2023年5月15日月曜日

創世記44章30ー45:5

 創世記44章30ー 45:5

「どんな失敗も回復できます。」


自分の過去の失敗にがっかりしている人は幸いです。自分のせいで崩れてしまった人間関係を悲しむ人は幸いです。正しいことができずに飢え渇く人は幸いです。と、いうのは、イエス様がそうおっしゃってくださるからです。


(マタイ5.6)

義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。


今日、神様が、失敗してしまった私たちに平安を与え、過去の失敗にがっかりしてる人に許しを与え、崩れてしまった人間関係がもう一度回復するようにと願いつつお話しします。私たちにはできませんが、神様にはそれがおできになります。自分にはできない、と飢え乾く人には回復が、満足が、慰めがある、とイエス様おっしゃいます。


イスラエル旅行中ですけども、ある人のことをすごく嫌だ、と思ってさばいて、怒ってると言う自分に気が付きました。僕は事なかれ主義であんまり自分が他の人のことを嫌うとか、怒るとか、裁くとか、それによって自分も動揺するとか、そういうことに巻き込まれたくない性格なんですけど、でも、その時はある人に対して非常に不愉快だし、平安はないし、許せないし、しかも、そうなっちゃってる自分のことも嫌です。いつも平安ですって言っていたいし、いつも今日も喜びと感謝ががあります、と言いたいんだけどないんです、不愉快だし、不機嫌だし、イライラしているし、そんな自分も嫌だし、そのような状況でした。


で、そんな状況のまま、その日連れていかれた先が、ガリラヤ湖畔にある丘の上にある場所。そこは、イエス様が、この場所で群衆たちに説教された、と言われている場所です。イエス様がそこで語られたメッセージはマタイ5章。大勢の傷ついている群衆を見て話された、とあります。


6義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。


今はその場所に修道院があって、また教会が立ってすごくきれいな場所です。一緒に行ったチャプレンの永井牧師が礼拝を導いてくれたんですが、皆さん、イエス様が今日、この場所で、あなたに語りかけていることをは何でしょうか?みことばをよく聞いて黙想して祈る時間を持ちましょう、と言ってくれて、時間をくれました。その時に何度も何度も僕の心の中に繰り返されるのは、


6義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。


義とは神様との正しい関係のこと。そして、隣人との正しい関係のことです。それに飢え乾く人、とは、うまく言ってない人、僕のことです。人こそ幸いです、って何度も言ってくださいました。僕は正しくない、義ではない。でも正しくなりたいし、人を許したいし、人をさばきたくないし、平安でいたい。でも、そうなれない。足りなくて、飢え乾いている人、その人こそ幸いです、ってなんども言ってくださいました。なぜ?そんな人が幸いなのか?


正しさとは、人が作るものではなく神様から与えられるもの。あなたが人を裁き、上から目線で見下す罪。そんな不完全な僕を受け入れて、あなたの罪は赦された、と言ってくださる。神様が、あなたは無罪、と言って身代わりに十字架で神様の呪いと罰を受けてくださる、だから、あなたは満ち足りる、とおっしゃいます。


どんなに罪があっても、イエス様が十字架の上で血だらけになって苦しみ、あなたの罪は赦された、と言ってくださる。だから、幸いです、あなたは満ち足りる、っておっしゃいます。心貧しい人は幸いです、というのも同じ。あなたが心豊かで寛容だから祝福されるのではない。あなたが心貧しくて、惨めな罪びとだとわかっているから幸いです、とおっしゃいます。


全部神様からの恵みです。一方的な恵みです。

イエス様だけがあなたは無罪だ、と言ってくださいます。十字架の上で血だらけになってあなたは赦された、と言ってくださいます。

だから義に飢え渇く人は幸い。

自分の失敗にがっかりしている人は幸いです。

自分のせいで崩れてしまった人間関係を悲しむ人は幸いです。神様が満たしてくださいます。


今日のタイトルは「どんな失敗も回復できます。」


自分がやってしまった過去の罪を悲しむ人は幸い。神様が赦し、慰めてくださる。心貧しい人は幸い。天のみ国はその人のものです。


山上の教えはどこをとっても、頑張れ、とか、もっと修行したら幸せになる、って話ではない。失敗したあなたがイエス様によって赦され愛されている、あなたは無罪と呼ばれ、義と呼ばれ、満たされる、受け入れられる、という福音です。


