2023年7月23日日曜日

1コリ12.14-13.3 愛し合うための賜物

 1コリ12.14-13.3 愛し合うための賜物。


教会はキリストの体、と言われます。そして、一人一人はその部分、ちょうど良くそれぞれに役目を与えておられます。



(12-14)

12,ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。

13,私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。

14,実際、からだはただ一つの部分からではなく、多くの部分から成っています。



全てには美しい調和があります。えらい人、偉くない人、高い人、低い人はありません。皆、同じ聖霊を受けて、キリストの体の一部となりました。そしてその役目は神様がちょうど良く与えてくださっています。基本的に私たちは1つです。ランクが上のクリスチャン、下のクリスチャンはいません。

パウロはコリント人に、他人が持っている霊的な贈り物に嫉妬したり、うらやましく思ったり、逆に高ぶったり他の人を見下さないしように警告した。実際コリント教会は争う教会でした。


どっちが偉いか正しいか、比べあい、妬み合う、羨んだり、見下したり、を繰り返すのが僕らの弱さです。


口と手、どっちが偉い?手が口に食べ物を運んでくれるから、口はただ受け取るだけ。手から見たら、いいなあ、口は、いつも食べさせてもらって。美味しい思いをして。こっちは作って運ぶだけだよ。味わえない。役目の違いなんだけど、比べあって妬んだり、見下したり、というのが教会にありました。


14

実際、からだはただ一つの部分からではなく、多くの部分から成っています。



体は14節で多様性を持たなければならないと言います。一つの機能ではダメです。体のすべての機能はたくさんの種類が必要です。違う方がいいしそうでないと体にはなりません。教会も同じです。



(17-20)

17,もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。

18,しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。

19,もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。

20,しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。


みんな食べたいから、味わいたいから、みんな口だったら化け物です。

多様性、違いが大事。違う方が健全。問題は、その違いを羨んだり、妬んだり、見下したりすることです。


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1 与えられた役目が気に入らずうらやむ人

2 与えられた役目を高ぶり見下す人

3 どんな働きも愛がなければ虚しい。



1 与えられた役目が気に入らずうらやむ人


(15-16)

15,たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。

16,たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。



なぜ足は手をうらやむのか?足は、いつも地面にくっついて踏まれていて、当時はいちばん汚れていて、足を洗うというのが大事。手はいつも空中にいるけど、足は、いつも土、埃、泥がつく。汚れ役。いいな、手は。ものをつかめて、そんなにいつも汚れないし。大事にされているし。目立つし。足は目立てない。


耳は目をうらやむ。いいなあ。見えて。一番注目されるし。耳は隠れているし。

足は必要。耳は必要です。


他の人が与えられている賜物、才能、立場をうらやむこと。そして、うらやむだけでなく、手になれないなら、やめる、と言う人がいました。

目になれないなら、この体やめる。つまり、自分に与えられた立場や賜物は不満だから、そんな嫌な才能とか、立場しかくれないなら、キリストの体には属さない、と思いがちな人。


与えられた立場も御霊の賜物も、神様からのものです。


ある人は、使徒、預言者、ある人は、教師、また、牧師、ある人は伝道者(28-)とあるけど、優劣はなくて役目が違うだけで、どちらが偉いではありません。どこの国で生まれ、どこの家で育ち、どんな教育を受けて、どんな能力が与えられているか、それ神様が丁度よく一人ひとりに分け与えてくださっています。


まずは与えられているものに従って、その場所で神様にお仕えするのが正解です。シスターの渡辺和子さんは「置かれた場所で咲きなさい」とおっしゃいました。この時代に、この国で、この家に育ち、この仕事をしています。主が置かれた場所です。この教会でイエス様を信じ、ここで愛し合うように言われています。主が置かれたちょうど良い場所、立場、役目です。


他の人を羨んで、そうなれないと落ち込んで、ねたんでやめたくなることがあると思います。気に入るように用いてくれないから他の教会行く、って話です。神様がちょうどよく与えて下さった賜物や立場や、その環境、仲間たちが気に入らない。よくある話です。


コリント教会では、いつもそうやって比較して派閥争いをしていました。気に入らないと教会の外の人たちに訴え合っていたと6章に書かれています。

足は体の中で1番下です、いつも踏まれて、いつも汚れて、そんな私であるはずがないと思うわけです。私はもっと上のほうにいて、他の人に歩いてもらって、私は運ばれるべきだったんです。神様のセッティングがおかしい、神様への不信です。今の立場は納得できない。そこに神様のセッティングは間違っている!と言うものです。


