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2024年6月13日木曜日

ガラテヤ5.16-26

 ガラテヤ5.16-26


最初、神様がお作りになった世界は全てが満たされる世界でした。ところが、人間は神様に逆らい、別れ、独立しました。その時から人はいつも欠乏感を持っています。自分の力で愛されたい、満足したいとがんばります。満たされたくて、幸せになりたくて、喜びたくて、何かを求めてさまよっています。


(19節)

肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色


(21節)

ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。


愛のない性行為を繰り返して満たされようとし、楽しいことを探しまわり、酒で満たされようとします。それは破滅的な、制御不能の世界です。「喜びで満たしてくださる」(使徒2.28)「必要をすべて満たしてくださる」(ピリピ4.19)神様を知らないので、霊的なものを求めて宗教にハマったりします。自分より幸せそうな人を見ると、妬み、怒り、嫌います。そして自己嫌悪にも陥ります。


(20)

偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、



すべての問題の原因は神様から離れていることです。良いものは神様から与えられます。神様に受け入れられて愛されている人は安心します。すでに認められ喜ばれているので、マウントを取ろうとする必要がありません。良く見せなくても、もう十分に愛されているからです。


御霊とは神様ご自身です。御霊によって歩みなさい、と聖書は言います。その時に肉の欲望を満たすことはなくなります。満たされるために戦う必要もなくなります。



(16節)

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。



自己満足のための「肉のわざ」と御霊の働きは水と油です。共存することはできません。



(17-18)

肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。



御霊はまるで果樹園に果物が実るかのように、僕らの人生に良いものが現れるようにしてくれます。



(22節から23節)

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、

柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。



御霊を求めましょう。自分で満たそうとしなくても大丈夫です。欲望に振り回される必要も、人生を強引に進める必要もなくなります。イエス様を信じたとき、そんな自分はイエス様と一緒に死にました。今日も肉の自分は死んでると思いましょう。今生きているのは御霊によって新しくなった自分です。死んだはずの肉のわざをまた復活させる必要はありません。


(24-25節)

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。

私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。

2024年6月12日水曜日

ガラテヤ51-12

 ガラテヤ51-12


ガラテヤ教会の中にアツい人がいて、割礼(性器の包皮を切り取る儀式)をしなければならないと教えていました。「割礼は旧約聖書によって明らかに命じられています!」「神の民である大事なしるしです!」きっと力説したと思います。ところがパウロはそれに反対して説明します。



(2節から4節)

2よく聞いてください。私パウロがあなたがたに言います。もしあなたがたが割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに、何の益ももたらさないことになります。

3割礼を受けるすべての人に、もう一度はっきり言っておきます。そういう人には律法全体を行う義務があります。

4律法によって義と認められようとしているなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。



日本の教会で「割礼すべし」と教える人はいなくても、キリストの十字架の赦しや恵みと関係のない話を熱心にこうすべき、あぁすべき、と熱心にになる人はいます。「あの人はやってない」「私はちゃんとしているのに、あの人のせいで…」十字架で罪を背負い苦しんでくださったイエス様をすっかり忘れて、まるで自分が正しい人かのようにさばき合い、キズつけあうのは恥ずかしながらよくある話です。最初は密かにつぶやき、次に本人のいないところでヒソヒソと話し、そのうち訴え合います。「わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませるのです。」(9)「そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。」(コリント人への手紙 第一6章7節)

これはキリストの福音ではありません。「どちらが正しいか」は言い換えると「どちらが義されているか」です。義はイエス様の十字架の恵みによってだけ与えられるものです。



(4節から8節)

4律法によって義と認められようとしているなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。

5私たちは、義とされる望みの実現を、信仰により、御霊によって待ち望んでいるのですから。

6キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。

7あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたの邪魔をして、真理に従わないようにさせたのですか。

8そのような説得は、あなたがたを召された方から出たものではありません。



僕らが自分の正しさを主張し、十字架による罪人への憐れみを忘れているならガラテヤ教会と全く同じです。「わたしは正しい」は御霊から出たものではありません。御霊は僕らの罪を教えて間違いを認めさせてくださるからです。(ヨハネ16.8)義は自分の発言や行いによって獲得するものではありません。イエスキリストの十字架の福音を信じることによって与えられるものです。「私たちは、義とされる望みの実現を、信仰により、御霊によって待ち望んで」います。(5)


