聖書 レビ13章1-8,38-46、マタイ8.1-4メッセージ「わたしの心だ。きよくなれ」
●メッセージの要約
今日のメッセージは病気になった時、体調が悪い時、神様の前にどうなのか、この体の変化は神様の前にきよいことなのか、それとも汚れていることなのか、それを判断しなさい、判断してもらいなさい、という箇所です。
このレビ記はイスラエル200万人くらいの人が奴隷だったエジプト奴隷だったとこから救われて、何もない荒野で40年の間放浪する時代です。病院もないお医者さんもいない時代です。全員が元奴隷です。解放されたばかりです。
もちろんその時に体調が悪くなる人がいるし、体に何かの異常が出ることがあります。発疹とか腫瘍です。また髪の毛が抜けていく人もいました。それが単なる男性のはげなのか、それも神様の前に汚れた病気なのか、医師もいない、病院おない世界で、症状が出たら、まずは祭司のところに行きなさいと神様はいわれました。本人がいきたくないと言っても、連れてきなさい、とあります。
(1-2)
1,主はモーセとアロンにこう告げられた。
2,「ある人のからだの皮膚に腫れもの、あるいはかさぶた、あるいは斑点ができて、からだの皮膚にツァラアトに冒された患部が現れたときは、彼を祭司アロンのところか、アロンの子らで祭司の一人のところに連れて来なければならない。
祭司とは、神様と人間の間に立つ人のことです。神様、どうでしょうか、と祈る人です。祭司のところに連れてよく見てもらって、そして祈ってもらって、そして判断しなさいと言われています。何を判断するのか?それは病名をつけなさいと診断をしてもらいなさい、ではなくて、神様の前にあなたはきよいのか、それとも神様の前にあなたは汚れているか、です。
祭司のところに連れていきなさい、とは、まずは神様のところに行きなさい、連れて行きなさいと言い換えてもいいことです。
聖書が教えるきよめとか癒しの方法は罪の告白です。レビ記は繰り返して身代わりの犠牲の動物を連れてきて、罪をその上で告白して捧げることできよめられることが書かれています。
前回引用した聖書のことばです。クリスチャンの石鹸と言われているそうです。
1ヨハネ1章9節
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。
告白して祈ると必ずきよめられ、平安が回復します。多くの場合、悩み苦しみが取り去られて御霊の平安と喜びと感謝がくる体調も良くなります。
もちろん全部の病気が罪と結果だとは聖書は言っていません。聖霊に満たされて聖なる生活をしていたパウロも病気でした。それでも神様を第一にしないゆえに、神様をないがしろにしたせいで病気になることも聖書は教えています。
その実例ですが、アサと言うイスラエルの王様です。彼は若い時は神様を知っていたし、神様優先でしたが、長く政治家として王様として経験を積むと、神様よりも近隣諸国の強そうな国と仲良くすることを優先して神様を求めませんでした。病気になっても神様よりも医者でした。彼はそのまま死んでしまいます。
"アサはその治世の第三十九年に、両足とも病気になった。それは非常に重かったが、その病気の中でさえ、彼は主を求めず、医者を求めた。"
歴代誌 第二 16章12節
今日のメッセージのタイトルは「わたしの心だきよくなれ」というイエス様の言葉です。イエス様こそ癒し主です。この方以外に救いはありません。もちろん薬やお医者さんが用いられます。神様に感謝しましょう。もちろん薬も医者も必要だし神様からの助けですが、イエス様の願い、イエス様の心は、僕らがきよくなることです。「わたしの心だきよくなれ」です。内側にある隠れた罪が、心の中の悪い思いがちゃんときよめられていくことです。
今日体調の悪い方、そして何か体の不調で悩んでいる方。そこに汚れた思いがあるかないか、ちゃんと神様に見てもらい神様に判断してもらいましょう。そしてきよめてもらいましょう。
●ツァラアトは汚れ
ツァラアトにかかった人は「汚れている」と宣言されます。ツァラアトとは何か?昔はライ病と翻訳していましたが、ライ病ではないらしい、ということがわかってきました。新共同訳「規定の病」フランシスコ会訳「重い皮膚病」と訳しています。
(3)
祭司は、そのからだの皮膚の患部を調べる。その患部の毛が白く変わり、患部がそのからだの皮膚よりも深いところに見えているなら、それはツァラアトに冒された患部である。祭司はそれを調べ、彼を汚れていると宣言する。
