2026年7月24日金曜日

使徒16.19-34

 使徒16.19-34


想像してみてください。

知らない外国に行ってみたら、いきなり逮捕され、無理やり服を脱がされ、拷問を受け、殺されそうになります。血だらけのまま不衛生な牢屋に監禁され、手錠と足枷で拘束されます。普通は気がおかしくなります。


まさに、パウロとシラスはその状況でした。

普通はパニックになります。もし祈れたとしても「神様、どうしてですか…」「助けて…」がやっとだと思います。

ところが、パウロとシラスには賛美の歌が与えられました。



"真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。"

使徒の働き 16章25節



他の囚人たちはこんな状況の中で賛美する人たちを見たことがありません。「なんでこの人たちこんな状況で賛美するんだ?」と驚きつつ彼らの祈りと歌に聞き入っていました。

神様はこの最悪の苦しみを用いてご計画を進められました。



"すると突然、大きな地震が起こり、牢獄の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開いて、すべての囚人の鎖が外れてしまった。

目を覚ました看守は、牢の扉が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。

パウロは大声で「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫んだ。"

使徒の働き 16章26~28節



牢獄の扉が開き、鎖が外れると普通なら「やった!逃げられる!」と思います。ところがパウロとシラスは鎖が外れても、牢屋の扉が開いても逃げませんでした。囚人を逃すと看守は処刑されることを知っていたかもしれません。この看守を救うために、彼らは牢屋にとどまります。

看守は囚人たちが逃げたと思い、自分も処刑されると思い込んで自殺しようとします。

パウロはそんな看守を愛し救うことことを選び「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫びました。

これが神様のご計画でした。

看守はその愛に触れて驚き、恐れ、神様を求めます。


苦しみから逃がれることだけが神様の導きとは限りません。

最悪の状況の中で賛美し祈ることが、そして自分を殺そうとする敵に愛を示すことが神様のご計画であることがあります。二人には人からは出ない御霊による賛美と祈りが与えられました。彼らは自分を苦しめた看守を救うことを選ぶことができました。



"看守は明かりを求めてから、牢の中に駆け込み、震えながらパウロとシラスの前にひれ伏した。

そして二人を外に連れ出して、「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。

二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」

そして、彼と彼の家にいる者全員に、主のことばを語った。

看守はその夜、時を移さず二人を引き取り、打ち傷を洗った。そして、彼とその家の者全員が、すぐにバプテスマを受けた。"

使徒の働き 16章29~33節



最悪の苦しみを通して看守の家族全員がイエス様を信じ、夜のうちにバプテスマを受け、一緒に食事をして喜び合います。さっきまで敵だった相手が愛する兄弟姉妹に変えられています。



"それから二人を家に案内して、食事のもてなしをし、神を信じたことを全家族とともに心から喜んだ。"

使徒の働き 16章34節



夜が明けてきました。囚人がいなくなっていたら看守は責任を問われます。想像ですが、たぶん、監守を守るためにパウロとシラスは牢獄に戻り、もう一度手錠と足枷をつけてもらったと思います。その光景は感動的です。


神様のなさることは、苦しみから逃れることだけではありません。むしろ苦しみの中に神様の大きなご計画がある場合があります。彼らは逃げられるチャンスが来ても看守を見捨てず愛することを選びました。


僕らはラクしたいし、逃げたいです。嫌なことがあると文句ばかり、不安ばかりになりがちです。だけど、苦しみを通して神様のご計画が進むことがあります。

どんな状況の中でも神様を信頼して感謝し、賛美し、祈る人になるように求めましょう。僕らにはできません。だからこそ求めましょう。御霊はそのように変えてくださいます。

苦しみの中で、目の前にいる人を愛するイエス様の愛が与えられますように。賛美と祈りを与えてくださる御霊に満たされますように。


2026年7月23日木曜日

使徒16.16-24

 使徒16.16-24


「ことなかれ」がラクです。誰かが嫌な気持ちになったりモメたりしないように、罪については触れず、悔い改めは求めず、悪いビジネスだとわかってもそっとしておく…その方が多分ラクです。

でも、これはイエス様の願いではありません。イエス様はおっしゃいました。



"あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思っていますか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ分裂です。

今から後、一つの家の中で五人が二つに分かれ、三人が二人に、二人が三人に対立するようになります。"

ルカの福音書 12章51~52節



イエス様の福音は人を変えます。その生活も変えられます。その結果、今まで仲良くやってきた人たちからは反発されたり迫害されることもあります。


使徒の働き16章にその実例があります。

ピリピの町には占いビジネスがありました。その背後には悪霊の働きがありましたが、多くの人たちはまず占い師に相談するのが一般的だったようです。占いの霊に取り付かれた女奴隷は利用され、搾取されていました。この町ではそのような仕組みが出来上がっていました。

