武田幸子さん葬儀メッセージ
1テサロニケ5.8-18
幸子さんは今どこにいるんですか?「天国に行った」と言うけれども、何の根拠があって、誰が見てきてそういえるのでしょうか。私自身、23歳までは宗教なんて人間が勝手に作って想像したおとぎ話か、人を洗脳する話だと思っていました。ところが、ある日それが本当だとわかるようになりました。
目に見えない世界のことを聞いて、見えない神様のことを聞いて、それが本当にそうだと思うのが信仰です。
私は鼻が良くないので、妻が「臭い」って言っても良くわならないことがあります。でも、見えなくても匂いは確かにあります。悪いのは鼻の方です。年齢とともに高い音は聞こえにくくなりモゴモゴと聞こえます。でも音は確かにあります。匂いもあるし音もあるけど、それがわからないのは鼻とか耳の問題です。見えなくても、wi-fiの電波が確かにあるのと同じです。wi-fiの電波をキャッチするのがスマホです。同じように神様のこと、そして天国の希望を受け取るのが信仰です。
神様はいらっしゃいます。そして死後の裁きはあります。同時に、天に迎えられる救いの道もあります。
イエスはおっしゃいました。
"「わたしの父(神様)の家には住む所がたくさんあります。(…中略…)わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。"
ヨハネの福音書 14章1~3節
イエス様は天にある住まいのことをはっきりと教えてくださいました。これを受け取ることができるのが信仰です。
"信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。"
ヘブル人への手紙 11章1節
※ある時、幸子さんが教会の友達のお母様が亡くなった、と言う知らせを聞きました。その友達のお母様も同じく信仰を持つ人でした。その訃報を受けた時、幸子さんは言ったそうです。「天国に迎え入れられるんだから、お葬式はお悔やみではなくておめでとうだね。ご家族におめでとうって言ってあげたいな」
娘であるウチの妻はそれを聞いて、「お母さん、それだけはやめて」ってお願いしたそうです。悲しんでる人もいるからです。
まさに母はそのような人でした。信仰は見えなくても確かな天の希望を保障し確信させます。
死を恐れる人はたくさんいます。どこに行くのかわからなくて、闇に吸い込まれていくような恐怖に感じるのが一般的です。だから今も病院には4のつく病室はありません。みんな死を恐れて、避けます。
もし、神様からの希望のメッセージがなければ、死は恐怖であり闇でしかありません。
でも、今日読んだ聖書の箇所ははっきりと私たちを励まします。
"しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。"
テサロニケ人への手紙 第一 5章8節
信仰と愛の胸当てをつけましょう、救いの望みという兜をかぶりましょう。私たちは闇の中にいるのでなく、昼です。と聖書は僕らを励まします。
聖書の時代の胸当ては、兵士が心臓や肺を守るプロテクターです。剣とか矢で刺されないように、同じように死の恐怖とか、不安とか、そのようなものから守るのは信仰の胸当てです。神様に愛されていることはわたしたちを守る愛の胸当て、プロテクターです。
私は神様から見捨てられるのではないか、裁かれるんじゃないか、と言う不安から皆さんを守るのが信仰と愛の胸当てです。そして、もう一つ、私たちを励ましてくれるのは、救いの望みです。「救いの望みというかぶとをかぶり」なさいです。絶望しないように守るヘルメットです。死んでも、神様が愛し、迎えてくださる救いの望みのカブトです。
信じる人は神様に裁かれることはありません。神様の怒りを受けるのではなくて、救われるように定められています。9節ではそのことを詳しく言っています。
"神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。"
テサロニケ人への手紙 第一 5章9節
神様の裁きとか怒りはあります。
神様は神様を馬鹿にしたり人を傷つけることを非常に悲しみ怒る方です。「神様を認めない」という罪は人間全員が持っています。「正しい人は1人もいない」と聖書はいいます。
今日お配りした幸子さんの洗礼の時の証の作文にも書かれています。幸子さんは50年以上神様を無視して自分勝手な毎日だったと書いています。人間的にはたいしたことないと思っていても、罪はあった、と告白しています。
天の住まいに迎えられるのはいい人だから、ではありません。「主イエスキリストによる救い」を得るように定めてくださったと書いてあります。
イエス様は、「わたしを通してでなければ、だれひとり父(神様)のみもとに来ることはありません。」とおっしゃいました。(ヨハネ14.6)
神様の怒りと裁きはあります。そしてそれはイエス様が私たちの身代わりにすでに引き受けてくださいました。
キリスト教会には必ず十字架があります。これは2000年前のローマ帝国の公開処刑の道具です。ここに囚人を貼付にして、じわじわと殺して見せものにするのです。苦しんで死んでいく姿を多くの人に見せるためになるべく目立つ丘の上で、高く上げるのが当時のやり方でした。
「罪を犯すと苦しむぞ、こうなるぞ」と言うメッセージがそこにはありました。
イエスキリストは罪を犯したことがない神様の子です。その神の子が私たちの罪の身代わりに、私たちのために死んでくださった、と書かれています。
"主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。"
テサロニケ人への手紙 第一 5章10節
イエスキリストが私たちの為、皆さんのため、幸子さんのために、身代わりに神様の裁きを受けて死んでくだささいました。
