2026年10月16日金曜日

賛美 🎵信じるなら山は動く マタイ17章14節-20節メッセージ

 今日は「信じるなら山は動く」って賛美を歌いました。

素晴らしい歌詞です。


僕らは不安や恐れでいっぱいになることがあります。

そんなとき、「状況を変えよう」「自分の力で修復しよう」と思うけど、でも、相手も自分も状況も人間が自由に変えることはできません。

今日の歌は言います。


🎵わたしの全てを 主にささげます

あなたの栄光を見たいから



自分の力でも栄光でもなく「神様の栄光を、神様の力をみたい」って歌います。

偉大なことをしてくださるのは神様です。



🎵イエスへの期待で この心満たす

偉大なこと起こると信じる



大事のは「僕はできない」「でもイエス様には全てができる」と信じて委ねることです。

「イエス様、相手の心も僕の心も、状況も全部あなたの御手に委ねます。」と祈ります。


信じる、とは、自分の頭だけで何とかしようとするのをやめて、まず神様に助けを求めることです。


🎵主に不可能ない イエスに不可能はない


イエス様にはどんなことも可能です。

祈る時、願う時、物事が動く時、僕らの力は0%、イエス様100%です。

でも同時に、僕らが何もしなくていいという意味ではありません。神様に助けを求め、神様に信頼しながら、自分にできる一歩を踏み出すことです。


ある時、悪霊に取り憑かれた子どもが弟子たちのところに連れて来られました。

子どもが悪霊に取り憑かれて、火の中に倒れたり、水に落ちたりしています。お父さんにとっても本人にとっても苦しすぎます。弟子たちにお願いしましたが、弟子たちは子どもを治すことができませんでした。



(マタイ17章14節から16節)

彼らが群衆のところに行くと、一人の人がイエスに近寄って来て御前にひざまずき、

こう言った。「主よ、私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでいます。何度も火の中に倒れ、また何度も水の中に倒れました。

そこで、息子をあなたのお弟子たちのところに連れて来たのですが、治すことができませんでした。」



弟子たちは熱心に祈ったり悪霊に命令したかもしれません。

もし、イエス様に頼らないで治そうと頑張っていたなら、それは無理でした。

イエス様は「不信仰な曲がった時代だ」と嘆いておられます。



(17節から18節)

イエスは答えられた。「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまであなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」そして、イエスがその子をお叱りになると悪霊は出て行き、すぐにその子は癒やされた。



この子は、悪霊によって深刻な苦しみを受けていました。弟子たちにはどうすることもできませんでしたが、イエス様が命じられると、悪霊は出て行き、子どもは癒やされました。

弟子たちは自分の力で「悪霊よ出て行け!」と頑張ったかもしれません

「自分の祈りが足りないのかな」「自分の信仰が弱いからかな」と自分を責めていたかもしれません。

でも、癒すのは弟子たちではありません。僕らでもありません。

僕らには力がありませんが、イエス様には力があります。



(19節から20節)

それから、弟子たちはそっとイエスのもとに来て言った。「なぜ私たちは悪霊を追い出せなかったのですか。」イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」



イエス様に不可能はありません。自分の力ではなくて、イエス様に信頼することが「力」です。僕らの信心とか熱心さによらず、イエス様だけが全ての権威を持っています。


僕らにはできないことがあります。自分の力では動かせない山があります。

でも、イエス様には、僕らの想像を超える力があります。

大切なのは、誰を信頼するかです。


病気のことも、家族のことも、人間関係のことも、将来のことも、イエス様に祈りましょう。

そして、イエス様に委ねながら、今日できる一歩を踏み出しましょう。

願ったとおりにすぐに変わらないことがあっても、イエス様の力が小さくなったわけではありません。何年も祈り続けている人がいるかもしれません。イエス様の力が足りないわけではありません。

僕らには分からないことがあっても、イエス様は主であり続けます。


イエス様は「わたしの名によって求めなさい」とおっしゃいます。だからクリスチャンはみんな「イエス様の名によって」祈ります。僕らは、自分の力や能力に頼るのではなく、イエス様に祈り、信頼するんです。大切なのは、

どんな小さなことでも自分の力に頼るのはやめて、イエス様に頼ることです。


僕らはいつの間にか自分の経験や計算や能力や権力ばかりを考えがちです。

イエス様にはできます。悪霊を追い出してくださいます。山を動かしてくださいます。病気を癒してくださいます。これが信仰です。信頼して祈り求めましょう。


🎵信じるなら山は動く 賛美で壁はくずれる
主に不可能ない イエスに不可能はない
信じるなら山は動く 賛美で壁はくずれる
主の栄光を見る

天が地に 天が地に
人にはできないこと あなたにはできる


ハレルヤ!

