罪の基本は「神様のようになれる」というものです。(創世記3章)自分はわかっている、と思い、相手の欠点を見つけ出し、それを教えて直してあげたい傲慢さが僕らにはあります。苦しむヨブを見たときに、友人たちは最初はただ驚き何も言えませんでしたが、やがて「あなたの苦しみはあなたの罪が原因だ。」と非難するようになっていきます。友人のエリファズは言います。
(4章7-9節)
さあ、思い出せ。だれか、潔白なのに滅びた者があるか。どこに、真っ直ぐなのに絶たれた者があるか。私の見てきたところでは、不法を耕して害悪を蒔く者が、自らそれらを刈り取るのだ。彼らは神の息吹によって滅び、御怒りの息によって消え失せる。
エリファズのヨブへの断罪はエスカレートし、苦しむヨブのことを「愚か者」「浅はかな者」と言い、ヨブは繁栄したけども子どもたちは押しつぶされて死に、救われなかった、非難します。
(5.2-4)
苛立ちは愚か者を殺し、ねたみは浅はかな者を死なせる。
私は愚か者が根を張るのを見て、ただちにその住まいを呪った。
その子たちは安全からはほど遠く、門で押しつぶされても、救い出す者もいない。
エリファズは繰り返して「不幸は自然に出たのではなく、あなたに原因がある」と言い続けます。
(6)
まことに、不幸はちりから出て来ることはなく、労苦は土から生え出ることはない。
苦しみ悩むヨブの前で、彼は神様の素晴らしさや偉大さ羅列し賛美しますが、そこにも「ヨブは悪賢い者だ、苦しみは神様からの裁きだ」という当てこすりがあります。
(9-11)
神は、測り知れない大いなることをなし、数えきれない奇しいみわざを行われる。地の上に雨を降らせ、野の面に水を送られる。神は低い者を高く上げ、嘆き悲しむ者は安全なところに引き上げられる。
(12-13)
神は悪賢い者たちの企みを打ち砕かれ、彼らの手は良い成果を得られない。神は知恵のある者を、彼ら自身の悪巧みによって捕らえ、彼らのねじれたはかりごとは突然終わる。
エリファズの説教や賛美は半分は真実です。ですが、全くヨブの出来事を理解していませんでした。彼の気持ちも理解しようともしていません。わかったつもりの上から説教です。ヨブの場合は神様の裁きでも懲らしめでもなく、特別なご計画の中でした。(1章)何も知らないエリファズはヨブに「悔い改めれば回復する」と教えてあげます。
(17-18)
ああ、幸いなことよ、神が叱責するその人は。だから、全能者の訓戒を拒んではならない。神は傷つけるが、その傷を包み、打ち砕くが、御手で癒やしてくださるからだ。
本質を知らないままに自分の知恵を振りかざして「神様はこうだ」「あなたはこうだから悪い」と教えるのは傲慢です。神様の思いは僕らよりもはるかに高いです。(イザヤ55.8-9)この傲慢さは牧師とか先生と言われる人が陥りがちです。エリファズの説教は半分は正論です。でも、それをヨブの状況に当てはめるのは間違いでした。
(1コリント8.1)
知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。
神様の思いは僕らの考えよりもはるかに高く、予想を超えています。簡単に決めつけたりわかったつもりになる傲慢さが砕かれ、いつも主の前にひれ伏して聞いていく者でありますように。
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