レビ4章 祭壇に塗られた血 メッセージ
●血を強調する聖書
聖書は繰り返し「血」のことを教えています。
[ヘブ9:22]
血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。
[Iヨハ1:7]
御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます
[Iペテ1:18-19]
あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは……キリストの、尊い血によったのです
今日の箇所も、罪の赦しのために動物を殺し、血を流すように教えています。しかも、その血を振りかけなさい、とか、塗りなさい、とか血を土台に注ぎなさい、とか、何度も何度も血について書いてあります。
動物のいけにえのささげ方を読むと血だらけで残酷に思いますが、それは僕らがイエス様の十字架の意味を深く知り、そして神様に受け入れられ、赦されていることを確信させるためのものです。律法を知るとイエス様の愛と恵みの大きさがわかるようになります。
イエス様も血を流されました。イエス様は鞭打たれ、その体は裂け、顔だちは崩れていたと聖書に書かれています。頭は茨の冠で突き刺され、その棘は頭皮に深く入っていました。手と足は釘で刺され、最後に脇から槍で刺され、血と水が出て来た[ヨハ19:34]とあります。そして今日読んだレビ記のいけにえの血はイエス様の血を預言しています。
神様の前で罪がゆるされ、きよめられる方法はこのイエス様以外にありません。罪を放置すると他の人との関係を壊します。神様との関係を壊します。その人自身も壊します。罪は人を孤独にし闇に置き去りにします。そして、それとは反対にイエス様の流された血は神様との関係を癒し、人間関係を癒し、自分を癒します。
精神医療とか心理学で、ある程度苦しみを和らげることができると思います。薬も助けになります。でも、その原因となっている罪を完全に取り除き、癒すことはできません。
自分の罪のせいで自分も他人も傷つけて、傷つけられ、怒りや憎しみに縛られ続け、鬱症状が出ているかもしれません。薬もカウンセリングも助けになるけど、罪を消す事はイエス様以外にはできません。僕らを壊している原因は罪です。罪とは神様から離れ自分が神様のように高ぶって生きることです。罪には裁きがあります。その罪を根っこから消し、解放し、自由にし、明るくさせてくれるのはイエス様だけです。ある人が「クリスチャンの石鹸」といったみことばです。
(1ヨハネ1章8-9節)
もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。
●罪の自覚の幸い。
今日読んだ箇所は、後から自分の罪に気が付くパターンです。わざとではなかったけど、後で責任を感じる場合です。
3節
油注がれた祭司が罪に陥って、民が責めを覚える場合には、その祭司は自分が陥った罪のために、傷のない若い雄牛を罪のきよめのささげ物として主に献げる。
13節
イスラエルの会衆すべてが迷い出て、すなわち、あることがその集会の目から隠れていて、主がしてはならないと命じたすべてのことのうち一つでも行い、後になって責めを覚える場合には、
22節
族長が罪に陥って、その神、主がしてはならないと命じたすべてのうちの一つでも、気づかずに行ったが、後になって責めを覚える場合、
27-28節
民衆の一人が、主がしてはならないと命じたことの一つでも行って、気づかずに罪に陥ってしまったが、後になって責めを覚える場合、または、自分が陥っていた罪が知らされた場合には、
後で気がつかされて、悪かった、と思う場合です。他の人から「それは罪だよ」って知らされた場合も含みます。そのように、自分の罪を教えられて自覚する人は祝福されています。聖霊を受けた人はわざと、故意に罪を犯し続けることはできないです。
ヨハネ16:8
その方(聖霊)が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
クリスチャンは聖霊が心の中で警告してくれます。それで「ヤバい…神さまに申し訳ない…」って思いが与えられます。聖霊は直接心の中で警告してくれる時もあるし、信仰の仲間を通して教えてくれることもあります。罪をそのままにして平気ではないはずです。
放っておいて時間が経てば「なかったこと」になりません。むしろ、何年も、思い出すたびに傷つき、思い出す度に悲しく苦しくなります。まるでパン種がパンを膨らませるように、罪は小さくても膨らんでいき、自分を蝕み、そして人間関係を壊し、家族や教会を苦しめます。
ヤコブには十二人の子どもがいましたが、末っ子のヨセフを兄たちはいじめました。最後には、殺そうか、それとも奴隷して売ろうか、という話になり奴隷にして売りました。想像してください。家族の中で、「あいつ殺そうか、それとも奴隷に売ろうか」と話されていることを。
