ガラテヤ2.1-6
宗教に入って生活が制限されるとか、財産を奪われるとか、そういう被害がニュースになることがあります。イエス様は「真理はあなたがたを自由にします。」とおっしゃいました。(ヨハネの福音書8章32節)イエス様と歩むことは縛られることではなくて自由になることです。いやむしろ僕らに本当の自由を得させるのが目的です。
(ガラテヤ人への手紙 5章1節)
キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。
昔、タバコを吸うか吸わないか悩んだことがありました。実はどっちでもいいことです。(体に悪いから吸わないのをお勧めします)問題はやめたいと思ってもやめられずに縛られることです。同じように、神様を愛することは自由です。愛することも愛さないことも自由に選べます。自由の中で神様を愛したいと願うなら真理の御霊が与えられてるしるしです。やらされているのではありません。
もし教会生活が「神様を愛さなければならない」「献金しなければならない」「集会に欠席してはならない」「赦さなければならない」などなど、ルールに縛られ苦しいと感じるなら、どこかが間違っています。「主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。」(コリント人への手紙 第二 3章17節)縛られたり強いられたりするのは本当の愛でも自由でもありません。牧師さんや仲間からプレッシャーを受け続けるような教会なら、あるいは牧師さんにその意図はなくても、立派な信仰者でなければと自分を縛り、仲間の目を気にして苦しむならどこかが間違っています。それは抑圧であり、拘束です。文字(ルール)は殺し、御霊は生かします。(2コリント3.6
ルールでなく、イエス様を信じた人には聖霊が与えられて内側から新しいいのちが溢れて神様と隣人を愛するように変えられます。
神学生の時、友人が先生に質問しました。「祈る時、断食した方がいいですか?」先生の答えは「あなたが神様を愛しているなら自由です」でした。
ガラテヤの教会の中に「ユダヤ教の律法や儀式を守るべき」と教える人がいました。それに対して少しも譲歩したり屈服したりしないようにと聖書は教えています。
(4-5節)
4忍び込んだ偽兄弟たちがいたのに、強いられるということはありませんでした。彼らは私たちを奴隷にしようとして、キリスト・イエスにあって私たちが持っている自由を狙って、忍び込んでいたのです。
5私たちは、一時も彼らに譲歩したり屈服したりすることはありませんでした。それは、福音の真理があなたがたのもとで保たれるためでした。
イエス様を信じることは、生活が制限されて疲れることでなく、重荷を下ろして安心することです。たましいに安らぎが来ることです。イエス様は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」とおっしゃいます。(マタイ11:29)
僕らは伝統やしきたりや教会成長セミナーなどのルールブックに縛られて苦しむのでなく、安心してお父さんを呼ぶ子どものような自由の霊が与えられました。成長セミナーが悪いわけではないけど、「こうでなければならない!」と教会を縛るなら大問題です。
(ローマ人への手紙8章15節)
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。
教会の中に僕らを縛り窮屈にし苦しめている教えがあるなら「キリスト・イエスにあって私たちが持っている自由を狙って、忍び込んでいたのです。」(4)もしも成長戦略や流行りの教えが聖書の真理と同じように扱われたり、教会を縛り奴隷にするなら、「一時も彼らに譲歩したり屈服したり」する必要はありません。福音は僕らを自由にします。御霊は僕らに内側から神様を愛する、人を愛する自由で満たしてくださいます。
今日も外からも内からもいろんな声が聞こえてきます。真理のみことばから出たものか、それ以外か吟味されずに放置され、いつの間にかそれが人を縛ることもあります。今日も「あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。」(ピリピ1.10)流行りの教えを鵜呑みにせず、「はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べ」ることができますように。(使徒17.11)堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされることがありませんように。(ガラテヤ5.1)ハレルヤ!
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