その町でパウロとシラスはイエス様の救いを伝え始めます。すると、ある若い女奴隷が悪霊に取り付かれた状態で毎日パウロたちにつきまとって叫びます。



"さて、祈り場に行く途中のことであった。私たちは占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させていた。

彼女はパウロや私たちの後について来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えています」と叫び続けた。"

使徒の働き 16章16~17節



毎日しつこくパウロやシラスにつきまとい、彼らをほめ、持ち上げ、大声で宣伝しまくります。パウロは最初は忍耐していたようですが、ついに困り果て、イエス様の権威によって、その女から悪霊を追い出します。



"何日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り向いてその霊に、「イエス・キリストの名によっておまえに命じる。この女から出て行け」と言った。すると、ただちに霊は出て行った。"

使徒の働き 16章18節



今まで縛られていた女奴隷は占いの霊から解放されました。「よかったね!」「もう自由だね!」となるはずですが、そうはなりません。彼女を使って儲けていた経営者たちにとっては許せない行為だからです。



"この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させていた。"

使徒の働き 16章16節



"彼女の主人たちは、金儲けする望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕らえ、広場の役人たちのところに引き立てて行った。

そして、二人を長官たちの前に引き出して言った。「この者たちはユダヤ人で、私たちの町をかき乱し、

ローマ人である私たちが、受け入れることも行うことも許されていない風習を宣伝しております。」

群衆も二人に反対して立ったので、長官たちは、彼らの衣をはぎ取ってむちで打つように命じた。

そして何度もむちで打たせてから二人を牢に入れ、看守に厳重に見張るように命じた。

この命令を受けた看守は、二人を奥の牢に入れ、足には木の足かせをはめた。"

使徒の働き 16章19~24節



パウロとシラスは占いの経営者たちの怒りを買い、まるで「町をかき乱すもの」として行政の長官たちからも嫌われ、ついには、群衆たちも2人に反対します。その場で逮捕され、服を脱がされ、何度も鞭で打たれ、血だらけのまま監禁されます。


イエス様の福音は人を自由にし解放します。しかし、この世はそれを嫌い、反発し、迫害します。それでもパウロたちには不思議な喜びがあったようです。拷問も監禁も苦しいし痛いしイヤに決まってます。だのに、牢獄の中でも彼らは「神を賛美する歌を歌っていた」とあります。(25)

彼らの内側に住んでおられる御霊は彼らを助け、喜びを与え、祈りを与え、賛美を与えてくださいました。使徒たちはキリストの名のために辱めを受けたことを「喜び」としたと書かれています(5:41)。


イエス様も、迫害される時には天からの大きな喜びと栄光がある、とはっきりおっしゃいます。「キリストの名のためにののしられるなら、あなたがたは幸いです。」とさえおっしゃいます。その時には御霊が特別にとどまってくださるからです。(1ペテロ4.14)



"喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。"

マタイの福音書 5章12節



"むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。

もしキリストの名のためにののしられるなら、あなたがたは幸いです。栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。"

ペテロの手紙 第一 4章13~14節



「荒波たてたくない」「モメごとは勘弁してほしい」と思います。パウロでさえ、最初からいきなり悪霊追放をしたのではありません。何日も忍耐しました。それでもイエス様は人々を悪霊から解放し自由にしたいと願っておられます。わざわざ争いを起こすためではないけど、結果として迫害されたり反対を受けたりすることはあります。


イエス様をこの世は嫌います。でもイエス様の王国はすでに始まっています。

僕らが今日もイエス様に誠実でありますように。

御国が来ますように。

御心が天で行われるように地でも行われますように。

使徒16.6-10

 使徒16.6-10

2026年7月21日火曜日

使徒15.36-41

 使徒15.36-41


教会には変えてはいけない中心的なことと、幅のあることの2つがあります。

例えば、イエス様による福音の内容は絶対に変えられないし譲れない部分です。


一方で、礼拝のスタイル、服装、音楽、教会組織や運営、伝道方法、人事の考えなどにはだいぶ幅があります。ですが、幅のあることで僕らは揉めがちです。

教会の人事で

「一度辞めた人はもう一度スタッフに戻していいのか?」

「過去に問題起こした人を復帰させても大丈夫か?」

「次の牧師候補を誰にするか」

「重要な奉仕をこの人に任せて大丈夫か?」

などなど、意見が分かれるところです。

パウロとバルナバは、まさに次の宣教旅行チームメンバーを誰にするかで意見が対立しました。



"それから数日後、パウロはバルナバに言った。「さあ、先に主のことばを宣べ伝えたすべての町で、兄弟たちがどうしているか、また行って見て来ようではありませんか。」

バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネを一緒に連れて行くつもりであった。

しかしパウロは、パンフィリアで一行から離れて働きに同行しなかった者は、連れて行かないほうがよいと考えた。"

