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2025年4月8日火曜日

2コリント5.1-10 武田繁松さん葬儀メッセージ

 2コリント5.1-10 武田繁松さん葬儀メッセージ

武田繁松さんが洗礼を受けたときの証の一番最後のページにこのように書かれています。

「私は元来、お山の大将で我が強くいつも悔い改めることばかりで、とても洗礼なんて受けられないと思っておりました」

またこうも書いています。

「日本には様々な宗教がありますが、人々のために命まで落とされた宗教はない」

「イエス様は、世界の人々が犯した様々な罪を一身に受けて、十字架に磔になり死んで葬られました、と聞き、ますます信じる気持ちになりました」


お山の大将で我が強い、と自分で言っておられますが、私も婿として一緒に過ごし、確かにそういう面はあるなと思います。でも、付き合いが深くなると、それ以上に、おじいちゃんが自分のわがままや気の短さを悲しんで、がっかりし、ため息をついている姿を私は何度も見てきました。


今日お読みした聖書に「幕屋」と書いてありますけど、これはわかりやすく言うと、テントとか仮の住まいのことです。この弱い肉体や地上での性格のことを言っています。


"私たちはこの幕屋にあってうめき、天から与えられる住まいを着たいと切望しています。"

コリント人への手紙 第二 5章2節


他の翻訳では「天からいただくその住まいにぜひ身を置きたいものと願って、この地上の住処でため息をついているのです。」とあります。この弱い体、性格、全部含めてガッカリしてため息をついているのが私たちです。そして天の建物、つまり完全な体と心、欠点も病も苦しみもない完全な体が与えられることを願っています。


おじいちゃんのその願いを特に感じたのは、おばあちゃんが長期入院した時です。

時々家に行ったら決まって言いました。「俺のせいなんだ。俺が悪かった」「俺がお山の大将だったんだ。ひどいことしたんだ。ごめんな」って奥さんの写真を見ながら泣くんです。

僕はおじいちゃんのため息、自分の欠点を悲しんで悔い改めている姿を見ました。「もう一度家に戻って来られますように。もう一度退院できて家に戻ってくるなら今度は大事にします」と祈ってました。


まさに聖書が言う通り、私たちはこの地上でこの弱い肉体、性格、人生の中でため息をつきながら、呻きながら、でも天から与えられる完全な体と心が与えられるのを願っています。イエス様に似た、愛に満ちた人に変えられたいと願っています。4節にこう書かれています


"確かにこの幕屋のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではありません。死ぬはずのものが、いのちによって吞み込まれるために、天からの住まいを上に着たいからです。"

コリント人への手紙 第二 5章4節


ある聖書学者は、この箇所を説明して次のように言ってます。

天の国と比べたら、今の暮らしなんて、家具も何にもないボロ小屋で仮住まいしているようなものです。私たちはもう疲れ果てています。でも、それでもこの不便な状況は私たちを落ち込ませたりしません。むしろ、これから与えられる広々とした自由な生活を期待させてくれます。私たちは、まだ目には見てないけどそれを信じて希望を持って前に進んでいます。


イエスはいつもおっしゃいます。悲しむものは幸いです。心の貧しいものは幸いです。なぜなら、その人が神様の国を受け継ぐものです。神様の国で満たされ慰められる人とは、そのように自分の罪や自分の欠点を認めて神様にだけ希望を持つ人です。


おじいちゃんが書いているように、イエス様は私たちのすべての罪を背負って、身代わりに死んでくださいました。神様に裁かれなければならない私たちの罪を全て引き受けてくださり、十字架に磔になりました。そしてイエス様は復活して完全な栄光を持っています。それを記念するのがイースター、復活祭です。最近はスーパーでもイースターとか復活祭というようになりました。イエス様の復活を祝い、同時に私たちも復活して変えられることの希望を祝うのがイースターです。

私たちも一度死んで葬られます。それはこの弱い体、弱い欠点だらけの性格、たくさんの悲しみとはお別れして、まるでボロボロになったテントを畳んで完璧な新築の家に住むかのようです。私たちは明るくて喜びしかない完全な体と心に復活します。そのように聖書が教えてくれています。


"たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。

私たちはこの幕屋にあってうめき、天から与えられる住まいを着たいと切望しています。"

コリント人への手紙 第二 5章1~2節


だから死は悲しいけど希望があります。この福音を信じる人は神様に裁かれることも永遠の地獄に落ちることはありません。先ほど最初に読んでいただいたヨハネの福音書5章24節に書かれています。


"まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。"

ヨハネの福音書 5章24節


武田繁松さんが書いていました。「イエス様の御心に添えるよう努力してまいりたいと思います。」確かに今は弱い性格、弱い体で、自分も周りもがっかりすることたくさんありますけど、それでも神様に喜ばれたいし、神様の御心に添えるようになりたい、と願うお父さんの願いがそこにありました。


"私たちは心強いのですが、むしろ肉体を離れて、主のみもとに住むほうがよいと思っています。

そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。"

コリント人への手紙 第二 5章8~9節


お父さんの願いは完全に叶えられました。自分の欠点や罪を悲しみながら願ってきたお父さんの願いは叶えられ、新しい完全な心と体が与えられ、神様の御もとで、まるで素晴らしい住まいに住むように迎えられています。

これは人が勝手に思い込んでるのではなく、神様の言葉である聖書が伝えていることです。


悲しいけど、希望を持ちましょう。完全な心と体が用意されています。この希望をぜひ皆さんも受け取ってほしいと思います。地上にあっては苦しみがあります。欠点もあります。でも神様はそのため息をすべての喜びに感謝に祝福に変えてくださいます。

2023年12月31日日曜日

佐藤薫さん葬儀メッセージ いつまでも残るもの 2コリント12.12-13

 佐藤薫さん葬儀メッセージ


●手放すもの、無くならないもの


祝宴の家に行くよりも、喪中の家に行く方が良い、と聖書は言います。なぜなら、そこには私たち全ての人がやがて経験する終わりがそこにあるからです。私たちが生きてるうちに人生の終わりに心を留めるようになる、と聖書はいいます。(伝道者の書7章2節)


私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。(テモテ手紙第一6章7節)


世界一の信仰者であるヨブという人の言葉が聖書に書かれています。「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1.21)


私たちには神様が与えてくださった良いものがたくさんあります。友人も、家族も、仕事も趣味も、お金も、健康も命もです。ですが、それら全部はいつか手放しお別れする時が来ます。

でも、神様は私たちを絶望させようとしているのではなく、本当に大切なことに目を向けるようにさせておられます。死ぬことは闇に落とされることではなく、用意されている永遠のいのちに飲み込まれていくことです。死ぬことはぼんやりと信じていた天国の希望とか永遠の命が現実のものとなっていくことです。

いつまでも残るものがあると聖書はいいます。


コリント人への手紙第一12章 12節から13節

今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。


いつまでも残る信仰とは信じることです。ぼんやり信じていたことが確かなことなり、ぼんやりと希望を持っていたことが現実のものとなります。私たちは何を信じるのか、何に希望を持つのか、と言うと、神様が私を愛し受け入れてくださっていることです。「いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」


それは無くならないどころか、死ぬことを通して完全に知ることができます。


地上で私たちは神様を信じ、神様に希望を持っています。そして、この地上を去る時に、私たちははっきりと顔と顔を合わせて神様とお会いすると言います。ぼんやりと信じていた希望や愛が確かなものとなります。これはなくなることがありません。


●愛とはイエス様の犠牲


確かなことで一番大切で優れていることは、愛です。と聖書に書かれています。

聖書が伝える愛とは、神様が私を愛している、という愛です。この世の全てとお別れしても、神様の愛はなくなりません。無くならないどころか、神様とお会いする時にそれは確かだったことが明らかになります。愛の神様とお別れする事はありません。


神様の愛とは、ほんわかした甘いものではなく、命がけの愛、神様の側で犠牲を払って与え続けてくださる愛です。


※妻の入院先にあった十字架の像

20年位前にうちの妻が病院に天使病院に入院したことがありました。当時の天使病院はキリスト教で、全ての病室に十字架ではりつけになっているキリストの像が掲げられていました。


入院しているうち、隣の奥さんが言いました。ねぇ。遠藤さん、キリスト教なんでしょう。あの人さぁ、なんで貼り付けになってんの?


