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2022年12月23日金曜日

ヨブ1章

 僕らは悪いことが起こると「きっとあのことの罰だ」と原因を探しがちです。僕らは「良いことをしたら祝福されるけど、悪いことをしたらバチが当たる」と言う因果応報の考えがあります。…ところが、ヨブ記を読むと、そのような考えが排除されていきます。ヨブは完全に潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた人でした。彼は自分の心の奥だけでなく、息子たちの分までいつも罪を赦しを願いきよめを祈っていました。神様も彼のように「悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない。」と言い切ります。(8)


(1節)

ウツの地に、その名をヨブという人がいた。この人は誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた。


(5節)

朝早く起きて、彼ら一人ひとりのために、それぞれの全焼のささげ物を献げたのである。ヨブは、「もしかすると、息子たちが罪に陥って、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。


(8節)

主はサタンに言われた。「おまえは、わたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない。」


そのような素晴らしいヨブが神様の許可によって全てを失っていきます。ヨブは多くの財産を持っていました。そして「この人は東の人々の中で一番の有力者」でした。(3)しかし彼はそれを全て失います。財産は奪われ、しもべたちは殺されて行きます。そして愛する子どもたち全員が死んで行きます。(14-19節)でも、そのような時にこそ神様にだけ主権があり、神様だけが全てを与えたり取ったりする主権者であることが明白になります。ヨブは悲しみ、嘆きつつその信仰を告白して言います。


(20-21節)

このとき、ヨブは立ち上がって上着を引き裂き、頭を剃り、地にひれ伏して礼拝し、

そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」


ヨブは神様が良いことをしてくれるから賛美しているのではありませんでした。財産を守ってくれるから礼拝しているのでもありませんでした。全てが主の主権でした。与えられることも、失うことも神様の主権の中です。全てを失った時にこそ、栄光と主権が神様にだけあることがはっきりします。


僕らは持ち物とか、人からの評価とか、自分が成し遂げた成果とかを重視しがちです。でも、それらを失ったこそ本当の姿がはっきりします。礼拝とはひれ伏すことです自分はチリにすぎないことを告白し現し、ひれ伏すのが礼拝です何かをなしたことで価値があるのではなく、僕らの行いの良し悪しで神様の栄光や力が変わるのではありません。失うか、手に入れるかで神様の栄光が変わるのでもありません。神様が全てだから僕らは礼拝したたえます。全ては神様から出たものです。ヨブはこれから、さらにひどい災いを受けます。それでも、神様の栄光は変わりません。僕らも言いましょう。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」


ヨブ5章

 罪の基本は「神様のようになれる」というものです。(創世記3章)自分はわかっている、と思い、相手の欠点を見つけ出し、それを教えて直してあげたい傲慢さが僕らにはあります。苦しむヨブを見たときに、友人たちは最初はただ驚き何も言えませんでしたが、やがて「あなたの苦しみはあなたの罪が原因だ。」と非難するようになっていきます。友人のエリファズは言います。


(4章7-9節)

さあ、思い出せ。だれか、潔白なのに滅びた者があるか。どこに、真っ直ぐなのに絶たれた者があるか。私の見てきたところでは、不法を耕して害悪を蒔く者が、自らそれらを刈り取るのだ。彼らは神の息吹によって滅び、御怒りの息によって消え失せる。


エリファズのヨブへの断罪はエスカレートし、苦しむヨブのことを「愚か者」「浅はかな者」と言い、ヨブは繁栄したけども子どもたちは押しつぶされて死に、救われなかった、非難します。


(5.2-4)

苛立ちは愚か者を殺し、ねたみは浅はかな者を死なせる。

私は愚か者が根を張るのを見て、ただちにその住まいを呪った。

その子たちは安全からはほど遠く、門で押しつぶされても、救い出す者もいない。

 

エリファズは繰り返して「不幸は自然に出たのではなく、あなたに原因がある」と言い続けます。


(6)

まことに、不幸はちりから出て来ることはなく、労苦は土から生え出ることはない。

 

苦しみ悩むヨブの前で、彼は神様の素晴らしさや偉大さ羅列し賛美しますが、そこにも「ヨブは悪賢い者だ、苦しみは神様からの裁きだ」という当てこすりがあります。

 

(9-11)

神は、測り知れない大いなることをなし、数えきれない奇しいみわざを行われる。地の上に雨を降らせ、野の面に水を送られる。神は低い者を高く上げ、嘆き悲しむ者は安全なところに引き上げられる。