今日このメッセージが用いられ、自分の過去の失敗にがっかりしている人、崩れてしまった人間関係を悲しむ人が、回復し、赦され、相手を赦し、本当に平安を取り戻し満たされ癒されますように。願いつつお話しします。

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私たちは赦され受け入れられたんだから、今度は同じようにあなたも赦しなさい、と聖書は教えます。

そして、兄弟姉妹と和解して愛し合って生きるように教えられています。


ガリラヤ湖畔の山の上でもう一度相手への怒り、不満、上から目線も手放す祈りをしました。イエス様が祈りを聞いてくださり、それを取り去ってくださいました。ただ神様の恵みです。恵みです。


自分の罪を認めること、手放すこと、その祈りは大事です。相手をゆるす祈りも大事です。

そして、もっと大事なのは、でも、それが口だけにならないようにすることです。私はあの人赦しますと口では言えます。私が悪かったごめんなさいと言う祈り、口ではできます。本音では私は悪くない、って言い張ってるときもあります。


私は謝りましたよ。と威張ってるかもしれない。悔い改めの祈りしましたよ、私は悪くない、だって祈ったし。悪いのは相手だし、と言って、祈ってるようで祈ってない、赦してるようで赦してない、悔い改めてるようで、変わってない、うわべだけの場合もあります。


今日はヨセフと兄たちの本当の赦し、和解した箇所を一緒に読んで生きます。


人と和解するには二つのことが必要です。


1 被害者が赦すこと。怒りや復讐心を手放すこと。


神様の前で、私はあの人にこんなことをされました。とちゃんと傷ついたこと、嫌だったことを報告し、その上で赦します、恨みや怒りを手放します、相手を祝福します、と祈ること。


2 加害者が悔い改めること。


神様の前に自分は罪をしました。と認めること。ごめんなさい、と認めること。


ヨセフは今39歳か40歳。エジプトで総理大臣です。でも、彼の過去は壮絶で、10代の時に兄たちに妬まれ、殺されそうになり、奴隷として売られ、何年も拘束された経験があります。兄たちから大変な傷を負わされている人です。そのヨセフが兄たちを赦します。


一方ヨセフを売った兄たちもそれを何年も後悔しています。弟にあんなひどいことをしてしまった、と罪を認めて悔い改めています。

この両者が和解するためには、互いにそれを知る必要があります。兄たちが本当に悔い改め、変えられていることを傷つけられたヨセフは知る必要があります。兄たちもヨセフに赦され受け入れられていることを知る必要があります。


それを互いに知っていくには時間がかかります。42-45章は長い箇所ですが、被害者のヨセフ、加害者の兄たちが再会する場面です。ヨセフは総理大臣になっていて、兄たちはそれに気がつきません。国中が食料飢饉になって、兄たちはひれ伏して、ヨセフに食料を売ってください、と願います。ヨセフは自分が弟だとすぐには明かさずに、兄たちが悔い改めているかどうかを時間をかけて観察します。そして、ついに両者は和解することができます。


※ある牧師は言いました。クリスチャンは赦すのは早く、何度でもすべきだ。と言います。聖書もそう言います。ある時ペテロがイエス様に聞きました。兄弟が私に罪を犯したら何度許せばいいですか?イエス様はお答えになりました。


マタイ18章

22,イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。


赦しましょう。毎日のように何かされたり被害を受けることが小さなことから大きなことまであります。事なかれにならないで、小さいことも言いましょう。傷つきました。被害を受けてます。そして、赦します。この恨みを手放します。相手を祝福します。祈り続けましょう。


被害者であるヨセフは赦しました。そしてもう一つ、兄たちが悔い改めていることが大事です。口先でなく、本当に悔い改めて変えられているかをヨセフは丁寧に観察しています。