妻は言ったそうです。

あの人はイエス様で、私たち人間にはみんな罪があって、心の中で人を嫌だと思って嫌ったり、妬んだり、傷つけたりしたりしていて、神の裁きと呪いを受けなければならないだけども、その身代わりに神様から捨てられ、呪われるために、天から地上に来てくださった方だよ。私も神様から見れば裁かれなければならないけども、でも、イエス様が私のために神様に裁かれ、呪われる役目をしてくださった、だからもうあなたは神様に裁かれないし、呪われないんだよ。


これがこれが聖書が伝えている愛です。命を捨てて、全てを捨ててくださる愛です。これは決してなくなることがない愛です。神様があなたを愛し、受け入れている、という愛のしるしです。


薫さんの証の作文の中にこうありました。

「分かち合いと祈りにも出るようになり イエス、キリストの十字架が私の罪のためにあることを信じてから、父である神様とイエスキリスト様が以前より、ぐーんと近く感じるようになりました」


神の怒りはなだめられる必要があります。


ヨハネの手紙第一4章9節から10節

神はそのひとり子(イエスキリスト)を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子(イエスキリスト)を遣わされました。ここに愛があるのです。


キリストが犠牲になり、私たちは赦されています。キリストは全てを捨てて、ご自分の命を捨てて愛してくださいました。そして復活して今も生きておられます。この愛はなくなる事はありません。私たちが死ぬとき、地上で大切だった人や物とお別れしても、この神様の愛から離れることはありません。


このイエスキリストの犠牲という愛を通して、私たちは天国に行くことができます


●イエス様の愛は天国への道


また、薫さんの証の先ほどの続きにこうありました。


「天国への道は、イエスキリストを通して直接つながっていて、その道は彼を通してのみ存在する」と書いてあるのを読み 頭がクラクラして 目からウロコが落ちるとはこの事だと、感じました。


薫さんが言っているように、天国への道はイエス様を通してつながります。イエス様が私たちを愛し、薫さんを愛し、ご自分を犠牲にしてくださったことが天国への道です。イエス様はわたしが道そのものだとおっしゃいました。


ヨハネの福音書14章6節

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。


イエス様を通してでなければ誰も父(神様)のもとに行く事はできません、とおっしゃいました。天国に行くためにはイエスキリストの愛を受け、それを信じる必要があります。薫さんはイエス様を信じて神様のもとに召されました。


薫さんも後悔することや謝りたいことはあったと思います。聖書は、すべての人に罪があると言います。天国は聖なる国であって、罪や汚れがあるままでは行くことができません。それでもイエス様は罪のある私たちを愛し、身代わりに神の怒りと裁きを受けて、その呪いを終えてくださいました。


イエス様だけが薫さんを完全にきよめ、天国に迎えてくださる方です。イエス様はおっしゃいました。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」


どんな人も愛されています。どんな人もきよめられて神様の御もとに行くことができます。その道はイエス様です。この方を信じることです。


この肉体を離れて神のみ下にいる方が良いと聖書は教えています。私たちは希望を持ちながら薫さんとお別れしたいと思います。この希望は薫さんだけに与えられているのではなくて、残された私たちに、全ての人に、ご家族に与えられている希望です。私たちも、皆さんも愛されています。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。でも、神様に愛されていることだけは確かです。それはなくならないどころか、死を通して確かなものとなっていきます。


この愛と希望は今日ここにおられる全ての人に注がれています。別れは悲しいですが、その先にある希望と愛は確かです。

ぜひ、薫さんが「私はイエスキリスト様を信じます」と神様に祈ったように、私たちも、イエスキリストの愛を信じます、この希望を信じます、と祈りましょう。


「いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」


2023年9月28日木曜日

2コリント6.1-12 イエス様と繋がる溢れ出る喜び

 2コリント8.1-9 イエス様と繋がる溢れ出る喜び



僕はクリスチャンじゃない時、どうせ教会なんて信者を増やしてお金を集めてるんだ、と疑っていました。そんな僕が考えが変わったのは、ボロボロの一軒家の東栄教会の昔の会堂を見たときです。阿部先生がニコニコして迎え入れてくれて、自分の書斎を見せてくれました。3畳一間の部屋でした。窓には張り紙がしてあって「触らないでください。すぐ落ちます」と書いてありました。それまで教会っていうのはお金目的でやっているんだろう、と思っていたので、この牧師はお金儲けに失敗しているのか、それとも本当にお金目的ではなく神様のことを喜んで仕えているのかもしれない、と思いました。とにかく、そのボロボロの会堂はお金中心じゃない、ということを僕に教えてくれました。


イエス様を信じて聖霊が与えられた人は、今までと考えが変わります。自分もお金がないのに、困ってる人を助けたいと思い、わずかな食糧を分け合うことを喜ぶことが本当にに起こります。これは人間の力にはよらない、神様の御霊の力です。