 

(12-13)

神は悪賢い者たちの企みを打ち砕かれ、彼らの手は良い成果を得られない。神は知恵のある者を、彼ら自身の悪巧みによって捕らえ、彼らのねじれたはかりごとは突然終わる。

 

エリファズの説教や賛美は半分は真実ですですが、全くヨブの出来事を理解していませんでした。彼の気持ちも理解しようともしていません。わかったつもりの上から説教ですヨブの場合は神様の裁きでも懲らしめでもなく、特別なご計画の中でした。(1章)何も知らないエリファズはヨブに「悔い改めれば回復する」と教えてあげます。

 

(17-18)

ああ、幸いなことよ、神が叱責するその人は。だから、全能者の訓戒を拒んではならない。神は傷つけるが、その傷を包み、打ち砕くが、御手で癒やしてくださるからだ。

 

本質を知らないままに自分の知恵を振りかざして「神様はこうだ」「あなたはこうだから悪い」と教えるのは傲慢です神様の思いは僕らよりもはるかに高いです。(イザヤ55.8-9)この傲慢さは牧師とか先生と言われる人が陥りがちですエリファズの説教は半分は正論です。でも、それをヨブの状況に当てはめるのは間違いでした。


(1コリント8.1)

知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。


神様の思いは僕らの考えよりもはるかに高く、予想を超えています。簡単に決めつけたりわかったつもりになる傲慢さが砕かれ、いつも主の前にひれ伏して聞いていく者でありますように。 

 

ヨブ6章

 どんなに素晴らしい言葉を語っても、愛がなければむなしく、うるさいドラのようだと聖書は教えます。 (1コリント13:1)苦しむヨブにエリファズは上から目線で説教しましたが、この時本当にこの時必要なものは愛のない正論ではなく、あわれみ、友情、愛でした。


(14)

落胆している者には、友からの友情(あわれみ、愛)を。さもないと、全能者への恐れを捨てるだろう。

 

聖書は、泣く者と共に泣きなさい、苦しみを分け合いなさいと教えます。(ローマ12.15,1コリント12.26など)ヨブは、友人からの慰めが一番必要な時にそれが与えられず、友人たちが来たことでもっと苦しめられました。 まるで、砂漠地帯で水に飢え渇いている時に川を発見し期待したのに干上がっているかのようです。その落胆は大きすぎます。

 

(15-20)

兄弟たちは水無し川のように私を裏切った。流れが去る川床のように。

それは氷で黒ずみ、雪で隠される。

炎天のころには、流れがなくなり、暑くなるとその場所から消える。

隊商はその道筋からそれ、荒れ地に上って滅びる。

テマの隊商はこれを目印とし、シェバの旅人はこれに望みをかける。

彼らはこれに頼ったために恥を見、そこまでやって来て、辱めを受ける。

 

友人にしかできない役割があります。それはどんな時にも愛し、一緒に苦しんでくれることです。いい時だけでなく、苦しむ時こそ友人からの愛とあわれみが必要です

 

(箴言17:17)

友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。

 

期待していた友人達には本当のことが理解されず、むしろ責められたヨブは苦しみの上にさらに重荷を負わされます。死んだほうがましだ、とさえ言います。

 

(9-10)

神が望むままに私を砕き、御手を伸ばして私を絶たれるのであれば、

それはなおも私にとって慰めであり、容赦ない激痛の中でも、私は小躍りして喜ぶ。

  

あわれみのない言葉はうるさいドラのようです1コリント13:1)それをぶつけるのは、友人を奴隷にして売るようです

 

(25-27)

真っ直ぐなことばは、なんと痛いことか。あなたがたは自分で何を責め立てているのか。ことばで私を責めるつもりか。絶望している者のことばを、風と見なすつもりか。あなたがたは、みなしごをくじで分け合い、自分の友さえ売りに出す。


苦しみの時こそ友人が必要です。いい時だけでなく、苦しむ時こそ、です

 

ヨブ7章

 信仰生活とは神様との対話です良い子を演じて不満を言わないことではありません。自分の気持ちを言葉にすることは大事なことですヨブは自分の苦しみを、そして神様への不満を言葉にして嘆きます。ヨブは苦しみの中で、せめて寝ている間だけは一息つけるか、と思いましたが叶いませんでした。神様が一晩中苦しみを与え続けています。 


(4-5)

