2023年12月13日水曜日

中高生スタッフ学び「遊びの重要性」

中高生スタッフ学び「遊びの重要性」(参考:メビックセミナー )  

~一般的な遊びに対する理解と聖書が教える遊びの理解の違い。~  

1 教会での遊びの効能  

遊びはアイスブレイクになる。遊びで心をほぐしてメッセージを聞きやすくする。  実際、楽しんでいる時の方が情報はインプットできるしアウトプットできる。遊びは能力を引き 出す。遊ぶことによって集中力が引き出される。リラックスさせる。そのためには遊びであって 勝って楽しい。負けても楽しいものにする。遊びは悲しみから解放する力もある。 

また、遊びは仮面を剥がす。本心が出る。一緒に遊ぶことで初めて自分の問題、家庭の問題を開 示して一緒に祈ることができる。遊び終わった後の喜びの余韻が大事。楽しかった、受け入れら れている、という感覚が大事。連体感が得られる。  

遊びやゲームにはルールがある。ルールはルールを守るためにあるのではなく、楽しく遊ぶための もの。律法と恵みや祝福と似ている。律法のための律法でなく、祝福と喜びのために律法がある。 

遊びとわがままを通すことは全く違う。  

2 聖書が教える遊びの大切さ  

聖書には「遊びなさい」というみことばはない。しかし聖書全体から「遊び」が重要なことかわ かる。  

(1)遊びは主と共にいる祝福された状態  

ゼカリヤ8.3-5によると、祝福が回復した時子どもたちは遊ぶ。遊ぶというヘブル語(サハク)は 笑うとか、喜ぶ、踊るという言葉。ここでは捕囚から解放された時の預言  

(ゼカリヤ 8:3-5)  

主はこう仰せられる。「わたしはシオンに帰り、エルサレムのただ中に住もう。エルサレ ムは真実の町と呼ばれ、万軍の主の山は聖なる山と呼ばれよう。」 万軍の主はこう仰せら れる。「再び、エルサレムの広場には、老いた男、老いた女がすわり、年寄りになって、 みな手に杖を持とう。町の広場は、広場で遊ぶ(サハク)男の子や女の子でいっぱいにな ろう。」 

(新共同訳 彼らは広場で笑いさざめく。 口語訳 街路に遊び戯れる)  

この「遊ぶ」(サハク)は喜び踊るという意味もある。 

(2サムエル6:20-23)  

きょう、あなたは自分の家来のはしための目の前で裸におなりになって。」 

ダビデはミカルに言った。「あなたの父よりも、その全家よりも、むしろ私を選んで主の 民イスラエルの君主に任じられた主の前なのだ。私はその主の前で喜び踊るのだ。(サハ ク) 

私はこれより、もっと卑しめられよう。あなたの目に卑しく見えても、あなたの言うその はしためたちに、敬われたいのだ。」サウルの娘ミカルには死ぬまで子どもがなかった。 

人が安心して遊び踊ることは、神様に祝福された状態。また喜び踊るダビデを見下したミカルは 祝福を失った。遊びは霊的に「満足している、楽しい」という状況。  

神様と共にいることがわからなかったり、神様は不十分だと思ったときには遊ぶことも喜ぶこと もできず、誘惑を受けやすい。あるいは、自己努力によって満足しようとしたり偶像に頼る誘惑も 受けやすい  

(2)遊ぶことは神様の愛と喜びを表すこと  

 ①神様は人の存在自体を喜んでおられる  

遊びは欠乏感を埋め合わせる物ではなく、リラックスさせる目的でもなく、遊びは神様と一緒に いることを楽しみ、相手と一緒にいることを楽しむもの。人は神様と一緒にいるだけで十分満た される。そして遊びは相手と一緒に過ごすことに価値を置くもの。  

遊びには生産性がないように見える。遊びによって何か仕事が進むのではない。目標に近づくの でもない。しかし、神様は僕らのそのままの存在を喜び肯定してくださっている。それを表し、 自分も相手も存在をそのまま肯定するのが遊び。  

