2024年4月21日日曜日

出エジプト15章1-21節 与えられる天国の歌  4月21日メッセージ

 聖書箇所 出エジプト15章1-21節 

タイトル 与えられる天国の歌  4月21日メッセージ



●イントロ 賛美は礼拝の中心


賛美の歌はもちろん神様に捧げる歌です。でも、もう一つ大事な面があって、賛美の歌の歌詞は私たちに対するメッセージを伝えます。教会によっては30分ぐらいずっと歌い続けて、最初に4曲とか5曲とか賛美する、そういう礼拝スタイルがあります。みなさん、30分ずっと止まらず次々と歌うスタイルどう思いますか?この質問をすると、すごくいい、感動する、という人と、長すぎる、疲れる、という人に分かれます。


神様を知らない人にとっては、なんでこんなに長く歌うんだろう、意味がわからん、と思うでしょう。自己満足だとか言われるかもしれません。僕も昔はそう思っていました。


聖霊が与えられた人にとっては歌詞の内容ひとつひとつが神様から与えられたメッセージです。歌うほどに、神様が自分に語りかけ、自分も神様に語りかける、神様との親密な交わりです。しかもみんなで同じ歌詞、同じ心で歌えて、一緒に神様と交わることができる、最高の時間です。だから、歌が長いとか全く感じ無くなっていきます。天国にある感動と喜びに参加できるのが、聖霊によって歌う時間です。


神様との霊的な交流が賛美です。賛美の歌は礼拝の中心です。賛美こそ神様との真実な交わりの時間です。


1 モーセの歌は天国と共通する勝利の歌。


今日の歌は、イスラエル人たちが海が分かれて、そこを通って救われたときの賛美です。モーセの歌と言われています。イスラエル人たちが歌った歌です。そしてこれはメッセージです。強烈な、私たちへの励ましのメッセージです


今から3500年前といわれている歌だけどもでも同じ、この歌を与えてくださった神様が今日もこの歌詞を通して、神様が僕にも皆さんにも大事なことを教えてくださってます。


実はこのモーセの歌、天国でも歌われています。

天国の礼拝の様子が一番最後の黙示録に書かれています。そこで天にいる人々が「モーセの歌」を歌っています。今日一緒に読んだモーセの歌は天国の歌でもあります。歌詞が全く同じではないけど、歌っている場所や状況と、そして、伝えている内容は同じです。

その内容の共通点はなんでしょうか?それは、神の怒りが注がれ、自分を苦しめた神様の敵が滅び去ったことです。


(黙示録15章1節から3節)

1,また私は、天にもう一つの大きな驚くべきしるしを見た。七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。ここに神の憤りは極まるのである。

2,私は、火が混じった、ガラスの海のようなものを見た。獣とその像とその名を示す数字に打ち勝った人々が、神の竪琴を手にしてガラスの海のほとりに立っていた。

3,彼らは神のしもべモーセの歌と子羊の歌を歌った。


「最後の七つの災害を携えていた。ここに神の憤りは極まるのである。」とあります。神の怒りが降り注ぎ、滅ぼされた時の歌です。

歌っている人たちは、どんな人たちでしょうか。「獣とその像とその名を示す数字に打ち勝った人々」です。

獣と言うのは、悪魔が遣わした、この世界の支配者のことです。

この世界を支配し、人々を縛り、虐待し、苦しめてきた人が神様の怒りの裁きによって滅ぼされた時、人々は感動して、この賛美の歌を歌っています。


この状況は出エジプト記15章も同じです。

イスラエル人たちは430年間も苦しめられ搾取され踏みにじられてきました。エジプトが彼らを虐待し殺してきたことは、ここに悪魔の働きがあるからでう。天で歌われているこの歌は私たちを苦しめて支配し、搾取し、やりたい放題私たちを傷つける敵が滅ぼされた時に歌った歌です。共通点は敵である悪魔が神様の怒りにあって滅ぼされて私たちは自由になった。その時の感動の歌です。

歌詞はメッセージです。この3500年前の歌は私たちにも語りかけています。


この歌のメッセージは私たちに希望を与えることです。今、皆さんが長い時間苦しめられていて、縛られていて、もがいてきたことがあるかもしれません。そして、その背後には悪魔の存在があります。そして、僕ら自身の罪もその原因です。しかし、イエス様やがて、悪魔も、そして、罪も滅ぼしてしまいます。僕らはややがて、全てから解放され、感謝と喜びだけに満たされる時がきます。