私は横になるときに言う。「いつ起き上がれるだろうか」と。夜は長く、私は夜明けまで寝返りを打ち続ける。私の肉は、うじ虫と土くれをまとい、皮膚は固まっては、また崩れる。


(13-14)

寝台が私を慰め、寝床が嘆きを負ってくれると私が思っても、

あなたは、いくつもの夢で私をおののかせ、幻によって私をおびえさせます。

 

ヨブの苦しみは特別に神様に標的にされているかのようですどうして自分だけが神様に集中的に苦しめられるのかと訴えます。もはや痛みから解放されるのは死だけだと言います。

 

(15)

私のたましいは窒息を、私のからだではなく死を選びます。

 

どうしてこんな小さな自分を神様はターゲットにするのか、どうしてこんな自分を見張り、攻撃し続けるのか、と訴えます。

 

(12)

私は海でしょうか、それとも竜でしょうか。あなたが私の上に見張りを置かれるとは。

 

ヨブの苦しみは神様にとって何もメリットはありません。もっと他に大事なことがあるはずです彼は人生を憎み、早く終わってほしいと願います。ヨブは怒りと恨みを込めて、神に抗議しました。

 

(19-20)

いつまで私から目をそらしてくださらないのですか。唾を飲み込む間も、私を放っておいてくださらないのですか。

私が罪ある者だとしても、人を見張るあなたに、私は何ができるでしょう。どうしてあなたは、私を標的とされるのですか。私は、自らを重荷としなければならないのですか。

 

これらの怒りや嘆きを神様はすベて聞いてくださり、後で答えてくださいます。(38章)正しいかどうかよりも、自分の気持ちを言葉にすることは大事なことです信仰生活とは神様との対話です。僕らが心を注ぎ出しますように。


(詩篇 62:8)

 民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。

ヨブ8章

 神様がなさることは、僕たちの思いをはるかに超えたものです


「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55.9)


キリスト教の先輩達は聖書の教えを分類し、整理し、まとめてきました。それを「神学」と言います。しかし、神様は神学の中に小さく収まる方ではありません。僕らの限られた頭では理解できないことをなさるのが神様です


ヨブの友達のビルダデは自分なりの神学を持っていました。彼の考えによると、ヨブの子どもたちが死んだのは、彼らが神様に背き罪を犯したからですだから子どもたちの分まで熱心に悔い改めて神様に憐れみを求めなさい、そうすれば回復するよ、と教えます。 彼は自分の「神学」の中にヨブの状況を当てはめて理解し、教えます。


(4-7)

もし、あなたの子らが神の前に罪ある者となり、神が彼らをその背きの手に渡されても、もし、あなたが熱心に神に求め、全能者にあわれみを乞うなら、もし、あなたが純粋で真っ直ぐなら、今すぐ神はあなたのために奮い立ち、あなたの義の住まいを回復されるだろう。あなたの始まりは小さくても、あなたの終わりは、きわめて大きなものとなる。


さらにビルダデは自分の教えが正しいことを示すため、先人たちの言葉を引用します。パピルスや葦が枯れてしまうように、神様を忘れる人は枯れてしまうよ、という教えです


(8)

さあ、先人に尋ねよ。先祖たちの探究したことを確かめよ。


(11-13)

パピルスは沼地がなくても育つだろうか。葦は水がなくても伸びるだろうか。まだ若芽のときに、引き抜かれもしないのに、ほかの草に先立って枯れる。すべて神を忘れる者の道はこのようだ。神を敬わない者の望みは消え失せる。


確かに、聖書はそのように教えている面もあります。 しかし、神様のなさることはもっと深く高いものでした。


神様を自分の理解の中に押し込めて上から説教をしていた彼らに神様は怒ります。(ヨブ42.7)神様は神学よりも高いお方です分からないことがあると認め、 神様のなさる深遠なことをそのまま受け入れていく謙遜さが必要です。神様がなさることは、僕たちの思いをはるかに超えています。ハレルヤ!

