2026年4月20日月曜日

ローマ16.1-20 キリストに結ばれた人は教会を愛します  礼拝メッセージ

 ローマ16.1-20

キリストに結ばれた人は教会を愛します


みなさんが教会に集まるとき、「みんなに会いたいな」って思う気持ちと、逆に、「できれば会いたくないな」「今日は避けたいな」って思う気持ちがあると思うんですが、どうでしょう。

顔合わせたらちょっと気まずい人とか、距離とりたくなる人とか。みなさん、いかがですか?私も経験があります。


でも今日の聖書箇所は、パウロが遠く離れたローマ教会の一人一人の名前を出して、「よろしく伝えてください」「愛してる」「覚えてる」って伝えている箇所です。しかも「早く会いたい」とさえ言ってます。

なんでそこまで教会の仲間が愛しくなり会いたくなるのか、大事にできるのか。今日はそれを一緒に見ていきたいと思います。

そして今日のメッセージが終わったときには、周りのクリスチャンの仲間が本当に愛しい、嬉しい、いてくれてありがとう、って喜びに満ちるように願っています。僕らにはできませんが、神様にはできます。


ローマ人への手紙は聖書全体の教えをまとめてぎゅっと16章にしたような手紙です。

神学用語で言うと、義と認められること、略して義認、聖くされること、略して聖化、やがて栄光を受けること、略して栄化、そのようなしっかりした教えがあって、その結論が今日の箇所ですが、なんと、学びのゴールは、具体的に一人一人を思い出して愛することです。

学びとか知識とか大切なんだけど、知識でマウント取るための学びではない。互いに愛し、仕え、喜び合うのが学びの目的だったことがわかります。


※北海道聖書学院の水草先生は、神学の本を出版しました。タイトルもいいです。「神を愛するための神学講座」神学校での学びのゴールはやっぱり神様を愛し、神様を愛すること、イエス様を愛することは、イエス様のからだと言われる教会の一人一人を愛することです。


これがローマ人への手紙の学びの結論です。

キリストに結ばれた者は、人を愛さずにいられななくなります。


●キリストに結ばれた人は教会を愛します。


神様を愛する事は教会を愛することです。

この手紙の中でこう書いてあります。


ローマ12章5章

大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。


イエス様を愛することは、イエス様に繋がる器官である教会の一人ひとりを愛し喜ぶことです。


今日の箇所は愛し方のお手本のようです。

パウロはまだ行ったことのないローマの教会なのに、一人ひとりのことを思い出しては祈っています。毎日です。思わない日はないといいます。


私は絶えずあなたがたのことを思い、

祈るときにはいつも、神のみこころによって、今度こそついに道が開かれ、何とかしてあなたがたのところに行けるようにと願っています。"

ローマ人への手紙 1章9~10節


毎日祈ってます。感謝してます、会いたいと思っています。で、この後名前が次々出てきます。毎日思ってるから、スラスラと名前が出てきます。


16章は一人ひとりの名前を挙げて「よろしく伝えてください」です。何度も何度も出てきます。「よろしく」の意味は、「覚えているよ。祈ってるよ。愛してるよ、」という好意を伝えてください、と言う意味です。


よろしく。ってギリシャ語辞典によると

ἀσπάζομαι(アスパゾマイ)


愛情をもって迎える。心から挨拶す。親しみをもって抱きしめる。受け入れる


そして16章では27人の名前を挙げて、この人はこんなことをしてくれた、あんなことをしてくれた、と具体的に思い出して書き表しては感謝しています。


彼パウロが一人一人を喜び、愛し、受け入れている理由は、彼らがイエス様に結びついているからです。


よく読むと、何度も何度も「キリストイエスにあって」、「主にあって、」と続きます。新共同訳の前のバージョンは全部「主に結ばれて、キリストに結ばれて、」って翻訳してました。英語だとin Christ Jesus: イエス様の中で、水の中に入ってるスポンジのイメージです。その中に包まれてるその人と一体化してるって感じです。


