2026年5月14日木曜日

1歴代11.15-19

 1歴代11.15-19


ダビデ王に対する愛と献身が本気すぎて「何でもやる」「どんなリスクでも取る」「死んでもいい」というレベルの勇士たちが書かれています。しかも、ダビデ王が認められず、拒絶され、洞穴で逃亡しているような時に、です。ダビデ王は「キリストのモデル」だと言われています。両者には多くの共通点があります。


「ダビデ王」=神様から任命されているのにもかかわらず、人々から拒絶され、荒野に逃げた。従う人たちは少数。でも最終的には王座に着く。


「キリスト」=永遠の王様なのに、この世では拒絶され、苦しめられ、十字架で殺された。従うものは少数。日本では特にそう。


ダビデがまだ軽く見られ、命を狙われていた時に、すでに本気で信頼し、従い、愛した勇士たちがいました。その理由は神様が「あなたがわたしの民イスラエルの君主となる」(2)と神様がおっしゃったからです。彼らは「主のことばのとおり、彼を王とした人々」(10)です。主の約束を信じて本気で従いました。



"ダビデの勇士のかしらたちは次のとおりである。彼らは、ダビデとともにその王権を強固にし、全イスラエルとともに、イスラエルについての主のことばのとおり、彼を王とした人々である。"

歴代誌 第一 11章10節



"三十人のかしらのうちのこの三人は、岩場にあるアドラムの洞穴にいるダビデのところに下って来た。ペリシテ人の陣営はレファイムの谷間に敷かれていた。

そのときダビデは要害にいて、ペリシテ人の守備隊はそのときベツレヘムにいた。

ダビデは切に望んで、「だれか私に、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらよいのだが」と言った。

三人はペリシテ人の陣営を突き破って、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。"

歴代誌 第一 11章15~18節



ダビデの故郷ベツレヘムはペリシテ人たちに占領されていました。

ダビデは「故郷の水が飲みたい」と願いました。命令ではありません。願っただけです。だのに、3人の勇士はそのために敵陣に突入し命をかけて水を汲んできます。「ダビデのためなら何でもする」「死んでもいい」という献身です。


もし僕らの人生が「自分のため」ならなるべくラクして平和でいたいものです。犠牲を払うなんてイヤに決まってます。

ところが「神様のため」なら変わります。

傷つけられたり、奪われたりすることがあっても、たとえ死ぬことがあっても天地を作り、命を支配しておられる神様に喜ばれることには大きな価値があります。今日も世界を支配し、たとえ死んでも永遠のいのちを与えてくださる神様です。三勇士はダビデを王とする、とおっしゃった神様に献身し行動しました。もしも命を失ったとしても、その人は100倍を手に入れる、と神様はおっしゃいます。(マルコ10.29-30)


神様への信頼と愛は僕らを自由にします。

いちいち地上のリスクや損得で判断しません。なぜなら天での勝利が確約されているからです。そこには喜びがあります。ダビデに仕えることは、キリストに仕えることのモデルです。

そして、ダビデ自身も自分を神様にささげるキリストのモデルです。

ダビデは勇士たちがいのちがけで汲んできてくれた水を自分のものとせず、それを神様にささげました。



"しかしダビデはそれを飲もうとはせず、それを主の前に注いで、

こう言った。「そんなことをするなど、私の神の御前に、絶対にできない。いのちをかけて行った人たちの血を、どうして飲めるだろうか。彼らは、いのちをかけてこれを運んで来てくれたのだ。」彼はそれを飲もうとはしなかった。三勇士は、そのようなことまでしたのである。"

歴代誌 第一 11章18~19節



イエス様は自分の命を十字架の上で神様にささげました。

イエス様は神様への愛と従順のお手本です。

同じように、僕らの命も財産も全部神様のものです。もし手放しても失うことはありません。もともと全てが神様のものだからです。

この世で何の見返りがなくても、イエス様に仕え、愛し、従い、全てをささげることは神様の喜びです。そして、天では大きな栄光と報いが用意されています。


今日もイエス様のためにささげましょう。時間を、力を、傷つくことを、忍耐を、赦しを、歌を、奉仕を、お金を、イエス様のためにささげましょう。神様の願いは、僕らが本気で神様を愛することです。


"イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』"

マタイの福音書 22章37節


イエス様こそ永遠の王様です。世間に変だと思われても、バカにされても、やがて世界を治めるイエス様です。この方に仕えることには最高の価値があります。ハレルヤ!

