使徒16.19-34
想像してみてください。
知らない外国に行ってみたら、いきなり逮捕され、無理やり服を脱がされ、拷問を受け、殺されそうになります。血だらけのまま不衛生な牢屋に監禁され、手錠と足枷で拘束されます。普通は気がおかしくなります。
まさに、パウロとシラスはその状況でした。
普通はパニックになります。もし祈れたとしても「神様、どうしてですか…」「助けて…」がやっとだと思います。
ところが、パウロとシラスには賛美の歌が与えられました。
"真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。"
使徒の働き 16章25節
他の囚人たちはこんな状況の中で賛美する人たちを見たことがありません。「なんでこの人たちこんな状況で賛美するんだ?」と驚きつつ彼らの祈りと歌に聞き入っていました。
神様はこの最悪の苦しみを用いてご計画を進められました。
"すると突然、大きな地震が起こり、牢獄の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開いて、すべての囚人の鎖が外れてしまった。
目を覚ました看守は、牢の扉が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。
パウロは大声で「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫んだ。"
使徒の働き 16章26~28節
牢獄の扉が開き、鎖が外れると普通なら「やった!逃げられる!」と思います。ところがパウロとシラスは鎖が外れても、牢屋の扉が開いても逃げませんでした。囚人を逃すと看守は処刑されることを知っていたかもしれません。この看守を救うために、彼らは牢屋にとどまります。
看守は囚人たちが逃げたと思い、自分も処刑されると思い込んで自殺しようとします。
パウロはそんな看守を愛し救うことことを選び「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫びました。
これが神様のご計画でした。
看守はその愛に触れて驚き、恐れ、神様を求めます。
苦しみから逃がれることだけが神様の導きとは限りません。
最悪の状況の中で賛美し祈ることが、そして自分を殺そうとする敵に愛を示すことが神様のご計画であることがあります。二人には人からは出ない御霊による賛美と祈りが与えられました。彼らは自分を苦しめた看守を救うことを選ぶことができました。
"看守は明かりを求めてから、牢の中に駆け込み、震えながらパウロとシラスの前にひれ伏した。
そして二人を外に連れ出して、「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。
二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」
そして、彼と彼の家にいる者全員に、主のことばを語った。
看守はその夜、時を移さず二人を引き取り、打ち傷を洗った。そして、彼とその家の者全員が、すぐにバプテスマを受けた。"
使徒の働き 16章29~33節
最悪の苦しみを通して看守の家族全員がイエス様を信じ、夜のうちにバプテスマを受け、一緒に食事をして喜び合います。さっきまで敵だった相手が愛する兄弟姉妹に変えられています。
"それから二人を家に案内して、食事のもてなしをし、神を信じたことを全家族とともに心から喜んだ。"
使徒の働き 16章34節
夜が明けてきました。囚人がいなくなっていたら看守は責任を問われます。想像ですが、たぶん、監守を守るためにパウロとシラスは牢獄に戻り、もう一度手錠と足枷をつけてもらったと思います。その光景は感動的です。
神様のなさることは、苦しみから逃れることだけではありません。むしろ苦しみの中に神様の大きなご計画がある場合があります。彼らは逃げられるチャンスが来ても看守を見捨てず愛することを選びました。
僕らはラクしたいし、逃げたいです。嫌なことがあると文句ばかり、不安ばかりになりがちです。だけど、苦しみを通して神様のご計画が進むことがあります。
どんな状況の中でも神様を信頼して感謝し、賛美し、祈る人になるように求めましょう。僕らにはできません。だからこそ求めましょう。御霊はそのように変えてくださいます。
苦しみの中で、目の前にいる人を愛するイエス様の愛が与えられますように。賛美と祈りを与えてくださる御霊に満たされますように。