2023年10月26日木曜日

1ヨハネ4.13-21

 1ヨハネ4.13-21


私たちには「会いたい人」と「避けたい」人がいます。「会いたい人」は自分を肯定し、喜び、受け入れ、さばかないタイプの人です。「避けたい人」は裁き、文句をいい、罰を与える人です。あなたにとって神様は「会いたい人」でしょうか。それとも「避けたい人」でしょうか。「避けたい」人は自分は神様に裁かれる、受け入れられていない、と思う人です。

僕らには欠点があり罪があります。それでも神様は僕らを愛し、肯定し、喜び、受けれ入れてくださっています。理由は罪の裁きと呪いをイエス様が引き受け、十字架によって身代わりに裁かれ、神様の怒りをなだめ、僕らをきよめ、無罪としてくださったからです。僕らは神様に裁かれることはありません。神様の愛を信じた僕らはキリストと一緒に裁かれ、死んで、完全なものとして復活した人とみなされます。(ローマ6.6-8、コロサイ2.12など)最後の審判の日にも裁かれることはありません(17)



(16)

16,私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。

17,こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。



恐れる人は「受け入れてもらえないかも…」「さばかれるかも…」と思う人です。コワイので背伸びして良い人に見せようとしたり、繕ったり隠したりと痛々しいです。一方、神様の愛と赦しと義ときよめを信じる人は安心できます。それは恐れを締め出します。神様の完璧な愛とはイエス様の犠牲です。



(18-10)

18,愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。

19,私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。



これを知った人は神様と兄弟姉妹を愛する人に変えられます。自分の愛ではなく神様の愛が御霊によって与えられているからです。



(13)

神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。



聖書によると、神様からの愛は相手のため、神様のために十字架を背負って自分を捨てることだと言います。(マタイ10.38-39、1ヨハネ3.16など多数)イエス様は自分を苦しめる罪人のため、敵のために十字架でご自分を捨ててくださいました。ここに愛があるのです。(1ヨハネ4.9-10)イエス様は敵を愛し、迫害する人のために祈りなさい、とおっしゃいます。(マタイ5.44)



(20-21)

20,神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。

21,神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。



今度は自分の番です。神様は罪のある僕らを赦し、受け入れ、犠牲を払って愛してくださいました。僕らの番です。神様を愛し、兄弟姉妹を愛します。周りがいい人だからではありません。イエス様がご自分を捨てて愛してくださったからです。自分を愛してくれる者を愛しても神様の前では価値がありません。(マタイ5.46)愛は都合のいい相手を求めることでも性欲や承認欲求を満たすためのものでもありません。愛は相手のため、神様のために十字架を背負って自分を捨てることです。


僕らの頑張りとか心がけではありません。「愛は神から出ているのです。」(7)思い通りにならなくても大丈夫です。見返りがなくても大丈夫です。逆ギレされても大丈夫です。死んでも大丈夫です。神がまず私たちを愛してくださったからです。安心して従いましょう。神様の愛が僕らの中に満ちています。後はそれを表すだけです。ハレルヤ!




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