どんなに素晴らしい言葉を語っても、愛がなければむなしく、うるさいドラのようだと聖書は教えます。 (1コリント13:1)苦しむヨブにエリファズは上から目線で説教しましたが、この時本当にこの時必要なものは愛のない正論ではなく、あわれみ、友情、愛でした。
(14)
落胆している者には、友からの友情(あわれみ、愛)を。さもないと、全能者への恐れを捨てるだろう。
聖書は、泣く者と共に泣きなさい、苦しみを分け合いなさいと教えます。(ローマ12.15,1コリント12.26など)ヨブは、友人からの慰めが一番必要な時にそれが与えられず、友人たちが来たことでもっと苦しめられました。 まるで、砂漠地帯で水に飢え渇いている時に川を発見し期待したのに干上がっているかのようです。その落胆は大きすぎます。
(15-20)
兄弟たちは水無し川のように私を裏切った。流れが去る川床のように。
それは氷で黒ずみ、雪で隠される。
炎天のころには、流れがなくなり、暑くなるとその場所から消える。
隊商はその道筋からそれ、荒れ地に上って滅びる。
テマの隊商はこれを目印とし、シェバの旅人はこれに望みをかける。
彼らはこれに頼ったために恥を見、そこまでやって来て、辱めを受ける。
友人にしかできない役割があります。それはどんな時にも愛し、一緒に苦しんでくれることです。いい時だけでなく、苦しむ時こそ友人からの愛とあわれみが必要です。
(箴言17:17)
友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。
期待していた友人達には本当のことが理解されず、むしろ責められたヨブは苦しみの上にさらに重荷を負わされます。死んだほうがましだ、とさえ言います。
(9-10)
神が望むままに私を砕き、御手を伸ばして私を絶たれるのであれば、
それはなおも私にとって慰めであり、容赦ない激痛の中でも、私は小躍りして喜ぶ。
あわれみのない言葉はうるさいドラのようです。(1コリント13:1)それをぶつけるのは、友人を奴隷にして売るようです。
(25-27)
真っ直ぐなことばは、なんと痛いことか。あなたがたは自分で何を責め立てているのか。ことばで私を責めるつもりか。絶望している者のことばを、風と見なすつもりか。あなたがたは、みなしごをくじで分け合い、自分の友さえ売りに出す。
苦しみの時こそ友人が必要です。いい時だけでなく、苦しむ時こそ、です。
0 件のコメント:
コメントを投稿