1コリント11.17-34
教会の交わりは、イエス様がしてくださった十字架の愛と恵みを一緒に感謝する交わりです。「早くよこせ」「もっとくれろ」という食事にはイエス様も御霊の表れもありません。だから聖書は「空腹な人は家で食べなさい。」と言います。(34)教会の食事はイエス様が与えてくださった赦しや愛を感謝し、互いにそれを実践して表す交わりです。イエス様と一緒に自分をささげ、互いにささげ、互いに与える食事です。受けるより与える方が幸いです。(使徒20.35)コリント教会は我先にと食べ物を求め、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末でした。
(20-22)
20,しかし、そういうわけで、あなたがたが一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはなりません。
21,というのも、食事のとき、それぞれが我先にと自分の食事をするので、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。
22,あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか。それとも、神の教会を軽んじて、貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせたいのですか。私はあなたがたにどう言うべきでしょうか。ほめるべきでしょうか。このことでは、ほめるわけにはいきません。
イエス様はご自分を犠牲にして僕らを赦し、愛してくださいました。パンは命です。食事をしないと死んでしまいます。大事な食べ物を互いに分け合い、与えあうことは、イエス様の犠牲の愛の表れです。
(23-24)
23,私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、
24,感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
コリント教会では食べるだけ、飲むだけ目的になってしまっていて、貧しい人に与えることは忘れられ、強い人だけが満腹して酔っ払い、貧しく弱い人は放置されていたようです。聖書は「神の教会を軽んじて、貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせたいのですか。」(22)「あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。」(30)と厳しく注意しています。食料がなく、弱いまま、病んだまま、死んだ人たちもいたようです。
多くの教会では「聖餐式」と言って礼拝の中で小さなパンと杯を分け合うことが多いです。ですが、もともとイエス様は食事としてパンを分け合い、犠牲を払って与え合うことでイエス様の十字架の犠牲を覚える交わりでした。
杯はイエス様が十字架で血を流して赦してくださったことを思い出します。イエス様の血によって僕らの罪はきよめられ、(ヘブル9.22)僕らの罪と不法を思い出さない、という神様からの契約です。そして僕らも神様を愛し隣人を愛する心に変えられる、という新しい契約です。(ヘブル10.15-17)もしも、それを忘れたならただの肉欲に仕える宴会です。
(25-28)
25,食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」
26,ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。
27,したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。
28,だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。
今日もイエス様の十字架の犠牲の愛を思い出してもう一度感謝しましょう。御霊によってイエス様の愛が僕らの心に注がれます。そして、教会は受けるのでなく与える教会と変えられます。弱い人、放置されている人、病んでいる人を特別に大事にする僕らへと変えられます。僕らの力でなく、主がそうしてくださると信じます。ハレルヤ!
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