ヨブ11章

 ヨブの友人ツォファルは、「あなたの不幸はあなたの悪のせいだ」という前提で説教します。 ヨブの苦しみと嘆きを「無駄話」と言い、「あなたに恥を見させる者はいないのだろうか。」とさえ言い、冷酷です。(3)もしもヨブが悔い改めて神様を求めるなら、こんなに素晴らしいことが起こるよ、とも教えますが、「ヨブにはムリ」と思っているようです。…ですが、ヨブ記の最後を読むとこの回復と祝福はその通り起こります。


(13-19)

もし、あなたが心を定め、神に向かって手を伸べ広げるなら、

もし、手に不法があればそれを遠ざけ、あなたの天幕に不正を住まわせないなら、そのとき、あなたは欠けのない者として顔を上げることができ、堅く立って恐れることはない。こうしてあなた自身は労苦を忘れ、これを流れ去った水のように思い出すだろう。あなたの一生は真昼よりも輝き、闇も朝のようになる。望みがあるので、あなたは安らぎ、守られて安らかに休む。横になっても、あなたを脅かす者はいない。多くの者があなたの好意を求める。

 

(ヨブ42:12-17)

主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。それで彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。また、息子七人、娘三人を持った。(…中略…)ヨブの娘たちほど美しい女はこの国のどこにもいなかった。彼らの父は、彼女たちにも、その兄弟たちの間に相続地を与えた。この後ヨブは百四十年生き、自分の子と、その子の子たちを四代目まで見た。こうしてヨブは老年を迎え、長寿を全うして死んだ。

 

ツォファルは 「お前にはムリ」と攻撃するかのように話すのですが、「もしも神様が語りかけてくださったなら、 奥義を知り、罪は忘れ去られる」と言うその内容は僕らにとっても真実だし、福音です


(5-6)

しかし、神が語りかけ、あなたに対して唇を開いてくださっていたなら、

神は知恵の奥義をあなたに告げ、知性を倍にしてくださったであろう。知れ。神があなたのために、あなたの咎を忘れてくださることを。

 

ツォファルの主張は僕らに適用できます。イエス様を信じるものは真理を知り、神様は僕らの罪を思い出すことがありません。 イエス様によって僕たちは罪のない者、欠点のないものとみなされます。 「あなたは欠けのない者として顔を上げることができ、堅く立って恐れることはない。」(15)「あなた自身は労苦を忘れ、これを流れ去った水のように思い出すだろう。あなたの一生は真昼よりも輝き、闇も朝のようになる。望みがあるので、あなたは安らぎ、守られて安らかに休む。」(16-18)


僕らは小さすぎるし、汚れていて自分では神様に到達することは不可能ですこれもまたツォファルの言う通りです


(7-9)

あなたは神の深さを見極められるだろうか。全能者の極みを見出せるだろうか。それは天よりも高い。あなたに何ができるだろう。それはよみよりも深い。あなたが何を知り得るだろう。それを測ると、地よりも長く、海よりも広い。


高すぎて知ることができない圧倒的な神様が僕らを愛し、イエス様を人として遣わしてくださり、僕らを愛し、僕らの罪と呪いを十字架で引き受け、終わらせてくださり、回復させてくださいました。これが福音です人には不可能に見えることを、イエス様がしてくださいました。僕らは回復します。義とされます。闇も朝のようになります。


(ローマ 8:18)

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。


イエス様を信じる人には栄光が待っています。不可能はありません。希望を持ちましょう。感謝しましょう。大丈夫です。ハレルヤ!

ヨブ12章

 こうすればうまくいく、とか、こうすればこうなる、という人間が作った法則を大切にする人は多いようです。 しかし、現実はそんなに単純ではありません。神様に聞き従ってきたはずのヨブは友人達の笑い者になり、反対に、神様に逆らうものが安らいでいる、ということも起こり得ます。


(4)

私は、自分の友の笑いものとなっている。神を呼び求め、神が答えてくださった者なのに。正しく誠実な者が笑いものだ。


(6)

荒らす者の天幕には安らぎがあり、神を怒らせる者は安らかだ。神がご自分の手でそうさせる者は。


神様は、 「こうだからこうなる」という法則には入らない方です人が思うより、 ずっと上の、僕らにはわからないご計画をなさいます。 


(13-16)

知恵と力は神とともにあり、思慮と英知も神のものだ。見よ。神が打ち壊すと、二度と建て直せない。人を閉じ込めると、開けられない。見よ。神が引き止めると水は涸れ、水を送ると地はくつがえる。力と英知は神とともにあり、迷い出る者も、迷わす者も神のものだ。


人間誰もが信頼していた知恵や力が神様によって取り去られることはよくあります。


(17-22)

神は助言者たちを裸足にして連れ去り、さばく者たちを愚弄し、王たちのかせを解き放ち、彼らの腰に帯を巻き付け、祭司たちを裸足にして連れ去り、勢いある者に道を誤らせる。神は、信頼されている者の唇を取り去り、長老たちの良識を取り上げ、君主たちを侮り、力ある者たちの腰帯を解き、闇から深みをあらわにし、暗黒を光に引き出す。


