2026年3月9日月曜日

民数記34.9-34

 民数記34.9-34


神様はやっぱり「きれい好き」です。神様が与えようとして土地の中に、汚い罪がないように、特に人を傷つけ人を殺すことは「土地を汚す」といいます。その土地は「わたしが…ただ中に宿るから」です。(34)



"あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地にとって、そこで流された血は、その血を流した者の血以外によって宥められることはない。

あなたがたは、自分たちの住む土地、わたし自身がそのただ中に宿る土地を汚してはならない。主であるわたしが、イスラエルの子らのただ中に宿るからである。」"

民数記 35章33~34節



殺人は個人の問題ではなくその土地全体を汚し、その人たち全体を汚す問題です。だから誰かを殺した人は殺さなければなりません。土地がきよめられるためには「その血を流した者の血」が必要です。



"土地にとって、そこで流された血は、その血を流した者の血以外によって宥められることはない。"

民数記 35章33節



人がいきなり殺人をすることはなくて、まず小さな「恨み」「憎しみ」「ねたみ」が芽生え、それを放置するうちに成長し「死ねばいい」「死んでくれ」「殺してやる」になり、それが行動に出ます。(ヤコブ1.13-14)

神様が見ているのは「心」です。

殺意をもって殺した人は必ず正しくさばかれ、殺され、その土地がきよく保たれるように、と教えます。



"もし鉄の器具で人を打って死なせたなら、その人は殺人者である。その殺人者は必ず殺されなければならない。

もし、人を殺せるほどの、手に持てる石で人を打って死なせたなら、その人は殺人者である。その殺人者は必ず殺されなければならない。

あるいは、人を殺せるほどの、片手に持てる木製の器具で人を打って死なせたなら、その人は殺人者である。その殺人者は必ず殺されなければならない。

血の復讐をする者は、自分でその殺人者を殺してもよい。彼に出くわしたときに、殺してもよい。

もし、人が憎しみをもって人を突き倒すか、あるいは悪意をもって人に物を投げつけて死なせたなら、

または、敵意をもって人を手で打って死なせたなら、その打った者は必ず殺されなければならない。その人は殺人者である。その血の復讐をする者がその殺人者に出くわしたときには、彼を殺してもよい。"

民数記 35章16~21節



問題は殺人が起きてからでではなく、すでに芽を出している心の中の小さな憎しみや怒りや敵意です。だから小さいうちに捨てなさい、と聖書はいいます。



"無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。"

エペソ人への手紙 4章31節



逆に、悪意がなく、憎しみもないのに、不慮の事故で誰かが死んでしまうこともあります。それは罪に問われず、その人は「逃れの町」で守られます。

神様は復讐や不要な仕返しから守られるように、「逃れの町」を作るように命令しました。悪意がなかった人、意図しない事故で人を殺してしまった人はそこに逃れることができて、過剰な復讐や相手側からの攻撃から守られます。



"このヨルダンの川向こうに三つの町を、カナンの地に三つの町を与えて、逃れの町としなければならない。

イスラエルの子ら、または彼らの間に在住している寄留者のために、これら六つの町は逃れの場所となる。すべて誤って人を打ち殺してしまった者が、そこに逃れるためである。"

民数記 35章14~15節


"もし敵意もなく突然人を突き倒し、あるいは悪意なしに何か物を投げつけ、

または、人を死なせるほどの石を、よく見ないで人の上に落としてしまい、それによってその人が死んだなら、しかもその人が自分の敵ではなく、害を加えようとしたわけではないなら、

会衆は、打ち殺した者と、血の復讐をする者との間を、これらの定めに基づいてさばかなければならない。

会衆は、その殺人者を血の復讐をする者の手から救い出し、彼を、逃げ込んだその逃れの町に帰してやらなければならない。彼は、聖なる油を注がれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければならない。"

民数記 35章22~25節



神様が見ておられるのは、結果ではなく動機です。人は結果を見ますが、神様は心を見ます。たとえ殺さなくても、心の中で密かに憎しみや殺意を育てたままにしているなら、すでに実行犯と同じです。

