2026年7月13日月曜日

使徒13.16-39

 使徒13.16-39


「人類の歴史」とは、神様から離れてワガママになってしまった人類を神様が見放さず、救い出してくださる歴史です。「History」は「His Story」=「神様の物語」とも言われます。聖書は見捨てない神様の愛と憐れみの歴史を僕らに教えてくれています。


神様から離れた人間は不自由になり苦しんでいます。互いに傷つけ合い、愛は冷え、自然界ともうまくいかなくなっています。どんなに健康で強い人でも行き先は墓場です。


神様はそんな人間を諦めていません。人類を滅亡させることもできますが、切り捨てることはせずに、救いの道を知らせ、全ての人がもう一度神様と一緒に生きる自由と喜びと平安に迎え入れようとしておられます。


パウロは、どこの町に行ってもこのストーリーを伝えます。

特に旧約聖書をよく知っているイスラエル人のためには、この救済計画を聖書に沿って話します。


神様は罪と滅びに向かっていく人類を救うために、まずアブラハムとその子孫であるイスラエル人たちを選び、「子孫を増やす。祝福する。祝福の土地を与える。」と約束されました。

その約束の通り、子孫たちは増え広がります。


それでも世界は罪と闇の影響の中で苦しみ続けました。イスラエル人たちはエジプトで400年間苦しめられ奴隷にされていました。その間に人口は増えていきます。



"そこでパウロが立ち上がり、手振りで静かにさせてから言った。「イスラエル人の皆さん、ならびに神を恐れる方々、聞いてください。

この民イスラエルの神は、私たちの父祖たちを選び、民がエジプトの地に滞在していた間にこれを強大にし、御腕を高く上げて、彼らをその地から導き出してくださいました。"

使徒の働き 13章16~17節



奴隷として縛られていたエジプトから神様が脱出させてくださったことは、将来、全人類が罪と闇から救出されることを先取りして見せてくださった見本のようです。


だのに、エジプトから救われてもなお、人間は自分勝手なままです。彼らは文句を言います。「エジプトに戻りたい。」「あっちの方が良かった。」「食べ物がない。」「水がない。」

不平不満ばかりのイスラエルを神様は愛し、忍耐し、導き続けてくださいました。



"そして約四十年の間、荒野で彼らを耐え忍ばれ、

カナンの地で七つの異邦の民を滅ぼした後、その地を彼らに相続財産として与えられました。"

使徒の働き 13章18~19節



神様はまるで、駄々をこねる小さい子どもを愛し続け、教え続ける忍耐深い親のようです。神様は約束通りに祝福の土地を与え、さらに彼らを導くリーダーを与え続けてくださいます。



"約四百五十年の間のことでした。その後、預言者サムエルの時まで、神はさばきつかさたちを与えられました。"

使徒の働き 13章20節



それでも彼らは勝手なことを言います。

「周りの国みたいになりたい。」「自分たちにも王様が欲しい。」とです。

それでも神様は愛することをやめません。彼らの願いの通りに王様を与えてくれました。



"それから彼らが王を求めたので、神は彼らにベニヤミン族の人、キシュの子サウルを四十年間与えられました。

そしてサウルを退けた後、神は彼らのために王としてダビデを立て、彼について証しして言われました。『わたしは、エッサイの子ダビデを見出した。彼はわたしの心にかなった者で、わたしが望むことをすべて成し遂げる。』"

使徒の働き 13章21~22節



神様の救いの約束は、どんなに人間が自分勝手でも取り消されることがありません。神様は「ダビデの子孫から永遠の王であり救い主であるキリストが生まれる」と預言され、その通りにイエス・キリストが来られました。



"神は約束にしたがって、このダビデの子孫から、イスラエルに救い主イエスを送ってくださいました。"

使徒の働き 13章23節



それでも人間は何も理解せずに勝手な判断をします。神様が送ってくださった救い主イエス・キリストを認めず、十字架にかけて殺します。



"エルサレムに住む人々とその指導者たちは、このイエスを認めず、また安息日ごとに読まれる預言者たちのことばを理解せず、イエスを罪に定めて、預言を成就させました。

そして、死に値する罪が何も見出せなかったのに、イエスを殺すことをピラトに求めたのです。

こうして、彼らはイエスについて書かれていることをすべて成し終えた後、イエスを木から降ろして、墓に納めました。"

