1コリント15.35-58 逆転するから大丈夫!
みなさん、自分が親に似ちゃってるな、と思うことありませんか。最近80代の母の写真見て、その垂れ目なところとか自分の鏡見て、似ていきてるなぁと時々感じます。顔もそうですけども、性格もどうしても親に似てしまうと言うことをがあります。いいところならいいんですけど、嫌なところも似てしまいます。
質問です。
①親に似たくないところはどんな所ですか?
②現状はどうですか?
私たちはそのように親、先祖に似てしまいます。そして聖書はすべての人が先祖であるアダムに似ていると言うんです。
もともと神様の似姿に作られた素晴らしい先祖アダムです。神様の御性質として素晴らしいものを私たちたくさん受け継いでいます。でもアダムと同じように悪いところもたくさん受け継いでいます。
今日のポイントは2つです。
1 アダム似からキリスト似へ 2 苦しみは似ていくためのプロセス
1 アダム似からキリスト似へ
48,土で造られた者たちはみな、この土で造られた人に似ており、天に属する者たちはみな、この天に属する方に似ています。
49,私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです。
アダムと似ているところ
1 神様のことばより自分の判断。
2 恐れて隠れる。
3 自分を覆ってよく見せようとする。
4 人のせいにする・神様のせいにする
5 いのちの神様を切る。死んでいく。
親に似るように、僕らはアダムに似ています。自分から神様を切って、自分の判断で生きようとしました。
アダムは、食べるの禁止されていた善悪の知識の木の実を手に入れてから食べてから、神様の言葉よりも、自分の判断、自分の善悪が優先になっていて、自分が正しい、と思います。神様より自分です。そこが私たちみんな似てしまった残念なところです。
神様が近くに来られるとアダムは隠れました。こそこそするんです。もともと恐れなく作られたのに、恐れる人になってしまいました。それも私たちも似ています。聖なる神様の前にあんまり出たくないし、隠れていたいな、と思うところが似てます。また、自分で葉っぱで腰の覆いを作って自分をよく見せようとします。食べてはならない実を食べた時に、アダムは人のせいにします。奥さんのエバのことをこの女が悪いんです。この女が私に実を食べさせたから悪いんです。私は悪くない、と言います。いつも自分が正しくて他の人のせいにします。ついでに神様のせいにします。この性格、私たちもうけついでしまっています。最悪なのは死ぬ人になったことです。神様を切ることは命を切ることです。まるで携帯電話が充電器やコンセントをいらない、と言っているようです。充電満タンでもやがて死んでいくだけです。
今日は残念な話をしてるのではありません。今日は福音良い知らせ、明るい知らせ朗報を伝えています。喜びの知らせを伝えています。
21,死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。
22,アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。
49,私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです。
私たちイエスキリストを信じた時に、今度は親に似るのでなく、アダムに似るのではなく、キリストに似るものとなりました。最後は完全に似た人となります。そのプロセスもキリストと似ます。キリストは一度肉体を持ち、苦しみを通り、死にました。
イエス様は完全な姿に復活し、栄光の体を持っています。同じように僕らも将来、完全な体、罪のないからだ、欠点のない体に変えられます。そのためには一度死んでこの体とはお別れします。一度死ぬ必要があります。キリストは一度血肉の体を持ち、傷つき、苦しみました。そして、今は栄光の体で復活しています。
50,兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
20,しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
キリストは初穂です。最初の実りです。一つが実るとみんな同じように見なります。次々と同じ現象が起こります。
具体的には35節と36節に書かれています。畑を見なさいと言うのです。
35,しかし、「死者はどのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか」と言う人がいるでしょう。
36,愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ生かされません。
37,また、あなたが蒔くものは、後にできるからだではなく、麦であれ、そのほかの穀物であれ、ただの種粒です。
38,しかし神は、みこころのままに、それにからだを与え、それぞれの種にそれ自身のからだをお与えになります。
36節から38節正の種粒が全然違う緑の食物作物になると言うことです。
※クイズ、この種何?
