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2023年5月23日火曜日

創世記50.15-21

 創世記50.15-21


全ての人間の目の前に「あなたの罪は赦された」というメッセージがいつも表示されていたらいいのに、って思います。赦されて受け入れられている安心感がないと変な行動をしちゃいます。人を避けすぎたり、やたらと強がったり、正当化したり、人に受け入れられよう愛されようとしすぎたり、かわいそうな私アピールをしすぎたり、食べすぎたり飲みすぎたり、ゲームに仕事に趣味に没頭しすぎたり、みんな不安からの逃避です。全ての人の目の前に「わたしはあなたを愛している」「恐れることはありません」という神様のメッセージがいつも表示され、聖霊で満たされ平安で満たされていたらいいのに、って思います。


不安の原因は罪です。アダムとエバが罪を犯した時から人は不安になり神様を避け、自分を隠し、他人をさばき、自分を正当化するようになりました。(創世記3章)今も僕らに不安が付きまといます。「あなたの罪は赦された」「恐れることはありません」というメッセージがいつも目の前に表示されていたらいいのに、って思います。


ヨセフの兄たちも不安でした。自分たちはヨセフに昔ひどいことをしました。恨まれていていつか復讐される、といつも思っていたようです。今まではお父さんヤコブがいました。でも、ヤコブが死んだ時にパワーバランスは崩れ、いよいよヨセフに仕返しされるかもしれない、と恐れました。



(15-18)

15,ヨセフの兄弟たちは、自分たちの父が死んだのを見たとき、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪に対して、仕返しをするかもしれない」と言った。

16,そこで、彼らはヨセフに言い送った。「あなたの父は死ぬ前に命じられました。

17,『ヨセフにこう言いなさい。おまえの兄弟たちは、実に、おまえに悪いことをしたが、兄弟たちの背きと罪を赦してやりなさい、と。』今、どうか、父の神のしもべたちの背きを赦してください。」ヨセフは彼らのこのことばを聞いて泣いた。

18,彼の兄弟たちも来て、彼の前にひれ伏して言った。「ご覧ください。私たちはあなたの奴隷です。」



ヨセフは何度も「恐れることはありません」と繰り返し、安心させます。復讐はありません。兄たちは確かにひどい罪をしたけども、神様は良いことに変えてくださいました。



(19)

19,ヨセフは言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりになることができるでしょうか。

20,あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。

21,ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたも、あなたがたの子どもたちも養いましょう。」このように、ヨセフは彼らを安心させ、優しく語りかけた。



ヨセフは兄たちを赦し、受け入れ、安心させ、養い続けてくれました。それはまるでイエス様が僕らに語りかけておられるかのようです。素晴らしい使徒パウロでさえも、自分の罪に悩み「善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがない」と言い、私は、ほんとうにみじめな人間です。」と告白します。(ローマ7章)パウロにも不安は付きまとったようです。それでも、彼の答えは今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」です。


僕らのどんな失敗も過去も罪も欠点もイエス様によって完全に赦されています。人は責めるかもしれないけど、神様は「もはや、彼らの罪を思い出さない」(ヘブル8.12)「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」(ヘブル10.17)と言ってくださっています。人を責め、人をさばくならまるで自分を神様のようにする高ぶりです。だから、ヨセフは言います。「どうして、私が神の代わりになることができるでしょうか。」(19)その神様が僕らを赦し受け入れ、愛してくださっています。


聖書は繰り返し「恐れてはならない」と言います。赦され愛されているからです。恐れる人は神様の愛を忘れている人です。神様の愛は僕らの恐れを締め出します。(1ヨハネ4.18)どんな悪も罪も欠点もイエス様の恵みと愛によって赦され、忘れられ、良いことに変えられます。聖書は「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」と言います。(ローマ5.20)罪がたくさんある人はたくさん赦されている人です。欠点だらけの人は、神様の愛も受容もたくさん受けている人です。

神様は全てを益としてくださいます。悪いことさえ良いことに変えてくださいます。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8.28)


今日も僕らの目の前には福音があります。「あなたの罪は赦された」「わたしはあなたを愛している」「恐れることはありません」今日も喜びと平安に満たされる日でありますように。ハレルヤ!





2023年5月22日月曜日

創世記50.1-14

 創世記50.1-14


親が死んでも何とも思わない、と言う人はたくさんいます。ですが、人間は本来そのようには作られていません。全てが良かった世界は創世記の最初に書かれています。そこには死はなかったし、神さまと隣人を愛し一緒にいることが普通でした。元々は罪がなかったので、愛のなさとか、無関心とか、死はありませんでした。親を嫌い、死をなんとも思わない世界は罪に汚染された世界であって本当の世界ではありません。お父さんヤコブが死んだ時、「ヨセフは父の顔の上に崩れ落ちて、父のそばで泣き、父に別れの口づけをした。」とあります。(1)お父さんと死別することは、神様の意図ではありません。聖書は「罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がった」と言います。(ローマ5.12)だから、死は悲しみです。死ぬことは神様の願いとは違い、本来の姿ではありません。人間は本来死ぬことを忌み嫌います。そして死を怒ります。神様がそれを意図してないからです。イエス様でさえ、友人ラザロが死んだ時、悲しみ、憤っておられます。(ヨハネ11.35-38)もし、死ぬことを愛し、別れることでホッとするなら、それは罪に汚染されている状態です。ヨセフはお父さんの死を悲しみ、エジプトの習慣に従ってミイラにし、国をあげて70日の間喪に服します。



