2024年10月16日水曜日

ピリピ2章-3章

 ピリピ2章-3章


文句を言ったり疑うことがまるで正しい権利かのように思われがちだし、僕もそう思っていました。批判的な考えや発言ができる人は賢く良い人で、そうでない人は頭が悪い人と言いたげです。パウロは学歴も地位もある賢い人だったし、その経歴は誇りでもありました。そんな彼が言います。「私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。」(3章7節)比べられない知恵と力をお持ちの方はイエス様です。この方は神様です。そのイエス様がすべてを捨てて、まるで愚かな人のようにしもべの立場に立ち、人に仕え、嘲られる側になってくださいました。



(ピリピ人への手紙 2章5~9節)

キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、

ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、

自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。



聖書はあなた方もそうありなさい、といいます。相手を上の人だと思い、敬うことです。不平不満を並べたり欠点を探したり疑うのやめなさいといいます。



(2章3節)

何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。


(2章14節)

すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。



自分が賢く正しい人のように振る舞うのでなく、人の下で仕えることを選ぶことは、暗いこの世の中で光のように輝くことだと言います。疑ったり、ぶつぶつ言うこととは真逆です。邪悪で暗い世の中で一緒になって不満を並べるなら光を輝かせることができません。



(2章15~16節)

それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、

いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。



イエス様でさえご自分の立場を捨てて、愚かな罪人を愛し、仕えてくださっています。それこそが闇の中の光です。パウロは人間の知恵や力や正しさを求めて誇ることは全部ゴミだといいます。



(3章7節)

しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。



文句を言わず疑わない人は愚かな人ではありません。イエス様の心で相手を愛し、尊敬し、仕え、不平を言わずに感謝と喜びで奉仕する人こそ純真で傷のない神様の子どもであり世の光です。全てを捨ててくださったイエス様は何も失っていません。逆に神様は「高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。」(9)

だから僕らも自分の権利や考えを手放しても大丈夫です。バカにされても見下されても神様の前では何も失われていません。文句を言われて忍耐し相手を赦し祝福するなら天では大喝采です。この世の栄光ではなく、天の栄光と賞は用意されています。(3.14)大丈夫です。安心して人に仕えましょう。主のために手放しましょう。ハレルヤ!

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