2023年3月14日火曜日

マルコ8.14-21

 マルコ8.14-21メッセージ 3/12  「パンの足りない舟に乗ろう」


1ヵ月前の執事会報告の中で、教会の口座の預金残高がなくなってしまいました。それで運営基金から250,000円を借りたんだけども、それもなくなってしまいました。 3月は牧師の給料は自動送金はではできなくなりました。今月からは月末、現金である分だけをお渡しする形になります、という言う発表がありました。祈りの課題にもそれが出されるようになりました。

それを聞いて、いろんな反応があると思います。ざわつく人、心配する人、月定献金してない人が多いのでは?とか、そもそも人件費が高すぎではないか、とか、牧師はバイトした方がいいのではないか、とかいろんな反応がありました。


その状況の中で、今月末までに牧師夫妻は来月のイスラエル建国記念式典での演奏、またポーランドでの演奏のために自費で90万円振り込まなければならない、また、息子の学費も振り込まなければならない、ということもあって、いろんな不安や不満があるかもしれない、とう状況で、今日与えてくださったのは、まさに、弟子たちのパンが足りない、食べ物がない、という問題です。


一緒にイエス様の答えを聞いて行きたいと思います。イエス様の答えは


19,わたしが五千人のために五つのパンを裂いたとき、パン切れを集めて、いくつのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「十二です。」

20,「四千人のために七つのパンを裂いたときは、パン切れを集めて、いくつのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「七つです。」

21,イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。」


今日、東栄教会の皆さんは、イエス様と一緒にパンが足りない船、一つしかパンがない船に一緒に乗りたいと思います。

イエス様は東栄教会をわざわざそのような状況にしてくださったかのようです。パンが足りない船に乗せてくださったかのようです。


●心配が大きすぎてイエス様の言葉が聞こえない弟子たち。


13,イエスは彼らから離れ、再び舟に乗って向こう岸へ行かれた。

14,弟子たちは、パンを持って来るのを忘れ、一つのパンのほかは、舟の中に持ち合わせがなかった。

15,そのとき、イエスは彼らに命じられた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい。」

16,すると弟子たちは、自分たちがパンを持っていないことについて、互いに議論し始めた。


食事当番があったかもしれません。イエス様と12人の弟子で船に乗って行きます。今日の食事当番はアンデレとか。ところが船に乗ってしばらく行ってみると誰かが言います。ごめん、やばい、どうした、ごめん。パン持ってくるの忘れた。何やってんだよお前。今何個あるんだよ。ごめん、いっこしかない。13人でどうやって食べるんだよいい加減にしてくれよ。


そのタイミングで、イエス様が「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい。」と言われました。


ここで、イエス様がおっしゃったパン種、と言うのは明らかに象徴的に罪のことを言っています。詳しくは後で説明します。ここでは、小さな罪が全体に影響を与えてしまうから、くれぐれもその罪に気をつけなさい、とおっしゃいました

ところが、弟子たちは全くその意味がわからなかったようです。イエスのパン種のことをおっしゃった途端にほらやっぱりパンがなかったから、パンが持ってくるの忘れたからイエス様に怒られてるよ、と理解するわけです。 16節自分たちがパンを持っていないことについて議論を始めました。


16,すると弟子たちは、自分たちがパンを持っていないことについて、互いに議論し始めた。


食料がないことを心配し、その対策をどうするか、誰のせいか、全部イエス様を忘れた話ばかりです。

自分たちの力で解決することばかり考えて、イエス様がいくら大事なことことを話しても、入って来ません。聞いていても、自分の考えが全てになってしまって、きっとイエス様はパンがないことを怒ってるんだ、と思い込みます。


私たちもよくあることです。自分の考えとか興味とか関心が真っ先にきてしまって、イエス様の話が入ってこない、よくあることです。たとえイエス様の話を聞いていても、自分の都合に合わせて話を聞いてします。きっとこういう意味だ、と勝手に解釈してしまうということがあります。


きっとイエス様もパンがないことを怒っているんだ、食べ物がないことを責めているんだ、と思いこみます。

自分の世界や考えだけに囚われている姿です。


イエス様は食べ物がないことを責めたことは一度もありません。互いに責めあったり裁きあったりしているのは弟子たちです。それをイエス様もきっとそうだ、それをイエス様の言葉を利用して、思い込みがあると、僕らはイエス様の言葉をまっすぐに聞けなくしてしまいます。