(2-3)

ヨセフは自分のしもべである医者たちに、父をミイラにするように命じたので、医者たちはイスラエルをミイラにした。そのために四十日を要した。ミイラにするのには、これだけの日数が必要であった。エジプトは彼のために七十日間、泣き悲しんだ。



僕らは死にます。それは罪の結果です。ヤコブも自分がエジプトで死ぬことは神様から知らされていました。(創世記46.3)そして、さらに将来は子孫たちがエジプトではなく再びカナンの地に住むようになることも知らされていました。だから、ヤコブは死ぬ前に、「私は、私の民に加えられようとしている。私をヒッタイト人エフロンの畑地にある洞穴に、先祖たちとともに葬ってくれ。」と頼みます。(創世記49.29)ヨセフはファラオの許可を得てお父さんをカナンの地の墓地に葬ります。



(7-10)

7,それで、ヨセフは父を葬るために上って行った。彼とともに、ファラオのすべての家臣たち、ファラオの家の長老たち、エジプトの国のすべての長老たち、

8,ヨセフの家族全員、彼の兄弟たちとその一族が上って行った。ただし、彼らの子どもたちと羊と牛はゴシェンの地に残した。

9,また、戦車と騎兵も彼とともに上って行ったので、その一団は非常に大きなものであった。

10,彼らは、ヨルダンの川向こう、ゴレン・ハ・アタデに着いて、そこで、たいへん立派で荘厳な哀悼の式を行った。ヨセフは父のため七日間、葬儀を行った。



(12-13)

12,ヤコブの息子たちは、父が命じたとおりに父に行った。

13,息子たちは彼をカナンの地に運び、マクペラの畑地の洞穴に葬った。それはマムレに面していて、アブラハムが私有の墓地にしようと、ヒッタイト人エフロンから畑地とともに買ったものである。



僕らは罪に汚され、死をなんとも思わないか、死を悲しみすぎる時代に生きています。ですが、イエス様によってもう一度あの罪も死もない世界に回復しようともしています。父母を敬え、という神様の願いは聖霊によって僕らの中に実現します。もう一度親を愛し敬おうと思う新しい心が与えられています。死を悲しみ、別れを悲しむ新しい心、そして、死の向こうに復活があり、永遠の住まいがある信仰と希望も与えられています。


やがて与えられる新天新地では「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。」とあります。(黙示21.4)それまでは罪の世界で死と直面し悲しみ、苦しみ、もがきます。死は悲しいです。そして死や別れの悲しみから回復するのにも時間がかかります。それでも大丈夫です。必ず回復します。今は悲しくても、変えられ途中です。悲しむ人は幸いです。希望はあります。永遠の命も回復もあります。悲しみましょう。でも、希望も見上げ続けましょう。



2023年5月18日木曜日

創世記46.31-34

 創世記46.31-34


相手に気に入られるために話を盛ったり、隠したりごまかしたりはよくある話です。もしかすると、教会もこの世に気に入られようとしがちかもしれません。エジプト人は羊飼いを嫌っていました。イスラエル人と一緒に食事をするのも忌み嫌うことでした。(創世記44.32)イスラエルの家族がエジプトに移住したとき、ヨセフは最初から家族が嫌われる羊飼いだとファラオに告げ、家族にも正直にそう言うように勧めます。



(31-34)

31,ヨセフは兄弟たちや父の家の者たちに言った。「私はファラオのところに知らせに上って行き、申しましょう。『カナンの地にいた、私の兄弟たちと父の家の者たちが、私のところにやって来ました。

32,この人たちは羊飼いです。家畜を飼っていたのです。この人たちは、自分たちの羊と牛と、所有するものすべてを連れて来ました。』

33,もしファラオがあなたがたを呼び寄せて、『おまえたちの職業は何か』と聞いたら、

34,こう答えてください。『しもべどもは若いときから今まで、家畜を飼う者でございます。私たちも、また私たちの先祖も』と。そうすれば、あなたがたはゴシェンの地に住めるでしょう。羊を飼う者はみな、エジプト人に忌み嫌われているからです。」



最初からエジプトにとってのマイナス面も正直に告げると、「あなたがたはゴシェンの地に住めるでしょう。」とヨセフは言います。(34)ゴシェンとはエジプトの中でも少し離れた場所です。偶像を拝むエジプト人と近くなりすぎず、同化せず、ちょうど良い距離で守られることになりました。神様はあらかじめイスラエルにおっしゃいました。「わたしはそこで、あなたを大いなる国民とする。このわたしが、あなたとともにエジプトに下り、また、このわたしが必ずあなたを再び連れ上る。」(創世記44.3-4)エジプトで同化せず、かつ、そこで大いなる国民となり、再びカナンの地に連れ戻すのが神様のご計画でした。


