2023年12月13日水曜日

「なんでイスラエルのために祈り会するの?」

 東栄教会の皆さんのために


「なんでイスラエルのために祈り会するの?」文責 遠藤稔



なんで忙しいのにまた集会増やして(仕事増やして?)イスラエルのための祈り会するの?その経緯がよくわからん、と言う人がいると思います。なので、ちょっと説明します。


●ポイントそのⅠ 大前提は「イスラエルも異邦人も区別も優劣はない」こと


ユダヤ人だから特別、とか、異邦人はランク下、ということはないと聖書は言い切ります。


(ガラテヤ3章28)ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。


(ローマ10章12-13)ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。


だからイスラエル人も日本人もその差はありません。優先順位はありません。キリストにあってどっちが偉いかはありません。イスラエルの救いを祈るのと、ウチの息子の救いを祈るは同じく尊いことです。ユダヤ人の祝福を祈るのと、友達の救いを祈るのは同じく尊く大事なことです。優劣はありません。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」(1テモテ2.4)また、神様が救おうとする人に、人種、国籍、血統とか、熱心さは関係ありません。ただ、神様によって人は信仰が与えられ、悔い改めて救われます。


(ヨハネ1.12-13)しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。 

この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。 


●ポイントそのⅡ 赦せず、愛せない家族のために祈るのと同じこと


で、なんでイスラエルのためにわざわざ時間をとって祈るの?

家族の救いのために祈るのは大事です。そして、世界規模の家族という面ではイスラエルは実は私たちの兄ちゃんのような存在です。しかも、反抗してガンコになっているお兄ちゃんのようです。どこの家にもいそうなタイプです。神様に愛され、選ばれ、良いものをたくさん与えられていますが、イエス様を認めない人がほとんどです。聖書によると、イスラエルは本来、聖なる「初穂」最初の実りです。植物に例えるなら一番大事な「根」です。そして、僕ら異邦人はその根から養分をもらっている枝のようです。


(ローマ11.16-18)麦の初穂が聖なるものであれば、こねた粉もそうなのです。根が聖なるものであれば、枝もそうなのです。

枝の中のいくつかが折られ、野生のオリーブであるあなたがその枝の間に接ぎ木され、そのオリーブの根から豊かな養分をともに受けているのなら、あなたはその枝に対して誇ってはいけません。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。


地球という大きな家族で言うと、一番最初に神様が作り、産み育て、良いものを与え、祝福したのがイスラエル人です。その優れたところはたくさんあります。


(ローマ3章1-2)それでは、ユダヤ人のすぐれている点は何ですか。(…中略…)あらゆる点から見て、それは大いにあります。第一に、彼らは神のことばを委ねられました。


まず神様はアブラハムにご自分を現し、選び、祝福し、アブラハムの子孫たちにみことばを預け、神様に愛され祝福される子どもとして喜び祝福しました。僕ら日本人が神様のことばを聞いてますが、実はこれ、神様がイスラエル人に預けて、そこから僕らに与えてくれたものです。最初に選ばれ愛され作られた大事な長男がイスラエル人です。

あんなに熱心だった人が今教会を離れてディスっている、という話はよくある話です。後から救われた人が、その先輩のために祈るのと似ていると思います。


(ローマ人への手紙10章1節)兄弟たちよ。私の心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼ら(イスラエル)の救いです。


大事に育てた子が悪くなるように、神様が作り、選び、教え、大事に育てたイスラエルがガンコになっています。じゃぁ神様はイスラエルを見捨てたか?というと、それは絶対にありません。どんなに子供がおかしくなっても、悪くなっても祈り続けます。手を差し伸べ続けるし、助けたいと思います。親だったらみんなわかります。同じように、それ以上に彼らの救いは神様の願いです。


(ローマ9章2-4節)私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。

私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。彼らはイスラエル人です。


(ローマ9章21節)イスラエルのことをこう言っています。「わたしは終日、手を差し伸べた。不従順で反抗する民に対して。」


神様が一日中手を差し伸べ続け、どんなに悪くなっても愛し続けておられます。だから、その御霊をいただいて、僕らも御霊の祈りと同じ思いを与えられます。神さま家族の長男であるイスラエルのために救いのために祈ります。