聖書はいつも実例で満ちています。人はくどくど説明されるより、お手本を見聞きすることで理解します。今パウロはコリント教会の皆さんに、最近本当に起こっているマケドニア地方の教会の話を紹介します。


🔴聖霊による溢れる喜び



(1-5)

1,さて、兄弟たち。私たちは、マケドニアの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。

マケドニアの教会とは、ピリピの教会、とか、テサロニケの教会とかベレヤの教会のことです。

2,彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました。

3,私は証しします。彼らは自ら進んで、力に応じて、また力以上に献げ、

4,聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかりたいと、大変な熱意をもって私たちに懇願しました。

5,そして、私たちの期待以上に、神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ、私たちにも委ねてくれました。



マケドニア地方の教会はどこの教会も極度の貧しさと苦しみの中にありました。だのに、貧しいのに苦しいのに、喜びに溢れて惜しみなく他のクリスチャンを助けるために、「彼らは自ら進んで、力に応じて、また力以上に献げ」ていました


その献金も彼らの喜びも「神の恵み」だと言います。「めぐみ」とは与えられたプレゼント、ということです。人の優しさからではなく、人の正義感でもなく、自分の良心を満足させたいとか、プライドとか、そういう見せかけでなくて、神様からのプレゼントとしての恵みです。天からの「満ち溢れる喜び」とあります。それが「惜しみなく施す富となりました。」天から与えられている喜びが溢れてしまって、採算度外視の喜び、ささげものになってます。これは御霊に満たされた人たちの特徴です。御霊の実は愛と喜びです。パウロは証言します、と言っています。


🔴見える状況は困難。


この喜びは与えることの困難を超越します。1節の「マケドニアの諸教会」がどんな苦しみだったのか、どんな激しい試練だったのか、聖書は伝えています。テサロニケ教会では教会を壊すために反社会勢力からのいやがらぜ、暴動、暴力が行われていました。具体的には使徒の働き17章にあります。


テサロニケの教会での迫害


(使徒 17:5)

ところが、ねたみにかられたユダヤ人は、町のならず者をかり集め、暴動を起こして町を騒がせ、またヤソンの家を襲い、ふたりを人々の前に引き出そうとして捜した。


お金で雇われていたならずものが町中を騒がせ、クリスチャンの家を襲っています。リーダー的な人を探しては引き摺り出します。何人かは牢屋に連れて行かれます。そして、牢屋から保釈されるためにまたお金が取られたことが書かれています。


(使徒 17:9)

彼らは、ヤソンとそのほかの者たちから保証金を取ったうえで釈放した。


マケドニアの教会は苦しめられ、お金は取られ、自分らが生きのびるだけでやっとのはずでした。この町でクリスチャンとして生きるのは難しいはずです。周りから白い目で見られます。村八分、仲間はずれです。仕事も奪われて行きます。だのに聖書は言います。


(2)

彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました。



お金はないし、毎日の嫌がらせは続き、敵に囲まれています。2節は「極度の貧しさ」「苦しみによる激しい試練」と言います。だのに、「かわいそうな私」とは思っていせん。満ち溢れる喜びで、他の仲間のために献金したい、お金を届けたい、と思って熱心にそれをしています。悲壮感がないどころか、喜びに溢れています。



(3-5)

3,私は証しします。彼らは自ら進んで、力に応じて、また力以上に献げ、

4,聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかりたいと、大変な熱意をもって私たちに懇願しました。

5,そして、私たちの期待以上に、神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ、私たちにも委ねてくれました。


🔴喜びによって


彼らにとって助けること、与えることは喜びです。


(2)

彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました。


しなければならない、とか、べき、とか、せねば、という考えはありません。献金しないと罰が下る、ということもありません。動機は喜びです。御霊が与えてくださる愛と喜びです。イエス様がおっしゃった受けるよりも与える方が幸い、という新しい、この世にはない天の喜びです。


孤児院サラハウスのことを岳ちゃんから聞きました。


・サラハウスには悲壮感がありません。2年前50人だった子どもたちは80人へ増えていました

・こ放置された子を引き取るママステラは採算度外視です。自腹で病院を周りお世話をしています。お金はないはずですが、喜びがあります。

・ある時はお金がなくなり、食べ物がなくなりました。その時、ママステラは子どもたちに呼びかけて一週間みんなで断食して祈ることにしました。主は必要を与えてくださいました。周りに助けを求めるより、まず神様に求めていました。

・路上に放置されてた子が連れてこられました。お母さんは14歳です。


🔴貧しい彼らが誰にささげるか?貧しいエルサレムのクリスチャンたちへ。


(4-5)