私たちの文化は何かを成し遂げること、仕事をすること、努力すること、目標に向かうことが美 徳だと思われている。しかし、聖書の神様は安息を強調する。  

 ②キリストは神と人を喜び楽しむ方  

目的があって遊ぶのではない。神と共に、隣人と共に一緒に遊んでいること自体が祝福された状 態。目標に向かって努力するのは遊びではない。勝ち負けにこだわるのは遊びではない。神様と 人と一緒にいること自体を楽しむ状態。これはキリストのご性質を表す。  

(箴言8:30-31)  

わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前 で楽しみ、神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。 

「わたし」は神と共に創造されたキリスト。キリストはいつも神の前で喜び楽しんでおられた。 この世では徹夜で仕事をしたとか、残業して頑張りました、ということが評価される。しかし、 神様の前ではリラックスして神様と相手を喜んで遊んでいました、が評価される。目標達成のため に動くことも大事だけども、その前に神様に作られた自分と相手を喜び、肯定し、一緒に楽しみ 過ごすこと。これが遊びの大切さ。 

※ある同じ日の親子の日記  

お父さん→「今日は1日子どもに付き合われた。おかげで仕事は進まず、疲れる日だった。」 息子→「今日は1日お父さんと遊んだ。最高の日だった。」  

神様はどちらの日記を喜んでおられるだろうか。  

子ども一緒に遊ぶことは子どもたちの存在を喜び肯定する神様の愛を表すこと。神様は人を喜び 歌っておられる。  

(ゼパニヤ3:17)  

あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなた のことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌って あなたのことを喜 ばれる。 

教会のスタッフが本気で子供達と時間を過ごし喜び遊ぶことは神様の彼らへの愛を表している。 そして彼らは神様の愛を知る。神様に心を開くようになる。メビックの経験だけでいうと、教会 でよく遊ぶ子ほど救われる率が高い。 

神様はわざわざ人間に楽しみを与えている。例えば味覚。  

ガソリンのような栄養補給にしなかった。蛇のように丸呑みにもしなかった。馬のように草だけ、 にもしなかった。人は味を楽しむように作られている。味を楽しむことは、何かを達成するため のものではなく、目標があるから味わうのではなく味わうこと自体が神様からの祝福であり喜び。 

同じように人間は人との時間を味わい喜ぶように作られている。目標に向かって働くのではなく、 与えられている相手の存在自体を喜び楽しむのが遊び。  

 ③ 神様の霊はリラックスした方  

(創世 1:2)  

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いてい た。(ラハフ→リラックスする、柔らかくなる)  

創造の前、聖霊はリラックスしていた。神様はリラックスする方。平安そのものである方。何か 目標に向かって仕事をしていたのではない。その似姿に本来人間は作られている。  

(3)遊びも祈りも交わり。  

ユージーンピーターソン  

祈りと遊びは共通している。両者ともに交わりであって仕事ではない。  

また、遊びは引力に逆らって飛び跳ねること。また祈りは罪の引力に逆らうこと。どちらも聖な る神様の命の現れ。  

遊びは神を喜び人を喜ぶ行為。その命と存在を肯定し感謝する行為。神様は玄関のベルを鳴らし て「遊ぼうよ」と言っているかのよう。 

この世は汚れた遊び、汚れた歌しか知らない。教会こそが聖なる遊び、聖なる歌を歌う場所。神 様が子どもたちの存在を喜び歌い喜んでいる。それを具体的に提供できるのはそれを知っている 教会  

(エレミヤ 30:18)  

主はこう仰せられる。  

「見よ。わたしはヤコブの天幕の捕われ人を帰らせ、その住まいをあわれもう。  町はその廃墟の上に建て直され、宮殿は、その定められている所に建つ。彼らの中から、 感謝と、喜び笑う声がわき出る。 

(ルカ15:32)  

だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。 祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」


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