2026年3月13日金曜日

ローマ1.8-13

 ローマ1.8-13


営業をやってる友人が言っていました。「特に用事がなくても営業先を訪問して会うだけでだいぶ影響しますよ。」「電話やメールもいいけど、やっぱり会うのは強いです。」


ある学者が人がコミュニケーションで使ってるものを調べたところ、

言葉(話の内容)…7%、

声(話し方やトーン)…38%、

見た目(表情や態度や雰囲気)…55%

だったそうです。


パウロは福音の「情報を送りたい」のではなくて「会って、霊的なものを分けたい」と言います。



(9-10)

私が御子の福音を伝えつつ心から仕えている神が証ししてくださることですが、私は絶えずあなたがたのことを思い、

祈るときにはいつも、神のみこころによって、今度こそついに道が開かれ、何とかしてあなたがたのところに行けるようにと願っています。



神様の方法はいつも対面です。パウロはローマの教会の皆さんのことを心にかけて毎日祈っていたし、手紙も書いているけど、やっぱり「何とかしてあなたがたのところに行けるように」です。(10)

聖書は「あなたがたにはたくさん書くべきことがありますが、紙と墨ではしたくありません。私たちの喜びが満ちあふれるために、あなたがたのところに行って、直接話したいと思います。」(2ヨハネ1章12節)とも言っています。直接会うことは神様からの賜物を共有する方法です。



(11-12)

私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強くしたいからです。

というより、あなたがたの間にあって、あなたがたと私の互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。



神様は天から言葉を与えるだけで何でもできます。でも、イエス様の方法は「対面」です。神の御子として、天の王座に座っているだけでも何でもできるのに、地上に降りてきてくださり、人と関わり、弟子たちと一緒に過ごして、福音を委ねてくださいました。直接触れて病人を癒し(マタイ9.25、9.29)息を吹きかけて聖霊の賜物を与える神様です。(ヨハネ20.22)


今も僕らに「対面」をすすめる神様です。パンを裂いて一つのパンを一緒に食べるように(1コリント10.17)、手を置いて祈るように(ヤコブ5.14)、一緒に心と声を合わせて神様を賛美するように(ヘブル13.15)おっしゃいます。

パウロは直接会うことで「御霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強くしたい」と願っています。愛する方法は会って与えることです。また、自分も「励ましを受けたい」と言っています。人は交わる相手の影響を必ず受けます。祈ってくれる人、愛してくれる人、与えたいと願ってくれる人と会うと単なる情報のやり取りにはできない、霊的な良い影響を受けます。これは逆もあり得ます。「友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。」(1コリント15.33)


パウロは聖霊に満たされて祈る人でした。まだ会ったことのないローマの教会のメンバーのことを心にかけては祈り、感謝していました。そして、会って交わることを願い続けてくれました。御霊によって祈り、感謝し、愛することは相手に霊的な影響を強く与えます。パウロがそう願のは「あなたがたを強くしたいからです。」(11)


教会がやっぱり対面なのは、霊的に互いに励まし合い、与え合うためです。クリスチャンは全員、神様からの御霊の愛が注がれています。それを分け合う仲間が与えられています。共有しましょう。与え合いましょう。同じ空気を吸い、同じ心、同じ御霊で一緒に祈り、賛美し、愛し合いましょう。ハレルヤ!

2026年3月12日木曜日

ローマ1.1-7

 ローマ1.1-7


やっぱり聖書は「福音=嬉しい知らせ」です。使徒パウロが神様に選ばれて用いられているのは「嬉しい知らせのため」です。



"キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選び出され、使徒として召されたパウロから。"

ローマ人への手紙 1章1節



しかも、パウロが福音のために使徒にされたのは、すべての人に「信仰の従順」をもたらすためです。



"この方によって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。御名のために、すべての異邦人の中に信仰の従順をもたらすためです。"

ローマ人への手紙 1章5節



「従順」と聞くと、なんとなく「従わなきゃ…」「…せねば」「…すベき」となんとなく固くて暗い雰囲気が漂います。例えば「制限速度」は「捕まりたくないし」「罰金払うの嫌だし」みたいに、しぶしぶな感じがします。ルールによる従順は「仕方ないから守る」というものです。


でも、神様への従順は「信仰による従順」です。コワいから従うのでも、ルールだから従うのでも、罰があるから従うのでもありません。福音を信じるゆえに喜んで従います。「福音」とは以下のことです。