僕らも相手に気に入られなくても自分の生き方や信じていることを周りに正直に話す必要があります。それで距離ができても大丈夫です。教会とはギリシャ語のエクレシア、つまり「この世から呼び出された者たちの集まり」という意味です。なので、この世と同化しません。(ローマ12.2、2コリント6:14-18など)かと言って世の中の人と全然交際しないように、という意味ではないし、クリスチャンだけの世界にこもることでもありません。(1コリント5.9-10)罪に加わることはないけども、罪人の友となり、この世に出て行って世界を愛し、仕え、福音を伝えるのが僕らの役目です。今日もこの世に気に入られようとしすぎず、失礼にもせず、ごまかすこともせず、神様に選ばれた者として正直に神様と隣人を愛する日でありますように!


2023年5月17日水曜日

創世記46.1-7

 創世記46.1-7


神様の導きやご計画は僕らの考えよりずっと高く良いものです。僕らは人知を超えた神様のご計画を知りたいと思います。

神様のことばがはっきり示されたり、神様がすぐ近くに感じる時は、自分の考えや計画を手放した時に与えられやすくなります。反対に自分の考えや経験や計算にこだわり握っている時には神様のことばを聞いていても受け入れなかったり、聞く気が無かったりします。


ヤコブ(イスラエル)は総理大臣となった息子ヨセフに招かれ、エジプトに移住します。エジプトに入る前に彼がしたことは「いけにえを献げる」ことでした。文字通り動物を殺して神様にささげることですが、それは自分を神様に明け渡すことの表現でした。


(1)

イスラエルは、彼に属するものすべてと一緒に旅立った。そしてベエル・シェバに来たとき、父イサクの神にいけにえを献げた。



イスラエルのいけにえは、自分の全てを神様にささげます、という気持ちです。今までの自分の経験や考えとは違う、エジプト移住です。お父さんイサクの時代に神様は「エジプトへは下ってはならない。」と言われています。(創世記26.2)エジプトではなく、ここカナンが将来与えられる相続地であることも何度も聞いてきました。(創世記15.13-14、12.6-7等)でも、今はエジプト移住です。今まで知らなかったことを神様は明確に語ってくださいました。



(2-5)

2,神は、夜の幻の中でイスラエルに「ヤコブよ、ヤコブよ」と語りかけられた。彼は答えた。「はい、ここにおります。」

3,すると神は仰せられた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民とする。

4,このわたしが、あなたとともにエジプトに下り、また、このわたしが必ずあなたを再び連れ上る。そしてヨセフが、その手であなたの目を閉じてくれるだろう。」

5,ヤコブはベエル・シェバを出発した。



礼拝とは自分を明け渡すことです。自分の考えも計算も経験も思い込みも一度手放すことです。持ち物もお金も命も神様に明け渡すことが礼拝です。聖書は「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」と言います。(ローマ12.1)

神様のご計画は僕らの考えよりずっと高く良いものです。自分を手放す時に神様が素晴らしいことを教えてくださり、そして神様のご計画に参加させてくださいます。固まった神様ではなく、毎日新しく教え導いてくださる神様です。今日も自分を手放しましょう。「わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」とおっしゃいます。(イザヤ55.9)今日の1日、僕らの思い通りでなく、神様の思い通りになりますように。ハレルヤ!

2023年5月16日火曜日

創世記45章

 創世記45章


不愉快なこと、嫌なこと、恥、失敗。僕らの目にはマイナスにしか見えないことがたくさんありますが、神様の思いやご計画は圧倒的に高く、悪いことさえ良い未来のための準備として用いられます。聖書は「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」と言います。(ローマ8:28


ヨセフを妬み、奴隷として売り飛ばした罪悪感は兄たちを苦しめ、悪いことが起こるたびに「われわれは弟のことで罰を受けているのだ。」「それで、われわれはこんな苦しみにあっているのだ。」と思ってきました。(創世記42.21)でも、神様のご計画ははるかに高く、大きく、兄たちの妬みや罪さえ用いてイスラエルの家族を救うご計画でした。


総理大臣になっていたヨセフは兄たちに自分が弟だと明かします。そして、これは飢饉から神様が家族を救うためのご計画だったと説明します。



(3-8)

3,ヨセフは兄弟たちに言った。「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」兄弟たちはヨセフを前にして、驚きのあまり、答えることができなかった。

4,ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私は、あなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。

5,私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。

6,というのは、この二年の間、国中に飢饉が起きていますが、まだあと五年は、耕すことも刈り入れることもないからです。

7,神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。

8,ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。神は私を、ファラオには父とし、その全家には主人とし、またエジプト全土の統治者とされました。



僕らはいつも目先のことで一喜一憂します。でも、神様のご計画はもっともっと大きく、全てのことを良い未来のためのパーツとしてくださいます。罪や後悔さえも、です。後でヨセフは兄たちに言います。



(創世記50章20-21)

あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。ですから、もう恐れることはありません。



総理大臣となったヨセフは最高の環境に家族を迎え入れ養います。エジプトの最高の家財や食料は彼らのものとなります。今まで大事にしてきた家財もこわごわと計算して少しずつ食べていたことも過去のものとなり色あせます。最高のものが与えられるからです。ファラオは言いました。



(19-20)

おまえはこう命じなさい。『子どもたちと妻たちのために、エジプトの地から車を持って行き、あなたがたの父を乗せて来なさい。

家財に未練を残してはならない。エジプト全土の最良の物は、あなたがたのものだから』と。」



捨てられたはずのヨセフが支配者となり家族を最高の場所に迎え入れることはイエス様が僕らにしてくださることを表しています。

イエス様は人々に捨てられ、殺されました。しかし、復活して栄光の座についておられます。そして世界の王としてもう一度この地上にこられ、僕らを迎えてくださいます。その時には地上の宝は過去のものとなり色あせます。イエス様の王国が素晴らしすぎるからです。僕らは最高の家と身分が与えられます。僕らの地上の人生は寄留者であり旅人のようです。本当の家、しかも最高の家と僕らの栄光ある身分は天に用意されています。(ヘブル11.13-16、ヨハネ14.2)この希望は失望に終わることがありません。どんなことがあっても大丈夫です。イエス様を信じる人には「神がすべてのことを働かせて益」としてくださいます。ハレルヤ!



2023年5月15日月曜日

創世記44章30ー45:5

 創世記44章30ー 45:5

「どんな失敗も回復できます。」


自分の過去の失敗にがっかりしている人は幸いです。自分のせいで崩れてしまった人間関係を悲しむ人は幸いです。正しいことができずに飢え渇く人は幸いです。と、いうのは、イエス様がそうおっしゃってくださるからです。


(マタイ5.6)

義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。


今日、神様が、失敗してしまった私たちに平安を与え、過去の失敗にがっかりしてる人に許しを与え、崩れてしまった人間関係がもう一度回復するようにと願いつつお話しします。私たちにはできませんが、神様にはそれがおできになります。自分にはできない、と飢え乾く人には回復が、満足が、慰めがある、とイエス様おっしゃいます。


イスラエル旅行中ですけども、ある人のことをすごく嫌だ、と思ってさばいて、怒ってると言う自分に気が付きました。僕は事なかれ主義であんまり自分が他の人のことを嫌うとか、怒るとか、裁くとか、それによって自分も動揺するとか、そういうことに巻き込まれたくない性格なんですけど、でも、その時はある人に対して非常に不愉快だし、平安はないし、許せないし、しかも、そうなっちゃってる自分のことも嫌です。いつも平安ですって言っていたいし、いつも今日も喜びと感謝ががあります、と言いたいんだけどないんです、不愉快だし、不機嫌だし、イライラしているし、そんな自分も嫌だし、そのような状況でした。


で、そんな状況のまま、その日連れていかれた先が、ガリラヤ湖畔にある丘の上にある場所。そこは、イエス様が、この場所で群衆たちに説教された、と言われている場所です。イエス様がそこで語られたメッセージはマタイ5章。大勢の傷ついている群衆を見て話された、とあります。


6義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。


今はその場所に修道院があって、また教会が立ってすごくきれいな場所です。一緒に行ったチャプレンの永井牧師が礼拝を導いてくれたんですが、皆さん、イエス様が今日、この場所で、あなたに語りかけていることをは何でしょうか?みことばをよく聞いて黙想して祈る時間を持ちましょう、と言ってくれて、時間をくれました。その時に何度も何度も僕の心の中に繰り返されるのは、


6義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。


義とは神様との正しい関係のこと。そして、隣人との正しい関係のことです。それに飢え乾く人、とは、うまく言ってない人、僕のことです。人こそ幸いです、って何度も言ってくださいました。僕は正しくない、義ではない。でも正しくなりたいし、人を許したいし、人をさばきたくないし、平安でいたい。でも、そうなれない。足りなくて、飢え乾いている人、その人こそ幸いです、ってなんども言ってくださいました。なぜ?そんな人が幸いなのか?


正しさとは、人が作るものではなく神様から与えられるもの。あなたが人を裁き、上から目線で見下す罪。そんな不完全な僕を受け入れて、あなたの罪は赦された、と言ってくださる。神様が、あなたは無罪、と言って身代わりに十字架で神様の呪いと罰を受けてくださる、だから、あなたは満ち足りる、とおっしゃいます。


どんなに罪があっても、イエス様が十字架の上で血だらけになって苦しみ、あなたの罪は赦された、と言ってくださる。だから、幸いです、あなたは満ち足りる、っておっしゃいます。心貧しい人は幸いです、というのも同じ。あなたが心豊かで寛容だから祝福されるのではない。あなたが心貧しくて、惨めな罪びとだとわかっているから幸いです、とおっしゃいます。


