2026年10月9日金曜日

--聖書を開いて神に『聴く』祈りの勧め--に参加して教えられたこと。

 日本聖書協会・聖書セミナー

--聖書を開いて神に『聴く』祈りの勧め--に参加して教えられたこと。


音楽ゲストで参加させてもらったんですが、講師のカトリック片柳神父様のお話がめちゃくちゃよかったです。おこがましいけど、いつも思っていること感じてることをまとめてくれた!って気持ちでした。

カトリックの指導者たちがこんなに聖霊の働きを大切にし、神様との霊的な交わりを求めている大切していることを間近で知ることができてすごく嬉しかったです。知りもせずに「カトリックは儀式的なんじゃないか」「式文の形、定型文みたいに祈ってるだけじゃないか」ってなんとなく思っていたことを恥ずかしく思いました。すっごく霊的で真実な神様との交わり求めていて、しかも聖書の御言葉を「今、目の前で生きておられるイエス様の言葉」として聞き、リアルな交わりを求めていることを知りました。


それで、特に共感したところ書いておくことにしました。「僕が」共感したところ、感じたことなので、講師の意図したこととずれている可能性もありつつです。自分のための記録です。


⚫︎その1 心の奥で聞くこと。


自分の心の動きにも神様の働きがある。神様は私たちの知らない心の奥を私たちに知らせようとしておられる。


そのためには、まず「自分に聞く」と言う段階もすごく大事にしておられました。

例えば「どうしてこの御言葉に、私は関心がないんだろう」

「どうして私は、この御言葉に感動するんだろう」「どうして聖書読みたくないんだろう」など。


神様は、僕らの心の奥の奥まで知っておられて、表面的な感じ方の奥には、もっと深い自分も知らない本当のニーズがあり、本当に自分が求めていることがあり、同時にその奥に必ず内住の聖霊がおられて、私たちに語りかけようとしておられる。


例えば、「私は時計が欲しい」「でもどうして欲しいんだろう」神様に聞くうちに「私は忙しくて時間が欲しかったんだ」と本当の自分の願いを示されることがある。


「会社で出世したい」と言う願いの奥に「父親に認めて欲しい」と言う本当の気持ちが示されることがある。


欲望を満たしただけでは、その後でも虚しさが残ります。僕らの本当の必要は、霊的な満たしです。

でも霊的な神様との交わりが満たされると、そこには無くなることのない平安と喜びがあります。


本当にうわべだけではなく、神様との深い交わりをするためには、そして御言葉と御霊に満たされるためには、まず自分が抱えている思いとか、考えとか、欲望とかを一度脇において、一旦心を空っぽにする必要があります。コップにすでに余計なものが入ってたら水が入らないのと同じです。

心を明け渡し、空っぽにした時にその時に神様の御言葉が、そして神様の愛が、神様の御霊が注がれます。


マザーテレサの言葉です。

「神は、すでにいっぱいのものを満たすことができません。空っぽの心だけを満たすことができるのです。大切なのなのは、どれだけ持っているかではありません。どれだけ空っぽかなのです。自分ばかり見るのを止め、自分が何も持っていないこと、何者でもないこと。何もできないことを喜びなさい。」


「折りとは、求めることではありません。祈りとは自分を神さまの手に委ね、心の奥深くから語りかける神さまの声に耳を傾けるということなのです。心の中で神さまの声を聞き、神さまに語りかける。祈りとは神さまとの対話なのです。」


⚫︎その2 説教とその準備はイエス様との息がかかりそうな交わりであること


今回のお話は説教の準備のためだなあ、って思いました。

僕もメッセージをするものとして、すごく教えられたし、もう一度原点に戻された気がします。


片柳神父様の言葉にすごく共感しました。

「知的な理解をしただけでは、相手にも知的な理解しか届かない」

「深く心で理解した事は、相手の心の深いところまで届く」

本当にそうだなぁと思わされました


「説教しようとするものは、まず御言葉によって、心を動かされ、自分の具体的な日常生活の中に御言葉が受肉するようにしなければなりません」(教皇フランシスコ 使徒的勧告『福音の喜び』)


