2列王18章13節-19章7節 「戦いが主のものだと知るために」
1 当時の状況
2 敵の脅しの方法
3 脅しは主に委ねるため
いろんな声が聞こえてくるけど、敵というのはこうやって脅してくるんだと言うことを教えてくださっていると思います。武力で攻撃するよりことばの攻撃です。恐怖を煽って、私のいう通りにしたらうまくいくよ、こっちのいう通りにしなさいよとか、必ずあなたがを幸せにするから、という上手な落とし方、攻撃の実例です。また、僕らの今までの癖とか信念に基づいて、いつも自分はこう考える、こう対処すると言う経験もあると思います。
今日は人生に直面する問題にどう勝利するか、特に言葉による揺さぶりにどう対処するか、一緒に聖書から聞いていきたいと思います。
誰にも何も言われてないのに、どういうわけか、お前はダメなやつだ、お前はああだ、こうだ、とどこからか聞こえてくる声、何も起こってないのに、きっと悪いことが起こる、これから不幸になる、事故が起こる、と悪い妄想ばかりの声が聞こえてくるとか、よくある話です。
今日は聖書を通して、神様は何を願っておられるのかを一緒に読んで聞いていきます。神様がこのメッセージを使ってくださると信じてます。
そして今日の結論は大丈夫、必ず勝てます。対処できます。と言う結論です。対処法はシンプルで、やっぱり神様に聞き、神様に求め、神様に信頼することです。
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1 当時の状況
2 敵の脅しの方法
3 脅しは主に委ねるため
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1 当時の状況
"ヒゼキヤ王の第十四年に、アッシリアの王センナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々に攻め上り、これを取った。"
列王記 第二 18章13節
この当時イスラエルは二つに分裂していました。二つのうち北側の北イスラエルは当時最強のアッシリアに滅ぼされています。そしてその恐ろしい国アッシリヤは南側の南王国ユダにも攻めてきています。
首都はエルサレムです。その周りには要塞都市と呼ばれる周辺の都市がありました。要塞とは固く作られて敵に攻撃されないように作られた軍事的な町、ということです。でも、それが滅ぼされていたことがわかります。もはやエルサレムを守る都市も基地も残っていません。もう守りがない、と言うことです。
隣の兄弟の国である北イスラエルは滅ぼされたし、基地のあった町々もすでに滅ぼされています。あとは時間の問題です。
味方の町が次々と滅んでいくの見て、すごい怖かったと思います。これがヒゼキヤ王が直面している状況です。
ヒゼキヤはどうしたと思いますか?お祈りしましたか?
意外ですが、追い詰められて祈ったとか、書いてなくて、危機的な状況で、ヒゼキヤ王はアッシリヤに謝ってお金で解決しようとします。
"ユダの王ヒゼキヤは、ラキシュのアッシリアの王のところに人を遣わして言った。「私は過ちを犯しました。私のところから引き揚げてください。あなたが私に課せられるものは何でも負いますから。」そこで、アッシリアの王はユダの王ヒゼキヤに、銀三百タラントと金三十タラントを要求した。
ヒゼキヤは、主の宮と王宮の宝物倉にある銀をすべて渡した。
そのとき、ユダの王ヒゼキヤは、自分が主の神殿の扉と柱に張り付けた金を剝ぎ取り、これをアッシリアの王に渡した。"
列王記 第二 18章14~16節
この人、ヒゼキヤって王様、元々誰よりも信仰深い人で、神様一筋で、偶像を一掃し、国を上げて宗教改革をした人です。お金でなく、政治力でも軍事力でもなく、神様に聞き従う、と言うことで成功してきた人です。今まではそうでしたが、今回は違います。
この時、彼はもう限界を超えたようです。どう見ても、勝ち目がないしまもなく殺され国も滅びるという恐怖が一線を超えたようです。なりふり構わず、怖くて相手に降参して、国の全財産を渡すことにしました。国のお金だけでなくて、神殿に神様に捧げたはずのお金も全部出してきました。
"ヒゼキヤは、主の宮と王宮の宝物倉にある銀をすべて渡した。
そのとき、ユダの王ヒゼキヤは、自分が主の神殿の扉と柱に張り付けた金を剝ぎ取り、これをアッシリアの王に渡した。"
列王記 第二 18章14~16節
神殿の金も剥ぎ取って、アッシリアに渡しました。
生き延びるためにできることを全部やるんですね。これで勘弁してください。攻撃しないでくださいとお願いします。