本物の知恵とは「こうすればこうなる」というものではなく、僕らの思いをはるかに超えた神様を恐れることだと聖書は言います。(箴言1:7)神様は僕らの労苦とは関わりなく国を祝福したり、滅ぼしたりなさる方だからです。聖書は「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。」と言います。(箴言10:22)


僕らが取るべき態度は、簡単に「こうすればうまくいく」と物事をコントロールしようとしたり、神様をコントロールしようとしないことです神様だけが全ての出来事をご支配なさっている王であり支配者です。今日も祈りましょう。「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」と。(マタイ6.10)



(23-25)

神は国々を栄えさせ、また滅ぼす。国々を広げ、また取り去る。地の民のかしらたちから良識を取り去り、彼らを道のない荒れ地の中でさまよわせ、彼らは光のない闇の中を、手探りで進む。神は彼らを酔いどれのようによろけさせる。

ヨブ13章

 ヨブの友人たちは、ヨブの苦しみは 罪の結果だと説教し責め続けました。ところが、それはヨブに取って何の助けにもなりません。それでヨブは彼らのことを、無用の医者、黙ってくれた方が良かった、 と言います。 


(4-5)

しかし、あなたがたは偽りを塗る者、みな無用の医者だ。

ああ、あなたがたが沈黙を守っていたら、それがあなたがたの知恵となっていただろうに。


ヨブから見ると、上から目線の説教は神様のためよりも自分のメンツです


(8-11)

あなたがたは、神の顔を立てるつもりか。神のためにと、言い争うつもりか。神があなたがたを調べても、かまわないのか。人を欺くように神を欺こうとするのか。神は必ずあなたがたを責める。ひそかに自分の顔を立てようとするなら。神の威厳があなたがたをおびえさせ、神の恐れがあなたがたに下るのではないか。


神様のことを伝えたり教えたりするのは大事だし、用いられますが、けれども僕らも彼らと同じく「ひそかに自分の顔を立てようとする」不純物が入ってしまいます。苦しむヨブが欲しいのは純粋な神様との対話です。自分はただ、神と関わりたい、という願いを打ち明けています。友人は神様ではありません。必ずその人のフィルターがかかってしまいます。何かの慰めや解決を求めて、「人」を頼るならがっかりさせられる場面はよくあることですヨブのように、人にではなく、神に直接話しかけるのは大正解です

ヨブは神様に正直にお願いします。


(20-24)

ただ二つのことを、私になさらないでください。そうすれば、私は御顔から身を隠しません。あなたの手を私の上から遠ざけてください。あなたの恐ろしさで、おびえさせないでください。呼んでください。私が答えます。あるいは私に語らせ、あなたが返答してください。私には、咎と罪がどれほどあるのでしょうか。私の背きと罪を私に知らせてください。なぜ、あなたは御顔を隠し、私をあなたの敵と見なされるのですか。あなたは吹き散らされた木の葉を脅し、乾いた藁を追いかけられるのですか。


友人も兄弟も大事です。でも、頼るべき相手は神様、求める相手は神様です


ヨブ14章

 年上の先輩たちは、 口々に「人生は短い」「あっという間に歳をとる」 と言います。 確かに僕らはどんなに栄えたとしても消えていく存在です


(1-2)

女から生まれた人間は、その齢が短く、心乱されることで満ちています。

花のように咲き出てはしおれ、影のように逃げ去り、とどまることがありません。

 

ヨブの言う通り、どんなに美しく咲いたような人だとしても全ては消えていきます。しかも残るものは汚れた歩みだけです。(4)ヨブは汚れた自分がきよくなることはムリだと思っているようです

 

(4)

きよい物を汚れた物から取り出せたらよいのに。しかし、だれ一人できません。

 

ヨブは「だれ一人できません」と言いますが、イエス様にはできます。イエス様は汚れた僕らをきよめ、完全な体に変えて復活させてくださいます。ヨブには復活の希望がまだ与えられていませんでした。木は切られても再生するけど、人間は死んだらおしまいだ、と思っているようです

 

(7-10)

木には望みがある。たとえ切られても、また芽を出しその若枝は絶えることがない。たとえ、その根が地の中で老い、その根株が土の中で死んでも、水の潤いがあると芽を吹き出し、苗木のように枝を出す。

