2026年3月5日木曜日

民数記32.20-42

 民数記32.20-42

民数27章15-23節 関西聖書学院卒業派遣式メッセージ「次の世代に流れていく祝福」

 民数27章15-23節 関西聖書学院卒業派遣式メッセージ「次の世代に流れていく祝福」


今日、このような日に皆さんと一緒に神様に賛美をし、一緒に卒業生、修了生を派遣することができること嬉しく思います。また、この場所に一緒にいることだけでも光栄です。いつもKBIに来ると御霊の風が吹いているのを感じます。御霊の喜びを感じます。神様に感謝します。

この日、神様が私たちに与えて下さったみことばを一緒に聴きたいと思います。


今日読んだのモーセが神様からあなたはもうすぐ死ぬ、と言われた時の祈りと願い。

最後の祈り。最後の願いです。彼が最後に祈り願ったのは、自分のことではありません。


(16-17)

「すべての肉なるものの霊をつかさどる神、主よ。一人の人を会衆の上に定め、

彼が、彼らに先立って出て行き、先立って入り、また彼らを導き出し、導き入れるようにしてください。主の会衆を、羊飼いのいない羊の群れのようにしないでください。」


もうすぐ死にます。最後の願いは自分がいなくなった後、この人々、荒野に残された約200万~300万人を守りください、という願いです。「主の会衆を、羊飼いのいない羊の群れのようにしないでください。」


彼は元、羊飼いです。40年も羊を飼って生活してました。だから羊をよく知ってます。弱くて、自分では生きていけないのが羊です。羊は方向がわかりません。前の羊が崖から落ちたらよく見えないので、一緒に落ちるレベルです。自分のきた道がわからない動物です。弱くて敵に襲われたら何もできません。キバもありません。足も遅いです。怖がりで、安心するまで眠れません。水も飲めません。そんな弱い羊たちのみたいにこの人々を放置しないでください、滅んでいきます。だから彼は祈り、願います。自分が死んだ後、一人の羊飼いのようなリーダーを与えてください。


(16-17)

「一人の人を会衆の上に定め、彼が、彼らに先立って出て行き、先立って入り、また彼らを導き出し、導き入れるようにしてください。」


羊飼いは羊たちを導く、守る、先立って行く、安心させる人です。

モーセが求めたのは「後継者」じゃないです。指導者でもなくて、「牧会者」を求めたんです。

人々を安心させ、導き、愛して、守る人を求めました。

神様はその祈りに応えてくださいました。


(18)

主はモーセに言われた。「あなたは、神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを連れて来て、あなたの手を彼の上に置け。


神様は祈りに応えてくださいます。人々を散り散りにしないし、弱らせないし、敵から守ってくださいます。そのためにヨシュアを連れてきなさい、とおっしゃいました。すでにヨシュアには神様の霊が宿っていると書いてあります。「あなたの手を彼の上に置け。」とおっしゃいます。


(20)

あなたは、自分の権威を彼に分け与え、イスラエルの全会衆を彼に聞き従わせよ。


ヨシュアはモーセと同じ主の霊が与えられ、御霊によって愛し、導く人です。そして彼の上に「権威を与えなさい」と20節に書いてあります。


この「権威」は神様から預かった力です

モーセも権威がありました。それは神様の権威です。神様が「光あれ」とおっしゃるだけでそうなる力があります。その力、権威のあることばを預かりそのまま伝えました。神様の言葉なのでその通りになります。

権威は神様からの権威です。神様の言葉と権威はセットです。

ヨシュアに神様のからの権威を与えなさい、とおっしゃいました。


(20)

あなたは、自分の権威を彼に分け与え、イスラエルの全会衆を彼に聞き従わせよ。


権威もことばも神様からのものです。モーセだって今でこそ偉大な指導者ですけれども、もともと、何もなかった弱い人でした。召されても何度も断りました。


( 出エジプト 4:13)

「ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください。」

(6.11)

「私は口べたなのです。」


何度も何度も「無理です」というモーセに、神様が聖霊を与え、力を与え、知恵を与え続けてくださって、このモーセはリーダーとなりました。モーセを通して律法が与えられ、今も世界に影響を与える人になりました。3500年以上、今も影響力があります。これはモーセの手柄ではありません。神様が預けてくださったからです。知恵も力も神様が与えてくださるものです。当たり前です。


