2026年10月6日火曜日

2歴代30章から31章10節

 2歴代30章から31章10節


「神様がしてくださったことを思い出す」→「感謝する」→「喜び楽しむ」→「もっと礼拝したくなる」→「献金と奉仕をもっとささげたくなる」→「さらに神様の祝福を知る」→「感謝する」…という素晴らしい礼拝の循環があります。


第二歴代誌30章は、ずっと行われていなかった「過越の祭り」「種なしパンの祭り」を再スタートしたことが書かれていますが、この2つはまさに「神様が救ってくださったことを思い出す」祭りです。どちらも神様が良くしてくださったことを思い出します。恵みを思い出すと感謝と喜びが生まれます。そこから礼拝が生まれ、賛美が生まれ、そして奉仕が生まれます。


ヒゼキヤ王が、これらの祭りを行わせたとき、国中に喜びが溢れました。あまりに嬉しいので、「あと7日間、祭りを延長しよう!」と思うほどでした。



"エルサレムにいたイスラエルの子らは、七日の間、大きな喜びをもって種なしパンの祭りを行った。レビ人と祭司たちは、毎日主に向かって力強い調べの楽器を奏でて、主をほめたたえた。

ヒゼキヤは、主への務めによく通じているすべてのレビ人に励ましのことばをかけた。彼らは、交わりのいけにえを献げ、父祖の神、主に告白をしつつ、七日間、祝いの食事にあずかった。

全会衆は、さらに七日間祭りを行うことを決め、喜びをもって七日間、祭りを行った。"

歴代誌 第二 30章21~23節



「過越の祭り」は、エジプトに神様の裁きがあったときに、イスラエル人たちだけは、身代わりに子羊を殺し、その血を玄関の門柱と鴨居に塗ることで、「裁きが過ぎ越されたこと」を思い出す祭りです。


「種なしパンの祭り」は、何も持たないで、奴隷だったエジプトを脱出したことを思い出す祭りです。パンを発酵させる時間もなく、最小限の持ち物だけで再出発しました。その後も40年間、荒野でイスラエルの民を養い続けてくださいました。


つまり、これらは、自分の努力とか、正しさとか、頑張りとか、そのような自分の力で救われたのではなく、「神様が愛して赦して救ってくださった」ことを思い出させます。それゆえに感謝と喜びが生まれます。この国を挙げての大きな喜びは、約250年ぶり、ソロモン王以来だった、と書かれています。



"こうして、ユダの全会衆、祭司とレビ人、イスラエルから来た全会衆、イスラエルの地から来た寄留者でユダに在住している者たちは、みな喜んだ。

エルサレムには大きな喜びがあった。イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの時代以来、エルサレムでこのようなことはなかったからである。

レビ人の祭司たちが立ち上がって民を祝福した。彼らの声は聞き届けられ、彼らの祈りは、主の聖なる御住まいである天に届いた。"

歴代誌 第二 30章25~27節



この世にはない「神様から来る喜びと祝福」を体験した人は、もう人間が作り上げた満足とか、偶像とかが必要なくなります。むしろ、それを嫌い、捨てたいと思うようになります。喜びに溢れた人たちはリアルに国にあった偶像を壊し、捨てていきました。



"これらすべてのことが終わると、そこにいた全イスラエルはユダの町々に出て行き、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒し、ユダ全土とベニヤミン、またエフライムとマナセの中にある高き所と祭壇を徹底的に壊した。そして、すべてのイスラエルの子らは、それぞれ自分の町、自分の所有地へ帰って行った。"

歴代誌 第二 31章1節



この喜びは、年に1度の打ち上げ花火ではありません。「ずっと毎日、神様を礼拝していきたい。ずっと神様を愛していきたい」と思うようになります。

そこでヒゼキヤ王は、もう一度ダビデをお手本にして神様への礼拝が毎日、組織的に行われるように秩序を整えました。



"ヒゼキヤは祭司とレビ人の組を定め、祭司とレビ人それぞれの組ごとに、その奉仕にしたがって全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げさせ、さらに、主の宿営の門で仕え、告白し、賛美させた。

また王は、全焼のささげ物のために、自分の財産から自分の分を出した。すなわち、主の律法に記されているとおりに、朝夕の全焼のささげ物、また安息日、新月の祭り、例祭ごとに献げる全焼のささげ物をした。"