イエス様が私を愛し、私のために十字架で死んでくださったこと

復活して今も生きておられること。

私はイエス様と一緒に死んで、すでに無罪とみなされたこと。

二度と罪を思い出さないと言ってくださってること。

私はイエス様と一緒に復活して新しくなったこと。

イエス様と同じいのちと心を聖霊によって与えられていること。

これからもイエス様が永遠に一緒にいて愛してくださること。

将来は一緒に栄光が与えられる約束があること。


信じることが信仰です。それは喜びと感謝ゆえに「もっと従いたい」と思わせてくれます。「させられている」とか「しゃあなし」はそこにはありません。

パウロはこの「信仰の従順」を全ての人に与えるために使徒にされました。


そもそも、パウロは、自分のことを「キリストイエスのしもべ(奴隷)」と言っています。(1節)

「しもべ(奴隷)」と聞くと恐怖に怯え、威圧されながらコキ使われている「かわいそうな人」のイメージですが、キリストのしもべは全然違います。怖いから従うのでなく、嬉しいから従うのです。


イエス様が私たちのことを愛し、私たちを無罪にしてくださいました。そればかりでなく、これからも良いものを与え続け、愛し続け、将来はイエス様と同じ栄光を与えてくださいます。

だから僕らは喜んで従います。これが「信仰の従順」です。

パウロは、この感謝に満ちた従順を世界中の異邦人に与えるために役目が与えられました。



"この方によって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。御名のために、すべての異邦人の中に信仰の従順をもたらすためです。"

ローマ人への手紙 1章5節



神様を愛することは神様に従うことです。しかもその命令は重荷にはなりません。むしろ喜びです。

 


"神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。"

ヨハネの手紙 第一 5章3節



イエス様を信じた時は喜んで感謝します。ところが、クリスチャン生活が長くなると、自分の努力で成長しようとしたり、ルールで自分も周りも縛ろうとしたりして、昔のクセに戻ろうとすることがあります。そしてルールを守れない自分にがっかりしたりします。


ところが、福音は全然違います。

僕らはイエス様を信じた時にイエス様と一緒に死にました。

今は復活したイエス様と一緒に生きています。そう信じなさい、認めなさい、と聖書は言います。



"同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。"

ローマ人への手紙 6章11節



これを信じる時に、僕らは従う人に変えられます。もはや自分が頑張っているのではないからです。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2.20)


人によっては「ねば、べき」が強調される教会で育ったかもしれません。

でも、神様への従順は単純にルールを守ることではありません。福音はイエス様が私を愛し、私のために命を捨てて、私は赦されたこと、解放されたたことです。もう罪の奴隷ではないし、神様は過去の罪や恥をいつまでもねちねち追求することはなく、「二度と思い出すことはしない」(ヘブル10.17)と言ってくださっています。この信仰は僕らを自由にし、感謝をもって従順にさせてくれます。


神様が願っているのは、教えによる縛りでも脅しによる従順でもありません。福音を信じることによる「信仰の従順」です。

僕らは赦されました、新しくされました。だから喜んで神様の心と1つになることができるし、それを願っています。これが「信仰の従順」です。もうそれが始まっています。ハレルヤ!



2026年3月11日水曜日

民数記36章

 民数記36章

2026年3月9日月曜日

民数記34.9-34

 民数記34.9-34


神様はやっぱり「きれい好き」です。神様が与えようとして土地の中に、汚い罪がないように、特に人を傷つけ人を殺すことは「土地を汚す」といいます。その土地は「わたしが…ただ中に宿るから」です。(34)



"あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地にとって、そこで流された血は、その血を流した者の血以外によって宥められることはない。

あなたがたは、自分たちの住む土地、わたし自身がそのただ中に宿る土地を汚してはならない。主であるわたしが、イスラエルの子らのただ中に宿るからである。」"

民数記 35章33~34節



殺人は個人の問題ではなくその土地全体を汚し、その人たち全体を汚す問題です。だから誰かを殺した人は殺さなければなりません。土地がきよめられるためには「その血を流した者の血」が必要です。



"土地にとって、そこで流された血は、その血を流した者の血以外によって宥められることはない。"

民数記 35章33節



人がいきなり殺人をすることはなくて、まず小さな「恨み」「憎しみ」「ねたみ」が芽生え、それを放置するうちに成長し「死ねばいい」「死んでくれ」「殺してやる」になり、それが行動に出ます。(ヤコブ1.13-14)