この同じエピソードが申命記にも書かれています


(申命記34章9節)

ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満たされていた。モーセがかつて彼の上にその手を置いたからである。


「手を置く」というのは「相手と共有する」ということです。相手と「一つになる」という意味があります。例えば全焼の生贄の頭に手を置くことは、これは私自身です、という表現です。全焼の生贄は灰になるまで焼かれ、神様にすべて捧げ尽くされます。それは私の全てを捧げます、という表現です。


モーセがヨシュアの上に手を置くことは、モーセに与えられている賜物をあなたと共有する、ことです。私とあなたは一つ、ということです。私のものはあなたのもの、ということです。


他にも実例があります。

パウロは若い牧師テモテに手を置きました。それは自分に与えられている聖霊の賜物がこの若者テモテにも共有できるように、与えられるようにという祈りです。

そして本当にテモテにも同じように聖霊による力、愛、慎みが与えられました。

手紙でこのように書いています。


(2テモテ1:6-7)

私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。


KBI先生たちに与えられている賜物は派遣される皆さんのものです。


※舟喜信先生のこと 

僕も聖書宣教会を25年前に卒業しました。当時の会長は舟喜信という先生でした。アンテオケ宣教会が1977年にできた時、発起人だった先生です。先生が召された時、僕は札幌にいました。どういうわけか涙が止まりませんでした。

そして、祈りました。というか祈らされた感じがしまいた。「神様、舟喜信信先生に与えて下さった霊の二倍を僕にください。」泣きながら何度も祈りました。


エリヤが天に召される時、エリシャに欲しいものを求めなさい、と言いました。エリシャは2倍の霊を求めました。そして、本当にエリヤよりも多くの奇跡をしています。数えた人がいて、エリヤの奇跡は8回、エリシャは16回だそうです。


派遣されるみなさんも求めましょう。二倍の霊をください。

三倍の霊をください、と。KBIの先生たちの賜物は、皆さんのものです。大田先生の二倍、めぐみ先生の二倍、富浦先生の二倍、福野先生の二倍、吉田先生の二倍を与えてください、と祈り求めましょう。


神様は、モーセにヨシュアに手を置いて、権威を与えよ、とおっしゃいました。

知恵も力も与えられたのは、手を置いたから、と聖書は言います。


(申命記34章9節)

ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満たされていた。モーセがかつて彼の上にその手を置いたからである。


人を使わなくても神様は何でもできます。

けれども神様は人間を用いて次の世代にその神様の賜物が、愛が、力が、祝福が、広がって行くようにされています。神様の愛と恵みは広がっていきます。その方法はいつも人間を用いてです。


神様ですから触らなくても何でもできます。

だけど、イエス様は天から人間になって降りてきてくださいました。赤ちゃんになって、すべての点で人間と同じようになり、一緒に苦しみ、悲しみ、そして一緒に喜ぶ方です。言葉だけで世界を作る方が、わざわざ病人に近づいて、触ることをしてくださいました。イエス様はいつも子どもたちに手を置いて祝福されました。

イエス様はみんなが避けている汚れた病人を触って癒されました。


これがイエス様の願いです。そして、キリストの体である教会の願いです。私たちだけがよければいいのでなく、次の世代にそれが豊かにますます増し加えられるように祈っていく必要があります。


モーセは、羊飼いのいない羊のようにしないでください、って祈りました。羊飼いを与えてください、と祈りました。良い羊飼いは羊のために命を捨てます


(ヨハネ 10:12-13)

雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。


皆さんが、これから遣わされたところで「先生」になるのではなく、一緒に悩みながら一緒に傷つきながら一緒に喜びながら、そうやって人々を導く良い羊飼いになっていきますように。

そして次の人が祝福され、良いものを受け継ぐことができますように。受けるより与える人です。

これは自分でできることではありません。神様から与えられる権威、力、愛、あらゆる良いものは神様からのものです。


牧師になって25年になるけど、まだまだ羊を心にかける本当の牧師にはなってないと感じます。いつも自己保身が先になってしまい、傷つかない距離を持とうとしてしまいます。

