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2023年1月18日水曜日

2ペテロ1.1-11

 相手を「知る」ことは単に情報を入手するでなく、多くの時間を使って深く、親しく交わることです。何でも話し、相談し、愛していることや感謝していることを言い表し、相手の話をいつも聞くことが「知る」ことですそのようにイエス様とよく交わる人がイエス様を「知る」人ですその人には恵みも平安も、神様からの良いものが全部与えられます。しかもその人はキリストのご性格に似てきます。そのことを聖書は「神のご性質にあずかる者」と言います。


2-4節)

神と、私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。私たちをご自身の栄光と栄誉によって召してくださった神を、私たちが知ったことにより、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔をもたらすすべてのものを、私たちに与えました。その栄光と栄誉を通して、尊く大いなる約束が私たちに与えられています。それは、その約束によってあなたがたが、欲望がもたらすこの世の腐敗を免れ、神のご性質にあずかる者となるためです


イエス様を「知る」ことは僕らを成長させます。ただ信じる人→イエス様の願う生き方を実行する人、になりたいと思うし、熱意を傾けてそうしなさいと聖書は勧めます。


(5-8節)

だからこそ、あなたがたはあらゆる熱意を傾けて、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、私たちの主イエス・キリストを知る点で、あなたがたが役に立たない者とか実を結ばない者になることはありません。


イエス様と交わることはイエス様に似てくることだけど、ただ受け身だけではなく、自分から熱意を傾けてイエス様の性格を表すように励むことです聖霊による変化だけど、僕らもそうするするように求めます。

信仰には+徳(イエス様の行動の現れ)です。そして、徳+知識(聖書の知識)です。(5節)行いと聖書知識をセットで求めなさい、と言われています。僕らはどちらかに偏りがちですが、聖書知識は行いとはセットです知識だけで行いのない人は砂の上に家をたてた人のようで、何かがあるとすぐに壊れてしまう信仰です


(ルカ6:49)

聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。


そして、知識+自制です。(6節)知識が増えると高ぶる人がたくさんいますが、知識が増えるほと、自制して謙遜と愛を表すのが本物です


(1コリント 8:1)

知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。


自制+忍耐です。(6節)忍耐は、やせ我慢でなく、聖書の言葉を信じて、希望を持って待つことです。忍耐と敬虔(信心深さ)はセットです。さらに、敬虔+兄弟愛です。(7節)敬虔な人とは、人を避けて神様との交わりにこもるだけで終わらず、積極的に兄弟と関わり愛する人です


(1ヨハネ4:20

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。


兄弟を愛することと神様を愛することはセットです。兄弟愛+愛(神様の愛)です。(7節)神様の愛とは、罪を犯す人のために犠牲になって十字架の上で相手の赦しを祈ってくださる愛です。神様は今日も忍耐して僕らのことを祈り続け、待ち続けてくださっています。そのように僕らも周りの人たちを愛する人に変えられます。兄弟を愛さない人は自分がどれだけ赦されたか忘れてしまった人です。


(8-9節)

これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、私たちの主イエス・キリストを知る点で、あなたがたが役に立たない者とか実を結ばない者になることはありません。これらを備えていない人は盲目です自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまって、近視眼的になっているのです


イエス様を「知る」ことは深く交わり、似てくることです信じるだけでなく行いも「励みなさい」(10節)と聖書は教えています。聖書の真理と愛の行動はセットです両方を求め、励んでいる人はつまづいて神様から離れていくことがありません。


(10-11節)

ですから、兄弟たち。自分たちの召しと選びを確かなものとするように、いっそう励みなさい。これらのことを行っているなら、決してつまずくことはありません。このようにして、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを、豊かに与えられるのです


信じることと行動はセットです聖書知識と愛と謙遜さはセットですイエス様と深く交わる人はキリストのご性格が与えられてきます。しかも、熱心に求め、行いなさいと言われています。僕らの知識も行いも全部がイエス様の現れとなっていきますように