霊的な聖書の読み方の4つの段階→これはまさに説教の準備だなぁと思わされました。


(1)レクティオ(読書)lectio

①頭で読む⋯テキストに何が書かれているかを理解する。分からない言葉や表現について

は、注解書などを参照する。

「イエスは、二千年前に、ガリラヤで、弟子たちに何を語ったのか。」


②心で読む⋯頭で理解したことを、心にしみこませていく。ゆっくり時間をかけ、テキス

トの言葉を自分自身に今ここで語りかけられた言葉として聞く。

「イエスは、いま、ここで、わたしに何を語っているのか。」


(2)メディタティオ(黙想)meditation

聖書を通して呼びかけておられる、神さまの声に耳を傾ける。この箇所を通して、神さ

まはいま、わたしに何を伝えたいのか。


(3)オラティオ(祈り)oratio

受け取ったメッセージへの自然な応答として、悔い改めの祈りや感謝の祈り、聖霊の助

けを求める祈りなどが生まれる。


(4)コンテンプラティオ(観想)contemplatio

イエスとの対話を続けるうちに、目の前にいまイエスがいることを感じられるようにな

る。イエスの息遣いやぬくもりを感じながら、沈黙のうちにイエスととどまる。


特に最後の「目の前にいまイエスがいることを感じられるようにな

る。イエスの息遣いやぬくもりを感じながら」は本当にそうなりたいな、って思わされていることです。

カトリックの先輩たちは本当にイエス様とのリアルな、息がかかりそうな交わりを求めていることがわかります。


「祈りの親密さの中で、イエスはあなたたちの目を覗き込み、あなたたちの心に語りかけるのです。」(ヨハネ・パウロ2世)


「あなたたちは、イエスが語りかける愛情のこもった言葉を聞いありますか。あなたたちは、生きているキリストを知っていますか。本によってではなく、心の中でイエスと共にとどまることによって。」(マザー・テレサ)


⚫︎その3 教会の会議が祈りであること


新しい教皇が進めている会議の改革、すごく共感というか、おこがましいけど、僕もいつも考えていることでした。


「自分の意見を主張し合うだけの会議には意味がない、時間の無駄」

「会議そのものが祈りの場所になるように」

そのために従来のピラミッド型の会議をやめて小グループに分けて、教皇も枢機卿もシスターも関係なく

①「まず私が神様に聞く」「祈りの中で、神様から示されたこと、感じたことを分かち合う」

②「次に、仲間の心を通して、仲間が神様から与えられ教えられ感じていることを通して神様に耳を傾ける」

③「お互いに神様の声を聞きながら、一緒に歩んでいく道を探していく」

という3つのステップを大切にしているそうです。


これはどんな教会の会議も、そしてどんなカウンセリングも同じだなぁと思わされました。

2026年10月8日木曜日

2歴代32.20-33

 2歴代32.20-33


「人はうわべを見るが、主は心を見る」という言葉があります。(第一サムエル記16章7節)

僕ら人間は、他人の実績とか成功とか持ち物とか能力とかで判断しがちです。でも、神様が関心を持っておられるのは、その人の「心」です。今日のヒゼキヤの出来事も神様の関心は「心」です。


ヒゼキヤはめちゃくちゃ祝福された人です。

偶像で汚れきった国中から偶像を取り除き、神殿の扉を開け、礼拝や賛美を回復させ、過越の祭りを再開させた人です。大国アッシリアに包囲されて脅されても、神様に祈り、叫び、救い出してもらいました。

こんなに祝福された人は、ほかにいないんじゃない?というレベルです。



「主は御使いを遣わして、アッシリアの王の陣営にいたすべての勇士、指揮官、隊長を全滅させた。アッシリアの王は恥じて国へ帰り、自分の神の宮に入った。そのとき、自分の身から生まれ出た者たちが、そこで彼を剣にかけて倒した。」

(歴代誌第二32章21節)


「多くの人々が、主へのささげ物やユダの王ヒゼキヤに贈る選りすぐりの品々を携えて、エルサレムに来るようになった。この時以来、ヒゼキヤはすべての国々から尊敬の目で見られるようになった。」

(歴代誌第二32章23節)



その財産はすごかったようです。



「ヒゼキヤは非常に多くの富と誉れを手にした。彼は、銀、金、宝石、バルサム油、盾、すべての尊い器を納める宝物倉、

穀物、新しいぶどう酒、油などの産物のための倉庫、さらに、あらゆる家畜のための小屋や、羊の群れの囲いを造った。

彼は町々を建て、羊や牛の群れもおびただしい数であった。神が、実に豊かな財産を彼に与えられたからである。」

(歴代誌第二32章27~29節)



死にかけるような病気になったときも、神様に祈ると、彼は癒されました。



「そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。彼が主に祈ったとき、主は彼に答え、しるしを与えられた。」

(歴代誌第二32章24節)



こんなに祝福されていたら「神様ってヒゼキヤのことをすごく喜んでいたんだろうな」って思います。ところが、聖書が注目しているのは「彼がどれだけ成功したか」ではありません。神様が見ているのは「彼の心」です。つまり彼が「この祝福にどう答えたか」です。25節には、彼が「心を高ぶらせた」と書かれています。



「ところがヒゼキヤは、自分に与えられた恵みに応えようとせず、かえってその心を高ぶらせたので、彼の上に、また、ユダとエルサレムの上に御怒りが下った。」

(歴代誌第二32章25節)