さて、どうなったでしょう。敵はお金で納得するでしょうか?莫大なお金をもらった後、アッシリヤは撤退するどころか、さらに大軍で押し寄せて、脅します。次の19章を読むと185000人の大軍が来たことがわかります。
"アッシリアの王は、タルタン、ラブ・サリス、およびラブ・シャケを、大軍とともにラキシュからエルサレムのヒゼキヤ王のところへ送った。彼らはエルサレムに上って来た。彼らは上って来ると、布さらしの野への大路にある、上の池の水道のそばに立った。
当時のエルサレムは城壁で囲まれた都市。広さは皇居よりちょっと小さいくらいです。一周4キロ。皇居は一周5キロ。ウチの地元のイメージならモエレ沼公園の半分くらい。そんなに大きくはないです。それを185000人の軍隊が囲む光景はあり得ない、圧巻というか、兵士しか見えない、ような無数の兵士たちに見えたと思います。
モエレ沼の花火大会は有名で、すっごい人が来ます。次回は9/6土曜。毎年、こんなに集まるんだ、と言うほど、行列ができて、この町内にも、教会の駐車場にも人だかりができます。
調べたらモエレ沼公演に入って花火を見た人は19000人だそうです。19000人でも無数の人だかりに見えます。その10倍の兵士たちに囲まれています。しかもエルサレムはモエレ沼の半分くらいの広さ。中から外を見たら、兵士が地平線までいるんじゃないか、ってくらい、逃げ場がない、感じだと思います。それ見ただけで降参します。普通は勝てるはずがありません。
これが、今日の状況です。
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2 敵の脅しの方法
●人間的な助けをあざ笑う
●指導者への信頼を壊す
●神様との関係を壊す
●人間的な助けをあざ笑う
当然です。
(23節)
もし、おまえのほうで乗り手をそろえることができるのなら、おまえに二千頭の馬を与えよう。
もう一つ、このときヒゼキヤはお金を払って帰ってもらおうとしたけど、もう一つ、エジプトに助けを求めたようです。書いてないけどエジプトにもお金を払ってお願いしたようです。
彼らは言います。
"今おまえは、あの傷んだ葦の杖、エジプトに拠り頼んでいるが、それは、それに寄りかかる者の手を刺し貫くだけだ。エジプトの王ファラオは、すべて彼に拠り頼む者にそうするのだ。"
列王記 第二 18章21節
あんな国に助けを求めても、逆に傷つけられるだけだぞ、と脅します。
僕らも経験します。「どうせ誰も助けてくれない」「助けを求めてもムダ」「助けを求めたら逆に大変なことになるぞ」とか、と思わせる声があると思います。
●指導者への信頼を壊す
"おまえたちは私に「われわれは、われわれの神、主に拠り頼む」と言う。その主とは、ヒゼキヤがその高き所と祭壇を取り除いて、ユダとエルサレムに「エルサレムにあるこの祭壇の前で拝め」と言った、そういう主ではないか。"
列王記 第二 18章22節
ヒゼキヤは宗教熱心な人です。神様一筋であらゆる偶像を取り除き、このエルサレムの神殿で礼拝しなさいと教えた人なんですね。そこをついてきて、ヒゼキヤが他の宗教を禁止して無理矢理強制したんだよね、そんな宗教に信頼するんですか?そう言って王様を悪く言います。みんなに聞こえるように、です。
(29-30)
王はこう言っておられる。『ヒゼキヤにごまかされるな。あれは、おまえたちを私の手から救い出すことができないからだ。
ヒゼキヤは、「主が必ずわれわれを救い出してくださる。この都は決してアッシリアの王の手に渡されることはない」と言って、おまえたちに主を信頼させようとするが、そうはさせない。』
●神様との関係を壊す
さらに敵は、逆に、わたしたちはその神様に言われてきた、主があなたを滅ぼせと言っていいる、と霊的に脅してきます。
"今、私がこの場所を滅ぼすために上って来たのは、主を差し置いてのことであろうか。主が私に「この国に攻め上って、これを滅ぼせ」と言われたのだ。』」"
列王記 第二 18章25節
これは神様からの罰だよ、呪いだよ、と脅します。
あなた、神様を裏切って、お金で、しかも神様の神殿のお金で解決しましたよね、神様、と言いつつ実際には他の国を求めましたよね、だから、神様は怒ってお前を殺せと言っているんだ。敵は、ヒゼキヤ王の欠点を並べて、神様の裁きだ、呪いだ、神の怒りだ、と脅してきます。
これは信仰者にとって一番きつい。確かに預言者イザヤから注意されたことがあります。
(イザヤ30章2節)
彼らはエジプトに下って行こうとするが、わたしの指示を仰がない。ファラオの保護のもとに身を避け、エジプトの陰に隠れようとする。
神様を信じます、といいつつ、エジプトに頼っていいの?神殿のお金を上納金に使っていいの?