極端な例ですけども、牧師が不祥事を起こしました。信徒に対するセクハラで訴えられました。その牧師はすぐやめさせられました。教会はその牧師を赦すべきですか?答えははい赦すべきです。では、教会はすぐにその牧師を信頼してもう一度牧師をさせるべきですか?答えはいいえ。時間がかかります。本当にこの人が悔い改めて変えられたのか見極め、信頼されるようになるには時間が必要です。その元牧師は罪を認めて悔い改める必要があります。謝る必要もあります。そして、発言や行動が変えられる必要もあります。しかも、それが周りの人にわかって信頼を回復する必要もあります。時間がかかります。



ヨセフは兄たちと和解したいし、赦しているんだけれども、あの兄たちが変わったのか、やはりあの恐ろしい兄達のままなのか、知る必要がありました。


23年前、当時17歳だった自分のことを妬み傷つけ、殺そうと言って穴に投げ込む。そのうちやっぱりお金にしようと言って売り飛ばされた。お兄さんたちが悔い改めたのか、それをみたかったのがこの43から44章です。それがわからないと、本当にもう一度和解してやり直すことができないからです。


●回復のためには相手の悔い改めを知ることが必要。


42章


16,おまえたちのうちの一人を送って、弟を連れて来い。それまで、おまえたちを監禁する。おまえたちに誠実さがあるかどうか、おまえたちの言ったことを試すためだ。もし誠実でなかったら、ファラオのいのちにかけて言うが、おまえたちは間違いなく回し者だ。」

17,こうしてヨセフは三日間、彼らを監獄に入れておいた。


21,彼らは互いに言った。「まったく、われわれは弟のことで罰を受けているのだ。あれが、あわれみを求めたとき、その心の苦しみを見ながら、聞き入れなかった。それで、われわれはこんな苦しみにあっているのだ。」

22,ルベンが言った。「私はあの子に罪を犯すなと言ったではないか。それなのに、おまえたちは聞き入れなかった。だから今、彼の血の報いを受けているのだ。」

23,彼らは、ヨセフが聞いていることを知らなかった。ヨセフと兄弟たちの間には通訳がいたからである。

24,ヨセフは彼らから離れて、泣いた。



ヨセフは兄たちが自分を売ったことを後悔していることを知ります。自分の過去の罪のせいで今苦しんでいる、ということも知ります。


でも、まだ、和解には至ってない。単に後悔しているだけか、悔い改めて行動が変えられているのか?


で、どうすればお兄さんたちが本当に悔い改めて変えられたか分かるのか?ヨセフは何度かテストします。最終テストはあの23年前と同じように、弟が監禁され、奴隷とされる、という状況になったら今度は兄たちはどうするか?というテスト。


昔は僕を殺そうとして見捨てた兄たちです。同じ状況んあったらどうする?それを観察します。ヨセフには年の離れた弟がいます。


自分と弟ベニヤミンだけはめちゃめちゃお父さんに可愛がられていました。それが原因で、自分は兄たちにいつもねたまれ憎まれました。もう実家を離れて23年立ちますが、兄たちが弟のベニヤミンをどう扱っているか、を見たかった。もちろん弟ベニヤミンにも会いたかった。

それで、弟連れてこい、と命令します。そう出ないと食料は売らない、与えない、と命令します。


2回目に兄たちは弟を連れて食料を買いにきます。ヨセフはまだ正体を明かさずに対応します。


43章


30,ヨセフは弟なつかしさに、胸が熱くなって泣きたくなり、急いで奥の部屋に入って、そこで泣いた。

31,やがて、彼は顔を洗って出て来た。そして自分を制して、「食事を出せ」と命じた。


弟ベニヤミンが自分がされたように兄たちにねたまれ、嫌われているのかどうか、それとも愛されているのか、確かめる必要がまずありました。


テスト1 それで、彼らを食卓に招いて、一番下のベニヤミンだけも、5倍の食事を出してヨセフはもてなします。それがテストでした。


43章

34,また、ヨセフの食卓から彼らの分が与えられたが、ベニヤミンの分は、ほかの者より五倍も多かった。彼らはヨセフとともに酒を飲み、酔い心地になった。


どうやら、あいつだけ、なんでご馳走が多いんだ、という妬みや比較はなかったようです。ヨセフはその食事の風景をよく見ていたと思います。



テスト2

そして、最終的なテストは、一番下のベニヤミンだけが奴隷になる売られてしまう拘束される、と言う状況を作り出すことです。


それで、食料を持たせて、家に返すときに、一番末っ子のベニヤミンのバックの中に総理大臣が使う銀の盃を入れておくと言う事を仕掛けます。そしてお前たちの誰かが私の大切な銀のカップを盗んだと言う状況作ります。そして犯人だけを拘束する、その人は奴隷になれと言うセッティングをします。


