マルコの福音書3.1-12
神様は教えで僕らを縛るのではなく、ことばによって僕らを生かそうとなさる方です。聖書の教えは僕らを生かし祝福する命のことばです。
ところが、僕ら人間は神様の命と愛を考えず、単なるルールのように受け取ってしまいます。しかも、僕らは神様の教えを人を生かすためでなく、人をさばくために利用しようとします。
1 イエスはまた会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。
2 彼ら(当時の聖書の先生たち。パリサイ人)は、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。
神様にとってご自分の教えを曲解し、ご自分の教えを人同士が裁き合い縛り合うための道具とされているのは悲しみです。旧約聖書の教えに「安息日(休む日)を守れ」というのがあります。(出エジプト記20章など多数) 神様が安息日を守るように教えたのは、人を生かし、休ませ、祝福するためにです。
だのに、ルールを守るかどうか、ということばかりに注目しそれに縛られ裁き合うのが僕ら人間の醜い姿です。
3 イエスは手のなえたその人に、「立って、真中に出なさい。」と言われた。
4 それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」と言われた。彼らは黙っていた。
5 イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。
神様が安息日を決められたのは、人を癒し生かすためです。それを他人を裁くためのルールにしてしまっているのはイエス様にとって怒りであり悲しみでした。聖書の教えの真意を表すためにイエス様は安息日に手が不自由な人を癒されました。しかし、敵はさらにイエス様を殺そうとします。
6 そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどうして葬り去ろうかと相談を始めた。
これが僕らの罪の現実です。
聖書の教えさえも自分の正当化するために「利用」しようとし、自分の気に入らない人は殺そうとします。安息日の教えは疲れた人、悩む人、重荷を負う人を癒し解放するための教えです。その日、大勢の人たちがイエス様のところに押しかけました。
7 それから、イエスは弟子たちとともに湖のほうに退かれた。すると、ガリラヤから出て来た大ぜいの人々がついて行った。またユダヤから、
8 エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうやツロ、シドンあたりから、大ぜいの人々が、イエスの行なっておられることを聞いて、みもとにやって来た。
9 イエスは、大ぜいの人なので、押し寄せて来ないよう、ご自分のために小舟を用意しておくように弟子たちに言いつけられた。
10 それは、多くの人をいやされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押しかけて来たからである。
神様の願いは人が癒されることです。
そして、そのために週に一日を使うようにと意図されているのが安息日の教えです。「私は神様のルールを守ってる」とか、「私は祈ってる」というのが目的になったり誇ったりするなら意味がありません。
神様の願いは僕ら人間が癒され、自由にされ、祝福されることです。
今日もイエス様は生きていて力があります。聖書のことばは僕らを窮屈にするものではなく、内側から新しく変えてくださることばです。
聖書を読むことは、単なる知識を増やすことではありません。
聖書の教えは、まるで食事を食べるように、命をいただくことです。
今日も聖書のことばが僕らの力となり命となりますように。聖書のことばが僕らが愛し合い赦しあう結果を生みますように。
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