歴代誌 第二 31章2~3節



さらに、礼拝のために専門に働く人々の生活が支えられるように収穫や収入の1/10を持ってくる仕組みも作りました。すべてのことは「義務だから」とか「ルールだから」ではなく「神様に感謝したいから、ささげたいから」です。人々は喜んで、たくさん持ってきたことが分かります。



"さらに彼は、エルサレムに住む民に対して、祭司とレビ人の受ける分を与えるように命じた。祭司とレビ人が主の律法に専念するためであった。

この命令が広まるとともに、イスラエルの子らは、穀物、新しいぶどう酒、油、蜜など、畑のすべての収穫の初物をたくさん持って来た。彼らはすべての物の十分の一を豊富に携えて来た。

ユダの町々に住むイスラエルとユダの人々も、牛や羊の十分の一と、彼らの神、主に聖別した聖なるささげ物の十分の一を携えて来て、いくつもの山に積み上げた。

第三の月に彼らは積み始め、第七の月に終えた。

ヒゼキヤと高官たちは、やって来て積まれた山を見ると、主とその民イスラエルをほめたたえた。"

歴代誌 第二 31章4~8節



これらのささげ物は十分すぎました。有り余るほどでした。

それは、神様がこの国をますます祝福し、豊かにしてくださったからです。



"ヒゼキヤが、その積まれた山について祭司とレビ人に説明を求めると、

ツァドク家の祭司の長アザルヤが、彼に答えて言った。「人々が奉納物を主の宮に携えて来ることを始めてから、食べて満ち足り、たくさん残るようになりました。主が御民を祝福されたので、その残りがこんなにたくさんあるのです。」"

歴代誌 第二 31章9~10節



偶像を捨てることも、礼拝することも、賛美することも、10分の1をささげることも、組織を作ることも、すべては神様の恵みから流れてきます。

主がよくしてくださったことを思い出すほどに、その喜びは僕らを新しく作り変えていきます。

「組織を作ったからうまくいく」のではありません。

「献金したから豊かになる」のでもありません。

「神様が祝福してくださったから」「神様が愛してくださったから」です。

今日も、自分で作り上げる日ではなく、神様がよくしてくださったことを思い出し、感謝する日でありますように。「何を頑張るか」ではなく「何を感謝するか」の日でありますように。喜びと感謝から始まって礼拝したくなり、仕えたくなり、ささげたくなる日でありますように。ハレルヤ!

2026年10月4日日曜日

「親が閉じてしまった扉をもう一度開こう」 2歴代29章メッセージ

 題「親が閉じてしまった扉をもう一度開こう」

2歴代29章メッセージ


人って、育ってきた環境に、かなり影響されます。小さい頃にどんな家庭で育ったのか。
親からどんな言葉をかけられてきたのか。愛されて育ったのか。
それとも、傷つけられたり、無視されたり、否定されたりして育ったのか。

いい面も受け継いでるし、悪い面もあると思います。子どものころの体験が今も人との関わり方に影響していきます。ですが、今日のメッセージはそんな親の影響力をひっくり返す人が登場します。それがヒゼキヤです。


父親は神様との関係を切り、神様をお迎えする神殿の扉を閉めました。

でも、ヒゼキヤはその扉をもう一度あけました。


今日のメッセージは「あなたの生育歴とか家庭環境があなたの人生の答えではない」
ということです。タイトルは「親が閉じてしまった扉をもう一度開こう」です。


ある人は「親が、いつもいろんなことを心配していて、いつも不安な人だった」

そして気がついてみたら、自分も心配性だと思う人もいると思います。

ある人は「親はいつも自分の思い通りにならないと不機嫌だった」っという人がいると思います。

アダムもエバも神様よりも自分の思い通りにして、神様から離れていきました。神様より自分の思いです。これが最初の罪です。僕らはみんなそれを受け継いでいます。

でも、希望があります。僕らはもう一度イエス様に戻りました。神様に戻りました。

神様は僕らを祝福しようとしておられます。


ヒゼキヤのお父さんはアハズではなく、天の父です。

その天のお父さんはヒゼキヤを祝福したい、そしてこの国に良いものを与えたい、と願っておられます。

僕らにも同じです。

そもそも神様は人間を造られた理由は、祝福するためです。今もそうです。

神様は人を造られた時言われました。


"神は彼らを祝福された。"

