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2024年10月17日木曜日

ピリピ4.10-20

 ピリピ4.10-20


神様は手伝ってもらわなくても良いはずなのに、いつも人を通してこの世界を愛して福音を伝えます。神様の願いは効率ではなく、共同作業です。そもそも、神様はお金に困っていないし、力も十分です。手伝いは不要です。でも、僕らが神様を愛するゆえに一緒に働き、福音を伝えることこそが神様の喜びです。


同じように、宣教師に求められていることも効率ではありません。ひとりぼっちで頑張ることではなく、送り出し祈ってくれる教会に愛し愛され、尊敬され尊敬する中で苦労を分かち合うことです。


パウロは、福音を伝えて投獄され、貧しくなり、苦労しました。が、彼の喜びはそれを自分のことのように喜んでくれる教会の仲間がいることです。



(ピリピ人への手紙 4章10節)

私を案じてくれるあなたがたの心が、今ついによみがえってきたことを、私は主にあって大いに喜んでいます。あなたがたは案じてくれていたのですが、それを示す機会がなかったのです。



(ピリピ人への手紙 4章13~18節)

私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。

それにしても、あなたがたは、よく私と苦難を分け合ってくれました。

ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、福音を伝え始めたころ、私がマケドニアを出たときに、物をやり取りして私の働きに関わってくれた教会はあなたがただけで、ほかにはありませんでした。

テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは私の必要のために、一度ならず二度までも物を送ってくれました。私は贈り物を求めているのではありません。私が求めているのは、あなたがたの霊的な口座に加えられていく実なのです。

私はすべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロディトからあなたがたの贈り物を受け取って、満ち足りています。それは芳ばしい香りであって、神が喜んで受けてくださるささげ物です。



モノやお金をやりとりして助け合う事は、実務的なこと以上に神様への香ばしい香りのようです。神様が求めているのは効率ではありません。お金でもありません。神様の働きを、自分のこととして共有することです。宣教師の働きを自分のこととして時間もお金も共有し、分け合い、与えあうことです。それはまるで、霊的な口座に貯金が増えていくかのようです。「霊的な口座に加えられていく実」と聖書は表現します。(17)


宣教師は大事です。同時に、彼を送り出す仲間たちの存在はそれ以上に大事です。神様が求めているのは、贈り物とか献金ではなくて、その働きを自分のこととして共有していくことです。その時に実際的な必要も満たされていきます。


(ピリピ人への手紙 4章19節)

また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。



天で喜ばれることは僕らの内側にも喜びとなって溢れます。だから祈り、分け合い、行動で表していきましょう。何も失うものはありません。それどころか、喜びも日々の必要なものもすべてが満たされいきます。ハレルヤ!

2024年10月16日水曜日

ピリピ4.4-6

 ピリピ4.4-6

ピリピ2章-3章

 ピリピ2章-3章


文句を言ったり疑うことがまるで正しい権利かのように思われがちだし、僕もそう思っていました。批判的な考えや発言ができる人は賢く良い人で、そうでない人は頭が悪い人と言いたげです。パウロは学歴も地位もある賢い人だったし、その経歴は誇りでもありました。そんな彼が言います。「私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。」(3章7節)比べられない知恵と力をお持ちの方はイエス様です。この方は神様です。そのイエス様がすべてを捨てて、まるで愚かな人のようにしもべの立場に立ち、人に仕え、嘲られる側になってくださいました。



(ピリピ人への手紙 2章5~9節)

キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、

ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、

自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。



聖書はあなた方もそうありなさい、といいます。相手を上の人だと思い、敬うことです。不平不満を並べたり欠点を探したり疑うのやめなさいといいます。



(2章3節)

何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。


(2章14節)

すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。



自分が賢く正しい人のように振る舞うのでなく、人の下で仕えることを選ぶことは、暗いこの世の中で光のように輝くことだと言います。疑ったり、ぶつぶつ言うこととは真逆です。邪悪で暗い世の中で一緒になって不満を並べるなら光を輝かせることができません。



(2章15~16節)

それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、

いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。



イエス様でさえご自分の立場を捨てて、愚かな罪人を愛し、仕えてくださっています。それこそが闇の中の光です。パウロは人間の知恵や力や正しさを求めて誇ることは全部ゴミだといいます。



(3章7節)

しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。



文句を言わず疑わない人は愚かな人ではありません。イエス様の心で相手を愛し、尊敬し、仕え、不平を言わずに感謝と喜びで奉仕する人こそ純真で傷のない神様の子どもであり世の光です。全てを捨ててくださったイエス様は何も失っていません。逆に神様は「高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。」(9)

だから僕らも自分の権利や考えを手放しても大丈夫です。バカにされても見下されても神様の前では何も失われていません。文句を言われて忍耐し相手を赦し祝福するなら天では大喝采です。この世の栄光ではなく、天の栄光と賞は用意されています。(3.14)大丈夫です。安心して人に仕えましょう。主のために手放しましょう。ハレルヤ!

2024年10月10日木曜日

ピリピ1.1-11

 ピリピ1.1-11


パウロが書いた手紙はイエス様の心そのものです。ピリピの教会の皆さん一人一人のことを思い出し、そのたびに溢れる感謝と喜びはパウロから出たものでなく「キリスト・イエスの愛の心」(8)です。



(8節)

私がキリスト・イエスの愛の心をもって、どんなにあなたがたすべてを慕っているか、その証しをしてくださるのは神です。



パウロは教会の一人ひとりの名前を挙げて神様に感謝しています。それは神様の喜びであり祈りです。イエス様の御霊が仲間を慕い、一緒に奉仕することを喜んでおられます。「良い働きを始められた方」は神様です。そして一緒に奉仕するのを喜んでくださるのもまた神様です。神様の思いは祈りに現れます。祈りの中で思い慕い、感謝することは神様の心そのものです。



(3~6節)

私は、あなたがたのことを思うたびに、私の神に感謝しています。

あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、

あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。

あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。



ピリピ教会に与えられた愛は順調な時だけのものでなく、パウロが迫害を受けて投獄された時も変わりませんでした。「あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明し立証しているときも、私とともに恵みにあずかった人たち」とあります。(7)この世の愛とは違います。イエス様から与えられる愛は苦しみの中でも変わらずに与えれるものです。

神様の願いは、このイエス様の愛が僕らの中にもっと、知識も識別力も与えられてものごとを見分けていくことです。神様の前でゴミであり非難されるような余計な考えは今から捨てて、神様の心と僕らの心が一つになることは神様の栄光の現れです。



(9-11節)

私はこう祈っています。あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、

あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。



今日も神様が教会の仲間を喜んでくださっています。神様が一人一人のことを思い、喜んでおられます。その思いが僕らにも与えられ、これからも増えていきます。僕らは変えられ続けます。神様の心で互いに愛し、互いに喜ぶものにされ、純真なものになっていきます。

僕らも教会の仲間たち一人一人を思って喜び、感謝しましょう。イエス様が血を流すほどに愛し喜んでいる教会の仲間たちです。ハレルヤ!




2023年1月19日木曜日

ピリピ1.1-11

 聖書には祈りのお手本が書かれています。パウロはピリピにいるクリスチャンたちの顔を一人一人思い出しては神様に感謝し、喜びました。彼らはイエス様を信じるようになっただけでなく、一緒に協力したいと思い、献金したり、祈ったりしてくれたようですパウロは彼らがしてくれたことを一つひとつ思い出して神様に喜んで感謝しています。仲間の一人一人のことを感謝するのは祈りの基です


(3-5節)

私は、あなたがたのことを思うたびに、私の神に感謝しています。

あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、

あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。


クリスチャンが神様を選んだというより、神様がクリスチャンを選び、任命してくださいました。(ヨハネ15.16)そして、信仰だけでなく、愛も行動も与えてくださってます。スタートさせてくださったのは神様ですそして最後まで成し遂げてくださるのも神様ですこれは僕らにも適用できます。未来は良いことだけが用意さえています。


(6-7節)

あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。

あなたがたすべてについて、私がこのように考えるのは正しいことです


この祈りは僕らのお手本です周りのクリスチャン一人一人の顔を思い出して神様に感謝しましょう。神様が彼らを選んでくださいました。すでに神様の働きに協力したい、という気持ちも愛も与えられています。今は小さな気持ちでも、その人は神様にお仕えしたいと思っています。信じた人には必ず聖霊がその体に住んで、神様のために協力したいと思っています。そしてその愛は必ず成長します。神様は将来「それを完成させてくださる」と確信しましょう。(6節)今、どんなに小さな信仰であっても、信仰者の愛は必ず成長し、知識も成長し、霊的な識別力も増えます。全てが神様の働きです素晴らしい未来が待ってます。こう考えるのは正しいです。(7節)


(9-11節)

私はこう祈っています。あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、

あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、

イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。


今は欠点があっても、将来は「純真で非難されない者」になります。それを確信して喜んで祈っていくのは僕らクリスチャンの役目です

周りのクリスチャン全員が、たとえ今はどんなに小さく弱くても成長します。感謝しましょう。一人一人名前を挙げて神様に感謝しましょう。愛も知識も識別力も豊かに与えられます。そのように考えるのは「正しいこと」だし確信です。仲間の存在を感謝しましょう。喜びましょう。

主は良いものを与えてくださいます!ハレルヤ!

ピリピ2.12-16

 クリスチャンは、一生のびしろがあります。神様は僕らの心に「もっとイエス様に従いたい!」という気持ちを与えてくださいます。


13

神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です


神様が与えてくださる「志」は、従順になりたい!というものです


12

こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。


僕らはイエス様を信じることで全ての罪は赦されて救われます。聖なる神様の子どもになりました。…ですが、実際にイエス様に従うようになるには時間がかかります。救われていますが、完成されるまでイエス様に従うことを「達成するように努めなさい」と書かれています。イエス様に従うことは、自分を捨てて行くことですイエス様がお手本です


(6-8節)

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、

ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、

自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。


まず、イエス様が全てを捨てて、十字架の上で殺されるまで自分を捨ててくださいました。イエス様にならって僕らも自分を捨てて行くと、なんと自分がなくなってしまう、ということはなく、逆に自分が純真になって行き、世の光として輝くようになってきます。


15-16節)

それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、

いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです


僕らの成長は止まることがありません。ずっと次の課題が与えられ続け、一生イエス様に似たものへと変えられ続けます。自分を手放すだけ、イエス様の栄光が現されます。生活を変えたい、人生を変えたい、という志が今日も与えられています。それをさせてくださるのも神様です


神様は僕らを放って置かないです。一生成長させ、変化させ続けてくださいます。今日神様から与えられている「志」は何でしょう。文句を言わず、感謝して実行しましょう。(14)僕らは一生イエス様に倣って、謙遜と従順な新しい傷のない子どもに変えられつづけます!


13

神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です

ピリピ3.1-11

 

新型ウイルスの感染を防ぐため、僕らはうがいや手洗いをしマスクをして守ろうとします。同じように、悪魔はあらゆる方法で心に悪意、高ぶり、敵意、盗み、淫行、党派心などを感染させようとします。その予防と安全の最大の方法は、主にあって喜ぶことです僕らがイエス様に感謝し、イエス様の恵みを喜ぶことは「あなたがたの安全のため」だと聖書は言います。「キリスト・イエスを知っていることのすばらしさ」(8節)を喜ぶことは安全です


(1)

最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。私は、また同じことをいくつか書きますが、これは私にとって面倒なことではなく、あなたがたの安全のためにもなります。


「主にあって喜ぶ」ことはただおもしろいことをゲラゲラ笑うことでなく、主が良くしてくださったことを数え上げ、その恵みと大きさを感謝して喜ぶことです自分が何かをした自慢でなく、神様が良くしてくださったことの喜びです