自己否定とか落ち込みが、実は非常に傲慢と言うことがあります。


僕の親しい友達の藤野教会の岡田先生が言いました。「稔くん、謙遜そうに見えて傲慢だねぇ」

僕はこういうところが足りない、って言えるし、一見謙遜そうに見えるけども、それは自分の判断であって、もっとこうあるべき、が隠れています。


神様ではなく、自分の判断で私はこうだからダメなんだと言って自分を低くして落ち込んでいるなら傲慢です。「自分はこうあるべき、自分はこうであらねば」という傲慢が隠れていることがあります。神様の福音、神様の判断とは違います。


自分はもっと輝かなければダメだと言う傲慢です。そうなれないと、自分はいらない人間だと言い出す問題がありました。


7章では、不信者と結婚していたらそのままでいなさいと教えます。基本的に。でも、他のカップルは信仰者のカップルで、一緒に主に仕えてます。「なんでうちの夫はクリスチャンじゃないのか」「いいなーあの人は」と比べて落ち込んで、私はこの教会にいるべきではない、と思いがちです。でも、そのようなマイナスに見えることも含めて、神様がちょうど良い場所にちょうど良いあなたの環境として与えて下さったということです。


神様が与えてくださる立場とか、環境はいつも気楽で思い通り、ハッピーではありません。

弱さとか戦いもまた神様がちょうどよく与えてくださっています。足は嫌だ、と言う人がいるの気持ちはわかります。目がよかった、と言う気持ちわからないでもありません。けれども、全員が同じ役目ではないし、金太郎飴みたいにおんなじ賜物おんなじ性格ではありません。コンビニの店員さんとかみたいに同じ服着て同じマニュアル通りに動くのではありません。


(17-18)

17,もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。

18,しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。


それぞれの部分を与え備えてくれたのは神様の御心です。もっと指導者的な立場が良かった、と思うかもしれません。でも、誰が教師になるか、それは神様が、召されます。


(28-30)

28,神は教会の中に、第一に使徒たち、第二に預言者たち、第三に教師たち、そして力あるわざ、そして癒やしの賜物、援助、管理、種々の異言を備えてくださいました。

29,皆が使徒でしょうか。皆が預言者でしょうか。皆が教師でしょうか。すべてが力あるわざでしょうか。

30,皆が癒やしの賜物を持っているでしょうか。皆が異言を語るでしょうか。皆がその解き明かしをするでしょうか。


神様は一番下で汚れる足を必要としているし、願っておられるし、その役目に置かれました。


置かれた場所、賜物、性格を過小評価しないでください。神様が滅びに向かっていた僕らを選び、愛し、十字架の血を流して取り戻してくださいました。キリストの体の一部としてくださいました。その賜物、その環境、その役目を与えてくださいました。他の比べてもっとこう、もっとああ、と言って不満を言うのは、イエス様の恵みを忘れた姿です。神様への感謝。十字架の恵みへの感謝を忘れた姿です。まるで、自分の力で生きているかのように誤解している人です。


全部が恵、プレゼントです。感謝しかありません。自己卑下は傲慢です。自分はもっとこうでなきゃ、と言う傲慢です。キリストが命を捨てて愛して、取り戻してくださった宝です。自分の判断で自分はダメだとか、自分はいらないと言っているのは傲慢です。


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●与えられた役目を高ぶり見下す人



(21-22)

21,目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。

22,それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。



今度は目立つ人、指導的な人です。預言の賜物があり、癒しの賜物がある人がそれを誇り、他の人を見下し、目立つ賜物がない人は必要ない、いらない、と言いました。これは傲慢です。まるで、自分一人で生きているかのようです。でも、目立たないところこそ、見栄えが悪い人、弱っている人こそ必要です。なくてはならないのです。



22

それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。


なぜでしょう。



(25-26)

25,それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。

26,一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。



大きな能力を預かっているメンバーが、癒し、助ける力を預かっているメンバーが弱っている人を助け、覆い、守ります。

賜物があたえられている人々は、苦労し病んでいる人を配慮し、助けるためにある、と聖書は言います。なぜなら、教会はキリストの愛の表れる交わりだからです。


イエス様は言われます。


(マタイ 25:40

『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』


神様は教会の中にわざわざ、弱いところを与え、問題を与えておられます。それは、弱い人を配慮し、一緒に苦しむことは、教会として何よりも価値のあることだからです。いつも成功して繁栄するように神様は教会を作りませんでした。問題が問題なのではなく、問題に愛と忍耐を持って取り組み、トラブルに愛を持って対処し続け、犠牲を払って互いに支えることが永遠に価値のあることだからです。もっとも価値のあることはこの世で成功することでなく、犠牲を払って愛し合うことです。それは永遠に無くならない価値のあることです。


