創世記50.1-14
親が死んでも何とも思わない、と言う人はたくさんいます。ですが、人間は本来そのようには作られていません。全てが良かった世界は創世記の最初に書かれています。そこには死はなかったし、神さまと隣人を愛し一緒にいることが普通でした。元々は罪がなかったので、愛のなさとか、無関心とか、死はありませんでした。親を嫌い、死をなんとも思わない世界は罪に汚染された世界であって本当の世界ではありません。お父さんヤコブが死んだ時、「ヨセフは父の顔の上に崩れ落ちて、父のそばで泣き、父に別れの口づけをした。」とあります。(1)お父さんと死別することは、神様の意図ではありません。聖書は「罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がった」と言います。(ローマ5.12)だから、死は悲しみです。死ぬことは神様の願いとは違い、本来の姿ではありません。人間は本来死ぬことを忌み嫌います。そして死を怒ります。神様がそれを意図してないからです。イエス様でさえ、友人ラザロが死んだ時、悲しみ、憤っておられます。(ヨハネ11.35-38)もし、死ぬことを愛し、別れることでホッとするなら、それは罪に汚染されている状態です。ヨセフはお父さんの死を悲しみ、エジプトの習慣に従ってミイラにし、国をあげて70日の間喪に服します。
(2-3)
ヨセフは自分のしもべである医者たちに、父をミイラにするように命じたので、医者たちはイスラエルをミイラにした。そのために四十日を要した。ミイラにするのには、これだけの日数が必要であった。エジプトは彼のために七十日間、泣き悲しんだ。
僕らは死にます。それは罪の結果です。ヤコブも自分がエジプトで死ぬことは神様から知らされていました。(創世記46.3)そして、さらに将来は子孫たちがエジプトではなく再びカナンの地に住むようになることも知らされていました。だから、ヤコブは死ぬ前に、「私は、私の民に加えられようとしている。私をヒッタイト人エフロンの畑地にある洞穴に、先祖たちとともに葬ってくれ。」と頼みます。(創世記49.29)ヨセフはファラオの許可を得てお父さんをカナンの地の墓地に葬ります。
(7-10)
7,それで、ヨセフは父を葬るために上って行った。彼とともに、ファラオのすべての家臣たち、ファラオの家の長老たち、エジプトの国のすべての長老たち、
8,ヨセフの家族全員、彼の兄弟たちとその一族が上って行った。ただし、彼らの子どもたちと羊と牛はゴシェンの地に残した。
9,また、戦車と騎兵も彼とともに上って行ったので、その一団は非常に大きなものであった。
10,彼らは、ヨルダンの川向こう、ゴレン・ハ・アタデに着いて、そこで、たいへん立派で荘厳な哀悼の式を行った。ヨセフは父のため七日間、葬儀を行った。
(12-13)
12,ヤコブの息子たちは、父が命じたとおりに父に行った。
13,息子たちは彼をカナンの地に運び、マクペラの畑地の洞穴に葬った。それはマムレに面していて、アブラハムが私有の墓地にしようと、ヒッタイト人エフロンから畑地とともに買ったものである。
僕らは罪に汚され、死をなんとも思わないか、死を悲しみすぎる時代に生きています。ですが、イエス様によってもう一度あの罪も死もない世界に回復しようともしています。父母を敬え、という神様の願いは聖霊によって僕らの中に実現します。もう一度親を愛し敬おうと思う新しい心が与えられています。死を悲しみ、別れを悲しむ新しい心、そして、死の向こうに復活があり、永遠の住まいがある信仰と希望も与えられています。
やがて与えられる新天新地では「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。」とあります。(黙示21.4)それまでは罪の世界で死と直面し悲しみ、苦しみ、もがきます。死は悲しいです。そして死や別れの悲しみから回復するのにも時間がかかります。それでも大丈夫です。必ず回復します。今は悲しくても、変えられ途中です。悲しむ人は幸いです。希望はあります。永遠の命も回復もあります。悲しみましょう。でも、希望も見上げ続けましょう。
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