もうすでに、イエス様は悪に勝利しています。


今はまだ、悪魔は悪あがきをして僕らを苦しめます。でも、イエス様はもう勝利が確定しています。

今の時代は、すでにイエス様が勝利が確定していることと、しかし、いまだに悪魔の活動が一定の範囲で許可され、僕らの中にも罪の影響による苦しみがあります。いまだにあります。


すでに、といまだの間に生きています。英語で、between already and not yet というそうです。


でも、この歌は悪魔も罪も、完全に消し去られることを僕らに教えてくれます。イエス様によって敵は完璧に滅び、僕らは救われ、自由になります。そして、今からそれを期待し、信じて、僕らも賛美を歌います。


苦しめられ続けているのが本来のあなたの姿ではありません。敵は滅びます。

それをもう一度私たちに教えてくれる。それが今日の歌です。


2 神の怒りと裁き


どんな状況でモーセたちが歌っているのか文脈のおさらいです。


(出エジプト記 14章29~30節)

イスラエルの子らは海の真ん中の乾いた地面を歩いて行った。水は彼らのために右も左も壁になっていた。こうして主は、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルは、エジプト人が海辺で死んでいるのを見た。


どこにも救いがないのに救われました。後ろからエジプト軍が追いかけてきます。前は海です。どこにも逃げ場がなかったのに救われました。神様は「あなたを呪うものを私は呪う」とおっしゃっていました。それが実現した日です。

430年も彼らはエジプトから呪われ苦しめられました。王様ファラオはまるで悪魔から遣わされた王のように、全ての男子の赤ちゃんを殺し、虐待し続けました。それでも神様の言葉は実現し彼らは救われました。


この歌、100万人以上のイスラエル人たちが救われて歌った歌ですが、その光景は恐ろしいものです。

目の前には、無数の死体が海辺に打ち上げられています。

海が分かれて、その中に道ができて、彼らは脱出できました。が、その後に追いかけてきて、エジプトの全部隊が海の中の道を通った時に、神様は海の水を戻し、全員溺死しました。

恐ろしい光景です。これは神様の怒りと裁きで殺された人たちをリアルに見ている時の歌です。無数の死体を見ながら、それでも自分達は滅ぼされずに救われたことを恐れを持って歌っています。


そしてその歌詞は何度もそれを歌います。


(1)

そのとき、モーセとイスラエルの子らは、主に向かってこの歌を歌った。彼らはこう言った。「主に向かって私は歌おう。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。


(4-5)

主はファラオの戦車とその軍勢を海の中に投げ込まれた。選り抜きの補佐官たちは葦の海に沈んだ。

深淵が彼らをおおい、彼らは石のように深みに下った。


(10)

あなたが風を吹かせられると、海は彼らをおおい、彼らは鉛のように、大いなる水の中に沈んだ。


聖書は何度も神様の裁きを繰り返します。


(19)

ファラオの馬が戦車や騎兵とともに海の中に入ったとき、主は海の水を彼らの上に戻された。しかし、イスラエルの子らは海の真ん中で乾いた地面を歩いて行った。


神の怒りと呪いはあります。今もあります。救いとは、神の怒りからの救いです。神の裁きがあるから救いが必要だし、裁きを逃れて救われた私たちは恐れつつ感謝します。


来週、斎藤さんがお話ししてくださる箇所はこちらです。ここでも神様の怒りと裁きがある、と明言しています。


(ガラテヤ6章7-8節)

7思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。

8自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。


人が自分の肉欲のために行動するなら、必ず神様からの裁きとして、その刈り取りをするようになります。


エジプト人たちはまさに肉欲のためにイスラエルを利用してきました。430年もです。


(15:9)

敵は言った。『追いかけ、追いつき、略奪したものを分けよう。わが欲望を彼らによって満たそう。剣を抜いて、この手で彼らを滅ぼそう。』


欲望を満たすための奴隷です。やりたい放題にできたイスラエルです。その奴隷を手放すことを惜しんで、また捕まえに行きます。イスラエル人には何をしてもよかったようです。欲望の吐口です。「わが欲望を彼らによって満たそう。」彼らのものは何を奪ってもいい。虐待してもいい、レイプしてもいいような相手でした。人間の欲望丸出しの生き地獄のような世界です。

神様は正しく裁きを行います。人間の悪を放置せず、悪魔の言いなりになる人たちを滅ぼし尽くしてしまいます。


今も目を背けたくなるようなことが世界に起こっています。僕らが知っているのはほんの一部で実際には悪魔的なことが横行していると思います。それでも神様は正しくこの世界を裁くと聖書は繰り返します。