普通なら、病気です、とか、感染してます、というのに、これは医学的に病気かどうかでなく神の前にきよいか汚れているか、です。汚れているとは「聖なる神に近づけない状態」「あるべき状態ではない」ことです。
ツァラアトにかかった人は、神様の共同体から離れなければなりませんでした。つまり、人々の居住区から一人で出され、孤独に過ごさなければなりませんでした。このツアラアトは人にうつるからです。
(45-46)
患部があるツァラアトに冒された者は自分の衣服を引き裂き、髪の毛を乱し、口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ぶ。
その患部が彼にある間、その人は汚れたままである。彼は汚れているので、ひとりで住む。宿営の外が彼の住まいとなる。
服を引き裂くのは悲しみの表現、髪の毛を乱すのは嘆きの表れです。人が自分に近づかないように『汚れている、汚れている』と叫ばなければなりません。でも、空気感染とか飛沫感染しないように、口は覆いなさい、と神様がおっしゃいます。これに侵された人は孤独な状況に追い込まれます。
ツァラアトは罪そのもの、とは書いてないけど、やはり聖書によると罪の結果として起こることが多く書かれています。
・ミリヤムの例
例えば、モーセの姉のミリアムがこれに冒されたのは、神に逆らった結果でした
彼女は神様がモーセを指導者として選び、モーセと神様が親しく話していることを妬み、モーセだけが指導者ではない、わたしたちにも神様は話された、と主張しモーセを非難します。モーセを妬み攻撃するミリヤムに神様は裁きとしてツァラアトを与えます。
"主の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主は去って行かれた。
雲が天幕の上から離れ去ると、見よ、ミリアムは皮膚がツァラアトに冒され、雪のようになっていた。アロンがミリアムの方を振り向くと、見よ、彼女はツァラアトに冒されていた。"
民数記 12章9~10節
ここを読むと、ツァラアトの症状が皮膚が雪のようになっていたとあります。僕はたまに出会う腐ったみかんを思い出します。表面が白くなっているのを思い出します。その奥はぐちゃぐちゃになっているのを思い出します。それを見たモーセはそれ見て神様に祈ります。
"どうか、彼女を、肉が半ば腐って母の胎から出て来る死人のようにしないでください。」"
民数記 12章12節
ミリヤムのツアラアトは体を腐らせ、醜くなった赤ちゃんのようでした。放置すると体が崩れていって死んでいくものだったようです。
・ウジヤの例
神様の裁きとしてのツァラアトにかかる例は他にもあります。ユダの王ウジヤもそうです。
祭司以外は聖なるところに入ってはならない、と神様から言われていたけど、ウジヤという王様は高ぶって、自分の分を超えていきました。祭司たちがそれを止めようとしますが、なんでお前らが俺を止めるのだ、とウジヤ王は激しく怒ります。
"彼が祭司たちに対して激しく怒ったとき、主の神殿の中にいた祭司たちの前、香の壇の傍らで、彼の額にツァラアトが現れた。"
歴代誌 第二 26章19節
彼は一生隔離されて生活します。
ツァラアトは神の裁きや罪の結果として書かれていることが多く、神様の前にけがれたものであることがわかります。
・汚れているとは
聖書が汚れている、という表現をするとき、それは神様の前にふさわしくないものが入っている、という意味です。例えば、ヤコブの娘ディナが現地の男に犯されたとき「汚された」と聖書は言います。本来一緒になるべき相手でない人が自分に入ってくることです。
他には神殿の中に偶像が入ってくる時も「汚される」と言います。本来あるべきでないものが入ってくることです。神様にふさわしくないものが入ってくることを汚される、汚れている、と言います。
隣人の妻と寝ること。を隣人の妻を汚す、と言います。本来あるべきでないものがくっつくこと。神様の家を汚すことです。
●汚れを追い出すことの大切さ
レビ記全体のテーマの一つは、「主は聖なるお方であり、神の民も聖なる者でなければならない」ということです
(レビ記11章45節)
「あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。」