その罪の経験は兄たちを苦しめ続けました。何十年も、ずっと罪の意識に苦しんでいました。罪はちゃんと神様に赦してもらわないと、そして、赦しの宣言を受けない限り、一生ついて回ります。
・もしも、自分から進んで罪を選ぶ人は…
わざと自分から進んで罪をした場合、やり続けて、悔い改めもなく、自分から罪を選び、自分は悪くない、と言い続ける人はどうなるでしょう。実は願った通りになります。赦しはありません。旧約聖書の時代は教えを拒否する人は憐れみを受けることなく望み通りに死刑になっていました。
ヘブル10章28節
モーセの律法を拒否する者は、二人または三人の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死ぬことになります。
ヘブル10章26節
もし私たちが、真理の知識を受けた後、進んで罪にとどまり続けるなら、もはや罪のきよめのためにはいけにえは残されておらず、
今日の箇所は、罪のきよめのためのいけにえです。
罪が示されて、この苦しみから解放されたい、赦されたい、と願う人のための教えです。
罪がわかる人は幸いです。ガッカリすることは神様の恵みです。耳の痛いことを言ってくれる仲間がいることは神様の愛です。その人は赦され、きよめられ、解放されます。
●具体的な手順
①責任者から順番に
4章は民の代表である大祭司が罪を犯した場合、次に会衆全体が罪を犯した場合、次に族長の場合、次に個人の場合、って順番です。内容はほぼ同じです。責任が重い人から順番です。
特に指導者がきよく、罪から離れることは大事です。会衆全体に影響を与える人だからです。族長も同じです。
現代で言えば、教会の指導者や牧師にも当てはまります。執事を選ぶときにも大事です。その人が罪から離れ聖くなければ、教会全体に悪い影響を与えるからです。安易に教会に長く来ているからとか、聖書に詳しいから、とかだけでリーダーになるのは危険です。「私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」(ヤコブ3.1)「だれにでも軽々しく按手をしてはいけません。」(1テモテ5.22)
大祭司は、その立場にふさわしいきよさを保つことが重要でした。普通の人なら許容されるような弱さも、大祭司にとってはより厳しく問われることになっていました。
だから大祭司の罪の赦しのためには最も大きくて貴重なオスの牛が必要でしした。責任が最も大きいからです。その後、会衆全体の罪の場合、族長たちの場合、個人の場合、と続きます。いずれにしても、罪をきよめるためには身代わりの犠牲の動物が殺され、血が流される必要がありました。
②キズのないいけにえに手を置く
3節
油注がれた祭司が罪に陥って、民が責めを覚える場合には、その祭司は自分が陥った罪のために、傷のない若い雄牛を罪のきよめのささげ物として主に献げる。
4節
彼はその雄牛を会見の天幕の入り口、主の前に連れて行き、雄牛の頭に手を置き、主の前でその雄牛を屠る。
大事なのは傷のない動物が連れてこられることです。傷のない動物は全く罪のないイエス様をあらわしています。大祭司や会衆全体の場合は牛、族長たちの場合はヤギ、あるいは羊です。
イエス様がこの地上に来られたときに、預言者ヨハネはこう言いました。
ヨハネ1.29
「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」
イエス様は全く罪のない、傷のない方です。その方が僕らの罪のためのいけにえとして殺されるためにきてくださいました。旧約聖書の時代はこの動物が、まるで自分であるかのようにその頭に手を置きます。手を置くことは一体化を表します。まるで罪人の自分自身かのように神様の前で殺します。神様の前で殺され焼き尽くされる動物は、その人自身とみなされます。
③罪の告白
頭に手を置くときに、その罪を告白したようです。4章には書いてないけど、レビ記全体が罪を認めてそれを告白することの大切さを教えているからです。
レビ記 5章5節
これらの一つについて責めを覚える場合には、自分が陥っていた罪を告白し、
レビ記 16章21節
アロンは生きている雄やぎの頭に両手を置き、それの上で、イスラエルの子らのすべての咎とすべての背き、すなわちすべての罪を告白する。
おそらく、ささげる人は動物の頭に手を置き、自分の罪を告白し、自分の罪をこの動物に背負わせました。そして、まるでその人自身のようにこの動物は殺されます。
④自分の手で殺す
雄牛をほふるのは、自分の手です。本人が自分でその首を切ります。
4節
(彼は)…主の前でその雄牛を屠る。(15、24、29、33も同じ)