使徒の働き 13章26~29節



聖書の歴史は人類の罪深さと、それでもあきらめない神様の歴史です。


今日も神様は僕らのこと諦めていません。

相変わらず自分勝手なことを続け、その結果、自分の首を絞めて苦しんでいます。

それでも神様は見捨てることがありません。


イエス様は来られました。殺されましたが復活し、今も生きておられる救い主です。

このイエス様を信じる人は新しくされます。罪に定められることがなく、解放され、神様と一緒に生きる自由と喜びと平安のいのちを得ます。それは永遠になくならない命です。



"ですから、兄弟たち、あなたがたに知っていただきたい。このイエスを通して罪の赦しが宣べ伝えられているのです。また、モーセの律法を通しては義と認められることができなかったすべてのことについて、

この方によって、信じる者はみな義と認められるのです。"

使徒の働き 13章38~39節



神様は僕らを義と認めてくださいます。それは、もう一度神様の子どもとして、神様の近くで自由と喜びの中を歩む新しい歩みです。

何百年も背き続ける人間を神様は見捨てることがありませんでした。神様の救いの約束は人間の罪深さによって取り消されることはありませんでした。


神様は滅びではなく、救いに招いてくださっています。聖書は僕らをあきらめていない神様のストーリーです。今日もこのストーリーは終わっていません。愛され、赦され、忍耐されています!




使徒13.1-5

 使徒13.1-5


「誰を宣教師として遣わそうか」とか「これからの教会をどのように成長させようか」とか「誰を牧師にしようか」とか僕らは話し合います。…ですが、聖書に書かれている教会は人の考えとか会議で決めてないことがわかります。


彼らがやってた事はシンプルで、神様を礼拝し、祈ることです。ひたすら神様に心を向ける中で聖霊の声を聞き、聖霊が人を選び、任命されます。教会はその声を聞き、みんなで確認して送り出します。



"彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が「さあ、わたしのためにバルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」と言われた。

そこで彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いてから送り出した。"

使徒の働き 13章2~3節



この働きは「神様のため」です。「人のため」とか「教会のため」でも「自分のため」でももありません。聖霊は「さあ、わたしのために」とおっしゃいました。僕らはすぐに「自分はどっちが都合がいいかな。」などと考えてしまいます。

誰が選ばれるか、どのような働きに召され送り出されるか、それは人が決めるのでなく、神様の選びと任命です。


「バルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」と言われた教会は、もう一度断食して祈って神様に求めます。祈りの中で教会のみんなの確信となり、教会全体が彼らに手を置いて送り出します。

「手を置くこと」は一体性を表します。「この働きは私たちキリストの体の働きと一つです。」という表明です。

バルナバとサウロは勝手に宣教師になったわけではありません。聖霊が彼らを選び、そして教会はそれを承認して送り出しました。



"二人は聖霊によって送り出され、セレウキアに下り、そこからキプロスに向けて船出し、"

使徒の働き 13章4節



3節では教会が送り出しています。でも、4節では聖霊が送り出しています。これは矛盾ではなくて、聖霊がなさることと教会がすることが一体化している様子です。


アンティオキア教会が「送り出す教会」として用いられたのは、人数が多かったからでも、お金があったからでもなく、ひたすら礼拝し、祈り、みことばを求め、聖霊に従う教会だったからです。


「礼拝」とは賛美したり聖書の話を聞く「あの日曜の午前中の集会」ではありません。「礼拝」は自分を生きたささげものとして、神様に明け渡すことです。(ローマ12.1)「主よ、私はあなたのものです。あなたの思い通りにしてください」そう言って所有権を手放し、100パーセント神様のものにしてもらうことです。


「祈り」も同じです。イエス様が教えてくださった祈りは「御名が聖なるものとされますように」です。つまり、「神様が全てになりますように。人間的な汚れたものが少しも入りませんように」という祈りです。


イエス様が十字架でいのちを捨ててくださったように、いのちを捨てて僕らを愛してくださったように、そのように僕らも自分の全てを神様にささげることが礼拝です。

その時に、神様は「神様の働き」をさせてくださいます。

聖霊に満たされ、聖霊に導かれるためには、「自分を聖霊に完全に明け渡す」のが大切です。神様に満たされるためには、まず自分を空き家にすることです。


アパートから退去する時にカーペットもカーテンも残さないのと同じです。新しい所有者が気に入ったカーペットやカーテンに取り替えます。そのように、僕らの所有者は神様です。神様の思い通りのレイアウト、デザインがいいに決まっています。


もしも僕らが何かを始めようとしているなら、

「本当にこれは聖霊の働きですか?」と神様に聞いてみるのをお勧めします。

自分の力とかやる気とか夢だと長くは続きません。


アンティオキア教会は神様を礼拝し、祈る教会でした。自分たちの意見とか願いとか意見調整ではなくて、全てを明け渡す祈りの中で、神様は人を召し出し、用いてくださいます。人の思いもよらない新しいことをさせてくださいます。僕らがすべきは今日も神様に心を向け続けることです。神様、どうぞ僕らの心をいつもあなたに向けさせてください。今日も完全に明け渡すものとしてください。