イエスキリストを信じることは、このありがたい身代わりの死と神様の赦しを信じることです。
幸子さんが亡くなる2日前、先生から「大変苦しいそうなので、鎮静剤モルヒネを使っていいですか」と電話がありました。私たちは「いいですよ、お願いします」と答えました。その時に説明があって、モルヒネを使うと意識が混濁するのでお話しできなくなって、そのまま意識が戻らないこともあります、という説明でした。幸子さんも同じ説明を受けたそうです。「それならその前に家族に会いたい」と言ってます、とのことで、私たちは夜11時半ぐらいに病院に行きました。
看護師さんに聞いたら、「直前まで大変息苦しそうで、でもその中で幸子さんずっとお祈りしてましたよ」とのことでした。私たちが到着した時は少し酸素も戻って楽になっていて、お話も出来ました。
それでもう一度一緒にお祈りして、そしてもう一度聖書の言葉を読みました。「イエス様を信じる人は裁きに会うことがなく永遠の命を持つのです。そして、おばあちゃんは確かに赦されていて、神様に裁かれることないよ。大丈夫だよ、」と念押しのように説明しました。
そしたらおばあちゃんの答えは大きくうなずいて「わかってますよ。安心してますよ」でした。まるで、「当たり前です」と言いたげな感じでした。おばあちゃん最後にみんなにお話ししたいことない?と聞いたら「キリストを信じてください。」と言っていました。そこにいた看護師さんにも、いぶきにも、お兄ちゃんにもそう言ってました。
それは、9節-10節に書かれている通りです
"神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。"
テサロニケ人への手紙 第一 5章9節
"主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。"
テサロニケ人への手紙 第一 5章10節
イエス様と一緒に十字架につけられた人は極悪人でした。そしてその極悪人に対しても、イエス様は言われました。今日あなたはパラダイス、天の国にいます、と。
赦されない罪はありません。きよめられない罪はありません。
イエス様は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです、とおっしゃいます
罪があることを認める人、自分は天国にふさわしくない、と思う人、自分にがっかりする人はむしろ幸いです。その人は、イエス様の赦しを求めます。
幸子さんはいつも小さなことを神様に謝る人でした。僕も覚えていないようなことを何度も「稔さん、ごめんね」と謝ってくれました。おばあちゃんがいつも神様の前で自分の罪を認めて祈っていることの表れだと思います。
これが救いの望みです。これが神様の愛です。
神様は、あなたはもう赦されたんだから喜びなさいと言っています。赦されたんだから、今度はあなたも他の人を赦しなさいとおっしゃる。神様です。
14節の後半です
すべての人に対して寛容でありなさい。
だれも、悪に対して悪を返さないように気をつけ、互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うように努めなさい。
もちろん人生は苦しいこと嫌なことたくさんあります。被害者になることもあるし、加害者になることもあります。それでも神様が私を赦し、皆さんを赦し、幸子さんを赦してくださいました。
だから、あなたがたは寛容でありなさい。赦されたんだから赦してあげなさい、仕返ししないように気をつけ、むしろ全ての人に善を行いなさいと言います。
私はお見舞いの度に「おばあちゃん、施設の生活どうだい」「スタッフのみなさんどう?」と聞きます。そしたら必ず、「みんな親切でいい人だよ」と言います。
私はもうちょっと突っ込んで、「他の利用者さんで難しい人いるでしょう」とか「スタッフさんでも機嫌の悪い日もあるでしょう」と聞いてみました
そしたらおばあちゃんの答えは「向こうはどう思ってるかわからないけど、私のほうはみんなと仲良くやってます。」です。
聖書の言葉の通りです。神様に赦され愛されたんだから、感謝して、誰に対しても良いことをしたい、と幸子さんが思ってたことがわかります。
だれも、悪に対して悪を返さないように気をつけ、互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うように努めなさい。"
テサロニケ人への手紙 第一 5章15節
幸子さんの趣味の習字の中で1番多かったのが以下の聖書の言葉です。
"いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。"
テサロニケ人への手紙 第一 5章16~18節
これが神様の願いです。そして神様が皆さんに願っていることです。あれが嫌だ。これが嫌だと不平不満で生きるのではなくて、神様が私を愛してくれたことを感謝して、イエス様が私の罪の身代わりとなって、怒りと裁きを終えてくださったことを感謝して生きることです。
「私は赦されて愛されている」それを信じて胸当てにして、救いの希望の兜をかぶって生きることです。
「私も他の人に寛容でいよう」と思うことです。もし意地悪をされても「良いことで返そう」と思うのが神様の願いです。
残された私たちに、そして今日参列してくださった皆さんに、神様からのメッセージです。神様は皆さんが神の怒りを受けるのでなく、赦されて救われるように定めてくださったことを信じてください。
これを信じる人は幸いです。ぜひ神様からのメッセージを受け取ってください。
これが、神様と幸子さんが皆さんに望んでおられることです
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