2ペテロ1.12-21

 僕らはイエス様を信じていてもこの世の出来事に振り回され、希望を失ったり、自分こだわったり、心配しすぎたりします。そんな当時のクリスチャンのために(もちろん僕らのためにも)使徒ペテロはイエス様に信頼して従うことの希望を、その確かさを「いつも思い起こさせるつもりです。」と言います。(12節)しかも「私が去った後いつでも、あなたがたがこれらのことを思い起こせるようにしておきたいのです。」と言います。(15節)彼はまもなく死ぬことがわかっていました。だからこそ、遺言のように手紙を残しておきたいと願っています。この手紙が書かれた当時はまだ「新約聖書」という形でまとまる途中で、ペテロの手紙や教えを聞くこと=イエス様が与えてくださる確かな福音の希望から離れないための方法でした。


(12-15節)

ですから、あなたがたがこれらのことをすでに知り、与えられた真理に堅く立っているとはいえ、私はあなたがたに、それをいつも思い起こさせるつもりです。それを思い起こさせて、あなたがたを奮い立たせることを、私は地上の幕屋にいるかぎり、なすべきだと思っています。私たちの主イエス・キリストが示してくださったように、私はこの幕屋を間もなく脱ぎ捨てることを知っています。ですから、ぜひとも、私が去った後いつでも、あなたがたがこれらのことを思い起こせるようにしておきたいのです。


イエス様は神であり、神の子であり、今も栄光と力を持っている方ですペテロはこれが作り話ではなく、イエス様の栄光の姿を「見た」、神様の声を「聞いた」と言います。


(16-18節)

私たちはあなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨を知らせましたが、それは、巧みな作り話によったのではありません。私たちは、キリストの威光の目撃者として伝えたのですこの方が父なる神から誉れと栄光を受けられたとき、厳かな栄光の中から、このような御声がありました。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」私たちは聖なる山で主とともにいたので、天からかかったこの御声を自分で聞きました。


この出来事はマルコ9章、マタイ17章にも記録されています。僕らはペテロみたいに直接イエス様の栄光の姿を見たり神様の声を聞いたりしてなくても、信じています。信じてること自体が神様の力であり、聖霊を受けている証拠だし、救われている証拠です


(1ペテロ1.8-9)

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです


僕らは信じています。でも、グラつくことがあります。そんな僕らにペテロは書かれた確かな預言に目を止めなさい、言います。預言とは旧約聖書のことで、確かに実現する神様のことばです聖書の預言は聖霊によって与えられた神様のことばですイエス様がもう一度来られて、僕らが直接お会いする時まで、僕らは聖書によって確信を持ち続け、希望を持ち続けることができます。


(19節)

また私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜が明けて、明けの明星があなたがたの心に昇るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです


聖書のことばは人間が考えたものではありません。「聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったもの」ですそして僕らの体にも預言者たちや手紙を書いたペテロと同じ聖霊が住んでおられます。だから、聖書は自分勝手に解釈するものではなく、住んでいてくださる聖霊様に聞いて、聖霊様によって理解するものです聖霊様によらないと聖書は意味がわかりません。「御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(1コリント2.14)


(20-21節)

ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです


僕らにも聖霊が与えられています。そして、僕らは聖霊によって聖書のことばを理解することができます。聖書を求め、聖書のことばに目をとめ、祈りつつ反芻することは、どんな闇の中でも苦しみの中でも光を持つようなものですそれは希望と平安と祝福をもたらします。ペテロのような素晴らしい体験もいいけど、ペテロは「さらに確かな預言のみことばを持っています。(…中略…)それに目を留めているとよいのです。」と言います。聖書を祈りつつ地味に反芻することは素晴らしい希望をもたらします。派手な体験がなくても大丈夫です新約聖書も旧約聖書も確かな希望をいつも思い出させてくれます。聖書を読みましょう。目を止めましょう。反芻しましょう。祈りましょう。神様は僕らに「あなたがたがこれらのことを思い起こせるようにしておきたいのです。」とおっしゃってます。