2026年8月2日日曜日

使徒17.16-34 「愛があるから伝える」メッセージ

 使徒17.16-34

「愛があるから伝える」


だいぶ前になりますけど、ある方に言われました。

「遠藤先生が私に親切にしてくれるのは牧師の仕事だからであって、別に人間として私のことを愛したり親切にしようとは思っていない。仕事上のことだ。」考えさせられました。


僕なりの結論は、やっぱり、おっしゃる通り、もともとの本性としては僕の中からは愛が出てこないな、と思いました。若い時、就職を考えた時も、なるべく人に関わらないで一人でパソコンに向かって音楽を作る仕事を選びました。


でも、今は違うな、と思います。

神様の御霊がその人を愛しているから自分も愛したい、と思います。神様がその人を喜んでおられるから僕も喜びたいと思います。

そうじゃないと、ただ気に入った人だけ集めて、面倒な人とか意見の合わない人は距離を置くと思います。これが肉の本性です。


今日のパウロの伝道もメッセージは、知らない人たち、初対面の人たちに向けてです。しかも、相手は結構バカにした態度の人たちです。それでも伝えてます。これは、御霊の愛であり、願いです。


"私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。"

ローマ人への手紙 5章5節


今日のメッセージはパウロが頑張ったとか、そういうことではなく、神様の御霊がパウロを捉え、用いて、アテネの人たちを愛し、伝道し、宣教した、というメッセージです。


そして、今日も神様は皆さんの必要を満たし、愛で満たそうとしています。この神様に戻ってほしい、他に愛を求めるのではなくて、神様に求めてほしい、そういうメッセージです。


ポイントは以下の5つです。

① 神様が愛しているから偶像を怒り悲しむパウロ

② 何かで満たされようとする私たち

③ 神様の愛ゆえに関わり語るパウロ

④ 愛ゆえに全てを与えておられる神様

愛ゆえに悔い改めを求めるパウロ



① 神様が愛しているから、偶像を見て悲しむパウロ


(16節)

さて、パウロはアテネで二人を待っていたが、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを覚えた。


この時代はギリシャ・ローマ時代。たくさんの神々を信じて礼拝する、多神教の文化でした。

実際、この頃のアテネには、3,000以上もの神殿や神々の像があったと言われています。

いろんな神々を礼拝して大事にするのが当時の文化でした。

「町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを覚えた。」


皆さん、たくさんの偶像を見て、それを熱心に拝んでいる人たちを見た時どんな気持ちになりますか?

「まあ、人それぞれだからね」って軽く流せるでしょうか。

「好きなようにやればいいんじゃない」って思いますか?


パウロはそう思えなかったです。

心に憤りを覚えた。」

これは神様の愛ゆえの悲しみです。

パウロは、ただ偶像が嫌いだったから怒ったんじゃなくて、神様がこんなにもこの人たちを愛しているのに、だのに、本当の神様知らずに離れていることが悲しくて怒りました。愛ゆえに心が裂けるような悲しみです。全てを与えて愛してくださってるのは偶像ではなく神様です。


(25節)

神ご自身がすべての人に、いのちと息と万物を与えておられる


呼吸の一息一息、心臓の一拍一拍、そして必要な食べ物も着物も与えて愛しておられるのに、どうして自分たちを生かすことのない偽物の神様に走ってしまうのか、という悲しみです。偶像には人を生かす命を与えることもありません。


旧約聖書を読むと、神様を知っているはずのイスラエルも何度も偶像礼拝に心が移っていきます。その時、神様は怒ります。怒るのは、どうでもよかったからじゃなくて、愛している特別な宝の民だから、心を注いでいたからです。偽物に捕まって滅びないでほしい、という神様の愛です。

神様の愛がパウロに注がれています。だから悲しみ、憤ります。彼は黙っていられませんでした。


夫婦でも、本当に相手を大事に思っていたら他の人とも浮気もOK、いいよ、とはならないはずです。

愛してるからこそ、悲しみ、怒ります。同じように、神様は「ねたむ」と聖書は言います。


(出エジプト20章4-5節)

あなたは自分のために偶像を造ってはならない。(…中略…)

それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。


この神様の愛が御霊によって注がれ、パウロは憤りました。


② 何かで満たされようとする私たち


人は神様を知らないと、何かを求め満たされようとする傾向があります。

当時のアテネは、世界一の知識人が集まる町と言われていました。

多くの偉大な哲学者を生み出した町です。知識のあるエリートたちが集まってるまちです。だのに人々は偶像を拝みます。


「アイドル」って英和辞典をみると「偶像」って出てきます。

今も、若者が「推しは神!」って言い方します。本当に神様って意味じゃないけど、「⚪︎⚪︎ちゃん神」とかいいます。「推しのおかげで幸せ」「元気をもらえる」「生きる力になる」という気持ちで「推しは神」って言い方をする人は多いみたいです。自分を満たしてくれる存在です。


推しが悪だ、という話ではないです。

自分を励ましてくれる音楽や芸術、人との関係など、人生の喜びは神様からのプレゼントです。

楽しみを与えてくださったのは神様です。だから、感謝と賛美は本当の神様にささげるべきものです。

それがまるで神様のようになって、それによって満たされようとし、それを礼拝するようになる時、それは偶像となっていきます。本当の神様だけが与えることができる霊的な平安、喜び、そして命があります。


今も昔もみんな、何かで満たされたい、と感じているようです。

何かを礼拝するように作られています。神様なしでは生きられないように作られています。

問題は、神様じゃないものを、神様のように求めることです。


※僕も神様を知る23歳より前は「音楽が上手くなれば認めてもらえる。それしかない」って思ってました。音楽ができれば「モテる、認められる、満足できる」と思ってました。

今はそう思ってないつもりだけど、何か結果を出せば周りの人に認めてもらえるし、満足もするっていう誘惑とか悪いクセは今でもちょっとまとわりつきます。


神様以外のものを偶像のように求めるのは、心の中に渇きがあるからです。

何かで埋めたい、と思うのはみんなそうだと思います。

「これさえあれば自分は大丈夫」「これがあれば幸せになれる」と思って、神様を遠ざける誘惑はあります。承認欲求も、仕事も、お金も、恋愛も、家族も SNSも神様以上に大事な偶像のようなものになりえます。


昨日妻が買った本、面白かったので少しだけ紹介します。「悪魔の格言」という本です。水谷潔先生が書きました。


「青年期は異性 中年期はお金 壮年期は地位名誉 誘惑のネタは生涯尽きず」

「神様よりも みことばよりも スマホに向かう心地よさ」


悪魔ならこういうだろうな、という話が可愛いイラストで書かれていて、わかりやすくておすすめの本です。


でも、本当の喜びと満足はイエス様との交わりです。

イエス様はおっしゃいます。


(ヨハネ15章4節)

わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。

(11節)

わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。


神様の願いです。僕らが喜びで満ち溢れるようになるためです。

神様は僕らを喜びと平安で満たそうとされています。

神様と愛の交わりの中で、喜んで生きるように作られています。


※質問です。

神様以外で満足しようとしているものはありますか?

その結果はどうですか?


③ 愛ゆえに関わり語るパウロ


だからパウロは毎日伝えます。語ります。パウロの愛ではなく、イエス様の愛です。愛するゆえに憤りつつ、人と話せる場所に出かけました。


(17節)

それでパウロは、会堂ではユダヤ人たちや神を敬う人たちと論じ、広場ではそこに居合わせた人たちと毎日論じ合った。 


興味を持ってくれる人たちもいたけど、でもバカにもされました。


(18節)

エピクロス派とストア派の哲学者たちも何人か、パウロと議論していたが、ある者たちは「このおしゃべりは、何が言いたいのか」と言い、ほかの者たちは「彼は他国の神々の宣伝者のようだ」と言った。パウロが、イエスと復活を宣べ伝えていたからである。 


今の日本語でも使う『ストイック』という言葉は、このストア派(Stoic)から来ているそうです。

もともとのストア派は、周りに振り回されず、理性を大切にして生きようとした哲学だそうです。

エピクロス派も人間の欲望とか恐れから自由になって、穏やかに生きようとした哲学です。

どちらにしても、どうしたら人生が幸せなれるか、満足できるか、って哲学です。


ある人たちはパウロの話を「このおしゃべりは、何が言いたいのか」とバカにします。

それでももっと聞きたい、と思ってくれた人もいたようです。


(19節)