創世記 1章28節


神様の願いは、よく祝祷で引用される祈りに現れています。


"主があなたを祝福し、あなたを守られますように。

主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。

主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』"

民数記 6章24~26節


これは神様の願いそのものです。

神様は今も僕らを皆さんを祝福したい、守りたい、恵を与えたい、平安を与えたい、と願っておられます。


⚫︎周りに流される悪親アハズ


ヒゼキヤの親はアハズ王です。ひどい親です。

どのくらい酷かったか、まずおさらいします。


(28章3-4節)

3,彼は、ベン・ヒノムの谷で犠牲を供え、主がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の、忌み嫌うべき慣わしをまねて、自分の子どもたちに火の中を通らせた。

4,彼は高き所、丘の上、青々と茂るあらゆる木の下で、いけにえを献げ、犠牲を供えた。


アハズは、異教の神々に子どもを犠牲として捧げるような宗教儀式を行いました。

聖書は「忌み嫌う慣わし」と言います。「火のそばを歩かせた」という意味ではなく、子どもを殺して火で焼いて異教の神に捧げる儀式を指しています。生きたまま、と言う資料もあります。

「あらゆる木の下で、いけにえを献げ、犠牲を供えた。」ともあります。彼はあっちでも、こっちでも、いろんな場所で異教の神々を礼拝していました。


(28章24節)

アハズは、神の宮の用具を集めた。彼は神の宮の用具を取り外し、主の宮の戸を閉じ、エルサレムの街角のいたるところに祭壇を造った。


そして本当の神様に対しては、あえて、その礼拝の場所である宮を使えないようにしました。

用具を外し、扉を閉じています。

ヒゼキヤのお父さんアハズは偶像礼拝で国をめちゃくちゃにした人です。

なんでフラフラするのか?

いろんな偶像とか教えを求めた理由はやっぱり不安で、何かにすがりたかったのではないか、と思います。その一面がわかることが書かれています。


「アッシリアっていう強い国は、あの偶像を拝んでいるから強いのでは」と思ったアハズです。

2列王記16章を見ると、アハズはアッシリアの祭壇を見て、その祭壇の図面を祭司に送っています。
その通りに祭壇を作らせた理由は「この神様を拝むとアッシリアみたいに強くなれる」と考えたからです。

そのように「この方法がいいか、あの方法がいいか」「あの神がいいか、こっちがいいか」と求めています。逆に、本当の祝福である本当の神様は忘れて、捨てています。結局、どの宗教をやってみても、国は滅んでいきます。


ヒゼキヤは子どもの時、そういうお父さんを見て育ちました。

結局うまくいかなくて国が祝福を失っていく、悪いお手本を見て育ったようです。


※

僕はインスタとかyoutubeとかあまり見ないですが、YouTubeやInstagramって、一度興味のあるものを見ると、次々と似たものをおすすめしてきます。

僕らが何を見ているかを見て、「あなたはこれが好きなんですね」と、次々に同じものを見せてくるようです。皆さんのインスタ、動画はどんな動画が流れてきますか?それは皆さんが求めているもの、そう運営側が判断してるものです。


僕がもし神様を知らなかったら、僕のインスタ、僕のyoutubeはしょうもないものばかりだと思います。お金、成功、快楽を求める動画ばかりおすすめされると思います。


神様を知らなければ僕らの心は「目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢」に流れていきます。それは神様からのものではないです。まさにお父さんアハズは流されるままに求めた人です。


⚫︎息子ヒゼキヤの状況理解と決断


ヒゼキヤが25歳で王様になったとき、国はすでに危ない状態でした。

アッシリアの軍隊が隣のイスラエルを攻撃しつつある時代です。

普通に怖い状況です。勝てるはずのない敵の軍隊がすぐそこに潜んでいます。

彼はアッシリアの残酷さを見てきました。

隣の国が滅んでいくのを実際に見聞きしていいました。

次はウチがターゲットになり滅ぼされるかもしれない、って時に王様に就任です。

普通なら「うわ、どうしよう」って思う状況です。

最初に軍隊を強くするか、いざとなった時には国を捨てて自分だけ逃げるための道を先に作るか、と考えそうな場面です。いろんなことに追われて、頭がいっぱいになりそうです。


