聖書は「国と力と栄えはあなた(神様)のものです」と教えます。全ての栄光を主にささげよ、と何度も聖書は繰り返します。僕ら人間が何かできたと思っても、その全て主から与えられたものです。全ての出来事は神様のご支配の中にあります。だから僕ら人間は神様にああしてください、こうしてくださいと命令したり教えたりするのではなく、神様に教えられ、神様に聞き従い、神様に感謝するように造られています。すべての苦しみも、悪い出来事も神様のご支配の中にあるし、神様の栄光を現すために有益です。ムダなことは一つもありません。
(ローマ8:28)
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
ダビデと600人の兵士はアキシュ王にしたがって自分の町を留守にしました。その時に最悪なことが起こります。町に残していた家族すべてが捕まって略奪され、町は焼き払われていました。
(1-5節)
ダビデとその部下が、三日目にツィケラグに帰ってみると、アマレク人がネゲブとツィケラグを襲ったあとだった。彼らはツィケラグを攻撃して、これを火で焼き払い、そこにいた女たちを、子どももおとなもみな、とりこにし、ひとりも殺さず、自分たちの所に連れて去った。ダビデとその部下が、この町に着いたとき、町は火で焼かれており、彼らの妻も、息子も、娘たちも連れ去られていた。ダビデも、彼といっしょにいた者たちも、声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった。ダビデのふたりの妻、イズレエル人アヒノアムも、ナバルの妻であったカルメル人アビガイルも連れ去られていた。
ダビデも部下たちも泣く力がなくなるほど泣きました。
さらに兵士たちは自分たちを連れて町を留守にしたダビデを憎み殺そうとさえします。
(6節)
ダビデは非常に悩んだ。民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩まし、ダビデを石で打ち殺そうと言いだしたからである。しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。
こんなにひどい出来事も神様のみ手の中です。神様はこの状況の中でも信仰を与え、神様に聞き従う力を与えてくださいました。
(8節)
ダビデは主に伺って言った。「あの略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」するとお答えになった。「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」
神様の言葉は必ず実現します。
誰が町を破壊したのか、誰が略奪隊なのかさえわかりません。それでも神様は「必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる」とおっしゃいます。ダビデは神様の言葉を信頼して進みます。が、600人の兵士全員が追いかけることができたのでなく、200人は疲れ切って、途中でリタイヤしました。
(9-10節)
そこでダビデは六百人の部下とともに出て行き、ベソル川まで来た。残された者は、そこにとどまった。
ダビデと四百人の者は追撃を続け、疲れきってベソル川を渡ることのできなかった二百人の者は、そこにとどまった。
神様から力が与えられた400人だけで略奪隊を追いかけ、そしてすべての家族と持ち物を奪い返すことができました。
(17-20節)
そこでダビデは、その夕暮れから次の夕方まで彼らを打った。らくだに乗って逃げた四百人の若い者たちのほかは、ひとりものがれおおせなかった。
こうしてダビデは、アマレクが奪い取ったものを全部、取り戻した。彼のふたりの妻も取り戻した。
彼らは、子どももおとなも、また息子、娘たちも、分捕り物も、彼らが奪われたものは、何一つ失わなかった。ダビデは、これらすべてを取り返した。
ダビデはまた、すべての羊と牛を取った。彼らはこの家畜の先に立って導き、「これはダビデの分捕り物です。」と言った。
すべてが神様の恵みでした。400人に力が与えられたこと、すべての家族取り戻せたこと、さらに戦利品が与えられたこと、全部が神様の力、神様の栄光、神様の助けと勝利でした。人間によるものではありません。ただ、神様が良くしてくださったことを感謝するのみです。
ところが、中には「われわれが取り戻した」(22節)と言って自分の手柄にし、疲れてとどまっていた200人を見下し、戦利品を分けない、という人たちがいました。ダビデは戦利品はすべて「主が賜った物」と言い、戦いに勝ったのは主が守り、敵を渡してくださったからだと言います。人の力でも栄光でもありません。(23節)
(21-23節)
ダビデが、疲れてダビデについて来ることができずにベソル川のほとりにとどまっていた二百人の者のところに来たとき、彼らはダビデと彼に従った者たちを迎えに出て来た。ダビデはこの人たちに近づいて彼らの安否を尋ねた。
そのとき、ダビデといっしょに行った者たちのうち、意地の悪い、よこしまな者たちがみな、口々に言った。「彼らはいっしょに行かなかったのだから、われわれが取り戻した分捕り物を、彼らに分けてやるわけにはいかない。ただ、めいめい自分の妻と子供を連れて行くがよい。」
ダビデは言った。「兄弟たちよ。主が私たちに賜わった物を、そのようにしてはならない。主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ。
すべてが神様の恵みです。最悪の出来事の中でも神様への信頼による勝利が与えられました。それは人の力ではなく、神様からの贈り物です。進んで行くことができた400人も、途中で留まっていた200人も同じ神様の恵みの中にいます。そこに優劣はありません。ダビデは、神様から与えられた戦利品だから、戦いに行った人もそうでない人も同じく分けるようにと言います。
(24-25)
だれが、このことについて、あなたがたの言うことを聞くだろうか。戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。共に同じく分け合わなければならない。」
その日以来、ダビデはこれをイスラエルのおきてとし、定めとした。今日もそうである。
今も、力が多く与えられた人も、そうでない人もいます。同じ神様がそれぞれにちょうど良く与えてくださっています。そこに優劣はありません。僕ら人がすべきことは、その全てを神様に感謝して良いものを隣人と分け合うことです。与えられた賜物や力の差を比べあったり、見下したり、羨んだりする必要はありません。
大きなことをする力や信仰が与えられたら神様からの賜物として感謝しましょう。僕らから出たものではありません。力が足りなくてとどまる人がいたらそれもちょうどいい分です。とどまることも休むことも神様からのものとして感謝しましょう。そこに優劣はありません。
力も能力も人間関係も持ち物も、全部神様からちょうどよく与えられたものです。比べあったり、見下したり、羨んだりする必要はありません。僕らが与えられている量も中身も一人一人違います。感謝しましょう。僕らは互いに助け合うように作られています。すべてのものは神様の完璧な知恵とご計画の中にあります。ハレルヤ!
(1コリント 12:25-26)
それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
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