2025年12月31日水曜日

詩篇94篇 元旦礼拝メッセージ「神様のことばに聞く人は幸い」

 詩篇94篇元旦礼拝メッセージ「神様のことばに聞く人は幸い」


新年あけましておめでとうございます。今年は、こうしようとか、何か新しい気持ちがあるでしょうか。

もしあったら一つあげてみてください。

それは神様から与えられた想いでしょうか、それとも野望というか、肉の欲から出たものでしょうか?


1ヨハネ 2:16-17

肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。

世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。


今、せっかく一つあげてもらいましたが、みなさんが与えられた想いや計画は、もしも神様から与えられたものでなければ、残念ながら虚しく消えて行きます。神様を忘れた計画はそれがどんな魅力的でも虚しいものです。今日読んだ11節も神様を無視した計画のことを「空しい」と言います


(11節)

主は人の思い計ることがいかに空しいかを知っておられる。


反対に神様から戒められ教えられて与えられた思いは、無くならないし、虚しくないし、聖書はその人のことをなんて幸いなんだ、と言っています。


(12節)

なんと幸いなことでしょう。主よあなたに戒められあなたのみおしえを教えられる人は。


●戒められ、教えられる人は幸い。


元々、人間は神様とつながって、報告、連絡、相談(ほうれんそう)をしながら安心して生きるように作られています。神様の言葉を聞いて従うときにはちょうどよく、背伸びせず、萎縮もせず、自分らしく伸び伸びと生きられます。


自分を大きく見せようとする必要はないし、反対に、どうせ自分はダメな人間だといじける必要もありません。神様の言葉は僕らに平安を与えます。神様から引き離そうとする悪魔は大体この2種類で誘惑します。1つは高ぶらせ、自分を大きくさせよう、自分の栄光を求めさせようとするもの。そしてもう一つは、絶望させ、自分を価値がないもの、つまらないもの、愛されていないもの、いらない存在だと思わせることです。


みなさんが与えられている思いや願いは神様からのものでしょうか、それとも、肉の欲や敵の誘惑から出ているものでしょうか。

神様から与えられたものならそこに平安があります。御霊の実は愛、喜び、平安と続きます。(ガラテヤ5.22)


(12節)

なんと幸いなことでしょう。主よあなたに戒められあなたのみおしえを教えられる人は。


今年も神様から与えられる苦しみもあります。人からひどいことをされることもあるかもしれません。それは僕らがますます神様に聞くため、神様に固くすがるためのものです。神様がいつも真実を教えてくれます。ひどい扱いを受けても、疑問や悩みの日にも、心の中には神様と一緒にいる平安があります。そう書いてあります。


(13節)

わざわいの日にあなたはその人に平安を与えられます。


災いの日々、苦しみの日々にも、神様に聞き、神様に求める人は平安を得ます。なぜなら、その人はますます神様に求め、祈り、そして神様からの助けを体験するからです。


●苦しむ時にはまず「祈り」


この詩篇は祈りです。

特に、人から苦しめられ、笑われ、馬鹿にされ、思い煩い、悩みが増す時の祈りです。

みなさんの中に新年すでに不安です、よろけそうです、と思う方はいますか?その人は18節の祈りをしましょう。


(18)

「私の足はよろけています」と私が言ったなら主よあなたの恵みで私を支えてください。


大丈夫なフリをしないで、正直に言うことです。よろけています。神様の恵で支えてください。単純だけど大事な祈りです。


(13節)

わざわいの日にあなたはその人に平安を与えられます。


すでに思い煩いで押しつぶされそうだ、という人はいますか?その人は19節の祈りをしましょう。


(19)

私のうちで思い煩いが増すときにあなたの慰めで私のたましいを喜ばせてください。


神様はみことばを通して慰を与え、喜びを与えてくださいます。平安をくださいます。


(13節)