でもヒゼキヤはちゃんと理解していました。

「親の世代が祝福を失った理由は神様を捨て去ったから」です。

そして、「自分の最優先事項は、唯一まことの神への礼拝を、もう一度ちゃんと立て直すこと」「それこそが国を守ること」と理解していました。


(6節)

というのも、私たちの先祖は信頼を裏切り、私たちの神、主の目に悪であることを行い、この方を捨て去り、主の御住まいから顔を背けて背を向けたからです。


それで就任して最初の月に、まず最初にやったことは、

「この国はまず神様を礼拝するところに戻らなきゃいけない」

まずは神様。まずは礼拝。自分を聖別して神様に捧げること、それが祝福への道です。

「戦争の装備とか準備とか、そういうことに時間と力を全部使ったとしても、まことの神を礼拝することがちゃんとできていなかったら、何の意味もない」と分かっていたからです。

それで最初にやったことは荒れ果ててしまった神殿の修理です。


(3)

彼はその治世の第一年の第一の月に、主の宮の戸を開いてこれらを修理した。


最初の月、彼は全然ぐずぐずしませんでした。

親が閉じてしまった主の宮の戸をまず開きました。


(7節)

また、彼らは玄関の戸を閉じ、ともしびを消し、聖所でイスラエルの神に香をたかず、全焼のささげ物を献げることをしなかったのです。


神殿の玄関を閉じることは、神様をお迎えしない、行為です。だから彼はまず扉を開けて神様をお迎えしました。ともしびを消すのは、神様の光を自分から消してしまった、と言うことです。

香を炊く、と言うのは祈りの象徴だと聖書は言います。

つまり、親の世代は本当の神様に祈りもやめてしまいました。どれも霊的な自殺行為です。


結果、国はどんどん荒れていきました。でも、それは霊の目で見るなら当然のことでした。祝福の源である神様との関係を切ってるからです。自分から祝福の流れるパイプを切って捨ててるかのようです。

自分で選んだ通りに神様からの祝福や守りは消えていきました。

その結果は、神様の怒り、恐怖、あざけりです。


(8-9節)

8,そこで、主の御怒りがユダとエルサレムの上に下り、あなたがたが自分の目で見るとおり、主は彼らをおののきのもと、恐怖のもと、また嘲りの的とされました。

9,見なさい。このため私たちの先祖は剣に倒れ、私たちの息子たち、娘たち、妻たちは、捕虜になっています。


⚫︎国が祝福されるための決断 ①神殿の扉を開ける。


(3節)

彼はその治世の第一年の第一の月に、主の宮の戸を開いてこれらを修理した。


親が閉じてしまった宮の扉を開けることです。

ヒゼキヤが実際に開いたのは、エルサレムの神殿の扉です。

新約聖書では、私たち自身が聖霊の宮だと言われています。

だから、この出来事を僕ら自身に重ねて考えることができます。

これは僕らが自分の心の扉を神様に開くことと繋がっています。


臭いものとか、見たくないものは僕らは蓋をします。

触れたくないものには鍵をかけて、開かないようにしがちです。

それを開けたら、ひどいものが、関わりたくないものが出てくるからです。

だから、これは一生墓場まで心にしまっておく、ってものがあるかもしれません。

これは一生、関わらない。触れたくない。ありますか?

でも、神様はそれを癒すことができる神様です。それをきよめることができる神様です。その罪も恥も、見たくない状況も癒し回復することができる神様です。


ヒゼキヤは扉を開けました。すると神殿の中身はひどい汚れたものでいっぱいになっていました。


⚫︎国が祝福されるための決断 

②神様が嫌うものを捨てる。


(4-5節)

彼は祭司とレビ人を連れて来て、東側の広場に集め、

彼らに言った。「レビ人よ、聞きなさい。今、あなたがたは自分自身を聖別(聖別とは自分を神様専用にすること)しなさい。あなたがたの父祖の神、主の宮を聖別し、聖所から忌まわしいものを取り除きなさい。