2,どうか、聖徒にふさわしく、主にあって彼女を歓迎し…


3,キリスト・イエスにある私の同労者、プリスカとアキラによろしく伝えてください。


8,主にあって私の愛するアンプリアトによろしく。


10,キリストにあって認められているアペレによろしく。


12,主にあって労苦している、トリファイナとトリフォサによろしく。主にあって非常に労苦した愛するペルシスによろしく。


13,主にあって選ばれた人ルフォスによろしく。



みんな、神様の中につながってイエス様の中で、一緒に働くようになった愛する兄弟、姉妹。


9節

キリストにある私たちの同労者ウルバノと、私の愛するスタキスによろしく。


「この人好きじゃない」って思った時でも、その人は“キリストの中にいる人”です。つまり、その人をどう扱うかは、キリストをどう扱うかとほぼ同じです。


前後しますが、コリント教会にいたパウロが、フィベさん、と言う姉妹をローマに送ります。

彼女のことをこう書いて推薦します。


1,私たちの姉妹で、ケンクレアにある教会の奉仕者であるフィベを、あなたがたに推薦します。

2,どうか、聖徒にふさわしく、主にあって彼女を歓迎し、あなたがたの助けが必要であれば、どんなことでも助けてあげてください。


2節 聖徒にふさわしく。聖なる人、神様のものになった人です。イエス様のからだの器官の一部を迎えるように歓迎してください。助けが必要ならどんなこともしてあげてください。


パウロの町の近くのケンクレアにある家の教会の奉仕者フィべさんがローマにいきます。推薦します。


フィベさんだけが立派な聖なる人でなく、これは東栄教会の一人一人も神様に選ばれ、赦され、きよめられた聖なる人です。キリストと結ばれた、包まれた、一つなった人です。だから歓迎してください。迎えてください、愛してください。受け入れてください。必要ならどんなことでもしてあげてください。

とパウロが僕らにも呼びかけているかのようです。


僕らが教会の仲間を愛する理由はイエス様がその人の中に生きておられるからです。小さな一人にしたことはイエス様にしたことです、聖書にそう書いてあります。


フィベさんは多くの兄弟姉妹を愛し助けてきました。パウロも助けられました。彼女の愛は、イエス様の愛の表れでした。


2

彼女は、多くの人々の支援者で、私自身の支援者でもあるのです。


フィベさんが頑張ったのでなく、彼女はイエス様につながる枝だし、器官でした。だから多くの人たちを助けました。

そのように、あなたがも受け入れ助けてください、ってお願いしています。


キリストに結ばれた人は教会を愛します。



●教会を愛することは、イエス様と一緒に苦しみも受けることです


一緒に苦労したプリスカとアクラご夫妻もキリストに繋がった仲間です。彼らもパウロを助けてくれました。


3,キリスト・イエスにある私の同労者、プリスカとアキラによろしく伝えてください。

4,二人は、私のいのちを救うために自分のいのちを危険にさらしてくれました。彼らには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。


自分の命の危険を犯してまで、パウロを守ってくれたことがあるご夫妻です。

パウロは彼らに感謝しているけど、やっぱりその先にいらっしゃるイエス様に感謝してるんです

教会の仲間がしてくれたことを言い表すことは、イエス様への賛美につながるんです。


4節

彼らには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。


プリスキラさんありがとう、アキラさんありがとう。と同時に、神様がこの人たちを用いてくれてありがとうございます。人への愛や感謝と神様への愛や感謝がつながっています。


サックス吹くと目立ってしまって、賛美なのに、遠藤さん上手、ってなるのがイヤ。っていうかモヤモヤしちゃうんだよね、ある時みちや先生に言いました。

そしたら、いやいや遠藤先生見てるけど、遠藤先生を用いてくださる神様を見て感謝してますよ。遠藤先生よかったよ、というのは、神様への感謝ですよ。遠藤先生が用いられるのは神様にとっても喜びですよ。

みたいなこと言われて納得したのを覚えています。


パウロは兄弟姉妹のひとりひとりがしてくれたことをあげて、感謝しているようで、やっぱり神様に感謝しています。キリストに結ばれてそうしてくれた、と言っています。


主にあって助けてくれた、キリストにあって支援してくれた、キリストに結ばれて命をかけて助けてくれた、とです。

名前が出てくない人たちもたくさんいます。


5,また彼らの家の教会によろしく伝えてください。

キリストに献げられたアジアの初穂である、私の愛するエパイネトによろしく。


おそらくプリスキラとアキラはの自宅が教会です。当時はそれが一般的でした。パウロはよろしく、とも言うけど、愛している、とも言います。


そこにエパイネトさんがいました。コリント教会で最初にイエス様を信じた人です。信じた人は、イエス様のものになります。だから「キリストにささげられた」第一号です。「アジアの初穂である、私の愛するエパイネトによろしく。」

エパイネトさんを愛することは、イエス様を愛することです。この人に挨拶し喜ぶことは、イエス様に挨拶するのとまるで同じかのように書いています。


6節7節は、キリストと一緒にすごく苦労した人たちのことをを思い出して挨拶し愛を伝えています。


6あなたがたのために非常に労苦したマリアによろしく。

7,私の同胞で私とともに投獄されたアンドロニコとユニアによろしく。


マリアは非常に苦労した人です。具体的にはどんな苦しみだったのか書いてないです。でも、教会のために、イエス様のために犠牲を払った。理由はやっぱりイエス様に繋がっているからです。そのマリアによろしく。「あの苦しみを覚えているよ。祈ってるよ。喜んでいるよ」そう伝えてください。という雰囲気です。