ツァラアトにかかった人が「汚れている」とされるのは、彼らが病気だからではなく、神の聖さにふさわしくない状態とされたからです。もしそのまま共同体に留まれば、神の臨在が宿る民全体が汚れてしまうと考えられていました。
たった一人でも個人であっても罪が放置されていたら、それが共同体全体に影響を与えるとされていました。ツァラアトは実際に感染する症状だったようです。「汚れ」も放置すれば民全体を霊的に汚します。新約聖書は小さな罪が教会全体を汚すことをパン種がパン全体を膨らませるとたとえています。それで、ツァラアト隔離され、宿営の外に出されなければなりませんでした。
46節
その患部が彼にある間、その人は汚れたままである。彼は汚れているので、ひとりで住む。宿営の外が彼の住まいとなる。
●丁寧に調べ、きよめられることの大切さ
それを慎重に見極めるようにと言っています。はっきりわかる場合もあるけどわからない時もあります。はっきりとわかるときは祭司が彼は汚れていると宣言します。
(3)
祭司は、そのからだの皮膚の患部を調べる。その患部の毛が白く変わり、患部がそのからだの皮膚よりも深いところに見えているなら、それはツァラアトに冒された患部である。祭司はそれを調べ、彼を汚れていると宣言する。
体毛が白くなり、それは表面だけでなく皮膚の奥深くが何かおかしくなっている場合のようです。でも、判断つかない場合もあります。
はっきりしない場合はまずは7日隔離して、7日目にもう一度患部をみます。さらに7日隔離し、14日目にもう一度判断します。もしその人が汚れていると判断されれば、その人は社会生活できなくなるほどのことなので、判断には慎重に慎重を重ねます。
(4-6)
4,もしそのからだの皮膚の斑点が白く、皮膚よりも深くは見えず、そこの毛も白く変わっていなければ、祭司はその患者を七日間隔離する。
5,祭司は七日目に彼を調べる。もしその患部が祭司の目にはそのままに見えて、その患部が皮膚に広がっていなければ、祭司は彼をさらに七日間隔離する。
6,祭司は七日目に再び彼を調べる。もし患部が薄れ、その患部が皮膚に広がっていなければ、祭司は彼をきよいと宣言する。それは、かさぶたである。彼は自分の衣服を洗う。こうして彼はきよくなる。
男性の薄毛が単なる脱毛か、それともツァラアトか、の判断も慎重にように書かれています。罪やけがれとは関係のない、自然な脱毛か、それとも汚れなのか、です。
(41-44)
41,もし顔の生えぎわから髪の毛が抜けても、それは額のはげであって、彼はきよい。
42,もしその頭のはげか額のはげに、赤みがかった白い部分があるなら、それは頭のはげに、あるいは額のはげに生じたツァラアトである。
43,祭司は彼を調べる。患部の腫れものが、頭のはげ、あるいは額のはげの部分で、からだの皮膚にあるツァラアトに見られるような、赤みがかった白色であれば、
44,彼はツァラアトに冒された者であって、この者は汚れている。祭司は彼を汚れていると必ず宣言する。その患部が頭にあるからである。
神様の前にふさわしくないものなのか、それともきよいものなのか、その判断はすごく重要だし、聖書はそれを強調します。祭司は丁寧に調べて宣言します。また、ツアラアトは癒されきよめられて回復することも書かれています。
・きよくなるとは
ツァラアトが癒されたときに、癒された、と言わず、きよくなる、と言われているのは重要です。14章になると、きよめられた時の教えがあります。
14章2節
「ツァラアトに冒された者がきよめられるときのおしえは、次のとおりである。
罪のための生贄を捧げ、その後、その血をとって耳と親指と足の親指に塗ります。
14章14節
祭司は代償のささげ物の血を取り、それを、きよめられる者の右の耳たぶと右手の親指と右足の親指に塗る。
罪のために犠牲が捧げられ、そして、今度は、よく神様の御言葉を聞き、神様の行いをし、そして神様の道を歩くように、耳と指と足の指に血を塗ります。罪のために身代わりの犠牲の動物がささげられ、その血が耳にも手にも足にも塗られ、赦されたもの、きよめられた人として、みことばをよく聞き、よく行い、みことばの通りに歩むことを表しています。それがきよめられた人です。
・きよめられるための通過点としての試練
僕らは病気になります。誰でもなります。試練もあります。聖書は病気が良いとか悪いとかは言っていないです。病気や試練がみんな罪のせいだとはイエス様は言っていないです。ある人が盲人なのは、罪のせいではなく神様のわざがこの人に現れるためだとおっしゃいました。病気を通して、不自由さを通して、試練を通してきよめられ、神様の栄光だけが表されます。