これは家庭内暴力のようです。ユダヤ人と異邦人クリスチャンが傷つけ合い、殺し合ってきました。歴史をみると悲しいけれど、教会がユダヤ人を迫害してきてしまったことも事実です。ユダヤ人はキリスト教が大嫌いです。恐れているし、クリスチャンこそユダヤ人を殺してきた悪魔だと思っています。水と油、許せない相手です。時間がかかります。彼らはどんなにひどいことをされてきたのか歴史を忘れてはならない、と言います。それでも、その敵意をイエス様が廃棄され、両者が1つになり家族として回復すると神様がおっしゃっています。


(エペソ2章14-16)実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。


和解して一つになる祈りを聖書は「家族」の回復のように祈ります。


(エペソ3章14-15)こういうわけで、私は膝をかがめて、天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。


不思議なことに絶対にユダヤ人の建国記念式典に異邦人が招かれるなんてことなかったのに、2017年には初めて日本人のナイトdeライトがそこで一緒に賛美し、2023年にはBZクワイアが日本人の合唱団としてそこで一緒にアブラハムの主を一緒に賛美しました。これは歴史が動いていくプロセスです。聖書が言っている通りに、ユダヤ人も異邦人もキリストにあって、1つの口として、神様をほめたたえる時がくることを表していると思います。「異邦人よ。主の民(イスラエル)とともに喜べ。」(ローマ15.10)このみことば通りの日が来ると信じます。ユダヤ人もギリシア人もなく一つの口として、一つの家族として一緒に賛美する将来に、僕ら東栄教会が先駆けのように少しずつ参加させていただいていると思います。


ということで、個人としても、教会としてもイスラエル人のとの和解、そしてイスラエルの救いのためにわずか1ヵ月に30分だけという短い時間だけど、一緒に祈りたい、と思います。家族の中で和解できない人のために祈り、赦せない人のために祈るのと同じです。同じように、イスラエルと異邦人クリスチャンが和解して愛し合って一緒に賛美する日が来るように祈ります。


●ポイントそのⅢ イスラエルのために祈ると心配されがちなところ


神学的な論争、というのがあって、聖書をどう理解するかで派閥があります。特に頭のいい先生たちがやり合っているような気がします。

聖書理解の差があるのはいいとして、僕が問題だと思うのは、お互いに罵り合って、傷つけあっているところです。ウチの教会はイスラエルの救いのために祈ります、というのは何とか神学の派閥に入ります、とか、こっちの教派に入ります、ということではないです。そもそも派閥争いが愚かなことだ、と聖書は言っています。(1コリント1章)知識は人を高ぶらせます。愛はたてあげます。(1コリント 8:1)僕らが目指すのは愛することであってお勉強して高ぶり裁き合うことではないです。


なんとか派、なんとか神学だと争って結局祈らない、というのは悪魔の勝利だと思います。祈りは神様の願いそのものです。祈りもしないで、和解するとか愛し合うとか無理です。祈りもしないで、家族が一つになることはあり得ないです。おかしくなっちゃった息子のために祈り続け、帰りを待ち続け見捨てないのが神様です。親ならみんなわかるはずです。


東栄教会として、イスラエルのために祈るのは、神学論争に加担しようということではありません。僕はほぼその論争にはあまり興味がないし、ついていけないです。ついていきたい気持ちもありますが、中心ではないと思います。むしろ、祈りを選ぶ、愛することを選ぶ、赦す、ささげるということで勝利したいです。神学は人を傷つけるためにあるのではなく、神様を愛し、人を愛するためだと信じます。


B.F.Pがやっていることは、名前の通りに平和への架け橋です。神学論争のためにやっているのではないです。東栄教会はそういう教会でありたいです。B.F.Pもそうあって欲しいです。今回のイスラエルのための祈り会は「ハイナイト」(いのちの夕べ)という名前がついていて、B.F.Pにハイナイトをするする教会として登録されています。が、それと同時に僕はこの教会の責任者として、東栄教会に神様が求めておられる範囲や方向性をいつも自己吟味する必要があると思っています。その意味ではハイナイトとして用意されたプログラムを決められた通りにするのではなく、祈りつつ模索しつつ御霊に聞きながら考え、愛を選び、平和を求め、いのちを求めたいです。そして、主がみことばの通りに世界を治めてくださる日が来ると信じ、忍耐して、祈りたいです。

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