パウロ自身もものすごく苦しんだ人です。7節は一緒に逮捕された二人によろしく、といいます。


一緒にひどい目にあった仲間です。イエス様に結ばれてこの苦しみも与えられたことを覚えているよ、祈ってるよ、よろしく伝えてください。


12節も労苦した仲間の名前が出てきます。


12,主にあって労苦している、トリファイナとトリフォサによろしく。主にあって非常に労苦した愛するペルシスによろしく。


◆祈ることで心が近くなります。


これでもか、というほどに一人一人、細かく、具体的にパウロは感謝しています。彼が手紙の最初に書いている通り、思い出さない日はないし、祈らない日はないようです。

毎日名前をあげて、感謝している様子が手紙に滲み出ています。


今パウロがいるコリントからローマまで直線でも1000キロ。札幌から東京。飛行機のない時代。馬か、ロバか、船。最低でも一か月はかかる距離です。


でも、心はすごく近かったことがわかります。

パウロが「私は絶えずあなたがたのことを思」って祈ってる、と言いますが、祈ってると遠く感じません。


※ある婦人がいまして、僕もお会いしたことがないんですが、僕のブログを毎日のように読んで、毎週配信される東栄の礼拝の動画をみて、東栄教会のことを祈ってくださってる方がいます。時々くださるメールに、本当に一人一人のことを覚えて、名前をあげて、まるで自分のことのように祈ってくださってることがわかります。献金も送ってくださっています。

その方に、岳さんのニュースレターも、市子さんのやつも、柚帆のことも、一空のことも知らせます。

隅から隅まで読んで祈ってくださってるのがわかります。

本当に頭が下がります。ウチの子どもたちの様子も知って祈ってくださってることがわかります。


祈ることは愛することそのものです。イエス様につながるもの同士ですが、祈ることによってもっと近くなります。祈ることは神様との霊的な交わりです。神様と近くなることは、神様につながる兄弟姉妹とも近くなることです。


祈ることは愛することそのもの


祈ってる人は、その人を無視できません。

祈ってる人は、その人を悪く言えません。


●具体的に愛を現しなさい


具体的に対面で会った時はどうしなさいと言ってるか?


16節

あなたがたは聖なる口づけをもって互いにあいさつを交わしなさい。


愛してるよっていうのが本当であるように、表すように口づけしなさい。当時の文化では当たり前でした。口づけは愛を表す挨拶でした。

イエス様を愛する事は兄弟姉妹を愛し受け入れ喜ぶことです。これ間違いないです。

そして、それを態度で行動で現しなさい、やりなさい、挨拶しなさい、と言います。


※漫才師の吉本興業の西川きよしさんが、相手に先に挨拶された負け。とお弟子さんたちに言っているそうです。

つまり自分からあいさつしろ、ってことです。本当に撮影現場のスタッフ全員に自分から挨拶するそうです。


「私は絶えずあなたがたのことを思い」祈り感謝してる、って書いてあります。日々の祈りと感謝が、対面であった時の愛と喜びに現れます。


あいさつしなさい、とイエス様が命令しています。新しい戒め、聖霊の教えは、互いに挨拶し、愛し、仕えることです。イエス様の側がヘリ下ってくださる方です。そのイエス様の御霊が僕らに住んでおられます。


まずは僕らが主に結ばれて、主に包まれて、御霊によって祈らせてもらうのがスタートです。祈りは対面で会った時の喜びに表れます。

声をかけるとか、握手とか神様の愛を表す方法を考えて、もう一回やりましょう。やらされるのではなくて、

まずはその人のために名前をあげて祈ることです。御霊が相手を喜んでいます。御霊はこちらから声をかけたいな、って思ってます。


●分裂を起こす人を警戒すること。


そして、最後は警告に続きます。


17,兄弟たち、私はあなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに背いて、分裂とつまずきをもたらす者たちを警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。

18,そのような者たちは、私たちの主キリストにではなく、自分の欲望に仕えているのです。彼らは、滑らかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましています。


まずは自分が分裂を起こす人になってないかチェックしてみましょう。


分裂させ、神様から引き離そうとする人は、一見わからない場合が多いようです、本当は自分に仕え、自分の欲望び仕えていて、イエス様には仕えてないんだけど、でも、「滑らかなことば、へつらいのことば」を使うので、一見よさそうに見えるようです。