わざわいの日にあなたはその人に平安を与えられます。


神様のことばは絶対になくならないことばです。たとえ死ぬことがあってもなくならない約束です。


神様の言葉は、皆さんを愛される子ども、と呼びます。

皆さんを、罪が赦された人、と呼びます。

あなたは高価で尊い、と呼びます。

神様はあなたと一緒にいる、と言います。

たとえ死ぬことがあっても、その先に命があり喜びがある、と言います。


今年も毎日神様に祈りながら聞きましょう。聖書を読みましょう。新年そうお伝えしたいです。僕らはズレて行きやすいし、高ぶりやすいし、落ち込みやすいからです。


世界は激動の時代を迎えています。身近な人たちの考えもどんどん変わっていきます。

時代がどんなに変わっても、神様のことばだけは変わりません。いつも真実で、僕らを教え、戒め、正しい位置に戻してくれます。


神様を知らない人たちの関心は自分の権力、自分の栄光、自分の快適さです。そして、僕らもそこに引きずられて、自分の力や快適さだけを求めがちです。気がつかないうちに、声を上げない弱い人を無視し、彼らが犠牲になっていることもあります。


4節も苦しみの中の祈りです。


(4~7節)

"彼らは放言し横柄に語り不法を行う者はみな自慢します。

主よ彼らはあなたの民を打ち砕きあなたのゆずりの民を苦しめています。

彼らはやもめや寄留者を殺しみなしごたちを死なせています。

彼らは言っています。「主は見ることはない。ヤコブの神は気づかない。」"


自分の思いだけ、自分の願い優先で、弱い人が苦しめられるなら、神様は放っておきません。しっかりと裁いてくださいます。


みなさんが誰かに苦しめられているなら、神様がその敵を裁いてくださいます。みなさんが自分で仕返しする必要はありません。復讐は神様がなさいます。だからこう祈りましょう。詩篇は祈りのお手本です


(1-3)

1,復讐の神主よ復讐の神よ光を放ってください。

2,地をさばく方よ立ち上がってください。高ぶる者に報復してください。

3,主よいつまでですか悪しき者がいつまでですか悪しき者が勝ち誇るのは。


神様が悪を放置されることはありません。

どんなに威張っていても、どんなに横柄に語っていても、自慢していても滅んでいきます。いつまでですか、と思いますが、その日は必ずきます。


(ハバクク2章3節)

もしおそくなっても、それを待て。

それは必ず来る。

遅れることはない。


神様の裁きの日はきます。やりたい放題だった人にはその日は最悪の日、滅びの日です。でも、日々神様の言葉を聞いて悔い改める人には、その日は喜びの日、平安の日です。


(13-14節)

13,わざわいの日にあなたはその人に平安を与えられます。しかし悪しき者のためには穴が掘られます。

14,まことに主はご自分の民を見放さずご自分のゆずりの民をお見捨てになりません。


今どんなに苦しめられていても、僕らは希望を持って忍耐できます。

やがて、完全な勝利は約束されています。イエス様がこられたとき全てが逆転します。


(16-17節)

16,だれが私のために悪を行う者に向かって立ち上がるでしょうか。だれが私のために不法を行う者に向かって堅く立つでしょうか。

17,もしも主が私の助けでなかったなら私のたましいはただちに沈黙のうちにとどまったでしょう。


これは、神様が必ず立ち上がってくださる、という確信の祈りです。

神様に求めるなら、神様が助けてくれます。神様が見捨てることがありません。どんなことがあっても、神様が私の砦となり。私の避け所の岩です。


(22-23)

しかし主は私の砦となり私の神は私の避け所の岩となられました。

主は彼らの不義をその身に返し彼ら自身の悪によって彼らを滅ぼされます。私たちの神主が彼らを滅ぼされます。


砦は神様です。救いは神様です。逃げ込むところ、相談にいくところは神様です。この世の力とか解決方法とか、頭のいい人とかではなく、まず神様です。今日のメッセージはシンプルです。まず神様に祈り、相談して、神様のことばを聞くことです。

苦しみの中で、まずすべきことは神様に祈ることです。


●この世の知恵と力を重んじる誘惑


「苦しむ時にはまず祈り」シンプルなはずです。でも、それができないのが僕らです。この世の知恵、力で解決しようとします。神様に相談するよりAIに相談して解決を求めたりします。