何も知らないお兄さんたちは、食事も美味しかったし、食料も手に入れた。よかったよかったと言って、ベニヤミンも一緒に帰る。途中、まるで警察が追ってくるかのようにヨセフに遣わされたものたちが追いかけてきてちょっと待て、という。大臣のカップが盗まれた。お前達の誰かが盗んだ、言います。実は最初からベニヤミンの袋に入れてありました。


44章

11,彼らは急いでそれぞれ自分の袋を地面に降ろし、それぞれその袋を開けた。

12,彼は年長の者から調べ始めて、年下の者で終えた。すると、その杯はベニヤミンの袋から見つかった。

13,彼らは自分の衣を引き裂いた。そして、それぞれろばに荷を負わせ、町に引き返した。



ヨセフは、わざわざベニヤミンだけが拘束され、奴隷にされ、他のものは家に帰れ、と言う状況を作ります


彼らは23年前とは態度が違いました。23年前はヨセフが売られても平気でした。でも今は自分のことように服を裂いて悲しんでいます。弟ベニヤミンが1人このままエジプトで拘束される、と言う状況みんな自分のことのように悲しみ、服を引き裂いて悲しんでいます。以前の兄たちとは違います。


彼らは弁解をしません。23年前の自分たちの罪のせいで、神様が今、私たちの過去の罪を暴いているんだと言います。


16,ユダが答えた。「あなた様に何を申し上げられるでしょう。何の申し開きができるでしょう。何と言って弁解することができるでしょう。神がしもべどもの咎を暴かれたのです。今このとおり、私たちも、そして、その手に杯が見つかった者も、あなた様の奴隷となります。」


弟ベニヤミンは銀の盃を盗むはずがないけども、神様の前では自分こそ罪人です、と言う認識がありますます。ユダは私たち、皆、罪人です。私たちは神様の前に何も開できません、と言ってひれ伏しています。今回の事だけではなくて、23年前からのすべての罪の結果を今受けているのだ、と言う認識があります。ヨセフは兄たちが過去の罪を認めて悔い改めている、ということを少しずつ知って行きます。それで、最後のチェックをします。


17,ヨセフは言った。「そんなことをするなど、とんでもないことだ。その手に杯が見つかった者、その者が私の奴隷となるのだ。おまえたちは安心して父のもとへ帰るがよい。」


これは最後のテストです。弟ベニヤミンだけが奴隷となる、ほかの者たちは家に帰れ、というテストです。これは、23年前と同じ状況です。自分だけが売られ、兄たちはそれをなんとも思わなかった、あの時と同じ状況です。

兄たちは全然違いました。変えられていました。特にユダは自分が身代わりになります、と言って申し出ます。


自分が奴隷になっても、自分が拘束されていいいからベニヤミンを救い、愛し、そしてベニヤミンを待っているお父さんを救いたい、と申し出ます。


44章

30,私が今、あなた様のしもべである私の父のもとへ帰ったとき、あの子が私たちと一緒にいなかったら、父のいのちはあの子のいのちに結ばれていますから、

31,あの子がいないのを見たら、父は死んでしまうでしょう。しもべどもは、あなた様のしもべである白髪頭の父を、悲しみながらよみに下らせることになります。


33,ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に変えらせてください。

34,あの子が一緒でなくて、どうして私は父のところへ帰れるでしょう。父に起こるわざわいを見たくありません。」


昔、弟を恨み、弟を売ったユダがいまは違います。この僕を身代わりにしてください。

お父さんがどんなに悲しむか、と思うと、私は耐えられません。「父に起こるわざわいを見たくありません。」私を身代わりにしてください。


この後、我慢できなくなり、自分がヨセフであることを明かします。



45章


1,ヨセフは、そばに立っているすべての人の前で、自分を制することができなくなって、「皆を私のところから出しなさい」と叫んだ。ヨセフが兄弟たちに自分のことを明かしたとき、彼のそばに立っている者はだれもいなかった。