4,聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかりたいと、大変な熱意をもって私たちに懇願しました。

5,そして、私たちの期待以上に、神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ、私たちにも委ねてくれました。



この聖徒たちを支えたい、とは、具体的にエルサレムで同じように苦しんでいる仲間たちの意味です。

この時代、エルサレムの教会の仲間たちも同じように激しい迫害に遭っていていました。マケドニア地方の教会のみんなは、エルサレムで苦しんでいる仲間を助けたいし、助けることは神様のめぐみ、神様の力、神様がなさること、それに参加したい、と熱心に願いました。


そのことがローマ15章26-27にあります。


(ローマ15.25-27)

25,しかし今は、聖徒たちに奉仕するために、私はエルサレムに行きます。

26,それは、マケドニアとアカイアの人々が、エルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために、喜んで援助をすることにしたからです。

27,彼らは喜んでそうすることにしたのですが、



エルサレムでもマケドニアと同じように、イエス様を信じます、というとひどい迫害に遭います。それでもイエス様を信じる人たちが増えて行きます。イエス様を信じると仕事を失います。差別を受けます。いじめのターゲットになります。それでも、イエス様を信じる人たちが増えて行きました。



●イエス様と共有することは貧しい人たちと連帯すること


(26)

26,それは、マケドニアとアカイアの人々が、エルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために、喜んで援助をすることにしたからです。



ローマ15.26節の「援助する」はコイノニアという言葉で、共有する、ということです。貧しさを共有する、一緒に苦しむことにした、ということです。連帯することにした、繋がることにした、ということです。しかも喜んで、です。イエス様と繋がっているから、貧しく迫害される兄弟姉妹とも繋がります。


(4)

聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかりたいと、大変な熱意をもって私たちに懇願しました。


この奉仕の恵みに「預かりたい」それはコイノニアという言葉、共有という言葉です。


自分達も貧しいし苦しみがあります。極端な貧しさ、苦しさです。でも、極端に豊かな喜びが、感謝がありました。イエス様のお仕事に参加できるという喜びです。


計画性のある人から見ると、そんな貧しい人が献げるわずかなお金は意味ないじゃん、と思うかもしれません。でも、金額でなく、一緒に苦しみ、一緒に貧しくなり、一緒にイエス様に自分を献げる、という喜びでした。私の全てはイエス様のものです、という喜びです。



(5)そして、私たちの期待以上に、神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ、私たちにも委ねてくれました。


まず自分を主にささげた、とあります。

献身です。全部イエス様のものです、という献身には喜びがあります。お金を少し分けてあげる、という感じではなく、全部僕のものではなくイエス様のものです、という感覚です。ちょっと分けてあげる、と思っている人は、自分のものだ、という人です。


イエス様に自分を捧げます、という人は自分も、自分の持ち物も全部イエス様のもの、ということです。

聖霊に満たされた人は最初から全ての持ち物をイエス様のものだと思うようになります。イエス様のものはみんなのものです。使徒4章には聖霊に満たされた初代教会の様子があります。

イエス様に満たされ、イエス様に全部を明け渡すことは、兄弟姉妹と全てを分け合うことに現れます。


(使徒4章32節)

さて、信じた大勢の人々は心と思いを一つにして、だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、すべてを共有していた。


主に自分を献げることはクリスチャンたちの必要に自分を献げることと同じことです。教会はキリストの体だからです。神様への献金は、困っている兄弟姉妹に献げることと重なります。献金は献身です。


・ママサラの例

この小屋の中に自分のお子さんの他に2人の孤児を引き取っているママサラです。

岳ちゃんがいくと、コーラ、ファンタを買ってきてもてなしてくれるそうです。お金はないはずなのに、与えることの喜びを表しています。


🔴献金はイエス様への献身


(ローマ人への手紙12章1節)

1,ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。



捧げものとは、生贄です。縛られて祭壇に寝かされて、殺されかけたイサクのように、私たちは祭壇に身を置き、「神よ、私は全てを手放し、ささげます。」言うことです。まな板の鯉です。自分の願いでなく、自分の計画でなく、神様のご計画、神様のお考えの通りにしてください、ということです。


