2025年1月2日木曜日

詩篇67篇 世界中が主をほめたたえるために  元旦礼拝メッセージ

 詩篇67篇


●祝福してください、と祈る大切さ


「求めなさい、そうすれば与えられます。」有名なことばです。(マタイ7.7)だから「神様、私を祝福してください」「私を憐れんでください」と求めるのは良いことです。そうすれば与えられます。


(1)

どうか神が私たちをあわれみ祝福し御顔を私たちの上に照り輝かせてくださいますように。


ところで祝福って何?と思います。意外と読み飛ばされる言葉だけど、祝福は、単に霊的なこと?だけではありません。(もちろんそれもそうだけど。)


6節を読むと、収穫のことを神様からの祝福として描かれています。


(詩篇 67篇6節)

"大地はその実りを産み出しました。神が私たちの神が私たちを祝福してくださいますように。"


聖書は祝福を祈るように教えています。イエス様がいてくださる安心感、聖霊のくださる喜び、愛、それも祝福です。でも、それだけでなく生活全部が神様からのプレゼント、祝福です。健康が与えられていることも神様の祝福。恵。お金も神様からの恵み、祝福。お金がなくなると不安だし、健康を失うと不安です。逆に、お金が与えられたり、誰かとの関係が良くなると嬉しいです。心とか霊的なことと持ち物とか生活とか人間関係は全部繋がっています。心だけで生きているのではなく、持ち物とかお金とか食べ物とか健康とか全部セットで僕らの人生です。だから祝福してください、と神様に祈ることは必要なこと全部与えてください、という祈りです。

仕事も家庭も結婚も服も家も食事も育児も友人も人生全部に神様からの祝福が注がれ満たされるように、それを祈り願うようにと聖書はすすめます。


(1)

どうか神が私たちをあわれみ祝福し御顔を私たちの上に照り輝かせてくださいますように。


宗教的になりすぎて禁欲的になる人もいます。この世のことに興味を持たず、また、この世の持ち物やお金や食べ物のことをあまり求めず祈らないって思っている人もいるかもしれません。ちょっと僕もストイックな傾向はあるなって思います。でも、聖書はアレだめコレだめ言っているのではくて、主に感謝するため、そして栄光を表すために全てのことを用いなさい、と教えています。

「食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(1コリント10.31)

「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」(エペソ 5:20


全部が神様の恵み、憐れみ、祝福として、求めなさい、です。パンをください、と願う子どもに石を与えるお父さんはいません。とイエス様は言われます。食べ物も持ち物も全部神様からの恵です。それは感謝し賛美するためです。


僕らはいろんな理由をつけて「どうせ無理っしょ」って思いがちです。「自分は与えられない。」理由がいくらでも出てきそうです。「そんな立派じゃないし、あの罪もあるし」それでも神様は「憐れみ」を祈りなさい、と言います。

祈りは「どうか神が私たちをあわれみ祝福し」てください、です。「あわれみ」です。完璧すぎる神様が不完全な僕らのところに降りてきてくれて、受け入れ、愛し、喜び、良いものを与えてくださること、これが神様のあわれみと祝福です。それを求めなさいと聖書は教えています


「いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深い」(ルカ6.35)「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」とあります。(マタイ5.45)

だから、神様わたしたちを憐れんでください、祝福してください、と祈るのに資格とか行いは関係ないです。


1節の後半「御顔を私たちの上に照り輝かせてくださいますように」とあります。


神様のみ顔をこちらに向けてくれるように。輝かせてくれるように、と祈りなさい。です。

小さい子どもは、お母さん、こっちみて。パパこっちみて。テレビじゃなくて。実は大人でも、そう思います。みんなこっちを見てほしい、関心を持ってほしいと思います。承認欲求があります。僕も思います。

みなさん、神様の顔、みたことないと思いますが、もし、表情がみられるとしたら、どんなイメージですか?自分に対してしかめっ面をしているか、不機嫌に思ってる、と想像してしまう人も多いようです。