全部神様からの恵みです。一方的な恵みです。

イエス様だけがあなたは無罪だ、と言ってくださいます。十字架の上で血だらけになってあなたは赦された、と言ってくださいます。

だから義に飢え渇く人は幸い。

自分の失敗にがっかりしている人は幸いです。

自分のせいで崩れてしまった人間関係を悲しむ人は幸いです。神様が満たしてくださいます。


今日のタイトルは「どんな失敗も回復できます。」


自分がやってしまった過去の罪を悲しむ人は幸い。神様が赦し、慰めてくださる。心貧しい人は幸い。天のみ国はその人のものです。


山上の教えはどこをとっても、頑張れ、とか、もっと修行したら幸せになる、って話ではない。失敗したあなたがイエス様によって赦され愛されている、あなたは無罪と呼ばれ、義と呼ばれ、満たされる、受け入れられる、という福音です。


今日このメッセージが用いられ、自分の過去の失敗にがっかりしている人、崩れてしまった人間関係を悲しむ人が、回復し、赦され、相手を赦し、本当に平安を取り戻し満たされ癒されますように。願いつつお話しします。

ーーーーーーーーー


私たちは赦され受け入れられたんだから、今度は同じようにあなたも赦しなさい、と聖書は教えます。

そして、兄弟姉妹と和解して愛し合って生きるように教えられています。


ガリラヤ湖畔の山の上でもう一度相手への怒り、不満、上から目線も手放す祈りをしました。イエス様が祈りを聞いてくださり、それを取り去ってくださいました。ただ神様の恵みです。恵みです。


自分の罪を認めること、手放すこと、その祈りは大事です。相手をゆるす祈りも大事です。

そして、もっと大事なのは、でも、それが口だけにならないようにすることです。私はあの人赦しますと口では言えます。私が悪かったごめんなさいと言う祈り、口ではできます。本音では私は悪くない、って言い張ってるときもあります。


私は謝りましたよ。と威張ってるかもしれない。悔い改めの祈りしましたよ、私は悪くない、だって祈ったし。悪いのは相手だし、と言って、祈ってるようで祈ってない、赦してるようで赦してない、悔い改めてるようで、変わってない、うわべだけの場合もあります。


今日はヨセフと兄たちの本当の赦し、和解した箇所を一緒に読んで生きます。


人と和解するには二つのことが必要です。


1 被害者が赦すこと。怒りや復讐心を手放すこと。


神様の前で、私はあの人にこんなことをされました。とちゃんと傷ついたこと、嫌だったことを報告し、その上で赦します、恨みや怒りを手放します、相手を祝福します、と祈ること。


2 加害者が悔い改めること。


神様の前に自分は罪をしました。と認めること。ごめんなさい、と認めること。


ヨセフは今39歳か40歳。エジプトで総理大臣です。でも、彼の過去は壮絶で、10代の時に兄たちに妬まれ、殺されそうになり、奴隷として売られ、何年も拘束された経験があります。兄たちから大変な傷を負わされている人です。そのヨセフが兄たちを赦します。


一方ヨセフを売った兄たちもそれを何年も後悔しています。弟にあんなひどいことをしてしまった、と罪を認めて悔い改めています。

この両者が和解するためには、互いにそれを知る必要があります。兄たちが本当に悔い改め、変えられていることを傷つけられたヨセフは知る必要があります。兄たちもヨセフに赦され受け入れられていることを知る必要があります。


それを互いに知っていくには時間がかかります。42-45章は長い箇所ですが、被害者のヨセフ、加害者の兄たちが再会する場面です。ヨセフは総理大臣になっていて、兄たちはそれに気がつきません。国中が食料飢饉になって、兄たちはひれ伏して、ヨセフに食料を売ってください、と願います。ヨセフは自分が弟だとすぐには明かさずに、兄たちが悔い改めているかどうかを時間をかけて観察します。そして、ついに両者は和解することができます。


※ある牧師は言いました。クリスチャンは赦すのは早く、何度でもすべきだ。と言います。聖書もそう言います。ある時ペテロがイエス様に聞きました。兄弟が私に罪を犯したら何度許せばいいですか?イエス様はお答えになりました。


マタイ18章

22,イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。


赦しましょう。毎日のように何かされたり被害を受けることが小さなことから大きなことまであります。事なかれにならないで、小さいことも言いましょう。傷つきました。被害を受けてます。そして、赦します。この恨みを手放します。相手を祝福します。祈り続けましょう。


被害者であるヨセフは赦しました。そしてもう一つ、兄たちが悔い改めていることが大事です。口先でなく、本当に悔い改めて変えられているかをヨセフは丁寧に観察しています。


極端な例ですけども、牧師が不祥事を起こしました。信徒に対するセクハラで訴えられました。その牧師はすぐやめさせられました。教会はその牧師を赦すべきですか?答えははい赦すべきです。では、教会はすぐにその牧師を信頼してもう一度牧師をさせるべきですか?答えはいいえ。時間がかかります。本当にこの人が悔い改めて変えられたのか見極め、信頼されるようになるには時間が必要です。その元牧師は罪を認めて悔い改める必要があります。謝る必要もあります。そして、発言や行動が変えられる必要もあります。しかも、それが周りの人にわかって信頼を回復する必要もあります。時間がかかります。