もちろん、神様は繁栄、成功、満足も与えてくださいます。でも、弱さも与えられます。

トラブル、問題、不足、弱さがあるところには、神様が最も永遠に価値があるとおっしゃった愛を表す機会となります。祈る機会、助ける機会、自分のことを後回しにして、仕える機会が与えられています。


トラブルや弱さが教会にあることは、永遠に価値のある宝がある、と言うことです。宝とは、犠牲を払って、イエス様と一緒にその人のために時間を力をささげることです。弱さ、問題、トラブルは嫌だけど、その人を助けることは、天では宝です。宝は天に蓄えあす。天で喜ばれるために、地上では歓迎されないはずの問題を歓迎し、トラブルは嫌だけど愛して取り組みます。

お金が足りないこと、不安だけど、歓迎します。神様に祈り求める機会だからです。

難しい人、弱い人とあったら、大変だけど、傷つけられるかもしれないけど、歓迎します。それが天では一番価値のある宝だからです。


また、弱さや問題を抱えている人も助けてもらうことを学ぶ機会です。謙遜さの訓練です。プライドがあると助けてください、祈ってください、と言えません。問題やトラブルはみんなにとっても、本人にとっても大事な愛と謙遜を学ぶ宝です。


(22-26)

22,それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。

23,また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、

24,格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。

25,それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。

26,一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。


教会にとって大事なのは助けを必要としてるメンバー、トラブルがあるメンバー、病気のメンバーです。トラブルがある人も、助けてもらい、支えてもらうことを主に感謝する機会です。


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●どんな働きも愛がなければ虚しい。



31

あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。私は今、はるかにまさる道を示しましょう。


13章1-3)

1,たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。

2,たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。

3,たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。



コリント教会は多く人がいて多くの活動がありましたが、利己的で肉で活動していました。イエス様の御霊は愛です。愛がなければ虚しいし意味がありません。


弟子たちは誰が一番偉いか、と話し合っていましたが、イエス様はしもべとなって弟子たちの足を洗ってくださいました。自分を捨てて相手をたてあげるのが愛です。

イエス様は自分の栄光を捨てる方です。神としてのあり方を捨てて、最悪の立場で血だらけで死んでくださる方です。


僕らはいつも私たちは有名になるため、自分が得をするため。損しないように、疲れないように、お金が残るように。自分のことばかりです。

礼拝のメッセージさえも、自分の栄光のため、自分が評価され、受け入れられるためになることがあります。愛がなければ虚しいです。イエス様から与えられる御霊は愛です。自分を捨てる愛。


(1-2)

1,たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。

2,たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。



私はいつも、説教には2つの大きな敵がいます。最初の敵は真実からの逸脱です。

2番目の敵は人々に対する無関心です。愛を持って真理を語る、両方が大事です。


バランスが崩れている人がたくさんいます。人々に大きな愛を持っているが、真実を語るのが苦手な人、真実を語るが、人々のことをあまり気にしない人がいます。愛がなければ虚しいです。


私が仲間からの圧力で動くなら、それは何の意味もありません。周りの人から認められたいためなら意味がありません。「愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。」「愛がないなら、私は無に等しいのです。」


栄光、名声、達成、成功、誇りのために行うことは、神様の前では無です。ゼロです。むしろマイナスです。うるさい騒音です。


※KBIの大田先生はおっしゃいました。

お金があるから伝道師として任命するのではない。お給料が出るから教会スタッフになるのではない。

全ては福音の感動によらなければ意味がない。


十字架の愛、あのイエス様の犠牲の愛の感動なしでも動くことはできます。義務で、惰性で与えることができます。奉仕することができます。でも、そこには何の価値もありません。

でもそこには、イエス様の十字架の福音の感動はありません。御霊の愛、御霊による感動はありません。

高ぶり、自分の栄光を求めて、他を見下すところにも十字架の福音の感動も御霊の愛もありません。


どんな役目も愛し合うための役目や立場です。

どんな目立つ賜物も愛するための賜物です。

どんな弱くて助けてもらう立場も、愛されるための賜物です。愛がなければ虚しいです。


愛はイエス様の御霊によって与えられる賜物です。

愛は自分からは出てきません。愛がないことを認めましょう。

そして、与えられている立場も役目も愛も神様から出ます。自分を明け渡して、イエス様の御霊で満たしていただきましょう。愛は神様から与えられます。賜物の違いは愛し合うための違いです。ハレルヤ!


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