2026年5月13日水曜日

1歴代10章

 1歴代10章


「あ、この電球死んでる」とか「このスマホ死んでる」と言います。電気の製品は電気とのつながりが切れると死にます。同じように、僕らも神様とつながると生き、神様と切れると死にます。


サウル王は最初は神様とつながっていた王様でした。ところがだんだんと神様より自分の考え、自分のプライドを優先するようになり、ついには神様との関係が切れました。

「罪」とは神様と切れることです。「罪」から来る報酬は「死」です。(ローマ6.23)


サウルは神様から離れた結果、肉体的な命も終わりました。戦死ですが

聖書は「主の信頼を裏切った不信の罪のゆえに死んだ」「主は彼を殺し」とはっきり言います。(13-14節)罪の結果は死です。



"攻撃はサウルに集中し、射手たちが彼を狙い撃ちにしたので、彼は射手たちのゆえに傷を負った。

サウルは道具持ちに言った。「おまえの剣を抜いて、私を刺し殺してくれ。さもないと、あの無割礼の者たちがやって来て、私をなぶりものにするだろう。」しかし、道具持ちは非常に恐れて、とうていその気になれなかった。それでサウルは剣を取り、その上に倒れ込んだ。

道具持ちは、サウルが死んだのを見ると、自分も剣の上に身を伏せて死んだ。

こうしてサウルは死に、彼の三人の息子も彼の全家も、ともに死んだ。"

歴代誌 第一 10章3~6節



"このように、サウルは主の信頼を裏切った不信の罪のゆえに死んだ。彼は主のことばを守らず、霊媒に伺いを立てることまでして、

主に尋ねることをしなかった。そのため、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに回された。"

歴代誌 第一 10章13~14節



神様から離れるなら人は死にます。今、イエス様を信じていのちに繋がっていない人は死に向かっています。生きているようでも向かう先は死です。サウルは神様と切れて霊媒に繋がろうとさえしました。神の裁きとは「死」です。



裁きは神様の専門領域です。人間には人を裁くことが許可されていません。

僕らに委ねられているのは、人を裁いたり殺したりすることではなく、尊敬し愛し生かそうとすることです。永遠のいのちであるイエス様を紹介しつながるようにすすめることです。


神様と切れ、裁かれて死んだサウル王の死体は敵のさらし者にされました。

それでもヤベシュギルアデの住民たちは、サウル王に尊敬を表したいと願い、敵地に行って遺体を奪い返してきました。遺体を丁寧に葬るのは故人への尊敬の行為です。悪い王であっても、ひととき神様が選び用いてくださったことには変わりがありません。彼らはサウル王への尊敬を表し、丁寧に葬りました。



"彼らはサウルからはぎ取り、彼の首と武具を取った。そして、ペリシテ人の地の隅々にまで人を送り、彼らの偶像と民とに告げ知らせた。

彼らはサウルの武具を彼らの神々の神殿に奉納し、彼の首はダゴンの神殿にさらした。

ヤベシュ・ギルアデの人々はみな、ペリシテ人がサウルに行った仕打ちをすべて聞いた。

そこで勇士たちがみな立ち上がり、サウルの亡骸と彼の息子たちの亡骸を取り上げ、これをヤベシュに運んで、彼らの骨をヤベシュにある樫の木の下に葬り、七日間、断食した。"

