2026年7月17日金曜日

使徒14.19-22

 使徒14.19-22


僕らは「どうやって快適にラクに過ごせるか」と考えます。…ですが、聖書の教えは「苦しみを避けること」が人生の目的だとは教えていません。キリストのために、キリストとともに苦しむことには価値があり霊的な喜びがあります。それは神の国では栄光と喜びに変えてくださる尊いものです。



"むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。

もしキリストの名のためにののしられるなら、あなたがたは幸いです。栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。"

ペテロの手紙 第一 4章13~14節



"わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。

喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。"

マタイの福音書 5章11~12節



キリストのための苦しみは、キリストと自分が1つであることのしるしです。クリスチャンたちを苦しめると、イエス様は、なぜ「わたし」を迫害するのか、とおっしゃいます。(使徒9.4)

クリスチャンへの迫害=イエス様への迫害です。

そのように、パウロはキリストと一緒に迫害を受け石打ちで殺されかけます。



"ところが、アンティオキアとイコニオンからユダヤ人たちがやって来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにした。彼らはパウロが死んだものと思って、町の外に引きずり出した。

しかし、弟子たちがパウロを囲んでいると、彼は立ち上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバとともにデルベに向かった。"

使徒の働き 14章19~20節



石打ちは死刑です。死ぬまで石を投げつける処刑方法です。

血だらけになって動かなくなったパウロを人々は「もう死んだ」と思って町の外に引きずり出して捨てました。

実際に死んだのか、気絶していただけなのかわかりません。

でも、仲間たちが悲しみながらパウロを取り囲んでいるとパウロは立ち上がりました。信じられない光景でした。

彼はすぐに歩き出して町に入り、翌日には次の町に移動して宣教を続けます。



"二人はこの町で福音を宣べ伝え、多くの人々を弟子としてから、リステラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返して、

弟子たちの心を強め、信仰にしっかりとどまるように勧めて、「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」と語った。"

使徒の働き 14章21~22節



さらに、彼らは迫害された町に戻ります。普通だったら「もう二度とあの町には近づきたくない。怖い」と思うはずです。

彼は致命傷を負っているはずなのに、そこに残っているクリスチャンたちを励まします。「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」(22)この出来事は、パウロが生きているのではなく、キリストがパウロの中に生き、力づけておられたことの証でした。

今も、キリストと一緒に苦しむ人は将来キリストとともに大きな栄光を受けます。



"私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。

今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。"

ローマ人への手紙 8章17~18節



僕らは快適に安全に過ごすことばかり考えがちです。ですが、この世と調子を合わせて生きるよりも、キリストと共に歩み、その結果として苦しみを受けるほうが、はるかに価値があります。しかも、そこにはこの世にはない栄光と喜びが約束されているからです。


今日の1日がキリストと一緒に生きる喜びに満たされますように。たとえ苦しみの日であっても神の国で喜ばれるものでありますように。


 

使徒14.1-7

 使徒14.1-7


迫害されてもイエス様の福音を伝え続けたパウロやバルナバの話を読むと、「さすがパウロ先生すごい!」とか思われがちです。でも実際は「パウロが頑張った」のではなくて「神様がパウロを用いて語らせてくださった」ということです。もちろんパウロ自身も忍耐しました。でも、それを支えてくださるのは神様のめぐみです。



"イコニオンでも、同じことが起こった。二人がユダヤ人の会堂に入って話をすると、ユダヤ人もギリシア人も大勢の人々が信じた。

ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人たちを扇動して、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。

それでも、二人は長く滞在し、主によって大胆に語った。主は彼らの手によってしるしと不思議を行わせ、その恵みのことばを証しされた。"

使徒の働き 14章1~3節



イエス様との霊的な生きた関係を失うと、僕らは人ばかりを見がちになります。彼らは神様の働きよりも自分たちの伝統とか考えにこだわり、パウロとバルナバに反対し、人々を扇動して彼らに悪意を抱かせ、反対させます。これは僕らにも起こり得ることです。