2,ヨセフは声をあげて泣いた。エジプト人はその声を聞き、ファラオの家の者もそれを聞いた。

3,ヨセフは兄弟たちに言った。「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」兄弟たちはヨセフを前にして、驚きのあまり、答えることができなかった。

4,ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私は、あなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。

5,私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。


14,彼は弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンも彼の首を抱いて泣いた。

15,彼はまた、兄弟みなに口づけし、彼らを抱いて泣いた。それから兄弟たちは彼と語り合った。


でも、この抱擁と涙は本物でした。この和解は本物でした。ヨセフの赦しは本物だったし、兄たちの悔い改めも本当でした。

和解に必要なのは、赦し、そして、悔い改め、行動を伴った悔い改めです。行いが変えられる悔い改めは本物の和解を生みます。


ヨセフも、お兄さんたちも、本当に癒される瞬間でした。

本当の癒しとは、自分の罪を認め、飢え渇き、悔い改めることです。そして赦すことです。義に飢え渇く人は幸いです。その人は満たされるからです。


神様は失敗や罪を用いて祝福を与える方です。聖書は


ローマ 8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。


と言います。失敗も罪も欠点も、全てのことを働かせて神様は益としてくださいます。

ヨセフは言います。


私たちクリスチャンですから、罪を告白しましょう、赦しましょう、と聞いています。

でも実際の生活では、許せない、許さない、と思い続けてることも本音はあるかもしれない。

悔い改めてごめんなさい、と祈る。でも、行動が新しくされる事を本当に願って求めているのか、自分に聞いてみると思います。

癒しは、赦し、と悔いあらめて行動が変えられることとセットです。神様がそのようにしてくださいます。



ヨセフは17歳の時に兄達から虐待を受けて傷ついていたのは事実です。この傷が癒されたのは、兄達の行動が変えられていることを知った時です。時間はかかりました。でも、兄たちが悔い改めて変えられていることを知って抱き合って彼は本当の癒しを体験しました。


お兄さんたちもずっと自分を責めてきました。悪いことがあるといつもあの23年前の自分の罪が神様に暴かれて、今こんな悪い結果を生んでいるんだ、ずっと自分を責めてきました。でも今日それが許され、和解に導かれ、癒しをお兄さんたちも体験しました。


どんな失敗も回復できます。癒しはあります。そのためには赦すこと、そして悔い改めて変えられる時間もかかります。


神様に、謝りましょう。ごめんなさいと祈りましょう。そしてそのごめんなさいが本物かどうか自分に聞いてみましょう。口先だけの礼拝を祈りは、イエス様1番嫌われる虚しい捧げ物であり、忌み嫌うものと言われます。


和解の二つの条件は加害者の側の悔い改めの実、つまり行動が変えられることと被害者の赦し、この2つがセットです。


本当の和解。神様のご計画が進む。

罪はあるし、失敗もあります。でも神様はそれを用いて僕らを作り変え成長させ、良いことに用いてくださいます。


ヨセフは言います。


5,私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。


50章

20,あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。


自分の過去の失敗にがっかりしている人は幸いです。自分のせいで崩れてしまった人間関係を悲しむ人は幸いです。正しいことができずに飢え渇く人は幸いです。


神様はその飢え渇き、悲しみ、心の貧しさを通して、僕らにもう一度赦しを与え、和解を与え、悔い改めと回復を与えようとしておられます。悪いこと、惨めなこと、罪、欠点、認めましょう。そして、イエス様がそれらを今日も赦し、十字架できよめ、僕らを変えてくださいます。必要なら周りの人に謝りましょう。相手を祝福しましょう。神様は欠点や失敗を全てを用いて祝福のご計画を進めてくださいます。


質問


1 あなたには、悔い改めなければならないことや、赦すべき人、和解しなければならない人はいますか? 

2 その赦しや悔い改めは具体的にどのようなかたちで生活に現れると思いますか。


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