人は悪い想像しがちです。「僕は誰にも愛されていない」「私は親にも友達にも嫌われている」「誰も私になんて興味ない」と感じることがあると思います。妄想は膨らんで暴走することがあります。また、そう思わせるのは悪魔の大好物です。


神様の願いは、それとは逆です。「御顔を私たちの上に照り輝かせてください」

神様が御顔を向けてくれるように。これは関心と保護と愛の眼差しです。

神様に承認されている、神様に喜ばれている、受け入れられている安心感。それを祈るように求めるように聖書は言います。



●祝福は神様がほめたたえられるため


この祈りがもっと素晴らしいのは、それが神様の栄光が現れることだし、世界中にそれが広まるためからです。

祈りはこう続いています


(2-3)

2,あなたの道が地の上で御救いがすべての国々の間で知られるために。

3,神よ諸国の民があなたをほめたたえ諸国の民がみなあなたをほめたたえますように。


これは5節でも繰り返します。


ただ自分のためだけに祈ってるわけじゃなくて、神さまが憐れみ、愛し、祝福してくれることは、他の人たちにもそれがわかり、明らかになり、やがて世界中の人たちにこの神様の憐れみと恵と祝福が広がり、最後はにみんなが神さまを賛美するように、って祈りです。


(5)

神よ諸国の民があなたをほめたたえ諸国の民がみなあなたをほめたたえますように。


神様から僕らが祝福されることは、世界の光となって他の人にも伝わります。


※例

みちや君とある時控室で一緒でした。

僕は言いました。「僕がサックス吹くと目立ちすぎちゃって、神様を賛美するって目的からずれちゃう気がするんだよね。遠藤先生うまい、みたいになるのはちょっとねえ。」


そしたら、みちや君、何の迷いもなく言いました。

「遠藤先生の演奏がうまくいって注目され誉められるのは、そのまま神様の栄光です。目立っても遠藤先生より神様の栄光、神様の喜びですよ。天のお父さんにとって息子の演奏は喜びです。だから、目立っていいと思いすよー。」


これか、これが闇の中の光、ナイトdeライトか、と思いました。

汚れもある僕に、罪にも関わらず神様が良いものを与えてくださる恵みと愛が輝くように。神様がよくして下さることは、僕だけで終わらないで、みんなにとっても光となっていきます

この祝福をむしろ積極的に他の人にもわかるようにしなさい、ってイエス様もおっしゃっています。それは神様がほめ讃えられるためです。


(マタイ5:14-16)

あなたがたは、世界の光です。(…中略…)

あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。


必要なお金が与えられる、病気が癒やされる、人間関係が嬉しい、与えられた良いもの全ては自分のためだけではなくて、神様がほめ讃えられることが目標です。


(3-4)

3,神よ諸国の民があなたをほめたたえ諸国の民がみなあなたをほめたたえますように。

4,国々の民が喜びまた喜び歌いますように。


だから、求めなさい、そうすれば与えられます、とおっしゃる理由がヨハネ14章にあります。

祈りが聞かれる理由は、神様が栄光を受けるためです。


(ヨハネの福音書 14章13節)

"またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。"


祈りの最終的な目的って、欲しいものを得ることじゃなくて、「神の栄光を現す」ことです。だから、日毎の糧を今日も与えてくださるように求めなさい、と言います。主の祈りです。それは神様の栄光が褒め讃えられるためです。

ルターは言いました。小教理問答の中の一部を紹介します。


(問い) 「日毎の糧」とはどういう意味ですか。

(答え)

私たちのからだを養い、 必要を満たしてくれるすべてのもののことです。 例えば、食べ物、飲み物、着る物、靴、家、庭、土地、家畜、 金銭、所有物、献身的な配偶者、献身的な子供たち、献身的な雇い人、献身的で信仰深い為政者、 よい政府、よい天気、平和、 健康、学問、名誉、よい友人、信仰深い隣人、 そしてこれに類する他の全てのもののことです。


自分の欲望が叶えられるのが目的じゃなくて、これらが全部神様の栄光を表し、神様に感謝と賛美が捧げられます。自分も感謝し賛美し、他の人たちも神様をほめ讃えるための祈りです。


次祈る時は自分に聞いてみましょう。この祈りが自分のためだけのものか、それとも神様が褒められ、感謝され、賛美され、それが世界に広がるためのものか?


