ローマ1.1-7
やっぱり聖書は「福音=嬉しい知らせ」です。使徒パウロが神様に選ばれて用いられているのは「嬉しい知らせのため」です。
"キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選び出され、使徒として召されたパウロから。"
ローマ人への手紙 1章1節
しかも、パウロが福音のために使徒にされたのは、すべての人に「信仰の従順」をもたらすためです。
"この方によって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。御名のために、すべての異邦人の中に信仰の従順をもたらすためです。"
ローマ人への手紙 1章5節
「従順」と聞くと、なんとなく「従わなきゃ…」「…せねば」「…すベき」となんとなく固くて暗い雰囲気が漂います。例えば「制限速度」は「捕まりたくないし」「罰金払うの嫌だし」みたいに、しぶしぶな感じがします。ルールによる従順は「仕方ないから守る」というものです。
でも、神様への従順は「信仰による従順」です。コワいから従うのでも、ルールだから従うのでも、罰があるから従うのでもありません。福音を信じるゆえに喜んで従います。「福音」とは以下のことです。
イエス様が私を愛し、私のために十字架で死んでくださったこと
復活して今も生きておられること。
私はイエス様と一緒に死んで、すでに無罪とみなされたこと。
二度と罪を思い出さないと言ってくださってること。
私はイエス様と一緒に復活して新しくなったこと。
イエス様と同じいのちと心を聖霊によって与えられていること。
これからもイエス様が永遠に一緒にいて愛してくださること。
将来は一緒に栄光が与えられる約束があること。
信じることが信仰です。それは喜びと感謝ゆえに「もっと従いたい」と思わせてくれます。「させられている」とか「しゃあなし」はそこにはありません。
パウロはこの「信仰の従順」を全ての人に与えるために使徒にされました。
そもそも、パウロは、自分のことを「キリストイエスのしもべ(奴隷)」と言っています。(1節)
「しもべ(奴隷)」と聞くと恐怖に怯え、威圧されながらコキ使われている「かわいそうな人」のイメージですが、キリストのしもべは全然違います。怖いから従うのでなく、嬉しいから従うのです。
イエス様が私たちのことを愛し、私たちを無罪にしてくださいました。そればかりでなく、これからも良いものを与え続け、愛し続け、将来はイエス様と同じ栄光を与えてくださいます。
だから僕らは喜んで従います。これが「信仰の従順」です。
パウロは、この感謝に満ちた従順を世界中の異邦人に与えるために役目が与えられました。
"この方によって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。御名のために、すべての異邦人の中に信仰の従順をもたらすためです。"
ローマ人への手紙 1章5節
神様を愛することは神様に従うことです。しかもその命令は重荷にはなりません。むしろ喜びです。
"神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。"
ヨハネの手紙 第一 5章3節
イエス様を信じた時は喜んで感謝します。ところが、クリスチャン生活が長くなると、自分の努力で成長しようとしたり、ルールで自分も周りも縛ろうとしたりして、昔のクセに戻ろうとすることがあります。そしてルールを守れない自分にがっかりしたりします。
ところが、福音は全然違います。
僕らはイエス様を信じた時にイエス様と一緒に死にました。
今は復活したイエス様と一緒に生きています。そう信じなさい、認めなさい、と聖書は言います。
"同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。"
ローマ人への手紙 6章11節
これを信じる時に、僕らは従う人に変えられます。もはや自分が頑張っているのではないからです。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2.20)
人によっては「ねば、べき」が強調される教会で育ったかもしれません。
でも、神様への従順は単純にルールを守ることではありません。福音はイエス様が私を愛し、私のために命を捨てて、私は赦されたこと、解放されたたことです。もう罪の奴隷ではないし、神様は過去の罪や恥をいつまでもねちねち追求することはなく、「二度と思い出すことはしない」(ヘブル10.17)と言ってくださっています。この信仰は僕らを自由にし、感謝をもって従順にさせてくれます。
神様が願っているのは、教えによる縛りでも脅しによる従順でもありません。福音を信じることによる「信仰の従順」です。
僕らは赦されました、新しくされました。だから喜んで神様の心と1つになることができるし、それを願っています。これが「信仰の従順」です。もうそれが始まっています。ハレルヤ!
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