2023年9月9日土曜日

使徒20.35、1コリント12.22  小グループリーダー会メッセージ 弱い仲間こそ大切!

 使徒20.35、1コリント12.22  小グループリーダー会メッセージ 弱い仲間こそ大切!


(使徒 20:35)

このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」


(1コリント 12:22)

それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。


ご存知の通りコリント教会は問題だらけの教会です。派閥争い、性的な罪、離婚問題、秩序がない礼拝などなど、ぐちゃぐちゃです。でも、問題だらけでいつまでも成長しない教会の仲間が「誇り」だと聖書は言います。


(2コリント1.13)

私たちの主イエスの日には、あなたがたが私たちの誇りであるように、私たちもあなたがたの誇りであることを、完全に理解してくれるものと期待しています。


なんと、問題のある人たちが、イエス様の日には誇りだと聖書は言います。


信仰の赤ちゃんの時は助けが必要です。何もできず、ただ保護されて、口開けて食べさせてもらうようです。困ったら泣いているだけです。そのようにして、まるで教会が親のように信仰の赤ちゃんを保護して育てます。だんだんと成長しますが、ずっと助けが必要な子もいます。人によっては一生の間介護されっぱなしで、自立が難しい神様の子、神様の家族もいるんだと、再認識しました。


成長せず問題だらけの人も、神様の目には高価で尊い子です。神様に愛されている子です。

一方、教会に集まって元気に奉仕ができて、霊的にも成長する人もいます。神様から賜物を授かってそれを積極的に用いる人たちもいます。


どちらが上か、ということはなく、むしろ弱い人、自分で祈れないような人、自分でみことばを食べれないような人、なかなか信仰生活が自立できない人を神様は同じように愛しておられると思わされました。


今朝、祈りの散歩に出たら洗礼を受けたけども教会生活から離れているある人が遠くに見えて、それを見て祈りました。どうやって声かけたらいいですか、どうしたらいいですか?と。お祈りしたらすぐに、これは神様がセットし出会わせてくださったチャンスだとわかりました。


それで、散歩コースの予定を変えてその人と同じ道を歩いて声をかけました。

一緒に歩いて、ちょっと雑談して、そして今度また以前のように一緒に聖書の学びしませんか?と言ったら、すごくうれしそうでやりたいです、と言っていました。


この人は信仰はなくしてはないけども、自分でイエス様を求めることができず、ずっと助けが必要なタイプの人です。助けがないと自分で礼拝に出席できず、自分で聖書も読めず、自分で祈れないタイプ。だけどもでもイエス様に愛されている大事な子ども、という点は確かで失われていません。助けが必要で、ずっと人が食べさせてあげないと神様のことがわからない子なんだ、と改めて思いました。


昨日、うちの義理の父母からSOSがあって、助けに行きました。

昔はなんでもできた人ですが、今は家族の中で助けられながら生きています。

両方とも神様から教えられた感じがしています。

人は元気な時期もあるけど、助けが必要な時もあります。人によっては弱くされた人、弱い人、最初から最後までずっと助けや介護が必要な人もいます。それが家族だな、って思いました。



ローマ 15:1)

私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。


(使徒 20:35)

このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」


(1コリント12:22)

それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。



自立できない弱い信仰者はいます。神様の子供なんだけどもずっと与えてもらって食べさせてもらって、祈ってもらって助けてもらう人がいます。ずっと成長できず、その人はずっと低空飛行で、一生周りに助けてもらい、祈ってもらって教えてもらって連れてきてもらって生きる人かもしれません。それでも神様の目には尊く、決して見放さない神様の保護の中で生きてる人なんだ、という発見がありました。


それで神様はそういう子たちを見放さないし、イエス様が失って自分で戻れなくなっているような迷子を探すなら、キリストの体である教会も探し、受け入れ、連れ戻すのは当然です。



(マタイ18:12-14)

あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。


イエス様は自分で歩けない人たちを愛しています。

神様の家族、と呼ばれるのは健康で自分の足で歩ける人たちだけではありません。ずっと介護が必要な家族もいます。イエス様は人を怖れる人とか、神様へのの優先順位が高く思えないとか、全然そこまでいけない人たちを愛しています。


僕らがいつの間にか集まれる人たちだけ、元気な、霊的に成熟した人だけの教会になっているとすればそれは大事な視点を失っています。問題だらけのコリント教会の兄弟姉妹はパウロの誇りです。それがわかるのイエス様の日です。(2コリント1.13)


誘って車に乗せてあげないと集まることもできない人、困った時だけ連絡してきて祈って祈って言う人達。そういう霊的に弱い人たちをやっぱりイエス様は愛しておられるし、私のもとに来させなさいと言っておられるし、小さいものにしたのは私にしたのです、とおっしゃいます。(マタイ25.40)



いつもイエス様は弱い人、社会的に阻害されている人のとこに行って、愛して助けて祈ってくださいました。癒されて、助けられても感謝しない人もいました。それでも、イエス様の側では助けてくださるし、愛するのをやめる方ではありません。


労力がかかって、時間を人よりも何倍も時間がかかる人を愛しておられます。九十九匹も、1匹も同じく大切にしてくださるイエス様です。


いつまでもくれろ、くれろ、といい続ける人もいます。この教会はあれしてくれない、これしてくれない、とずっと子どもみたいに求めてばかりいる人もいます。

それでも神様は見放さないし、やがてその人も「受けるよりも与える方が幸い」と理解する日が来ると期待します。それは終わりの日かもしれません。手がかかっても尊い家族です。愛していきましょう。


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