聖書は言います。


1ヨハネ4章20節

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。


神様を愛することと兄弟姉妹を愛することはセットです。

クリスチャン風なことをいうけど、やっていることが和解ではなく分裂、赦しでなく憎しみ、という人がいたら警戒しなさい、遠ざかりなさい、と言います。その人は偽りだ、と聖書は言います。


18,そのような者たちは、私たちの主キリストにではなく、自分の欲望に仕えているのです。


この教会のことを心配してるんだよね、と言いながら、人の悪口をやめない人。しかも、「滑らかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましています。」上手に相手に気に入られるようにして兄弟姉妹に分裂をもたらそうとする人がいたら、離れなさい。

注意するとか、直してあげなくていいから、警戒して、離れなさいです。


「つまづき」をもたらす人、ってあります。

つまづきは障害物、罠。神様を愛し、人を愛さなくする障害物を持ち込む人を警戒しなさい、です。


イエス様に繋がっているあの人、この人、感謝だなあ、って思っている人に、あの人ここがダメ、あの人家でこんな態度らしいよ、って言われると、素直の人は、急にそうなんだ、と思って、一緒になって愛と尊敬を手放してしまいます。


僕も影響受けます。あの子は感謝だなあ、あの人も変えられたなあ、って思ってるところに誰かが、あの人こうらしいよ、言われると、急に、ああそうなんだ、って思います。

急に気持ちが冷えてしまいます。


つまづきは、イエス様の赦しと愛よりも、人に目を向けさせることです。イエス様の十字架の犠牲と赦しよりも、人がいいか悪いか、行いで評価しようとします。それは福音から引き離すことです。


まずは自分の心と口をチェックしてみましょう。

この口が、イエス様に感謝口なのか、それとも毒を吐く口か。

この口は人の陰口で他人の信頼関係を壊す口なのか、それとも人と人を繋ぐ口なのか。


特に、親の発言は子供たちに影響を与えます。親が家で教会の人の悪口を言ってたら、子供たちは素直にそうなんだ、と思います。

お母さん、そんな教会やめたら?と思います。

まさに、親が子供たちにつまづきを与えています。


指導する立場の人の発言は責任重大です。神学校の授業の中で、あのグループはこういうところがダメ、あっちの教団教派はここがだめ、って聞かされると、純粋な学生たちは本当にそう思ってしまいます。

大人の発言は特に責任があります。その発言に御霊の実があるかどうか、愛と尊敬が平安があるかどうか、喜びがあるか。チェックする必要があります。


御霊を受けている人は、わかります。ああ、今の発言、神様からじゃなかったなとわかります。平安がないのでわかります。

謝りましょう。すぐ。謝りましょう。


イエス様は和解の王。イエス様は一致の王。イエス様は赦しの王。イエス様はへりくだりの王。イエス様は愛の王。平和の王

逆に、悪魔は分裂の王。憎しみの王。不安の王。破壊の王。どちらが勝つか、聖書に書いてあります。


20,平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。


悪魔は壊すのが仕事です。夫婦関係を壊し、親子関係を壊し、友人関係も、壊します。国と国が破壊し合います。そして、教会を壊します。


悪魔はイエス様の十字架を忘れさせます。あの血を流して犠牲を払って愛し赦してくださった話を忘れさせます。

悪魔はあなたは正しい、自分は正しい、と思わせます。

自分は正しいと思うと、イエス様が十字架にかかる必要がなくなります。


悪魔は、相手のダメなところ、相手の欠点、相手の受け入れられないところばかりを話します。表向きは「教会のこと心配してる」って言ってても、本音は自分が王様になり、自分の計画通り、思い通りになることです。


18,そのような者たちは、私たちの主キリストにではなく、自分の欲望に仕えているのです。彼らは、滑らかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましています。