弱い体、死んでいく体とはお別れしして、驚くような素晴らしい体になります。
42,死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
43,卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、
44,血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
イエスキリストがまず、誰よりも最初にこれを具体的に現してくださいました。あの鞭で打たれた人から唾をかけられ、血だらけで惨めな惨めな傷だらけの姿で葬られました。でも復活の体はペテロもヨハネも直視できないほどの栄光の姿でした。
彼は太陽のように輝きありえないような白い輝く衣を着ていました。この世のどんな美しい服よりも美しいものをまとい、どんな健康で美しい人よりも美しくかえられます。それは神様の似姿です。イエス様と同じように私たちも43節栄光あるものにキリストの完全復活します。
だから、私たちのこの肉体は病気があり、疲れがあります。人間関係で傷つきます。弱さを通ります。そのような体とはお別れしなければなりません。
49,私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです。
50,兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
復活の時には悲しみも病気も死もありません。それは完全な逆転勝利です。
53,この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。
54,そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」
55,「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」
この世では命が死に呑み込まれる、と思っている。どんな元気な人も死んでいく。死は全てを飲み込んでいく、と思われています。でも、聖書はそれと反対のことを言います。死が命に飲まれていき、死は勝利に飲み込まれていきます。
2 苦しみは似ていくプロセス。
復活の話をすると、なんか急にファンタジーっぽくなって信じられない人も多いです。
復活したイエス様は天にいると同時に、御霊として僕らの体に住んでおられます。聖書はこのように説明しています。
45,こう書かれています。「最初の人アダムは生きるものとなった。」しかし、最後のアダムはいのちを与える御霊となりました。
今、僕らの体に復活したイエス様が一緒にいてくださいます。今生きているのはキリストと一緒です。イエス様が今生きてるから、そのイエス様の霊が私たちのこの体に住んでおられるから、僕らはイエス様と同じように、新しい心、互いに愛し合う心に変えられ、赦しあう人に変えられます。
聖霊が与えられて、心に神様の愛が与えられて神様を愛し、互いにゆるそう、愛そうとし、忍耐します。互いに愛することができるのは、キリストが今生きている、と言う証、証拠です。人間から出た愛ではありません。
キリストの苦しみにも参加します。イエス様と一緒に苦しみます。地上の人生では苦しみは続きます。イエス様も十字架にかけられる前、弟子たちに、「あなたがたには世で苦難があります」とおっしゃいました(ヨハネ16:33)
でも、僕らの苦しみは一人で苦しむものでなく、イエス様につながる人として、イエス様と一緒の苦しみです。主に結ばれた者として、キリストの苦難にも参加します。
パウロは昔、教会を苦しめていました。クリスチャンを憎み、攻撃していました。見つけては引きずり出して投獄し、無理やり神様を汚す言葉を言わせ、死ぬ人もいた、と聖書は書いています。そんな酷いことをしていた時に、天からイエス様の声を聞きました。
「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒9:4)
パウロがいじめていたのは教会です。そこに所属する一人一人です。だのに、天ではそれはイエス様への攻撃でした。イエス様は教会と一つです。教会を苦しめると「なぜ私を迫害するのか」といいます。教会とそこに入っている人が罪で苦しんだり、攻撃されたり、悪魔の攻撃と誘惑にさらされて悩むのは、それはみんなイエス様が一緒に苦しみ、悲しんでくださることです。
僕らの苦しみ悲しみを、御自分の苦しみとしてくださるお方です。
みなさんも今も、悲しみがあり苦しみがあると思います。
自分の罪が原因かもしれないし、他の人の罪で苦しめられているかもしれません。でも、それは全てキリストの苦しみです。イエス様は苦しまれました。悲しまれました。傷つきました。そして捨てられ、殺されました。そのイエス様が一緒にいてくださいます。弱くされたり、苦しんだりするのは、復活して勝利するために必要な通過点です。イエス様と同じです。
芋虫が蝶になるときに、いきなり変身するのではなく、途中サナギになります。今まで、それなりに動いていたのに、動けたのに、彼は急に体に異変を感じ、動けなくなります。不自由を感じるかもしれない。今まで自由に動き食べたい葉っぱを食べてたのに、それができなくなります。なんで?と思うかもしれないけども、それは通過点です。動けなくなり、制限されることは、自由に飛ぶために必要なステップです。
同じように、苦しみは、復活と栄光の通過点です。必ず通らなければならないことです。弱くされ、土に撒かれ、て新しい体になります。
36,愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ生かされません。
キリストが自分を捨てて十字架の苦しみを受けてくださったように、死んで葬られたように、僕らも自由を失い、苦しみ、死ぬ、という経験を通らなければなりません。自分の栄光や自分の力を手放す時が必要です。一度死ぬとは、文字通り死ぬことです。同時に、日々自分を手放していくことです。弱くされる経験を通されます。自分の計画を手放す経験をさせられます。それは僕らが悔い改めてきよめられていくプロセスです。