ヨセフは兄たちと和解したいし、赦しているんだけれども、あの兄たちが変わったのか、やはりあの恐ろしい兄達のままなのか、知る必要がありました。


23年前、当時17歳だった自分のことを妬み傷つけ、殺そうと言って穴に投げ込む。そのうちやっぱりお金にしようと言って売り飛ばされた。お兄さんたちが悔い改めたのか、それをみたかったのがこの43から44章です。それがわからないと、本当にもう一度和解してやり直すことができないからです。


●回復のためには相手の悔い改めを知ることが必要。


42章


16,おまえたちのうちの一人を送って、弟を連れて来い。それまで、おまえたちを監禁する。おまえたちに誠実さがあるかどうか、おまえたちの言ったことを試すためだ。もし誠実でなかったら、ファラオのいのちにかけて言うが、おまえたちは間違いなく回し者だ。」

17,こうしてヨセフは三日間、彼らを監獄に入れておいた。


21,彼らは互いに言った。「まったく、われわれは弟のことで罰を受けているのだ。あれが、あわれみを求めたとき、その心の苦しみを見ながら、聞き入れなかった。それで、われわれはこんな苦しみにあっているのだ。」

22,ルベンが言った。「私はあの子に罪を犯すなと言ったではないか。それなのに、おまえたちは聞き入れなかった。だから今、彼の血の報いを受けているのだ。」

23,彼らは、ヨセフが聞いていることを知らなかった。ヨセフと兄弟たちの間には通訳がいたからである。

24,ヨセフは彼らから離れて、泣いた。



ヨセフは兄たちが自分を売ったことを後悔していることを知ります。自分の過去の罪のせいで今苦しんでいる、ということも知ります。


でも、まだ、和解には至ってない。単に後悔しているだけか、悔い改めて行動が変えられているのか?


で、どうすればお兄さんたちが本当に悔い改めて変えられたか分かるのか?ヨセフは何度かテストします。最終テストはあの23年前と同じように、弟が監禁され、奴隷とされる、という状況になったら今度は兄たちはどうするか?というテスト。


昔は僕を殺そうとして見捨てた兄たちです。同じ状況んあったらどうする?それを観察します。ヨセフには年の離れた弟がいます。


自分と弟ベニヤミンだけはめちゃめちゃお父さんに可愛がられていました。それが原因で、自分は兄たちにいつもねたまれ憎まれました。もう実家を離れて23年立ちますが、兄たちが弟のベニヤミンをどう扱っているか、を見たかった。もちろん弟ベニヤミンにも会いたかった。

それで、弟連れてこい、と命令します。そう出ないと食料は売らない、与えない、と命令します。


2回目に兄たちは弟を連れて食料を買いにきます。ヨセフはまだ正体を明かさずに対応します。


43章


30,ヨセフは弟なつかしさに、胸が熱くなって泣きたくなり、急いで奥の部屋に入って、そこで泣いた。

31,やがて、彼は顔を洗って出て来た。そして自分を制して、「食事を出せ」と命じた。


弟ベニヤミンが自分がされたように兄たちにねたまれ、嫌われているのかどうか、それとも愛されているのか、確かめる必要がまずありました。


テスト1 それで、彼らを食卓に招いて、一番下のベニヤミンだけも、5倍の食事を出してヨセフはもてなします。それがテストでした。


43章

34,また、ヨセフの食卓から彼らの分が与えられたが、ベニヤミンの分は、ほかの者より五倍も多かった。彼らはヨセフとともに酒を飲み、酔い心地になった。


どうやら、あいつだけ、なんでご馳走が多いんだ、という妬みや比較はなかったようです。ヨセフはその食事の風景をよく見ていたと思います。



テスト2

そして、最終的なテストは、一番下のベニヤミンだけが奴隷になる売られてしまう拘束される、と言う状況を作り出すことです。


それで、食料を持たせて、家に返すときに、一番末っ子のベニヤミンのバックの中に総理大臣が使う銀の盃を入れておくと言う事を仕掛けます。そしてお前たちの誰かが私の大切な銀のカップを盗んだと言う状況作ります。そして犯人だけを拘束する、その人は奴隷になれと言うセッティングをします。


何も知らないお兄さんたちは、食事も美味しかったし、食料も手に入れた。よかったよかったと言って、ベニヤミンも一緒に帰る。途中、まるで警察が追ってくるかのようにヨセフに遣わされたものたちが追いかけてきてちょっと待て、という。大臣のカップが盗まれた。お前達の誰かが盗んだ、言います。実は最初からベニヤミンの袋に入れてありました。


44章

11,彼らは急いでそれぞれ自分の袋を地面に降ろし、それぞれその袋を開けた。

12,彼は年長の者から調べ始めて、年下の者で終えた。すると、その杯はベニヤミンの袋から見つかった。

13,彼らは自分の衣を引き裂いた。そして、それぞれろばに荷を負わせ、町に引き返した。



ヨセフは、わざわざベニヤミンだけが拘束され、奴隷にされ、他のものは家に帰れ、と言う状況を作ります


彼らは23年前とは態度が違いました。23年前はヨセフが売られても平気でした。でも今は自分のことように服を裂いて悲しんでいます。弟ベニヤミンが1人このままエジプトで拘束される、と言う状況みんな自分のことのように悲しみ、服を引き裂いて悲しんでいます。以前の兄たちとは違います。