だから、イエス様は人を憎しみ怒ることも、逆に恨まれていることも、まだ相手に謝ってないことも、小さいうちにそれを告白し、きよめてもらうように教えます。



"昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。

ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、

ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。"

マタイの福音書 5章21~24節



どんな殺意も、憤りや憎しみも、イエス様に告白して手放すなら解放されます。本当です。ちゃんと口で告白して、神様に明け渡してそれをやめます、と祈ることです。どんな罪もイエス・キリストの十字架によってきよめられます。憎しみを放置するなら人殺しです。


"兄弟を憎む者はみな、人殺しです。あなたがたが知っているように、だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありません。

ヨハネの手紙 第一 3章15節



僕らの心が汚いままなら死刑と同罪です。そんな僕らの罪を、イエス様は引き受けてくださいました。僕らの中にある罪を引き受け、十字架で血を流してきよめてくださいました。赦しやきよめはイエス様の十字架の血によります。この方以外には、どんな方法も与えられていません。(使徒4.12)



"御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。

もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。"

ヨハネの手紙 第一 1章7~8節



神様はやっぱり「きれい好き」です。神様が与えようとして土地の中に、汚いものがように、今日も小さな罪を告白して捨てましょう。僕らの心も体も神様の住まいです。教会は神様の住まいです。個人の問題ではありません。それは全体を汚します。今日も告白し、赦されたことを信じ、きれいにしていただきましょう。相手を愛しましょう。ののしる人を祝福しましょう。


「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。」(エペソ4.32)ハレルヤ!



2026年3月6日金曜日

民数記32.51-56

 民数記32.51-56

2026年3月5日木曜日

民数記32.20-42

 民数記32.20-42

民数27章15-23節 関西聖書学院卒業派遣式メッセージ「次の世代に流れていく祝福」

 民数27章15-23節 関西聖書学院卒業派遣式メッセージ「次の世代に流れていく祝福」


今日、このような日に皆さんと一緒に神様に賛美をし、一緒に卒業生、修了生を派遣することができること嬉しく思います。また、この場所に一緒にいることだけでも光栄です。いつもKBIに来ると御霊の風が吹いているのを感じます。御霊の喜びを感じます。神様に感謝します。

この日、神様が私たちに与えて下さったみことばを一緒に聴きたいと思います。


今日読んだのモーセが神様からあなたはもうすぐ死ぬ、と言われた時の祈りと願い。

最後の祈り。最後の願いです。彼が最後に祈り願ったのは、自分のことではありません。


(16-17)

「すべての肉なるものの霊をつかさどる神、主よ。一人の人を会衆の上に定め、

彼が、彼らに先立って出て行き、先立って入り、また彼らを導き出し、導き入れるようにしてください。主の会衆を、羊飼いのいない羊の群れのようにしないでください。」


もうすぐ死にます。最後の願いは自分がいなくなった後、この人々、荒野に残された約200万~300万人を守りください、という願いです。「主の会衆を、羊飼いのいない羊の群れのようにしないでください。」


彼は元、羊飼いです。40年も羊を飼って生活してました。だから羊をよく知ってます。弱くて、自分では生きていけないのが羊です。羊は方向がわかりません。前の羊が崖から落ちたらよく見えないので、一緒に落ちるレベルです。自分のきた道がわからない動物です。弱くて敵に襲われたら何もできません。キバもありません。足も遅いです。怖がりで、安心するまで眠れません。水も飲めません。そんな弱い羊たちのみたいにこの人々を放置しないでください、滅んでいきます。だから彼は祈り、願います。自分が死んだ後、一人の羊飼いのようなリーダーを与えてください。


(16-17)

「一人の人を会衆の上に定め、彼が、彼らに先立って出て行き、先立って入り、また彼らを導き出し、導き入れるようにしてください。」


羊飼いは羊たちを導く、守る、先立って行く、安心させる人です。

モーセが求めたのは「後継者」じゃないです。指導者でもなくて、「牧会者」を求めたんです。

人々を安心させ、導き、愛して、守る人を求めました。

神様はその祈りに応えてくださいました。


(18)