(2テサロニケ 1:6-7)

つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、

苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。


やがて注がれる神様の怒りと裁きを表すかのように、モーセたちは目の前で殺されていく無数の人たちを見ました。


(1-2)

そのとき、モーセとイスラエルの子らは、主に向かってこの歌を歌った。彼らはこう言った。「主に向かって私は歌おう。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。

主は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。この方こそ、私の神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。


歌の中で何度も何度も、神様が敵を滅ぼし尽くした、と繰り返します

救いは、ただ神様にだけあります。

僕らのこの世界も神様は悪を一掃することを目の当たりにする日がきます。

人間が欲望丸出しで傷つけ合い、殺しあっています。

でも、それが終わる日がきます。


僕らも神様の裁きを受けて滅ぼされる側だったけども、救われました。

まだ悪魔は滅ぼされていないけど、でも、敵は滅ぼされることが決まっています。ここに希望があります。


今僕らが感謝して歌うのは、それを知って、すでに感謝しているからです。


3 無数の溺死体と十字架上のイエス様


モーセとイスラエルは、神様の怒りを見ました。無数の死体を見て歌いました。神様の怒りがあること、そして、救われたことをはっきりと知って歌いました。


僕らも、歌うときに見上げる姿があります。神様の怒りを受けて呪われて、捨てられている姿があります。神様の怒りが注がれて殺された姿があります。誰だと思いますか?十字架のイエス様です。


イエスキリストの十字架の姿を知り、あの血だらけの姿を見て、神様の怒りはある、と知ります。神様の裁きはあります。そして、その神様の怒りと裁きは、僕らの上ではなく、イエス様の上に注がれ、イエス様が裁きを受け、神の怒りを受け、呪われて滅ぼされた、と知ります。

イエス様の十字架の犠牲によって僕らは救われました。

天国でも、イエス様はほめたたえられています。が、それは栄光の姿でありながら、でもやっぱり屠られたとみなされる子羊の姿です。天国の礼拝者たちは歌います。


(黙示録 5:12)

彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」


イエス様は天国でも神様の怒りと呪いが注がれ、殺され、傷つき、血を流してくださった羊のようです。

あの死刑によって僕らは救われました。

神様の怒りと裁きは、イエス様に注がれ、僕らは免除されました。


イスラエルは無数の溺死体を見ながら、恐れを持って、神様をほめ讃えました。


(1-2)

そのとき、モーセとイスラエルの子らは、主に向かってこの歌を歌った。彼らはこう言った。「主に向かって私は歌おう。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。

主は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。この方こそ、私の神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。


自分の罪深さを知り、自分が救われる資格は何もないことを知っている人には、神様への感謝と賛美も大きいです。だからイエス様は教えます。貧しい者は幸いです。悲しむ者は幸いです。飢え乾くものは幸いです。

神様への賛美は喜びと共に裁きを行う神様への恐れがあります。


(出エジプト記 15章11節)

主よ、神々のうちに、だれかあなたのような方がいるでしょうか。だれかあなたのように、聖であって輝き、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行う方がいるでしょうか。


賛美は主の裁きを知ることです。そして、そこからの救いと解放を知ることです。

賛美には救いの喜びがあります。そこには神の怒りがセットであります。神の裁きへの恐れがセットであります。単に楽しい雰囲気を作り上げたり盛り上げることでもなく、イエス・キリストの十字架を見上げることです。そしてそこから救われた私たちへの神の愛と恵みを歌うことです。


◆詩音との面談で教えられたこと


詩音がKBIですごく教えられたことを分かち合ってくれました。


(申命記12章7節)

そこであなたがたは家族の者とともに、あなたがたの神、主の前で食事をし、あなたの神、主が祝福してくださった、あなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。


なぜ苦しみがいまだにあるのに、悲しみがあるのに、神様は私たちに喜び楽しみなさいと求めておられるのだろうか。


普通、私たちがお祝いするのはいつか?何かが完成し、成し遂げられた時。病気が癒やされ、苦しみから解放された時に祝います。今の僕らはいまだに苦しみがありますが、でも、イエス様はすでに十字架の上で「完了した」と言ってくださっています。だから私たちは今から将来の約束を信じて、お祝いし、感謝し喜ぶことが出来ます。詩音はすごく教えられて、モヤモヤがなくなり、すごく嬉しくなった、と言っていました。