42,死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
43,卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、
クリスチャンじゃなかった時は、それがキリストと一緒の歩みだとわかりませんでした。ひたすらこの苦しみはあいつのせいだ、こいつのせいだ、社会のせいだ、と言っていたかもしれません。でも今は違います。キリストと一緒にその苦しみにあずかっています。その先は復活であり、栄光であり勝利です。
昔は、こうすれば解決できる、お金で解決できる、あれがいいこれがいい、右往左往していました。あるいは、まるで苦しみなんてなかったかのように触れずに、逃げて、目を背けていたかもしれません。でも今は違います。ちゃんと向き合います。原因は人の罪です。アダムの罪です。そして、それに似てしまった私たちの罪です。そして、その苦しみに参加しています。イエス様は罪はないのに、人の罪を引き受けて苦しみ死んでくださいました。だから僕らも人の罪のせいで苦しみを背負わされます。自分の罪の刈り取りもします。でも、その先は復活です。全てが変えられ、栄光に変えられ、この苦しんだ経験の全てが、栄光のための肥やしとされます。復活のために必要なステップだったことが後でわかります。神様は先に教えてくれています。
映画とかドラマの結末とか、大事な仕掛けとかどんでん返しとか、肝心なことを教えることをネタバレ、と言います。
神様は僕らにネタバレしてくれています。この苦しみの先どうなるかネタバレです。僕らは今苦しんでいます。それはますますキリストと一緒に自分を捨てていくプロセスです。自分を明け渡し、もう、自分の人生でなはく、神様様の御心の通りにしてください、という献身のプロセスです。そして、最大のどんでん返しは、死と復活です。
だから、喜ぶことができるようになったのです。希望を持って忍耐することができるようになったのです。苦しみが単なる絶望とか闇ではないのです。その先の光がいつも見えている苦しみです。
50周年の記念誌に載せる証を募集しています。それは神様がしてくださった感謝なことだけ書くのが一般的です。でも、僕が25歳から今56歳までの31年の東栄教会の歴史を思い出すと、記念誌には載らないだろうな、と思う教会の苦しみの歴史がありまです。むしろそっちの方が思いだます。牧師に対する批判が続いていたこともあったし、怒りで教会を出ていった人たちもいました。お金の問題、性的な罪の問題、離婚問題、精神的な病が多かったこと、たくさんの苦しみを思い出します。でも、それが教会です。それ目を背けたいかもしれないけど、これがイエス様がご自身の体、ご自分の妻、愛する子どもたち、と呼びかけてくださる教会です。イエス様が一緒に悲しみ、苦しみ、忍耐してくださり、憐れんでくださり、ゆるしてくださり、癒してくださった歴史です。一つ一つが大事なプロセスでした。罪深いアダムに似ていたように、キリストに似た人に完全に変えられるプロセスとして、キリストと一緒に苦しみ、キリストと一緒に死ぬ、という必要なプロセスです。罪があるところに主の恵と愛も大きいです。そして、その先に見えるのは復活と栄光と勝利です。
今も、それぞれに苦しみがあると思います。でも、その苦しみは一人で背負う苦しみではなく、キリストご自身の苦しみです。
詩篇34.18
主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ霊の砕かれた者を救われる。
僕らが悲しむ時、打ち砕かれる時、それはイエス様と一緒です。
イエス様が近い時、それは悲しみ、裏切られ、傷つく時です。罪のせいで人から苦しめられ、殺されたイエス様が一緒にいてくださいます。一緒に悲しんでくださいます。僕らの悲しみはキリストと一緒、キリストの体である教会と一緒です。真実な苦しみです。イエス様が苦しまれ、捨てられ、殺され、そしてその先に復活なさなさったのと同じように、復活と勝利が約束された苦しみです。
アブラハムもノアも地上では栄光を受けませんでした。でも、希望を持って、信仰を持って、遥か将来の栄光を見て喜んでいました。
ヘブル 11:13
これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
忍耐とはやせ我慢でなく、希望を持って待つことです。この労苦が喜びに代わることを確信することです。今日の最後は次のように締めくくります。
58,ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。
今の苦しみは無駄ではありません。悲しみは無駄ではありません。むしろ、悲しむ人は幸い、心の貧しい人は幸いです。自分を捨てなければキリストの弟子となることはできません。弱くされている人、卑しめられている人はキリストの似姿に変えられている大事なプロセスを通っています。悲しみや苦しみを通して、僕らは自分を捨てていきます。
36,愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ生かされません。
43,卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、
御国は来ます。復活はあります。希望を持って忍耐し労苦していることはムダにはなりません。復活して御国に入れられます。
逆転が待っています。今日も労苦して主に仕えましょう。「あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」
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