一方、パウロとバルナバは攻撃されてもそこに滞在し続け、大胆に語り続けます。それは「自分の力で戦っていない」からです。もちろん忍耐したし、努力もしました。でも神様の愛と忍耐です。3節には「主によって」大胆に語ったとあります。


パウロとバルナバが強かったのではなく、語らせてくださったのは彼らの中に住んでくださる聖霊の働きでした。

イエス様もおっしゃってました。



"人々があなたがたを捕らえて引き渡すとき、何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。"

マルコの福音書 13章11節



御霊の力を証明してくださるかのように、「主は彼らの手によってしるしと不思議を行わせ、その恵みのことばを証しされた。」(3)とあります。


イエス様との関係を見失って自分の考えに囚われてしまった人は目の前の人だけを見てしまいます。その結果、「あの人が気に入らない」「あの人が間違っている」と人間レベルの争いになってしまいます。



"すると、町の人々は二派に分かれ、一方はユダヤ人の側に、もう一方は使徒たちの側についた。"

使徒の働き 14章4節



僕らも問題や苦しみがあってもそこにとどまるように導かれる時があります。パウロたちは最初まさにそうでした。

でも、神様が別の場所に逃れるように導いてくださる時もあります。二人が捕まりそうになり、石で殺されそうになった時、彼らは次の町に逃れます。これは福音を次の場所に届けるためでもありました。



"異邦人とユダヤ人が彼らの指導者たちと一緒になり、二人を辱めて石打ちにしようと企てたとき、

二人はそれを知って、リカオニアの町であるリステラとデルベ、およびその付近の地方に難を避け、

そこで福音の宣教を続けた。"

使徒の働き 14章5~7節



パウロたちが勇敢だったのではありません。彼は後で言っています。

 


"私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。"

コリント人への手紙 第一 15章10節



語らせてくださるのはイエス様の御霊です。

苦しみにあっても、敵を赦し、忍耐し、迫害する人のために祈る力はイエス様から与ええられるものです。

僕らの頑張りではありません。今日も体と心をあけ渡しましょう。職場で、家庭で、学校で、あらゆる人間関係の中で、この体と心を神様に明け渡して用いていただきましょう。強い人が用いられるのではなく、弱い人の中に神様が働いてくださいます。



"私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。"

コリント人への手紙 第二 4章7節


2026年7月15日水曜日

使徒13.38-49

 使徒13.38-49

2026年7月13日月曜日

使徒13.16-39

 使徒13.16-39


「人類の歴史」とは、神様から離れてワガママになってしまった人類を神様が見放さず、救い出してくださる歴史です。「History」は「His Story」=「神様の物語」とも言われます。聖書は見捨てない神様の愛と憐れみの歴史を僕らに教えてくれています。


神様から離れた人間は不自由になり苦しんでいます。互いに傷つけ合い、愛は冷え、自然界ともうまくいかなくなっています。どんなに健康で強い人でも行き先は墓場です。


神様はそんな人間を諦めていません。人類を滅亡させることもできますが、切り捨てることはせずに、救いの道を知らせ、全ての人がもう一度神様と一緒に生きる自由と喜びと平安に迎え入れようとしておられます。


パウロは、どこの町に行ってもこのストーリーを伝えます。

特に旧約聖書をよく知っているイスラエル人のためには、この救済計画を聖書に沿って話します。


神様は罪と滅びに向かっていく人類を救うために、まずアブラハムとその子孫であるイスラエル人たちを選び、「子孫を増やす。祝福する。祝福の土地を与える。」と約束されました。

その約束の通り、子孫たちは増え広がります。


それでも世界は罪と闇の影響の中で苦しみ続けました。イスラエル人たちはエジプトで400年間苦しめられ奴隷にされていました。その間に人口は増えていきます。



"そこでパウロが立ち上がり、手振りで静かにさせてから言った。「イスラエル人の皆さん、ならびに神を恐れる方々、聞いてください。

この民イスラエルの神は、私たちの父祖たちを選び、民がエジプトの地に滞在していた間にこれを強大にし、御腕を高く上げて、彼らをその地から導き出してくださいました。"