(3節、5節)

神よ諸国の民があなたをほめたたえ諸国の民がみなあなたをほめたたえますように。


祝福はイスラエルだけとか、クリスチャンだけで独り占めできるようなものではありません。神様がアブラハムにあなたによって全ての民が祝福を受ける、とおっしゃったように、今も神様の願いは全ての人が祝福され、神様をほめたたえ、喜び歌うことです。


※大嫌いだったFB、ところが…


2011年東日本大震災があったとき、東栄からもボランティアに行きました。現地の様子をシェアするのにFacebookに登録してください、と言われて僕もしました。


使い方よくわかんないままFBに登録して開いてみたら、毎日知らない人の夕食のメニューとか、なんかエロい話、とか情報とか流れてきて、見てたらだんだん腹が立ってきて、やめました。

単純に、すぐに、Facebook=悪。みたいに思って、2度と関わらない、と思いました。


そしたら、間もなく井出さんが、東栄のFacebookのページ作って毎日みことばの解説出すことにしました、っていうので見てみたら、僕が書いているディボーションのメールを井出さんが転送して毎日載せていました。読んでいる人も結構いて、教えられたこととか書いている人もいて、FBってこういう使い方もあるんだ、と知りました。つまり、道具自体がいいとか悪いとかじゃなくて、全てのものは、神様がほめたたえられるために使うかどうかが大切なんだ、と知りました。


みなさんの祈り、インスタ投稿も、自分の満足や栄光のために投稿するか、それとも、神様が誉められ、その恵が多くの人に伝わるためかどうか、それが大事です。


今日の詩篇は、自分への祝福をまず求めることが、神様の恵と賛美を全ての人に広がることにつなることがわかります。


(1-3)

1,どうか神が私たちをあわれみ祝福し御顔を私たちの上に照り輝かせてくださいますように。セラ

2,あなたの道が地の上で御救いがすべての国々の間で知られるために。

3,神よ諸国の民があなたをほめたたえ諸国の民がみなあなたをほめたたえますように。



※ジョージミラーの伝記より


1800年代にイギリスで多くの孤児院を作り、多くの孤児を育てたジョージミュラーという人は、献金を求めず、ただ神様だけに信頼し、神様だけに祈ることだけでその働きをした人です。彼の伝記は多くの人に影響を与えています。


ーーー

「何十万もの人々がこの事業に注目するようになりました。何万もの人々が見学にやって来ました。このことによって、私はますますこの働きを前進させ、主の御名に更に大きな栄光をもたらしたいと思うようになりました。主が見上げられ、あがめられ、ほめたたえられ、信頼され、いつでも頼られること、これがこの奉仕の目的であります。特に、これが拡張してきた目的です。それはただ、神を信頼するだけのあわれな一人の男が、祈りによってどのようなことを成し遂げることができるかが分るためです。それによって、神の他の子たちが神に信頼して神のみわざを成し遂げるようになり、また、神の子たちがそれぞれの立場や状況の中で、いよいよ神に信頼していくようになります。私が事業を拡張したのはこのためです。」


まず自分への憐れみと祝福から求めはじめましょう。それは神様が誉められ、讃えられ、その栄光が全世界に表されるためです。


「最近私は、また孤児院のためによく祈り、しばしば自分の心を点検しています。それは自分自身を喜ばせるために孤児院を建てたいと思っているなら、それをはっきりさせなければならないからです。主の栄光だけを求めているのであれば、主のみこころでないことについて兄弟たちに指摘されることを喜ぶはずです。」


僕らも点検しましょう。僕らの生活の全てが、祈ること願うことの全てが神様の栄光を求めているか、それとも自分の名誉や欲望に留まっているのか、とです。


祝福を求めましょう。憐れみを求めましょう。それは世界中が神様を知るためです。全ての良いものは神様の素晴らしさを世界に広めるための道具です。ハレルヤ


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