でも求めています。私たちの力ではありません。イエス様の力です。与えられるものです。


関西聖書学院で学んだ経験や力は皆さんだけのものではありません。次の人に与えるためのものです。


遠藤牧師はサックスできていいですね、で終わってはダメです。

僕のものは神様からのもの、そしてそれは次の世代に何倍にも広がっていくためのものです。

僕は北海道聖書学院で教会音楽のクラスを担当させてもらっていることや、リバーワーシップスクールで教える機会が与えられていることをすごく感謝しています。預かった賜物は次の人たちのものです。

これはパウロも言っています


(2テモテ 2:2)

多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。


まず神様がパウロに預けてくださいました。パウロは御言葉をテモテに委ね教えていきました。

そして、テモテも同じように「教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」

もうここの一行だけで4世代です。パウロ、テモテ、テモテが教える人、その人が教える人

ここだけで5世代です。これが聖書の願い、キリストの願い、そして教会の願いです。


※数年前、私たち夫婦はシンガポールで研修会に参加させてもらいました。講師のチャン先生が言いました。「私たちの教会や牧会がうまくいっているかどうか、評価の対象ではありません。私たちが目指すべきは、次の世代がどうなるか、そしてさらにその次の世代がどうなっているか、です」


手を置いて、自分のものを相手に共有して、歩んでいくのは1日でできることではありません。もちろん祈ってもらうのはいいけど、一度祈ってもらって「はい、いただきました」ではありません。


数年前のメビックセミナーのテーマは「イエス様の弟子を育てる弟子を育てる弟子を育てる」でした。聖書がいう通りです。


僕らは神様の愛と権威を次の人たちに伝えるものです。僕らは次世代への通り道にすぎません。

イエス様がおっしゃいます。「受けるより与える人は幸いです。」与える人はもっと神様から与えられます。流れていく水は濁りません。澱みません。


次の人に与えましょう。自分よりも相手がもっと良いものを受けるように、与えるために寄り添っていきましょう。


派遣されるみなさんが偉い人になりませんように。受けるだけの人になりませんように。

与える人になりますように。神様の恵を次の人に流していく人になりますように。



2026年3月4日水曜日

民数記31章メッセージ 「内側からの腐敗」

 民数記31章メッセージ 「内側からの腐敗」


●怒りと裁きの神様?愛と赦しの神様?


旧約聖書では時々神様が怒り町中の人たちを皆殺しにするように命じることがあります。

「神様って残酷なんだろう」「神様って愛と許しの神様じゃなかったのか」と不思議に思うことはありますか?「イエス様は優しくて、見捨てない愛の神様。」「旧約聖書の神様は皆殺しにする怖い神様。」そういう印象を受けることがあると思います。

イエス様は「あなた方は敵を赦しなさい。敵のために祈りなさい。敵を愛しなさい」と言われます。

一方で徹底的に罪を嫌い、呪い、怒る神様です。


矛盾するように見える二つが一つに合体するのは、イエス様が呪われ、殺され、神様に裁かれている十字架の姿です。神様の怒りを受け、裁きを受け、殺されているイエス様の姿こそ、神様の怒りと呪いと復讐が確かにあることの現れです。そして、十字架の上で、「父よ彼らをお赦しください」と祈ってくださるイエス様こそ、僕らが赦され愛されることの希望です。


今日の箇所はまさに、神様の怒りと裁きの箇所です。


(2)

「あなたは、イスラエルの子らのために、ミディアン人に復讐を果たせ。その後で、あなたは自分の民に加えられる。」


これは神様の怒りと復讐です。神様に言われた通りにモーセは復讐の準備をさせます。


(3-4)

そこでモーセは民に告げた。「あなたがたのうち、男たちは戦のために武装せよ。ミディアン人を襲って、ミディアン人に主の復讐をするためである。

イスラエルのすべての部族から、部族ごとに千人を戦に送らなければならない。」


神様はだらしなく、なんでもOK、いいよいいよと悪を放置する神様ではないです。

裁きはあります。神様の怒りはあります。神様は罪を放置しません。

旧約聖書は神様の裁きと怒りの実例として、人々が滅ぼされていく場面を何度も伝えています。


・ノアの時代、世界は暴虐で満ちていたとあります。神様は洪水を起こしてノアの家族8人以外は全部殺されました。

・ソドムとゴモラという街全体が暴力と性的にメチャクチャな世界になっていき、神様の裁きを受けました。神さまは天から硫黄と火を降らせて滅ぼしました。アブラハムのおいロトとその娘2人の三人だけです。あとは神様に全員殺されました。