自分も神様専用、神様の神殿も神様専用にしなさい、聖別しなさい、と命令しました。

神殿は汚れたものが、いっぱいだったんです。

あらゆる種類の異教的なものでいっぱいにしていました。そして、扉を閉じてしまってました。


この国をもう一度祝福する方法は、扉を開けて神様をお迎えし、示された汚れたものを捨て、従う決断をすることです。そして、本当に16日間で全ての汚れたものを捨て去りました。


(16-17節)

16,祭司たちは主の宮の内側に入って、これをきよめた。彼らが、主の神殿にあった汚れたものをみな主の宮の庭に出すと、レビ人が受け取って、外のキデロンの谷へ持って行った。

17,彼らは第一の月の一日に聖別し始めた。その月の八日に主の玄関に入り、八日間にわたって主の宮を聖別し、第一の月の十六日に終えた。


神殿にあった汚れたものは全部出して捨てました。

私たち自身が聖霊の宮なら、

自分の心の中にも、神様が嫌うものが入り込みます。

毎日生ごみが出るように、どうしても怒りとか、淫らな思いとか、許さない思いとか、人をさばく思いとか、憎しみ、妬みが入ってきます。気がつく限り日々捨てる必要があります。

彼らは汚れたものを神殿から運び出し、捨てました。


扉を開けて神様をお迎えする神様は僕らの中にある汚れたものを教えてくれます。まずは罪が汚れがあることを認め、それを口にして祈ることです。


夏は生ごみを放置すると臭いです。ウチの妻は匂いがすぐわかります。僕はあまりわからないです。

臭かったらすぐ「なんか臭い!」って匂いを嗅ぎます。「どこから?なんか腐ってる?ああ、これだ」と匂いのものを発見します。「ああ、あなたの靴下だ」とか。


同じように、聖霊をお迎えすると、僕らの中に罪があると違和感を感じさせてくれます。必ず何か原因があることを教えてくれます。


(ヨハネ16章8節)

その方(聖霊)が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。


平安を失って、なんかイライラする、なんかざわつく、でもどこからきてるのかわからない、ってことがあると思います。「なんであの人を見ると腹が立つんだろう?」


聖霊は僕らを照らして教えてくれます。どうして平安がなくざわつくのか、腹が立つのか、教えてもらいましょう。


ああ、僕はあの人を恨んでたんだ。あの人をさばいていたんだ、とか、教えてくれます。

いろんな腐った罪があります。

だから、すぐ、気がついたらすぐ、それを告白して神様、自分はあの人が嫌いで馬鹿にしています、とか、自分の栄光を求め、自分の思い通りに動かそうとしています、とか、告白して捨てましょう。


"ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、

生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。"

ペテロの手紙 第一 2章1~2節


繰り返しますが、神様は僕らを祝福しようとしておられます。だから、悪を捨てなさい、やり返すのでなく、相手を祝福しなさいって聖書はいいます。


"悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。"

ペテロの手紙 第一 3章9節


神様は僕らを祝福しようとしておられます。それだけでなく周りの人たちも祝福しようとしておられます。


⚫︎国が祝福されるための決断 

③罪のためのいけにえをささげる


(20-23)

20,ヒゼキヤ王は朝早く、この町の長たちを集めて、主の宮に上って行った。

21,彼らは、王国と聖所とユダのために、罪のきよめのささげ物として、雄牛七頭、雄羊七匹、子羊七匹、雄やぎ七匹を引いて来た。王は、祭司であるアロンの子らに命じて、主の祭壇の上でささげ物を献げさせた。

22,彼らは牛を屠り、祭司たちがその血を受け取って祭壇に振りかけた。次に雄羊を屠り、その血を祭壇に振りかけた。次に子羊を屠り、その血を祭壇に振りかけた。

23,それから、彼らは王および会衆の前に、罪のきよめのささげ物とする雄やぎを引いて来て、それらの上に自分たちの手を置いた


罪が聖められるためには、動物を殺します。


旧約聖書の中で、あまりにもたくさんの動物が死んでいくことに、ものすごく心を痛める人もいます。

誰かが質問するかもしれません。

「どうして、全部の動物が死ななきゃいけなかったんですか?動物たちは何も悪いことしてないじゃないですか。なんで可愛い動物まで、この犠牲に巻き込まれなきゃいけないんですか?」

動物が死んでいくのを見る。まだ痙攣している動物もいる。血が流れ出ていくのを見る。その動物から血を取って、祭壇に振りかける。実際に見たら気持ちが重くなるかもしれません。