主はモーセに言われた。「あなたは、神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを連れて来て、あなたの手を彼の上に置け。


神様は祈りに応えてくださいます。人々を散り散りにしないし、弱らせないし、敵から守ってくださいます。そのためにヨシュアを連れてきなさい、とおっしゃいました。すでにヨシュアには神様の霊が宿っていると書いてあります。「あなたの手を彼の上に置け。」とおっしゃいます。


(20)

あなたは、自分の権威を彼に分け与え、イスラエルの全会衆を彼に聞き従わせよ。


ヨシュアはモーセと同じ主の霊が与えられ、御霊によって愛し、導く人です。そして彼の上に「権威を与えなさい」と20節に書いてあります。


この「権威」は神様から預かった力です

モーセも権威がありました。それは神様の権威です。神様が「光あれ」とおっしゃるだけでそうなる力があります。その力、権威のあることばを預かりそのまま伝えました。神様の言葉なのでその通りになります。

権威は神様からの権威です。神様の言葉と権威はセットです。

ヨシュアに神様のからの権威を与えなさい、とおっしゃいました。


(20)

あなたは、自分の権威を彼に分け与え、イスラエルの全会衆を彼に聞き従わせよ。


権威もことばも神様からのものです。モーセだって今でこそ偉大な指導者ですけれども、もともと、何もなかった弱い人でした。召されても何度も断りました。


( 出エジプト 4:13)

「ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください。」

(6.11)

「私は口べたなのです。」


何度も何度も「無理です」というモーセに、神様が聖霊を与え、力を与え、知恵を与え続けてくださって、このモーセはリーダーとなりました。モーセを通して律法が与えられ、今も世界に影響を与える人になりました。3500年以上、今も影響力があります。これはモーセの手柄ではありません。神様が預けてくださったからです。知恵も力も神様が与えてくださるものです。当たり前です。


この同じエピソードが申命記にも書かれています


(申命記34章9節)

ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満たされていた。モーセがかつて彼の上にその手を置いたからである。


「手を置く」というのは「相手と共有する」ということです。相手と「一つになる」という意味があります。例えば全焼の生贄の頭に手を置くことは、これは私自身です、という表現です。全焼の生贄は灰になるまで焼かれ、神様にすべて捧げ尽くされます。それは私の全てを捧げます、という表現です。


モーセがヨシュアの上に手を置くことは、モーセに与えられている賜物をあなたと共有する、ことです。私とあなたは一つ、ということです。私のものはあなたのもの、ということです。


他にも実例があります。

パウロは若い牧師テモテに手を置きました。それは自分に与えられている聖霊の賜物がこの若者テモテにも共有できるように、与えられるようにという祈りです。

そして本当にテモテにも同じように聖霊による力、愛、慎みが与えられました。

手紙でこのように書いています。


(2テモテ1:6-7)

私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。


KBI先生たちに与えられている賜物は派遣される皆さんのものです。


※舟喜信先生のこと 

僕も聖書宣教会を25年前に卒業しました。当時の会長は舟喜信という先生でした。アンテオケ宣教会が1977年にできた時、発起人だった先生です。先生が召された時、僕は札幌にいました。どういうわけか涙が止まりませんでした。

そして、祈りました。というか祈らされた感じがしまいた。「神様、舟喜信信先生に与えて下さった霊の二倍を僕にください。」泣きながら何度も祈りました。


エリヤが天に召される時、エリシャに欲しいものを求めなさい、と言いました。エリシャは2倍の霊を求めました。そして、本当にエリヤよりも多くの奇跡をしています。数えた人がいて、エリヤの奇跡は8回、エリシャは16回だそうです。


派遣されるみなさんも求めましょう。二倍の霊をください。

三倍の霊をください、と。KBIの先生たちの賜物は、皆さんのものです。大田先生の二倍、めぐみ先生の二倍、富浦先生の二倍、福野先生の二倍、吉田先生の二倍を与えてください、と祈り求めましょう。