自分と違う意見はいいことです。違う意見を歓迎するのは謙遜だし、健康です。

だから教会はだからチームなんです。私と妻は全然性格が違うし視点も違います。でもだからこそ1つです。牧会チームも考えが違います。執事会も考えがみんな違います。

違う意見を言ってくれる人がいるから、バランスのとれた考えに補正してくれます。だから私たちいろんな人が必要です。考えの違う人が必要です。


まず自分から吟味してみましょう。考えの違う人をを愛しているか。尊敬しているか。自分が正しいのではなくて、ただ、イエス様が赦してきよめてくださった罪人です。


自分の欲望に仕えているか、はっきりわかる方法があります。


自分と違う意見を聞いた時に不愉快になり、相手をブロックするか。

それでわかります。傷ついたり、攻撃したりされたりするのはみんなあります。

でも、そこで愛と赦しを選択するか、相手を切るか、です。

悔い改めを選択するか、切り捨てるか、です。

もうあなたとは話しません、というのは、まさに自分の欲望に仕えています。


まず自分に聞いてみましょう。


◆まとめ

ローマ書は、“正しい教え”で終わらず、“愛し合いなさい”で終わります。


教会を愛することはイエス様を愛することです。

イエス様を愛することは、教会の一人一人を尊敬し愛し、喜び、祝福することです。

だから、やりましょう。祈って、名前を覚えて、愛を行動にしましょう。


特に愛せない人、顔合わせたらちょっと気まずい人とか、距離とりたくなる人のために祈りましょう。

祈って求めるなら、必ず与えられます。

自分の欲に支えるのではなく、神様に従うチャンスです。


祈りましょう。愛しましょう。祝福しましょう。


質問です


苦手な人、会いたくない人、はいますか?


歓迎できない理由はなんでしょう。


自分の欲に仕えているか、イエス様に仕えているか、自分に聞いてみましょう。

詩篇96篇

 詩篇96篇


「あー、この曲もう飽きたなぁ」ではなく、聖書は「新しい歌を主に歌え」といいます。


音楽って何回か聞くと飽きます。(年齢とともに、特にそう思います)ですが、神様に感謝するネタはなくならないし飽きません。

心開いてよく見てみたら、毎日新しく良いこと、すごいことをしてくれていて、毎日、僕らを赦し、受け入れ、喜んでくれていて、裁かず、救い出してくださっています。


気づかなかったり、当たりまえと思ってスルーしたり、傲慢になって自分が頑張った、と思ってしまうものです。

だからこそ、賛美することは本来の姿に戻してくれます。



"新しい歌を主に歌え。全地よ主に歌え。

主に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと御救いの良い知らせを告げよ。

主の栄光を国々の間で語り告げよ。その奇しいみわざをあらゆる民の間で。

まことに主は大いなる方大いに賛美される方。すべての神々にまさって恐れられる方だ。"

詩篇 96篇1~4節



賛美は目の前に起きているすべての出来事の栄光を神様にお返しすることです。


空気があること、ちょうど良い温度があることも、太陽の光があることも、血液が流れていることも、話せることも、息ができることも。花も、風も、雲も全部、実は神様の力の表れ、栄光の現れ、愛の表れです。昨日食べた一つ一つのメニュー、昨日動いた動作一つ一つ、全部神様からの贈り物です。

栄光は神様のもの、賛美を受けるのはただ神様だけです。それがもともとの姿です。だから、「栄光お返ししなさい」と聖書は言います。



"もろもろの民の諸族よ主に帰せよ。栄光と力を主に帰せよ。

御名の栄光を主に帰せよ。ささげ物を携えて主の大庭に入れ。"

詩篇 96篇7~8節



日本には「お土産文化」があって、誰かと会うときに愛と尊敬を表すためにお土産を持参します。同じように、神様とお会いするために、神様に愛と尊敬を表すために、お土産を持参します。「ささげ物を携えて主の大庭に入れ。」賛美と感謝は神様に近づくための捧げものです。


神様への感謝ネタは毎日新しいです。なぜなら、神様が毎日新しいことをしてくれるからです。


"新しい歌を主に歌え。全地よ主に歌え。"

詩篇 96篇1節


僕らがぼーっとして気がつかなくても、賛美の歌詞を通して教えてくれることもあります。

だから、歌は神様の素晴らしさを知らせ、語ることでもあります


"主に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと御救いの良い知らせを告げよ。

主の栄光を国々の間で語り告げよ。その奇しいみわざをあらゆる民の間で。"

詩篇 96篇2~3節


今日も神様がしてくださった一つ一つをよーく見て数えてみましょう。昨日食べたもの、昨日させてもらってたこと、昨日動けたことを一つ一つ思い出してみましょう。全部は神様の栄光、神様の愛、神様の救い、神様の御力です。


今日も世界は賛美で満ちています。やがて、自然界もみんな喜び踊り一緒に歌う日がきます。



"天は喜び地は小躍りし海とそこに満ちているものは鳴りとどろけ。

野とそこにあるものはみな喜び躍れ。そのとき森の木々もみな喜び歌う。主の御前で。"

詩篇 96篇11~12節


今日、心の目が開かれるように求めましょう。主がしてくださった新しく良いことをほめたたえる口を求めましょう。今日も神様は良いお方です。ハレルヤ!