今日もわずかなパン種があります。今日も自分の行いを誇り、他の人をさばきます。今日も「私がこうした、ああした、あの人はこうすべき」と行いのルールに戻りたがります。もし律法や行いによって義とされるなら、「キリストはあなたがたに、何の益ももたらさないことになります。」(2)


自分に聞いてみましょう。イエス様ではなく、自分を誇る小さな種があるかどうか。それは大きくなって自分を縛り、そこから抜け出せなくなってしまいます。



(1)

キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。



罪がないと言うなら嘘つきです。「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。」(1ヨハネ1.8)イエス様の十字架の犠牲を忘れていたことを認めましょう。キリストの福音と関係のないことを強調していたことを認めましょう。神様ごめんなさい。イエス・キリストの十字架の福音に戻ります。イエス様の十字架以外に誇るものはありません。(ガラテヤ6.14)アーメン。




2024年6月11日火曜日

ガラテヤ4.21-5.1

 ガラテヤ4.21-5.1

2024年6月10日月曜日

ガラテヤ3.26-4.7

 ガラテヤ3.26-4.7


イエスさまを信じた頃、聖書をあまり知らないので先輩クリスチャンを見て、「へー、クリスチャンってそうなんだー」と思ったものです。でも、いろんなタイプの人がいるので、どの先輩クリスチャンをお手本すればいいのかわかりませんでした。神学校に行っても同じように先生たちにもいろんなタイプの人がいます。


ある人はいつもひざまずいて「私は小さきものです。私をあわれんでください。助けてください。私には価値がありません。神様の教えに従う力がありません」と祈っています。謙遜な、砕かれた心でいつも平伏しているタイプの人です。


また、ある人は反対に「私は神の子です。愛されています。ゆるされてます。力が与えられます。祈りは聞かれます。自由です。嬉しいです。感謝しよう、賛美しよう、喜ぼう、ハレルヤ!」と喜び歌ってるタイプの人もいます。


皆さんはどちら寄りでしょうか?


聖書はその両面の大切さを教えています。

特に今日の箇所は後者を教えています。

前提として、イエス様が神様の子です。そしてこの世界はイエス様のものです。イエス様は愛され喜ばれています。世界はイエス様によって祝福されます。やがて、イエス様は王様として来られ、この世界を栄光と力と愛で支配します。


ここからが驚きです。なんと、そのイエス様を信じた僕らはバプテスマを受け、キリストとつながり、1つにされ、イエス様が持つ身分や権利を一緒に相続し所有する人になりました。まるでキリストの権威や祝福の身分をまとった人のようです



(ガラテヤ人への手紙 3章26~29節)

あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。

キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。

ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。

あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。


神様はアブラハムとその子孫に祝福と土地の約束をされました。(創世記12章、13章、15章など)そして祝福を約束されたアブラハムの子孫とはキリストのことだと明言します。(ガラテヤ3.16)


このキリスト・イエス様が祝福され、すべての世界の全財産と権力を持ちなのと同じように、僕らも祝福を受け継ぎ全てを持つ相続人とされました。聖書は「相続人は全財産の持ち主」(4章1節)といいます。僕らは神様の全財産をを持つ人です。それは大きすぎて僕らの想像を超えています。僕らの心の視力がだいぶ良くないとわからないことです。でも、見えるようになって知っていくことは神様の願いです。



(エペソ人への手紙 1章18~19節)

あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか(…中略…)知ることができますように。



僕らは奴隷ではなく、律法に縛られているのでもなく、イエス様によって取り戻された神様の子どもです。なんと、イエス様が父である神様と親しくしているのと同じように、僕らも神様と親しくすることができます。「父上、殿下」ではなく「パパー!」です。



(ガラテヤ人への手紙 4章5~7節)

それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。

そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。



よく、「天国に入る」と言います。そこに入れるかな?と僕らは心配したりします。ところが事実は違いました。天国に入れてもらうお客さんではなく、神様と一緒に天国を経営する側でした。聖書は「御国を受け継ぐ」と表現します。お父さんの会社の経営を受け継ぐとか、おじいちゃんの土地や財産を受け継ぐのと同じように、神様の土地も財産も能力も支配も全てイエス様と一緒に受け継ぐ立場が僕らの身分です。



(エペソ人への手紙 1章11節)

またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。



(ヤコブの手紙 2章5節)

私の愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束された御国を受け継ぐ者とされたではありませんか。


イエス様を信じる事は、イエス様が持っているすべてのものを一緒に持つことです。栄光も権力も知恵も愛もお金も神様のもの、イエス様のものです。そして僕らのものでもあります。想像以上の立場を僕らはもらっています。しかも、この祝福は僕らで止まらず、神様がアブラハムの子孫が星のように増えるとおっしゃったように、福音を伝えることで祝福の子は増えていきます。僕らは相続人です。想像以上のすごい身分になりました。慣れるのにまだ時間がかかりそうです。凄すぎます。ハレルヤ!

2024年6月6日木曜日

ガラテヤ2.1-6

 ガラテヤ2.1-6

2024年6月5日水曜日

ガラテヤ1.11-24

 ガラテヤ1.11-24


自分を支えるために、人が作った肩書とか資格とか組織の権威とかお墨付きをもらいたがるのが人間です。伝道者の中でもありがちで、教団の中の役職とか「○○神学校卒業だから大丈夫」とか言ったりします。でも実際は教団の要職の人でも神学校を卒業した人でも大丈夫じゃない人はたくさんいます。聖書は人間的な肩書きとか経歴に頼ることを徹底的に拒否します。パウロは自分の聖書学者としての経歴を「ちりあくた」「屑」と言います。(ピリピ3.8)そして自分がイエスキリストの使徒となったのは、決して人間から出たことではないと強調します。



(1節)

人々から出たのではなく、人間を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によって、使徒とされたパウロ



パウロが伝えている福音もその力も人間から受けたものではない、と聖書は繰り返し強調します。



(11節から12節)

11兄弟たち、私はあなたがたに明らかにしておきたいのです。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。

12私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。



神様から選ばれた時に、パウロは人間的なお墨付きを避けようとして、あえて使徒の先輩に会いに行かず、神様との時間を最優先しました。神様からの福音とその働きに人間的な不純物が入らないようにするためです。パウロが先輩のペテロと初めて会ったのは3年後です。(1.18)他の使徒のヨハネやヤコブたちと会って握手したのはさらにその14年後、パウロが使徒となって17年も経ってからです。(2.1、2.9)



(15節から17節)

16異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに啓示することを良しとされたとき、私は血肉に相談することをせず、

17私より先に使徒となった人たちに会うためにエルサレムに上ることもせず、すぐにアラビアに出て行き、再びダマスコに戻りました。



使徒とされたのは人間の権威ではありません。僕らがイエス様を信じるようになったのも牧師や宣教師が召されるのも同じです。「私たちの資格は神からのものです。」(2コリント3.5)全ての権威は神様から来ます。もちろん先輩たちや長老たちを尊敬し従いなさい(1ペテロ5.5)相談して物事を進めなさい(箴言15.22)と聖書は教えますが、先輩たちの知恵や力も神様の恵みと賜物であってその人が偉いのではありません。神様は人を分け隔てしません。



(2章6節)

そして、おもだった人たちからは──彼らがどれほどの者であっても、私にとって問題ではありません。神は人を分け隔てなさいません──そのおもだった人たちは、私に対して何もつけ加えはしませんでした。



パウロは先輩からのお墨付きをあえて拒否します。神様は人を分け隔てなさいません。だから僕らはまず誰よりも神様の権威を求め、神様に相談し、神様に聞き、従うのが最優先です。



福音は肩書とか、役職とか、そのような人間によるものとは関係ありません。伝道する力も人の力によるものではありません。全ての信仰者は、ただ神様に力と言葉を預けられた人です。その力も確信も祈りの中で育まれます。神様を求めましょう。神様に聞きましょう。そして従いましょう。人のところに行くのではなく、まず神様のところに行きましょう。ハレルヤ!