神様は、モーセにヨシュアに手を置いて、権威を与えよ、とおっしゃいました。

知恵も力も与えられたのは、手を置いたから、と聖書は言います。


(申命記34章9節)

ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満たされていた。モーセがかつて彼の上にその手を置いたからである。


人を使わなくても神様は何でもできます。

けれども神様は人間を用いて次の世代にその神様の賜物が、愛が、力が、祝福が、広がって行くようにされています。神様の愛と恵みは広がっていきます。その方法はいつも人間を用いてです。


神様ですから触らなくても何でもできます。

だけど、イエス様は天から人間になって降りてきてくださいました。赤ちゃんになって、すべての点で人間と同じようになり、一緒に苦しみ、悲しみ、そして一緒に喜ぶ方です。言葉だけで世界を作る方が、わざわざ病人に近づいて、触ることをしてくださいました。イエス様はいつも子どもたちに手を置いて祝福されました。

イエス様はみんなが避けている汚れた病人を触って癒されました。


これがイエス様の願いです。そして、キリストの体である教会の願いです。私たちだけがよければいいのでなく、次の世代にそれが豊かにますます増し加えられるように祈っていく必要があります。


モーセは、羊飼いのいない羊のようにしないでください、って祈りました。羊飼いを与えてください、と祈りました。良い羊飼いは羊のために命を捨てます


(ヨハネ 10:12-13)

雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。


皆さんが、これから遣わされたところで「先生」になるのではなく、一緒に悩みながら一緒に傷つきながら一緒に喜びながら、そうやって人々を導く良い羊飼いになっていきますように。

そして次の人が祝福され、良いものを受け継ぐことができますように。受けるより与える人です。

これは自分でできることではありません。神様から与えられる権威、力、愛、あらゆる良いものは神様からのものです。


牧師になって25年になるけど、まだまだ羊を心にかける本当の牧師にはなってないと感じます。いつも自己保身が先になってしまい、傷つかない距離を持とうとしてしまいます。

でも求めています。私たちの力ではありません。イエス様の力です。与えられるものです。


関西聖書学院で学んだ経験や力は皆さんだけのものではありません。次の人に与えるためのものです。


遠藤牧師はサックスできていいですね、で終わってはダメです。

僕のものは神様からのもの、そしてそれは次の世代に何倍にも広がっていくためのものです。

僕は北海道聖書学院で教会音楽のクラスを担当させてもらっていることや、リバーワーシップスクールで教える機会が与えられていることをすごく感謝しています。預かった賜物は次の人たちのものです。

これはパウロも言っています


(2テモテ 2:2)

多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。


まず神様がパウロに預けてくださいました。パウロは御言葉をテモテに委ね教えていきました。

そして、テモテも同じように「教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」

もうここの一行だけで4世代です。パウロ、テモテ、テモテが教える人、その人が教える人

ここだけで5世代です。これが聖書の願い、キリストの願い、そして教会の願いです。


※数年前、私たち夫婦はシンガポールで研修会に参加させてもらいました。講師のチャン先生が言いました。「私たちの教会や牧会がうまくいっているかどうか、評価の対象ではありません。私たちが目指すべきは、次の世代がどうなるか、そしてさらにその次の世代がどうなっているか、です」


手を置いて、自分のものを相手に共有して、歩んでいくのは1日でできることではありません。もちろん祈ってもらうのはいいけど、一度祈ってもらって「はい、いただきました」ではありません。


数年前のメビックセミナーのテーマは「イエス様の弟子を育てる弟子を育てる弟子を育てる」でした。聖書がいう通りです。


僕らは神様の愛と権威を次の人たちに伝えるものです。僕らは次世代への通り道にすぎません。

イエス様がおっしゃいます。「受けるより与える人は幸いです。」与える人はもっと神様から与えられます。流れていく水は濁りません。澱みません。


次の人に与えましょう。自分よりも相手がもっと良いものを受けるように、与えるために寄り添っていきましょう。


派遣されるみなさんが偉い人になりませんように。受けるだけの人になりませんように。

与える人になりますように。神様の恵を次の人に流していく人になりますように。