そういうことしたら神様に叱られるんじゃないの?と脅す
エルサレムも王様ヒゼキヤも一番恥ずかしい、言われたくないことを言います。本当に上手い脅しのプロ。そして、上手に言うことをきかせようとします
半分以上、本当のこと。8割以上は本当のことです。ただ、ウソも混じってます。主が私にこういった、というのはウソです。
皆さんも経験があると思います。苦しみの中にあるときにああ、これは神様だ。神様から罰を受けているんだ。神様から呪われているんだ、と思う経験あるかもしれません。
神様が自分を呪っているんだ、罰なんだ、という声が聞こえてきた時、神様のからのものなのか悪魔からか、やっぱり識別力が必要です。果たしてそうなのか聖書で判断する必要があります。
聖書的な根拠もなく、神様がこう言っているということばとか、心の中で自分を責めることばとか、本当にそうなのか、見極めなければなりません。
悪魔の策略に対して、武具をつけなさい、と聖書は言います。
(エペソ6章13-14節)
神のすべての武具を取りなさい。
そして、堅く立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
真理の帯。真理を体にまきつけなさい。真理。ウソの情報でな真理です。真理とは、イエス様そのものであり、イエス様のことばです。
敵は、90パーセント本当のことを言って動揺させますが、ウソを混ぜてきます。守りのために神様のことばをいっも体に巻き付けていれば大丈夫です。
毎日聖書を読みましょう。とうるさいくらいに東栄教会では言います。
あの先生、この先生の話もいいけど、やっぱりまずは自分で、フィルターなしで、混ぜ物なしで、神様が聖書を通して僕らに言っていることを聞くこと、読むことはすごく大事です。聖書の言葉は真理の言葉です。これによって、敵の攻撃は見抜けます。
まずは落ち着いて、神様が聖書を通しておっしゃってることは何か。神様に祈りながら聖書のことばを読む、聞く。その時に、はっきりと、これはあの人の意見なんだな、とわかります。まずは、耳を傾けるべきは、真理のことば、聖書のことばです。
エペソ6章14節の続きは「胸には正義の胸当てを着け」です。
胸当て。剣で切られても胸当てがあれば大丈夫。今でいう防弾チョッキです。
敵はことばで斬りつけてきます。脅して来ます。だから正義の胸当てをつけなさい、です。
正義とは、新約聖書によれば、自分の正しさではなくて、イエス様があなたの罪をゆるした、と言ってくださる正しさです。これがこれが正義です。義と言う漢字は聖書のメッセージをよく表しています。「羊」の下に「我」がいます。
イエス様のことを子羊と聖書は言います。
子羊って、罪を犯した人の身代わりに殺され、血を流し、それを捧げて、神様の赦しをいただく、身代わりに殺される生贄のことです。「世の罪を取り除く神の子羊。」です。(ヨハネ1.29)
イエス様は罪を取り除くために、身代わりに十字架で処刑されました。あの処刑は僕らの身代わりであり、僕らの罪が神様に赦されるためのものです。そのイエス様の十字架の下に我がいます。神様に赦されています。無罪と言われています。これが義です。
敵は、いつもお前が悪い、お前は呪われる、お前は罰を受ける、と脅します。反対に、聖書の福音は
欠点のある僕らが受け入れられているというメッセージです。これが正義です。これが福音です。
3 脅しは主に委ねるため
さて、ここまで追い詰められたヒゼキヤの対応はどうだったか?これは大事なことです。
"ヒゼキヤ王はこれを聞くと衣を引き裂き、粗布を身にまとって主の宮に入った。
彼は、宮廷長官エルヤキム、書記シェブナ、年長の祭司たちに粗布を身にまとわせて、アモツの子、預言者イザヤのところに遣わした。"
列王記 第二 19章1~2節
そしてもう一つ、自分だけでなく、神様と交わっている信頼できる人に祈りの要請をするんです。
試練の時には助けが必要です。助けとは、神様のところにいく助けです。神様と交わり、神様の言葉を聞く助けです。
彼らは預言者イザヤに祈ってくださいと言いに行きました。
本当は最初からそうすべきでした。アッシリアが攻めてきたときに、お金で解決とか、エジプトを求めるとかしないで、まず最初から神様のところに行くべきでした。ここまでなって、彼はどうしようもなくなって神様のところに行きました。跪くしか選択肢がなくなりました。
最初はジタバタしました。でも、全ての力がつきました。僕らもそうです。どんな強い人もやがて力尽きて死ぬ日が来ます。
どんなに鍛え抜いた人でも、もう力が出ない。もう自分では何もできない日が来ます。死を迎えるしかない受け入れるしかないって言う日があります。
聖書が、それでもいつまでも残るものがある、と言います
(1コリント13章13節)
いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。
全ては力尽きて、いつか手放していくんだけど、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。
1、神様への信頼
神様が救ってくださると言う信頼は全部力失せてもなくならない。いや力がなくなればなく、なるほどもう神様信頼するか、神様、信頼1択になっていく。だから、イエス様は悲しむ人は幸い、心貧しいものは幸い義に飢え乾く人は幸いって教えます。
2希望です。