祝福されていることと、「神様の前でどんな心か」は別問題です。大事なのは神様がしてくださった恵みを数えて神様に栄光と感謝をささげることです。

大きな祝福を受けた時には、ますます感謝と賛美をささげ、栄光をお返しする責任があります。人はうまくいくと「自分のおかげ」と高ぶりやすくなるからです。最初から最後まで、全部が神様から与えられた恵みです。

聖書は「多く与えられた人は多く求められます」いいます。(ルカ12.48)多くの恵みを受けた人は、その恵みに感謝して栄光と主権を神様にお返しすることが求められます。

ヒゼキヤが「恵みに応えようとせず、かえってその心を高ぶらせた」とき、神様は分かりやすく怒りを示してくださり、ヒゼキヤは悔い改めました。



「しかし、ヒゼキヤがその心の高ぶりを捨ててへりくだり、彼もエルサレムの住民もそうしたので、主の御怒りは、ヒゼキヤの時代には彼らの上に臨まなかった。」

(歴代誌第二32章26節)



僕らが祝福されて、財産が増えたり、祈りが聴かれたりして上手くいくのは素晴らしいことです。

でも、もっと大事なことは、神様への感謝が増えていき、神様への賛美が増えていくことです。神様は心をご覧になります。ことがうまく行った時、人から認められた時こそ神様に感謝し賛美し、栄光をお返する時です。自分を高くし、誇りたくなる時だからです。

ヒゼキヤは祝福され、その噂は周辺諸国に広がり、尊敬され、見学に来る国もありました。来訪者はヒゼキヤをほめ、尊敬を表します。ほめられるのは悪いことじゃないけど、そんな時こそ高ぶりの誘惑が迫っています。聖書は外国からの来客を使って「彼を試みて、その心にあることすべてを知ろうと」したと言います。



「ただし、バビロンの首長たちが、この地に示されたしるしについて調べるために彼のもとに使節を遣わしたとき、神は彼を試みて、その心にあることすべてを知ろうとして彼を捨て置かれた。」

(歴代誌第二32章31節)


ヒゼキヤは高ぶりましたが、それを認めて悔い改めます。「ヒゼキヤがその心の高ぶりを捨ててへりくだり、彼もエルサレムの住民もそうしたので、主の御怒りは、ヒゼキヤの時代には彼らの上に臨まなかった。」(26節)


僕らも正直に認めましょう。感謝していないこと、高ぶっていること、そのような自分の足りなさを、今日も告白しましょう。不完全な僕たちを赦し、義としてくださるのは、ただイエス様の十字架の血によります。十字架以外には、僕たちには誇りはありません。高ぶることなく感謝しましょう。ハレルヤ!

2026年10月7日水曜日

2歴代32.1-19

 2歴代32.1-19

2026年10月6日火曜日

2歴代30章から31章10節

 2歴代30章から31章10節


「神様がしてくださったことを思い出す」→「感謝する」→「喜び楽しむ」→「もっと礼拝したくなる」→「献金と奉仕をもっとささげたくなる」→「さらに神様の祝福を知る」→「感謝する」…という素晴らしい礼拝の循環があります。


第二歴代誌30章は、ずっと行われていなかった「過越の祭り」「種なしパンの祭り」を再スタートしたことが書かれていますが、この2つはまさに「神様が救ってくださったことを思い出す」祭りです。どちらも神様が良くしてくださったことを思い出します。恵みを思い出すと感謝と喜びが生まれます。そこから礼拝が生まれ、賛美が生まれ、そして奉仕が生まれます。


ヒゼキヤ王が、これらの祭りを行わせたとき、国中に喜びが溢れました。あまりに嬉しいので、「あと7日間、祭りを延長しよう!」と思うほどでした。



"エルサレムにいたイスラエルの子らは、七日の間、大きな喜びをもって種なしパンの祭りを行った。レビ人と祭司たちは、毎日主に向かって力強い調べの楽器を奏でて、主をほめたたえた。

ヒゼキヤは、主への務めによく通じているすべてのレビ人に励ましのことばをかけた。彼らは、交わりのいけにえを献げ、父祖の神、主に告白をしつつ、七日間、祝いの食事にあずかった。

全会衆は、さらに七日間祭りを行うことを決め、喜びをもって七日間、祭りを行った。"

歴代誌 第二 30章21~23節



「過越の祭り」は、エジプトに神様の裁きがあったときに、イスラエル人たちだけは、身代わりに子羊を殺し、その血を玄関の門柱と鴨居に塗ることで、「裁きが過ぎ越されたこと」を思い出す祭りです。


「種なしパンの祭り」は、何も持たないで、奴隷だったエジプトを脱出したことを思い出す祭りです。パンを発酵させる時間もなく、最小限の持ち物だけで再出発しました。その後も40年間、荒野でイスラエルの民を養い続けてくださいました。