イエス様の十字架によって、自分の罪に対する裁きがなくなったということ。罪の問題は自分の力で解決できないけど、イエス様がそれを引き受けて、呪われ、死んでくださったこと。僕はもう無罪とされていること。僕もイエス様を信じた時に、すでに死んだとみなされ、今はイエス様が僕の中に生きている。いまだに苦しみはあるけど、最後には完全に解放され栄光に入ることが確定しているから、だから、神様は今から喜びなさ、楽しみなさい、とおっしゃっている。


祝いなさい。喜びなさい。私たちは既に解放されている。イエス様によって完全に無罪とされ、解放され、勝利する人生が約束されている。だからそれを信じて感謝し喜び祝うのだ、と詩音が喜んでいました。


4 主だけが力、主だけがほめ歌


自分達には誇るものは何もありません。イスラエル人たちは救われるための力もなかったはずです。賛美と感謝の歌を歌えるはずなんてなかったはずです。でも、それら全てが与えられました。だから、主が私の力、またほめ歌です。自分から出た歌ではないし、自分が勝利したのでもありません。


(出エジプト記 15章2節)

主は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。この方こそ、私の神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。


自分達の力はなかったはずだし、文句や不安しかありませんでした。ただ、神様が約束通りに解放してくださり、祝福を与えてくださった、それだけです。

彼らの手柄は一つもありません。

神様があなた方は救われる、あなた方は祝福される、と何百年も預言していた通りです。

イスラエルがいい人だったからではなく、ただ、神様が約束した通りになったことです。


賛美が与えられました。賛美は彼らから出たものではなく、神様からの賜物です。賛美は賜物です。神様の力も賜物です。救いも賜物です。


同じように、僕らにも手柄はありません。文句だらけ、不満だらけ、罪だらけの僕らが、ただ、神様の愛とめぐみによって裁かれず、救われ、赦され、神様の子どもとなりました。手柄はありません。


だから、僕らも同じように、歌います。


(出エジプト記 15章2節)

主は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。この方こそ、私の神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。


私が作る歌ではないです。私が頑張った救いでもないです。


賛美は私たちから出たものではないし、まして作るものではないです。神様から与えられる賜物です。

賛美は神様から与えられます。三位一体の神様の中には愛と尊敬の交わりがあります。その愛の交わりに入れてもらい、一緒に神様に歌うのが、賛美です。僕らが作り出すのではなく、御霊が歌わせてくださいます。御霊が祈らせてくださいます。「主は私の力、また、ほめ歌。」


歌がうまいかどうか関係ありません。神様の力によって、神様から与えられる聖霊によって歌っているのか、それとも自分の力、自分の頑張りや自分の演奏や歌になってしまっているのか、自分に聞いてみましょう。賛美は神様ご自身との交わりです。賛美を与えてくださるのは聖霊です。聖霊に満たされた時に、どうなるか、聖書は言います。


(エペソ5.18-19)

御霊に満たされなさい。

詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。


大事なのは、自分の力で歌っているのか、それとも聖霊によって神様との交わりに参加さえてもらっているかどうか、です。主が歌わせてくださるその賛美に私はゆだねているかどうかが大事です。

この口も心も、神の栄光をほめたたえる口、神様を賛美する心として用いられます。


●まとめ


神様の怒りと、そこからの救いの歌は、この出エジプトの時代から最後の黙示録に至るまで、天では響いています。天の礼拝での賛美が聖霊によって私たちの賛美となっていきます。天と地が1つになっていくのが礼拝であり賛美です。


もう、イエス様は完全に勝利し、悪魔は滅ぼされ、僕らは救われ、栄光を受けることが決まっています。天では先輩たちがすでに喜んで歌っています。


御霊が天の賛美に合わせて、地上にいる私たちにも賛美をさせてくださいます。天が開かれて僕らにもその栄光を見上げさせてくださいます。主が力、主がほめ歌です。賛美は作るものではなく、主の歌に僕らが心合わせて行くこと。御霊によって参加することです。


天では神様の栄光だけがあります。そして、地上にいる私たちも、神様の栄光だけを褒め讃えます。そうさせてくださるのが聖霊の働きです。今から感謝して歌いましょう。歌うことは礼拝そのものです。ハレルヤ!


ーーー

考えてみましょう

1 賛美が神様との親密な交わりか、退屈な時間か、両者の違いはどこに原因があるのでしょう。

2 苦しみや悲しみがありながら喜び賛美できる理由はなんでしょう。

3 目の前の無数の溺死体と十字架にはどんな関係があるのでしょう。

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