●神様からの恵みを覚えて感謝することの大切さ


弟子たちが、いつまでたっても食べ物が足りないことばかり議論してるがっかりしながら言われます。


17,イエスはそれに気がついて言われた。「なぜ、パンを持っていないことについて議論しているのですか。まだ分からないのですか、悟らないのですか。心を頑なにしているのですか。

18,目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。


今このボート13人いて、パンが1つです。何か問題ありますか?もう忘れたのですか?と言うことです。

今まで何を経験してきたんですか。5つのパンで5000人の男性がお腹いっぱいになりました。その後、4000人の時はパンが7つでした。みんな満腹しました。8章はその話の続きです。計算すると、少なくてもパン1個あたり1000人までオッケーなんです。あなた方忘れたのですかと聞きます。そのような、私と一緒にいると言うのは、神様が与えてくださり豊かに祝福してくださる神様の国の表れだった、ということを2回も経験しています。今、パンが1つです何か問題ありますか?と言うことです。


私たちクリスチャンは、何度も経験しているはずなんです。あの時に神様がよくしてくださった、あの時も神さまはいてくださった。助けてくださった、神様は祈りに答えて何度も良いことをしてくださった、それを経験しています。けれども新しい問題が出てくると、やはり神様を恵みを忘れて自分の考えの中だけであれが悪い誰が悪いどうしたらいいか、と議論を始めてしまいます。弟子たちの姿は私たちの姿です。


 17節、18節、この叱責の言葉は、僕らに言われている言葉です。


17,イエスはそれに気がついて言われた。「なぜ、パンを持っていないことについて議論しているのですか。まだ分からないのですか、悟らないのですか。心を頑なにしているのですか。

18,目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。



弟子たちが、あまりにも記憶喪失のようなので、イエスももう一回具体的に思い出させてくださいます。



19,わたしが五千人のために五つのパンを裂いたとき、パン切れを集めて、いくつのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「十二です。」

20,「四千人のために七つのパンを裂いたときは、パン切れを集めて、いくつのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「七つです。」

21,イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。」


弟子たちはちゃんと見ていたし体験していたし、覚えていました。でも、悟ってなかったようです。


イエス様は、どれだけ豊かに余ったか、どれだけ恵みが充分だったか、ということを思い出させてくださいます。イエス様はおっしゃいます。まだ悟らないのですか?


私たちにも言われています。18,目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。


※具体例


今まで神様が助けてくださった経験、みんなあると思います。あの時、本当にお金がなかったけど助かった、あの時もこうだった、みんな経験があります。お金でなくても、時間がなかった、人がたりなかった、力がなかった、僕らは足りない面ばかり数えて心配してしまうのが僕らです。ところが、聖書は主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな、と言います。時間がなかったのに、守られたこと、力もお金もなかったのに助けられたこと、死にそうだったのに、あんなにひどい病気だったのに、みんなたくさん経験があります。でも、忘れてしまって目先の問題ばかりに注目しがちです。


3年前、緊急事態宣言で教会の集会も人数制限をして、5人まで、10人まで、という時期もありました。だからもう教会の会計は今まで通りはいかないのは明らかだろう、とみんな思いました。それでも、神様を信頼して他の教会とか宣教団体に1/10を捧げる対外献金をやめずに過ごしたその年の決算は過去最高の黒字でした。


献金したお金はざっくり100万円。残ったお金黒字になったお金は200万円以上


私たちにも言われています。18,目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。


あなたがたは、覚えていないのですか。」問題や不安材料を見つけるのは得意なのに、神様の恵みや感謝を覚えるのは不得意です。


イエス様は正反対で、与えられたものを少なく見えても神様に感謝し、ほめたたえる方です。



6,すると、イエスは群衆に地面に座るように命じられた。それから七つのパンを取り、感謝の祈りをささげてからそれを裂き、配るようにと弟子たちにお与えになった。弟子たちはそれを群衆に配った。