つまり、これらは、自分の努力とか、正しさとか、頑張りとか、そのような自分の力で救われたのではなく、「神様が愛して赦して救ってくださった」ことを思い出させます。それゆえに感謝と喜びが生まれます。この国を挙げての大きな喜びは、約250年ぶり、ソロモン王以来だった、と書かれています。



"こうして、ユダの全会衆、祭司とレビ人、イスラエルから来た全会衆、イスラエルの地から来た寄留者でユダに在住している者たちは、みな喜んだ。

エルサレムには大きな喜びがあった。イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの時代以来、エルサレムでこのようなことはなかったからである。

レビ人の祭司たちが立ち上がって民を祝福した。彼らの声は聞き届けられ、彼らの祈りは、主の聖なる御住まいである天に届いた。"

歴代誌 第二 30章25~27節



この世にはない「神様から来る喜びと祝福」を体験した人は、もう人間が作り上げた満足とか、偶像とかが必要なくなります。むしろ、それを嫌い、捨てたいと思うようになります。喜びに溢れた人たちはリアルに国にあった偶像を壊し、捨てていきました。



"これらすべてのことが終わると、そこにいた全イスラエルはユダの町々に出て行き、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒し、ユダ全土とベニヤミン、またエフライムとマナセの中にある高き所と祭壇を徹底的に壊した。そして、すべてのイスラエルの子らは、それぞれ自分の町、自分の所有地へ帰って行った。"

歴代誌 第二 31章1節



この喜びは、年に1度の打ち上げ花火ではありません。「ずっと毎日、神様を礼拝していきたい。ずっと神様を愛していきたい」と思うようになります。

そこでヒゼキヤ王は、もう一度ダビデをお手本にして神様への礼拝が毎日、組織的に行われるように秩序を整えました。



"ヒゼキヤは祭司とレビ人の組を定め、祭司とレビ人それぞれの組ごとに、その奉仕にしたがって全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げさせ、さらに、主の宿営の門で仕え、告白し、賛美させた。

また王は、全焼のささげ物のために、自分の財産から自分の分を出した。すなわち、主の律法に記されているとおりに、朝夕の全焼のささげ物、また安息日、新月の祭り、例祭ごとに献げる全焼のささげ物をした。"

歴代誌 第二 31章2~3節



さらに、礼拝のために専門に働く人々の生活が支えられるように収穫や収入の1/10を持ってくる仕組みも作りました。すべてのことは「義務だから」とか「ルールだから」ではなく「神様に感謝したいから、ささげたいから」です。人々は喜んで、たくさん持ってきたことが分かります。



"さらに彼は、エルサレムに住む民に対して、祭司とレビ人の受ける分を与えるように命じた。祭司とレビ人が主の律法に専念するためであった。

この命令が広まるとともに、イスラエルの子らは、穀物、新しいぶどう酒、油、蜜など、畑のすべての収穫の初物をたくさん持って来た。彼らはすべての物の十分の一を豊富に携えて来た。

ユダの町々に住むイスラエルとユダの人々も、牛や羊の十分の一と、彼らの神、主に聖別した聖なるささげ物の十分の一を携えて来て、いくつもの山に積み上げた。

第三の月に彼らは積み始め、第七の月に終えた。

ヒゼキヤと高官たちは、やって来て積まれた山を見ると、主とその民イスラエルをほめたたえた。"

歴代誌 第二 31章4~8節



これらのささげ物は十分すぎました。有り余るほどでした。

それは、神様がこの国をますます祝福し、豊かにしてくださったからです。



"ヒゼキヤが、その積まれた山について祭司とレビ人に説明を求めると、

ツァドク家の祭司の長アザルヤが、彼に答えて言った。「人々が奉納物を主の宮に携えて来ることを始めてから、食べて満ち足り、たくさん残るようになりました。主が御民を祝福されたので、その残りがこんなにたくさんあるのです。」"

歴代誌 第二 31章9~10節



偶像を捨てることも、礼拝することも、賛美することも、10分の1をささげることも、組織を作ることも、すべては神様の恵みから流れてきます。

主がよくしてくださったことを思い出すほどに、その喜びは僕らを新しく作り変えていきます。

「組織を作ったからうまくいく」のではありません。

「献金したから豊かになる」のでもありません。

「神様が祝福してくださったから」「神様が愛してくださったから」です。

今日も、自分で作り上げる日ではなく、神様がよくしてくださったことを思い出し、感謝する日でありますように。「何を頑張るか」ではなく「何を感謝するか」の日でありますように。喜びと感謝から始まって礼拝したくなり、仕えたくなり、ささげたくなる日でありますように。ハレルヤ!