これがマケドニア人たちの喜びです。


5節に「神の御心に従って」これが大事です。「神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ、」

これが神様の願いです。イエス様もご自分をささげてくださいました。そして聖霊に満たされた先輩たちも自分を主にささげました。


●献身とはイエス様がなさること。


献身とか、持ち物を全部捧げるとか、無理!」と思います。ところが聖書はそれが無理じゃないと教えています。どうしてでしょう。それは、まず全部捧げて愛してくださっているのは僕らではないからです。愛とか犠牲とか捧げ物はイエス様がしてくださったことです。

イエス様がまず自分の身を捧げて、命を捧げて、十字架の上で苦しんで祈ってくださいました。イエス様こそ献身者です。


あの命を捨てた愛が自分に注がれている、とわかった人は平伏して、感動して、感謝して、自分も捧げます、と思うようになります。源はイエス様です。イエス様のあの十字架の犠牲を思うときに人は変えられます。


イエス様の十字架の前で、イエス様が血だらけで全てを捧げてくださった前で、僕らも捧げたい、と思うように変えられます。全部イエス様のものです。そして与えられているイエス様のものの管理を任されているだけです。血だらけで何もかも捨て、手放して、与えて、命まで与えて愛してくださったイエス様をしれば知るほど僕らは自分から解放されます。感謝と喜びに圧倒され、神様の愛に圧倒されます。それがマケドニアの教会の人たちに与えられた溢れ出る喜びです。苦しみの中でも止まらない献身、献金です。


奉仕も献金も礼拝もイエス様から出てます。あの十字架の犠牲から全てが流れてきます。


(1ヨハネ 3:16)

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。



僕らが奉仕するとき、献金するとき、礼拝するとき、これが感謝と喜びから、つまりイエス様の十字架の愛から出ているのか、それとも義務感とか、プライドとか、よく見せようとか、そのような人間の肉の欲から出ているのか、自分に聞けばすぐわかります。それは献金に見えて実は傲慢だし、奉仕に見えるけど、実は貪りです。


源は喜びです。その喜びの源はイエス様の犠牲の愛です。全てを捨ててくださった愛です。

血だらけのイエス様を思い出しましょう。裸にされ、半殺しにされ、全身傷だらけ、顔は形が崩れているイエス様を思い出しましょう。全部イエス様からいただいた愛です。愛は犠牲です。愛は自分を捨てることです。

そのイエス様の前でほどほどに奉仕しよう、とか、傷つかない程度にしよう、疲れない程度にしよう、そんな駆け引きは消えて行きます。


(1-5)

1,さて、兄弟たち。私たちは、マケドニアの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。

2,彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました。

3,私は証しします。彼らは自ら進んで、力に応じて、また力以上に献げ、

4,聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかりたいと、大変な熱意をもって私たちに懇願しました。

5,そして、私たちの期待以上に、神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ、私たちにも委ねてくれました。



●イエス様の愛か?それとも他の動機か?


パウロがこの話をコリント教会にする理由はその献金とか愛が本物かどうか確かめるためです。つまり自分の見栄とか肉の思いでやってることなのか、義務感とか、立場を守るためとか、そんな理由なのか、それともイエス様の十字架から流れるあの犠牲の愛から出ているのかを確かめるためです。


(8-9)

8,私は命令として言っているのではありません。ただ、他の人々の熱心さを伝えることで、あなたがたの愛が本物であることを確かめようとしているのです。

9,あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。


全部捧げ切ってくださったのは僕らではなくイエス様です。

僕らはそれに感動して、僕らもイエス様の体の一部として一緒に捧げたい、という思うようになるし、それが霊的な喜びです。この喜びは聖霊を受けた人でないとわからないはずです。貧しい人と連帯するのはイエス様の願いです。



(9)

あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。


キリストは私たちの中に住んでいます。

キリストが他の誰かを豊かにするために自分自身を貧しくしたということです。あなたはどうですか?


あなたは私たちに楽しむためにすべてのものを豊かに与えてくれました。楽しむのは良いことです。同時に、私たちがイエス様と繋がっています。私たちはイエス様が願うように歩む必要があります。イエス様が命をかけて愛した人々のニーズを満たすために、自分の時間もお金も手放す必要があります。それは悲惨なことではなく、喜びであり祝福です。

受けるより与える方が幸いです。(使徒20.35)



⭕️捧げた結果。


貧しくなることはありません。

聖書は何度も言います。豊かに刈り取るし、豊かになる、と。


(2コリント 9:6)

私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。


(2コリント 9:11)あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。


ささげることは、イエス様ご自身のめぐみ、愛です。

僕らから出たものは何一つありません。

ささげましょう。主が捧げておられます!