2026年4月16日木曜日

ローマ15.25-33

 ローマ15.25-33


以前はだいぶ「イチイチ共有するのめんどくさい。」「1人で祈って1人で進みたい。」と思ってたけど、神様の願いは違いました。

神様のやり方は、神様の願いと計画をみんなで共有して祈り、みんなが自分のこととして参加していくことです。それが教会=キリストの体です。

タイパよりも兄弟姉妹が1つになり、心を合わせて一緒に悩みながら、祈りながら進むことが神様の方法です。


「エルサレムで苦しんでいるクリスチャンたちを助けたい」という気持ちがマケドニア(ピリピの教会とかテサロニケの教会など)とアカイヤ(コリントの教会など)の人たちに与えられました。違う教会なのに同じ願いが与えられました。さらにこの計画は、課題や問題も共有しながら心を合わせて神様に祈っていく中で実現していきます。



"それは、マケドニアとアカイアの人々が、エルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために、喜んで援助をすることにしたからです。

彼らは喜んでそうすることにしたのですが、聖徒たちに対してそうする義務もあります。異邦人は彼らの霊的なものにあずかったのですから、物質的なもので彼らに奉仕すべきです。"

ローマ人への手紙 15章26~27節



キリストがなさること=教会がすることです。問題や課題はみんなのものとなり、それは祈りになり、祈りは行動になります。

パウロは代表者としてエルサレムに行くのですが、エルサレムでの迫害は激しいことがわかっています。必要なのはみんなの祈りです。彼は「私のために、私とともに力を尽くして、神に祈ってください。」(30)とお願いしています。神様の働きは教会の祈りとセットです。



"兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によってお願いします。私のために、私とともに力を尽くして、神に祈ってください。

私がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、エルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるように、

また、神のみこころにより、喜びをもってあなたがたのところに行き、あなたがたとともに、憩いを得ることができるように、祈ってください。

どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン。"

ローマ人への手紙 15章30~33節



イエス様もおっしゃいます。「こう祈りなさい(…中略…)御心が天で行われるように、地でも行われるように」と。神様の働きは祈りとセットです。しかも一人ぼっちの祈りではなく、「あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。」とおっしゃいます。(マタイ18.19)


僕はいまだにせっかちで「面倒だからさっさと進めてしまいたい」とも思います。でも、神様の願いは効率とか速さではなく、神様の願いと僕らの祈りが一つになっていくことです。だから小さいことでも教会の仲間に知ってもらい祈ってもらいましょう。そして兄弟姉妹たちの為に祈りましょう。どんな小さなことでもまず祈りましょう。

祈りは神様の大きな働きに参加することです。


"まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。"

マタイの福音書 18章19節


心を合わせて祈るとき、そこにイエス様が一緒におられます。


"二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」"

マタイの福音書 18章20節


今日も祈ってもらいましょう。そして、祈りましょう。そこにイエス様がおられます。ハレルヤ!





2026年4月15日水曜日

ローマ15.14-21

 ローマ15.14-21


もらって嬉しいプレゼントは人それぞれ違います。ですが、神様に喜ばれるプレゼントは一択で「人間」です。人間が神様のところに戻り、神様を愛するようになり、従順になり、心も体もささげていくことは最高のプレゼントです。これを聖書は「神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物」と言います。



"あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。"

ローマ人への手紙 12章1節



神様に喜ばれる人をもっと増やす必要があります。

自分だけではなく、あの人もこの人も、多くの人たちが神様に喜ばれるささげものになるようにすること、これが僕らの役目です。

福音を聞いて信じた人は「ささげたい」と思うようになります。

福音とは、イエス様にゆるされたこと、愛されていること、きよめられていること、義(無罪でまっさら)とされていることです。

これを知った人は喜んで自分をささげます。それは神様にとっても喜びです。


旧約時代には祭司は動物を殺して神様にささげてました。

今の祭司は違います。動物でなく人を神様にささげます。クリスチャンはみんな「祭司」だと聖書は言います。(1ペテロ2.9、黙示録1.6、5.10など)

しかも、人を殺すのでなく、生かして、きよめて、新しくして、喜ばれる人としてささげます。

パウロは、他の人をささげていくことが自分の祭司の務めだと言っています。



"私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれるささげ物となるためです。"

ローマ人への手紙 15章16節



神様を知らなかった異邦人が喜んで自分をささげていくことは神様にとって最高の喜びです。そのプロセスは全部神様の力です。



"私は、異邦人を従順にするため、キリストが私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かをあえて話そうとは思いません。キリストは、ことばと行いにより、

また、しるしと不思議を行う力と、神の御霊の力によって、それらを成し遂げてくださいました。こうして、私はエルサレムから始めて、イルリコに至るまでを巡り、キリストの福音をくまなく伝えました。"

ローマ人への手紙 15章18~19節



僕らはみんな祭司です。他の人たちを神様にささげる手伝いをします。

まだ福音を知らない人に「あなたは愛されている、あなたは赦され新しくされる、あなたは無罪、あなたは神様の子どもとなる」と伝えましょう。特にまだ届いてない人に届けましょう。



