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2025年9月5日金曜日

詩篇80篇

 詩篇80篇


人生苦しいこと、悲しいこといろいろあるけど、その一つ一つを取り去ろうとしても終わりません。それらの問題の一つ一つは根から出る悪い実のようで、問題は実は根っこにあります。それは僕らが神様から愛され、喜ばれ、守られ、祝福されているという神様からの視線を受けられなくなっていることです。


子どもは愛され応援され安心しているときに力を発揮します。失敗を恐れないでのびのびと動きます。でも、無視され、嫌われていると感じるなら、不安で怖くて体は動かなくなり、そこから出る悪い実のような結果を生み出してしまいます。


回復のために一番必要なのは、神様から愛と平安と祝福の御顔を向けてもらい、それを受け取ることです



"神よ私たちを元に戻し御顔を照り輝かせてください。そうすれば私たちは救われます。"

詩篇 80篇3節



イスラエルは神様の子どもでありながら、自分から神様を拒絶し悲しませ、神様の愛の御顔を遮ってしまいました。神様からの光や祝福を自分から拒み、その結果、彼らは外国に攻撃され、搾取され、ボロボロにされています。


"あなたは私たちを隣人らの争いの的とし私たちの敵は私たちを嘲っています。"

詩篇 806


"なぜあなたはその石垣を破り道を行くすべての者がその実を摘み取るままにされるのですか。

林の猪はこれを食い荒らし野に群がるものもこれを食らっています。

万軍の神よどうか帰って来てください。天から目を注ぎご覧になってください。このぶどうの木を顧みてください。

あなたの右の手が植えた苗とご自分のために強くされた枝とを。

それは火で焼かれ切り倒されています。民は御顔のとがめによって滅びています。"

詩篇 801216


問題の一つ一つを解決するよりも、問題の根を取り除くことが大事です。それはもう一度神様のあの喜びの御顔を向けてもらうことです。詩篇80篇は何度もそのフレーズを繰り返します。



"万軍の神よ私たちを元に戻し御顔を照り輝かせてください。そうすれば私たちは救われます。"

詩篇 80篇7節



"万軍の神主よ私たちを元に戻し御顔を照り輝かせてください。そうすれば私たちは救われます。"

詩篇 80篇19節


教会が何千年も大事にしてきた祈りは、あの優しい愛と祝福と恵と平安に満ちた力に満ちた神様の御顔を求める祈りです。神様に喜ばれ、愛され、祝福されてさえいれば僕らは力を得ます。



"主があなたを祝福し、あなたを守られますように。

主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。

主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』"

民数記 6章24~26節



問題が問題なのではなく、神様の優しい喜びの視線を受けられなくなってしまった罪が問題です。罪があると僕らは神様を避けたがります。

それでも神様は諦めていません。イエス様が十字架で流された血潮は、僕らのすべての罪を赦し、もう一度喜びの子、愛する子と呼んでくださり、祝福の御顔を向けてくださっています。僕らはイエス様ゆえに愛されています。あの血によって神様の愛と祝福の視線が注がれています。大丈夫です。今日も僕らは神様の喜びの子、愛する子です。恐れる必要はありません。ハレルヤ!

 



2025年9月4日木曜日

詩篇79篇

 詩篇79篇

2025年7月15日火曜日

詩篇78.40-72

 詩篇78.40-72


関係ない人から悪いことをされるよりも、愛する人、信頼する人、期待する人から裏切られたり傷つけられる方がずっとダメージは大きいです。

神様にとってイスラエル人たちは、愛する妻のよう、愛する子どものようだと書かれています。

そして神様はそのイスラエル人たちに裏切られます。その悲しみは、神様にとって深く大きなものです。神様は悲しみ、痛む方です。いつもニコニコして傷つかない存在ではありません。



"幾たび彼らは荒野で神に逆らい荒れ地で神を悲しませたことか。

彼らは繰り返し神を試みイスラエルの聖なる方の心を痛めた。

彼らは神の力も神が敵から贖い出してくださった日も思い起こさなかった。

神がエジプトでしるしをツォアンの野で奇跡を行われたことを。"

詩篇 78篇40~43節



僕らも経験します。愛する人に裏切られて苦しむ時、それは神様が人によって傷つけられることと似ています。僕らの悲しみは神様の悲しみを共有する体験です。イエス様はまさにそのような方です。イエス様は愛する弟子に売られ、父である神様から引き離され、悲しみ、苦しんだ方です。



(イザヤ 53:3)

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。

人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。



イスラエル人たちは愛されながら神様を無視し、離れて行きました。神様の恵みや愛はことごとく忘れていきます。奴隷で苦しんでいたところを救われ、奇跡の連続で乳と蜜の流れる豊かな場所に導かれたはずでした。だのに、彼らは偶像を求めて拝みます。



(42-43節)

彼らは神の力も神が敵から贖い出してくださった日も思い起こさなかった。

神がエジプトでしるしをツォアンの野で奇跡を行われたことを。



神様は本気で怒る神様です。それは本気で愛しているからです。



(56-59節)