神様は罪に対して怒り、復讐する神様だと聖書は伝えています。

今回、神様はミディアン人たちに怒り、復讐せよ、と命令します。


"「あなたは、イスラエルの子らのために、ミディアン人に復讐を果たせ。その後で、あなたは自分の民に加えられる。」

そこでモーセは民に告げた。「あなたがたのうち、男たちは戦のために武装せよ。ミディアン人を襲って、ミディアン人に主の復讐をするためである。

イスラエルのすべての部族から、部族ごとに千人を戦に送らなければならない。」

それで、イスラエルの分団から、部族ごとに千人、すなわち、合計一万二千人の、戦のために武装した者たちが選ばれた。"

民数記 31章2~5節


ここでは洪水とか、火が降ってくるではなく、人間を用いて神様の裁きが行われます。「武装して、戦に送り出せ」という命令です。


ところで、どうしてこんなに神様はミディアン人たちに怒っているのか?

その事件は25章に詳しく書かれています。後で読みます。そして、これが聖書に書かれた理由について

新約聖書にあります。ミディアン人たちはイスラエルを誘惑して、淫らなことをさせたからです。淫らなことと偶像礼拝に誘ったのがミディアン人たちです。


"また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、淫らなことを行うことのないようにしましょう。彼らはそれをして一日に二万三千人が倒れて死にました。"

コリント人への手紙 第一 10章8節


"これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。"

コリント人への手紙 第一 10章11節


この神様の怒りと復讐は昔話ではなく、「世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓」だと11節はいいます。


●事件の詳細


事件の具体的な話は25章に書いてあります


"イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと淫らなことをし始めた。

その娘たちが、自分たちの神々のいけにえの食事に民を招くと、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。

こうしてイスラエルはバアル・ペオルとくびきをともにした。すると、主の怒りがイスラエルに対して燃え上がった。

主はモーセに言われた。「この民のかしらたちをみな捕らえて、主の前で、白日の下にさらし者にせよ。そうすれば、主の燃える怒りはイスラエルから離れ去る。」"

民数記 25章1~4節


神様は、まず淫らなことをさせたミデヤン人に対して裁いたのでなく、まず先にイスラエル人に対して怒ったのです。彼らが神様よりも偶像を愛し、神様よりもモアブ人の女性たちを愛して、女性を愛して、というよりも彼女たちの体を求めて、淫らな快楽を愛して、おかしくなっていくのねたみました。当時、モアブでもミディアンでも偶像礼拝と性行為はセットで行われてたそうです。偶像礼拝とは、神様以外のものに心も体もささげることです。


「ねたみ」は悪いことと思われがちだけど、正当な、愛するゆえの正しい「ねたみ」があります。例えば、妻が僕以外の男を慕っていたら、淫らなことを始めたら、僕はねたみ、怒ります。

神様は「ねたむ神」です。


「(偶像を)拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。」(出エジプト20.5)


イスラエルの人たちは神様を知ってるはずなのに、神様に愛されてる妻のはずなのに、宝の民、聖なる民、契約を結んだのに、約束したのに、裏切って偶像を愛し、しかも性行為までして、自分の体を相手に明け渡していることは、神様への侮辱です。神様はねたみ、怒るのは当然です。


この神の怒りと裁きはまずはイスラエルに起こりました。


"この主の罰で死んだ者は、二万四千人であった。"

民数記 25章9節


女たちと淫らなことをして、偶像礼拝をした男たちは殺されて行きました。

それとは別にイスラエル全体に疫病が流行して24,000人が死んだとあります。

神様の裁きはまずは相手でなく、内側から、神の家から始まります。


"さばきが神の家から始まる時が来ているからです。それが、まず私たちから始まる…”

ペテロの手紙 第一 4章17節


神様は25章では罪を犯した人たちとリーダーたちを殺して、その死体をさらしものにせよといいます。


"主はモーセに言われた。「この民のかしらたちをみな捕らえて、主の前で、白日の下にさらし者にせよ。そうすれば、主の燃える怒りはイスラエルから離れ去る。」

そこでモーセはイスラエルのさばき人たちに言った。「あなたがたは、それぞれ自分の配下でバアル・ペオルとくびきをともにした者たちを殺せ。」"