使徒の働き 13章16~17節



奴隷として縛られていたエジプトから神様が脱出させてくださったことは、将来、全人類が罪と闇から救出されることを先取りして見せてくださった見本のようです。


だのに、エジプトから救われてもなお、人間は自分勝手なままです。彼らは文句を言います。「エジプトに戻りたい。」「あっちの方が良かった。」「食べ物がない。」「水がない。」

不平不満ばかりのイスラエルを神様は愛し、忍耐し、導き続けてくださいました。



"そして約四十年の間、荒野で彼らを耐え忍ばれ、

カナンの地で七つの異邦の民を滅ぼした後、その地を彼らに相続財産として与えられました。"

使徒の働き 13章18~19節



神様はまるで、駄々をこねる小さい子どもを愛し続け、教え続ける忍耐深い親のようです。神様は約束通りに祝福の土地を与え、さらに彼らを導くリーダーを与え続けてくださいます。



"約四百五十年の間のことでした。その後、預言者サムエルの時まで、神はさばきつかさたちを与えられました。"

使徒の働き 13章20節



それでも彼らは勝手なことを言います。

「周りの国みたいになりたい。」「自分たちにも王様が欲しい。」とです。

それでも神様は愛することをやめません。彼らの願いの通りに王様を与えてくれました。



"それから彼らが王を求めたので、神は彼らにベニヤミン族の人、キシュの子サウルを四十年間与えられました。

そしてサウルを退けた後、神は彼らのために王としてダビデを立て、彼について証しして言われました。『わたしは、エッサイの子ダビデを見出した。彼はわたしの心にかなった者で、わたしが望むことをすべて成し遂げる。』"

使徒の働き 13章21~22節



神様の救いの約束は、どんなに人間が自分勝手でも取り消されることがありません。神様は「ダビデの子孫から永遠の王であり救い主であるキリストが生まれる」と預言され、その通りにイエス・キリストが来られました。



"神は約束にしたがって、このダビデの子孫から、イスラエルに救い主イエスを送ってくださいました。"

使徒の働き 13章23節



それでも人間は何も理解せずに勝手な判断をします。神様が送ってくださった救い主イエス・キリストを認めず、十字架にかけて殺します。



"エルサレムに住む人々とその指導者たちは、このイエスを認めず、また安息日ごとに読まれる預言者たちのことばを理解せず、イエスを罪に定めて、預言を成就させました。

そして、死に値する罪が何も見出せなかったのに、イエスを殺すことをピラトに求めたのです。

こうして、彼らはイエスについて書かれていることをすべて成し終えた後、イエスを木から降ろして、墓に納めました。"

使徒の働き 13章26~29節



聖書の歴史は人類の罪深さと、それでもあきらめない神様の歴史です。


今日も神様は僕らのこと諦めていません。

相変わらず自分勝手なことを続け、その結果、自分の首を絞めて苦しんでいます。

それでも神様は見捨てることがありません。


イエス様は来られました。殺されましたが復活し、今も生きておられる救い主です。

このイエス様を信じる人は新しくされます。罪に定められることがなく、解放され、神様と一緒に生きる自由と喜びと平安のいのちを得ます。それは永遠になくならない命です。



"ですから、兄弟たち、あなたがたに知っていただきたい。このイエスを通して罪の赦しが宣べ伝えられているのです。また、モーセの律法を通しては義と認められることができなかったすべてのことについて、

この方によって、信じる者はみな義と認められるのです。"

使徒の働き 13章38~39節



神様は僕らを義と認めてくださいます。それは、もう一度神様の子どもとして、神様の近くで自由と喜びの中を歩む新しい歩みです。

何百年も背き続ける人間を神様は見捨てることがありませんでした。神様の救いの約束は人間の罪深さによって取り消されることはありませんでした。


神様は滅びではなく、救いに招いてくださっています。聖書は僕らをあきらめていない神様のストーリーです。今日もこのストーリーは終わっていません。愛され、赦され、忍耐されています!