詩篇108.1-5

 詩篇108.1-5


太陽は誰も見ていなくても輝いています。

でもちゃんとそれを見て「あぁ光がある!太陽は輝いている!」って口に出す時、光はもっと意識されてそのありがたさを喜ぶことができます。


同じように、神様の栄光は誰も見ていなくても輝いています。「ああダルい…」「ああツラい…」という日もあります。それでも神様の愛とめぐみは満ちています。僕らが主の栄光と愛を口に出して賛美するとき、すでにある神様の素晴らしさはもっと意識され、喜びとなり、しかもそれを周りの人にも知らせることができます。


ダビデは、問題があっても、神様の素晴らしさを歌おうと決めました。

まだ暗くても、明るくなるのをただ待つだけでなくて、自分から朝日を呼びに行くかのように、苦しみの中でも神様のすばらしさを口にし、宣言し、賛美します。



"神よ私の心は揺るぎません。私は歌いほめ歌います。私の心の底も。

琴よ竪琴よ目を覚ませ。私は暁を呼び覚まそう。"

詩篇 108篇1~2節



「琴よ竪琴よ目を覚ませ」です。楽器は、ただ音を出せばいいというものではありません。演奏する僕ら自身が神様の素晴らしさに目を開かれ、その感謝と喜びを心を込めて音に乗せることです。


しかも、賛美することは自分だけの喜びで終わりません。

周りの人たちに、そして世界中に神様の光を届けることにつながります。

初めて神様への賛美を聞いた人が、歌を通して神様の素晴らしさを知ることができます。賛美は自分だけのものではなく、世界のものです。だからダビデは「民の間で」「もろもろの国民の間で」歌います。それは「栄光が全地であがめられますように。」です。



"主よ私は諸国の民の間であなたに感謝しもろもろの国民の間であなたをほめ歌います。

あなたの恵みは大きく天の上に及びあなたのまことは雲にまで及ぶからです。

神よあなたが天であなたの栄光が全地であがめられますように。"

詩篇 108篇3~5節



歌だけでなく、僕らが神様の愛を具体的に表して行動する時に、神様の栄光は他の人たちに現れます。たとえば困ってる人を助けたり親切にしたりすることは、神様の栄光を表します。イエス様は弟子たちに「人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになる」とおっしゃいました。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。」です。(マタイ5.16)



今日もいろんな悩みや心配事があります。でも、神様の素晴らしさは変わらずに輝いています。神様の愛とまことは変わりません。「あなたの恵みは大きく天の上に及びあなたのまことは雲にまで及ぶからです。」(4節)だから僕らもダビデのように賛美することに決めましょう。今日も主の素晴らしさを歌いましょう。宣言しましょう。行動を通して、言葉を使って、神様の素晴らしさを周りの人たちにも伝えましょう。栄光はすでに輝いています。あとは僕らがそれを表すだけです。



"神よあなたが天であなたの栄光が全地であがめられますように。"

詩篇 108篇5節

2026年10月14日水曜日

詩篇107篇

 詩篇107篇

2026年10月12日月曜日

2歴代34.18-35.19

 2歴代34.18-35.19


他人に無関心な時代、個人主義の時代かもしれませんが、神様が願っておられるのは、僕らが一人ひとりバラバラに信仰生活を送ることでなく、みんなが神様に従えるように支え合うことです。互いに関心を持ち、愛し、支え合うことが本来の神様に似せて作られた人間の姿です。

これは礼拝する時も同じです。自分だけが礼拝するのではなく、みんなが一つになって礼拝するようにと神様が願っておられます。


ヨシヤ王は国を神様に立ち返らせ、「もう一度過越の祭りを行いたい」と考えました。が、それは「個人的に」ではなく「国全体が」神様を礼拝することです。

彼はただ命令したり指示するだけではなくて、自分の財産から、羊ややぎの子を3万匹、牛を3千頭も提供しました。自分の持っているものを使って人々が過越のいけにえをささげることができるようにしています。