けれども彼らはいと高き神を試み神に逆らいそのさとしを守らなかった。

彼らは元に戻り先祖たちのように裏切りたるんだ弓の矢のようにそれて行った。

また高き所を築いて神の怒りを引き起こし刻んだ像で神のねたみを起こさせた。

神は聞いて激しく怒りイスラエルを激しく退けられた。



僕らは神様を忘れる時に他の何かで満たされようとしがちです。神様の愛を忘れると神様にも隣人にも不満と欠点ばかり数えはじめます。


ところが、神様の御霊はそれとは真逆です。御霊は神様のことばや恵みの数々を思い起こさせてくれます。(ヨハネ14.26)御霊は僕らを感謝と賛美へと導きます。そして他人の悪は思わなくさせてくれます。(1コリント13.5)


今日、もう一度御霊によって神様がしてくれたことを一つ一つ思い出し、数え上げて感謝しましょう。御霊はもう住んで下さっています。御霊は神様の愛とめぐみを教えてくれています。「わがたましいよ主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩篇103.2)神様のめぐみを数え賛美することは神様の喜びです。御霊と一緒に感謝しましょう。僕らにはもうすでに新しい心が与えられています。「賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」(ヘブル13.15)ハレルヤ!



2025年7月14日月曜日

詩篇79.1-39

 詩篇79.1-39


ほっこりしたいい感じの優しい神様だよね、って伝えたいんだけど、やっぱり聖書を読むと、伝えているのは怒りの神様だし、神様の怒りを受けて殺された人たちの悲惨さです。他人の悲惨な結末を伝えるのは気が引けるけど、聖書は明らかに神様を軽んじた結果どうなるか伝えています。そして次の世代にもその恐ろしさを伝えるように、さらに、次の世代がその次の世代に伝えるように、と言います。それは人々が裁かれることなく救われるためです。



"後の世代の者生まれてくる子らがこれを知りさらに彼らがその子らにまた語り告げるため

彼らが神に信頼し神のみわざを忘れずその命令を守るために。

先祖たちのように強情で逆らう世代心定まらない世代霊が神に忠実でない世代とならないために。"

詩篇 78篇6~8節



神様はイスラエルを愛し、選び、救い出し、何もない荒野でパンを食べさせ、水を飲ませ、肉を食べさせてくれました。でも彼らは不満ばかりで神様を信頼せず、愛さず、ついに神様の怒りは燃え上がってその世代ほぼ全員が滅ぼされました。



"そのとき彼らは神に逆らって言った。「荒野で食事を備えることが神にできるのか。

確かに神が岩を打たれると水が湧き出て流れがあふれた。だが神はパンも与えることができるのか。民のために肉を用意できるのか。」

それゆえ主はこれを聞いて激しく怒られた。火はヤコブに向かって燃え怒りはイスラエルに向かって燃え上がった。

これは彼らが神を信じず御救いに信頼しなかったからである。"

詩篇 78篇19~22節


"神の怒りが彼らに向かって燃え上がり彼らのうちの最も頑丈な者たちを殺しイスラエルの若い男たちを打ちのめした。

これらすべてにもかかわらず彼らはなおも罪を犯し神の奇しいみわざを信じなかった。

それで神は彼らの日を一息のうちに彼らの齢を突然の恐怖のうちに終わらせられた。"

詩篇 78篇31~33節



神様が次の世代に伝えるように願っているのは「神の怒りと裁き」です。なんとなく神話とかおとぎ話っぽいと思われるけど、本当です。これがハッキリわかるように、イエス様は神の怒りと裁きを受けるために地上に来られました。神様に呪われ、十字架の上で悲惨な死に方をされました。イエス様の十字架は神の怒りと呪いです。

神様が僕らに知ってほしいことは神の怒りと裁きです。そして、その呪いをイエス・キリストが身代わりに引き受けてくれたことです。



"キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。"

ガラテヤ人への手紙 3章13節



イスラエルの歴史は、神の怒りの歴史です。そんなイスラエルを神様は滅ぼし尽くすことはせず、イエス様を地上に送り、神の怒りのためのなだめとされました。僕らへの神様の怒りはイエス様が身代わりに受けてくれました。



"しかし神はあわれみ深く彼らの咎を赦して滅ぼされなかった。怒りを何度も抑えて憤りのすべてをかき立てられることはなかった。"

詩篇 78篇38節



"この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。"

ヨハネの手紙 第一 2章2節



イエス様の十字架での呪いと死は、神様がどれだけ本気で怒ってるかハッキリ表しています。そして、同時に、それを引き受けてくださるイエス様のとんでもなく大きな愛を表しています。

僕らは赦されました。怒りを受けなくても大丈夫です。

聖書が伝えているのは、本気で怒り、殺す神様です。そして、身代わりになって赦してくださる神様です。これが福音であり真理です。

「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。」(ヘブル10.26-27)


今日もただ感謝しましょう。主を恐れ、主に従いましょう。福音はただほっこりした話ではありません。神様の本気の怒りと、本気の愛です。主を恐れます。ハレルヤ!