そこで彼らは、パウロをアレオパゴスに連れて行き、こう言った。「あなたが語っているその新しい教えがどんなものか、知ることができるでしょうか。 


でも、新しい教えを聞きたい、というのも本当に真実を求めてるのではなくて、新しい情報を見聞きするのが彼らの娯楽というか、一時的に心を満たしてくれるものでした。そのネタの一つとして、話してください、って言ったようです。


(21節)

アテネ人も、そこに滞在する他国人もみな、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。 


今なら毎日更新されるSNSの情報をずっと見聞きすることで、時間を潰す人がたくさんいます。

スマホのない当時は人と会って新しい情報を話したり、聞いたりすることで時間潰しをしていたようです。


それでも、アレオパゴスという公共の集会ができる場所で多くの人が聞いている前で演説する機会が与えられました。パウロは神様からの知恵と愛ゆえに、考えて話しています。


(22-23節)

パウロは、アレオパゴスの中央に立って言った。「アテネの人たち。あなたがたは、あらゆる点で宗教心にあつい方々だと、私は見ております。 

道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られていない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけたからです。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを教えましょう。 


まずは、みんな宗教にアツイ方々です。これはお世辞ではなくて、みんな何かを求めてる方々です。

先日ここに着いた時、小さな祭壇、神様を礼拝するための小さな建物とか祭壇みたいなのががたくさんあって私もよく見ました。たくさんありました。その中に、『知られていない神に』っていう刻まれた祭壇がありました。


まだ、知られていない、神様のために、という祭壇があった!皆さんの知らない神様、います!

皆さんが知らない神様を教えます!本当の神様を教えます。皆さんが知らないで求めてる、拝んでいる、本当の神様を教えます。


(23節)

そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを教えましょう。 


聴く人たちは興味を持ったと思います。

まだ私たちが知らない神とは?何?私たちが求めて拝んでいる神様とはどんな神様?


パウロは神様について、はっきり教えます。

僕らが信じている神様とはどんな神様でしょう。


④ 愛ゆえに全てを与えてくださる神様


(24-25節)

この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手で造られた宮にお住みにはなりません。 

また、何かが足りないかのように、人の手によって仕えられる必要もありません。神ご自身がすべての人に、いのちと息と万物を与えておられるのですから。 


神様は世界を作った神様です。だから、人間が作った宮とか神殿とか住んでいるのではないし、立派な神社に神様がいるのではありません。そんなものがなくても家のベッドの横で神様を礼拝できます。

台所のテーブルに座りながら神様を礼拝できます。車の中でも礼拝できます。当時は車なかったけど。


(25節)

また、何かが足りないかのように、人の手によって仕えられる必要もありません。神ご自身がすべての人に、いのちと息と万物を与えておられるのですから。 


人間が「神様の家を作ってあげましょう」とか「飲み物あげましょう」とか、そのように神様が人間によって支えられているわけじゃないです。皆さんが献金してくれるのを待ってるとか、奉仕してくれるのを待っている神さまじゃないです。逆です。あなたが気づいていなくても、神様は今もあなたを愛し、必要な全てを与え、満たしたいと願っておられます。神様が「あなたが献金してくれないと困る」なんて、おかしいです。


神様は全ての人に、必要な全てを命を注いてくださっています。

今日吸った空気。朝起きられた命。心臓が止まらなかったこと。家族。昨日の食事も。天気がいいことも。草木が綺麗なことも。全部が神様からのいのちです。


何か奉仕をしたら「すばらしい」って人はいうかもしれないけど、その力もお金も全部神様からもともと与えられたものです。僕らは神様の命の中で生きて動いています。


(27-28節)