民数記 25章4~5節


「バアル・ペオルとくびきをともにした者たち」とは、偶像を拝んで、性行為をした人たちのことです。

処刑した後、その死体をみんなが見える場所にその死体を掲げます。

棒に突き刺すか、つるすかして、死体をさらします。見せしめにします。人々はそれを見て、ああ、これが神様に背いて偶像を愛し、淫らなことをした結果か、と知ります。そのようにしなさい、といいます。「主の前で、白日の下にさらし者にせよ。そうすれば、主の燃える怒りはイスラエルから離れ去る。」


まるでイエス様が突き刺されて木に貼りつけになってみんなの前でさらされているのと同じです。あのイエス様は罪がないのに十字架にさらされて「罪を犯すものはこうなるんだ」という公開処刑を受けられました。

神様は優しいだけの神様でなく、罪に対して怒り、さばき、復讐する神様です。罪はやがて全て明るみに出てさらされます。だからイエス様が僕らの身代わりに公開処刑を受けているのです。

あの姿を見るときに私たちは神様の裁きを恐れます。


神様は怒る方、復讐する方、罪に対して死刑を下す方、さばく方、みんなにさらす方なんだということを、僕らは知ります。血だらけになって顔かたちが崩れていたとイザヤ書は伝えています。神様の呪いは恐ろしいものです。イエス様の姿は神様の裁きと怒りがどんなに恐ろしいか僕らに伝えています。


罪に対してだらしなく、まあ、いいよということはなく、罪の報酬は死であり呪いである、と教えています。


この時罪を犯した人たちも殺されて、吊るされて、さらされました。

同じようにそしてイエス様も同じように罪のために、木にかけられて呪われたものとなりました。

それは、僕らが罪から離れるためです。悔い改めて神様に戻り、神様のために生きる人に変わるためです


ペテロの第一の手紙 2章24節

「そして、自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。
それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。」


罪はほんの少しの間楽しくて、気持ちがいいんです。でもその先は永遠のみじめな、残酷な死です。罪の先には永遠の恥と呪いが待っています。今バレてなくても、うまくいったと思っても、必ず神様の裁きはあります。だからパウロは警告します。この民数記25章の話と、31章の話は私たちへの警告だといいます。


また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、淫らなことを行うことのないようにしましょう。彼らはそれをして一日に二万三千人が倒れて死にました。"

コリント人への手紙 第一 10章8節


"これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。"

コリント人への手紙 第一 10章11節


●徹底して罪の原因を取り除きなさい


次にイスラエルのイスラエルを誘惑し、イスラエルを滅ぼそうとしたミデヤン人にも神様の裁きが降ります。それが31章です。


兵士たちは言われた通りに戦い、男子は皆殺し、そして王様たちを殺しました。

また、9節では「バラム剣で殺した」とあります。これについては後で詳しくいます

町は焼き払いました。

ところが、モーセは帰ってきた兵士たちに怒ります。激怒します。理由は罪に誘った女性たちを殺さずに連れてきたからです。


(13節から16節)

"モーセと祭司エルアザル、およびすべての会衆の上に立つ族長たちは出て行って、宿営の外で彼らを迎えた。

モーセは、軍勢の指揮官たち、すなわち戦いの任務から戻って来た千人の長や百人の長たちに対して激怒した。

モーセは彼らに言った。「女たちをみな生かしておいたのか。

よく聞け。この女たちが、バラムの事件の折に、ペオルの事件に関連してイスラエルの子らをそそのかし、主を冒瀆させたのだ。それで主の罰が主の会衆の上に下ったのだ。"

民数記 31章13~16節


若い男たちを誘惑して一緒に淫らなことをして偶像礼拝に誘った若い女性たちを生かしておいたことを怒りました。しかも、連れてきたんです。

この女性たちは受け入れてはいけない、連れてきてはいけない人たちです

「よく聞け。この女たちが、バラムの事件の折に、ペオルの事件に関連してイスラエルの子らをそそのかし、主を冒瀆させたのだ。それで主の罰が主の会衆の上に下ったのだ。」


原因になるものを徹底して殺せ、と言います。この点はイエス様も同じくおっしゃいます。どんなに大事なものでも、あなたをつまづかせる原因となるなら捨てなさい、です。


"もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。

もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。"