歴代誌 第一 10章9~12節



ダビデはサウル王にひどい仕打ちをされ何度も殺されそうになった人です。

それでも神様がひとときサウルを王様にしたのは事実です。だからダビデは裁くことはせず、最後までサウル王を尊敬し、自分では手を下さないことを選び続けました。ダビデは勇気を出してサウル王の遺体を丁寧に葬ってくれた人々に感謝を述べています。



"ユダの人々がやって来て、そこでダビデに油を注ぎ、ユダの家の王とした。ヤベシュ・ギルアデの人々がサウルを葬ったことが、ダビデに知らされたとき、

ダビデはヤベシュ・ギルアデの人々に使者たちを遣わし、彼らに言った。「あなたがたが主に祝福されるように。あなたがたは、あのような真実を尽くして主君サウルを葬った。

今、主があなたがたに恵みとまことを施してくださるように。あなたがたがそのようなことをしたので、この私もあなたがたに善をもって報いよう。"

サムエル記 第二 2章4~6節



罪の結果は死です。「人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」(ローマ6.7-8)


罪は必ず神様が裁かれます。僕らは神様を超えて人を裁いたり殺したりすることは許可されていません。僕らに任されていることは尊敬し愛することです。今日も神様に信頼しましょう。神様に聞き、神様に従いましょう。神様とつながると生き、神様と切れると死にます。

2026年5月12日火曜日

1歴代9.17-34

 1歴代9.17-34


人は給料のためだけに働いているのではなくて「誰かの役に立てた」とか「必要とされた」とか「認められた」などなど「愛したり信頼されたりするため」

に働く面があります。


赤ちゃんはちゃんと話せなくても一才ぐらいで「はい、どうじょ」とモノを相手に渡すのを喜びます。人間は最初から「人とつながりたい」「相手に喜ばれたい」と願うようです。


人間を作った神様は最初から人が神様を愛し、仕え、また互いに愛し、仕えるように作られました。受けるより与える方が幸いです。

神様だけで充分この世界は素晴らしく回るのに、神様はあえて人間と一緒にこの世界を管理しておられます。


会見の天幕は、天あるものの模型だと聖書は言います。(ヘブル8.5) 門を守ることも、ささげられた宝物を守ることも、神様はあえて「人と一緒に」することを願っておられます。



"ダビデと予見者サムエルが、彼らの忠実さに基づいて、この職務を定めたのである。

彼らとその子らは、守衛として主の宮すなわち天幕の家の門を受け持った。"

歴代誌 第一 9章22~23節



"門衛の長である四人のレビ人は信任を得て、神の宮の脇部屋および宝物倉を受け持った。

彼らは神の宮の周りで夜を過ごした。彼らには任務が課せられていて、朝ごとに鍵を開けたからである。

彼らの中のある者は、奉仕のための器具を受け持った。数を合わせてこれらを運び入れ、数を合わせてこれらを運び出した。

また彼らの中のある者は、用具、すべての聖なる用具と、小麦粉、ぶどう酒、油、乳香、バルサム油の管理を割り当てられた。"

歴代誌 第一 9章26~29節



神様の宝を数え、保管することを任せてくださいました。盗まれないようにすることも、汚れたものを入れないようにすることも、神様だけでできるのに、人間に任せてくださいます。しかも、26節には「信任を得て」とあります。

イスラエル中から集まるささげものとか、他の国からも集まってくるささげものは莫大だったと思います。


神様の願いは「人間と一緒に」です。地上だけでなく、天国でも人と一緒に過ごすことが神様の願いです。会見の天幕は、天国にあるもののコピーです。そこでは、昼も夜も神様への賛美が捧げられていました。



"これらは歌い手で、レビ人の一族のかしらであり、各部屋にいて、ほかの務めを免れていた。昼となく夜となく彼らはその務めに携わったからである。"

歴代誌 第一 9章33節



賛美は、義務とか当番ではなくて神様との愛の交わりです。人が声を使って、体を使って神様にささげます。人間は最初からそのように神様を愛し神様とつながるように作られています。


今日も僕らのあらゆる業種は神様とつながるため、そして人とつながるための仕事です。お客さんを愛し、神様を愛するために与えてくださった役目です。その根底には神様への感謝と賛美があります。

僕らは神様を愛し、仕え、人を愛し、仕えるように作られています。今日も愛しましょう。仕えましょう。ハレルヤ!