"ヨシヤは民の者たちに、群れの中から子羊とやぎの子を提供した。これらはみな、そこにいたすべての人の過越のいけにえのためであった。その数は三万匹、牛は三千頭。これらは王の財産の中から出された。"

歴代誌 第二 35章7節



他の人たちの分まで準備する姿勢は高官たちにも影響を与えました。彼らも王様と同じように「周りの人たちが礼拝できるように」自分の財産を提供し始めました。



"王の高官たちも、民、祭司、レビ人のために、進んで献げるものを提供した。神の宮のつかさたち、ヒルキヤ、ゼカリヤ、エヒエルも、祭司たちに過越のいけにえとして羊二千六百匹、牛三百頭を与えた。"

歴代誌 第二 35章8節



ヨシヤ王の姿は僕らのお手本です。彼は自分だけの礼拝とは思わず、みんなが礼拝することを願い、そのために準備をしました。また、人々を他人とは思わず、神様につながる共同の体と思っていたことがわかります。

この姿勢は奉仕者全体に及び、互いに助け合って準備する文化ができました。

門衛を担当する人たちも、賛美を担当する人たちも、それぞれ持ち場を離れず奉仕に集中するために、他の人たちが必要な用意をしました。お互いに役割は違いますが、一緒に神様を礼拝するために支え合っていたことがわかります。



"アサフの子孫である歌い手たちは、ダビデ、アサフ、ヘマン、および王の先見者エドトンの命令のとおりにその役目に就いていた。また、門衛たちはそれぞれの門を守っていた。彼らのうちだれも、その奉仕を離れる必要がなかった。彼らの兄弟であるレビ人が彼らのための用意をしたからである。

こうしてその日、ヨシヤ王の命令のとおりに、主の祭壇で過越のいけにえを献げ、全焼のささげ物を献げるための、主への奉仕の用意はすべて整った。"

歴代誌 第二 35章15~16節



教会にはいろいろな奉仕があって、賛美をする人もいれば、子どもたちを担当する人もいれば、食事を準備する人もいます。役割は違いますが、それぞれが助け合うことも、神様への大切な奉仕です。


そしてまた、お互いのことを自分のことのように考えるのは、他人が失敗した時も同じです。

ヨシヤ王は親の世代の罪や失敗を、「自分たちの罪」として心を痛めて悲しみ、神様の前で悔い改めて祈っています。



「行って、見つかった書物のことばについて、私のため、イスラエルとユダの残りの者のために、主を求めよ。私たちの先祖が主のことばを守らず、すべてこの書に記されているとおりに行わなかったために、私たちの上に注がれた主の憤りが激しいからだ。」"

歴代誌 第二 34章20~21節



"あなたがこの場所とその住民について神のことばを聞いたとき、あなたは心を痛めて神の前にへりくだり、わたしの前にへりくだって自分の衣を引き裂き、わたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる──主のことば──。"

歴代誌 第二 34章27節



僕らは誰かが罪を犯した時「あの人が悪い」で終わりがちです。でも、他人の罪を責めるだけでなく、一緒にへりくだって悔い改めることはイエス様の願いです。イエス様が祈りを教えてくださった時、「わたし」の罪をお赦しださい、ではなく、「わたしたち」の罪をお赦しください、と祈るように教えてくださいました。(ルカ11.4)

互いの欠点や互いが犯した罪も裁き合うのではなく、一緒にイエス様のもとで告白します。

「自分だけ良ければいい」「あいつが悪い」ではありません。教会はキリストの体、共同体です。「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。」(1コリント12.27)


ヨシヤ王のお手本は、礼拝が個人ではなく、みんな礼拝できるように支えあう人だったことです。

そして、他の人の問題も自分の問題として受け止め、一緒に祈ることです。

自分だけが神様に従うのではなく、人々みんなが神様に従うことができるように願っていたことがわかります。


神様の願いは「自分さえよければいい」とは違います。御霊が僕らを一つにさせてくださいます。初代の教会は聖霊に満たされていました。そして、「信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。」(使徒4.32)

神様、僕らの心を神様の心にしてください。無関心や個人主義ではなく、イエス様が願う一つの体とさせてください。イエス様だけが変えてくださると信じてお願いします。