それと正反対に、警戒すべきことは喜びと感謝のない律法主義です。パウロは「イエス様が十字架で処刑を受けてくださって、あなたがたは赦され、きよめられた!」と感謝と喜びを伝え、それ信じて喜ぶ人たちもどの町でも増えてきました。ところが、その後を追いかけるように「信じただけではいけない。割礼男子は性器の皮を切ってこの人は神様のもの、という印にすること)を受け、旧約聖書の律法をキッチリ守らなければ天国に行けない」と教えて新しいクリスチャンの喜びをつぶして歩く人たちがいました。聖書は彼らのことを「犬ども」「悪い働き人たち」と読んでいます。犬はこの当時は蔑称でした。


(2-3節)

犬どもに気をつけなさい。悪い働き人たちに気をつけなさい。肉体だけの割礼の者に気をつけなさい。神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです


神様の聖霊をいただいて、喜んでいる人たちこそが神様のものですその人たちはキリストだけを自慢し喜びます。表面的な儀式や形を守ることではありません。


律法主義者たちは自分の行いとか、家柄とか学歴とか熱心さを自慢していました。パウロも昔は同じように行いや儀式を自慢する律法主義者だったので、自慢なら自分もできる、と言います。でもキリストの素晴らしさを知った今は、過去のそのような自慢はみんなゴミだと言い切ります。


(4-8節)

ただし、私には、肉においても頼れるところがあります。ほかのだれかが肉に頼れると思うなら、私はそれ以上です

私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人(厳格に律法を守るグループ)その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。

しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。

それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。


パウロは「なんと詰まらないことを自慢していたのだろう。」「それらは全部ゴミだ」と思うようになりました。それらは、神様のために何の役にも立たないし、逆に喜びも感謝も失わせるものばかりです


敵は僕らを感染させようと狙っています。喜びを感謝を失わせ、こうしなければ、ああしなければ、という形を作らせ、うまく行けば自慢させ、神様の恵みとその喜びを消そうとします。感染予防は神様の恵みを喜ぶことです。主を喜ぶことは「あなたがたの安全のため」です。今日も感謝しましょう。主を喜びましょう。


(1テサ 5:16-18)

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです

ピリピ3.12-21

 僕らは過去のことをくよくよと考えたり、昔の思い出にすがりがちですが、聖書は振り返らないで前を向くようにと教えています。クリスチャンは毎日新しく変えられ続けています。その先のゴールは天で神様からいただく栄光です

まるでスポーツ選手が賞を目指すように、神様からの栄光をいただくことだけを目指すようにと聖書はすすめています。


(12-14節)

私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです

兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです


パウロは自慢の過去がありました。頑張って律法を守って神様に認められようとしてきたし、生まれも育ちも良かった、という自慢です。でも、そんなことゴミだと言っています。(8節)僕らも「あの時は良かった」とか、クリスチャンになった後の思い出を「あの時は熱心に伝道した、あの時は熱心に祈った、あのときの仲間は良かった」と言って過去に戻りたがることがあります。神様が良くしてくださったことを忘れずに感謝することは素晴らしいことですが、(詩篇103篇)でも、今の場所がスタートですここからさらに神様に喜ばれるゴールを目指すことが聖書の教えです。


(15-16節)

ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、そのことも神があなたがたに明らかにしてくださいます。

ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです


僕らはいつも次の恵みやステップが用意されています。苦しみもあるけど、人生の先には神様の希望と恵みと祝福に満ちています。苦しみの中でも神様に向かって目をあげて歩んでいれば大丈夫です。過去のことでくよくよしなくても、過去の実績にすがる必要もありません。


パウロは「私をみならいなさい」と言います。それは、過去を捨て、自分の栄光を捨て、十字架で人のために苦しんでくださるキリストにならう私に倣いなさい、という意味です。つまり十字架のキリストに倣いなさい、ということです。自分を捨てる人こそが高められ、栄光と冠が与えられます。逆にこの世の富や欲望や名誉を求める人のゴールは滅びです


(17-19節)

兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。

というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからですその人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです


この世の評価や栄光は消えていきます。栄光と賞賛は天にあります。僕らがいるべきところは天です今はまだまだ罪に悩み、不自由ですが、でも、将来必ず栄光に輝く人に変えられることが約束されています。


(20-21節)

しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。

キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。


ゴールを見上げましょう。栄光が用意されています。目標は天の栄光です。この世のものは消えていきます。僕らの心が希望と栄光への期待で満ちますように。ハレルヤ!

