2023年2月27日月曜日

マルコの福音書2.18-28

 マルコの福音書2.18-28

新約聖書は福音を伝えています。福音とは良い知らせです。神様の赦しは良い行いをしたら合格、できなかったら不合格、ということではありません。僕らが何かをしたからでなく、イエス様が血だらけで十字架にかかり、捨てられる役目を終えてくださったから僕らは赦され、神様に受け入れられます。
ところが、当時の人々はがんばって良い行いをしたら合格、と思っていたようです。断食するのも彼らが神様に受け入れられるための努力でした。ところが、イエス様の弟子たちは断食しませんでした。それを見て彼らは質問しました。
18 ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは断食をしていた。そして、イエスのもとに来て言った。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」
イエス様の答えはこうです。イエス様ご自身のことを「花婿」と言っています。
19 イエスは彼らに言われた。「花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです。
聖書はイエス様のことを「花婿」とか「夫」と言うことが多いです。そして、信じる人たちのことを「花嫁」とか「妻」とか「花婿の友だち」と言うことが多いです。いずれにしても、イエス様と一緒にいることは、愛と喜びに満ちている状態です。もう神様に受け入れられている状態です。イエス様を信じて心にお迎えしている人は、神様をお迎えして、神様と一緒にいるのと同じです。
(マタイ 10:40)
わたし(イエス様)を受け入れる者は、わたしを遣わした方(神様)を受け入れるのです。
イエス様を信じない人は旧約聖書に書かれた律法だけを信じていました。さらに自分流に解釈して、○○でなければならない、という人間の教えを沢山作り、厳格に守っていました。イエス様という新しい命、新しい心を受け入れることと、○○すれば救われる、とか、○○しなければならない、という教えは両立しません。イエス様を信じることは、新しい命の始まりです。
新しい布は洗うと収縮します。だから古い布と新しい布は合体できません。
そのように、○○すれば救われる、という教えとイエス様をお迎えして内側から変えられる福音は合体できません。
21 だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、新しい継ぎ切れは古い着物を引き裂き、破れはもっとひどくなります。
また、新しいワインは発酵して膨張するそうです。なので、古くて堅い革袋に入れると破れてしまいます。そのように、イエス様をお迎えして内側から神様にしたがいたい、という新しく変えられていく心と、古いガンコな○○でなければならない、という考えは合体できません。
22 また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。
たしかに旧約聖書には○○してはならない、とか、○○しなければならない、という教えがたくさんありますが、それは人を縛り無理やり変えるのではなく、赦された喜びや感謝によって、また、イエス様と一緒にいる新しい命によって変えらるものです。
そもそも、旧約聖書の○○してはならない、という教えには神様の愛があります。神様は僕らを生かし、助け、守るために律法を与えてくださっています。
神様のイキイキとした愛が分からない人はいつも文字だけ、ルールにこだわります。
23 ある安息日のこと、イエスは麦畑の中を通って行かれた。すると、弟子たちが道々穂を摘み始めた。
24 すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか。」
旧約聖書に安息日に穂を摘んではダメ、という律法はありません。むしろ、小腹がすいたら他人の畑でも自分の分だけなら食べてよい、という教えさえあります。
律法は人間が守られるための神様からの愛のルールです。しかし、神様との愛の関係がない人は、神様の教えを勝手に拡大解釈して、穂を摘んで食べることを、「刈り入れの仕事をした、けしからん」と拡大解釈して責めます。イエス様は言われました。
27 また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。
28 人の子(イエス様)は安息日にも主です。」
週に一日安息をとり、仕事を休み神様を礼拝することは、人間が人間らしく生きるためのあり方として、人間の祝福のために与えられた律法です。小腹が空いてもガマンするためのルールではありません。
イエス様をお迎えすることは、律法を守ることになります。しかも、うわべだけでなく、神様が律法によって僕ら人間を守りたい、愛したい、という真意を受け取って喜んで従うように変えられます。
○○べき、〇〇であらねば、とガンコになると人を責め、自分を責めます。
そして行いによって自分を誇ったり落ち込んだりします。また、行いによって他人を評価します。しかし、福音はイエス様の十字架の赦しを誇ります。
他人を責めたり自分を責めたりしているなら、ガンコな堅い革袋のようです。
神様とのイキイキとした関係をしらない律法学者のようです。
聖書の教えは人を苦しめたり裁いたりするものではなく、人を生かすものです。
僕らがガンコなルールに縛られるのではなく、生きているイエス様との生きた関係の中を生きるように変えられます。
律法は人を縛るのではなく、人を愛することです。
今日もイエス様と一緒にいることの喜びがありますように。

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