7,また、小魚が少しあったので、それについて神をほめたたえてから、これも配るように言われた。


イエスのは4000人の人の前で、パンが7つしかないとは言わなかったです。7つも与えられている神様が与えて下さった神様ありがとうございますって感謝の祈りを捧げたと書かれています。小魚が少しあった、イエス様は4000人もいるのに、小魚が少しだったとは言わなかった。小魚が与えられているってことを神様に感謝し、褒めたたえたと書いてあるんです。イエス様は感謝の人です。神様は全てのことについて感謝しなさいとおっしゃいます。それを本当になさったのはイエス様です。


4000人分のパンを持って来いとは言わなかったんです。今ある分を感謝したんです。そしてこの7つを、そして小魚を分け合うことができる恵みを喜んだんです。それがイエス様です。神様の願いは神様からのプレゼントを神様から与えられているものをみんなで分け合うことです。お金がない時、力がない時、時間がない時、もっと収入を増やそうとか、あの人に頼もうとか、こうすればうまく行く、ということよりも先に、まず今与えられているものを、お金を、食べ物を、着るものを、住まいがあることを、仲間がいること、そして何よりそれらを与えてくださる神様がおられることを感謝して、与えられたものを分け合って助け合って、愛し合って行こう、そこに喜びと恵みは溢れる、というのが聖書の教えです。


イエス様は誰よりもまず感謝する方です。

聖書は献金について考えるときも同じように教えます。


2コリント8章カギカッコは遠藤がつけました。


11,喜んでしようと思ったとおりに、「持っているもの」でやり遂げてください。

12,喜んでする思いがあるなら、持っていないものに応じてではなく、「持っているもの」に応じて受け入れられるのです。


ないものを数えて心配したり議論したりするよりも、与えられているものを数えて感謝して分け合いましょう。お金も、力も、時間も、健康も今与えられているものは神様からのプレゼントです。それを感謝して持っているものに応じて、与えられているものに応じて喜んで捧げる、そのことが神様の喜びであり、結果的に感謝と賛美はもっともっと満ち溢れるようになります。



与えられている小さなものをを感謝して分け与える人はもっと豊かに与えられ、ますます感謝する人になります。


2コリント9章

11,あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、すべてを惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して神への感謝を生み出すのです。

12,なぜなら、この奉仕の務めは、聖徒たちの欠乏を満たすだけではなく、神に対する多くの感謝を通してますます豊かになるからです。


イエス様は少しのパンを感謝して分けた時に、いくつ余りましたか?と聞きます。答えは、5000人の時は12かご。4000人の時は七かご。まさに、人々の欠乏を満たすだけでなく、神様に対する感謝が溢れ、そして、さらに豊かに余るほどだった。


今与えられているお金も、時間も。健康も神様からの預かりものです。それを小さいとか少ないとかないとか言わずに捧げ、分け合いましょう。みんなが満たされるだけでなく、ますます喜びと感謝を持って神様を賛美するようになります。


私たちの罪の性質は、自分で努力したこと、自分で頑張った事ほど手放さない傾向があるようです。それが、パリサイ人のパンだね、ヘロデのパン種。


●くれぐれも注意する2つのこと。


15,そのとき、イエスは彼らに命じられた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい。」


くれぐれも、注意しなさい、とおっしゃったのはパリサイ人のパン種。ヘロデのパン種。

「パリサイ人」の本質は律法主義 。律法を行なった自分の功績を救いの根拠とします。こんなに良くやってますよ、というのが自分の正義です。自分の行いによる正義です。自分はこんなに正しいんだから、神様も認めてくださいよ、良くしてくださいよ、祝福してくださいよ、神様を動かそうとする人です。また、周りの人にも自分の行いで良くしてもらおうとします。自分の正義で周りをコントロールしようとする高ぶりです。頑張ってる人ほど、それを手放さない傾向があるようです。


彼らはパンを忘れたことで互いに、誰が悪いのか、こうなったのは誰のせいか、と裁きあいます。そんな彼らに、くれぐれも注意しなさい、パリサイ人の高ぶりのたねがもう、入ってますよ、自分を正義とする種がもう入ってますよ、くれぐれも注意しなさい、とおっしゃいました。