マタイの福音書 5章29~30節


罪を犯す者にも怒るけど、罪に誘うものに対して、ものすごく怒るんです

一緒に悪い方向に行かせようとする人は、首に石を首につけられて海に投げ込まれたほうがマシだって言うほどの神様の怒りです。


"わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。"

マタイの福音書 18章6節


この女性たちは、イスラエルの若い男たちをつまずかせた人たちです。神様が徹底的に嫌うものでした。


もう1人殺された人がいます。8節に書いてあるバラムです

バラムと言うのは、占い師でお金をもらってイスラエルを呪おうとした人です。でも神様がそれをさせませんでした。彼はイスラエルを祝福しました。


ところが彼は外側から呪ってもダメなので、内側から崩そうという作戦を提案しました。この作戦を考えたのバラムです。聖書は説明しています


"バラムはバラクに教えて、偶像に献げたいけにえをイスラエルの子らが食べ、淫らなことを行うように、彼らの前につまずきを置かせた。"

ヨハネの黙示録 2章14節


つまずくように、罪に引っかかるように原因を作る人は神様にとって忌まわしい嫌存在です。

モーセはその女性たちがきたことを怒っています。


"よく聞け。この女たちが、バラムの事件の折に、ペオルの事件に関連してイスラエルの子らをそそのかし、主を冒瀆させたのだ。それで主の罰が主の会衆の上に下ったのだ。"

民数記 31章16節


●私たちへの適用


神様は、愛する人たちの内側が腐って壊れていくのを本気で取り除くようにおっしゃいます。

そしてこれは昔話ではなくて、今も内側から壊そうとする教えが教会の中に入り込んでいると警告しています。神様はペルガモンの教会にいいました。


"あなたのところに、バラムの教えを頑なに守る者たちがいる。バラムはバラクに教えて、偶像に献げたいけにえをイスラエルの子らが食べ、淫らなことを行うように、彼らの前につまずきを置かせた。

ヨハネの黙示録 2章14節


偶像礼拝と言うのは、神様よりももっと愛するもの、もっと慕わしいこと、神様よりも気持ちの良いものことです。ある人には自分の正しさ、ある人はお金、ある人は快楽、ある人は人の悪口、人からの評価、神様よりも大事になりがちなものはたくさんあります。一見そんなに悪くないことにも見えます。最初は。でもそれは成長して全体を悪くします。少しのパン種が全体を膨らませるといいます。


"わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませるのです。"

ガラテヤ人への手紙 5章9節


最初は見えないくらい小さいけど、神様よりももっといいものが内側で成長していくことです。しかも慣れていきます。


※みなさん聞いたことがあると思います。蛙を水の入ったナベに入れて、ゆっくりゆっくり温度を挙げていくと、気がつかないうちに、逃げることなく茹で上がって死んでいる、という話です。

よく聞きます。同じように、罪は慣れてきます。最初はやばいな、と思うけど、だんだん大丈夫、このくらい、と慣れてきて、気がついた時には大変なことになっている、よく聞く話です。


イエス様は罪人を愛して遊女たちと食事をし、罪人と交わるけども罪を正当化する事は1度もなかったです。めちゃくちゃ寛容で罪人を招くけどでも「もう罪を犯してはならない」といいます。

人は歓迎するけど罪は歓迎しません。イエス様は真理を薄める事は絶対にしません。


僕らはうぬぼれます。自分は大丈夫。と思います。自分はギリギリ近づくけど、一線は超えないと言います。でも、聖書は僕らのために書かれた、といいます。イスラエルを見てみなさい。これが書かれているのは、今のあなた方への警告のためです、と言います。雲の柱、火の柱を見ているあの人たちでさえ巻き込まれて24000人が死にました。みことばを曲げて、あれもオッケーこれもオッケーという人がいたら付き合ってはいけない、と言います。そとの人ではなくて、クリスチャンです、と言いながら淫らな人とは付き合うな、です。