ピリピ4.1-9

 心配や落ち込みは放っておくとまとわりついてきます。そんな僕らに聖書は何度も喜びなさい、感謝しなさい、と繰り返します。僕らは神様に愛される、宝物です僕らのことを「冠」とさえ言ってくださる神様です思うよりずっと愛されています。


1

ですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。このように主にあって堅く立ってください。愛する者たち。


4

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。


心配は尽きません。また敵である悪魔も僕らの心の目を曇らせ、希望や平和を見えなくさせます。僕らは苦しみに会いますが、その中でも神様の素晴らしさは輝いています。神様に感謝し、どんな心配も願いもこと細かに神様に報告しなさいと聖書は教えます。会社で良く言われるのが「ほうれんそう」ですどんなことでも上司に報告(ほう)、連絡(れん)、相談(そう)です。神様に報告、連絡、相談しするなら必ず平安が与えられます。これは神様の約束です


(6-7)

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。


苦しみの中で神様に感謝して全部の出来事を「ほうれんそう」している人には平安と喜びがあります。苦しいはずなのに寛容さが与えられます。それこそが福音です神様に感謝し愛されていることがわかると、人にも寛容になれます。それをまず自分が体感して、他の人にも知らせなさい、と聖書は言います。


5

あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです


ピリピ教会の中にはリーダー同士の不一致があったようです問題は意見の違いではなく、神様への感謝と喜びが減っていることです感謝と喜びが減ると平安も寛容さも減っていきます。神様との愛と感謝の関係は全ての人間関係を癒します。どちらが正しいか議論するのではなく、不完全な僕らを愛し赦してくださっている神様への感謝と喜びこそが解決です


(2-4)

ユウオディアに勧め、シンティケに勧めます。あなたがたは、主にあって同じ思いになってください。

そうです、真の協力者よ、あなたにもお願いします。彼女たちを助けてあげてください。この人たちは、いのちの書に名が記されているクレメンスやそのほかの私の同労者たちとともに、福音のために私と一緒に戦ったのです

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。


今日も僕らが神様への感謝と喜び、そして「ほうれんそう」の中で与えられる平安で満たされますように!ハレルヤ!

ピリピ4.10-23

 困っている人に援助することも、神様のために献金することも、それは相手に連帯することですパウロは宣教に連帯してお金や物を送ってくれた人たちのことをすごく喜んで書いています。


10-11節)

私を案じてくれるあなたがたの心が、今ついによみがえってきたことを、私は主にあって大いに喜んでいます。あなたがたは案じてくれていたのですが、それを示す機会がなかったのです

乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。


14節)

それにしても、あなたがたは、よく私と苦難を分け合ってくれました。


宣教は宣教師だけがすることではありません。キリストのための苦しみも宣教師だけがすることでなく、教会の一人一人が連帯することです。教会はキリストの体であり、苦しみも分け合う共同体です。パウロは「あなたがたは、よく私と苦難を分け合ってくれました。」と書いています。しかもパウロは「お金をください」とお願いしたことはありません。聖書が伝えているのは、神様のために犠牲を払って献金や物をささげることによって、霊的に祝福されることです


(17-18節)

私は贈り物を求めているのではありません。私が求めているのは、あなたがたの霊的な口座に加えられていく実なのです

私はすべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロディトからあなたがたの贈り物を受け取って、満ち足りています。それは芳ばしい香りであって、神が喜んで受けてくださるささげ物です


ささげものをすると、まるで口座残高が増えるように霊的な実が増えます。僕らの持ち物が減るどころか、むしろそれは増え、必要は満たされ、感謝も惜しみない愛も増えていくと聖書は言います。


19節)

また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。


(2コリント 9:10-11)

蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです


献金はキリストと連帯し、宣教の働きに連帯することですお金の苦しみを分け合うことは痛みを伴うように見えます。でも、実際はそこにこそ喜びと感謝があり、霊的な実があります。お金をささげることは祝福しかありません。主の前には良いことしかありません。この喜びを全ての人が体験しますように!