2026年7月9日木曜日

使徒11.19-26

 使徒11.19-26


「問題を歓迎する」とか「迫害を歓迎する」というのは言い過ぎかもしれないけど、それでも神様は迫害や問題を用いて僕らを次のステップに導いてくださることがよくあります。


使徒の働きによると、

福音を伝える→迫害される→次の町に散らされる→そこで福音が広がる

というパターンが何度も書かれています。



"さて、ステパノのことから起こった迫害により散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで進んで行ったが、ユダヤ人以外の人には、だれにもみことばを語らなかった。

ところが、彼らの中にキプロス人とクレネ人が何人かいて、アンティオキアに来ると、ギリシア語を話す人たちにも語りかけ、主イエスの福音を宣べ伝えた。

そして、主の御手が彼らとともにあったので、大勢の人が信じて主に立ち返った。"

使徒の働き 11章19~21節



迫害によって散らされて、そこで出会った人たちに福音を伝えることを「主の御手が彼らとともにあった」(21)といいます。人の悪による迫害さえも用いられて、大勢の人が信じて主に立ち返りました。

今も、イエス様の働きをすると問題に直面することがあります。迫害かもしれないし、内側の問題かもしれません。でも、それでもそこに「主の御手」があって、神様はそれを使って次のステップへ導き成長させてくださいます。



"神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。"

ローマ人への手紙 8章28節



「すべてのこと」には人からはマイナスに見えることも含まれます。神様はそれさえ良いことのために用いられます。


ヨセフは兄たちから嫌われ、奴隷にされ、言葉の通じない外国に売られてしまいました。人身売買は悲惨な経験です。ところが、それさえも神様は用いられました。ヨセフは後で自分を売った兄たちに言います。「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。」(創世記50章20節)


パウロも何度も迫害に遭っています。あるときは逮捕されて監禁されました。普通なら「終わった…」と思う場面ですが、パウロは言います。「兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったことを知ってほしいのです。」(ピリピ人1章12節)


神様は僕らの思いを超えています。

トラブルを通して神様のご計画は進み、僕らも成長させられます。

イエス様が願っているのは新しいクリスチャンを生み出して一丁あがり、ではありません。イエス様を信じた人があらゆることを通して成長し、弟子となり、次の人のために用いられていくことです。(マタイ28.18-19)


迫害によってエルサレムを追い出された人たちはアンティオキアまで行き、福音を語り、そこで大勢の人が信じて主に立ち返りました。(21)

しかも信じて終わりではなく、彼らは成長し、キリストのことばかり考え、キリストのことを賛美し、キリストのためにばかり活動する人たちになりました。彼らは「キリスト者」と呼ばれるようになります。



(26)

弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。



「キリスト者」とは、「キリストに夢中な人たち」今風に言うなら「キリスト推し」「キリストガチ勢」のような感じです。周りの人から見てそんな感じに見えたようです。彼らは本気でキリストを愛し世界に宣教師を派遣する中心的な教会になっていきます。

この彼らの成長の背景には励ましと教えがありました。新しい信者のためにエルサレムの教会は最初はバルナバを派遣し、彼らを励まし続けます。



"この知らせがエルサレムにある教会の耳に入ったので、彼らはバルナバをアンティオキアに遣わした。

バルナバはそこに到着し、神の恵みを見て喜んだ。そして、心を堅く保っていつも主にとどまっているようにと、皆を励ました。

彼は立派な人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大勢の人たちが主に導かれた。"

使徒の働き 11章22~24節



次にバルナバはサウロを連れてきて、新しいクリスチャンたちを1年間教え続けます。彼らはしっかりと成長し「キリスト者」と呼ばれるまでになっていきます。



"それから、バルナバはサウロを捜しにタルソに行き、

彼を見つけて、アンティオキアに連れて来た。彼らは、まる一年の間教会に集い、大勢の人たちを教えた。弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。"

使徒の働き 11章25~26節



今日も僕らの周りには問題があり、迫害があるけど、その先には成長があり、さらに僕らがキリストに夢中にさせられ、用いられていく将来があります。迫害の最中にも「主の御手が彼らとともにあった」(21)と同じく、今日もゴタゴタする僕らの上に「主の御手」があります。マイナスに見えることも全部用いられて主のご計画は進みます。今日も祝福への通過点です。神様に委ねつつ、祈りつつ、神様と一緒に通るべきところを通っていきましょう。大丈夫です。ハレルヤ!


2026年7月8日水曜日

使徒11.1-18

 使徒11.1-18