確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。

『私たちは神の中に生き、動き、存在している』のです。あなたがたのうちのある詩人たちも、『私たちもまた、その子孫である』と言ったとおりです。 


人間に支えられる神様ではありません。人間に全てのものを豊かに与えてくださる神様です。


このカギ括弧の言葉『私たちは神の中に生き、動き、存在している』『私たちもまた、その子孫である』

これは、アテネの人たちがよく知ってる詩の言葉です。

相手の人たちが知ってることを使って、本当の神様のことを伝えようとしています。


神様はいつも相手に合わせます。相手の文化に合わせ、相手の知っている言葉遣いをします。

ギリシャ人にはギリシャ人のように、伝えます。


これを聞いた人たちは、うん、なるほど、っと思ったはずです。『私たちは神の中に生き、動き、存在している』というのは、いつも彼らが言ってたことだからです。

ところがこれで終わりません。パウロは悔い改めを求めます。


愛ゆえに悔い改めを求めるパウロ


パウロはどんな相手にもちゃんと悔い改めを求めます。

愛することは、相手に嫌われないように、荒立てないようにすることではなくて、相手が神様の裁きに会って滅びないようにすることです。ちゃんと悔い改めて神様に戻るように教えます。


(29-30節)

神である方を金や銀や石、人間の技術や考えで造ったものと同じであると、考えるべきではありません。 

神はそのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます。


悔い改めとは、神様へ体の向きを変えること。神様に戻ることです。愛してるから戻ってきなさい、全てを与えている私のところにきなさい、と神様が招いています。それに応えて方向転換することです。


悔い改める大事な理由は、将来、裁きがあるからです。

もしも崖に向かって走っている人がいたら、嫌われても「止まれ!」と叫ぶのが本当の愛です。

悔い改めを伝えないのは、相手が裁かれることを黙って見てるかのようです。

神様は偶像を拝む人たちを見放すのではなく、放っておくのでなく、裁かれないように戻ってきなさい、と呼んでおられます。


(31節)

なぜなら、神は日を定めて、お立てになった一人の方により、義をもってこの世界をさばこうとしておられるからです。神はこの方を死者の中からよみがえらせて、その確証をすべての人にお与えになったのです。」 


神様の裁きはあります。だから僕らにも今日も悔い改めるように命じておられます。

神様は私たちが偶像や罪によって滅びるのを黙って見ていられません。

神様は偶像礼拝を憎みます。怒ります。やがてそれらは神様の裁きによって滅ぼされます。


でも、神様は愛しています。だから、裁きを、身代わりにイエス様に負わせました。

イエス様は神様の罪への怒りと呪いを十字架で背負って裁きを受けてくださった。


十字架は、神様の裁きがある証拠です。そして、復活は、このイエス様が本当に神様である証拠です。

イエス様は今日も生きておられます。

愛し赦してくださっています。僕らを喜びで満たそうとしています。


さっきも読みました。


(ヨハネ15章4節)

わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。

(11節)

わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。


パウロが「死者の復活」の話をした瞬間、「ある人たちは笑ってバカにした。」

「はいはい、もう意味分かんないこと言ってるー」そんな感じだった。


(32節)

死者の復活のことを聞くと、ある人たちはあざ笑ったが、ほかの人たちは「そのことについては、もう一度聞くことにしよう」と言った。 


それでも信じて悔い改めて従う人もいました。


(34節)

ある人々は彼につき従い、信仰に入った。その中には、アレオパゴスの裁判官ディオヌシオ、ダマリスという名の女の人、そのほかの人たちもいた。 


⚫︎適用


神様は愛するゆえに、人が神様以外で満たされようとするのを嘆いています。戻ってほしいと願っています。今日も招いてくださっています。


悔い改めを要求するのは、神様の愛ゆえです。

パウロが悲しみながらも、怒りながらも伝えるのは神様の愛ゆえです。

愛は神様によって与えられます。神様が愛しています。

だから今度は、僕らも愛しましょう。だから、僕らも伝えましょう。

イエス様を知らずに偶像を求めてしまっている人たちを僕らも愛しましょう。見放さずに、距離を置かずに関わり、伝えましょう。

神様の御霊の愛は僕らを通して隣人に流れていきます。


これから聖餐をします。

聖餐はイエス様が僕らを愛し、身代わりに割かれたこと、血を流されたこと、そうやって赦し、愛してくださっていることを思い出させてくれます。


パンを食べることは、イエス様の御霊が僕らの中に住んでおられることのしるしです。