エレミヤ52.1-16
聖書は神様の裁きの深刻さをはっきりと伝えています。その光景は凄まじいものですが、聖書はそれを隠しません。神様に背いた王は目の前で自分の子どもたちが虐殺される光景を見せられ、その後で目をつぶされて死ぬまで監禁される生き地獄を経験します。裁きは僕らが想像するレベルを超えて深刻です。
"バビロンの王は、ゼデキヤの息子たちを彼の目の前で虐殺し、ユダの首長たちもみなリブラで虐殺した。
さらに、ゼデキヤの目をつぶし、彼を青銅の足かせにつないだ。バビロンの王は、彼をバビロンへ連れて行き、彼を死ぬ日まで獄屋に入れておいた。
第五の月の十日、バビロンの王ネブカドネツァル王の第十九年のこと、バビロンの王の家来、親衛隊の長ネブザルアダンがエルサレムに来て、
主の宮と王宮とエルサレムのすべての家を焼き、そのおもだった建物をことごとく火で焼いた。"
エレミヤ書 52章10~13節
ゼデキヤ王は神様のことばを聞いているのに「うなじを固くし、心を閉ざして、イスラエルの神、主に立ち返らなかった。」(2歴代誌36章13節)とあります。
「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6.23)「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ6.7)自分の子どもが苦しみながら虐殺されるのを見せられるのは悲惨です。これは神様の裁きの大きさを僕らに伝えています。
でも同時に、これは「人を怖がらせる残酷な話」だけでありません。
神様ご自身がこれを体験されました。神様は目の前で愛するひとり子が虐殺されるのを目撃しました。これは神様にとっても究極の悲しみ、苦しみ、痛みです。それでも神様は「ご自分から」愛するひとり子イエス様を神様の裁きを受けるものとして差し出しました。イエス様が「私たちのためにのろわれたものとなって」くださるためです。(ガラテヤ3.13)
神様はひとり子を手放し、目の前で虐殺されるのを見て苦しみ、僕らを赦し解放されました。これが神様の愛の深さです。神様の怒りがなくなったのではありません。それは想像するレベルを超えて深刻です。でも、その裁きのために神様がイエス様を手放し与え、苦しんでくださった愛が示されています。
"神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。"
ヨハネの福音書 3章16節
僕らが救われるために支払われた代価はイエス様を手放し殺すこととになった神様の究極の悲しみです。愛と恵みのための犠牲は大きすぎます。僕らは「救われたラッキー」という軽いものではありません。主を恐れ、たたえ、感謝し、ささげましょう。赦しの代価は大きすぎます。
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