希望はなくならない。神様がたとえこの体が死んでも神様は私を見捨てることなく罪を赦し迎えてくれる。受け入れてくれる。永遠の天の住まいに迎えてくださる。その希望はなくならない。
3神様の愛
神様の愛はなくならない。弱くなっても貧しくなっても人生がめちゃめちゃになって破壊されたとしても、神様の愛はなくなりません。
一番優れているのは愛です、と言います。
僕らが苦しむ時、僕らも同じようなことをします。
最初色々と自分で何も何かしようとします。
取引しようとします。でも最後はもう自分では何もできないと状況に陥ります。
そこまでされないと人間は文字通り膝まずいて、ひれ伏して神様救ってください。私たちは何もできません、助けてください、と言えないみたいです。
苦しみを通して、神様100%になるまで導いてくださいます。最悪な状況に置かれるのは、わざわざ神様が100%になって、自分の知恵とか判断で生きると言うのはやめて、神様にだけより頼むものとなるためです。信頼するしかない状況。神様以外に希望がない状況です。
それは怖いことかもしれない。でもそうまでならないと。僕らは本気で神様のとこに行かないんです。
次に、僕たちは自分も知らなかった神様の圧倒的な強さ力を体験するんです。彼はこの悲しみの時に まさに、心を尽くし思いを尽くし力を尽くして神様を求めました。
イザヤはすぐに神様の言葉を伝えてくれました。
"イザヤは彼らに言った。「あなたがたの主君にこう言いなさい。『主はこう言われる。あなたが聞いたあのことば、アッシリアの王の若い者たちがわたしをののしった、あのことばを恐れるな。
今、わたしは彼のうちに霊を置く。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。わたしはその国で彼を剣で倒す。』」"
列王記 第二 19章6~7節
この後、敵からまた脅しの手紙を受け取るんだけども、でも、彼は主の家で、神様の前にその脅しの手紙をひろげます
"ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取って読み、主の宮に上って行き、それを主の前に広げた。
ヒゼキヤは主の前で祈った。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。
主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセンナケリブのことばを聞いてください。(…中略…)
"
列王記 第二 19章14~19節
脅しの手紙を神様の前に置くのは、脅しや恐怖や悲しみ、そのような感情も苦しみも全部神様の前に下ろすことです。自分でぐるぐる考えず、神様の前に一つ一つ報告し置いていきます。
誰かに脅されています。これこれこうですと事情をちゃんと言葉にして神様に祈ることです。
敵がやりたい事は神様との関係を壊すことです。問題を神様のとこに持っていかないようにさせたいのです。そして、神様の真実な答えを聞かないようにすることです。
守ってくれるのは神様の真実な言葉です。
どこからともなく聞こえる声を、恐れを煽る言葉を全部神様のところに持っていくことです。祈ることはいちいち報告すると言うことです。会社と同じです。ほうれん草です。神様に報告連絡相談です。
"ヒゼキヤは主の前で祈った。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。"
列王記 第二 19章15節
神様、あなただけが天地を作り支配しておられるただの神様です。唯一の神様です。あの国のこともウチの国のことも、アッシリヤのことも、「ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。」
神様は聞いてくださいます。
神様がすべての天地の創造主であり、すべての支配者です。
僕の問題に関しても、皆さんが今抱えている問題に関しても、神様が支配者です。
どんな状況であろうと神様はただお一人です。この戦いを支配してるのは神様です。
聖書は恐れるな、恐れるな、と何度も聖書は言います。
世界のすべてに対して主権を持って支配してるのは神様です。神様が本当に神様ならそうです。
この恐ろしいアッシリアを統治しているのは神様です。この戦いは神様のものです。この状況は神様が支配者です。
ヒゼキヤは全てが神様のものだと気づくためにここまで追い詰められなければなりませんでした。
私は追い詰められ、全てを手放すのは嫌ですけどでも必要です。降参して神様に跪くときに、神様の主権だけが現れるからです。
神様に委ねる、それが彼のするべき戦いでした。戦いは主のものです。戦いは主のものです。主権は主のものです。すべてのものは神様のものです。
3 主の勝利
19章35節
その夜、主の使いが出て行き、アッシリアの陣営で十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな死体となっていた。
考えてみましょう。
●あなたが今抱えている問題はなんですか?どのような声が聞こえてきますか?その声は真実ですか?
●今までどのように対処してきましたか?それは正しい対処でしたか?
●神様はどうしてあなたにその問題を与えたのでしょう。
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