技術も力も神様が預けてくださったものです。

だから、誰も人間も、人間の力や技術も誇ってはいけません、と言います。神様を忘れ、祈りを忘れた知恵も力も虚しいものです。


この詩篇94篇を新約聖書でパウロが引用して、人間を誇ってはいけません、と言っています。


(コリント人への手紙 第一 3章20-21節)

「主は、知恵のある者の思い計ることがいかに空しいかを、知っておられる」とも書かれています。ですから、だれも人間を誇ってはいけません。


神様からズレて、強いこと、何かを最短でできることを誇る間違いにさらされています。人間を誇り、人間の作った技術を誇り神様より先に求める誘惑にさらされています。神様の願いは何よりも神様を愛し、人を愛することです。


1コリント13章

1節 愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じ

2節 愛がないなら、私は無に等しいのです。

3節 愛がなければ、何の役にも立ちません。

13節 一番すぐれているのは愛です。


だのに、人間の力を求め効率よく何かを達成する技術を賛美し、愛がないままでそれが正しいことのように誤解します。


聖書は、いつも弱い人、遅い人、の味方です。小さい人を大事にすることは、イエス様を愛することそのものだと言います。


(マタイ 25:40

『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』


この世は弱い人を苦しめ、邪魔にし、殺します。教会もいつの間にか強い人の教会、効率が良いことが賞賛されて声の小さい人、早く動けない人が置いてきぼりにされているなら、もうイエス様の教会ではなくなっています。東栄はどうでしょう?

今日の詩篇の祈りは、力のない人たちが苦しめられていることを神様に訴えている祈りです。


(5-6)

5,主よ彼らはあなたの民を打ち砕きあなたのゆずりの民を苦しめています。

6,彼らはやもめや寄留者を殺しみなしごたちを死なせています。


神様の民、とか、神様から相続を受けるゆずりの民とは、やもめや寄留者やみなしごたちとあります。つまり、誰も守ってくれない弱い人たちです。神様にとって大事な子どもたちとは、そのような、自分を守れなくて、神様に頼るしかない人たちです。

声をあげない人、置いていかれる人こそ、神様の大事な人たちです。

新約聖書もそう言っています。


(1コリント1章26-29節)

26,兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

27,しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。

28,有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。

29,肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。


神様を知らない世界は、人間が作った能力が全て、効率が全て、結果を出すことだけが良いことだと言います。できない人を否定し、無価値だと思わせて苦しめます。


東栄教会も、いつの間にか、神様と人を愛することよりも能力や効率優先になってしまう誘惑にさらされていると思います。


最近僕はAIで編曲したり、歌わせたりするようになって、その技術の高さに驚き感動して、すっかり魅了されています。

今まで3時間かかって作っていた編曲や作曲が1分くらいで終わります。でも、なんか変だな、とも思っています。


その違和感は、そこに神様への愛があるのか、一緒に賛美する教会の仲間がいてくれることの喜びや愛があるのか、という疑問です。効率よく上手に編曲し、AIに上手に歌わせた歌は神様にとって喜びなんだろうか?という疑問です。

神様への感謝、教会の仲間の存在の喜びがないまま効率よく何かを達成しても虚しいものです。僕らはズレて行きます。


神様の喜びは、力のない人、知恵のない人が愛され、喜ばれていることです。罪のある人が赦され、受け入れられていることです。

もし僕らが神様を忘れたまま人間とその技術を誇るなら、そして、誰かが置いてきぼりにされているなら、神様は言われます。


(11節)

主は人の思い計ることがいかに空しいかを知っておられる。


だから今年もみことばによって教えられて行きましょう。

みことばによって教えられ、ズレを矯正され、考えと行動が変えられ続ける人は幸いです。

そのような教会は幸いです。

神様の裁きの日にも、どんな苦しみの日にも平安でいられます。


ますます世界が変わっていく時代です。東栄教会も変化の時期を迎えています。だからこそ、しっかりと神様に聞きましょう。


(12節)

なんと幸いなことでしょう。主よあなたに戒められあなたのみおしえを教えられる人は。

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