本当にそうです。でもそれが大事なことでした。神様は、「罪のためには罪のないものが犠牲になる」という考えを伝えています。

動物たちは罪がないです。何も悪いことをしてません。だからこそ、身代わりになれます。罪のない者が、罪のある者の身代わりになってさばかれます。


礼拝する人はその上に手を置きます。手を置くことは一体化を表します。この動物が僕自身です、と言う意味です。そして、「罪のある側から、罪のない側へ罪が移される」ということを表しています。


(23)

それから、彼らは王および会衆の前に、罪のきよめのささげ物とする雄やぎを引いて来て、それらの上に自分たちの手を置いた。


動物が死んでいくのを見ます。まだ痙攣している動物もいます。血が流れ出ていくのを見ます。それは僕自身です。僕の罪のためにこの動物は苦しんでいます。新約聖書はこれら全部がイエス様を指し示していると言います。


"律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。"

ヘブル人への手紙 9章22節


"このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。"

ヘブル人への手紙 10章10節


あの十字架で殺されたイエス様が完全な犠牲です。僕のために、皆さんのためにささげられる犠牲、

それがイエス様です。あのイエス様の苦しみは僕自身への罪の裁きです。

イエス様の処刑は罪とけがれのある僕の処刑です。だから聖書はキリスト一緒に古い自分が殺された、と言います。


"私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。"

ローマ人への手紙 6章6節


もし十字架にかけられているイエス様を実際に見たら、心が暗く、悲しくなると思います。

衝撃だと思います。十字架の上で、全身が血まみれになったんです。


僕らが赦されて回復するためには神様の裁きを受けて死ぬ必要があります。イエス様が神様の裁きを受けて苦しみ、殺され、僕らも一緒に一度死んで、僕らはゆるされ、聖められました。新しくされました。


イエス様は僕らが忘れないように、パンを裂きなさい、杯を飲みなさい、とおっしゃいます。それは、イエス様の苦しみと死と流された血によって許された、新しくされたことを忘れないためです。


今日は後で一緒に聖餐をします


⚫︎国が祝福されるための決断 

④賛美する


彼はダビデが作った聖歌隊をもう一度作り、礼拝させ賛美させます。


(25-26節)

25,また、王はレビ人を主の宮に配置し、ダビデおよび王の先見者ガド、預言者ナタンの命令のとおりに、シンバルと琴と竪琴を持たせた。この命令は主から出たものであり、その預言者たちを通して与えられたものだからである。

26,こうして、レビ人はダビデの楽器を手にし、祭司はラッパを手にして立った。


ヒゼキヤは、父親の時代に失われていた礼拝を賛美を、聖書に従ってもう一度回復しました。


27,そこでヒゼキヤは、全焼のささげ物を祭壇で献げるように命じた。全焼のささげ物が献げ始められると、イスラエルの王ダビデの楽器に合わせて、主の歌とラッパが始まった。

28,全会衆は伏し拝み、歌い手は歌い、ラッパ奏者はラッパを吹き鳴らした。このすべては、全焼のささげ物が終わるまで続いた。

29,献げ終えると、王および彼とともにいたすべての者は、膝をかがめて伏し拝んだ。

30,ヒゼキヤ王と高官たちが、ダビデおよび先見者アサフのことばをもって主を賛美するようにレビ人に命じると、彼らは喜びつつ賛美した。そして、一同はひざまずいて伏し拝んだ。