イエス様の願いは人がきよくなることです。レビ記のテーマは聖なるものとなりなさい、です。
(レビ11.45)
あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。
聖なるとは、神様のものになることです。神様のみことばを聞き、行い、歩む人が聖なる人です。
僕らの不調、体調不良、病気も、単なる病気なのか、それともそこに神様がお嫌いになる汚れがそこにあるか、聖なるもの、神様のものとして歩んでいるかを慎重に見極めることが大事です。そして、体調不良によって自分のけがれを知り、悔い改める機会が与えられます。きよめられる通過点として、病気が用いられ、神様のきよめや自由や解放のわざが現れるための通過点として用いられることがあります。
よくない生活習慣によって病気になることがあります。生活習慣病と言われます。また、人間の罪によって病気が増えていることもあります。食べ物で儲けようと思って、有害だとわかっている食品や薬を売りまくった結果、社会全体に病気を増やしていることはあると思います。公害も薬害もあると思います。そこには貪りがあります。
僕らには罪があって、必ず貪りとか高ぶりは入っています。神様以外で、自分を幸せにしようとしていることがあると思います。休みなく働くことが自分を支えると思ったり、お金優先、儲け優先でなんでも判断したり、癒しを神様でなく、酒、薬、淫らなこと、快楽、異性、エンタメ、神様を知りつつ神様以外で癒されようとして不健康になったり神様との関係が崩れたり、人間関係が壊れたりすることはあると思います。その結果は孤独と闇です。イエス様の願いは僕らがきよくなることです。罪の結果は不幸だからです。そのために神様よりも大事にしている罪や高ぶりがあるかどうか、です。偶像のように自分をコントロールし縛っているものがあるか調べるように教えます。
きよめられるためには、ちゃんと罪があること、けがれていることを認めることが通過点です。
もしも、自分は悪くない、という人がみなさんの中にいたら、癒しやきよめもありません。自分のけがれを見ない人、認めない人にはきよめがありません。病気になっても俺は病気じゃない、という人に治療はできません。
罪は人を壊します。神様との関係も壊します。ストレスが増え、自分も痛めつけ傷つけます。
祭司が宣言したのは、神様の前にきよいか、汚れているかどうか、です。
僕らも調べられて、そしてきよめてもらう必要があります。
田中みちや先生は言いました。「聖書は調べるものではありません。聖書によって自分が調べられるのです」
体調の悪さは、どこからきているのか、罪からきているのかどうかです。神様の願いは僕らが聖なるもの、神様のものであることです。
●イエス様によるきよめ
イエス様の時代になってもツァラアトの人たちはいました。そして、彼らは自分は汚れている、と認識していました。自分は神様の前にふさわしくない、と思っていました。
ツァラアトは見た目が怖くて、醜くて、孤立して、無一文の状態にさせる病気でした。これらの人々は、社会の中で孤立し、乞食のような生活をしていました。彼らには、他の人とのつながりがまったくありませんでした。まさに生きた死と言えるような状況です。
ツァラアトはまるで呪われているかのように扱われていました。もちろん神殿にも行けないし、家にも帰れません。家族と一緒にいることもできなくて、人との交流を完全に断たれています。
あるラビの一人はこう書いているそうです「ツァラアト人を見たら、近づかれないように石を投げる」と。彼らはすごく嫌ってたし、軽蔑してたし、恐れてました。汚れた者が近づくと共同体全体を汚すのでなるべく接点がないように隔離されます。
ところが、驚いたことにイエス様はその汚れた者と交わり触れています。それで彼らは逆に彼らをきよめられていきます。
マルコ 2:17
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」つまり、
イエス様は罪人の中に行き、彼らと交わり、彼らがきよくされていきます。
"イエスが山から下りて来られると、大勢の群衆がイエスに従った。
すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。
イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。"
マタイの福音書 8章1~3節
「すると見よ。」今風に言うなら「信じらんないんだけど!」「驚愕の事実が!」「え、ウソでしょ!?」えええー みたいな感じです。「ツァラアトの人が来た」ってだけで、普通じゃありえないことでした。彼らが人前に出るなんて考えられないことです。
人々がどんな反応するかも、律法も個人的な恥も、全部ひっくるめて「絶対ナシ」です。ありえない行動でした。しかも、大勢の群衆の前で、このツァラアトの人はやってきました。そして、ひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。
3節。「イエスは手を伸ばして彼にさわり」見ていた群衆は全員「ギャーーー!」ってなったと思います。絶対に触れてはいけない人に触れました。自分が感染し、一生孤独になり体が崩れていくようなことをしました。
イエス様は距離をとって100メートル先から「きよくなれ」って言うこともできたのに、あえて触れました。これは、イエス様は無敵だから、ということではなく、逆に、イエス様は汚れたものとなり、罪人と同じになり、その罪を自分のものとし、背負、汚れたものと呼ばれ、嫌われ、神様に呪われ、人からも捨てられて、身代わりに十字架で殺されるためです。
イエスが触れたことによってこの人はきよめられ、孤立した場所から、町に入れるようになりました。
逆にイエスは人々から引き離されて、捨てられて、十字架の処刑という孤独に行かなきゃいけなくなりました。イエスがツァラアトの人と入れ替わったかのようです。
イエス様がそのけがれを引き受けて、神のもとから離され、十字架に向かわれました。イエスが見捨てられ、神に拒絶されて、私たちは神のもとに迎えられるようになりました。
この人は、腐った体だったかもしれません。もしかして指が溶けかけたような手だったかもしれないし、ただれた肌だったかもしれません。イエス様に触れられて、顔の崩れも、一瞬で元通りになったと思います。同じように、僕らの罪はきよめられます。イエス様を信じることで許され、回復します。罪を認め、平伏して、イエス様、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」です。
イエス様は言われます。
マタイ8.4
イエスは彼に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ行って自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じたささげ物をしなさい。」
イエス様はレビ13章の通りに、祭司に判断してもらいなさい、そして、きよめの宣言を受けなさい、とおっしゃいます。そして、レビ14章にあるように、ささげものをしなさい、とおっしゃいます。
この人はこの後、いけにえをささげ、その血を耳にぬり、手の指に塗り、足の指に塗り、これからは、神様のみことばに聞き、従い、歩む決心をしました。イエス様が「そして、人々への証しのために、モーセが命じたささげ物をしなさい。」とおっしゃった通りにし、人生を回復させました。
僕らが神様に受け入れられるのは、イエス様の十字架による身代わり犠牲があったからです。
イエス様以外にきよめはありません。
自分を調べてみましょう。今の体調の悪さ、この病は、この試練は罪から出た汚れたものでしょうか。
僕らが神様に受け入れられ、教会の兄弟姉妹から疎外されずに交わりができるのは、イエス様の血によってゆるされているから、その理由だけです。いい人になったからでなく、イエス様が私たちをきよめてくださったからです。イエス様以外に救いはありません。
逆に、もしも、このきよめを忘れた人、拒否する人は交わりから離れ孤独と闇の中に閉じ込められてしまします。
イエス様の願いです。わたしの心だ、きよくなれとおっしゃっています。
罪を認め、告白し、新しくされましょう。耳と手と足に血が塗られて回復したように、今日もきよめられて、みことばをきき、行い、その道を歩みましょう。イエス様のきよめは完全です。あの十字架の犠牲は僕らを無罪と宣言してくださっています。ハレルヤ!
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