"私が今書いたのは、兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。"

コリント人への手紙 第一 5章11節


自称クリスチャンと言いながら淫らなことをする人、神様以外に心も体もささげている人は偶像礼拝者だと言うんですね。だから一切かからないようにといいます。

静かに、わからないように、じわじわと、です。そして、慣れてくると周りも、まぁいっかこのぐらいい、と曖昧になってきます。偶像礼拝はどーんと入ってくるんじゃなくて、いつの間にか飲み込まれていくと言うことです。


そんなに目くじら立てて同性愛がダメだとか、結婚するまでセックスはダメだとか、聖書の教えは時代遅れじゃないか、狭すぎる、とか、少しずつ淫らなことに慣れていきます。


みなさんは、何に心を捧げ、体を捧げ、時間とお金を使ってるでしょうか。朝起きて、まず考えることはなんでしょう。なんのために起きて、仕事したり、活動したりするのでしょう。


神様でなく、自分の名声を求めているなら、どんどん大きくなります。神様でなく、自分の正しさを主張しているうちにどんどんそれが大きくなります。神様よりお金を求めて、地位とか名誉とか、快楽を、人からの評価を求めているうちに、いつの間にか神様より大事な偶像になっています。いつの間にか心もからだも乗っ取られて支配され、戻れなくなり、神様の祝福を失っていきます。


聖書は結婚以外でセックスしても良いと教えていますか?誰とでも寝ていいよ、気に入らなかったら別れてまた別の人と一緒になればいい、っていうのは自分で自分を壊しています。神様の祝福を自分から壊す行為です。


僕が遠藤稔が妻以外の誰かと性関係を持ちながら、妻と仲良くしようねって無理です。

同じように、誰かと性関係を持ちながら、神様以外に体を捧げ、心を捧げて、神様、私を祝福してくださいって言うのは無理です。二股は無理です。


"これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。"

コリント人への手紙 第一 10章11節


罪の結果は死です。

4節

「この民のかしらたちをみな捕らえて、主の前で、白日の下にさらし者にせよ。」


そのさらしものになってくださったのはイエス様です。

僕らのために、イエス様がさらしものにされました。何のためでしょうか?


ペテロの第一の手紙 2章24節

「それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。」


どんなに失敗してもやり直せる道が用意されています。

くいあらめて戻りましょう。罪は告白して捨てましょう。どんなに大事なものでもそれが罪であるなら捨てましょう。


偶像礼拝って、小さい像にひざまずくことではありません。神様が受け入れることのないものに心をささげ体をささげることです。これが今朝みなさんに考えてほしい問いです。

みなさんは何と繋がろうとしていますか?何に人生を、愛を捧げようとしていますか?

それが神様の妬みを生み出し、怒りを生み出すものなら偶像です。神様への愛と献身を奪うものなら神様にとって敵です。


仕事 お金 ゲーム アイドル いい人だと思われること。業績や他人からの評価、朝起きたら、真っ先にそのことを考え、そのためにスケジュールを組むなら、もはやあなたにとって一番大事な偶像のようです。一見悪そうに見えないかもしれないし、まだ気がついてないかもしれないけど、それは成長し、神様のねたみの対象になります。


僕の場合

何が神様より上になりがちかな、と考えたら、やっぱり神様を愛することよりも、自分が安全で傷つかないで、順調に波風立たないで思い通りに進むことが優先事項になってるな、って思わされました。

神様を愛することは、傷つくこともあるし、神様を愛することは、思い通りにならないこともあります。安全圏から出ない、安定した生活、という偶像もあるな、と思いました。神様より自己保身です。

みなさんは何を優先して考えて、判断してますか?


聖餐式をします。まず黙祷して、罪を告白しましょう。イエス様の血によって赦されます。イエス様が呪われ、傷つき、その体は裂かれ、傷だらけになり、さらされて僕らは赦されました。



祈りの例

神様、私は神様より(   )を愛しています。

私は神様より(   )に救いや幸福を求めてきました。

これは偶像です。赦してください。

これを愛し、手放したくない私を助けてください。

私は今(    )を神のように優先することをやめます。

この罪のためにイエス様がさらし者となってくださり、私を赦しきよめてくださることを信じます。

私は偶像を手放します。あなたに戻ります。