しかし、人は死ぬと倒れたきりだ。人間は息絶えると、どこにいるのか。

 

ヨブは神の怒りから完全に守ってくれる場所を願い、そして、神様が覚えていてくださって再び生きることを願ったようですそして、その願いはイエス様によって実現します。

 

(13-14)

ああ、あなたが私をよみに隠し、あなたの怒りが過ぎ去るまで私を潜ませ、私のために時を定めて、私を覚えてくださればよいのに。人は死ぬと、また生きるでしょうか。私は苦役の日の限り、待ちます。私の代わりがやって来るまで。

 

神様は僕らに復活の希望を教えています。畑に植えるタネは死んように見えても新しい芽を出すように、僕らも一度死んで新しい体に変えられます。

 

(1コリント15:37)

あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく、麦やそのほかの穀物の種粒です

 

(1コリント15:42-44)

死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです

 

夜が言うように、地上の人生は儚く短いものです。でも、 僕らは復活します。罪のない完全な体に変えられます。だから、「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。

」と言います。(ヨハネ6.27)


どんなに儚く短く、苦しい人生だったとしても希望はあります。僕らは変えられます。復活します。完全にきよく、罪のない、栄光の体に変えられます。なくなるもののためでなく、永遠に価値のあることのために残り人生を使いましょう。大丈夫です。希望はあります。宝は天に、です


ヨブ記16.19-17.7

 本当に僕らの全てを理解し肯定してくれる人は人間の中にはいません。でもイエス様は違います。僕たちの裏も表も知った上で、欠点を知りつつ、罪があるにも関わらず味方になってくださり、今日も私たちの無罪を主張してくださいます。ヨブは友人達に誤解され続け、苦しめられ続けました。 でも、ヨブは自分の証人は天にいるといいます。この方はイエスキリストです


(16章19-21)

今でも、天には私の証人がおられます。私の保証人が、高い所に。

私の友は私を嘲る者たち。しかし、私の目は神に向かって涙を流します。

その方が、人のために神にとりなしてくださいますように。人の子がその友のためにするように。

 

ヨブはひたすら理解されず、苦しみの中死に向かっていきます。ところが、天では無罪を保証してくれる人がいることに希望を持っています。これはイエス様の事です

 

(17章1-3節)

私の霊は乱れ、私の日は尽き、私には墓場があるだけです

実に、嘲る者たちが私とともにいます。私の目は彼らの敵意の中で夜を過ごします。どうか、私を保証してくれる人をあなたのそばに置いてください。ほかにだれか誓ってくれる人がいるでしょうか。

 

ヨブは何も悪いことしていないのに、笑いものとされ、 唾をかけられるものとなりました。その姿はまるでイエス様です

 

(6-7)

神は私を人々の笑いものとされ、私は顔に唾される者となった。

私の目は苦悶でかすみ、私のからだはどこも影のようだ。

 

イエス様が人として生まれたのは、私たちと同じ存在になるためです。弱くて苦しむ人間、そして一度死ななければならない孤独と苦しみに同じようになるたです

 

(へブル人への手紙4章15節)

私たちの大祭司(イエス・キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです

 

イエス様は私たちの弱さを理解するために、あえて肉体を持って人としてお生まれになり、人に受け入れられない家畜小屋で生まれ、誰よりも弱く貧しい人たちと連帯されました。

上から見ているだけでなく、僕らと一緒になってその苦しみを背負い、死んでくださる方です殺される側、裁かれる側となってくださいました。

 

イエス様は僕らの苦しみを知った上で今日も僕らのために祈り、無罪を保証してくださっています。イエス様が僕らを「義」としてくださいます。誰がなんと言おうと僕らは無罪です

 

 

(ローマ8:33-34)

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです

 

人から傷つけられても、攻撃されても、神様は僕らを今日も保証してくださっています。僕らは無罪ですイエス様が保証人です。大丈夫です

ヨブ18章

 ヨブのビルダデは、ヨブの苦しみは彼の罪の結果だと責め続け、嘆くヨブを黙らせようとします。病気や災害はその人が悪いから、という凝り固まった考えは、ヨブの話を聞こうとともしません。


(2)

いつになったら、あなたがたはその話にけりをつけるのか。まず理解せよ。それから語り合おうではないか。

 

確かに神様に従う人が祝福され、従わない人が呪われるという教えがあるのは事実です


(申命 28:15) 

もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。


(申命 28:20-21) 

主は、あなたのなすすべての手のわざに、のろいと恐慌と懲らしめとを送り、ついにあなたは根絶やしにされて、すみやかに滅びてしまう。

これはわたしを捨てて、あなたが悪を行なったからである。主は、疫病をあなたの身にまといつかせ、ついには、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地から、あなたを絶滅される。


神様は罪人を滅ぼし尽くすのは事実ですその考えが根底にありつつビルダデは「自分は義人」「ヨブは悪人」だとし、ヨブをゆるさず、祈りもせず、呪い続けます。




(5-7)

まことに、悪しき者の光は消え、その火の炎も輝くことはない。

彼の天幕の内では光が暗くなり、彼を照らすともしびも消える。

彼の力強い歩幅は狭められ、自らのはかりごとが彼を打ち倒す。



(8-12)

彼は自分の足で網にかかり、その網目の上を歩き回る。罠は彼のかかとを捕らえ、仕掛け網は彼を捕まえる。地には彼を捕まえる縄が隠されている。捕らえるための罠が通り道に。突然の恐怖が彼を周りからおびえさせ、その足を追い立てる。彼の精力は飢えて衰え、わざわいが彼をつまずかせようとする。


ビルダデはヨブを責め続けたことは、当時の理解としてはそれが普通だったかもしれません。ところがイエス様は全く違うことを言われます。盲人を見て、「罪を犯したからではない」「神の業が現れるため」とおっしゃいました。 


(ヨハネ9:2-3)

弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです


神様は僕らが思うよりももっと大きな、高いご計画があります。ヨブの苦しみもまた「神のわざが現れるため」でした。

今日も僕らが高ぶって他人を見下すことがありませんように。


(ルカ18.14)

だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです


ヨブ19章

友人たちはヨブを責め続けます。 しかしヨブはどんなに攻撃されても天には自分の無罪を保証して下さる方が天にいると言います。


(16:19)今でも、天には私の証人がおられます。私の保証人が、高い所に。


この方はイエス様です。ヨブだけでなく、僕らの保証人ですどんな酷いことをしたとしても、無罪の宣言をして下さる保証人です


(ローマ8:33-34)

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです


ヨブは19章でも同じように確信しています。自分を「贖われる方」が生きていて、この地上に来られることをです


(25)

私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。



「贖う」とはもともとの意味は貧乏になってしまって土地を売り払ったり、落ちぶれて奴隷になってしまった時に、身内の者が買い戻すことです。今、ヨブは全てを失い、人々から見捨てられている状況です。それでも、ヨブは買い戻され、全てを回復します。


(13-19)

神は私の兄弟たちを私から遠ざけ、知人たちはすっかり私から離れて行った。親族は見放し、親しい友も私を忘れた。私の家に身を寄せる者や召使いの女たちも、私をよそ者のように見なし、私は彼らの目に他人となった。私がしもべを呼んでも、彼は返事もしない。私は自分の口で彼に懇願しなければならない。私の息は妻にいやがられ、身内の者たちに嫌われる。若輩までが私を蔑み、私が立ち上がると、私に言い逆らう。親しい仲間はみな私を忌み嫌い、私が愛した人たちも私に背を向けた。



彼はお金も家族も立場も失いました。それでも希望があります。もう一度彼の全てを取り戻し、回復して下さる方が生きています。そしてその方はこの地上に来られ、土の上に立つ方ですイエス様は誰からも捨てられ嫌われるちりのような身分にまで降りてきてくださいました。イエス様こそ「贖う方」です最悪の悲しみの中に降りてきてくださいます。それがイエス様です


ヨブは必ず全てを取り戻します。イエス様によってです僕らも必ず全てを取り戻します。今の僕らの生活はイエス様をお会いする時の素晴らしさに比べれば取るに足りないものです


イエス様は全てを回復させてくださいます。ヨブは自分で神様を見る日がきます。そして僕らも直接イエス様とお会いする日がきます。


(27)

この方を私は自分自身で見る。私自身の目がこの方を見る。ほかの者ではない。

 

ヨブは贖われます。無罪とされ、祝福を回復します。イエス様によって悲惨な死は喜びに変えられます。僕らが恐れるべきは、命をかけて贖って

下さる神様ですイエス様が無罪と言って下さる人を断罪することはできません。

 

(28-29)