神様が見ているのは「心」です。

殺意をもって殺した人は必ず正しくさばかれ、殺され、その土地がきよく保たれるように、と教えます。



"もし鉄の器具で人を打って死なせたなら、その人は殺人者である。その殺人者は必ず殺されなければならない。

もし、人を殺せるほどの、手に持てる石で人を打って死なせたなら、その人は殺人者である。その殺人者は必ず殺されなければならない。

あるいは、人を殺せるほどの、片手に持てる木製の器具で人を打って死なせたなら、その人は殺人者である。その殺人者は必ず殺されなければならない。

血の復讐をする者は、自分でその殺人者を殺してもよい。彼に出くわしたときに、殺してもよい。

もし、人が憎しみをもって人を突き倒すか、あるいは悪意をもって人に物を投げつけて死なせたなら、

または、敵意をもって人を手で打って死なせたなら、その打った者は必ず殺されなければならない。その人は殺人者である。その血の復讐をする者がその殺人者に出くわしたときには、彼を殺してもよい。"

民数記 35章16~21節



問題は殺人が起きてからでではなく、すでに芽を出している心の中の小さな憎しみや怒りや敵意です。だから小さいうちに捨てなさい、と聖書はいいます。



"無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。"

エペソ人への手紙 4章31節



逆に、悪意がなく、憎しみもないのに、不慮の事故で誰かが死んでしまうこともあります。それは罪に問われず、その人は「逃れの町」で守られます。

神様は復讐や不要な仕返しから守られるように、「逃れの町」を作るように命令しました。悪意がなかった人、意図しない事故で人を殺してしまった人はそこに逃れることができて、過剰な復讐や相手側からの攻撃から守られます。



"このヨルダンの川向こうに三つの町を、カナンの地に三つの町を与えて、逃れの町としなければならない。

イスラエルの子ら、または彼らの間に在住している寄留者のために、これら六つの町は逃れの場所となる。すべて誤って人を打ち殺してしまった者が、そこに逃れるためである。"

民数記 35章14~15節


"もし敵意もなく突然人を突き倒し、あるいは悪意なしに何か物を投げつけ、

または、人を死なせるほどの石を、よく見ないで人の上に落としてしまい、それによってその人が死んだなら、しかもその人が自分の敵ではなく、害を加えようとしたわけではないなら、

会衆は、打ち殺した者と、血の復讐をする者との間を、これらの定めに基づいてさばかなければならない。

会衆は、その殺人者を血の復讐をする者の手から救い出し、彼を、逃げ込んだその逃れの町に帰してやらなければならない。彼は、聖なる油を注がれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければならない。"

民数記 35章22~25節



神様が見ておられるのは、結果ではなく動機です。人は結果を見ますが、神様は心を見ます。たとえ殺さなくても、心の中で密かに憎しみや殺意を育てたままにしているなら、すでに実行犯と同じです。

だから、イエス様は人を憎しみ怒ることも、逆に恨まれていることも、まだ相手に謝ってないことも、小さいうちにそれを告白し、きよめてもらうように教えます。



"昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。

ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、

ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。"

マタイの福音書 5章21~24節



どんな殺意も、憤りや憎しみも、イエス様に告白して手放すなら解放されます。本当です。ちゃんと口で告白して、神様に明け渡してそれをやめます、と祈ることです。どんな罪もイエス・キリストの十字架によってきよめられます。憎しみを放置するなら人殺しです。


"兄弟を憎む者はみな、人殺しです。あなたがたが知っているように、だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありません。

ヨハネの手紙 第一 3章15節



僕らの心が汚いままなら死刑と同罪です。そんな僕らの罪を、イエス様は引き受けてくださいました。僕らの中にある罪を引き受け、十字架で血を流してきよめてくださいました。赦しやきよめはイエス様の十字架の血によります。この方以外には、どんな方法も与えられていません。(使徒4.12)



"御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。

もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。"

ヨハネの手紙 第一 1章7~8節



神様はやっぱり「きれい好き」です。神様が与えようとして土地の中に、汚いものがように、今日も小さな罪を告白して捨てましょう。僕らの心も体も神様の住まいです。教会は神様の住まいです。個人の問題ではありません。それは全体を汚します。今日も告白し、赦されたことを信じ、きれいにしていただきましょう。相手を愛しましょう。ののしる人を祝福しましょう。


「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。」(エペソ4.32)ハレルヤ!