神様は賛美されるべきお方です。賛美は栄光と主権を神様だけにお返しすることです。神様を高め。自分を低くするのが賛美です。

ここをよく読むと歌うこと伏し拝むことがセットで書かれています。


28「全会衆は伏し拝み、歌い手は歌い、」

29「膝をかがめて伏し拝んだ。」

30「彼らは喜びつつ賛美した。そして、一同はひざまずいて伏し拝んだ。」


神様の偉大さを知り、神様の栄光を歌うと、自分の小ささがわかります。

神様の栄光を感じると、誰でもひれ伏したくなります。

賛美は単なる音楽ではないです。賛美は礼拝です。

賛美は僕らが本来あるべき姿です。人間は神様をたたえ賛美するように作られています。


僕らは神様以外を賛美し、神様以外を崇め、神様以外の素晴らしさを表すために音楽が使われています。

自分をアピールし、自分の力や栄光を求めるために楽器が使われます。僕もかつてはそうでした。モテたくて、お金持ちになりたくて、有名になりたくて音楽をやってました。

でも今は神様の栄光のために使いたいです。

音楽は神様のために与えられています。自分の栄光じゃなくて、神様の栄光です。

ヒゼキヤは音楽を歌を楽器をもう一度神様の栄光のために捧げました。


●適用


今日のメッセージのタイトルは「親が閉じてしまった扉をもう一度開こう」です。まずは礼拝、まずは、神様をお迎えすることです。


神様に心を閉ざしてる領域はあるでしょうか。神様の前に開けたくない心の引き出しはあるでしょうか?

神様は優しく、無理やりこじ開けることはしません。でも、ドアをノックしています。


(黙示録3章20節)

見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。


イエス様は叩いています。汚い心の部屋にお迎えするの嫌だ、と思うし、自分でも見たくない自分の醜さに向き合うの嫌だ、と思うかもしれません。でも、イエス様は優しいから、ちゃんと、ちょうどよく、順番に癒してくださいます。無理やりではないです。汚れを教え、それを口にして捨てる祈りを与えてくださいます。


祈らせてくださるのは神様。

ドアを開けさせてくださるのも神様です。

無理やりではありません。


このドアは一生開けない、って思っていたドアはあるでしょうか?どうせ無理、親がこうだったから私はどうせ無理、と諦めていることはあるでしょうか。

今日、ノックしてるかもしれません。それを聖め、その傷や恥を祝福に変えようとしておられます。


大変な時こそまずは手を止めて、神様を求め、心を開き、神様をお迎えして、神様を礼拝する時です。


8月と9月、めちゃくちゃ忙しかったです。よく思うんです。「ああ、もう今日は時間がない」

「このミーティングがあって、この学びがあって、その後リバーの授業があって、もう間に合わない」って思うんです。

でも、そのたびに、聖霊が教えてくれます。「あなたがするのではない。私が語る」と。

そして、なぜか、「一度準備をやめて、祈ります。賛美をします」って思うんです。神様にそう思わせられます。


これは本当に恵みです。

その時に、不思議と必要なものが与えられていくんです。天からダウンロードのように与えられます。


北海道聖書学院の授業の時に、学生たちに聞いてみたら、やっぱり「忙しい」って言うんですね。

「明日までの小テストがある」「明日までの課題提出がある」

そして、「祈りはどう?」って聞いたら、「できないです」「祈る時間がないです」

このくだりは毎年僕の授業で繰り返される会話です。こないだは教会音楽の授業をやめて、ディボーションの大切さ、手を止めて祈ることの大事さ、の授業になってしまいました。それでもいい、と思っています。これは聖書学院の学生だけの話ではありません。僕自身も同じだからです。忙しくなると、祈りを後回しにしてしまう誘惑があります。


「いくら聖書学院で知識を得ていい点数を取っても、神様のところに行くという訓練がなかったら、何の価値もない」僕は本当にそう思います。師匠の舟喜信先生に言われたことが忘れられません。「牧師は副業」「祈りが本業」学生たちにいつもそう言います。


知り合いの牧師で、「僕も祈れないんだ」「個人ディボーションできないんだ」って言う人が何人かいました。祈らないまま、祈れないまま、ディボーションできないまま牧師になってしまって、結局教会は混乱してしまったケース、本人も辞任してしまったケースをいくつか知っています。


今日のテーマは「神様の宮の扉をもう一度開こう。」です。神様は優しく、無理やりこじ開けることはしません。でも、ドアをノックしています。まずはそのままで、汚れたまま、弱いままでお迎えしましょう。


僕の大好きな祈りは「祈れません、祈りたくありません。」「疲れました」と言う祈りです。それは本当に恵です。そこから始まります。


アハズは神殿の扉を閉じました。でも、ヒゼキヤは開きました。

アハズは礼拝をやめました。でも、ヒゼキヤは礼拝を始めました。

皆さん世代から、もう一度礼拝優先、祈り優先、みことば優先を始めましょう。親が閉じてしまった扉を、もう一度開こう。そこにこそ祝福があると信じます。


聖餐をします。