あなたがたが、「彼をどのように追いつめようか。事の原因は彼にあるのだから」と言うなら、あなたがたは剣を恐れよ。憤りが剣による刑罰をもたらすからだ。こうして、あなたがたはさばきがあることを知るようになる。

 

人を罪に定めるのは唯一、イエス様だけがなさいます。僕らは他人を裁くことも自分を裁くこともできません。信じる人は必ず贖われます。大丈夫ですイエス様の与え下さる救いは完璧です

 

 

2022年12月22日木曜日

ヨブ20章

 どんなにこの世で繁栄しても、 僕らの人生は終わります。 どんなに美しい花でもしおれて枯れるのと同じです。「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。」とある通りです

(1ペテロ1:24)だから聖書は、この世の虚しい繁栄や成功ではなく永遠の神さまを求めるようにと教えます。 イエス様を信じる人は死んでも生きます。その祝福は永遠に続きます。


ヨブの友人ツォファルはヨブにこの世の喜びも楽しみも消えて行くという正しいことを教えます。それは真理なのですが、「お前が悪い人間だから滅んで行くのだ」というとろこに間違いがありました。


(5-9)

悪しき者の喜びは短く、神を敬わない者の楽しみは束の間だ。

たとえ、その者の高ぶりが天にまで上り、その頭が濃い雲にまで達しても、彼は自分の糞のようにすっかり滅び去る。かつて彼を見た者は「彼はどこにいるか」と言う。彼は夢のように飛び去り、だれにも見つからない。彼は夜の幻のように追い払われる。彼を見慣れていた目は、再び彼を見ることがなく、彼の家も、もはや彼を見ない。


ヨブが苦しんでいるのは、 どうして正しい人が苦しむのかということです友人ツォファルはヨブの一番の悩みには全く心を留めず、ただ、自分が知っている真理を振りかざし、苦しむ ヨブに適用し、お前は糞のように滅びる、と言い切ります。ヨブがこの時何より求めていたのは、友人としての憐れみでした。


(19章21-22)

あなたがた、私の友よ。あわれんでくれ。私をあわれんでくれ。神の御手が私を打ったからだ。なぜ、神のように私を追いつめるのか。



 僕らも、 聖書を勉強して、 正しい答えをわかったつもりで 相手に当てはめ裁きがちです。しかしイエス様は真逆です罪人をあわれみ、愛し、一緒に苦しんでくださる方です

神様はあわれみ豊かなお方ですそして神様が僕らに求めておられることも憐れみです


ヤコブ2:13)

あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです


高ぶって他人を裁くための聖書の知識ではなく、神様の憐れみを知り、隣人を憐れみ愛する人となって行くためでありますように。「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」(1コリント8.1)

ヨブ23章

 神様のご計画やタイミングは僕らの考えるものとは違います。待たされるようでも、僕らを見放すことなく見捨てることなく「神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださる」(1ペテロ5:6)とあります。「あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。(…中略…)主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方」です。(ヤコブ5.11)

ヨブは神様と会いたい、神様と話し合いたいと切望します。 神様は心を止めてくださるはずだとも信じています。 しかし、神様はすぐには現れて下さらず、答えが与えられるには時間がかかりました。


(2-6)

今日もまた、私の嘆きは激しく、自分のうめきのゆえに私の手は重い。

ああ、できるなら、どこで神に会えるかを知って、その御座にまで行きたいものだ。

私は神の御前に自分の言い分を並べて、ことばを尽くして訴えたい。

神が私に答えることばを知り、神が私に言われることをわきまえ知りたい。

神は強い力で私と争われるだろうか。いや、むしろ私に心を留めてくださるだろう。


聖書に登場する信仰の先輩たちはみんな苦しみの期間を通され、忍耐しました。モーセも、アブラハムも、イサクも、ヤコブも、ヨセフも、です。長い時間ヨブは待たされ嘆きが続きます。でも、神様は彼を見捨てたのではありません。38章まで待たされますが、神様は答えてくださいます。


(8-9)

だが見よ。私が前へ進んでも、神はおられず、うしろに行っても、神を認めることができない。

左に向かって行っても、神を見ることはなく、右に向きを変えても、会うことができない。

 

なんと、完全なイエス様でさえも、ですキリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び」とあります。(ヘブル5:8)

神様のご計画やタイミングは僕らの考えるものとは違います。でも、僕らを見放すことなく見捨てることなく「神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」(1ペテロ5:6)とあります。「あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。(…中略…)主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方」です。(ヤコブ5.11)