ユダヤの伝統的な屠殺方法は鋭利なナイフで頸動脈と気管を一気に切るそうです。血が一気に出てきて、倒れ込んで痙攣しながら死んでいきます。その苦しんで死んでいく動物を見て、本人はこれが「私の罪の結果……」って痛感したと思います。族長たちの場合も、個人の場合も同じです。「いや、これは環境のせいだった」「アイツが悪かった」とか言えない状況です。その人は苦しんで血を流しながら死んでいく動物を見ます。神様は罪の代償の大きさを知らせるため、あえて本人がそれをするように定められたのかもしれません。
⑤その血を振りかける
罪のための動物を殺す場所は聖なる所、幕屋です。主が特別にご臨在され、それをご覧になり、神と人とが会うことができる唯一の場所でした。レビ記が与えられたのはイスラエルがまだ荒野を放浪していた時です。この幕屋は天の模型だといいます。本体は天にあります。「天にあるものの写しと影に仕えています。」(ヘブル8.5)聖なる天の国にはきよめられなければ入ることはできません。
この聖なる所の奥にはさらに聖なる部屋、至聖所があります。そこには巨大な分厚い垂れ幕があって、仕切られていました。神様とお会いする奥の所です。
5節
その油注がれた祭司はその雄牛の血を取り、それを会見の天幕に持って入る。
6節
その祭司は指を血に浸し、主の前で、聖所の垂れ幕に向けてその血を七度振りまく。
その垂れ幕に七度、すなわち、完璧に振りかけました。罪が赦されるために生け贄の血が流されたことを主の前で証明するために、この幕に向かって、血の入った器に指を浸しては振りかけます。一回やるだけで、血がビシャ、っとこの幕にかかります。それを7回繰り返します。幕は血だらけになりますです。七度は完全さを表す数です。
⑥香の祭壇に塗る。
祭司はその雄牛の血を取り、香り高い香の祭壇の四隅の角に塗りつけました。この祭壇は、その上で香りの高い香を焚くためのものです。
7節
祭司はその血を、会見の天幕の中にある、主の前にある香り高い香の祭壇の四隅の角に塗り、その雄牛の血をすべて、会見の天幕の入り口にある全焼のささげ物の祭壇の土台に流す。
香の煙とは、人々の祈りの象徴です。黙示録に書いてある天の礼拝によると、この金の祭壇の煙は人々の祈りを表しています。
黙示録5.8
香は聖徒たちの祈りであった。
黙示録8.4
香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。
祈りを表すこの金の祭壇に血を塗ります。
つまりこの祈りが神様に届くのは、犠牲の血が流されて罪がきよめられゆえです、ということを表します。
僕らの祈りも同じです。祈る時はいつもイエス様の名前によって祈ります。
神様に祈りが届くのはキリストの犠牲の血を通してです。僕らの祈りでありつつ、イエス様が、ご自身の流した血によって、受け入れてくださいと一緒に祈ってくださるかのようです。
僕らの祈りはイエス様による祈りです。
イエス様が、僕らの祈りと一緒に、血が流され、この祈りに赦しのための血が塗られているから、受け入れてください、と祈ってくださるかのようです。
●神様がご覧になるのは血
繰り返しているのは「主の前」です。これらのことをするのは、主の前でする、と繰り返します。
4節
彼はその雄牛を会見の天幕の入り口、主の前に連れて行き、雄牛の頭に手を置き、主の前でその雄牛を屠る。
6節
その祭司は指を血に浸し、主の前で、聖所の垂れ幕に向けてその血を七度振りまく。
7節
祭司はその血を、会見の天幕の中にある、主の前にある香り高い香の祭壇の四隅の角に塗り、
雄牛を連れて来ることも、いけにえを殺すことも、血を振りかけることも、すべてが「主の前」でなされました。人がどう見るかは重要でなく、それは「主の前」で神様に見てもらうため、なされることでした。血が流されるのが「主の前」であるということは、何度も何度も書いてあります。主は血を見てくださいます
この時だけでなく、エジプトで神様の裁きが降った時もそうでした。神様は子羊を家ごとに殺しなさい、と言いました。そして、その血をとって家の門柱と鴨居に塗りなさい、とおっしゃいました。
出エジ12章13節
その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。
礼拝者が良いか悪いか、でなく、人々がいいか悪いかでなく、神様がご覧になるのは流された血です。
僕らの礼拝も奉仕も、祈りも賛美も、いつも不純な動機が混じっていて、きよくありたいと思うけど、いつも変なプライドが混じっていたり、肉の欲が混じっていたりします。でも、それでも、イエス様の血が流され、塗られ、神様が無罪だと認めてくださって奉仕も礼拝も祈りも賛美もきよいものとみなしてもらえ、受け入れてもらえます。
最初から最後までイエス様の十字架の血のおかげです。祈りを香ばしい香りと言ってくださるのは、イエス様の血が塗られ、注がれているからです。神様は、僕らの良し悪しではなくて、十字架の血によって受け入れてくださっています。
※ゴスペルクワイヤー運営チーム時代のめぐみ