彼らは弁解をしません。23年前の自分たちの罪のせいで、神様が今、私たちの過去の罪を暴いているんだと言います。


16,ユダが答えた。「あなた様に何を申し上げられるでしょう。何の申し開きができるでしょう。何と言って弁解することができるでしょう。神がしもべどもの咎を暴かれたのです。今このとおり、私たちも、そして、その手に杯が見つかった者も、あなた様の奴隷となります。」


弟ベニヤミンは銀の盃を盗むはずがないけども、神様の前では自分こそ罪人です、と言う認識がありますます。ユダは私たち、皆、罪人です。私たちは神様の前に何も開できません、と言ってひれ伏しています。今回の事だけではなくて、23年前からのすべての罪の結果を今受けているのだ、と言う認識があります。ヨセフは兄たちが過去の罪を認めて悔い改めている、ということを少しずつ知って行きます。それで、最後のチェックをします。


17,ヨセフは言った。「そんなことをするなど、とんでもないことだ。その手に杯が見つかった者、その者が私の奴隷となるのだ。おまえたちは安心して父のもとへ帰るがよい。」


これは最後のテストです。弟ベニヤミンだけが奴隷となる、ほかの者たちは家に帰れ、というテストです。これは、23年前と同じ状況です。自分だけが売られ、兄たちはそれをなんとも思わなかった、あの時と同じ状況です。

兄たちは全然違いました。変えられていました。特にユダは自分が身代わりになります、と言って申し出ます。


自分が奴隷になっても、自分が拘束されていいいからベニヤミンを救い、愛し、そしてベニヤミンを待っているお父さんを救いたい、と申し出ます。


44章

30,私が今、あなた様のしもべである私の父のもとへ帰ったとき、あの子が私たちと一緒にいなかったら、父のいのちはあの子のいのちに結ばれていますから、

31,あの子がいないのを見たら、父は死んでしまうでしょう。しもべどもは、あなた様のしもべである白髪頭の父を、悲しみながらよみに下らせることになります。


33,ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に変えらせてください。

34,あの子が一緒でなくて、どうして私は父のところへ帰れるでしょう。父に起こるわざわいを見たくありません。」


昔、弟を恨み、弟を売ったユダがいまは違います。この僕を身代わりにしてください。

お父さんがどんなに悲しむか、と思うと、私は耐えられません。「父に起こるわざわいを見たくありません。」私を身代わりにしてください。


この後、我慢できなくなり、自分がヨセフであることを明かします。



45章


1,ヨセフは、そばに立っているすべての人の前で、自分を制することができなくなって、「皆を私のところから出しなさい」と叫んだ。ヨセフが兄弟たちに自分のことを明かしたとき、彼のそばに立っている者はだれもいなかった。

2,ヨセフは声をあげて泣いた。エジプト人はその声を聞き、ファラオの家の者もそれを聞いた。

3,ヨセフは兄弟たちに言った。「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」兄弟たちはヨセフを前にして、驚きのあまり、答えることができなかった。

4,ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私は、あなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。

5,私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。


14,彼は弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンも彼の首を抱いて泣いた。

15,彼はまた、兄弟みなに口づけし、彼らを抱いて泣いた。それから兄弟たちは彼と語り合った。


でも、この抱擁と涙は本物でした。この和解は本物でした。ヨセフの赦しは本物だったし、兄たちの悔い改めも本当でした。

和解に必要なのは、赦し、そして、悔い改め、行動を伴った悔い改めです。行いが変えられる悔い改めは本物の和解を生みます。


ヨセフも、お兄さんたちも、本当に癒される瞬間でした。

本当の癒しとは、自分の罪を認め、飢え渇き、悔い改めることです。そして赦すことです。義に飢え渇く人は幸いです。その人は満たされるからです。


神様は失敗や罪を用いて祝福を与える方です。聖書は


ローマ 8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。


と言います。失敗も罪も欠点も、全てのことを働かせて神様は益としてくださいます。

ヨセフは言います。


私たちクリスチャンですから、罪を告白しましょう、赦しましょう、と聞いています。

でも実際の生活では、許せない、許さない、と思い続けてることも本音はあるかもしれない。

悔い改めてごめんなさい、と祈る。でも、行動が新しくされる事を本当に願って求めているのか、自分に聞いてみると思います。

癒しは、赦し、と悔いあらめて行動が変えられることとセットです。神様がそのようにしてくださいます。



ヨセフは17歳の時に兄達から虐待を受けて傷ついていたのは事実です。この傷が癒されたのは、兄達の行動が変えられていることを知った時です。時間はかかりました。でも、兄たちが悔い改めて変えられていることを知って抱き合って彼は本当の癒しを体験しました。


お兄さんたちもずっと自分を責めてきました。悪いことがあるといつもあの23年前の自分の罪が神様に暴かれて、今こんな悪い結果を生んでいるんだ、ずっと自分を責めてきました。でも今日それが許され、和解に導かれ、癒しをお兄さんたちも体験しました。