もう一つ、ヘロデのパン種です。

この時のユダヤの領主ヘロデのお父さんはイエス様が生まれた時に、2歳以下のベツレヘムの赤ちゃんを皆殺しにした人です。その息子のヘロデアンティパスは自分のメンツのためにバプテスマのヨハネの首をはねた人です。そしてイエスの命も狙っていた人。ローマ帝国の権力をバックにユダヤを支配した人です。彼が求めているのはこの世の権力と栄光です。この世の力を求め、苦労してユダヤ人たちに取り入ってこの地域の王として自分の思い通りに人を動かそうとする高ぶりです。彼が求めているのはこの世の力です。民衆に支持されること気に入られることで安心しようとします。また、ローマ皇帝に気に入られることも、安心材料です。この世の力が彼が求めているものです。


パリサイ人もヘロデも、共通しているのは神様以外の力や栄光を求め、それで解決しようとする人たちです。


僕らもどちらかの傾向があります。自分の力で自分の正義で自力で物事を解決しようとする人。

あるいは、この世の力、みんなに気に入られることとか、この世の制度とかお金の仕組みで安心しようとして解決しようとすること。皆さんはどちら系でしょう。小さなそのパン種をくれぐれも注意しなさい、とイエス様は言われます。


どちらにしても神様以外に頼り、神様以外から出てることを主張し、それで自分を通し安心し生き延びようとする考えです。くれぐれも注意しなさい、と言います。ほんの少しでも入れるなら、膨らんで全体に影響を与えるように、人生も、教会も、全てを汚染してしまいます。


このパンを忘れた。誰が忘れたのか?これからどうすればいいのか、イエス様抜きで議論をする弟子たちには、すでにパリサイ人のたね、ヘロデのタネががあったと思います。人間中心。神様の恵みではなく、見えるものに頼ろうとするタネがすでにありました。


それが全体を膨らまし、悪い影響がどんどん大きくなりそうです。

行いによって自分を誇り、見えるものに頼ろうとする小さなパン種、神様以外の力を頼ろうとするパン種が入ると、私たちはそれが態度に出ます。

まず、喜びと感謝は減ります。平安も減ります。反対に、不安も不満も増えます。高慢になり、ほかの人をさばきます。


どんなにお金持ちになっても、どんなに権力者になっても、裁きあったり比べあったりして平安がなければ意味がありません。

逆にどんなに貧しくても、与えられている小さなものを喜び感謝して分け合ってる方が良い。箴言は言います。


箴言 17:1 一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。



ある先生が言っていました。


「悔い改めてイエス様を信じた人たちは、最初はイエス様のおかげ、100パーセントイエス様のおかけです、って心から思います。ところが、クリスチャンになって十年を経過すると、隠れていた自分の中の種が芽を出し膨らんで、いつの間にか自分の正義を主張し、パリサイ人や、この世の力とか会社のやり方を教会に持ち込んで主張するヘロデの人に簡単になってしまう」


恵によって救われた と自覚していながら、僕らの中には種があります。神様以外で物事を動かそうとする種があります。くれぐれも注意しなさい、とイエス様は言われます。その危険性があります。

弟子と同じように、誰が悪いか、どうすればいいのか、とイエス様抜きで議論し、いつの間にか、見えるものによって整えようとし、この世の力、この世の富を求めてしまうそういう危険があるのです。


15,そのとき、イエスは彼らに命じられた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい。」


信仰から出ていなことはみな罪です。これをしているから大丈夫とか、これがあればうまくいく、というのはすでにパリサイ人のパン種、ヘロデのパン種です。見えるものに頼るのは信仰ではありません。


神様の恵みを数えましょう。そして感謝しましょう。見えるものを数えてあるとかないとか、でなく、見えない神様の愛と恵を数え

思い出し、感謝し、信頼しましょう。


1テモテ 6:7 私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。

1テモテ 6:8 衣食があれば、それで満足すべきです。


イエス様と一緒にパンが足りない船、一つしかパンがない船に一緒に乗りたいと思います。

イエス様は東栄教会をわざわざそのような状況にしてくださったかのようです。特別に乗せてくださいました。今までの恵みを思い出しましょう。イエス様が一緒です。感謝しましょう。


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