"このように、ほかの人が据えた土台の上に建てないように、キリストの名がまだ語られていない場所に福音を宣べ伝えることを、私は切に求めているのです。"

ローマ人への手紙 15章20節



神様に喜ばれるプレゼントは人間です。将来、神様に喜ばれる生きたささげものになる人たちは、まだまだたくさんいます。

だから出て行って伝えましょう。「あなたは愛されている、あなたは赦され新しくされる、あなたは無罪、あなたは神様のもの」と。その人たちは神様にとって最高の喜びです。




2026年4月14日火曜日

ローマ15章1節から13節

 ローマ15章1節から13節


クリスチャン同士でも考えは違います。教会によって作法や文化も違います。

そんな違いを「受け入れられる人」と「受け入れられない人」のことを、聖書は「力のある者」「力のない人」と言います。「力のある者」は「こうじゃなきゃダメ!」と頑張る人ではありません。自分の考えを一旦手放して相手に合わせることができる人が「力のある者」です。



"私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。"

ローマ人への手紙 15章1節



お手本はイエス様です。すべての権威と自由を持っているイエス様はそれを手放し、へりくだり、権威も神様の立場も手放し、嘲けられ、バカにされ、笑われる囚人になってくださいました。



"キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。むしろ、「あなたを嘲る者たちの嘲りが、わたしに降りかかった」と書いてあるとおりです。"

ローマ人への手紙 15章3節



これはガマン大会ではありません。

イエス様は低くなられましたが、復活し、すべての栄光をお持ちです。

イエス様につながった僕らも自分を手放して弱い人たちに合わせることによって、イエス様と一緒に栄光を受けます。自分のプランや考えを手放す先にはイエス様と一緒に栄光受ける約束があります。



"子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。

今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。"

ローマ人への手紙 8章17~18節



この約束と励ましがあるから、僕らは自分の考えを手放すことができます。その結果は「一致と賛美」です。どちらかが自分を捨てることで両者は1つになり、心を合わせて神様を賛美するようになります。



"どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。

そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように。

ですから、神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。"

ローマ人への手紙 15章5~7節



「日曜日の礼拝はネクタイじゃなきゃだめ!」と思ってる人たちのためには、ネクタイをつけましょう。それによって一緒に賛美することができるからです。でも、この箇所はそんな軽い話ではありません。


2000年の歴史の中で、ユダヤ人たちは異邦人たちに攻撃され続けてきました。今でも周辺諸国との戦争は絶え間なく、憎しみと悲しみは膨らんでいくばかりです。それでも神様は、ユダヤ人と異邦人をを1つにしようとされています。普通は一緒に神様を賛美するなんてあり得ません。

そんな異邦人とユダヤ人がなんと一緒に神様を賛美する日がきます。これが神様のご計画です



"また異邦人もあわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。「それゆえ、私は異邦人の間であなたをほめたたえます。あなたの御名をほめ歌います」と書いてあるとおりです。

また、こう言われています。「異邦人よ、主の民とともに喜べ。」

さらに、こうあります。「すべての異邦人よ、主をほめよ。すべての国民が、主をたたえるように。」

さらにまたイザヤは、「エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方が。異邦人はこの方に望みを置く」と言っています。

どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。"

ローマ人への手紙 15章9~13節



イエス様の十字架のへりくだりに習うことは、どんなに敵対してきた相手であっても和解させ一致させることができます。そして、一緒に賛美する兄弟姉妹に変えてくれます。

だからまず、「自分がこだわってる好みや計画は何か?」自分に聞いてみましょう。そして、「これを手放します。」「違う相手を受け入れ愛します。」と祈りましょう。

この祈りは神様への賛美と栄光をもたらします。これが神様の願いでありご計画です。

ハレルヤ!




2026年4月13日月曜日

ローマ14章

 ローマ14章


教会の中でよく議論になったりモメたりする話題があります。

「教会がいつ携挙されるか?」とか、「異言の賜物どう思うか?」とか、「お酒を飲んでもいいのか?」とか、「礼拝スタイルどんなカタチがいいのか?」「イスラエルに対する教会の態度は?」他にもあります。そのような教会内での論争は聖書の時代にもありました。


特に問題になったのが食べ物と安息日のことです。

当時のクリスチャンの中には「肉は食べない、野菜しか食べない」人たちがいました。「ベジタリアンだから」ではなくて、信仰上の理由からです。



"ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。"

ローマ人への手紙 14章2節



肉を食べない理由がありました。この当時、いろんな宗教があってそれぞれ動物のいけにえをささげていました。そして、偶像にささげる肉は「いいお肉」だったそうで、普通に市場で売っていたそうです。今ならスーパーで「(  )教団で使ったお肉A5ランク!ジューシーで最高!」ってポップで推してくるような感じかもしれません。