どんな失敗も回復できます。癒しはあります。そのためには赦すこと、そして悔い改めて変えられる時間もかかります。


神様に、謝りましょう。ごめんなさいと祈りましょう。そしてそのごめんなさいが本物かどうか自分に聞いてみましょう。口先だけの礼拝を祈りは、イエス様1番嫌われる虚しい捧げ物であり、忌み嫌うものと言われます。


和解の二つの条件は加害者の側の悔い改めの実、つまり行動が変えられることと被害者の赦し、この2つがセットです。


本当の和解。神様のご計画が進む。

罪はあるし、失敗もあります。でも神様はそれを用いて僕らを作り変え成長させ、良いことに用いてくださいます。


ヨセフは言います。


5,私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。


50章

20,あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。


自分の過去の失敗にがっかりしている人は幸いです。自分のせいで崩れてしまった人間関係を悲しむ人は幸いです。正しいことができずに飢え渇く人は幸いです。


神様はその飢え渇き、悲しみ、心の貧しさを通して、僕らにもう一度赦しを与え、和解を与え、悔い改めと回復を与えようとしておられます。悪いこと、惨めなこと、罪、欠点、認めましょう。そして、イエス様がそれらを今日も赦し、十字架できよめ、僕らを変えてくださいます。必要なら周りの人に謝りましょう。相手を祝福しましょう。神様は欠点や失敗を全てを用いて祝福のご計画を進めてくださいます。


質問


1 あなたには、悔い改めなければならないことや、赦すべき人、和解しなければならない人はいますか? 

2 その赦しや悔い改めは具体的にどのようなかたちで生活に現れると思いますか。


創世記44.18-34

 創世記44.18-34


自分の子どもを失ったり、子どもが傷つけられる事は親の悲しみです。同じように、人が傷つけられる事は神様の悲しみです。

子どもを傷つけることはその親を傷つけることです。同じように、人を傷つけ苦しませることは神様を傷つけ悲しませることです。

ユダと兄たちは23年前、弟ヨセフを憎み、奴隷にして売りました。父親には「野獣に咬み殺されたらしい」と嘘をつきました。

その時は、それがどんなにどれだけ父親を悲しませることかわからなかったようです。



(創世記38章)

31,彼らはヨセフの長服を取り、雄やぎを屠って、長服をその血に浸した。

32,そして、そのあや織りの長服を父のところに送り届けて、言った。「これを見つけました。あなたの子の長服かどうか、お調べください。」

33,父はそれを調べて言った。「わが子の長服だ。悪い獣が食い殺したのだ。ヨセフは確かに、かみ裂かれたのだ。」

34,ヤコブは自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、何日も、その子のために嘆き悲しんだ。

35,彼の息子、娘たちがみな来て父を慰めたが、彼は慰められるのを拒んで言った。「私は嘆き悲しみながら、わが子のところに、よみに下って行きたい。」こうして父はヨセフのために泣いた。



弟を失わせたことで何年も父親を苦しめ続けたユダは変えられました。23年経って、今再び末の弟ベニヤミンが奴隷にされようとしています。

ユダはまた父親を苦しませることはできません。彼は弟ベニヤミンを解放してくれるように必死に訴えます。ベニヤミンを失うことは父親の苦しみです、父親の災いを見たくありません、私が身代わりになります、と。



(29-34)

29,おまえたちがこの子まで私から奪って、この子にわざわいが降りかかるなら、おまえたちは白髪頭の私を、苦しみながらよみに下らせることになる。』

30,私が今、あなた様のしもべである私の父のもとへ帰ったとき、あの子が私たちと一緒にいなかったら、父のいのちはあの子のいのちに結ばれていますから、

31,あの子がいないのを見たら、父は死んでしまうでしょう。しもべどもは、あなた様のしもべである白髪頭の父を、悲しみながらよみに下らせることになります。

32,というのは、このしもべは父に、『もしも、あの子をお父さんのもとに連れ帰らなかったなら、私は一生あなたの前に罪ある者となります』と言って、あの子の保証人となっているからです。

33,ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に帰らせてください。

34,あの子が一緒でなくて、どうして私は父のところへ帰れるでしょう。父に起こるわざわいを見たくありません。」



聖書は父と母を敬え、と教えます。それはその子どもたちを大事にすることです。子どもたちを愛することはその父母を尊敬することです。同じように兄弟姉妹を愛することは神様を敬うことです。逆に、兄弟姉妹が傷つき苦しむことは神様にとっての悲しみです。


聖書は何度も愛し合いなさい、互いに人を自分より上だと思いなさい、兄弟のために命を捨てることは大きな愛だと教えます。それは神様への愛であり、神様を敬うことです。親の悲しみは子どもが傷つくことです。親の喜びは子どもが愛されていることです。同じように神様の悲しみは兄弟姉妹が傷つくことです。そして、兄弟姉妹が愛しあうことは神様の喜びです。

子どもたちを兄弟姉妹を大事にすることは神様を愛することです。今日も神様の子どもたちが愛され大事にされますように。神様の喜びが地上で現されますように。


(詩篇133篇)

1,見よ。なんという幸せなんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになってともに生きることは。