使徒の働き 15章36~38節



意見が分かれたのは、前回の宣教旅行で途中離脱してしまったマルコと呼ばれるヨハネをメンバーに入れるかどうか、です。バルナバは「連れて行く」と考え、パウロは「メンバーから外す」と考えました。

どちらが正しいとは聖書は言ってません。


バルナバとパウロは与えられている賜物が違うようです。

バルナバは特に弱い人への励ましの賜物が与えられていて、そしてパウロには迫害への覚悟、キリストのための苦しみと死への覚悟が与えられていて、その強調点の違いが対立を生んだようです。


バルナバは弱い人を大切にする賜物が与えられています。前回、マルコは何かの理由で途中で帰ってしまいました。それでもバルナバは「前回は大変だったけど、今回もう一回やってみよう。私も一緒に行くから大丈夫。」という感じで励ましそうな人です。

パウロもこのバルナバの優しさに励まされた一人です。元々迫害者だったパウロが救われたばかりの頃、みんなはパウロを恐れて距離を置いていました。そんな時にパウロを理解し、引き受け、兄弟姉妹が受け入れてくれるようにとりなし、説明してくれたのもバルナバでした。

このようにバルナバは欠点のある人を励まし育てようとする賜物があります。今はダメでも可能性があると信じて一緒に歩んでくれそうな人です。


一方、パウロは投獄されたり殺されたりする覚悟がありました。

マルコのような人はまだ今の段階では十分に成熟しておらず、連れて行けないと考えました。

バルナバは人を育て励ますことを中心に考え、パウロは現段階での試練に耐えられる人物として適切かを考えました。2人に与えられている神様からの賜物も視点も違います。それで彼らは激しく対立することになります。



"こうして激しい議論になり、その結果、互いに別行動をとることになった。バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行き、

パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。"

使徒の働き 15章39~40節



彼らは激しく衝突しました。他の翻訳も「激しい反目」とか「対立」と訳しています。

結果的にチームは2つに分かれて出発し、それぞれの宣教旅行が神様に用いられます。結果はよかったようです。


パウロはマルコを連れて行かなかったけども、彼を切り捨てたわけではありません。

今回は連れて行かない=この人はもうダメ、ではありません。

マルコはバルナバとともに行動し、成長しました。そしてパウロは後に彼のこと評価し、再び宣教チームに招いて「マルコを伴って、一緒に来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。」と言っています。(2テモテ4.11)


僕らも、教会の人事的なことで悩みます。

まだ未熟な人であっても受け入れ、励まし、忍耐して時間をかけて一緒に働くのか、それとも、まだ未熟な人に重要なことを任せるには早すぎるのか、と。

どちらが正解かわかりません。


むしろ僕らが注目すべきは、意見が対立したときに自分の心の内側が正しいかどうかです。


自分の正当性を支持してくれるイエスマンを求め、自分の側に立ってくれる人を集めて相手をさばこうとしているのか、それとも意見の違う相手を尊敬し、愛し、裁かず大切にしようと思っているのか、です。


激しい議論の中には、頑固さや高ぶりが、怒りや憎しみが混じりがちです。もしそれが放置されるなら勝手に大きくなり暴走してしまいます。

意見が分かれる時、まず神様に調べてもらうべきは、自分の心に神様が嫌う罪が芽生えていないかです。人事の結論よりも自分の心はどうなのか、です。



"神よ私を探り私の心を知ってください。私を調べ私の思い煩いを知ってください。

私のうちに傷のついた道があるかないかを見て私をとこしえの道に導いてください。"

詩篇 139篇23~24節



"何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。

曲がったことを言う口をあなたから取り除き、ゆがんだことを言う唇をあなたから遠ざけよ。"

箴言 4章23~24節



教会には幅のあることがたくさんあります。意見の違いがたくさんあります。問題はそこに混じった罪を放置するのか、それとも自分の罪を認め、悔い改めて高ぶりをやめ、相手を尊敬し、愛する選択をするかどうかです。大事なのは結論より心です。福音は一つ、真理は一つです。でも、賜物もやり方も多様です。違う意見の仲間を愛することができますように。今日も主のきよい心が与えられますように。