使徒13.1-5

 使徒13.1-5


「誰を宣教師として遣わそうか」とか「これからの教会をどのように成長させようか」とか「誰を牧師にしようか」とか僕らは話し合います。…ですが、聖書に書かれている教会は人の考えとか会議で決めてないことがわかります。


彼らがやってた事はシンプルで、神様を礼拝し、祈ることです。ひたすら神様に心を向ける中で聖霊の声を聞き、聖霊が人を選び、任命されます。教会はその声を聞き、みんなで確認して送り出します。



"彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が「さあ、わたしのためにバルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」と言われた。

そこで彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いてから送り出した。"

使徒の働き 13章2~3節



この働きは「神様のため」です。「人のため」とか「教会のため」でも「自分のため」でももありません。聖霊は「さあ、わたしのために」とおっしゃいました。僕らはすぐに「自分はどっちが都合がいいかな。」などと考えてしまいます。

誰が選ばれるか、どのような働きに召され送り出されるか、それは人が決めるのでなく、神様の選びと任命です。


「バルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」と言われた教会は、もう一度断食して祈って神様に求めます。祈りの中で教会のみんなの確信となり、教会全体が彼らに手を置いて送り出します。

「手を置くこと」は一体性を表します。「この働きは私たちキリストの体の働きと一つです。」という表明です。

バルナバとサウロは勝手に宣教師になったわけではありません。聖霊が彼らを選び、そして教会はそれを承認して送り出しました。



"二人は聖霊によって送り出され、セレウキアに下り、そこからキプロスに向けて船出し、"

使徒の働き 13章4節



3節では教会が送り出しています。でも、4節では聖霊が送り出しています。これは矛盾ではなくて、聖霊がなさることと教会がすることが一体化している様子です。


アンティオキア教会が「送り出す教会」として用いられたのは、人数が多かったからでも、お金があったからでもなく、ひたすら礼拝し、祈り、みことばを求め、聖霊に従う教会だったからです。


「礼拝」とは賛美したり聖書の話を聞く「あの日曜の午前中の集会」ではありません。「礼拝」は自分を生きたささげものとして、神様に明け渡すことです。(ローマ12.1)「主よ、私はあなたのものです。あなたの思い通りにしてください」そう言って所有権を手放し、100パーセント神様のものにしてもらうことです。


「祈り」も同じです。イエス様が教えてくださった祈りは「御名が聖なるものとされますように」です。つまり、「神様が全てになりますように。人間的な汚れたものが少しも入りませんように」という祈りです。


イエス様が十字架でいのちを捨ててくださったように、いのちを捨てて僕らを愛してくださったように、そのように僕らも自分の全てを神様にささげることが礼拝です。

その時に、神様は「神様の働き」をさせてくださいます。

聖霊に満たされ、聖霊に導かれるためには、「自分を聖霊に完全に明け渡す」のが大切です。神様に満たされるためには、まず自分を空き家にすることです。


アパートから退去する時にカーペットもカーテンも残さないのと同じです。新しい所有者が気に入ったカーペットやカーテンに取り替えます。そのように、僕らの所有者は神様です。神様の思い通りのレイアウト、デザインがいいに決まっています。


もしも僕らが何かを始めようとしているなら、

「本当にこれは聖霊の働きですか?」と神様に聞いてみるのをお勧めします。

自分の力とかやる気とか夢だと長くは続きません。


アンティオキア教会は神様を礼拝し、祈る教会でした。自分たちの意見とか願いとか意見調整ではなくて、全てを明け渡す祈りの中で、神様は人を召し出し、用いてくださいます。人の思いもよらない新しいことをさせてくださいます。僕らがすべきは今日も神様に心を向け続けることです。神様、どうぞ僕らの心をいつもあなたに向けさせてください。今日も完全に明け渡すものとしてください。