2026年5月7日木曜日

1歴代6.54-81

 1歴代6.54-81

2026年5月6日水曜日

1歴代6.31-47

 1歴代6.31-47


いろいろと用事はあるけど、神様に賛美と感謝をささげるのは、最優先にすべきことです。「人生は神様に感謝と賛美をささげるためにある」というのは言い過ぎでも大げさでもありません。

ダビデの時代には神様の前で賛美の歌を歌い続ける代表者チームが選ばれました。これは僕らが毎日感謝と賛美をささげるモデルのようです。



"契約の箱が安置所に納められた後、ダビデが主の宮の歌を受け持たせるために立てた人たちは、次のとおりである。

ソロモンがエルサレムに主の宮を建てるまでは、この者たちが会見の天幕である幕屋の前で、歌をもって仕え、それぞれ定めにしたがって奉仕を受け持った。"

歴代誌 第一 6章31~32節



3人のメンバーが中心になって当時のイスラエルを代表する賛美チームが作られました。歴代誌第一は繰り返して賛美することの大切さを教えています。6章でも、9章でも、15章も16章も23章も25章もです。聖書は賛美の歌を歌うことの大切さを繰り返します。そのリーダーとして選ばれた1人はヘマン、もう1人はアサフ、そしてもう1人はエタン(他の箇所ではエドトンとも言われています。)です。



"奉仕をした者たちとその一族は次のとおりである。ケハテ族からはヨエルの子、歌い手ヘマン。ヨエルはサムエルの子、"

歴代誌 第一 6章33節



"ヘマンの兄弟アサフは、彼の右側に立って仕えた。アサフはベレクヤの子、ベレクヤはシムアの子、"

歴代誌 第一 6章39節



"左側には、彼らの同胞メラリ族の、キシの子エタンがいた。キシはアブディの子、アブディはマルクの子、"

歴代誌 第一 6章44節



この時代、選ばれた歌い手たちは他の仕事はせずに、昼も夜も神様を賛美することに専念しました。これは僕らが何をする時も賛美、全てのことを感謝、という時代が来ることのモデルです。



"これらは歌い手で、レビ人の一族のかしらであり、各部屋にいて、ほかの務めを免れていた。昼となく夜となく彼らはその務めに携わったからである。"

歴代誌 第一 9章33節



この代表者たちはいつも神様の前に神様の偉大さを告白し、呼び求め、感謝と賛美を捧げ続けました。彼らの歌や賛美や感謝は「常に」です。



"それから、レビ人の中のある者たちを任命して主の箱の前で仕えさせ、イスラエルの神、主に向かってその御名を呼び、告白し、賛美するようにした。"

歴代誌 第一 16章4節



"ダビデはそこに、主の契約の箱の前にアサフとその兄弟たちをとどめおき、毎日の日課として、常に箱の前で仕えさせた。"

歴代誌 第一 16章37節



神様の願いは今日も同じです。すべてのことを感謝し、神様の偉大さを告白する賛美をささげることです。賛美は音楽家だけがするのではありません。特別なステージ演奏でもありません。聖書は日常全てにおいて「感謝しなさい」「賛美しなさい」と教えます。



"詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。

いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。"

エペソ人への手紙 5章19~20節



賛美をささげることは最優先にすべきことです。「片手間なこと」「ついでにすること」ではありません。「賛美好きなあの人たち」だけがすることでもありません。今日も時間をとって感謝しましょう。賛美しましょう。声に出して、言葉にして歌いましょう。それは神様に喜ばれる最高のささげものです。ヘブル13.15は言います。「私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。」ハレルヤ!