クリスチャンの中には、「別に気にしないっしょ!」って感じでカゴに入れる人もいるし、「偶像礼拝に使った肉はやっぱりちょっとムリ…」と思ってる人もいたようです。

問題は、「問題なし派」と「ムリ派」のクリスチャンが一緒に食事をする時です。食事の席でトラブルになることもあったようです。それで、聖書ははっきりと答えます。



"食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。"

ローマ人への手紙 14章3節



聖書はどちらが正しいかノーコメントです。唯一の答えは「お互いにさばくのをやめなさい」です。特にダメなのが「私は成熟しているクリスチャンです」みたいに相手を下に見る人です。


もう一つ、当時の教会でモメたのが安息日問題です。



"ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。

特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。"

ローマ人への手紙 14章5~6節



安息日問題は、今でも聖書的に「安息日は土曜日」なのか、それとも「日曜日を安息日として扱うべき」なのか議論があります。「いや、全部が主の日でしょ」と言う人もいます。

これも聖書の答えは明快です。



"ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。"

ローマ人への手紙 14章5節



聖書はどちらの味方もしていません。聖書の教えは食べるかどうか、どの日が大事か、ではなくて「考え方が違っても兄弟姉妹を愛しなさい」です。



"特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。"

ローマ人への手紙 14章6節



牧師とか神学議論好きがが一番危ないし厄介です。「議論」はいいけど「相手をさばく」「下に見る」のはダメです。僕らは上から目線になってしまいがちです。相手を愛している主人はイエス様です。聖書は「イエス様のしもべをさばくあなたは何者ですか?」と言います。(4)「考えの違うあの人」はイエス様の大事なしもべ、愛する子です。成長させてくださるのはイエス様です。僕らではありません。その人をイエス様は尊重してくださいます。



"他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。"

ローマ人への手紙 14章4節


大事なことは、争いを生み出したり、お互いの平和と成長に役に立たないような、相手をガッカリさせることを前面に出さないことです。



"こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。"

ローマ人への手紙 14章13節



イエス・キリストの十字架と復活によって救われること、これは中心的な真理です。

でも、偶像にささげた肉を食べるかどうか、それで救いが決まるわけではないです。安息日をどう理解するかで救いが確定するのではありません。

もっと大事なのは、兄弟姉妹を尊敬し愛することです。愛がなければ全てはむなしい議論です。(1コリント13章)



"私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。

もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。"

ローマ人への手紙 14章14~15節



イエス様が再臨されるタイミングの理解の違いで救われないとか愛されないという事はありません。もちろん食べ物や飲み物の違いも救いの条件ではありません。安息日理解も同じです。パウロは愛する兄弟姉妹のためには、相手をがっかりさせるようなモノは目の前におかない、と決めているようです。



"なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。

このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々にも認められるのです。

ですから、私たちは、平和に役立つことと、互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。

食べ物のために神のみわざを台無しにしてはいけません。すべての食べ物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような者にとっては、悪いものなのです。

肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、あなたの兄弟がつまずくようなことをしないのは良いことです。

あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。"

ローマ人への手紙 14章17~22節



もし食べ物とか飲み物とか安息日理解のことで、仲間を悲しませるなら、それは愛ではありません。



"もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。"

ローマ人への手紙 14章15節



どんなに神学的な勉強しても、愛がないならうるさいドラです。

神様の国は議論をすることではなくて「義と平和と聖霊による喜び」です。(17)


礼拝スタイル問題、食べ物問題、再臨の時期問題、異言理解の問題、イスラエル理解の問題、答えは、「それで兄弟姉妹が困るなら自分の理解を押し付けない」です。



"肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、あなたの兄弟がつまずくようなことをしないのは良いことです。"

ローマ人への手紙 14章21節



もちろん自分の中で確信を持つ事はオッケーです。むしろ「持っていなさい」と勧められています。



"あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。"

ローマ人への手紙 14章22節



でも逆に、自分の中で「無理」と思っていることに対して、無理矢理それに蓋をして、疑ってるのに、信じてないのに行動するのは罪です。



"しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。"

ローマ人への手紙 14章23節



大事なことはイエス様の愛です。十字架の愛です。不完全で凸凹な僕らを愛し、ゆるし、受け入れてくれました。それ以外のことは幅があります。妨げになるものやつまづきになるものがあるなら、みんなの前ではやめておきましょう。自分の考えは自分のものとしておきましょう。「肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、あなたの兄弟がつまずくようなことをしないのは良いことです。」ハレルヤ!