もう随分前になります。ブラックゴスペルが流行って、僕も札幌で大きな本格的なゴスペルクワイヤーを立ち上げました。当時のKGK主事と会社員だった僕とあと何人かでチームを作って一緒に立ち上げ、運営していました。みんな夢中になっていたし、僕も20代で本当に楽しかったです。でも、メンバー同士の揉め事もたまにあったの覚えています。運営チームなので対応するのですが、その揉めている話し合いの間中、僕の心にはどういうわけか神様が見せてくれる映像がありました。
それは血だらけ傷だらけになって死んで、十字架から下ろされているイエス様の死体でした。あの血だらけのイエス様の前で、言い争って自分が正しい、相手が悪いってやり合っている状況が恥ずかしくて、虚しくて、無駄な議論にしか思えなくなっていました。熱心になってイエス様の十字架から離れていきがちなのは僕らの現実だと思います。
熱心に祈るとこととか、賛美することとか奉仕することは良いことだけど、熱心だから受け入れられるのでなくて、イエス様の十字架の血によって赦され、受け入れられます。
熱心な奉仕とか能力とか、その人の正しさが教会の中心になって、イエス様の十字架の血が霞んでいくなら、そんな熱心さとか能力は邪魔でしかありません。罪を取り除けるのは、イエスの尊い血だけです。
教会の中心は十字架です。あの犠牲です。礼拝も賛美も祈りもイエス様の十字架の血によってだけきよめられ、受けいれられます。
ガラテヤ 6:14
しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。
誰が執事になるとか、誰が宣教のために送り出されるとか僕らは今考えています。大事なのは能力とか権力とか熱心さとかその人の良さではなくて、その人がイエス様の十字架の血によってだけ赦され、きよめられ、受け入れられて用いられることです。
僕の弱点ですが、神様を賛美しているとき、音楽のコードとかメロディとか、そっちを大きく考えてしまいます。でも、神様が願っておられる捧げものはそこじゃないです。
イエス様がご覧になるのは旋律や和音の良さではなくて、その歌詞が十字架につけられたキリストを歌い感謝していることです。僕らが歌うとき、十字架の血による赦しと愛と回復を感謝しいつもそれを思って歌うるなら、今の歌よりもずっと素晴らしい、聖なる歌になります。
ヘブル12章2節
信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。
※悔い改めた神学生
これも何年も前になるけど、ある神学生から相談がありました。彼はいよいよこれから教会の働きに就こうとしているんだけど、自分は働き人としてふさわしくない、っていう内容でした。一緒に人に言えない罪を告白して、一緒に謝って、イエス様の十字架の血によるきよめと赦しを信じて祈り、僕も赦しのみことばを読んで、赦されされていることを宣言をしました。彼は、赦されたことは嬉しいけど、それでもこんな自分は神様の働きにはふさわしくないし、すべきじゃないと思うと言いました。
僕はそれを聞いて、確信持って真逆だと思いました。いろんな伝道者がいるけど、この人こそ最もふわさわしいと思いました。この人に誇りがありません。罪と汚れしかありません。その人は自分を推薦することもできません。唯一、彼が持っているものはイエス様の十字架の血による赦しときよめ、それ以外に彼は何も持っていないのです。こういう人こそ、イエス様の十字架を純粋に、その愛とめぐみだけを伝える人になれると思いました。何を伝えるのか?神学校で成績が良かったとか、真面目だったとか、そんなことは中心ではなく、僕らが伝えるのは十字架のめぐみです。
神様がご覧になるのは血です。そして僕らが伝えるのも血です。
汚れた人が受け入られれ、用いられるのは、神様がその人を見るのでなく、その十字架の血をご覧になるからです。あの血によってきよいと宣言され、赦され、用いられる、それだけです。
僕らが死を目前にした、危篤の人に話しかけることができるとしたら、最後の会話になるかもしれない病気の人に僕らが伝えるべきことはただ一つです。十字架によって、流された血によって、あなたの罪はゆるれた、それを信じてほしい、それだけです。
この方以外にきよめられ、赦され、受け入れられる道はありません。この方以外に救われる名としては人間に与えられていません。
教会の中心は十字架です。十字架以外に誇るものはありません。
ーーー考えてみましょうーーー
御霊によって示され、責められている罪はありますか?
もしあったらイエス様の前に具体的に告白してきよめてもらいましょう。
必要なら信頼できる仲間に一緒に祈ってもらい、赦しのみことばを読んでもらいましょう。
赦しのみことば
(1ヨハネ1.9)
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。
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