳ばしい香りとして、全焼のささげ物、すなわち、若い雄牛一頭、雄羊一匹、傷のない一歳の雄の子羊七匹。

それに添える穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉を、雄牛一頭につき十分の三エパ、雄羊一匹につき十分の二エパ、

七匹の子羊については、一匹につき十分の一エパ。

また、あなたがたのために宥めを行うには、罪のきよめのささげ物として、雄やぎ一匹。"

民数記 29章1~5節



7月1日は特別な日です。…ですが、実は「毎月1日」はいつも神様に感謝と献身をささげるように教えられています。つまり、「7/1は特別イベントだけど、毎月のささげものもちゃんと忘れないように」です。



"これとは別に、新月祭の全焼のささげ物とその穀物のささげ物、常供の全焼のささげ物とその穀物のささげ物、および、それらに添える注ぎのささげ物、すなわち、規定による、主への食物のささげ物、芳ばしい香り。"

民数記 29章6節



7月10日も特別な日です。すべての仕事が休みになり、神様に特別なものがささげられます。これは特に、人々の罪の赦しを願うための日で、レビ記23章では「なだめの日」と書かれています。

ですが、ここでも毎日のレギュラーのささげものとは「別である」と強調されています。日々の感謝や献身や悔い改めがあってこその特別な日です。毎日のささげものは「常供のささげもの」と書かれています。



"これらは、宥めのための罪のきよめのささげ物、常供の全焼のささげ物とそれに添える穀物のささげ物、および、それらに添える注ぎのささげ物とは別である。"

民数記 29章11節



さらに、7月15日からは7日間は、神様への特別な祭りの期間です「仮庵の祭り」とも言われています。(レビ記23章) 8日間、完全に仕事は休みになり、毎日特別なものがささげげられます。のちになると、ユダヤ人たちは必ずエルサレムに出かけて礼拝するようになります。それでも、毎日のささげものとは「別である」と強調してます。



"さらに罪のきよめのささげ物として、雄やぎ一匹。これらは、常供の全焼のささげ物と、それに添える穀物のささげ物、および注ぎのささげ物とは別である。"

民数記 29章16節



"さらに罪のきよめのささげ物として、雄やぎ一匹。これらは、常供の全焼のささげ物と、それに添える穀物のささげ物、および注ぎのささげ物とは別である。"

民数記 29章19節



お祭りやイベントは盛り上がります。でも土台は毎日の献身や、感謝や、賛美や、悔い改めです。土台があっての特別な集会です。キャンプや賛美イベントで燃えるのもいいけど、日常はもっと大事です。聖書はイスラエルの大きなイベント、神様のためのイベントを行うように伝えていますが、それと同じくらいに大切に毎日の継続的に神様に感謝と賛美をささげる大切さを伝えています。


田中満矢先生が「目立つステージも大事だけど日常の『裏』がもっと大事」と言っていました。今日も神様に感謝しましょう。今日も賛美をささげましょう。誰にも知られなくてOKです。神様が知っておられます。普段の感謝と献身と悔い改めがあってこその祭り、イベントです。


2026年2月24日火曜日

民数記28.16-31

 民数記28.16-31


何もなかった頃のことを思い出すと、今の全てが神様からの恵みだとわかります。環境も持ち物も全て神様からのプレゼントです。何もなかった頃、苦しくてもがいていた頃のことを思い出すのは恵みです。今は罪の束縛からも神様の怒りからも解放され必要なものが与えられています。全部が神様のおかげです。ところがその感動も感謝も忘れちゃうのが僕らです。あんなに感動して喜んでいた人が、いつの間にか神様に文句を言いながら離れていく姿、たまに見かけます。


イスラエルは40年前に奴隷から解放され救われました。神様の怒りによってエジプト全世帯の長男が次々と殺された時に、イスラエルは身代わりに子羊を殺すように言われて救われました。

その夜、何も持たずにエジプトを脱出しました。食料はただ小麦粉を焼いただけの種なしパンでした。彼らは何も持っていませんでした。


あれから40年経って、今イスラエルはいよいよ「乳と蜜の流れる豊かな土地」に住もうとしています。でも、この素晴らしい環境は神様からのものです。

神様は「救われた頃」「何もなかった頃」を忘れないために年に一度は家族で子羊を殺し、一週間はパン種の入らないせんべいのような質素な「種なしパン」を食べるように言われます。忘れないためです。



"第一の月の十四日は、過越のいけにえを主に献げなければならない。

この月の十五日は祭りである。七日間、種なしパンを食べなければならない。

その最初の日には、聖なる会合を開く。いかなる労働もしてはならない。"

民数記 28章16~18節



新しい土地で与えられる家畜も、小麦も、フルーツも、オリーブオイルも、全部神様からのものです。自分の力で手に入れたものではありません。



"あなたがたは、主への食物のささげ物、全焼のささげ物として、若い雄牛二頭、雄羊一匹、一歳の雄の子羊七匹を献げなければならない。それはあなたがたにとって傷のないものでなければならない。

それに添える穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉を、雄牛一頭につき十分の三エパ、雄羊一匹につき十分の二エパとする。

子羊七匹については、一匹につき十分の一エパとする。"

民数記 28章19~21節



労働から離れて神様に感謝することは僕らを原点に戻します。「仕事で稼いで生きるのではない」と確認できるからです。収穫やお金を神様にささげることは僕らを謙虚にします。「すべてが神様から与えられたもの」という原点に戻ることができるからです。何かを失うことも僕らを謙虚にします。「すべてが神様からの一時預かり」だと気がつくからです。

僕ら全員いつか死にます。全てを神様にお返しし、この肉体もお返しして死を迎えます。いのちも力も持ち物も主からの一時あずかりです。


最初は神様に感謝し感動していたのに、いつの間にか「あたり前」になってしまい、そのうちに収入も力も「自分の誇り」になり、自分の考えと少し違うだけで「不満」になるのはよくある話です。


傲慢になる僕らのために、週に1度は仕事から離れて神様に集中する安息日を神様は定めてくださいました。さらに年に数回は完全に仕事から離れ、神様にだけ集中する集会に参加する日を作ってくださいました。



"その最初の日には、聖なる会合を開く。いかなる労働もしてはならない。"

民数記 28章18節



毎年秋に収穫があった時も、まずは仕事を休みます。収穫も収入も全部神様からのものだからです。



"七日目にあなたがたは聖なる会合を開かなければならない。いかなる労働もしてはならない。

初穂の日、すなわち七週の祭りに、新しい穀物のささげ物を主に献げるときには、聖なる会合を開かなければならない。いかなる労働もしてはならない。"

民数記 28章25~26節



僕らの人生、全部神様からの恵みです。自分で手に入れたものなんてありません。原点に戻りましょう。感謝しましょう。何もなかった頃のことを思い出しましょう。


いったいだれが、あなたをほかの人よりもすぐれていると認めるのですか。あなたには、何か、もらわなかったものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。"

コリント人への手紙 第一 4章7節